将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:史記

12112409  YAGURUMAさんからのメールがありました。長文ですので、私のこれへのレスもまた別に書いて行きます。でも丁寧にありがとうございました。私は「司馬遷『史記』(小竹文夫・小竹武夫訳)」しか読んでいませんので、大変に勉強になりました。
 ただ今まで私が書いてきたことは、膨大な「司馬遷『史記』」の一パーセントにもならない量です。偉大なる司馬遷に、ただただ頭が下がると同時に自分の卑小さに惨めな思いになるばかりです。
 しかも司馬遷は、これを紙に書いているのではなく(まだ紙が存在しない)、竹簡に書いているのですね。ただただ、司馬遷を尊敬するとともに、自分がいやになるばかりです。今は紙ではなく、こうしてパソコンでインターネット上に書けるのですからね。司馬遷がいたら、どんなに嬉しがったことでしょうか。

夏王朝時代の日本列島と史記
12112410  現在、分っていることをコメントさせていただきます。長くなってしまったので、Mailさせていただきます。
  会稽山麓の河母渡遺跡の発掘によりBC4600以降、夏王朝以前の新石器、土器文明が華麗に展開され、一大文明の中枢地帯に当たっていたことが証明されています。
  従って、金属文明である、「夏王朝以降」の中国古代文明は、この「前金属文明の故地」に対する”征服・支配”の上に成立したものです。史記が、この江南の地を、「夏王朝の諸侯集合の地」である会稽(会計)として記録したのは、司馬遷がこのような背景を暗示したと見なされます。
  河母渡遺跡は、「石けつ(けつ状耳飾り)文明」として、中国海(いわゆる東シナ海をふくむ)をはさんで、日本列島(九州から北海道まで)と両岸同一性格の文明として継続し、存在しています。
  尚書には堯典第一の、
   分かちて羲仲に命じて嵎夷に宅らしむ。暘谷と曰う。寅賓、日を出だし,平秩、東作す。
 益稷第五、夏書
   禹曰く、「兪なる哉、帝、天の下を光し,海隅の蒼生に至る。
 君〓、周書
   海隅、日を出だす、 率俾せざるは罔し。12112411

等、「暘谷」の地にいる、嵎夷との交流を語る史料があります。

「堯・舜・禹、夏王朝、周初」の時代は尚書の方が同時代史料であり、後代の史記より確実な史料と見なされます。
 堯・舜・禹から周公に至る時期は、日本列島においては縄文時代中・後期に当たっています。縄文の土器文明が最高度に開花している時期です。「堯・舜・禹」は縄文中期後半(B.C.2500〜2000)、「周公」はB.C.1000頃に当たっています。河母渡遺跡のしめすように、すでに縄文早期末(B.C.5000〜4000)において、大陸・列島間の交流が確認される点から、上の尚書に記された日本列島との交流があったと思われます。
 尚書に記された、これらの記事を、史記が正面からうけとめようとしなかったのは、日本列島との関係が中国(主)〜日本列島(従)ではなかったからです。逆に、日本列島の縄文文明が、「文明中枢」にあり、大陸の方がその影響を受けていた局面も考えられます。それを記すことは、「史記を制約していた中華思想」では許されないということです。 周の第五代の天子、穆王の行歴を記録した 『穆天子伝』にも西方なる西王母の邦に至り、この女王に臣下として貢献した記事がありますが、史記では史実を記すことなく、”好戦的な王にして軍事・外交上の失敗者にすぎぬ人物”として記されています。「儒教」の国家、漢王朝、「中華思想」の国家の「正史」の史家としては、正面から描けず、後代の読者に暗示を与えるに留めたといえます。
12112412 禹は後継者に臣下の益を指名し、子の啓を益の臣下として仕えさせましたが、『竹書紀年』は啓が益を殺して王に即位したことを記しています。しかし『史記』夏本紀では、これを改竄し、啓は有能で人望があるのに対して禅譲された益は諸侯たちの信任を得られず、啓は諸侯たちの推戴をうけて王に即位したとしています。啓が主君を殺して位を奪ったとなれば、それは反逆行為であり、儒教では非難されるべき大事件です。「燕召公世家」を書いた司馬遷は、当然これを知っていたが、『孟子』(万章章句上)をもとにその交代劇を儒教道徳により改竄し、王位の世襲化を正当化しています。

 周代の倭人の記事としては、漢代の王充の『論衡』に次の記事があります。

 周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す。(巻八、儒増篇)
  成王の時、越裳雉を献じ、倭人暢草を貢す。」(巻一九、恢国篇)

 越裳は今のベトナムの領域に住した種族で、倭人がこれと並んで記されています。紀元前十一世紀、縄文時代後期末、ないし晩期初頭の記事です。
 なお、 和田家文書 、『東日流外三郡誌』には北方の古代の歴史が描かれています。
 今後、考古学、遺伝子人類学他の進展により、これらの状況が明確になると期待されます。なお、稲の起源について最近下記報告がなされました。

【 2012年10月26日 ゲノム解析でイネの起源は中国・珠江の中流域 】
  これまで長い間論争が続いていたジャポニカ米などのイネの栽培起源地について、国立遺伝学研究所や中国科学院上海生物科学研究所などの研究チームは、中国南部を流れる珠江(しゅこう、the Pearl River)中流域であるとの研究結果を、英科学誌「ネイチャー」(オンライン版)に発表した。
12112413  研究チームは、アジア各地から収集した野生イネ(ルフィポゴン)446系統、ジャポニカ米やインディカ米などの栽培イネ1083系統のゲノム(全遺伝情報)を解析し、1529系統間の相互関係を明らかにした。さらに遺伝的変異のパターン解析から、ジャポニカ米とインディカ米では55のゲノム領域で、イネの脱粒性や芒(のぎ)の有無、粒幅などの重要な形質について、栽培化による選択が行われていたことが分かった。
  これらの遺伝的な指標を用いてイネの系統進化を解析し、さらに各系統の生息地の情報を比較した結果、イネの栽培化は中国南部の珠江の中流域で始まり、1つの野生イネ集団からジャポニカ米が生まれたことが分かった。その後、ジャポニカ米の集団に別の野生系統のイネが複数回交配してインディカ米の系統が作り出されたと考えられるという。

  イネの起源地についてはこれまで、遺跡の調査結果などから何十年にもわたり論争が続き、インド・アッサム地方から中国・雲南省にかけての地域や、中国の「長江」中・下流域などと12112414の諸説があった。研究チームは「今回のわれわれの解析で、イネの起源地と栽培化のプロセスが明らかとなり、長い論争に終止符を打つことができた」としている。
 参考 『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』 古田武彦 著
    『夏王朝 王権誕生の考古学』 岡村秀典 著

