将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:元田東野

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13010801 私は周の漢詩入門「元田東野『芳山楠帯刀歌』」に以下のように書いています。

  私はこの作者の元田永孚(ながざね、東野は号)はあまり好きになれません。いくつも詩を作っているのですが、さすが朱子学者だけあって、真面目で正当な内容の詩ばかりで、私のような極端を好む過激派にはどうにも相容れないものを感じてしまいます。
例えば、元田東野には「中庸」という詩があり、男子は極端に走るのではなく、須らく中庸を択ぶべしという内容です。

その元田東野(もとだとうや)の『中庸』を以下紹介します。

中庸      元田東野
勇力男児斃勇力 勇力の男児は勇力に斃(たお)れ
文明才子酔文明 文明の才子は文明に酔う
勘君須択中庸去 君に勧む須らく中庸を択び去くべし
天下萬機歸一誠 天下の万機は一誠に帰す

腕力をほこるものは腕力によって身を亡ぼしてしまうものであり
文明にあこがれる才子は、文明に心酔するだけである
君にぜひ勧めたいことは、常に「中庸」を選んでほしい
天下のあらゆることはすべてただ一つの誠によるものである13010802

私はこの詩は大嫌いでした。「勧む須らく中庸を択び去くべし」という転句は声に出せなかったようです。
私のもともとの宗家荒國誠先生に私がこの詩を習ったのは、私が20歳の時でしょうか。東大闘争で保釈になり、次に芝浦工大事件で逮捕される間のことでした。おそらく荒先生はわざわざこの詩を詠うことを、私に言ってくれたのだと思います。
それから40数年が経ち、やっと荒國誠先生の気持が分かりました。
今荒先生の笑顔が見える気持です。

私はこの「中庸」ということを思い出したのは、ITスペシャリストが語る芸術釈迦、イエス、孔子、アリストテレス、古事記は皆、中庸を説くを読んだからです。

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  お釈迦様もイエス・キリストも、誰にでも役に立つ簡単なことを教えたのに、学者や聖職者が、それを難しい上に、歪んだものにしたようである。2人が教えたことは同じで、それは中庸(仏教では中道)である。孔子やアリストテレスも、目指したのは中庸である。

私は今までこのことがただの少しも分かりませんでした。常に「中庸なんて格好悪いこと言えるかよ」なんていう思いでした。
今やっと分かった気持です。

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20170410012017041002    小楠公といわれる楠木正行のことを詩った元田東野の詩です。楠帯刀(くすのきたてわき)とは正行のことです。

    芳山楠帶刀歌            元田東野(永孚)
  乃父之訓銘干骨        乃父の訓(註1)は骨に銘じ
  先皇之詔耳猶熱        先皇の詔(註2)は耳猶熱す
  十年蘊結熱血腸        十年蘊結(うんけつ)す熱血の腸
  今日直向賊鋒裂        今日直ちに賊鋒に向って裂く
  想辭至尊重來茲        想う至尊を辞して(註3)重ねて茲に来り(註4)
  再拜俯伏垂血涙        再拝俯伏(註5)して血涙垂る
  同志百四十三人        同志百四十三人(註6)
  表志三十一字詞        志を表す三十一字(註7)の詞(ことば)
  以鏃代筆和涙揮        鏃を以って筆に代え涙に和して揮(ふる)う(註8)
  鋩迸板面光陸離     鋩(きっさき)は板面に迸(ほとばし)って光陸離たり
  北望四條賊氛黒        北のかた四条を望めば賊氛(ぞくふん)黒し
  賊將誰也高師直        賊将は誰ぞや高師直
  不獲渠頭授臣頭        渠(かれ)の頭を獲ずんば臣が頭を授けん
  皇天后土鑑吾臆        皇天后土(こうてんこうど)吾が臆(おもい)を鑑む
  成敗天也不可言        成敗は天なり言う可からず
  一氣磅薄萬古存        一気磅薄万古に存す
  君不見芳野廟板舊鑿痕  君見ずや芳野廟板(註9)旧鑿の痕(註10)
  至今生活忠烈魂        今に至まで生活す忠烈の魂

