将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:吉本隆明ワールド

12060202 私が、過去の私の将門Webに書いていた「吉本隆明鈔集」は終わりました。
 最初の「吉本隆明鈔集1」を書いたのが、2010.10.24のことでした。もちろん、それ以前には、ここで書いていましたから、私の「吉本隆明鈔集」は、現在700を超える量になっています。
 今後はまた書いていくことになりますが、今までのように、毎日UPするわけにはいかないと思います。

12060103 身体の運動性がにぶくなってくるとともに、精神現象が身体に対して内向してくる。それまで、自己の身体に関心をもつのは怪我か病気のときだけだったのに、内向の度合いが、だんだんと増してゆく。そして、内向の程度が精神の半分以上になったとき、老齢の自意識が始まるのだという気がする。この自意識がどれだけ続くのか、外の人間社会の関係に戻るのかは、個人的にちがってくるだろう。わたし自身を振り返ってみると、飽きもせず現在も続いている。まるで少年がはじめてのことにぶつかったような調子で、まだ <考えること> が存在している。そして、決してこの精神状態をあなどったり軽んじたりする気にはなれない。しかし、青春期から成人期の前半くらいの活動の盛んな人からみたら、ばかげたことに精力をさいていると思うに違いない。わたし自身もそうだったし、もっと悪たれていえば、無関心に近かったと言うべきかもしれない。それでいいのだ。
『老いの超え方』2006.5.30「あとがき」朝日新聞社

 私もこの1年くらい前(これは2005年くらいの時です)から、気持が内向していると思います。内向で自己の人体の具合の悪さを気にするようになった。こんなことはかって私には無かった経験なのです。不思儀に思うと同時に、こうして吉本さんの言葉を読むと、私もまた誰もがたどってきた道を歩いていることを確認すると同時に、「でも同じようにすましてはいかないぞ」とばかり思っているところです。

12053109 ご老人というのは、普遍的にみんなそうではないかと思いますが、三時間から五時間が一眠りで、それ以上は目が覚めてしまいます。目が覚めてしまうとどうするかということが問題です。僕はうまくいく場合は、起きてしまったときに、暑かったら着替えをしたり、ズボン下を脱いだりして、二度寝をします。それからだいたい朝一〇時頃に目が覚めると、起きてしまってお風呂にでも入るというふうになります。それがなかなか口通りに行かなくて、三度寝になって、起きたらもう昼の一時半になって、あわてるということもあります。
『老いの超え方』2006.5.30朝日新聞社「第一部身体 第三章生活」

 私はもちろん、まだ老人とはいえない年齢(現在2012.06.01は一昨日が私の64歳の誕生日でした)であるわけですが、でも読んでいて、いつも頷いてしまいます。今私は昔のように4時間の睡眠ですむというわけではないですが、年をとったから、まさしく5時間が一眠りという感じです。よく朝5時代に起きています。そして6時すぎて、風呂へ入って、そのあとすぐ外へ散歩に行きます。そしていつも、その前後、こうして文章を書いています。まだ二度寝というのはしませんが、やがてそうなるのでしょうね。

12052906 充実させるには黙っているに限るとか、僕らだったら商売柄、それは書くに限るということですね。しゃべるのではなく書いているときの充実感というのがあって、書きながらしかものは考えられないものだと、そういうふうにしてしまっていますから。僕らは、もちろんしゃべるよりも書くのがいいし、言葉があるよりないほうが価値が、体の中充満するような感じになります。
 これは学者さんと違うところで、学者さんは頭で考えて、頭で進めていきますが、僕らは書かなくては思い起こせないということもありますし、書くから解決が出てきたということもあります。そういうのはちゃんと文章の中に入っていなかったら学者さんの文章になってしまいます。だから、僕らは手で書き、手で感じるというふうになっているんですね。
『老いの超え方』2006.5.30朝日新聞社「第一部身体」

 これは実にいいことを吉本さんが言われているなと感激しました。やはり私も、こうしてメルマガを書いたりブログを書いたりしている中でいつも考えているようになっています。こうして手で文章を書いているときにこそ、新しい考えが浮かんでいるのです。

