将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:全マンガ論

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 すべての宇宙フィクション映画を科学的に制約しているのは、光速度より速く運航できないかぎり、宇宙人にであうことは、ひとりの人間の生涯の年月のあいだでは不可能だということである。つまり赤ん坊のとき宇宙船に乗っても老人となって死ぬまでの、他の宇宙人にであえる可能性はまったくない。(『全マンガ論』「第一部作品論 『さらば宇宙船艦ヤマトの魅力』」)

 このことはもう随分昔から自明のことでした。そしてそのことで、ばかばかしい宇宙の話は終わりなのです。でもでも、そうはならないことが、このあとの吉本さんの話からも出てくるのです。ただ、上の確認点だけはもう判っていただきたいものです。

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 宇宙フィクション映画が、人々から軽くみられる偏見があるとすれば、メカニカルなトリック撮影と新奇な映像の追求が、盛られたドラマの内在性と分裂し、違和や亀裂を拡大してしまうからである。宇宙という舞台装置を借りた幼稚な勧善懲悪ドラマを、子どものときからたくさんみせられてきたからである。宇宙フィクションの製作者の意図は、かならずしもドラマの思想とは同一ではない。それは宇宙フィクションではメカニカルなトリック撮影の技術とその映像の新鮮さの課題が占める重さがなにより重要で意味をもつからだ。製作者の思想は映像技術の体系と、ドラマの内在性との融合する地点をもとめて彷徨するのだが、その地点がドラマの思想内容とどれだけ幸運な一致を遂げられるのかは誰にもわからない。だが映像技術の思想と、ドラマの思想の一致が、この種の映画の出来ばえを決定するのは、まちがいない。(『全マンガ論』「第一部作品論 『さらば宇宙船艦ヤマトの魅力』」)

 私はこの種の映画をあまり見てきませんでした。それは広大なる宇宙の話なのに、そこに流れる思想、登場人物のはくセリフがあまりに古いものだったからです。「宇宙の大義に生きるために死んでもいい」とは特攻隊で亡くなった若者たちの思考法とどこか同じに見えたものでした。そしてそれに少しでも魅力を感じる私であるとすると、私にもそういう思いがあるのです。

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 ことばの断続性、新語とか流行語と同時に、日本語は日本語じゃないかという連続性、そのふたつの面をつくって時代とともに移っていくのです。これがことばのもっている生理・心理に属するわけで、その背景の社会はそれぞれいろいろ変わっていくことになります。これからの日本の社会の変わり方も、今の延長線でいくでしょうが、たぶん欠乏をもとにする倫理はだんだん壊れていくとおもいます。段階をもとにする倫理とか道徳とか善悪というのは生き延びていくし、なかなかなくならないでしょう。それはおおよそ、ことばの面から指させるこれからの社会の変わり方だとおもわれます。(『全マンガ論』「第一部作品論 社会とことばの変容から───白石麻子はどんなOLか」)

 欠乏をもとにする倫理観はもうずいぶん昔に聞いたものでしたが、もう現状を少しも理解させてはくれません。段階を踏んで考えていくしかないのだなあと思っています。

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 ことばが変わっていく変わり方にはふたつの仕方があります。ひとつはことばの専門家、たとえば小説家が小説を書きながらじぶんのことばを鍛えていったり、推敲して直して適切な表現を編みだしたりしていきます。ことばの専門家である文学者がそれをやっていくことによって、ひとりでにことばは変わっていくということがあります。もうひとつの変わり方は、専門家でなく皆さんが六本木でも池袋でもいいんですが、街頭へでていって、街頭で飛び交っていることばにそれを感じ、たまたまぶっかった場面でじぶんがことばを吐きだすことで、新しいことばが生みだされていきます。新しいことばが街頭で飛びかっていることによって、新しいことばが生みだされ、それが変わっていくという変わり方があります。それと専門家が専門的な修練の果てに、ことばが変わっていく。ことばというのはふたつの変わり方をします。(『全マンガ論』「第一部作品論 社会とことばの変容から───白石麻子はどんなOLか」)