12111631 この殷の国の始めの帝が湯で、成湯ともいいます。夏の暴虐は傑王を滅ぼして、帝になりました。この夏を打つときに、諸侯の前で演説したものを『湯誓(とうせい)』と言います。この文の内容は『史記』にはなく、『書経』に書いてあります。
 この湯王は聖王として、夏の禹や周の文王、武王と並び尊ばれますが、私にはそれほど親しい思いがしないものです。司馬遷はあまり書いていてくれないのですね。
 私には、いわゆる神話と人間の話のいわば中間にいる帝に思えるのです。

12111418 司馬遷『史記』では、湯(とう)の前に幾人もの王がいます。

契(けい、始祖)
昭明(しょうめい、契の子)
相土(そうど、昭明の子)
昌若(しょうじゃく、相土の子)
曹圉(そうぎょ、昌若の子)
冥(めい、曹圉の子)
振(しん、冥の子)
微(び、振の子)
報丁(ほうてい、微の子)
報乙(ほういつ、報丁の子)
報丙 (ほうへい、報乙の子)
主壬(しゅじん、報丙の子)
主癸(ほうじん、主壬の子)
天乙(てんいつ、主癸の子)

 最後の天乙が成湯(せいとう)が殷の帝になります。
 実は、インターネットの記述と私の持っている「司馬遷『史記』」との記述が若干違います。私は私の「司馬遷『史記』」(筑摩書房世界文学大系)に従いました。
 契は、帝舜のときに禹の治水を援けた功績で商(しょう)という地名にに封じられました。帝コクの次妃であった簡狄(かんてき)が玄鳥(げんちょう、つばめ)の卵を食べたために生んだ子とされています。
 この殷は紀元前17世紀頃から紀元前1046年まで存在しました。

12111408 私は以前に、周の文学哲学歴史話に以下のことを書きました。

  夏の桀王の愛した女、末喜

 これは私があるサイトに書いたものでした。それをあとで私のブログにもUPしたものです。そこには、以下のように書きました。

17代の最後の帝が桀(けつ)王という帝でした。この傑が、山東半島の有施氏を討ったときに、この有施氏から献上されたとされる美女がこの末喜(ばっき)でした。彼女は絹を裂く音を好んだために、多くの絹が集められました。また彼女のために祝宴では池に酒を満たして樹々に肉を吊るすことが行われ、もはや傑王は政治をまともにやりませんでした。
 ために、商(殷)の湯王に桀王は滅ぼされます。南方に末喜と逃げて、そこで二人とも亡くなったと言われています。

 この美女を喜ばせるために帝である傑が酒池肉林をしたり、高価な絹を引き裂いたというのは、後代の殷の紂王の妃妲己(だっき)や、西周の幽王の妃褒じ(ほうじ)のエピソードと同じです。
 おそらく、それら後期の出来事をここでも引用したのだと思われます。ただし、司馬遷はこの末喜のことは記していません。

12111209 夏(か)という国は歴代の帝は以下の通りです。以下は諱(いみな)です。この諱については、グーグルでは以下のようにあります。

漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。このような慣習は「実名敬避俗(じつめいけいひぞく)」と呼ばれた。12111210

 以下歴代の帝です。ただし、司馬遷は明確に書いていません。夏本紀は禹の話が大部分です。

 禹
 啓
 太康(これは諱ではなく、諡(し、おくりな)である。あとで書いています)
  中康(これも諡です。太康の弟)
 相(しょう)
 無王時代(実に40年続いたといわれます)
 少康(これも諡です。中康の子)
 予(よ)
 槐(かい)
 芒(ぼう)
 泄(せつ)
 不降(ふこう)
 ケイ(泄の子で、不降の弟)
 キン(きん、不降の子)
 孔甲(こうこう、これは諡、キンの従兄弟)
 皐(こう)
 発(はつ、皐の子)
 桀(けつ)

諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。

 最後桀王で、この夏は滅びます。この桀王で「夏桀殷紂(かけついんちゅう)」の暴君の話になります。「酒池肉林(しゅちにくりん)」の話が出てくるのです。
12111211 ただ、この2啓代目啓は優れた人物で、最初禹も堯や舜に習って禅譲を考えたものなのでしょうが、この啓が優れた人物であり、この時から夏という帝国(まだ王国と言っていいかな)が続くことになります。

12111113  前には実在はされていないとされていた夏です。その初代の帝がこの禹です。
 この禹の父は、鯀(こん)で、その父親が五帝の2代目のセンギョクになります。
 この鯀は字に魚辺がついているように、神話では魚の鯉になっています。私はその魚の絵の鯀を見たことはあります。そして禹は熊であったとも言われます。
 そうした神話が嫌いだったろう司馬遷は、父親の鯀は堯の時代のある行政官になっています。この時代に大きな洪水で人間は苦しんでいました。それを治めるように言われるのですが、9年経っても水は引きませんでした。
 そこで困った堯は、困りましたが、舜がこの鯀を流罪にして、その鯀の息子の禹を登用しました。
 禹は懸命に働きまして、この洪水を治めます。ただし、ものすごい時間がかかりました。そのときは禹は熊の姿になって必死に働いたということです。
 ただし、神話が嫌いだった司馬遷はそのようには書いていません。禹はあくまで父がなしえなかったことを必死になって実現しようとしている息子なのです。
 この時の禹の苦労を実に司馬遷は丁寧に書いてあります。実に「五帝本紀」よりもこの禹の記述が長く書いてあります。
 舜は、自分の息子商均(しょうきん)ではなく、この禹に帝を禅譲します。商均ではだめだったとしかいえないのです。
 ただこの禹の子であった啓は優秀だったので、位につきます。
 これで、前の五帝の時代とは違って、中国は「夏」という国が続くのです。
 この禹に関して、最後に司馬遷は言っています。禹を葬むったところを「会稽と名づけた。会稽は会計で、諸侯の功を計ったからだという。」

12111017  中国という国の歴史を思うと、いつも「この時は我が日本はどうだったのかなあ?」とか「この時のヨーロッパは何だったのかなあ?」とか「この時にインドにはアーリア人が入った頃なんだ」なんて思っています。中国は比較的に歴史がはっきり残っていて、その記録が明らかだからと思うのです。そしてそれは、『この「司馬遷『史記』」のおかげでなんだなあ』と思わざるをえません。
 昔は、この夏(か)という国は伝説でしかなくて、実在はしていないといわれました。でもこの夏のあとの国の殷も昔には存在しないといわれていました。だが殷の存在は明らかになり、そして現在では、その殷の前の夏の存在も事実だといわれています。
 まさしくこの夏の存在こそ、中国が偉大だといわれることなんだなあ、と私は思っています。そしてそれには「司馬遷『史記』」が欠かせないものです。
 そしてその夏の初代の帝である禹の存在こそが「神話から人間の世界」に変わった大きな存在であったと私は思っています。

