将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:司馬遷

12112409  YAGURUMAさんからのメールがありました。長文ですので、私のこれへのレスもまた別に書いて行きます。でも丁寧にありがとうございました。私は「司馬遷『史記』(小竹文夫・小竹武夫訳)」しか読んでいませんので、大変に勉強になりました。
 ただ今まで私が書いてきたことは、膨大な「司馬遷『史記』」の一パーセントにもならない量です。偉大なる司馬遷に、ただただ頭が下がると同時に自分の卑小さに惨めな思いになるばかりです。
 しかも司馬遷は、これを紙に書いているのではなく(まだ紙が存在しない)、竹簡に書いているのですね。ただただ、司馬遷を尊敬するとともに、自分がいやになるばかりです。今は紙ではなく、こうしてパソコンでインターネット上に書けるのですからね。司馬遷がいたら、どんなに嬉しがったことでしょうか。

夏王朝時代の日本列島と史記
12112410  現在、分っていることをコメントさせていただきます。長くなってしまったので、Mailさせていただきます。
  会稽山麓の河母渡遺跡の発掘によりBC4600以降、夏王朝以前の新石器、土器文明が華麗に展開され、一大文明の中枢地帯に当たっていたことが証明されています。
  従って、金属文明である、「夏王朝以降」の中国古代文明は、この「前金属文明の故地」に対する”征服・支配”の上に成立したものです。史記が、この江南の地を、「夏王朝の諸侯集合の地」である会稽(会計)として記録したのは、司馬遷がこのような背景を暗示したと見なされます。
  河母渡遺跡は、「石けつ(けつ状耳飾り)文明」として、中国海(いわゆる東シナ海をふくむ)をはさんで、日本列島(九州から北海道まで)と両岸同一性格の文明として継続し、存在しています。
  尚書には堯典第一の、
   分かちて羲仲に命じて嵎夷に宅らしむ。暘谷と曰う。寅賓、日を出だし,平秩、東作す。
 益稷第五、夏書
   禹曰く、「兪なる哉、帝、天の下を光し,海隅の蒼生に至る。
 君〓、周書
   海隅、日を出だす、 率俾せざるは罔し。12112411

等、「暘谷」の地にいる、嵎夷との交流を語る史料があります。

「堯・舜・禹、夏王朝、周初」の時代は尚書の方が同時代史料であり、後代の史記より確実な史料と見なされます。
 堯・舜・禹から周公に至る時期は、日本列島においては縄文時代中・後期に当たっています。縄文の土器文明が最高度に開花している時期です。「堯・舜・禹」は縄文中期後半(B.C.2500〜2000)、「周公」はB.C.1000頃に当たっています。河母渡遺跡のしめすように、すでに縄文早期末(B.C.5000〜4000)において、大陸・列島間の交流が確認される点から、上の尚書に記された日本列島との交流があったと思われます。
 尚書に記された、これらの記事を、史記が正面からうけとめようとしなかったのは、日本列島との関係が中国(主)〜日本列島(従)ではなかったからです。逆に、日本列島の縄文文明が、「文明中枢」にあり、大陸の方がその影響を受けていた局面も考えられます。それを記すことは、「史記を制約していた中華思想」では許されないということです。 周の第五代の天子、穆王の行歴を記録した 『穆天子伝』にも西方なる西王母の邦に至り、この女王に臣下として貢献した記事がありますが、史記では史実を記すことなく、”好戦的な王にして軍事・外交上の失敗者にすぎぬ人物”として記されています。「儒教」の国家、漢王朝、「中華思想」の国家の「正史」の史家としては、正面から描けず、後代の読者に暗示を与えるに留めたといえます。
12112412 禹は後継者に臣下の益を指名し、子の啓を益の臣下として仕えさせましたが、『竹書紀年』は啓が益を殺して王に即位したことを記しています。しかし『史記』夏本紀では、これを改竄し、啓は有能で人望があるのに対して禅譲された益は諸侯たちの信任を得られず、啓は諸侯たちの推戴をうけて王に即位したとしています。啓が主君を殺して位を奪ったとなれば、それは反逆行為であり、儒教では非難されるべき大事件です。「燕召公世家」を書いた司馬遷は、当然これを知っていたが、『孟子』(万章章句上)をもとにその交代劇を儒教道徳により改竄し、王位の世襲化を正当化しています。

 周代の倭人の記事としては、漢代の王充の『論衡』に次の記事があります。

 周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す。(巻八、儒増篇)
  成王の時、越裳雉を献じ、倭人暢草を貢す。」(巻一九、恢国篇)

 越裳は今のベトナムの領域に住した種族で、倭人がこれと並んで記されています。紀元前十一世紀、縄文時代後期末、ないし晩期初頭の記事です。
 なお、 和田家文書 、『東日流外三郡誌』には北方の古代の歴史が描かれています。
 今後、考古学、遺伝子人類学他の進展により、これらの状況が明確になると期待されます。なお、稲の起源について最近下記報告がなされました。

【 2012年10月26日 ゲノム解析でイネの起源は中国・珠江の中流域 】
  これまで長い間論争が続いていたジャポニカ米などのイネの栽培起源地について、国立遺伝学研究所や中国科学院上海生物科学研究所などの研究チームは、中国南部を流れる珠江(しゅこう、the Pearl River)中流域であるとの研究結果を、英科学誌「ネイチャー」(オンライン版)に発表した。
12112413  研究チームは、アジア各地から収集した野生イネ(ルフィポゴン)446系統、ジャポニカ米やインディカ米などの栽培イネ1083系統のゲノム(全遺伝情報)を解析し、1529系統間の相互関係を明らかにした。さらに遺伝的変異のパターン解析から、ジャポニカ米とインディカ米では55のゲノム領域で、イネの脱粒性や芒(のぎ)の有無、粒幅などの重要な形質について、栽培化による選択が行われていたことが分かった。
  これらの遺伝的な指標を用いてイネの系統進化を解析し、さらに各系統の生息地の情報を比較した結果、イネの栽培化は中国南部の珠江の中流域で始まり、1つの野生イネ集団からジャポニカ米が生まれたことが分かった。その後、ジャポニカ米の集団に別の野生系統のイネが複数回交配してインディカ米の系統が作り出されたと考えられるという。

  イネの起源地についてはこれまで、遺跡の調査結果などから何十年にもわたり論争が続き、インド・アッサム地方から中国・雲南省にかけての地域や、中国の「長江」中・下流域などと12112414の諸説があった。研究チームは「今回のわれわれの解析で、イネの起源地と栽培化のプロセスが明らかとなり、長い論争に終止符を打つことができた」としている。
 参考 『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』 古田武彦 著
    『夏王朝 王権誕生の考古学』 岡村秀典 著

12111631 この殷の国の始めの帝が湯で、成湯ともいいます。夏の暴虐は傑王を滅ぼして、帝になりました。この夏を打つときに、諸侯の前で演説したものを『湯誓(とうせい)』と言います。この文の内容は『史記』にはなく、『書経』に書いてあります。
 この湯王は聖王として、夏の禹や周の文王、武王と並び尊ばれますが、私にはそれほど親しい思いがしないものです。司馬遷はあまり書いていてくれないのですね。
 私には、いわゆる神話と人間の話のいわば中間にいる帝に思えるのです。

12111418 司馬遷『史記』では、湯(とう)の前に幾人もの王がいます。

契(けい、始祖)
昭明(しょうめい、契の子)
相土(そうど、昭明の子)
昌若(しょうじゃく、相土の子)
曹圉(そうぎょ、昌若の子)
冥(めい、曹圉の子)
振(しん、冥の子)
微(び、振の子)
報丁(ほうてい、微の子)
報乙(ほういつ、報丁の子)
報丙 (ほうへい、報乙の子)
主壬(しゅじん、報丙の子)
主癸(ほうじん、主壬の子)
天乙(てんいつ、主癸の子)

 最後の天乙が成湯(せいとう)が殷の帝になります。
 実は、インターネットの記述と私の持っている「司馬遷『史記』」との記述が若干違います。私は私の「司馬遷『史記』」(筑摩書房世界文学大系)に従いました。
 契は、帝舜のときに禹の治水を援けた功績で商(しょう)という地名にに封じられました。帝コクの次妃であった簡狄(かんてき)が玄鳥(げんちょう、つばめ)の卵を食べたために生んだ子とされています。
 この殷は紀元前17世紀頃から紀元前1046年まで存在しました。

