将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:偲ぶ会

10122707 先日9日の夜の私の2年下の埼玉大学の後輩からメールが入りました。文面は、彼の同級生だった土屋立行君が突然亡くなり、11日(金)に「偲ぶ会」が催されるという連絡でした。
 私は1967年の入学ですが、土屋君は1969年の入学です。ただし、彼は2浪でしたから、年は私と同じです。ちょうど彼が入学したときの4月には埼大でバリケード闘争が開始されていました。これが埼大闘争でした。なんでも彼の入学した教養学部の入学式では、突如黒ヘルで棺桶を担いだ集団が入ってきて、壇上に上がり、私の友人である山本元君が、巻き紙を出して読み上げました。「本日埼玉大学は死んだ」と始まったようです。そのあと、すぐ金久保さんという私より1年上の活動家が、激しいアジテーションを開始したといいます。
 土屋君たちの学年は、大学入った早々から、こうしたことを受けてきました。いや、実はこの学年は、1969年の1月に東大闘争のおかげで、東大の入試が中止になり、その余波で、あらゆる大学の入試の基準が狂ってきて、どうしてか埼大に流れてくることになった人が多かったようです。そして私こそは、その東大の入試を粉砕してしまった張本人の一人で、その頃は府中刑務所に収監されていました。そして、この土屋君たちの学年は、多くが激しい活動家群になっていきました。
 それとサークル活動としては、この土屋君をはじめ、多くの人たちが私の属する「歴史研究会」に入ってきました。私は5月はじめには、この新しい学年の後輩たちと府中刑務所の接見室で、「はじめまして」と面会を受けたものでした。でも私は独房の中ですから、埼大のことは皆目判りませんでした。なんでも6月12日に羽仁五郎講演会があり、それを妨害しようという日本共産党民青と、私たちの部隊が埼大図書館前で激しく激突したというニュースを読売新聞(府中刑務所は読売新聞しか入らなかった)で読みましたが、私はその図書館前というのが、埼大文理学部(北浦和駅前)の校舎の図書館しか思い浮かばず、どうやってあそこでゲバルトになったのかななんて想像していたものでした(事実は、現在の図書館である、当時は大久保校舎と言われた新しい校舎にある図書館前での激突だったようです)。
 そして私は夏を越して、69年の8月21日に保釈になり、府中刑務所から出てきました。すぐに埼大へ行きましたが、夏休み中であり、しかも上の6・12事件で、何人もの友人が逮捕起訴され、さらに多くが指名手配されており、埼大はがらんとした風景でした。
 その風景の中で、私は2年下の土屋君たちと出会いました。「ずいぶん若い活動家がいるんだな」という思いでした。
 そんな中で「これから、どうしていこうか」なんてことを友人活動家と話している中で、私は偶然というか必然といいますか9月18日の芝浦工大事件に関係してしまいました。これは学生運動の「内ゲバ殺人事件」といわれる最初の事件です(事実は殺人でも何でもなく、事故だったのですが、このことは、また明らかにしていきます)。もう運動をやり続けるのは難しくなりまして、当初は逃げていたのですが、逮捕されるまではまだ時間がかかりそうだということで、それじゃ少し働こうかなんて気持になりました。
 それでちょうど私の弟の紹介で、上野の日本食堂の駅弁作りのアルバイトに行きましたところ、この土屋君に会ったものでした。土屋君は、ここでずっと働いているベテランでした。それで、そのうちに、ここは埼玉大学の上から下の年代までの活動家ばかりが大勢働くようになりました。他大学の人もいましたが、これまた新左翼の活動家ばかりでしたね。
 それでやがて、その年の12月10日に逮捕されまして、12月末までに、埼大からは実に20数人が逮捕されてしまいました。翌年1月10日までに25人が逮捕され、23人が起訴されました。
 そんな中で、それに関係しなかった活動家といいますと土屋君たちの年代がほとんどだったのですが、埼大闘争を継続していきました。だが、なにしろ芝浦工大事件のあとであり、かつ69年の11月佐藤訪米阻止闘争敗北のあとです。みな闘っていったわけですが、ほぼ惨めな敗北に終わりました。このときの敗北の挫折感から、また多くの活動家群は、また70年闘争を組織して行ったのですが、土屋君は、このときの挫折が大きく残ったようです。
 彼は一見、豪放磊落な感じの男であり、いつも私たちの周辺にいました。なにかあると一緒に飲んだものでした。だが彼は具体的には、運動に加わることはなく、上の日本食堂のアルバイトから、大宮競輪場で働くようになりました。競輪場で、真面目に制服を来て働いている彼を見に行ったものでした。
 彼はその後約30年間、この競輪場で働いていました。いつもうわさは聞いていましたが、元気だということしか聞いていませんでした。だが実は、彼には上の挫折感が大きかったらしいのです。それを今回聞きました。彼はこの正月に長野県の温泉に行きまして、そこで自殺しました。もう突然のことで、私はただただ驚くばかりです。
「偲ぶ会」のあと、埼大の仲間たちとずっと飲みました。土屋君と同級の元活動家が7人と、私の1年下の元活動家と私の9人でした。
 やはり、もっと会っておけばよかったと悔やまれてなりません。みな同じ思いのようでした。もし、会ってさえいれば、きっとこんな悲しいことは起きないこともあったのにと悔やまれてなりません。