201811120102 12110913私はこの「司馬遷『史記』」を思うと、どうしても司馬遷という人の偉大さを感じます。司馬遷の生涯は紀元前145年(135年か)から紀元前87か86年です。日本はまだ聖徳大使が生まれるずっと前です。
そして私は、これに比べてヨーロッパの歴史関係の書籍も思い出します。
私には、「ヘロドトス『歴史』」、「トゥキュディデス『歴史』」(『ペロポネスス戦史』という訳本(岩波文庫)もある)、「プルタルコス『対比列伝』」(プルターク英雄伝)という訳本(岩波文庫)もある)を合わせたような書物だと思います。量的にもそのくらい莫大な内容・量のものです。
私は「プルターク英雄伝」は高校2年で読み、「ヘロドトス『歴史』」は大学6年で読み、「トゥキュディデス『歴史』」は鹿児島から沖縄まで行く船の中で読んでいたものです。
ただこの「司馬遷『史記』」は高校一年の9月に、ずっと授業中読んでいました。
12111003「プルターク英雄伝」は横浜日の出町の「山手英学院」という予備校に夜行っていたときに読んでいました。あのときの学院での綺麗な女の子のことや英文解釈での「Animal Farm」を思い出すます。そのときの先生も思い出します。「プルターク英雄伝」もただただ長い本でしたね。
この「司馬遷『史記』」を読んだ思いがあって、他の長大な本も平気で読み下せた思いがします。
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12110912 一つ前の『史記五帝本紀の前の伏儀と女カ』でも書きましたように、この神についても司馬遷は少しも書いていません。司馬遷はあくまで人間の歴史が書きたかったのであり、「神とかいうのは、俺は知らないよ」と思っていたでしょう。でも私は敢えて「司馬遷『史記五帝本紀の前の燧人』」という題名にしました。
 ただし、前回と同様に、司馬遷は少しも記していません。だが私は司馬遷も少しは話を聞いていたと思うのですね。ただ人間の歴史しか興味のなかった司馬遷はまったく書くことはありませんでした。私は司馬遷が、「人間の歴史を書く(しかも紙にではなく竹簡に)のに忙しいのだ。神とやらには興味がない」と思ったように考えるのです。
 この燧人(すいじん)が、火をおこし、食べ物を焼くことを人間に教えたそうです。そうすると、『伏儀と女カ』で書いたように、「女カが人間を作った」その前に火を教えたなんて、なんだか私には理解できないのです。おそらく司馬遷もそれらのことで、「書けない」と思ったのではないでしょうか。
 これで私の書いてきた司馬遷『史記五帝本紀』は終わります。
 明日からは、人間の歴史である『夏本紀』になります。ただし、最初の帝の禹(う)も不思儀さを秘めている人ですよ。

12110811 この二人は、司馬遷は少しも書いていません。でもその時代にも話はあったと思うのです。ただ神話が嫌いで、どうしても人間の歴史のみが書きたかった司馬遷には、書く必要がなかった。書きたくなかったと思われます。でも私は敢えて、「五帝本紀の前の伏儀と女カ(じょか)」としました。女カのカは、「女へんに過ぎる」の字からしんにゅうを取った字です。
 世界に洪水伝説がどこにもあります。キリスト教で言えば、「舊約聖書」にノアの箱舟伝説があります。世界が天が裂けて洪水がやまなかったときに、この女カは天の破れを修復し、大亀の足で天を支えたとあります。
「屈原『楚辞』」の「天問」では、この女カが人間を作ったといわれています。
 おそらく中国にも豊かな神話があったのあろうと想像できますが、司馬遷が嫌ったであろうがために、いわば神の話はないと言っていいようなことになっています。
 なお、この伏儀(ふくぎ)と女カは夫婦あるいは兄妹と言われています。

12110804 今まで「司馬遷『史記』の五帝本紀のことを書いてきました。この中国の歴史(いや司馬遷は、これが人間の歴史というのでしょう)が、書いてきたように、五人の帝によって始まったのです。『史記』でも司馬遷は、そのように書いています。
 でもこの「五帝本紀」の前はいったいどうなのでしょうか。
  それは三皇の時代といわれますが、五帝と同じように、この三皇が誰であるかというのはいくつものことが書いてあり、それを整理するのも大変なのですが、私はいわば想像するのです。
 まず『史記』の五帝本紀の黄帝のところで、最初に書いてあります。黄帝がまだ少年の頃神農氏が天下を治めており、その神農氏に黄帝(まだ軒轅と言った)は仕えます。
  その神農氏は、最後の炎帝という帝でした、この炎帝は神農とも同じ神になっていることもあります。だが司馬遷はそこらへんははっきり書いていません。私たちには、頼るべきは司馬遷しかいないのですが、彼自身が書いていないのです。
 この神農氏の世で諸侯は互いに攻めあい世は乱れたが、神農氏では抑えられないので、黄帝(まだ黄帝とは名乗っていない)はこれら諸侯を討伐した。とくに蚩尤(しゆう)という凶暴な侯を討伐し、さらには神農氏の最後の帝王であろう炎帝の子孫を滅ぼします。 この炎帝とは阪泉の野で三度戦い、ついに勝利しました。そのあと、蚩尤と戦い、ついに滅ぼします。それでみんなが軒轅を天子と仰いだので、黄帝となったのです。
 司馬遷は三皇のことは、ここまでしか書いていません。
12110805 よく任侠映画で組の何かの儀式のときには、掛け軸で「神農大神」と「天照大神」がかけられています。また任侠の道を「神農道」といったりします。
 ただし、私にはよく分からない神でもあります。そもそも私は顔も想像できないのです。

12110412 中国では、最古から「三皇(さんこう)五帝」で始まったといわれます。
 司馬遷はこの五帝本紀の最後に「太史公言わく」(太史公とは司馬遷自身のこと)として、書いています。

 学者が五帝の事績を論ずるのは久しいことだが、尚書(『書経』のこと)には、ただ帝堯以来のことを記してあるだけで、黄帝のことを記したのは百家の書である。・・・・・・私はかつて旅行を好み、・・・長者老人が、往々黄帝や堯・舜を語る地方へ行くと、風教がほかの地方と違っていた。・・・・・・。思うに、ただ深く考えぬだけのこと、記されていることは決して虚言ではない。・・・・・・