12052804 これは、漱石の小説みたいな、特に『ぼっちゃん』に出てくる、坊っちゃんをかばってくれる老女がいます。お手伝いさんというか、ばあやさんですね。そういうのがいます。それが漱石の年取ったときの理想の人だったんでしょうね。そういうふうに書かれているから。若いときに、兄に将棋の駒をぶつけたら血が出た。それでおやじに言いつけられて、おやじから勘当を言い渡されたときに、その老女は、「私が代わりに謝るから許してやってください。この坊っちゃんは、素直で正直でとてもいい人柄です」と言って、かばってくれた。坊っちゃんが松山に行くときには、「坊っちゃん、偉くなったら私をまた雇ってくださいね」と親戚の家に身を寄せます。でも坊っちゃんはちっとも偉くならないで、先生を辞めて鉄道職員か何かになります。「ばあや、帰ったよ」と尋ねていくと喜んで、坊っちゃんも「じゃあ一緒に暮らそう」と。そういう人がいいですね。文句なしですね。
『老いの超え方』2006.5.30朝日新聞社「第一部身体」

 このことは、実は私にはよく理解できないことでした。「坊っちゃん」は少しも面白い小説ではなく、ばあやさんのことも理解できませんでした。なんだか、少し暗くて、私が溶け込めない小説にしか思えませんでした。でも今になって、すべてが判ってきたような気持になりました。漱石には、あのばあやが理想だったのでしょうね。そして吉本さんにも同じなのです。それが私は今になって、やっと理解できた気がしています。年を取るということは、無駄なことではないのですね。

12052802 老人になると医者がいうように運動性は鈍くなるし足腰は痛くなる。それは確かにそうです。だけどそれは通り一遍の理解の仕方ですね。それに精神を加えるとそれらの状態が極端に出てくることを実感するんです。要するに老人とは何かというと、人間じゃない、「超人間」だと理解するんです。動物と比べると人間は反省する。動物は反射的に動く。人間はそうではない。
 確かに感覚器官や運動器官は鈍くなります。でも、その鈍くなったことを別な意味で言うと、何かしようと思ったということと実際にするということとの分離が大きくなってきているという特徴なんですよ。だから、老人というのは「超人間」と言ったほうがいいのです。
『老いの超え方』2006.5.30朝日新聞社

 たった今義母の介護に拘わっている私には、なんだかとても頷いていることですし、そしてまたこのことを判りきっていけないところが私の側の問題です。思えば私たちは、この「超人間」の言動にかなり振り回されてしまうものなのです。でもやらなくちゃいけないんだ。さまざまなことは私たちこそが引き受ければいいんだ、と私は決意を新たにしています。(これは今2013.05.29のことではありません。義母は今年2013年の2月10日に亡くなりました。)

12052607「お前から専門のことを除いたら何が残るんだ?」といったら、「人間力が残るさ」ということです。つまり人間の理想の可能性というものをかんがえる力や実現する力といったものは残る。そのほうがただ「専門にしていることは残るよ」というよりはいい。ぼくはそういうかんがえをこの頃はいいますね。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」

 これはやはり私には実に心強い言葉です。自分のやっている専門のことよりも、この人間力こそが残る、いや残るような人間力をこそ切磋琢磨しなければならないんだよな、と考えています。

12052603 たとえば極端なことをいうと、法律的な違反をしようとしまいと、そんなことは自由である。だけど違反したことが社会的な意味合いでほかに影響を与えてしまうのであったら、その個人 <自己としての自己> というのは利己的な自己ということになってしまう。こうなったとき、はじめて倫理的な部分が問われる。そういうことというのは、はっきりしておかないといけないですね。
 はっきりさせるにはどうすればいいんだというと、はじめから自分のなかではその分離が自覚されていて、それが行為なり思想なりとして出てくるというふうになれば、社会的に何かを問われるような、そういう過剰さや過小さというのは出てこない。
 だから「分離というのは人間力なんだ」という自覚をはじめに持っているかぎりは、出てくる自己は個人主義的であろうと、その個人主義が社会的に何かを問われることになろうと、そういうことに対して混同が起こることはない。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」

 いや、何度読みましても、私が理解できえているのかというのははなはだ自信のないことです。今の私は何度も読み返して、現実の世界に当てはめて何度も自分に問い返していかないとならないでしょう。