12111408 私は以前に、周の文学哲学歴史話に以下のことを書きました。

  夏の桀王の愛した女、末喜

 これは私があるサイトに書いたものでした。それをあとで私のブログにもUPしたものです。そこには、以下のように書きました。

17代の最後の帝が桀(けつ)王という帝でした。この傑が、山東半島の有施氏を討ったときに、この有施氏から献上されたとされる美女がこの末喜(ばっき)でした。彼女は絹を裂く音を好んだために、多くの絹が集められました。また彼女のために祝宴では池に酒を満たして樹々に肉を吊るすことが行われ、もはや傑王は政治をまともにやりませんでした。
 ために、商(殷)の湯王に桀王は滅ぼされます。南方に末喜と逃げて、そこで二人とも亡くなったと言われています。

 この美女を喜ばせるために帝である傑が酒池肉林をしたり、高価な絹を引き裂いたというのは、後代の殷の紂王の妃妲己(だっき)や、西周の幽王の妃褒じ(ほうじ)のエピソードと同じです。
 おそらく、それら後期の出来事をここでも引用したのだと思われます。ただし、司馬遷はこの末喜のことは記していません。

12111209 夏(か)という国は歴代の帝は以下の通りです。以下は諱(いみな)です。この諱については、グーグルでは以下のようにあります。

漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。このような慣習は「実名敬避俗(じつめいけいひぞく)」と呼ばれた。12111210

 以下歴代の帝です。ただし、司馬遷は明確に書いていません。夏本紀は禹の話が大部分です。

 禹
 啓
 太康(これは諱ではなく、諡(し、おくりな)である。あとで書いています)
  中康(これも諡です。太康の弟)
 相(しょう)
 無王時代(実に40年続いたといわれます)
 少康(これも諡です。中康の子)
 予(よ)
 槐(かい)
 芒(ぼう)
 泄(せつ)
 不降(ふこう)
 ケイ(泄の子で、不降の弟)
 キン(きん、不降の子)
 孔甲(こうこう、これは諡、キンの従兄弟)
 皐(こう)
 発(はつ、皐の子)
 桀(けつ)

諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。

 最後桀王で、この夏は滅びます。この桀王で「夏桀殷紂(かけついんちゅう)」の暴君の話になります。「酒池肉林(しゅちにくりん)」の話が出てくるのです。
12111211 ただ、この2啓代目啓は優れた人物で、最初禹も堯や舜に習って禅譲を考えたものなのでしょうが、この啓が優れた人物であり、この時から夏という帝国(まだ王国と言っていいかな)が続くことになります。

12111113  前には実在はされていないとされていた夏です。その初代の帝がこの禹です。
 この禹の父は、鯀(こん)で、その父親が五帝の2代目のセンギョクになります。
 この鯀は字に魚辺がついているように、神話では魚の鯉になっています。私はその魚の絵の鯀を見たことはあります。そして禹は熊であったとも言われます。
 そうした神話が嫌いだったろう司馬遷は、父親の鯀は堯の時代のある行政官になっています。この時代に大きな洪水で人間は苦しんでいました。それを治めるように言われるのですが、9年経っても水は引きませんでした。
 そこで困った堯は、困りましたが、舜がこの鯀を流罪にして、その鯀の息子の禹を登用しました。
 禹は懸命に働きまして、この洪水を治めます。ただし、ものすごい時間がかかりました。そのときは禹は熊の姿になって必死に働いたということです。
 ただし、神話が嫌いだった司馬遷はそのようには書いていません。禹はあくまで父がなしえなかったことを必死になって実現しようとしている息子なのです。
 この時の禹の苦労を実に司馬遷は丁寧に書いてあります。実に「五帝本紀」よりもこの禹の記述が長く書いてあります。
 舜は、自分の息子商均(しょうきん)ではなく、この禹に帝を禅譲します。商均ではだめだったとしかいえないのです。
 ただこの禹の子であった啓は優秀だったので、位につきます。
 これで、前の五帝の時代とは違って、中国は「夏」という国が続くのです。
 この禹に関して、最後に司馬遷は言っています。禹を葬むったところを「会稽と名づけた。会稽は会計で、諸侯の功を計ったからだという。」

12111017  中国という国の歴史を思うと、いつも「この時は我が日本はどうだったのかなあ?」とか「この時のヨーロッパは何だったのかなあ?」とか「この時にインドにはアーリア人が入った頃なんだ」なんて思っています。中国は比較的に歴史がはっきり残っていて、その記録が明らかだからと思うのです。そしてそれは、『この「司馬遷『史記』」のおかげでなんだなあ』と思わざるをえません。
 昔は、この夏(か)という国は伝説でしかなくて、実在はしていないといわれました。でもこの夏のあとの国の殷も昔には存在しないといわれていました。だが殷の存在は明らかになり、そして現在では、その殷の前の夏の存在も事実だといわれています。
 まさしくこの夏の存在こそ、中国が偉大だといわれることなんだなあ、と私は思っています。そしてそれには「司馬遷『史記』」が欠かせないものです。
 そしてその夏の初代の帝である禹の存在こそが「神話から人間の世界」に変わった大きな存在であったと私は思っています。

201811120102 12110913私はこの「司馬遷『史記』」を思うと、どうしても司馬遷という人の偉大さを感じます。司馬遷の生涯は紀元前145年(135年か)から紀元前87か86年です。日本はまだ聖徳大使が生まれるずっと前です。
そして私は、これに比べてヨーロッパの歴史関係の書籍も思い出します。
私には、「ヘロドトス『歴史』」、「トゥキュディデス『歴史』」(『ペロポネスス戦史』という訳本(岩波文庫)もある)、「プルタルコス『対比列伝』」(プルターク英雄伝)という訳本(岩波文庫)もある)を合わせたような書物だと思います。量的にもそのくらい莫大な内容・量のものです。
私は「プルターク英雄伝」は高校2年で読み、「ヘロドトス『歴史』」は大学6年で読み、「トゥキュディデス『歴史』」は鹿児島から沖縄まで行く船の中で読んでいたものです。
ただこの「司馬遷『史記』」は高校一年の9月に、ずっと授業中読んでいました。
12111003「プルターク英雄伝」は横浜日の出町の「山手英学院」という予備校に夜行っていたときに読んでいました。あのときの学院での綺麗な女の子のことや英文解釈での「Animal Farm」を思い出すます。そのときの先生も思い出します。「プルターク英雄伝」もただただ長い本でしたね。
この「司馬遷『史記』」を読んだ思いがあって、他の長大な本も平気で読み下せた思いがします。
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12110912 一つ前の『史記五帝本紀の前の伏儀と女カ』でも書きましたように、この神についても司馬遷は少しも書いていません。司馬遷はあくまで人間の歴史が書きたかったのであり、「神とかいうのは、俺は知らないよ」と思っていたでしょう。でも私は敢えて「司馬遷『史記五帝本紀の前の燧人』」という題名にしました。
 ただし、前回と同様に、司馬遷は少しも記していません。だが私は司馬遷も少しは話を聞いていたと思うのですね。ただ人間の歴史しか興味のなかった司馬遷はまったく書くことはありませんでした。私は司馬遷が、「人間の歴史を書く(しかも紙にではなく竹簡に)のに忙しいのだ。神とやらには興味がない」と思ったように考えるのです。
 この燧人(すいじん)が、火をおこし、食べ物を焼くことを人間に教えたそうです。そうすると、『伏儀と女カ』で書いたように、「女カが人間を作った」その前に火を教えたなんて、なんだか私には理解できないのです。おそらく司馬遷もそれらのことで、「書けない」と思ったのではないでしょうか。
 これで私の書いてきた司馬遷『史記五帝本紀』は終わります。
 明日からは、人間の歴史である『夏本紀』になります。ただし、最初の帝の禹(う)も不思儀さを秘めている人ですよ。

12110811 この二人は、司馬遷は少しも書いていません。でもその時代にも話はあったと思うのです。ただ神話が嫌いで、どうしても人間の歴史のみが書きたかった司馬遷には、書く必要がなかった。書きたくなかったと思われます。でも私は敢えて、「五帝本紀の前の伏儀と女カ(じょか)」としました。女カのカは、「女へんに過ぎる」の字からしんにゅうを取った字です。
 世界に洪水伝説がどこにもあります。キリスト教で言えば、「舊約聖書」にノアの箱舟伝説があります。世界が天が裂けて洪水がやまなかったときに、この女カは天の破れを修復し、大亀の足で天を支えたとあります。
「屈原『楚辞』」の「天問」では、この女カが人間を作ったといわれています。
 おそらく中国にも豊かな神話があったのあろうと想像できますが、司馬遷が嫌ったであろうがために、いわば神の話はないと言っていいようなことになっています。
 なお、この伏儀(ふくぎ)と女カは夫婦あるいは兄妹と言われています。