 神話を嫌った司馬遷です。だが神話や伝説が語る中になんとか人間の歴史を探しました。「記されていることは決して虚言ではない」。この司馬遷の言葉を深く思います。
 まだ当時は紙がありません、竹簡(ちくかん)にすべて書いてあったわけです。それを熱心に読んでいる司馬遷を思います。中国のたくさんの地域を歩いて、老人の話を聞いている司馬遷を思います。
12110413 これほどの人があの時代のいたことに、私はものすごく感謝します。ものすごく興奮します。
 私も今の時代に感謝します。こうしてインターネットで司馬遷と五帝のことを読めることにもものすごく嬉しいのです。

12110304  さて、私の書く司馬遷『史記五帝本紀第一』は、

  黄帝
  センギョク
  帝コク
  帝堯
  帝舜

に関しては、もうここで書きました。後の三人に関しては、「コク、堯、舜」と一字でよばれることの方が多いようです。
  ところで、センギョクは黄帝の子ども、昌意の子どもであり、黄帝の孫になります。帝コクの父は、キョウ極(きょうきょく)であり、その父は、黄帝の長子である玄囂(げんごう)なので、帝コクは黄帝の曾孫になります。
 帝堯は、帝コクの次男でしたが、兄の禅譲により帝位につきました。舜はセンギョクの七代の子孫だといわれますが、いわば普通の民間人でした。その舜が帝堯により、政(まつりごと)を任され、帝堯が亡くなったときに、一旦は堯の息子の丹朱があとを継ぎます(帝位につく)が、誰もその丹朱のもとへは行かないで、舜ばかりに来ます。そこで天は舜を薦めて、舜が天子になります。この「天が薦める」という意味が漢文では分からないわけでしたが、これはみんなが(民間人が)舜を次の天子としてほしいという願望で、天とは普通の庶民が薦めたことなのだと私の高校一年のときの漢文の先生が教えてくれました(ただし、そのときは「十八史略」の話)。
 私はこの丹朱も素直にそれを認めたものだなあと感心します。
 また舜の弟の象(しょう)ですが、これも最初には父と母と一緒に舜を殺そうとしたとあります。でも私は宮城谷昌光がけっして象を貶してばかりは書いていません(作品名が何だったか思い出せない)。象もまた兄舜を認めたのだろうと思います。
 私には丹朱は、まったくの他人であった舜を認め、象は結局は兄を認める、そのような優れた人物だったように思えます。

12110107 この舜は、この『史記五帝本紀』で一番多い記述です。たくさんのことが書かれています。「舜も人なり、我も亦人なり」という孟子の言葉が思い出されます。
 堯は自分の実の息子の丹朱ではなく、普通の民間人であった舜を一切の天子の仕事をやらせますが、亡くなると、舜は位を丹朱に譲り退くのですが、もはやみなは丹朱ではなく、舜のところへ来ます。
 それで舜は「天命かなあ」ということで天子になります。
 本紀には、それから舜の生涯が描かれます。舜の父親も母親(これは父の後妻でした)も弟の象(しょう)も舜を殺そうとしますが、舜のあまりな従順さに、それができずに、ついには堯の目にとまります。そのときは舜はもう30歳でした。
 堯は二人の女(娘とあります。名前は娥皇と女英といいます)を舜の妻とします。この二人も、舜の父親にも母親にも象にもよく仕えたとあります。
 もうこの本紀を読む限り、舜の父親瞽叟(こそう)も弟象もなんとか舜を殺そうとしますが、それがこの本紀でそのまま描かれていきます。舜がせっかく掘った井戸の中で上から土を入れて殺そうとして、舜がそれを察知してあらかじめ横穴を掘って置くところは圧巻です。それでも舜は父瞽叟を敬い、弟象を愛するのです。
12110108 このような舜を知り、堯はますます評価し、好きになっていったものでしょう。
 この舜は30歳で堯に使え、50歳で天子の仕事に就き、58歳で堯が亡くなると61歳で帝位につきます。思えば、現在64歳の私も舜のこのような生涯を知ると、「我も亦人なり」という言葉をまた思い出すのです。

12103106 この堯になって、初めてこの『史記五帝本紀』に多くの記述が表れます。おそらく司馬遷は、この堯でたくさんの書くことがあって少しは嬉しかったのではと思われます。
 私には、十八史略の「帝堯陶唐氏は帝コクの子なり」という文が浮かんできます。これは私が書きました曾先之『十八史略』にある文です。だから元の時代に書かれたものであり、この司馬遷の『史記』にある文章ではありません。それにこの『十八史略』では、この五帝の時代の前の三皇を詳しく書いています。
 つまり、この時代になると、いわば歴史を作り上げてしまうわけです。だからつまらない。でもでもこの日本人ではやはりこの『十八史略』から入っていくのでしょう。
 この堯で有名なのは、「禅譲」という言葉ではないでしょうか。この堯は自分の天子としての地位を息子の丹朱に譲らず、舜という普通の人に譲ります。彼が聡明でよく事をやりとげることができたからです。
 この日本では、この天子の地位を他人に譲るということはありえませんでした。でもあえて堯はそれをなしたのです。
 晩年の堯は舜を見て、ものすごく嬉しかったのではないでしょうか。そんな堯の笑顔が見えるような気になります。

12102906 このレスが遅くなり申し訳ありません。下はほとんど書いていたのですが、UPが遅くなりました(夕食で、かつ私は飲むのでこうなりました)。

 私の司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』へのコメントへあてすとろ〜るさんから次のコメントがありました。

1. Posted by あてすとろ〜る   2012年10月29日 17:20
他の正史にも列伝はありますよね?
列伝がないとはどういう意味ですか?12102907

 私の間違いです。私は曾先之『十八史略』に書いていますが、

 最初『史記』(司馬遷)から始まり、2『漢書』(班固)、3『後漢書』(范曄)、4『三国志』(陳寿)……という順番になっています。。
   以下は5『晋書』(房玄齢)、6『宋書』(沈約)、7『南斉書』(蕭子顕)、8『梁書』(姚思廉)、9『陳書』(姚思廉)、10『魏書』(魏収)、11『北斉書』(李百薬)、12『後周書』(崔仁師)、13『隋書』(魏徴・長孫無忌)、14『南史』(李延寿)、15『北史』(李延寿)、16『新唐書』(欧陽脩・宋祁) 、17『新五代史』(欧陽脩)、18『宋鑑』』(李熹)と『続宋中興編年資治通鑑』(劉時挙)の二書。12102908