12052501 <自己としての自己> あるいは <個人としての個人> (個人主義といってもいいんですけれど)というものは、たとえば政治家になろうと、実業家になろうと、学者になろうと、それはもう誰からもまったく制約されない、自由であるというふうになります。徹底的にそうかんがえたほうがいい。それをはじめから倫理的にいろんな制約をつくるようなかんがえ方をしたはだめであって、それはもうそれでいいんだとかんがえたほうがいいですね。政治家なり学者なり実業家になって、社会的な意味において <自己> というものを問うたときに、それが過剰だったり過小だったりということでもってほかに累を及ぼしてしまうというのだったら、そのときはじめて <個人としての個人> は批判、否定の対象となる。だけど <個人としての個人> というのを純粋にとり出した場合には、それはもう何になろうと何をしようと自由であるということです。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」

 このことは、そういうふうに考えるように生きてきたつもりですが、もっと徹底して自分でそう考えていこうと思いました。ただ、これは吉本さんには、前々から吉本さんの核に存在する考え方のように思えます。徹底して自分は自由であると考え尽くすことが大事だなと私は思っています。

12052404 このかんがえを最後のところまで突きつめていくと、存在あるいは存在根拠というのが問われてしまう。その問われた場合には、つまり自分と外とのかかわり、他者との関係とか時代との関係といったあらゆる関係がぜんぶどこかに集約されて、集約されていながらその区別はきちっとついているという状態が、ぼくらが現在望み得る人間力としての最後の問題なんだとおもいます。だけど「終え前できているか?」といわれればとんでもない話で、しばしば逸脱している。
 そのことは自覚したうえで、でもそこまで集約できれば、それは現在であるかぎりは最後の問題がそこに集約されてしまう。そしてそれは一種の存在することの問題に帰着してしまう。そこまでうまくいけばいいわけだけど、いけないないのが今の状態なんです。かんがえだけでも、あるいは精神だけでもそこまでいきたいといっても、いまとってもいける根拠がない。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」

 この最後の問題が、「存在倫理」だという。だが今の私には、とても判断理解できていないことである。吉本さんは、「なかなか難しいことになっている」と言われているが、私には、まず理解することから難しいことです。ただ、「こんなことなのかな」という思いだけはあるのです。だが、やはり自分の言葉では説明できないことにいらだってしまうのです。

12052310 ぼくは親鸞以外でいうとフーコーが好きなんです。やはりとても似ているところがあって、違う発想がありますね。ぼくなんかは、 <自己としての自己> なんていうわけのわからない言葉を使うけれど、フーコーは <自己への配慮> ということをいっています。
(『主体の解釈学』筑摩書房、『性の歴史  自己への配慮』新潮社
 その「配慮」という言葉は、哲学語としてはないんです。自己的でもないし、社会的でもない。ふたつの自己がはっきり分離されているという意味合いに通ずる形で <自己への配慮> という言葉を使っている。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」

 フーコーの本は読んでも私には、いつも判りにくいだけでした。ただ、いつも吉本さんの言われることから、フーコーを理解しようとしてきています。そして今どうしてもうまく理解できていない自分を感じてしまっています。いや、ようするに私が明確に説明できないと私は大変に不満なのです。

12052012 結局、根本的にこの <自己としての自己> と <社会的自己> との分別あるいは分離というものを自覚していくしかない。それはいわば人間力を意識するということになるとおもいます。それができると、その精神性が外に現れたときには社会化して、 <自己としての自己> あるいは <個人的な自己> と混同することはあり得ない。外と内を混同することはありえない。あくまでふたつの自己の分離を自分のなかで自覚しないといけないわけです。その自覚というのは、ぼくの言葉でいうと人間力ということ自体の問題だというふうになってしまうんですね。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」

 私が自覚できているはずだと思い込んでいる「人間力」ですが、でもよくよく考えると、このことができ得ているのかということを、絶えず自分に問うていかなければならないなと気がつきました。

12052101 一般的に文化というのは、食べることと笑うことが肝心で、そればっかりやっているようになってきたら、だんだんどんづまりまできたのかなというふうにおもいますし、実際、状況としてはどんづまりです。だけどどんづまりで何が残ったかというと、本能的にいちばん肝心だとおもうことだけが残っているというふうに、あからさまになってきちゃったかなという感じですね。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」