12110804 今まで「司馬遷『史記』の五帝本紀のことを書いてきました。この中国の歴史(いや司馬遷は、これが人間の歴史というのでしょう)が、書いてきたように、五人の帝によって始まったのです。『史記』でも司馬遷は、そのように書いています。
 でもこの「五帝本紀」の前はいったいどうなのでしょうか。
  それは三皇の時代といわれますが、五帝と同じように、この三皇が誰であるかというのはいくつものことが書いてあり、それを整理するのも大変なのですが、私はいわば想像するのです。
 まず『史記』の五帝本紀の黄帝のところで、最初に書いてあります。黄帝がまだ少年の頃神農氏が天下を治めており、その神農氏に黄帝(まだ軒轅と言った)は仕えます。
  その神農氏は、最後の炎帝という帝でした、この炎帝は神農とも同じ神になっていることもあります。だが司馬遷はそこらへんははっきり書いていません。私たちには、頼るべきは司馬遷しかいないのですが、彼自身が書いていないのです。
 この神農氏の世で諸侯は互いに攻めあい世は乱れたが、神農氏では抑えられないので、黄帝(まだ黄帝とは名乗っていない)はこれら諸侯を討伐した。とくに蚩尤(しゆう)という凶暴な侯を討伐し、さらには神農氏の最後の帝王であろう炎帝の子孫を滅ぼします。 この炎帝とは阪泉の野で三度戦い、ついに勝利しました。そのあと、蚩尤と戦い、ついに滅ぼします。それでみんなが軒轅を天子と仰いだので、黄帝となったのです。
 司馬遷は三皇のことは、ここまでしか書いていません。
12110805 よく任侠映画で組の何かの儀式のときには、掛け軸で「神農大神」と「天照大神」がかけられています。また任侠の道を「神農道」といったりします。
 ただし、私にはよく分からない神でもあります。そもそも私は顔も想像できないのです。

12110412 中国では、最古から「三皇(さんこう)五帝」で始まったといわれます。
 司馬遷はこの五帝本紀の最後に「太史公言わく」(太史公とは司馬遷自身のこと)として、書いています。

 学者が五帝の事績を論ずるのは久しいことだが、尚書(『書経』のこと)には、ただ帝堯以来のことを記してあるだけで、黄帝のことを記したのは百家の書である。・・・・・・私はかつて旅行を好み、・・・長者老人が、往々黄帝や堯・舜を語る地方へ行くと、風教がほかの地方と違っていた。・・・・・・。思うに、ただ深く考えぬだけのこと、記されていることは決して虚言ではない。・・・・・・

 神話を嫌った司馬遷です。だが神話や伝説が語る中になんとか人間の歴史を探しました。「記されていることは決して虚言ではない」。この司馬遷の言葉を深く思います。
 まだ当時は紙がありません、竹簡(ちくかん)にすべて書いてあったわけです。それを熱心に読んでいる司馬遷を思います。中国のたくさんの地域を歩いて、老人の話を聞いている司馬遷を思います。
12110413 これほどの人があの時代のいたことに、私はものすごく感謝します。ものすごく興奮します。
 私も今の時代に感謝します。こうしてインターネットで司馬遷と五帝のことを読めることにもものすごく嬉しいのです。

12110304  さて、私の書く司馬遷『史記五帝本紀第一』は、

  黄帝
  センギョク
  帝コク
  帝堯
  帝舜

に関しては、もうここで書きました。後の三人に関しては、「コク、堯、舜」と一字でよばれることの方が多いようです。
  ところで、センギョクは黄帝の子ども、昌意の子どもであり、黄帝の孫になります。帝コクの父は、キョウ極(きょうきょく)であり、その父は、黄帝の長子である玄囂(げんごう)なので、帝コクは黄帝の曾孫になります。
 帝堯は、帝コクの次男でしたが、兄の禅譲により帝位につきました。舜はセンギョクの七代の子孫だといわれますが、いわば普通の民間人でした。その舜が帝堯により、政(まつりごと)を任され、帝堯が亡くなったときに、一旦は堯の息子の丹朱があとを継ぎます(帝位につく)が、誰もその丹朱のもとへは行かないで、舜ばかりに来ます。そこで天は舜を薦めて、舜が天子になります。この「天が薦める」という意味が漢文では分からないわけでしたが、これはみんなが(民間人が)舜を次の天子としてほしいという願望で、天とは普通の庶民が薦めたことなのだと私の高校一年のときの漢文の先生が教えてくれました(ただし、そのときは「十八史略」の話)。
 私はこの丹朱も素直にそれを認めたものだなあと感心します。
 また舜の弟の象(しょう)ですが、これも最初には父と母と一緒に舜を殺そうとしたとあります。でも私は宮城谷昌光がけっして象を貶してばかりは書いていません(作品名が何だったか思い出せない)。象もまた兄舜を認めたのだろうと思います。
 私には丹朱は、まったくの他人であった舜を認め、象は結局は兄を認める、そのような優れた人物だったように思えます。

12110107 この舜は、この『史記五帝本紀』で一番多い記述です。たくさんのことが書かれています。「舜も人なり、我も亦人なり」という孟子の言葉が思い出されます。
 堯は自分の実の息子の丹朱ではなく、普通の民間人であった舜を一切の天子の仕事をやらせますが、亡くなると、舜は位を丹朱に譲り退くのですが、もはやみなは丹朱ではなく、舜のところへ来ます。
 それで舜は「天命かなあ」ということで天子になります。
 本紀には、それから舜の生涯が描かれます。舜の父親も母親(これは父の後妻でした)も弟の象(しょう)も舜を殺そうとしますが、舜のあまりな従順さに、それができずに、ついには堯の目にとまります。そのときは舜はもう30歳でした。
 堯は二人の女(娘とあります。名前は娥皇と女英といいます)を舜の妻とします。この二人も、舜の父親にも母親にも象にもよく仕えたとあります。
 もうこの本紀を読む限り、舜の父親瞽叟(こそう)も弟象もなんとか舜を殺そうとしますが、それがこの本紀でそのまま描かれていきます。舜がせっかく掘った井戸の中で上から土を入れて殺そうとして、舜がそれを察知してあらかじめ横穴を掘って置くところは圧巻です。それでも舜は父瞽叟を敬い、弟象を愛するのです。
12110108 このような舜を知り、堯はますます評価し、好きになっていったものでしょう。
 この舜は30歳で堯に使え、50歳で天子の仕事に就き、58歳で堯が亡くなると61歳で帝位につきます。思えば、現在64歳の私も舜のこのような生涯を知ると、「我も亦人なり」という言葉をまた思い出すのです。

12103106 この堯になって、初めてこの『史記五帝本紀』に多くの記述が表れます。おそらく司馬遷は、この堯でたくさんの書くことがあって少しは嬉しかったのではと思われます。
 私には、十八史略の「帝堯陶唐氏は帝コクの子なり」という文が浮かんできます。これは私が書きました曾先之『十八史略』にある文です。だから元の時代に書かれたものであり、この司馬遷の『史記』にある文章ではありません。それにこの『十八史略』では、この五帝の時代の前の三皇を詳しく書いています。
 つまり、この時代になると、いわば歴史を作り上げてしまうわけです。だからつまらない。でもでもこの日本人ではやはりこの『十八史略』から入っていくのでしょう。
 この堯で有名なのは、「禅譲」という言葉ではないでしょうか。この堯は自分の天子としての地位を息子の丹朱に譲らず、舜という普通の人に譲ります。彼が聡明でよく事をやりとげることができたからです。
 この日本では、この天子の地位を他人に譲るということはありえませんでした。でもあえて堯はそれをなしたのです。
 晩年の堯は舜を見て、ものすごく嬉しかったのではないでしょうか。そんな堯の笑顔が見えるような気になります。

12102906 このレスが遅くなり申し訳ありません。下はほとんど書いていたのですが、UPが遅くなりました(夕食で、かつ私は飲むのでこうなりました)。

 私の司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』へのコメントへあてすとろ〜るさんから次のコメントがありました。