 これだけ多いと読むのが大変というよりも、全部訳されてはいないでしょう。私は杜甫のお祖父さんの杜審言(としんげん)のある詩を求めて神田の古書店街を歩いたことがありましたが、私には無理でした。
 それで私は『史記』と『三国志』(陳寿)だけは熱心に読んできました。『三国志』は筑摩古典文学全集で三巻もあって(裴松之の注だけで半分になります)、そして高価なのです。
 だから思うのですが、漢文で全文を読んだ人なんか、この日本にはいないのではと思われます。12102909
 十八史略は私には簡単でいいのですが、そして文天祥(この中国の子孫の方が私のサイトにコメントをくれました)のことが最後に出ていて、私は嬉しくてたまらないのですが、とにかく、私は自分の無知をさらけ出してしまいました。ごめんなさい。

12102917 私の司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』にYAGURUMAさんがコメントをくれました。私が医者にも行く用がありましたもので、中途半端ばかりになりました。
 それで私は当初は、

  司馬遷『史記五帝本紀第一センギョク帝コク』

は書く予定ではなかったのですが、

私は五帝は、黄帝、帝堯 帝舜に関しては、その顔を思い浮かべることができるのですが、この二人センギョクと帝コクに関しては無理なのです

と書きましたような具合なのですが、それでも書こうと思ったものなのです。
12102916 いや実は毎日私が本を読んだ記録を書こうと思って、日本、中国・朝鮮他アジア、欧米と書いて行こうと思っているのですが、欧米で、「トーマス・マン『ベニスに死す』」、「トーマス・マン『ワイマルのロッテ』」、「ボッカチオ『デカメロン』」、「ゲーテ『ウィルヘルム・マイステル修業時代』」、「アベラールとエロイーズの書簡集」と考えて、結局まとまらずこれをを書いてしまったのです。

 でも

2. Posted by YAGURUMA   2012年10月29日 17:25
 周 様
 レス了解です。確かに、黄帝記事へのコメントとしては不適切なので取消します。失礼致しました。

を読みました。それで私が少しいきりたっていて申し訳ありません。12102918

 先のYAGURUMAさんの以下は読みました。

 そして、シュリーマンがトロイの遺跡発掘で明らかにしたように神話の中核には歴史の真実が込められています。現在の比較神話学というキリスト教単性社会で発達した学問の限界を超え、歴史の真実を明らかにすることが西欧中心主義による現在の民族紛争の混迷を抜け出す視野を開くのでは。吉本さんのアフリカ的段階につながるのではと考えています。日本の現状は啓蒙思想の段階から抜けきれていないのではと感じます。
12102919次ぎのHPの十以下を参照下さい。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu2/philolog.html

 そしてまたちゃんと私も学んで行きます。孔子については、私も思うことがあり、また書いて行きます。
 それから私はシュリーマンもトロイの故事も好きですよ。

12102904 私が書きました司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』の次の帝王がセンギョク(せんぎょく)でした。彼は黄帝の孫になります。在位は78年だったといわれます。
 帝コク(ていこく)は、黄帝の曾孫になります。
 センギョクに関しては、あまりに記述がありません。静かな性格で知恵が深く、計画があり、よく物事に通じていたとあります。
 帝コクは私たちには、帝堯の父親だということくらいでしょうか。
 実は、私は五帝は、黄帝、帝堯 帝舜に関しては、その顔を思い浮かべることができるのですが、この二人センギョクと帝コクに関しては無理なのです。ほかの三人はいくつもの出来事があるのですが、この二人には皆無といってもいいと思うのです。
 司馬遷もかなり苦労して資料をあさり、そしてやっと書いたのがこの二人だと思うのです。

12102902 私の司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』にYAGURUNAさんがコメントをくれました。それでまた正式にはまた別にレスしますが(今は王子シネマで「降旗康男『あなたに』」を見てきたばかりで、気持がそちらで忙しいのです。高倉健さんのことで、気持がいっぱいです。

 簡単にいいます

1. Posted by YAGURUMA   2012年10月29日 11:59
中華思想の骨髄をなすイデオロギー=漢王朝の「正史」として、史記は成立した。
 久しぶりにコメンとさせていただきます。
 司馬遷の『史記』は、孔子の儒教思想、即ち中華思想の書として作られたもので、青銅器武器による江南の先進農耕文化の征服、抹殺の上に成立したものです。
 この歴史事実を正しく認識することが今後の日中関係、世界史、学問の発展には重要かと思います。

 ええと、これは明確に誤りです。司馬遷ほど南中国のことも書いている人はいません。そうでなかったら、呉越の攻防なんか書けるでしょうか。どうみても呉越は江南でしょう。
 第一私が書いたのは、わずか黄帝のことであって、司馬遷のことではありません。
 司馬遷とか『史記』のことなら、私が書いた以下のほうがまだ書いていると思います。

武田泰淳『司馬遷史記の世界』
http://shomon.livedoor.biz/archives/51892402.html
第62回「司馬遷の史記」
http://shomon.livedoor.biz/archives/51956298.html
第63回「司馬遷の史記 の2」
http://shomon.livedoor.biz/archives/51956561.html

 そもそも『史記』には『列伝』があるのです。これが全体の半分を占めています。あれが「正史」なんてわくにあてはまるでしょうか。ほかの歴史書には『列伝』はありませんよ。
12102903 どうか長大ですが、『史記』全体をお読みください。読んだ上で、まだ同じことを言われるのなら、私はもはや話す気はありません。
 今まで、中国の「正史」とやらは、何を読まれたのでしょうか。

12102813 この長大なる歴史書を少しでも書こうと思いまして、こうして最初の三皇五帝を書くのですが、司馬遷はあまりに神話としてしか思えない三皇は書かないで、この五帝の黄帝から書くのです。しかも神としての要素も強かったであろうこの黄帝をあくまで人間として描いていきます。
 そのことが私には、この司馬遷の魅力であり、彼の書いた『史記』の大きな魅力なのです。
 この黄帝は老荘すなわち老子荘子と並んで、黄老(こうろう)と呼ばれ中国の三大宗教の一つである道教の神(神といっていいのかな?)となります。しかし私には道教というのが、どうしても分からないし、そのたびにこの「司馬遷『史記』」に立ち返っています。
 黄帝は名を軒轅(けんえん)と言います。おそらく黄帝は皇帝からつけた名前なのでしょうね。三皇の最後の神である神農(初めて農業を始めたという)氏のあと、帝王になります。
 この黄帝はまず神農氏の最後の皇帝である炎帝を阪泉の野で戦い勝ち、次に蚩尤(しゆう)という一番凶暴な諸侯の一人を戦い勝利して殺します。これで天下が統一されたのでしょう。
 黄帝には25人の男子があったといいます。だから奥さんが何人もいたのでしょうね。 私には黄帝はいつも人間の歴史で最初に出てくると思っている人です。