 ことばはどんどんと変わっていると思います。そのことがこうして二つのことに分けられることで、実によく判ります。なるほどなあ、とここでもうなづいている私です。

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 つまり欠如・欠乏をもとにした倫理が一般論としていえば組み替えを必要としているというのが、日本の社会あるいは日本だけではなくて世界の先進的な社会での現状です。まっ正直にいえば、あとは段階をもとにしてしか人間の倫理は作れないよというところにきていると思ったほうがよろしいとかんがえます。(『全マンガ論』「第一部作品論 社会とことばの変容から───白石麻子はどんなOLか」)

 昔は、この「欠如・欠乏をもとにした倫理」でものを言う連中がしこたまいました。今はそういう連中と話すことがなくて、実に嬉しい思いです。ああいう人たちは、どこへ行っちゃったのでしょうか。まあ、正直言うとそういう人がどうなったか、まったく興味はありません。

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09111508 年寄りをとってきても大したことにはならない。ほんとうは下りたくてしょうがないという感覚だとおもいます。カッコいいことばを使いますと、おれは往(い)きじゃない、還(かえ)りなんだ、還りというのはいろんなことがわかるんだぜといえそうにもおもえますが、下りたくてしょうがない。それにたいして、若い女性だけが上りたくてしょうがないし、上ろうとおもえば、上れる活力をもっているといえるでしょう。(『全マンガ論』「第一部作品論 社会とことばの変容から───白石麻子はどんなOLか」)

 これは実に現状の私たちを見ているなと思います。そうです、もう下りたいのです。でもそう言い切るわけにもいかないから、ただただぐずぐず言っているに過ぎないのだと思うのですね。そんな現状を今また深く感じました。

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 白石麻子は典型的な主人公で、けっして個性があるように描かれていません。個性があるというよりも、現在の風俗をOLという人間にしたらこうなるという、風俗を人間化した事物だということがわかります。ギャグはギャグとして、マンガ化あるいは滑稽化のやり方は決して新しいわけでもなんでもありません。かなり常識的な類型的なマンガ化のやり方をやっています。しかし現在の日本社会のOL風俗や大部分の中流の女の子の風俗にたいする感覚はたいへんみごとなもので、それを人物化しているというのが、この作者のマンガの特徴です。(『全マンガ論』「第一部作品論 社会とことばの変容から───白石麻子はどんなOLか」)

 この漫画で、「おやじギャル」という言葉が出てきたものでした。それがものすごく受けて、そしてそういう女性たちが多くなったことを私は喜び、そして少し残念な思いもあったものでした。

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 第一に作品の特色としてあげなければならないのは、少女期あるいは少年期の再現性が実にみごとだということです。これがこの作者のたいへん貴重な才能であり、この才能がものをいっていることは確かです。風俗だけでこの作品が受けているわけではなく、やっぱり作品のよさは再現性にあります。(『全マンガ論』「第一部作品論 社会とことばの変容から───"ちびまる子ちゃんとはなにか?」)

 私はこの漫画を知って、最初の文庫本の一巻を買ってきたものです。この一巻を手に入れるのに大変に苦労して、さらに私のミスで娘たちに心配をかけたものでした。これは私は最初から実に好きな漫画でした。いつでもいくらでも話すことが湧き出てくる作品です。

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『となりのトトロ』はいわば、「ナウシカ」のヴァリエーションで、エコロジカルな理念は追憶する少年期の少女と、病気の母親の親和にかわり、画像はわざと稚拙化した画像と、そのあいだを取りもつ「トトロ」という無定形な、愛嬌のある怪物の暗喩(メタファー)になっていた。これも魅力ある作品だったが、意図して稚拙化と素朴化をやっているのが、やはり不満としてのこった。(『全マンガ論』「第一部作品論 ナウシカとアニメとマンガから」)

 うーん、『となりのトトロ』はそういうことなんだと思ったものです。でもまったく私は納得できます。素朴であり、実にいい物語になっていたものでした。私は娘たちと家族全員で見られるアニメだったことがとても嬉しかった思いでした。