1. Posted by あてすとろ〜る   2012年10月29日 17:20
他の正史にも列伝はありますよね?
列伝がないとはどういう意味ですか?12102907

 私の間違いです。私は曾先之『十八史略』に書いていますが、

 最初『史記』(司馬遷)から始まり、2『漢書』(班固)、3『後漢書』(范曄)、4『三国志』(陳寿)……という順番になっています。。
   以下は5『晋書』(房玄齢)、6『宋書』(沈約)、7『南斉書』(蕭子顕)、8『梁書』(姚思廉)、9『陳書』(姚思廉)、10『魏書』(魏収)、11『北斉書』(李百薬)、12『後周書』(崔仁師)、13『隋書』(魏徴・長孫無忌)、14『南史』(李延寿)、15『北史』(李延寿)、16『新唐書』(欧陽脩・宋祁) 、17『新五代史』(欧陽脩)、18『宋鑑』』(李熹)と『続宋中興編年資治通鑑』(劉時挙)の二書。12102908

 これだけ多いと読むのが大変というよりも、全部訳されてはいないでしょう。私は杜甫のお祖父さんの杜審言(としんげん)のある詩を求めて神田の古書店街を歩いたことがありましたが、私には無理でした。
 それで私は『史記』と『三国志』(陳寿)だけは熱心に読んできました。『三国志』は筑摩古典文学全集で三巻もあって(裴松之の注だけで半分になります)、そして高価なのです。
 だから思うのですが、漢文で全文を読んだ人なんか、この日本にはいないのではと思われます。12102909
 十八史略は私には簡単でいいのですが、そして文天祥(この中国の子孫の方が私のサイトにコメントをくれました)のことが最後に出ていて、私は嬉しくてたまらないのですが、とにかく、私は自分の無知をさらけ出してしまいました。ごめんなさい。

12102917 私の司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』にYAGURUMAさんがコメントをくれました。私が医者にも行く用がありましたもので、中途半端ばかりになりました。
 それで私は当初は、

  司馬遷『史記五帝本紀第一センギョク帝コク』

は書く予定ではなかったのですが、

私は五帝は、黄帝、帝堯 帝舜に関しては、その顔を思い浮かべることができるのですが、この二人センギョクと帝コクに関しては無理なのです

と書きましたような具合なのですが、それでも書こうと思ったものなのです。
12102916 いや実は毎日私が本を読んだ記録を書こうと思って、日本、中国・朝鮮他アジア、欧米と書いて行こうと思っているのですが、欧米で、「トーマス・マン『ベニスに死す』」、「トーマス・マン『ワイマルのロッテ』」、「ボッカチオ『デカメロン』」、「ゲーテ『ウィルヘルム・マイステル修業時代』」、「アベラールとエロイーズの書簡集」と考えて、結局まとまらずこれをを書いてしまったのです。

 でも

2. Posted by YAGURUMA   2012年10月29日 17:25
 周 様
 レス了解です。確かに、黄帝記事へのコメントとしては不適切なので取消します。失礼致しました。

を読みました。それで私が少しいきりたっていて申し訳ありません。12102918

 先のYAGURUMAさんの以下は読みました。

 そして、シュリーマンがトロイの遺跡発掘で明らかにしたように神話の中核には歴史の真実が込められています。現在の比較神話学というキリスト教単性社会で発達した学問の限界を超え、歴史の真実を明らかにすることが西欧中心主義による現在の民族紛争の混迷を抜け出す視野を開くのでは。吉本さんのアフリカ的段階につながるのではと考えています。日本の現状は啓蒙思想の段階から抜けきれていないのではと感じます。
12102919次ぎのHPの十以下を参照下さい。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu2/philolog.html

 そしてまたちゃんと私も学んで行きます。孔子については、私も思うことがあり、また書いて行きます。
 それから私はシュリーマンもトロイの故事も好きですよ。

12102904 私が書きました司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』の次の帝王がセンギョク(せんぎょく)でした。彼は黄帝の孫になります。在位は78年だったといわれます。
 帝コク(ていこく)は、黄帝の曾孫になります。
 センギョクに関しては、あまりに記述がありません。静かな性格で知恵が深く、計画があり、よく物事に通じていたとあります。
 帝コクは私たちには、帝堯の父親だということくらいでしょうか。
 実は、私は五帝は、黄帝、帝堯 帝舜に関しては、その顔を思い浮かべることができるのですが、この二人センギョクと帝コクに関しては無理なのです。ほかの三人はいくつもの出来事があるのですが、この二人には皆無といってもいいと思うのです。
 司馬遷もかなり苦労して資料をあさり、そしてやっと書いたのがこの二人だと思うのです。

12102902 私の司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』にYAGURUNAさんがコメントをくれました。それでまた正式にはまた別にレスしますが(今は王子シネマで「降旗康男『あなたに』」を見てきたばかりで、気持がそちらで忙しいのです。高倉健さんのことで、気持がいっぱいです。

 簡単にいいます

1. Posted by YAGURUMA   2012年10月29日 11:59
中華思想の骨髄をなすイデオロギー=漢王朝の「正史」として、史記は成立した。
 久しぶりにコメンとさせていただきます。
 司馬遷の『史記』は、孔子の儒教思想、即ち中華思想の書として作られたもので、青銅器武器による江南の先進農耕文化の征服、抹殺の上に成立したものです。
 この歴史事実を正しく認識することが今後の日中関係、世界史、学問の発展には重要かと思います。

 ええと、これは明確に誤りです。司馬遷ほど南中国のことも書いている人はいません。そうでなかったら、呉越の攻防なんか書けるでしょうか。どうみても呉越は江南でしょう。
 第一私が書いたのは、わずか黄帝のことであって、司馬遷のことではありません。
 司馬遷とか『史記』のことなら、私が書いた以下のほうがまだ書いていると思います。

武田泰淳『司馬遷史記の世界』
http://shomon.livedoor.biz/archives/51892402.html
第62回「司馬遷の史記」
http://shomon.livedoor.biz/archives/51956298.html
第63回「司馬遷の史記 の2」
http://shomon.livedoor.biz/archives/51956561.html

 そもそも『史記』には『列伝』があるのです。これが全体の半分を占めています。あれが「正史」なんてわくにあてはまるでしょうか。ほかの歴史書には『列伝』はありませんよ。
12102903 どうか長大ですが、『史記』全体をお読みください。読んだ上で、まだ同じことを言われるのなら、私はもはや話す気はありません。
 今まで、中国の「正史」とやらは、何を読まれたのでしょうか。

12102813 この長大なる歴史書を少しでも書こうと思いまして、こうして最初の三皇五帝を書くのですが、司馬遷はあまりに神話としてしか思えない三皇は書かないで、この五帝の黄帝から書くのです。しかも神としての要素も強かったであろうこの黄帝をあくまで人間として描いていきます。
 そのことが私には、この司馬遷の魅力であり、彼の書いた『史記』の大きな魅力なのです。
 この黄帝は老荘すなわち老子荘子と並んで、黄老(こうろう)と呼ばれ中国の三大宗教の一つである道教の神(神といっていいのかな?)となります。しかし私には道教というのが、どうしても分からないし、そのたびにこの「司馬遷『史記』」に立ち返っています。
 黄帝は名を軒轅(けんえん)と言います。おそらく黄帝は皇帝からつけた名前なのでしょうね。三皇の最後の神である神農(初めて農業を始めたという)氏のあと、帝王になります。
 この黄帝はまず神農氏の最後の皇帝である炎帝を阪泉の野で戦い勝ち、次に蚩尤(しゆう)という一番凶暴な諸侯の一人を戦い勝利して殺します。これで天下が統一されたのでしょう。
 黄帝には25人の男子があったといいます。だから奥さんが何人もいたのでしょうね。 私には黄帝はいつも人間の歴史で最初に出てくると思っている人です。

 2011年7月25日IS01ブログに 藤田典さんから、再び次のコメントをいただきました。

周さんの自己貫徹精神は、大いに見習うべきだと感じているものですが、世の中の変わりようは実に素早く、特にIT機器の変容には着いていけないものがあります。
周さんには、二人の優秀な娘さんがおられるのですから、適時アドバイスを頂かれるのが良いと思います。