12010314 じゅには部屋が替りました。今度は同じ歳の女の子が二人います。

2012/01/13 12:49もう随分前に、この部屋に来ました。それでお義母さんと交代で、私はじゅにのそばに来ました。そしてお義母さんは帰りました。
 今はブルータスがじゅにを抱いて、この部屋を少し歩いています。
 今ブルータスママが絵本を手にとって読んであげています。
 もう少しでミルクです。今そのミルクが来ました。その前にお薬です。
2012/01/13 13:07このミルクでご機嫌になるはずなのですが、まだですね。
2012/01/13 13:38私の孫じゅにも大変な経験をしてきたのですね。もう8カ月を越えています。
 今は私のじゅにの母ブルータスと、お隣の子のお母さんがお話しています。
2012/01/13 14:33今食事に行ってきました。じゅには眠っています(といいたいのですが、ときどき目を開けてじいじの顔をみます)。でも今は眠っているみたいです。
 私は今日はまだ「周のIS01ブログ」も一つもアップしていないのですね。なんだか悲しいな。家でならもっとアップできているかなあ。
 今食事しながら、司馬遷のことを考えました。「史記」を私が初めて読んだのは、昭和39年の秋、たしか9月だったと思います。高校1年のときでした。私は鹿児島から横浜に来たときすぐに読んだものでした。武田泰淳「司馬遷ー史記の世界」は大学2年の秋12月近くだったと思います。そのすぐあと1969年1月に私は東大闘争で安田講堂で逮捕され起訴され、府中刑務所に拘留されることになりました。
 私の娘ブルータスと、隣のお母さんとまたお話しています(初めての会話)。いいですね。でもじいじは会話に加われません。
 司馬遷の書いた内容をよく思い出します。

 体温7度6分、血圧80です。

 じゅにが泣くと、じいじは不安になります。でも治まって、でも隣の赤ちゃんが泣き出しました。

 史記は、なんといいましても、その列伝が白眉だとされています。それはまったくその通りなのですが、でも私は最初の本紀からが実に興味深いのです。実に五帝(王・おう)の堯や舜もいいのですが(私は舜が大好きです)、私はどうしても黄帝が、
(この間、ウンチの処理でした)
 私はどうしても黄帝の記述が好きです。その前の炎帝とも争いなんかが興味深いのでした。

 黄帝の前の皇帝は炎帝ですが、それは神農氏と言われていますが、実は、この神農と炎帝は別な神(と言っていいのかな?)と言えます。ただそこらへんは、司馬遷ははっきり言わないのです。それが正しい姿勢です。

11021204 中国という国はあまりに長大な歴史を持っています。そして歴史の本も実にたくさんあります。これがあまりに多いために、元の時代に曾先之という人が、十八の歴史書をまとめて子ども向けに書いたのがこの本です。
 最初『史記』(司馬遷)から始まり、2『漢書』(班固)、3『後漢書』(范曄)、4『三国志』(陳寿)……という順番になっています。
   以下は5『晋書』(房玄齢)、6『宋書』(沈約)、7『南斉書』(蕭子顕)、8『梁書』(姚思廉)、9『陳書』(姚思廉)、10『魏書』(魏収)、11『北斉書』(李百薬)、12『後周書』(崔仁師)、13『隋書』(魏徴・長孫無忌)、14『南史』(李延寿)、15『北史』(李延寿)、16『新唐書』(欧陽脩・宋祁) 、17『新五代史』(欧陽脩)、18『宋鑑』』(李熹)と『続宋中興編年資治通鑑』(劉時挙)の二書。
 実は私も4までは、どうやら知っています(そして3以外は読んでいます)が、そのあとは欧陽脩の名前と性格が少し分かるくらいです。
 このそれぞれを実に簡略に書いたもの(だから中国では子ども向けの本とされている)なのですが、ただ、日本ではこれが中国の重要な歴史の本だと思われており、とくに江戸時代には、これは漢文の本として多く読まれたものです。
 私たちも漢文でこの本のいくつかは読んでいるかと思います。
 ただし、『史記』では、夏(か)の国の前の五帝の時代の最初の黄帝から歴史が始まるのに、この『十八史略』では、その五帝の前の三皇の時代の以前からも書かれています。私たちが漢文でも親しい文章も多いために、私なんかは実によく親しんできた本です。
 私が読みましたのは高校1年のときでした。もちろん、そのときには『史記』を読んでおり(筑摩書房世界文学大系で)、そこらへんのことは、この『十八史略』は、あまりに略すぎて不満なところでした。
 だが、元の前の宋の時代になると、とくに私なんかは、読んでいた本がないわけで、宋(南宋)が滅びるときに元のフビライ汗と決然と戦う文天祥の話には、涙を誘われたものです。
  今でも私はその高校1年のときに覚えた文天祥の『正気歌(せいきのうた)』は、全文暗誦できますし、彼の『過零丁洋(れいていようをすぐ)』は今でもときどき詩吟として詠っています。つい先日にも詠ったものでした。(2011.02.12)

11010308 司馬遷の『史記』は実に長大な歴史書ですが、なんと言ってもこの書物が驚くべきことは、この書物の後半に『列伝』があることです。これはほかでは見られないものなのです。そしてその『列伝』の中にさらに驚いてしまうのですが、この『刺客列伝』があるのです。言わば、殺し屋-テロリストのことを書いているのです。
 以下の人物の列伝が書かれています。

 曹沫(そうかい)
 専諸(せんしょ)
 予譲(よじょう)
 聶政(しょうせい) その姉の栄(えい)
 荊軻(けいか)
 高漸離(こうぜんり)

 やっぱり私には、始皇帝を暗殺しようとした荊軻と高漸離のことがいつも思い出してしまいます。司馬遷がよく書いていてくれたと思うのですね。
 私は高校1年の秋にすべて読みました。退屈な授業のときにずっと読んでいたものでした。この長大なる歴史書の中で、列伝が実に面白く、そして中でもこの『刺客列伝』を熱く読んでいたことを思い出します。(2010.01.25)

10122201 司馬遷の『史記』は実に長い書物です。最初本紀から読んでいくとどうしても退屈な思いも抱くものです。でもそのたびに「列伝になれば、面白いはずだ」という思いで、ただただ勢いで読んでいくものです。
 筑摩書房の『史記』では、「本紀、表、書、世家」が上巻で、下巻がすべて列伝でした。この列伝で、孔子の列伝はなく、世家篇にあるのですね。これは私も驚いたところでした。列伝は、伯夷・叔斉の伝から始まっています。この二人の列伝でも思うこと、言いたいことがあるわけですが、ここでは「黥布列伝」のことを書きます。