 今の私は、ほぼ毎日酒を飲んでいた生活からは抜け出した感じです。そして、今は実にいろいろなものを食べるようになりました。そうすると、いろいろと新しいことに出会っている感じがしています。これは実に長い間私が知らなかったことに毎日触れられているのです。実に驚いているばかりです。

12051905 いまテレビでいちばん多いのは食いものの話ですね。芸にもなっていない若い芸能人が出てきて、何か食っては「うめぇ」とかいっている。そうじゃなければ、お笑い番組です。もちろんそれは人間の非常に大切な要素だから結構なことなんだけれど、「これだけかぁ?」というふうになってくると、どうでしょうかね。
 これも別な視点に裏返せば、とうとうどん底まできたよなってしまいますね。人間が生きる上でいちばん肝心なことしかテレビでやらないんです。肝心なことは何かといったら、お笑いと食べることになりますね。
 でもまず美味いか不味いかなんていうのはほんとうに食ってみなければわからないし、人によっても違うわけです。お笑いだって同じことで、誰でもちょっとしたことについて笑えるときもあるし、相当深刻でも笑えることもあります。逆に笑いというものの幅というか、時代の層が厚くなってきているということもありますね。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」

 たしかにテレビを見ていると、このお笑い芸人が食いものに関係したことをやるということが実に多いように思います。そしてその食いものについての表現の方が大変に多くなったように感じています。これは、なんだか、「なんだかこれだけなのか」と思うところと、それでも、「じゃ、俺はこれに類したことを、どう表現できるのかな」ということをいつも考えています。

12051810 だけどぼくらの場合は批評の要素としてふたつのことがあります。
 ひとつは、作品はいずれにしろその作者のところに収斂するから、作者がどのような思想を持っているか、どのように思想を持っているかということ。どういう思想を持っているからこういう表現になるんだというふうな読み方です。
 もうひとつは、あの人たちは頭でかんがえる学問だから頭でかんがえるのでしょうが、ぼくらは文芸批評という「手」でかんがえる。これはもう全然違うんですよ。どこでどう違っちゃうかというと、だんだん年をとってくるとわかるんです。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「環相の視座から」

 私もずっと「手」でかんがえるというやり方をして来た気がしています。そしてそのことが私には一番いいことを私自身にもたらしてくれていた思いがします。それは昔から手紙をよく書いていたことでしたし、そしてパソコンを使い始めてからはより私の思いを書いてきた思いがしています。この手で書くということが、実に私にはいろいろなことを与えてくれてきたと思っています。私もこのことは、よく年をとれたといえるのかな。

12051802 ぼくは学問というのは本気でやったことがないんです。文学でも、自分の文学批評はやるけど、文学を研究することはやったことはないんですね。必要だから調べたりはするけれど、それ以上に関心を持つことはない。文芸批評であれば、その作品に批評をつければいい。もちろん批評の方法というのはあるでしょうが、そのほうが目的であって、文学の作品や作者を土台に自分の学問を深めていこうというかんがえは、あまりぼくにはありませんね。
(『還りのことば』2006.5.1雲母書房「環相の視座から」

 これは吉本さんのやる大事な方法なんだなと思いました。そしてこのことは、次に吉本さんが述べられていることにつながります。頭で考える学問をやるのではなく、手を動かして、手で考えるということです。

12051713 わたしは現在、老齢だといっていい。神社やお寺の境内の樹木には「ボールなげ」の禁止や、お寺の墓地で「遊ぶべからず」の札がぶら下がっていたりする。これでは時代を追って神仏が始源の精神活動の根元だったことを振り返る認識を持つはずがない。わたしは信仰がないから形態的僧俗にことさら関心をもっていない。けれど人間の精神活動の始源としての宗教への考察は持続している。それにもかかわらず、宗教家自体は衰弱を加えるばかりのように思える。現在の状況では、宗教家が宗教を解体できる言葉で考え、現在にこだわる思想が精神活動の人類的な始源に対する考察を深めてゆくことで、接点を明確にするよりほかに方法がないと思える。
(『還りのことば』2006.5.1雲母書房「まえがき」