11072601 実は、これは前にコメントをいただいて、私がそのレスを書きましたら、すぐにまたもらっていたものでした。私もまたすぐにレスしようと思っていたのですが、今頃になってしまいました。いや、すぐに読んではいたのでしたが、そのあと食事になり、またいくつかのことをしているうちに、さらに翌日になったものでした。
 あのですね。私の二人の娘より、私のほうがITには詳しいですよ。「適時アドバイスを頂かれる」なんてことは、少しも考えていません。でも、というのは、私の思いだけで、二人は全然考えていないかもしれません。
 何しろ、私は古い歌、軍歌と詩吟が好きなだけで、二人の話なんかまったく聞かないからね。
 昨日ポコ汰と電話で話して、そのあと妻と変わったら、そのうち、「はい、じいじの好きなポニョちゃんですよ」というので、また話しました。私はもう二人とお話するのが大好きなのです。ただポニョはまだ2歳(もうすぐ3歳になります)で、ポコ汰のほうがお喋りはできるようですね。ポコ汰はもう4歳と6カ月を過ぎていますから。
 思えば、私はパソコン自作をやり、インターネットに触れるのも早かったのですが、本来は向いていないのかもしれません。まあ、仕方ないよね。できるだけ、こうしてブログをやり、インターネットの世界に、大きく触れていくことがいいのかもしれないですね。 私の同級生で、「インターネットって、何もないのね」という感想を言っているご夫婦がいるのですが、私はもうあきれ果てるばかりです。
 司馬遷が、あの時代にちゃんと歴史を書いていったことが、少しも分からないのですね。司馬遷は、たくさんある歴史のうち、実にまともだと思えるものだけを残して行ったのです。そのことの大きな意味が分かるのでしょうか。
 いや、中国の歴史だけではなく、今この日本も世界も大事な歴史を思うものです。

11010308 司馬遷の『史記』は実に長大な歴史書ですが、なんと言ってもこの書物が驚くべきことは、この書物の後半に『列伝』があることです。これはほかでは見られないものなのです。そしてその『列伝』の中にさらに驚いてしまうのですが、この『刺客列伝』があるのです。言わば、殺し屋-テロリストのことを書いているのです。
 以下の人物の列伝が書かれています。

 曹沫(そうかい)
 専諸(せんしょ)
 予譲(よじょう)
 聶政(しょうせい) その姉の栄(えい)
 荊軻(けいか)
 高漸離(こうぜんり)

 やっぱり私には、始皇帝を暗殺しようとした荊軻と高漸離のことがいつも思い出してしまいます。司馬遷がよく書いていてくれたと思うのですね。
 私は高校1年の秋にすべて読みました。退屈な授業のときにずっと読んでいたものでした。この長大なる歴史書の中で、列伝が実に面白く、そして中でもこの『刺客列伝』を熱く読んでいたことを思い出します。(2010.01.25)

10122201 司馬遷の『史記』は実に長い書物です。最初本紀から読んでいくとどうしても退屈な思いも抱くものです。でもそのたびに「列伝になれば、面白いはずだ」という思いで、ただただ勢いで読んでいくものです。
 筑摩書房の『史記』では、「本紀、表、書、世家」が上巻で、下巻がすべて列伝でした。この列伝で、孔子の列伝はなく、世家篇にあるのですね。これは私も驚いたところでした。列伝は、伯夷・叔斉の伝から始まっています。この二人の列伝でも思うこと、言いたいことがあるわけですが、ここでは「黥布列伝」のことを書きます。

 黥布(げいふ)は正式な名前は英布といいました。だが、彼は刑罰を受け、顔に刺青を入れられます。ためにこの顔の刺青のために、黥布(黥とは罪人の顔に墨を入れる刑罰のこと)と呼ばれるようになったのです。
 秦末に挙兵し、やがて項羽に仕えます。そして秦を攻撃するわけですが、その際に降伏した秦軍を20万人殺害しています。もうこの中国の歴史を読むと、実に殺害の人数のけたが違います。秦も実に残酷でしたが、それを破った楚も同じでした。いや、「楚も同じ」というよりは、始皇帝もひどかったものですが、項羽もこの黥布もひどかったものです。この日本では考えられないひどさです。私はいつも読んでいて、耐えられない思いになります。日本がこうしたことをすべて中国から学ばなかったことが私にはとても嬉しいことです。
 やがて項羽とは対立することになり、漢の劉邦の配下になります。あ、この「漢」という国は、いわば秦の地が「漢」と呼ばれるものになったのです。それを率いるのが劉邦でした。この漢に項羽は破れ、中国には漢の国ができます。
 だが黥布ー英布は、この劉邦とも対立することになります。そしてやがて、破れて殺されることになります。刺青の布さんもこうして亡くなります。(2010.12.22)

10122110 司馬遷の書いた史記には、最初から、五帝本紀、夏本紀、殷本紀、周本紀、秦本紀となっていて、そのあとは秦始皇本紀となっています。始皇帝は一つの国と同じように大きな存在だと司馬遷は見たものでしょう。
 でも時代は、その秦のあとは漢という国の歴史になるわけですが、司馬遷はその前に「項羽本紀」を置いています。このことが私には、実に司馬遷が偉大な歴史家だと思うところです。
 項羽は実に戦に強い人間でした。それに最終的には勝利したはずの劉邦も何度も何度も戦に破れています。だが個々の戦争には強いはずの項羽でしたが、実に最終的には破れてしまします。「四面楚歌」の故事にあるように、項羽の国であるはずの楚国の多くの兵士も項羽を打とうと項羽を包囲します。
 史記はやはり、後半の列伝が実に面白いわけで、最初の「本紀」などは、どうしても面白いとは思えません。でも、この項羽本紀だけは実に読んでいていいのです。乱暴でただただ戦争に強いだけの項羽にも、実にいいシーンがたくさんあります。やはり、「垓下の歌」には、涙を流してしまいます。

   垓下歌     項羽
 力拔山兮氣蓋世 力は山を抜き 気は世を蓋(おお)う
 時不利兮騅不逝 時利あらず 騅逝(ゆか)ず
 騅不逝兮可奈何 騅の逝ざるを 奈何(いかん)すべき
 虞兮虞兮奈若何 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん

 もちろん、項羽には詩が作れるわけがなく、これは司馬遷が作ったものでしょうが、どうしても項羽と虞美人のことを思ってしまうのです。
 そして項羽は私にも忘れられない英雄です。(2010.09.27)

漢詩で詠む中国歴史物語〈1〉春秋戦国時代~漢時代
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書 名 漢詩で詠む中国歴史物語
    1春秋戦国時代〜漢時代
監 修 陳 舜臣
    松浦友久
執 筆 坂田 新
    松下一男
    守屋 洋
発行所 世界文化社
定 価 3,900円+税
発行日 1996年7月25日発行
読了日 2010年8月25日

  この巻に出てくる漢詩は、いわば詩として作られたとは言えないものも含まれています。「司馬遷『史記刺客列伝』」の易水送別にときの荊軻の述べた言葉を詩のように表現したのは、司馬遷だったことでしょう。
 いや、司馬遷はいくつもの言葉を詩のように表現しています。項羽の『垓下歌』もそうだったでしょう。でも私たちには忘れられない詩になっています。
 いくつもの詩を詠いました私です。

10030517 この日は実に歩きました。でも、いつも背負っている鞄を持たずにいて、両手が塞がっていると、却って不便なものですね。

2010/03/08 07:21今食事をしてから午前8時少し前に出かけます。
 いつも思うのですが、いつでもたくさんのことがありますね。今は妻のデジカメが充電できないというので、私が聞きたいのですが、でも出かけますからね。
2010/03/08 08:54江古田の練馬東税務署の前です。待ち合わせです。ちょうど9時頃到着の予定でしたが、早くつきました。あと3分だなあ。
2010/03/08 09:37今巣鴨です。このポメラは電車の中で片手で打てるのですが、でもきょうのように両手にものを持っていると無理ですね。いつものリュックならいいのですが、これでは駄目ですね(今は座っているからできます)。だからケータイしかないですね。
2010/03/08 18:10長女の家に来ました。きっともうすぐ二人の孫が帰ってきます。そうしたら、私はまた二人を抱きしめます。
 ここまで自転車で来ました。私はいつも一万歩を歩く気持ちなので、必ずここまでは歩くのですが、きょうは江古田ほかを歩きましたからもう13、000歩を超えています。だから自転車で来たのです。
 それで自転車の上で、ずっと呉子のことを考えてきました。司馬遷が史記で呉起のことを書いているのは私には、司馬遷の誤解、あるいは言い過ぎにしか思えないのです。いやこれはまた書いていきましょうね。そして私は呉起が生涯愛した女性は一度妻にした人であり、それをずっと貫いていました。だがその女性を呉起は魯の国を守る為に首を切り落としてしまうのです。そんなことを思えば、私はただただ呉起に涙するばかりです。
 またちゃんと書こうかな。