  (註1)乃父之訓(だいふのおしえ)   父楠木正成が湊川の合戦に向うとき
                  に桜井の駅にて正行に教えさとした教訓。そのとき正行は
                  まだ十一歳であり、父は正行に河内へ帰って後日を期すこ
                  とを遺訓とした。
  (註2)先皇之詔(せんのうのみことのり)  後醍醐天皇崩御の際の詔。
  (註3)辞至尊  後村上天皇にお暇乞いを言上したこと。正行と弟正時
                以下一族打ち連ねて、芳野の皇居に参じて天皇に自らの
                決意を述べ、また天皇から「朕汝をもって股肱とす。慎ん
                で命を全うすべし」という言葉をもらい、正行は「只是最後
                の参内なり」と退出した。
  (註4)重来茲(かさねてここにきたり)  後村上天皇にお会いしたあと後
         醍醐天皇の御陵に参拝したこと。この御陵は如意輪寺の本堂
         のうしろにある。
(註5)再拜俯伏(さいはいふふく)  御陵の前にぬかずき再拝したこと。
  (註6)百四十三人  正行・正時以下、今度の戦に一歩も引かず一緒に討
                      死しようと決意した一族一四三人。
  (註7)三十一字  三十一文字の和歌の。「返らじと兼て思えば梓弓なき数
          に入る名をぞとゞむる」という正行の辞世。
  (註8)以鏃代筆和涙揮  鏃(やじり)を筆の代わりにして如意輪堂の壁板
に一四三名の名前を書き連ね、さらに正行の辞世の
歌も涙とともに書き留めた。
  (註9)芳野廟板(よしのびょうはん)  如意輪寺の扉。
  (註10)旧鑿痕(きゅうさくのあと) 正行が鏃でほりつけた歌と一四三人の
                   姓名。

  父正成の桜井駅頭の遺訓は骨に銘じて忘れられない、
  先帝後醍醐天皇の御詔は、今も猶我が耳に熱気を帯びている。
  その時以来十年積り重ねた熱血は腸に結ばれてきたが、
  今日こそそれを賊の先鋒に向って破裂するときである。
  想えば後村上天皇に拝謁し、御暇乞いをして重ねて御陵の前に来て、再
  拝してぬかずけば、さすがに血涙が流れる。
  同心の百四十三人は、
  いずれも決死の覚悟なれば、「かえらじと」の三十一文字に志を述べる。
  鏃を以て筆に変えて、涙と共にこれを如意輪堂の扉に書き記し、合わせ
  てその姓名を書き残す。
  その切先は板面にほとばしって、きらりきらりと輝いた。
  北の方四条畷を望めば、賊の勢い盛んであたりも暗く妖気が漂っている。
  その賊将は誰かといえば、高師直である。
  よし、彼の首を挙げることが出来なかったら、この正行の首を授けるまで
  のこと。
  天地の神々もこの正行の覚悟をご覧あれ。
  戦の勝敗は天運であり、議論の限りではない。
  (こうして、正行は敵陣めがけて真っ直ぐ突入し、師直にあとわずかと迫り
  ながらも、衆寡敵せず、最後は正行・正時で差し違えて死ぬ)
  だが、この正行小楠公の忠節の気は天地に満ち渡り、永久に存在している。
  皆さんもご存知のように、芳野の如意輪堂の扉に刻まれた鏃の痕には、
  今もってこの小楠公の忠烈の魂が生きているのである。

10112804  楠木正行は十一歳のとき父正成と、桜木の駅で別れました。死を前にした正成はそのときに、今はただ河内に帰ってやがて天皇の為に働くことを命じます。ここで一緒に死んでしまっては天下は足利尊氏の思うままになってしまうとさとします。正行はただこの父正成の遺訓を守って、いまやっと一族あげて芳野へ挨拶にきて、それから北に向おうとします。
  だがこのときに、南朝方の中心人物である北畠親房は、我が子顕家(註11)の例をひきながら、顕家のようにどうしてすぐさま北へ向って進軍しないのだと責めます。正行は、ただ後村上天皇にお会いしたいことと、後醍醐天皇の御陵に参拝したいだけなのです。

  (註11)北畠顕家  実に天才的な戦人の公家の貴公子であったかと思い
                  ます。奥州から西上し、足利尊氏・直義の野望を打ち砕き、
                  九州まで敗走させていますが、二度目に再び西上したとき
                  に、高師直の為に戦死しています。ただ彼は極めて真面目
                  な人であり、この死の前にかなり後醍醐帝ならびに南朝公
                  家方のやっていることを諌める文を残しています。