 私も今たしかに老齢です。ただそれでも私もやはり「現在にこだわっています。そしてこの「こだわり」はまだまだ続いていきます。このこだわりをなくすときは、もう私が世界に関心がなくなっているときでしょう。

12051712 宗教というのは人間(人類)の精神的活動の始源になったものだ。これは様々な形をとって現在(二〇〇六年)にまで至っているが、大別すればその変遷は二つにわかれるといえよう。ひとつは外形を著しく変化させて倫理道徳になったり、さらに法律になったり、民族国家やその下の日常的な生活社会になったりして現在に至っている。もうひとつの精神活動は外形は宗教の形をとりながら、キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教、儒教や神道など、地域種族のちがいによって、さまざまな宗教を生み出している。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「まえがき」

 これほど明確によく言いきってくれているものです。概念としては判っているつもりでしたが、こうして言葉で書かれるとはっきりしてきた思いが私にはしています。宗教の中で、いろいろな形があることよりも、宗教が、倫理道徳になったり、法律になった元なのだということが今の私にははっきりしてきている思いがします。

12051507 思春期は性的な事柄が完全に生活のなかに入ってくる時期だ。幼少年少女期を「遊び」の時期とすれば、「性」が生活の全体を占めている時期ともいえる。「性」への関心の一部を割いて、高校から大学への歩を進める。または義務教育を終えて、一般社会での賃労働に従う部分もあるといえる。学校教育でいえば高校生から大学生に移行する時期、そのあたりを「思春期」と呼べば、そこでは完全に「性」が日常生活の体験のすべてに入ってくる。
「家族のゆくえ」2006.3.1光文社『第三章 性の情操が入ってくる───【前思春期・思春期】

 自分のことを思い出しても、このことはまったく頷いてしまいます。私の青春も、学生運動ばかりにあけくれていたように私自身も思い出いがちですが、同時にというか、それ以上に大きく私の中を占めていたのは、性とそしてその相手との愛の問題です。思えば、私の思春期とでもいうのは、19歳から25歳くらいのときだったと思いますが、闘っていた学生運動よりも、この性と愛のことが一番私の心を占めていたように思い出されま
す。

12051418 本居宣長は、神話は神話としてそのまま受け止めるべきだと、『古事記伝』のなかで述べている。折口信夫は神話について宣長とまったくちがった考え方をとっている。神話は諸国を流離する自分たちの境遇に似せてつくったものだと類推して創造したと見做している。神話の英雄も流浪するのだと、ひとつのクッションをおいた解釈をとっているとおもえる。景行の次子の倭建命も流浪する。神話の初代天皇とされる神武天皇も九州の高千穂地方から大和地方までの遠征の旅を、途中で滞在しながら、長い年月をかけて歩いてきたことになっている。これは諸国の民謡を唐突に「撃ちてしやまん」と結びつけていることからも推測できると、わたしは考えている。
 そういうところの勘は鋭い人だった。
「家族のゆくえ」2006.3.1光文社『第三章 性の情操が入ってくる───【前思春期・思春期】

 この吉本さんの言葉で、また「あそうなんだ」と折口信夫さんに関して判った気持になってくる。そして、こうしたところが、折口さんがまた戦後批判されてしまったところでもあるのだろう。でも、これはやはり折口さんの鋭く優れたところだなと私は深くうなずいています。

12051304 倭建命の物語は神話か事実の話かわからない。ただ日本の神話のなかでは唯一人間らしい匂いがするものだ。登場する人間の性格形成としても、いちばん具体性をもっている。戦前・戦中の日本浪漫派がもっとも力を入れたところだった。
 折口信夫は自己劇化としてこれを自らの宿命とみなしたのではないか。これがわたしの推測である。
「家族のゆくえ」2006.3.1光文社『第三章 性の情操が入ってくる───【前思春期・思春期】

12051401 なんだか、私はこの吉本さんの言葉で、始めて倭建命の物語が判った気がしています。そして折口信夫という人は、それが自らの身体で判ろうとしたのでしょうね。折口さんに私がたどり着けるのはいつのことになるのでしょうか。