 電車の中等では、ポメラ(これは座っているとき)とケータイを打っています。それに文庫本も読みました。
 それと、昨日妻のデジカメの故障で、そのメーカーに問い合わせして、午後1時に最初電話して、再度電話したのが、午後3時25分で、電話が来たのが3時50分でした。もうデジカメの充電器の故障なので、水曜日午前引取りにきます。こういうことは実に大変なことですね。
 上の呉起のことはまた別に書かなくちゃなあ、と考えています。

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 それで、まだ書かないとなりません。
 アジア的段階については、ギリシア=ローマの時代が古典古代と言われるものの前の時代だと思われます。ヘロドトスの「歴史」で描かれているペルシア戦争のダレイオス1世やクセルクセス王の側が明らかにアジア的と言われる段階です。
 次のトゥーキューディデスが書いている「歴史」(岩波文庫では「ペロポネソス戦史」という題名になっています)は、この古典古代社会における戦争を描いているのですが、何故かアテナイの敗北までは書いてありません。
 ただこの2つの歴史に関する書物は、古典古代社会であるギリシアとその前のアジア的な社会であるアジアの姿を描いてくれたかと思っています。
 ところで、では実際のアジアである中国では、例えば司馬遷「史記」では、一体このアジア的というのは、どこになるのだろうと思います。まさしく、「史記」で書かれている社会時代は、「アジア的」と言われるものなのでしょうね。
 でもヘーゲルーマルクスのいうアジアとはせいぜいインドまでなのですね。
 でもこの日本ではどうなのだと思うのですね。「吾妻鏡」で描かれている鎌倉幕府が、「玉葉」で書かれている鎌倉時代が、いわゆるアジア的のあとの封建制と言われるものなのかなあ、と思っています。関東御成敗式目がいわば、封建的法とすれば、律令がその前のアジア的なものなのだと言えるのだと思います。

 それでいつも、では「アフリカ的段階」と言われるのはどこなんだ、なんなんだと思ってしまうところです。
 ただ言えるのは、その昔のマルクス主義のいう歴史観では、もう理解外のことであろうと思うのです。マルクス主義のいう歴史観とはエンゲルスーレーニンの言うマルクス主義歴史観です。
 そして私には、いつもここで、島尾敏雄が浮かんできて、そして柳田国男を思い浮かべます。
 私は昔沖縄の太平洋岸の久志という村で、戦後始めて行われたハーリー祭りに参加していて、その舟の上で、そして祭りの最後に村あげての踊りの中で、「こういう姿が、いわゆる『アフリカ的』なものなのかなあ」なんてことを感じていたものです。

  「アフリカ的段階について」の3 に続く

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中島敦の『李陵』で知られている李陵の詩です。この作品の『李陵』には、主人公李陵のほか、先に匈奴に使いして、北辺に閉じ込められる蘇武と、この李陵が匈奴に下ったことを非難する多くの中で、普通に弁護したために、宮刑にあってしまった司馬遷のことが書いてあります。
李陵は、漢の将軍として5千の歩兵を率いて匈奴に遠征しますが、匈奴の8万の騎兵とよく戦い、しかしついには匈奴に降ります。やがて匈奴の王の単于に丁重に扱われ、だがために漢では彼の家族はみな武帝の為に殺されてしまいます。
でも実は彼がこの匈奴に下る1年前に漢の使者として来て、捕まり北辺(シベリア)に囚われている蘇武がいました。
そして実は漢には、李陵を当たり前に弁護して、宮刑に会ってしまった司馬遷がいたのです。
このことは、以下の小説に書いてあります。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1737_14534.html
中島敦『李陵』

その李陵の詩です。

別歌 李陵
徑萬里兮度沙漠 万里(註1)を径(わた)りて 沙漠を度(わた)り、
爲君將兮奮匈奴 君が将と為(な)りて 匈奴に奮(ふる)ふ。
路窮絶兮矢刃摧 路(みち)窮(きはま)り 絶えて 矢刃(しじん)摧(くだ)け、
士衆滅兮名已貴 士衆 滅びて  名已(すで)に貴(註2)つ。
老母已死 老母已(すで)に死せり、
雖欲報恩將安歸 恩に報(むく)いんと欲(ほっ)すと雖(いへど) も                             将  (は)  た 安(いづ)くにか帰(き)せん。

    (註1)萬里(ばんり) 遥かな道程。
(註2)貴(本当はこざとへんに貴、おつ) くずれる、おちる。

遥か彼方へ出かけて、砂漠を渡り、
漢の武将となって、匈奴と奮戦する。
路は行き詰り、矢玉も尽き果て、刀も砕けた、
母はすでに死んだ(実際には武帝に殺された)。
親の恩には報いたと思っているが、はたしてどこにもどればいいのだろう。

中島敦の『李陵』を読まれれば判りますが、李陵のこの匈奴での20年間は実に大変な年月でした。でも思えば、彼はここで確実に生きていけたのかなあ、と私は思うばかりです。

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「メーラーをShuriken」SHIROのポメラ日記の斎藤さんから、以下のコメントがありました。

1. Posted by 斎藤史郎    2009年02月11日 00:17
 「SHIROのポメラ日記」の斎藤です。
トラックバックありがとうございます。
以前、周さんがエディタで文章を書いている話を聞いた時に、「もしかしてVZかWZかな」と思っていました。特にVZは高速・軽量で、DOS時代の最強エディタだったと思います。
そして日本語変換はVJEですか! 懐かしいですね。
私はフリーで配布されていたWXPから、有償版のWXシリーズ(WXII、WXGなど)を愛用していました。地元(長野県)のエーアイソフトが作っていましたし。
残念ながら販売終了してしまったので、ATOKに乗り換えました。

VJEも既に販売終了しているので、今後は困りますね。
ちなみにATOKは、VJEの登録単語を一括読み込みして辞書に登録することができます。キー操作も「VJE風」にできます。
どこかでそうした移行作業が必要かもしれません。

メーラーはGMailなんですね。私はネットの向こうにメールデータがあるのが(トラブルがあった時に)怖いので、パソコン側のソフトを使っています。
ただ、今後のメーラーは、GMailのようなネットサービスが主流になっていくのかもしれません。

 ありがとうございました。
 たしかに私はVZはずっと使っていました。Windows になっても使っていましたね。ただね、すいぶん前に、渋谷のハチ公のそばで、明け方ノートを打っているときに、「やっぱり、これじゃWindowsでは使いにくいな」と思って、その後WZにしたものでした。いや要するに、DOS画面だと暗い画面の中にあるじゃないですよ。真夜中だと少々つらいのです。Windowsなら、白く明るい画面に思えたのです。いえ、真夜中明け方だったから、私は酔っていたものなのですが。
 日本語変換では、WXも使ったことはあるのですが、やはりVJEばかりを律儀に使ってきました。でも、今はないわけで、どうしようかなあ、と真剣に考えてします。ATOKは嫌だし、MS−IMEも嫌なんですね。
「一太郎」って名前も嫌なんだよな。戦前の修身の教科書を思い出してしまうのです。「一太郎やーい」という話ですね。でも、『「VJE風」にできます』ということなら、そうしようかなあ。
 アメリカ帝国主義も嫌だけど、日本帝国主義はもっと嫌いだしなあ。でも、徳島の『鳴門秘帖』を考えればいいんだと思おうかなあ。

 私はもうメールは、Gメールでいいです。あとはケータイメールだけです。過去使ってきた有料のメールもすべてGメールに転送しています。

 私はネットの向こうにメールデータがあるのが(トラブルがあった時に)怖い

ということなのですが、私は「ネットの向こう」にあったほうが安心です。私は過去パソコンは13台自作してきました。
 自作をやめてからも、デスクトップはもう10台目かな。ノートはちょうど8台目くらいです。そもそも、このパソコンの中(HDDの中)に入れておくほうが不安です。インターネットのあちら側に置いておいたほうが安心な気がしますよ。