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 どんな女性もたとえ夫や恋人を愛していても不特定多数の男性の目を意識して胸パットで胸を豊かに見せたりするものなのだ。サザエさんが胸パットで胸を豊かに偽っているのはマスオさんだけにセクシーな気持を向けていない証拠みたいにかんがえるこの本の編者の年齢はかなり高いにちがいないとおもう。またサザエさんの母親フネが夫の波平以外の男性のために自分を飾ったり、可愛いしぐさを見せたことがないとしても、それは編者のいうように波平だけを愛しているからではない。フネがもうかなりの年齢の女性だから。じぶんを飾ったり、しなをつくったりすることにおっくうになっているというだけだ。女性の本質はサザエさんとすこしも変わらない。(『全マンガ論』「第一部作品論 『サザエさん』の解読」)

「どんな女性も〜〜」という言葉は実によく納得できます。ただ「胸パット」なんて、今はあるものなのかなあ。私には、そのものが想像でもできません。だからといいましても、吉本さんの言われるこの「女性の本質」ということでは、よく納得できるものです。

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 挫折したりしなかったりの政治青年や文学青年のあいだでは、いよいよ政治も社会も生活も行き詰まりになったら「屋台を曳く」とか「煙草屋の店番をする」とかいった冗談ともまじめとも安らぎをもとめる夢とも受けとれる会話が、よくかわされたものだ。こんなことが仲間うちで話題になったのは、たぶんわたしたちがじぶんの生涯を無償なものとみなしたい気持が、見栄としてどこかにとぐろを巻いていた証しだと思う。(『全マンガ論』「第一部作品論 つげ義春の作品世界」)

 つげ義春の作品は実によく読んだ思いがあります。そしてこの吉本さんの文も何度も読んだものでした。そしていつも、「つげ義春さんが無能というなら、俺なんか何だというんだ」と思いながらも、そのことは誰にも話すことはなかったものでした。今もこれを読んでいて、自分の情けなさもまた感じているものです。

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 知識人の世界といえばソ連のシンパか、その反対にアメリカのシンパのふた色しかないような、個性も特色もない日本も、どこかで根底から転倒されるときがあるべきだとかんがえている。だから、原潜「やまと」をひとつの自立的な理念の象徴として読み、潜水艦による海底と海中の海戦の戦略のかわりに、眼にみえない理念の戦いをイメージにおけば、わたしも海江田四郎のように戦ってきたし、これからも戦いたいとおもった。この劇画を受けとるとすれば、そこで受けとってとても共感した。(『全マンガ論』「第一部作品論 かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』」)

 このマンガも私は読んでいない。マンガなんて、どこで読めばいいのだろうと、そんなことを思いました。私はまだそんなところにいるのですね。なんとなく、この日本はもう随分変わってきた気がしているこのごろの私です。

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 わたしなら人間の尊厳と国家の尊厳は、とことんまで問いつめていけば両立しないとおもっている。だから人間の尊厳が第一で、これが実現するためには、国家はゆるやかに開かれ、やがてなくなっていくようにもっていくより仕方ないと考える。また人間の完全な自立と民族の完全な自立も最後には両立しないとおもう。だから完全な自立が実現されるには、民族という概念も、民族の自立という概念の捨てさるよりほかないとおもっている。(『全マンガ論』「第一部作品論 かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』」)

 至極当然のことを吉本さんは言われています。でも私がそのことをこうして言えるようになるまで、どんなに時間のかかったことでしょうか。吉本さんはこれを91年3月に書いているのです。思えば、時間だけのかかった私でした。

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 乳幼児期に人(ヒト)は心理的には、男女の区別はなかった。なのに青春期までに子どもを男または女にしてしまったのは家族があったから、とくに父親と母親の抑圧がったからだというラジカルな逆エディプスの視点が、無意識のうちに作者たちの眼を支配している。(『全マンガ論』「第一部作品論 地崩れして動く劇画」)

 私は男3人兄弟であり、私の娘は女2人でした。でも今孫が男の子と女の子で、もう不思議なくらい、それが面白いものです。たしかに、男女の区別がないはずなのに、次第に少しづつ変化していくのでしょうね。それを今私は目の前にしています。目の前で、懸命に私とお喋りしています。