 黥布(げいふ)は正式な名前は英布といいました。だが、彼は刑罰を受け、顔に刺青を入れられます。ためにこの顔の刺青のために、黥布(黥とは罪人の顔に墨を入れる刑罰のこと)と呼ばれるようになったのです。
 秦末に挙兵し、やがて項羽に仕えます。そして秦を攻撃するわけですが、その際に降伏した秦軍を20万人殺害しています。もうこの中国の歴史を読むと、実に殺害の人数のけたが違います。秦も実に残酷でしたが、それを破った楚も同じでした。いや、「楚も同じ」というよりは、始皇帝もひどかったものですが、項羽もこの黥布もひどかったものです。この日本では考えられないひどさです。私はいつも読んでいて、耐えられない思いになります。日本がこうしたことをすべて中国から学ばなかったことが私にはとても嬉しいことです。
 やがて項羽とは対立することになり、漢の劉邦の配下になります。あ、この「漢」という国は、いわば秦の地が「漢」と呼ばれるものになったのです。それを率いるのが劉邦でした。この漢に項羽は破れ、中国には漢の国ができます。
 だが黥布ー英布は、この劉邦とも対立することになります。そしてやがて、破れて殺されることになります。刺青の布さんもこうして亡くなります。(2010.12.22)

10122110 司馬遷の書いた史記には、最初から、五帝本紀、夏本紀、殷本紀、周本紀、秦本紀となっていて、そのあとは秦始皇本紀となっています。始皇帝は一つの国と同じように大きな存在だと司馬遷は見たものでしょう。
 でも時代は、その秦のあとは漢という国の歴史になるわけですが、司馬遷はその前に「項羽本紀」を置いています。このことが私には、実に司馬遷が偉大な歴史家だと思うところです。
 項羽は実に戦に強い人間でした。それに最終的には勝利したはずの劉邦も何度も何度も戦に破れています。だが個々の戦争には強いはずの項羽でしたが、実に最終的には破れてしまします。「四面楚歌」の故事にあるように、項羽の国であるはずの楚国の多くの兵士も項羽を打とうと項羽を包囲します。
 史記はやはり、後半の列伝が実に面白いわけで、最初の「本紀」などは、どうしても面白いとは思えません。でも、この項羽本紀だけは実に読んでいていいのです。乱暴でただただ戦争に強いだけの項羽にも、実にいいシーンがたくさんあります。やはり、「垓下の歌」には、涙を流してしまいます。

   垓下歌     項羽
 力拔山兮氣蓋世 力は山を抜き 気は世を蓋(おお)う
 時不利兮騅不逝 時利あらず 騅逝(ゆか)ず
 騅不逝兮可奈何 騅の逝ざるを 奈何(いかん)すべき
 虞兮虞兮奈若何 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん

 もちろん、項羽には詩が作れるわけがなく、これは司馬遷が作ったものでしょうが、どうしても項羽と虞美人のことを思ってしまうのです。
 そして項羽は私にも忘れられない英雄です。(2010.09.27)

10100106 いつも Spider job  蜘蛛業 に書いております 読書さとう が2010年9月16日〜10月4日までのUPしましたものが以下です。これが18回目の10回分になります。

2010/10/04(月)
フィリップ・カー『屍肉』
2010/10/02(土)
島田荘司『占星術殺人事件』
2010/09/30(木)
司馬遷『史記-列伝黥布』
2010/09/28(火)
司馬遷『史記-項羽本紀』
2010/09/26(日)
川端要壽『春日野清隆と昭和大相撲』
2010/09/24(金)
藤沢周平『秘太刀馬の骨』
2010/09/22(水)
アイザック・アシモフ『銀河興亡史』
2010/09/20(月)
『一言芳談抄』
2010/09/18(土)
ショーロホフ『静かなドン』
2010/09/16(木)
戸川幸夫『高安犬物語』

 なるべく日本の作品と外国の作品を同じ数だけ紹介するようにしています。でも今も毎日読んでいるわけですから、いつまでも続くわけですね。そしてここでは、私が気に入らなかった作品も紹介していきます。

10091809 なんだか時間が足りない感じですね。

2010/09/24 07:42朝の食事は終わりました。こうしてきょうも「ゲゲゲの女房」を見ます。さてその時間が近づいてきます。
 やはり部屋の中だと暑いですね。たまらないですね。私は昔から暑がりなのですね。
2010/09/24 09:48「読書さとう」で、『史記』の『頂羽本紀』のことを書くつもりでしたが、いろんなことをやっていて、時間がなく、「藤沢周平『秘太刀馬の骨』」を書いてしまいました。また今度別に書きましょう。
 吉本(吉本隆明)さんの本の書評も書こうと思いながら、なかなかやっていられませんでした。でも、今後書いていくめどがたちました。いえ、書く場を考えたのです。これはいいです。やっていけます。
 いや今頂羽のことを考えていたら、突如黥布のことも思い出しました(彼は本来英布という名ですが、通称を「黥布」といいます)、彼のことも書かなくちゃな。いや彼の顔が思い浮かぶのです。刺青の入った彼の顔が。『史記』には彼の列伝もあります。
2010/09/24 10:07「ちい散歩」で横浜の弘明寺です。ここは私が高校のときから行きたいと思っていて、でも果たせなかったところですね。私は横浜にも3年半ほど住んでいたのですが、それほど知らないのですね。
2010/09/24 10:19いや今も思い出した。やらなくちゃいけないことがありますね。忘れずにやりましょう。

 さて、これで「周のポメラ」をUPします。これで前日何をやっていたかを思い出します。

07080302 ナミちゃんのブログの、老人ホームにボランティア! に次のことが書いてありました。

あとっ!やっちゃいました。
ブログ初心者の私・・書庫を作って今までの記事えお振り分け作業を
していた時に???あれっつ?あれっつ?おかしい・・

・・遅しでした・・間違えて、勘違いをして削除してしまいました。
ガ〜ン!ショックで〜す。記事を二つ〜です。
そこにはトラックバックの記事やコメントもあります。
記事一覧でコメントは残っていますが・・ごめんなさい。残念です。
記事は復活します。大体おおざっぱですが記憶にあります・
こういう事が起きるのですね。

 これを私が知ったときに、「あれ! ナミちゃんもブログに直接書いていたんだなあ。そうだと復活できないよ」と思いました。事実、「大体おおざっぱですが記憶にあります」ということになっちゃいましたね。
 私は、もう昔から、必ずまずエディタ(今はWZです。その前はVZを長く使っていました)で、書いてから、ブログにつないで、その部屋に貼り付けます。これはブログでなくても同じです。その相手のブログにコメントするときも、どこかの掲示板に書き込むときも、ホームページを更新するときも同じです。
 このことは、書込みをするときの鉄則 に書きました。そこに書きましたように、これはインターネットの前のパソコン通信の時代も、その前の時代でも同じです。