 私の尊敬する司馬遷という歴史家は、竹簡で膨大なるものを書き上げたときに、自分の頭にあるものよりも、竹簡というものに、移し替えたもののほうを信じたことでしょう。現在の私も、自分のそばにあるパソコンの中よりも、インターネットのあちら側に置いているもののほうが安心です。

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 本日21:20に届いていたHA茶さんの『独楽吟のススメ』です。

「2009/02/04 【No.1777】わたしの独楽吟(どくらくぎん)」を読んでの周の感想。

たのしみは またまた私を 喜ばす 「1777」 幸せなる時

久方ぶりに家に帰ってきてパソコンを開きました。久方ぶりの自分時間です。明日は浜松でお仕事なのです。

 やってね、パソコンを開いてね。司馬遷はどんなことがあっても竹簡に文を書き続けました。私はそのことをけっして忘れません。私は司馬遷には、はるかに及ばない人間ですが、彼のやったことは絶対に忘れません。いや、ずっと倣っていきます。

たのしみは 久方ぶりに わが家に 帰り来たりて 歌作る時

独楽吟をメールマガジンでお届けしたくても 今 条件が整わず 思うに任せません。でも、またいつかきっと、復活するときが来ることでしょう。

 短歌というのは、いつもよく判らないのです。でもHA茶さんの歌ということで、ただただ私は反応するのです。いつもただただ嬉しくなるのです。

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 漢の武帝(BC156〜87)は、前漢王朝の第7代の天子で、姓は劉、名は徹。16歳で即位し、在位期間は54年の長きにおよんだ。この作品は、武帝44歳のときの作品です。

   秋風辭      漢武帝
  秋風起兮白雲飛  秋風起こりて 白雲飛び
  草木黄落兮雁南歸 草木黄落(こうらく)して 雁南に帰る
  蘭有秀兮菊有芳  蘭(らん)に秀(はな)有り 菊に芳(かおり)有り
  懷佳人兮不能忘  佳人を憶うて 忘るる能(あた)はず
  泛樓船兮濟汾河  楼船(註1)を泛(うか)べて 汾河(註2)を濟り
  埣耄兮揚素波  中流に圓燭呂蠅董〜杷函蔽陦魁砲鰺箸
  簫鼓鳴兮發棹歌  簫鼓鳴りて 棹歌を発す
  歡樂極兮哀情多  歓楽極りて 哀情多し
  少壯幾時兮奈老何 少壮幾時ぞ 老いを奈何せん

  (註1)楼船(ろうせん) 二階造りの船。屋形船。
  (註2)汾河(ふんが) 黄河の支流。汾水。
  (註3)素波(そは) 白い波。

  秋風が立って白雲が飛び、
  草木は黄ばんだ葉を落として雁が南に歸る。
  蘭や菊が香るこの季節、
  美人を思い起こして忘れることができない。
  楼船を泛べて汾河を渡り、
  中流に横たわって白い波をあげる、
  簫と太鼓を鳴らせば、舟歌が起こる。
  歓楽が極まるうちにもなぜか憂いの思いが多くなる
  若いときはいつまでも続かぬ、老いていく身をどうしていこうか。

 この皇帝のときに、前漢が最隆盛の時代を迎えます。漢の高祖でも成し遂げられなかった匈奴を打ち破り、西域をも漢の支配権下に置きます。

 だが、この武帝の周りは、すべて帝を礼賛する臣下だけが集まり、匈奴と雄々しく戦った李陵を彼が匈奴に下ったからということで、妻子まで殺害し、さらにこの李陵をかばった知人の司馬遷を宮刑にしました。李陵は無実であり、司馬遷はどんな悔しい思いで生き延びたことでしょうか。そして、この皇帝のときに匈奴に使いした蘇武は、19年間バイカル湖のほとり送られていましたが(雄の羊が乳を出したら、漢に帰してやると匈奴が言ったといいます)、この武帝の死後次の昭帝のときに、帰国できました。
 この蘇武と李陵が一緒に詠った詩が今も残されています。
 そして李陵の無実を普通に言っただけでしたが、重い刑罰を受けてしまった司馬遷は、間違いなく悔しさの中で、『史記』を作りあげます。この時代は、まだ紙のない時代です。竹を切って、その竹の裏に書いたものが、この『史記』なのです。今読んでも、あれほどの膨大な歴史書は他には考えられません。
 したがって、どうにも私には好きになれない、この武帝ですが、この詩は、なかなかいいものだなあ、ということだけは感じています。

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07080302 ナミちゃんのブログの、老人ホームにボランティア! に次のことが書いてありました。

あとっ!やっちゃいました。
ブログ初心者の私・・書庫を作って今までの記事えお振り分け作業を
していた時に???あれっつ?あれっつ?おかしい・・

・・遅しでした・・間違えて、勘違いをして削除してしまいました。
ガ〜ン!ショックで〜す。記事を二つ〜です。
そこにはトラックバックの記事やコメントもあります。
記事一覧でコメントは残っていますが・・ごめんなさい。残念です。
記事は復活します。大体おおざっぱですが記憶にあります・
こういう事が起きるのですね。

 これを私が知ったときに、「あれ! ナミちゃんもブログに直接書いていたんだなあ。そうだと復活できないよ」と思いました。事実、「大体おおざっぱですが記憶にあります」ということになっちゃいましたね。
 私は、もう昔から、必ずまずエディタ(今はWZです。その前はVZを長く使っていました)で、書いてから、ブログにつないで、その部屋に貼り付けます。これはブログでなくても同じです。その相手のブログにコメントするときも、どこかの掲示板に書き込むときも、ホームページを更新するときも同じです。
 このことは、書込みをするときの鉄則 に書きました。そこに書きましたように、これはインターネットの前のパソコン通信の時代も、その前の時代でも同じです。

相談した周さんはエディタに書いてから貼り付けをするそうです、
これ・・司馬遷の時代から鉄則らしいです。
ブログに直接書くクセは危険という事です。
なるほど・・山勘で動いている私はまいった!まいった!でした。

 司馬遷は、あの時代に、「史記」という膨大なる歴史書を書きました。「本紀、表、書、世家篇」とありますが、圧巻は「列伝」です。これがなかったら、単に「史記」は紀伝体の本だというだけだったでしょう。でもこの「列伝」で、私たちは、孔子のことも、孟子のことも、孫子のことも呉子のことも知ることができるのです。
 この時代は、まだ紙がありません。すべて竹簡に書いたものです。なんと膨大な竹簡に書き上げたものなのでしょうか。そして、おそらく司馬遷が書いた「史記」は、もともとあの10倍の量があったのでは、と私は推測しています。それを推敲して、推敲して、あの量にしたのです。
 司馬遷は、中国全土を歩きました。そして各地の伝承、記録を書いていきます。そしてそれをさらに推敲して、あれだけにまとめ上たのです。直接、本文に書いていったわけではなく、書いたものを、本文としてまとめあげたのです。
 だから、それが今も、このインターネットでも同じだと思うのです。エディタで書いていって、自分のパソコン内(私の場合は、自分の外付けHDに)に整理しておきます。また書き直す内容になるでしょう。そしてそれをブログにUPするのです。
 ただし、これは司馬遷も同じだったでしょうが、必ずその最初パソコン内に書くときも、それは本もの(実際に最終的にUPするもの)として書いていきます。その中でいくつも推敲して直しているのです。ここのところは、司馬遷よりも数段私たちのほうが楽です。簡単にできます。もう司馬遷に、私たちのような道具(パソコンやインターネット)があれば、「史記」はもっと膨大なもの(数・量が多いだけではなく、画像も音声も入ってもっとすごい記録になっていたでしょう)になっていたはずです。
 だから、いつでも真剣に気合いを入れてやっていますが、すぐに訂正追加できるように、まずは自分のパソコン内に書くのです。それで訂正追加ののちに、UPします。エディタで貼り付けるのですね。
 でもそのあとでも、また訂正追加していきます。このところは、司馬遷では、簡単にできないところで、彼が今のことことを知ったら、ただただ私たちの時代、私たちの技術が羨ましいはずです。
 だから、今がそんな時代で、そんなに私たちは恵まれているのですから、ぜひともこのブログくらいは、ぜひ多くの方にやってほしいなと私は思っています。

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 私の メール苦手だから の2塾長のブログ さんから次のコメントをいただきました。