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 手塚治虫自身のマンガの世界も、巨(おお)きく多様で、テレビ・マンガの一系列はそのなかで比較的無難なものが択ばれたに相違ない。テレビ・マンガでも『リボンの騎士』や『W3(ワンダースリー)』などには、奇妙で暗い変身願望の世界を感じさせるものがあり、これはいくぶんか手塚治虫の無意識の混沌とした貯水池を映すもののようにおもえた。子どもたちが好んで読んでいて、気味悪がりながらひかれていた『どろろ』や『バンパイヤ』などは、教育効果とはまったく別な次元で、子どもたちのこころの世界の暗部によくアピールしたように思う。またこういう世界があるために手塚治虫の世界は巨大でありえたのだとおもえる。(『全マンガ論』「第一部作品論 昭和の終焉を象徴する手塚治虫の死」)

 手塚治虫はもう私が小さいときから読んでいた漫画です。『鉄腕アトム』はいつも正義の強い味方なのだが、でもでも何故かどうしても妖しげな雰囲気も常に感じていたものでした。それが私たち子どもにも何か判らない魅力だったのでしょう。

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 私は手塚治虫のそれほどよい読者でもなかったから、きちっとかれの存在した意味と、テレビ映像のうえでかれの作品の占めた場所を、位置づけることはできない。ただ漠然と文芸批評の世界でいう小林秀雄に匹敵する存在だとおもってきた。ほんとの意味で近代批評のジャンルを作品批評として、作品創造から独立した一分野として確率したのが小林秀雄だった。おなじように、わが国の近代マンガをひとつのジャンルとして自立させ、画家の余技とか画家になりそこなった者のあぶれ仕事というイメージから確然と飛揚させて、芸術的な創造の一分野までもっていったのは手塚治虫だったに相違ない。(『全マンガ論』「第一部作品論 昭和の終焉を象徴する手塚治虫の死」)

 私は吉本さんによって、小林秀雄を改めて知った思いがあります。こうしてまた手塚治虫のことも同じに思います。今になって、もうその死から20年も過ぎて始めて判って来たことでもあるのです。私は自分が羞しいと同時に、また吉本さんに感謝していることになるのです。

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 昭和から平成に変わった、一九八九年二月九日、手塚治虫の死をテレビは報じた。これはテレビ的事件のうち、死亡ニュースとしては、昭和天皇の死につぐ大事件だった。もの書きやもの描きの死は、天皇の死を前後して、まるで符牒をあわせるように続いた。秋山清、山本太郎、草野心平、大岡昇平、ここまでが天皇の死の直前。手塚治虫の死は、天皇の死の直後に続いた。そしてこのうち天皇の死とともに、昭和の死を象徴するにたる最大の死は手塚治虫の死にちがいない。(『全マンガ論』「第一部作品論 昭和の終焉を象徴する手塚治虫の死」)

 あのときに、吉本さんのこの言を聞いていて、深く頷いたことを覚えています。手塚治虫が亡くなったときは、私には鉄腕アトムが亡くなった思いにもなったものでした。アトムはどうしても21世紀のロボットではなく、昭和が産んだ存在に思えていたものでした。昭和の死を象徴すると言われると、まったく同感するだけだったものです。

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 萩尾さんの世界で、ぼくなんかがそういう点でいちばん自己表現として興味ぶかいといったほうがいいと思うんですけれど、少年と少年との同性愛みたいな世界が出てくるでしょう、それがとてもおもしろいんですよ。それはたぶん萩尾さんのなかにある、本来的にいえば少女と少女との同性愛だという世界の、そのひとつの転写になっているんじゃないかというふうに思い、そこが萩尾さんの劇画の世界のメカニズムのとても重要なところだと、そういうふうに感ずるんです。(『全マンガ論』「第三部対談 萩尾望都……自己表現としての少女マンガ」)

 いくつかの女性の漫画の作品で、私が苦手になってしまうのがこの少年たちの同性愛の世界でした。いつもなんで、この作家はこういうふうにいいこととして思っていまうのかなあ、と不思儀でたまらなかったものでした。でも今は少し判ってきたつもりです。