 私たちの埼玉大学の活動家群はセクトを問わず(民青と革マルは別だけれど)、みな仲が良かったものでした。これは年齢を問わず、そして父母とさらに教職員も含めて今も仲がいいのです。だから、もっと多数の仲間が集まれたはずなんですが、今回は自殺ということだったものですから、連絡をどうしたらいいのか躊躇してしまったのです。自殺の原因がよくつかめないのです。「偲ぶ会」とは言っても、まさしくお通夜だったわけですが、お通夜というわけにもいかなかったのです。
 彼の挫折感があれほど深いと思っていませんでしたし、私には、いつも酒飲んで大声で笑っている彼しか思い浮かびません。私の昔の彼女がいると私と彼女を大声でからかったりして、元気で快活に思えたものなんですが。思えば私は年は同じと言っても、上の年代に思えたのでしょうね。私なんかは、いい時代ばかりをやってきた気がします。私の他に来ていた2年下の活動家7名もそれぞれ、みな大変な思いを抱いてきたはずです。私たちの時代は華やかであり、数多くの活動家がいましたが、彼らは、70年が終わり71、72、73年とやっていきまして、埼大での闘争も、街頭闘争も、その他さまざまな闘争も、実に寂しい思いの闘いだったかと思います。もうその時代は、私は救待で、各留置場や拘置所めぐりや、彼等の恋人や親と連絡を取り合うだけでした。
 もう、これからは、もっと頻繁に会うようにしようと思いました。「浦和会」というのは、その為にもあるのですが、もっと活発にしないといけませんね。

  土屋君、君とどうしてもっと連絡をとって一緒に飲む機会を作ら
 なかったのだろうと悔やまれてなりません。君と会って、いかにも
 「酔っぱらい」然とした君の笑顔と大声のもとで、一緒に飲みたかっ
 たものです。私の思い出の中にある、君の笑顔に献杯します。さよ
 うなら。                 (2002.01.14)

07082715 さきほど郵便受けを見ましたら、以下の案内が届いていました。私の我孫子の自宅から転送されて来ましたので、少し時間がかかりました。

  故小阪修平君を偲ぶ会のご案内

 あまりにも突然のことで、言葉もありません。私たちの畏友小阪修平君が去る8月10日午前、心不全で急逝されました。
 つきましては、下記のとおり偲ぶ会を開催し、在りし日の彼を偲びたいと思い、ご案内申し上げます。万障繰り合わせてのご参加をお願いいたします。

               記

日 時 2007年9月27日(木)午後6時〜午後8時
場 所 虎ノ門パストラル新館6階「アジュール」
会 費 6,000円

※当日は平服でお越し下さい。
※誠に勝手ながら御供物、御供花の儀は謹んで辞退申し上げます。

 呼びかけ人 小野田襄治 黒須仁 木村修 枝松克巳 田中邦之 梅沢直 長谷ゆり子 彦由真希 萩原周二 村田秀樹 高橋公 (順不同)

1531d621.jpg虎ノ門パストラルホテル 東京都港区虎ノ門4-1-1 TEL03-3432-7261
(東京メトロ 日比谷線神谷町駅4b出口より徒歩2分)

お問い合せ NPOふるさと回帰支援センター内 小阪修平を偲ぶ会
        TEL 03-5776-1543 FAX 03-5776-2143
                                 以上

 私もこのことをインターネット上で知ったときに、突然のことで、ただただ驚きました。そして、以下のUPをしていたものでした。

   小阪修平さん、さようなら

 とにかく、この偲ぶ会に出て、彼にさようならをいいます。そして彼に「ありがとう」といいます。

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