1. Posted by 本山 俊光    2006年09月27日 10:47
 TBありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
 わたしの記事の中の、「コミニュケーションが取れている2人なら」の部分ですが、元記事の文面を見てみると、メールを滅多に返さない彼女とのやり取りが面白く書かれていましたね。
 私はその場面を思い浮かべてみましたが、なんともいえず、クスリと笑ってしまいました。
 このカップルの場合、2人のコミニュケーションのツールがメールだけであったなら、返信も滞りがちの彼女と交際が長続きするはずがないなと思いました。にもかかわらず、交際を続けているようなので、きっと、毎日デートしたり、電話でやり取りしたりしながら交際を続けているのだなと感じました。

2. Posted by 本山 俊光    2006年09月27日 10:48
最近は携帯電話といっても電話の機能よりもメール機能を重視しているかたが多くいらっしゃるように聞いております。(私自身は携帯電話を持っておりませんが)
 そんな中で、2人の会話?をメールで済ませることなしに、実際に会ったり、電話で肉声を聞いたりして交際を続けているのだろうなと推測できましたので、「そういう彼女にめぐり合ったのは幸せだよ」という文面になったわけです。
 お解り頂けたでしょうか。
 では、末筆になりましたが、これからもよろしくどうぞ。

 了解しました。丁寧にありがとうございます。

 私はですね、ちょうど先週の木曜日に、私のクライアントの経理の女性と仕事のあと、飲んでいました。彼女は3人の男の子がいまして、私は2人の女の子です。
 その息子たち娘たちとのケータイメールの話になりました。彼らはメールどころか電話もかけてこないようです。長男の方は、就職して仙台に独りで住んでいるのに、お母さんには全然連絡しないのですね。
 そのときに、私はケータイメールで頻繁に連絡していることをいいました。もちろん、この彼女とも仕事上でも、その他のことでもケータイメールでやりとりしていますよ。
 それで、でも彼女は、私よりも10歳年下なのですが、つい「こうしてパソコンやケータイでメールなんて言っても、私はあまりこういうのに向いていないの」なんていいますので、私はついつい酒の勢いもありまして、喋りました。

 司馬遷が、いかに竹簡にあの膨大な「史記」を書いていったことなのか。屈原の「楚辞」は実はもともと、岩を穿って書かれていたものだということ。司馬遷がこの歴史書を書いたことは、そもそも彼が宮刑にあってしまった事件にあり、それは李陵が匈奴に屈したことが(司馬遷はそれを武帝の前で普通に擁護した。ほぼ李陵のことを彼は知らなかったわけだが)、理由になっている。その李陵と、匈奴によって19年間シベリアに抑留された蘇武が出会って二人で作った詩がいい。「アベラールとエロイーズ」の書簡がどうしていいのか。「十六夜日記」は鎌倉時代に60歳近くの女性が土地の訴訟で、播磨から鎌倉までの旅行記だが、これがなぜいいのか。
 あともう一つ話しましたが、ようするに、みな実に大変だったけれど、やり抜いたのです。当時の手段で、懸命に記したのです。

 もしももしも、これらの時代にケータイメールがあったら、彼ら彼女たちは、もっとたくさんのものを私たちに残してくれたはずです。だから、こんな便利で楽な手段はもっと使うべきなのです。司馬遷の前で、私は頭が下がるばかりです。

 そんな思いの中で、私は、このカップルもケータイメールで二人の愛を確認できているのはいいと思ったのです。
 私は、妻とはほぼ会話がありません。でも、ケータイメールを交わすことによって、どうやらこれが二人の愛になっている気がしています。

 若い二人が、普段会って、愛をたしかめたくさんお喋りしたとしても、また電話をするだろうし、そしてまたケータイメールを求めるのも私にはよく判る気持なのです。

 本山さん、ありがとうございました。
 あのですね。私も昔学習塾(といいますよりも進学教室でした)をやっていましたよ。あの頃の生徒たちをよく思い浮かべています。

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司馬遷―史記の世界
書 名 司馬遷史記の世界
著 者 武田泰淳
発行所 講談社
定 価 380円(この値段は、古書の1968年版のものです)
発行日 1968年6月5日第1刷発行
読了日 2006年8月17日

 ちょうど湯西川温泉に家族で行った帰りに、ケータイブログを書いていたのだが、ケータイが電池切れで使えなくなった帰りの東武電車の中で、これを読み終わりました。読み終わったのが春日部駅でした。
 この本は義父の本棚を整理していて見つけて、「あ、義父も読んでいたんだ」と思っていたのですが、この電車の中で読み終わったときに、最後のページで赤羽の古書店「紅谷書店」のシールを見て、「あ、これは俺の本だったんだ」と気がつきました。いや、義父の本棚には、いくつも「あ、義父も読んでいたんだ」と思って、それを開けて見ていくと、それが私の本だということが、もう何冊もあります。

 私は1968年の秋、ちょうど学生運動で忙しいときに、紅谷で購入して読んでいたことを思い出しました。思い出せば、この本を読んだ数ヶ月後、私は東大闘争で逮捕起訴され、刑務所の独房に勾留されることになり、その中で、同じく前漢の武帝の時代に、獄に繋がれ、宮刑というおぞましい刑を受けた、司馬遷の思いをいつも、考えていたものでした。

 そして今回「任安に報ずるの書」は、前にも読んでいるはず(といっても37年前なのだが)なのですが、今回また新しく読んでいるような気になりました。司馬遷は、自分が庇うことにより、武帝の怒りを買うことになった李陵のことを書いています。司馬遷には、この李陵のことは決してそれほど親しい関係ではありませんでした。それでも司馬遷は彼のために当たり前のことを弁じます。

 私は李陵と共に、同一門下には居ましたが、もとからの親友ではありませぬ。行動も各々異なっていましたし、盃をあげ、酒を飲んで、友情をあたためたこととてありません。しかしながら、私が彼の人となりを観察するに、生まれつきの奇士でありました。親につかえて孝、士と交わって信、財物に対すること廉、取ること与えることに義、何かにつけて人に譲り、恭倹にして、へりくだっていました。常々奮発してわが身をかえりみず、以て国家の急に殉ぜんとの心は、彼の胸中に蓄積されてありました。李陵には国士の風がある、そう私は考えていました。(中略)
 しかるに今、この彼は、事を挙げて、一度失敗したからとて、一身の安全をはかり、妻子を安泰ならしめている官吏共が、その非を責めて罪におとしいれんとするのは、小生の私情、真に忍びえぬ悲しみであります。
 そればかりではありません。李陵は五千に足らぬ歩兵をひきつれ、匈奴戎馬の地深くすすみ、
(後略)
(いやもっと引用したいのですが、漢字が出てきません。それでここまでとしました)

 そして、司馬遷は、それほど親しい関係でもなかった李陵のことを普通に弁じたのですが、それがために、獄につながれます。そして武帝の怒りのために獄に繋がれ、そして死刑よりもつらい刑を受けてしまいます。

 司馬遷は生き恥さらした男である。士人として普通なら生きながられる筈のない場合に、この男は生き残った。口惜しい、残念至極、情けなや、進退谷まった、と知りながら、おめおめと生きていた。(第一篇司馬遷伝)

 これは最初に書かれている文です。
 でもこの悔しさの中で、司馬遷が生きることにより、あの「史記」を書きあげました。もし、彼がこの悔しさの中で生きることをしなかったら、私たちは、あの「史記」を目にすることはできなかったのです。
 ヘロドトスの「歴史」、トゥーキューディテスの「歴史」を読んでいますと、やはりギリシア人の、歴史に対するものすごい情熱を感じます。だが、この司馬遷の「史記」こそ、素晴らしいものです。私は思うのには、ヘロドトスもトゥーキューディテスも素晴らしいのですが、「史記」の「列伝」にあたるものはないと言いきれるかと思います。
 いや、もっと私が今回も感じたことがあります。「列伝」の最初に「伯夷列伝」を置いたわけ、「史記」の「表」の意味(私は「表」なんて少しもわけが判りませんでした)、司馬遷は、孔子よりも、老子のほうに親しみがあったのではないかということ、………………、その他いくつものことを、あらためて読んでいました。

 いや、ここでいくつも書きまして、この本は他の本と同じで、捨てようと思っていました(いや、今回はいい本だけれど、何冊も捨てました)。でも、これでは捨てられないなあ。
 そして司馬遷をまた思います。そして武田泰淳をまた思います。

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