相談した周さんはエディタに書いてから貼り付けをするそうです、
これ・・司馬遷の時代から鉄則らしいです。
ブログに直接書くクセは危険という事です。
なるほど・・山勘で動いている私はまいった!まいった!でした。

 司馬遷は、あの時代に、「史記」という膨大なる歴史書を書きました。「本紀、表、書、世家篇」とありますが、圧巻は「列伝」です。これがなかったら、単に「史記」は紀伝体の本だというだけだったでしょう。でもこの「列伝」で、私たちは、孔子のことも、孟子のことも、孫子のことも呉子のことも知ることができるのです。
 この時代は、まだ紙がありません。すべて竹簡に書いたものです。なんと膨大な竹簡に書き上げたものなのでしょうか。そして、おそらく司馬遷が書いた「史記」は、もともとあの10倍の量があったのでは、と私は推測しています。それを推敲して、推敲して、あの量にしたのです。
 司馬遷は、中国全土を歩きました。そして各地の伝承、記録を書いていきます。そしてそれをさらに推敲して、あれだけにまとめ上たのです。直接、本文に書いていったわけではなく、書いたものを、本文としてまとめあげたのです。
 だから、それが今も、このインターネットでも同じだと思うのです。エディタで書いていって、自分のパソコン内(私の場合は、自分の外付けHDに)に整理しておきます。また書き直す内容になるでしょう。そしてそれをブログにUPするのです。
 ただし、これは司馬遷も同じだったでしょうが、必ずその最初パソコン内に書くときも、それは本もの(実際に最終的にUPするもの)として書いていきます。その中でいくつも推敲して直しているのです。ここのところは、司馬遷よりも数段私たちのほうが楽です。簡単にできます。もう司馬遷に、私たちのような道具(パソコンやインターネット)があれば、「史記」はもっと膨大なもの(数・量が多いだけではなく、画像も音声も入ってもっとすごい記録になっていたでしょう)になっていたはずです。
 だから、いつでも真剣に気合いを入れてやっていますが、すぐに訂正追加できるように、まずは自分のパソコン内に書くのです。それで訂正追加ののちに、UPします。エディタで貼り付けるのですね。
 でもそのあとでも、また訂正追加していきます。このところは、司馬遷では、簡単にできないところで、彼が今のことことを知ったら、ただただ私たちの時代、私たちの技術が羨ましいはずです。
 だから、今がそんな時代で、そんなに私たちは恵まれているのですから、ぜひともこのブログくらいは、ぜひ多くの方にやってほしいなと私は思っています。

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 私が次のように書いたことですが、少し書き続けます。

私はこの藺相如が高校2年のときから好きな人物であり、のちに彼と刎頚の交わりを結ぶ廉頗(れんぱ)とならんで、人物もこの話も実に好きなのです。

 私の高校時代というのは、別に漢文のまともな授業も特別にはありませんでした。ただ私だけは大学入試にも漢文は必要なので(私だけでしたが)、私は自分だけで、NHK教育テレビとラジオ第2放送で漢文の授業を聞いていました。ちゃんとテキストも買って真面目にやっていました。
 それに私は司馬遷「史記」は、高校1年のときに、筑摩書房世界文学大系で読んでいました。そしてこの藺相如に関しては、史記の文章ではなく(いやもちろん「史記」藺相如の列伝もいいですが)、江戸時代の誰か(誰のだったかは今では判らない)の漢文で読んでいました。それがなかなかいい文章で、もうそれだけで私は藺相如が私の尊敬する人物になりました。
 私はそれで、当時の私は、自分の名前に号とか字を付けていたのですが、その小字(こあざな)として、この藺相如に関する江戸時代の漢文の中に好きな言葉を見つけて、「維加」と名づけたものです。「維」とは藺相如が鶏を繋ぐとこともできない(ほど力がない)という意味から、「加」とは藺相如の相貌は、人に威厳のある顔で脅威を加えることもできないものだったという意味からです。藺相如はそのように実にたいした体格も相貌でもなかったが、彼がひとたび怒ると、凶暴な秦国の昭王も震え上がったといいます。
 同じ趙の国の大将軍である廉頗(れんぱ)は、当初はこんな藺相如をたいした人物ではないと思っていますが、やがてこの藺相如の人物を知り、左袒して彼に詫びをいい、刎頚の交わりを結ぶに至ったといいます。

 思えば私の高校生の頃は、自分に号や字を付けていたものでした。だから字はまた別にあります。まあ、それは羞しいから、またの機会ですね。

 江分利満の同僚の佐藤勝利さんの校正の話で へ

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 私はいろいろなところで、実によく「何が専門なのですか?」と聞かれることがあります。そうすると私はいつも返事に困ってしまいます。経営コンサルタントだとすると、「得意な分野は販売管理です」とか「労務管理だ」とでも答えていけば相手は安心するのでしょうかね。
 そもそも私には専門な分野などないのです(いや、そもそも「労務管理が専門です」なんて気持悪いよ。「販売管理の専門」というのもおかしいです。それは大学の先生の話でしょう。何の役にもたたない先生方ですね)。
 いろいろなクライアントでは、顧問であるわけだし、あるところでは「パソコンの先生」と呼ばれているし、あるところでは「詩吟の先生」などと言われています。
 そんな私がいつも返事で困っているわけなのですが、それなら逆に何が得意かといえば、比較的に得意だということなのですが、中国の歴史については詳しいと思っているところでしょうか。思えば私は学生時代は「東洋史」が専門でした(でも学生時代は、ただただ学生運動をやっていたわけですが)。そこでそんな私が、中国に関したことをここで披露していきたいと考えました。
 今後ももっとUPしてまいります。とくに「中国の神話」については、「舜あるいは俊」(これは「史記」の「五帝本紀」の最後の帝王の舜は、一般の人民の出身だというが、実はもともとは神ではないのか。しかも中国の北と南ではまた違う性格の神ではないのか、というところにあります)という題名でのUPをしなくちゃと思っているのですが、まずは確認したいことがあり、その確認のための書物をなくしてしまったもので、それを古書店で探してからと考えております。(2002.02.04)

   http://shomon.net/garakuta/naka.htm  周の中国の話

 いや、このところなかなか書いていないなあ、と反省しきりです。

 このごろスカイプで中国の若者と話すことがありますが(彼らが日本語で喋ったりチャットしたりしてくれるから、私も話せるだけです)、中国の漢詩のことを聞いたり、魯迅のことを話そうとしても、あんまり今の若者は、そんなことに関心はないようですね。李白の詩のことを言っても(チャットでテキストで書けるから、彼らも読めるはずなんですが)、全然知らないということがあるようです。
 大変に残念ですね。

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