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 なんか三枚書いてくれ、みたいなことがありますが、ぼくは物理的な時間がないっていうのがいちばん多いんです。それですまないときには、いやあなたのいう時間とおれのいう時間はちがうんだ、ある世界に頭が入って、そこから出てくるのがものすごく億劫だし、出てきてなんかやっていて、またそこに入っていくのが億劫なんだ、その全部の時間を合わせて時間といってんだから、あまり時間がないんですよ、枚数の問題じゃないんだとかっていうんですけどね。(『全マンガ論』「第敬対談 萩尾望都……自己表現としての少女マンガ」)

 このことは、もっとたくさんの人にいうべきだろう。どうしても時間のとらえ方が違うのに、自分の時間の概念(それは世間一般はそうなのだろうが)で、そのまま要求してくる人がいるものです。でもそれは、相手に対して、大変なことをしてしまっているのだということは考えないのだろうか。

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09081402 しゃべる言葉の運命と書く言葉の運命というのは、日本語と外国語くらい違うんじゃないかと思えるようになりました。しゃべり言葉と書く言葉は質が違うんだと考えたほうがいいんじゃないかと。(『全マンガ論』「言い残したことなど」)

 このことは今は誰もが気がついてきているように思えます。実は大変なことであるわけなのですが、今になって気がついてきたわけです。だがおそらくこれはしゃべり言葉よりも書き言葉のほうがあとで発達発展したきたからだと私は思っています。そしてとくに私はこの日本語に言えることではないのかなと考えています。

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 吉本(吉本隆明)さんの、『全マンガ論』を読んでいるわけですが、きのう電車の中でものすごく頷いていたことがあります。

   「吉本隆明『全マンガ論』」の第敬瑤稜詒望都との対談

 この中(「時間の使い方」というところ)で、吉本さんと萩尾望都さんは、同じことを言われています。
 まず以下は萩尾望都の言葉からです。

 お客さんといえば、仕事の依頼は編集さんから電話でくるわけですね。原稿を描いている合間に、非常に小さい依頼がちょくちょくくるわけです。たとえばコメントだけをいただきたいんですけど、いま読んでいる本はなんですか、それについての批評をいってくださいとか、今年映画をみましたか、なにかいい映画があったらいってくださいとか。仕事やってると、それがぜんぜんかんがえられないわけですね。で、ちょっといま考えられないんだ、っていいますと、むこうもやっぱりしたたかな編集さんだから、それでは引き下がらない。五分ですむからなんかいってくれってわけで、いうわけです。もしくはこんな小さなカット一点とかね。描けば五分でほんとにすむでしょう、あした取りにきますから描いてください、と。ところがこれがすっごくしんどくてね。このカット描いたら一日なにもできないってことだってあるわけです。論理的に考えるとほんとにカット一点描くのに時間なんて十分ですむんですね、ペンで描いて消しゴムかけて。なのに描いたあとで、さあ仕事に入ろうと思ったら、気持ちがどこかへ飛んでっちゃったらしく、ぜんぜん集中できなかったりするわけです。

 このあと渡部昇一さんが「知的生活」のナントカという本にも同じようなことを書いているとあります。あ、私も読まなくちゃと思いました。そして、さらに吉本さんが続けます。

 なんか三枚書いてくれ、みたいなことありますが、ぼくには物理的な時間がないっていうのがいちばん多いんです。すれですまないときには、いやあなたのいう時間とおれのいう時間がちがうんだ、ある世界に頭が入っていて、そこから出てくるのがものすごく億劫だし、出てきてなんかやっていて、またそこへ入っていくのが億劫なんだ、その全部の時間を合わせて時間といってんだから、あまり時間がないんですよ、枚数の問題じゃないんだとかっていうんですけどね。

 これを読みまして、まったく私も頷いたわけです。もちろん、私はこの三人ほどの人間ではありません。でも実によく判るのです。
 もう私はケータイに電話が来ても出られないことが多々あります。できたら、ケータイメールかインターネットメールでお願いできればと思うのです。いえ、手紙もいいですね。
 本当に本当に、このことは大事なことです。

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