1205121212051213 桑原武夫は俳句を作者名なしに並べてみせ、しらべれば芭蕉の句とありふれた俳人の句とを区別できないではないか。これは俳句などが第二芸術である所以だという論議を展開した。桑原武夫の意中にはたとえばバルザックの長編小説やドストエフスキーの作品があったのではないかとおもう。小林英夫は作者名も出さずに俳句を並べてみせれば芭蕉の俳句も常識的な俳人の作品もさして区別もできないというが、それは芸術の価値を内容の複雑さや形式的な大きさと勘ちがいしているのだ、芭蕉の詩魂は並の俳人に負けやしないと、バルザックやドストエフスキーの魂のリアリティにも負けないのだという考え方を述べた。私には優劣の論議の仕方が不充分だと思えるので要約すれば、作品の意味内容と作品の芸術的な価値とは別概念で、混同して論議はできないということに帰着すると思える。
2006.1.31思潮社『詩学叙説』あとがき

 昔桑原武夫が述べたときに、「何を言い出すのかな」と思ったのですが、その言っていることには反論することも思いもよりませんでした。でもこ吉本さんの言われることで、あのときの私の不明さが今充分理解できた思いがします。

2017010908

1205110312051104 勝海舟は現在知られているかぎりで、和歌・漢詩・俳句・長歌・歌曲(琵琶歌)などをのこしている。「おれは一体文学が大嫌いだ。詩でも、歌でも、発句でも、皆でたらめだ、何一つ修業した事はない」とうそぶいているように、海舟の和歌・漢詩・俳句・長歌などのうちとるべきものは皆無にちかいといっていい。ただ、青年時代に訳詩「思ひやつれし君」ひとつをのこしている。
「新体詩まで」2006.1.31思潮社『詩学叙説』

 これを読んで、すぐに伝えたい人がいます。彼は勝海舟の漢文の碑の書き下しとその意味をきかれたのですが、そしてそれをやって提出したのですが、100%はよく判らなかったそうです。でもそれがいわば正解ですね。でも、そのことの訳が判らない人ばかりなように思います。

12051013 日本の近代詩が七・五調の音数律を捨て去って韻律を内在化したとき、その内在化に見合った直喩や暗喩の喩法を成り立たせた。そして同時に言語の音律からも解放された。これが多分、近代以後、詩が音数律を失ったいちばん重要な代償だったと思える。もちろん七・五の音数律を失うべき理由を手にしたあとでも、蒲原有明や薄田泣菫やそれ以前でいえば山田美妙のように四・七調や五・三調その他音数のヴァリエーションは、さまざまな形で試みられたが、さほど意味をもたないままに、失われてゆくほかなかった。
「詩学叙説」2006.1.31思潮社『詩学叙説』

12051014 なんだか、これまた「なるほどそういうことだったのか」と私は頷いています。それはどうしても不得意な思いを抱きながら作っていた中学時代の私の詩の形を今になって、その意味が判ったような気持になっている思いなのだ。価値はないけれど、意味はあったのかもしれない。だけど、それは私が詩が変わったことには気がついてはいなかったこと示していたのだ。

1205091112050912 近代の詩が西欧近代を文明開化として受け入れようとしたとき、詩人たちは七・五調の長歌の伝統的な形式を基にして新しい内容の叙事・叙情詩を作ろうと試みた。このことは、伝統の古典秩序のなかに西欧の近代秩序の分離された諸相をはめ込むことで、当然、異和を引き起こした。西欧近代の精神秩序を重んじて表現すれば、七・五音律の秩序は乱れることになるし、七・五調の形式秩序を固執しようとすれば、西欧近代の精神秩序は、形式の枠組みから制約されることになる。たとえば北村透谷の「蓬莱曲」のような長編譚詩は前者の例であり、藤村の『若菜集』の詩篇は後者の例にあたるといってよい。
「詩学叙説」2006.1.31思潮社『詩学叙説』

 こんなことを指摘しているのは、やっぱり吉本さんしかいないのではないか。今、この日本近代の詩人たちが抱えてしまった問題を考えてしまいます。この違和感の中で、各詩人たちは実に呻吟していたのだろうなと今やっとそのことに気がついた思いが私はしています。

