言語に関する書物といったら、何を読んだろうかと考えてみました。

 時枝誠記「國語學概論」「續國語學概論」
 三浦つとむ「日本語はどういう言語か」「認識と言語の理論」
 吉本隆明「言語にとって美とはなにか」

11021702 これと、あとは大野晋をいくつかというところでしょうか。本来ならソシュールも読まねばならないのでしょうが、ソシュールなんてどうせゴールデン街でたまに話にでてくらいなもので、いままで意欲がわきませんでした。言語の話自体することなんて今はあまりありませんしね。
 でもしばらくぶりにこれらの本をパラパラとみてみました。実は前々から、三浦つとむ「日本語はどういう言語か」は読みやい本ですから、紹介したいと思っていたのです。でもせっかくだから、自分のためにもこの本を紹介しましょう。ただ、全部で3巻もあるからやっかいなんですが。まあ時枝さんを読むよりは楽でしょうが。

書  名 認識と言語の理論
著  者 三浦つとむ
発行所 勁草書房

 ちょうど第3部の「言語における文法と規範」に「 <文法> とはなにか」という章があります。著者は宮地裕、橋本進吉、山田孝雄、ソシュール言語学、時枝等々の論を参照しながら、結論を出しています。

  言語は規範にもとずく特殊な表現であって、語・文・文章とい
  う言語表現の諸単位初段階にわたってさまざまな規範が表現の構
  造媒介するのであるから、それぞれの単位における法則を語法・
  文法・文章法とよび、全体を言語法とでも名づけるのが適当であ
  ろう。けれどもすでに言語学においては言語表現の組織ないし秩
  序の法則を <文法> とよぶことになっているから、ここでも全体
  を <文法> の名でよんでおくことにしよう。それで <文法> とは
  何かといえば、諸規範の媒介によって成立するところの言語表現
  の構造についての法則をさすことばだ、ということができる。

 私もこの結論でなんだか安心します。したがって私は少なくとも、広辞苑と学校で教える文法が異なっているなどということは、問題であると思います。橋本進吉の品詞と時枝さんの品詞の名称が違うなんていうのは、非常にめんどくさいことです。中学生のお子さんをお持ちのかた、是非国語の教科書と広辞苑の文法のところ見比べていただきたい。違うことが書いてあるんですよ。

 文法を学ぶことは、表現の諸規範をたぐっていくことであると思います。それがまだ日本語では完全ではないということだと思います。万葉の時代から、言語はあったでしょうが、文法があったといってもなにも語っていないことであると思います。

 つぎに句読点の記述をみてみましょう。

  言語表現が独自の規範を必要としそれが社会的に形成・継承さ
  れてきた事実を、言語と混同しすりかえて、言語は社会とともに
  形成され社会の成員に対して選択の余地のないものとして与えら
  れ受けつがれる存在だ、と主張する学者も多いが、彼らは規範の
  体系にばかり目を向けて具体的な表現の検討をすすめない。文字
  による言語表現の独自の性格や機能の検討をすすめないくらいだ
  から、それに伴って使われる諸記号に検討などに力を入れるはず
  はない。彼らは鑑賞用言語としての文学の検討をしようとはしな
  い。………正しくいうならば、したくてもできない。文学は作者
 すなわち表現主体の創造した具体的な内容を持つ言語表現として
  扱うことを求めていて、規範の観点からどんな語彙が使われてい
  るか調査しても文学理論にはならない。

  まともな言語本質論からすれば、音声や文字の個々の語の感性
  的なかたちそれ自体が言語表現なのではなくて、そのかたちが規
  範で定められた一つの種類に属しているという一般的な面で言語
  として表現されている。だから楷書でも草書でもみみずのたくり
  体でも、同じ種類に属しているなら表現として同一であって、原
  稿用紙のなぐり書きを活字で印刷しても内容に変りはない。句読
  法の諸記号も、個々の語と同じように規範で規定され、そのかた
  ちがいびつでも線の太さが多少ちがっても、表現としては同一の
 ものと見られるのである。それゆえこれらの記号は、語のような
  具体的な内容を持っていなくても、やはり特殊な内容の表現を分
  担するところの文字言語の一部とみるべきものである。文法学者
  たちは句読法を正面切ってとりあげようとはしないが、句読法も
  また文法の一部として当然位置づけねばならぬことになる。

 子どもたちから、作文の作法をきかれたときさまざまなことが問題となります。原稿用紙はこう書くというのはまず教えられますね。では、読点はどうでしょうか。これは大変に説明しずらいことです。いやこれは、私は広告関係の業界にいた時に、名刺に「課長」という肩書の人にも、原稿用紙の書き方含め教えたことあります。彼は、こんなこと学校でまともに教えてくれなかったといってました。とくに広告コピーは文法の法則になんかに順法しませんから、たいへんなんですね。
 子どもたち、「課長」の肩書の人、コピーライターと当然ひとりひとりの表現はさまざまです。しかし義務教育の期間において、統一した日本語の文法を教えてほしいと思います。そうすれば、私はこの商品を売るために「あえて、この日本語の文法の規則からはずれて、このコピーを書いた」などとコピーライターが言えるはずです。
 ではその表現行為を教育の現場ではどう教えるべきなのでしょうか。

  ……子どもが使う日常語は、学問的に正しい概念を表現してい
  ないから、経験的に日常語の概念を身につけることからさらに学
  術用語としての意味を理解するところへ、目的的に教育をすすめ
  なければならない。これはいわば概念づくりであって、その観点
  から理科や社会科の存在の授業方法と教科書の公正・内容につい
  て、もっと深く吟味することが求められている。まだ子どもの時
  期には、概念が未熟で歪められていることも多いから、それをつ
  ねに具体的な経験と交流させ、内容を豊富にするとともに歪みを
  正していくことが重要で、 <生活綴方> 運動が自分の具体的な経
  験をありのままに書けといい、概念くだきを主張したのにも、そ
  れなりの根拠があり有効性もあった。しかしながら根本的には、
  概念くだきもほかならぬ正しい概念づくりの教育と連関において
  なさなければならない。別のいいかたをするならば、子どもにも
  それなりに <評論> や <論文> を読ませたり書かせたりしなけれ
  ばならないし、与えられた文章について受動的な感想を述べるだ
  けでなく、自分の意見を出して積極的に議論したり批判を加えた
  りさせなければならないのだが、これは経験主義ではなく、理論
  的な検討を経て教育の中に位置づけられるべきである。

 これは正しく大きなことと思います。作文で「自分の思っていることをそのまま書く」という指導はわかるのですが、もう敗戦後これだけ時間が経過している以上、論文、評論を読解し、自分もまたそれを表現してみる訓練というのは大切なことだと思います。そうすることによって、国語ではない他の科目の習熟度にも進歩が必ず見られるはずです。実に国語教育と他の科目の教育は大事な連関を持っています。

 残念ながら、現在こうした国語教育のできているのは、結果として進学教室等であると思います。中学進学の塾の国語の教材をみてください。かなりな現代の評論、小説等を扱かっています。あれを読解し、自分もまた表現する訓練は、彼等に必ずいい結果(入試に成功するということではなく、もちろんそれもだが)をもたらすはずです。