  はっきり言って、これほどまでに一族すべて南朝に尽くしているのに、北畠親房の言葉はあんまりだったのではないでしょうか。正行は一族総て死を決して、鏃で如意輪寺本堂の壁板に、一四三名の姓名を書き連ね、

    かえらじとかねて思えば梓弓
      なき数に入る名をぞとゞむる

という歌を一首書き留め、各々鬢髪を切って仏殿に投げ入れ、その日のうちに芳野山を打ち出て、四条畷の高師直、師泰の敵陣に真っ直ぐ討入ました。
  正行軍は三千の軍勢に対して、師直師泰は六万余騎の大軍だったといいます。師直は足利軍きっての猛将であり、戦上手でした。だがその師直軍も散々切り立てられ、師直の身辺にまで正行は迫りますが、師直は影武者を立て逃げおおせ、ついに衆寡敵せず、正行軍は全員が討死あるいは自刃します。

10112805  太平記によれば、この四条畷の戦いでは、実は南朝方は、それこそ師直軍にも負けないくらいの人数がまわりでこの戦を見ています。この連中を「野伏り(のぶせり)」といいます。大宮人(おおみやびと)であり、お公家さんが指揮する連中が師直の大軍に囲まれ必死に戦っている正行軍を高いところから黙ってみているのです。思えば大変に腹立たしいことです。私はどの時代でも今でもこの野伏りのような連中が一番憎い相手です。
  この四条畷に勝利した高師直・師泰は余勢をかって、さらに吉野の行宮を攻め、火を放ってこれを焼払います。私はなんだか「ざまあみろ」というばかりの気持になってしまいます。
  この高師直という人は日本の歴史の中でも一、二位を争うほどの嫌われる人物ではないでしょうか。「仮名手本忠臣蔵」では、吉良上野介義央の役はこの師直(ちなみに浅野匠守長矩は塩谷判官である)になっているわけです。だが私はこの師直という人物が好きです。足利尊氏のように複雑な性格でもなく、直義のように妙に真面目で保守的ではありません。ただただ己の思うままに好きに生きた気がします。ただ好きに生きたといっても、佐々木道誉とは違い(道誉も面白いけどね)、それだけの暴れ方を見事に歴史に露出してくれた気がしています。

  正行はこの師直をなんとしても討ち取りたかったでしょうが、その正行の辛い悔しい思いを汲むことができたのは、実はこの敵であった師直ではないのかな(これは違うよという意見が多いでしょうが)と、私は思ってしまうのです。
  私はこの詩を、師直軍の大軍の中へ突入して消えていく正行軍と、それを高いところから見ている野伏りとの対比で見ているのです。

  それから、私はこの作者の元田永孚(ながざね、東野は号)はあまり好きになれません。いくつも詩を作っているのですが、さすが朱子学者だけあって、真面目で正当な内容の詩ばかりで、私のような極端を好む過激派にはどうにも相容れないものを感じてしまいます(註12)。

  (註12)例えば、元田東野には「中庸」という詩があり、男子は極端に走る
        のではなく、須らく中庸を択ぶべしという内容です。これでは、私が
        好きになれるわけがないのです。

  その中でも、この正行に関する詩だけは、正行の悲しすぎるまでの心を感じとることができて、好きになれるものです。

ただこのごろ何度かこの詩を読み返してみますと、いくつものことが浮かんできました。元田東野は明治十年十一月二一日宮中の観菊の宴にて、この詩を明治天皇の前で朗吟したということです。自らは北朝系の天皇でありながら、南朝をこそ正統と断じた明治天皇には、この小楠公正行の心はどのように訴えてきたものがあったのでしょうか。
また明治10年といえば、西南の役のあったときです。10月24日西郷南洲は鹿児島城山にて、別府晋介の介錯で亡くなりました。

秋風埋骨故郷山(西道仙「城山」の結句)

元田東野翁は肥後熊本の生まれ(上の「城山」の作者西道仙も熊本の方です)。西郷軍には彼の故郷の子弟もたくさん参加していました。また明治天皇も西郷隆盛のことが好きでした。そんなときに詠われた悲劇の小楠公の姿を、天皇はどのような思いで聞かれたことでしょうか。おそらくは、元田東野が小楠公に仮託したのではないかと思える南洲公に対して、天皇は明治22年2月21日の憲法発布にあたり、その罪を赦して正三位を追贈されることとなりました。なんだか、そのときにほっとした元田東野翁の気持が判るような気がしてきました。 (2005年の秋に書いていました)

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