1205080312050804 文芸のうえで西欧近代の特徴は何か。要素的に考えれば単純に言うことができる。言語表記のうえの人物、その情念などは、たとえ一人称で記されていても記している作者その人とは別と考えるべきこと。そして作中人物のあいだの関わり方は、外からも内からも描写して物語化することができること。その舞台となる場は、物語とは別の次元にある地の文で行われていること。そして作品の全体を見渡せば、かならず作者の人間像を浮び上がらせることができるが、登場する人物の像と、作者の人間像がどんなに似ているように思われるときも、短絡して結びつけることができないこと。これくらいの条件が揃っていれば、西欧近代の文芸の条件を具えていると考えていい。近代初期に詩人たちが、七・五調のなかでこれらの条件を分離した像で盛り込むことは困難をきわめたといっていい。
「詩学叙説」2006.1.31思潮社『詩学叙説』

 確かに日本の短歌と俳句の流れの中で、新しく詩を創造していくときに、このことは驚愕といってもいいほど困難なことであったろうと思います。それでも詩を書いていかなければならなかったところを、私たちはよく見ていかないとならないと感じています。それは、今の私たちの抱える詩の問題にもつながるのではないかと思うのです。

1205070112050702 日本語はアクセントの強弱や高低はあまり意味をもたず、訛音(なまり)と区別できない。別の根拠からいえば、アクセントの強弱や高低は一義的に決定できないほど、平板なためだといっても、同じことだ。「うミ(海)」と「ウみ(膿)」は一応アクセントの別が設けられるが、逆になっても、文脈の上から区別できさえすれば、許される。地域的な訛りの違いでもありうるからだ。また「水」を「みズ」と言っても、異なった語彙としてかんがえられるほどのアクセントのきびしさはない。またアクセントの強弱や高低によって「水」と「見ず」が混同されることもない。こういう視点からみれば同音異語の多さは、日本語の特色とさえいえよう。
「詩学叙説」2006.1.31思潮社『詩学叙説』

 私は外国語との比較が明確にできないから、はっきりとは判らないわけですが、中国語やフランス語を思い浮かべると、「そうなんだろうな」なんていう想像がしてくる。このことは私たちの使う日本語の大きな特徴なのだろう。だから私たちは外国語を学ぶときに、大変な思い、気恥ずかしさと言っていいようなことを感じることでもあるのだ。

1205060112050602 七・五調と呼ばれている音数律は、『記紀歌謡』や『万葉集』時代からの韻律の決定論だといえよう。面倒な考察をぬきにしていえば、決定論だという根拠は二つだとおもう。ひとつは日本語の音声の長さとして、自然な呼吸に最適なこと、もうひとつは、どこ語彙も必ず母音で終わるが、この最終の母音は除くことも加えることも自在なこと、この偶奇二つの音が同じことによっている。たとえば卵は「タマゴ」と仮名書きできるが、「タマゴ」の「ゴ」は「ゴ」で止めても「ゴォ」「ゴゥ」でも同じ音韻とみなしてよい。これは呼吸の自然さと併せて奇数の五・七としても偶数の四・六や四・八あるいは六・八としてもおなじことになる。この音数の両義性を理由にして、詩歌の音数は奇数の言い方で七・五調を定型とみなす根拠が生じている。もちろん偶数呼びで四・六調とか六・八調といってもよいわけだ。この音数律の定型と音数の自在さは、いつも不変だと見做してよい。
「詩学叙説」2006.1.31思潮社『詩学叙説』

 今も七・五調は、今の私も知らずに使っていると言えます。ただ、ここに書かれている内容は、私にはまだ理解できていません。ひょっとしたら、私は、記紀歌謡からはじまる日本の詩歌をまったく理解できていなかったのじゃなかろうか、と大変に不安な気持をかかえているところです。

1205050112050502 戦争中のぼくは、社会の中での自分の役割と、個人的な内面を、ごっちゃにしていました。だから戦争に負けて、社会ががらっと変わったとき、個人としての自分までが、立っている足もとの地面が揺らいで、この先どう生きていっていいかわからないような状態になってしまったのでしょう。「社会的な個人」と「個人としての個人」を自然に分けるのは難しいことですから、あくまでも理念として分離する修練をしたほうがいいと思います。
 自分の中で「これは社会的な個人の問題だから、役割は果たしておこう」「これは個人としての個人の問題だから、社会からどうこう言われたくない」と、はっきり区別する。そうすると、不必要に傷ついたり、自分が分裂して悩んだりということが少なくなると思います。
 どちらかに偏るのではなく、なるべく両方のことを考えながら、しかもはっきりわけておくことが大切です。
「13歳は二度あるか」2005.9.30大和書房「第2章社会と関わる、自分を生きる」

 このことは大事だなと思いました。これをごっちゃにした言い方によく出会うことがあるものです。だが問題は自分自身がごっちゃにしていないかを絶えずわきまえておくことだと思っています。

12050403 自分にはどうにもならないところで、世の中が180度変わってしまう。そういう経験をすると、大きな衝撃を受けると同時に、生きていること自体が虚しくなってしまいます。
 玉音放送を聞いたときのぼくは、まさにその衝撃と虚しさの中に突然、ほうり込まれた状態だったのです。
 そのとき以来、ぼくは今までこうつねにこう思ってきました。今世の中がどうなっているか、どんな方向に動いているのかを、いつも自分なりにつかんでおくべきだ。そうでないと、自分の意志とは関係ないところで社会に大変動が起こったとき、とんでもないことになってしまうぞ、と。
 大切なのは、今の時代のすがたを自分で判断することです。
「13歳は二度あるか」2005.9.30大和書房「第1章新聞を読む、時代をつかむ」

 この吉本さんの言われることに、ものすごく同意してしまいます。私が覚えているのは、中学生のときにケネディ大統領の指導のもと、キューバに反カストロ軍が侵攻したときの思い出です。あのころから必死になって新聞を読んでいたものでした。新聞で事実を確かめ、自分の頭で判断しようという姿勢はそのときから私にはあった気がしています。

12050204 皆さんの友達づき合いの中でも、「ここだけの話だけど、特別に教えてやるよ」などと言って、誰かの噂話をする人がきっといることでしょう。でも、そういう話は無視するか、または「本当なのかな?」と気になった場合は、直接、その当事者に尋ねればいいのです。本人に聞くのがいちばんいい方法です。
「13歳は二度あるか」2005.9.30大和書房「第1章新聞を読む、時代をつかむ」

 これもまた充分に納得してしまいます。というよりも、これもまた私がずっとやってきた方法でした。「特別に教えてあげる」などというたぐいの話を、まず私は信用したことがありません。ずっとそういう姿勢で私はやってきたものです。

12050109 いわゆる「消息通」とか「情報通」とかいう人がいます。特別なコネがあったり、情報通をもっていたりして、普通の人の知らない裏事情に通じていると自称している人のことです。
 こうした人が「ここだけの話だけど」「自分だけが知っている情報なんだけど」と言っている情報を、ぼくは信用していません。
 ぼくのところにも、新聞記者などからそうした情報がもたらされることがありまが、たいてい間違っています。
 見方が偏っていたり、小さな一部分は正しくても、それにとらわれて、全体としてみると歪んでいたり、ずれていたりするのです。
 他の人が知らない限定的な情報を手に入れようとするよりも、新聞や雑誌に載っているような、あらゆる人に公開されている情報を総合し、取捨選択して、社会のすがたを把握する能力を養うことがずっと大切です。
「13歳は二度あるか」2005.9.30大和書房「第1章新聞を読む、時代をつかむ」

 これを読みまして、もうほとんど納得しています。私も若いときから、まったくこれと同じでした。「情報通」とかいう方の話をそのまま信用して聞いたことはありません。むしろ、新聞にしろ、何にしろ、多くの人に公開されている情報のほうが大事だといつも思ってきました。

12043005 たしかに「制度としての実朝」という役割をずいぶん意識的にも無意識的にも実朝はさせられたし、担っていったと思いますね。特に、そういう言葉を確か使ったと思いますが、宗教的といいますか、「祭主としての実朝」といいますか、とにかく源氏の氏神が関東の近いところに二カ所あってそこにお参りするというのは実朝の役割として欠かさずやっていく。そういう役目も制度のなかの役割だったと思いますね。征夷大将軍は名ばかりでそれらしいことはあまりしていないのですが、祀り事みたいなことはいつでも欠かさず、年中行事のようにやっていたということはあると思います。それと同じで「制度としての教師」というのは、今の学校という秩序と先生が演ずる役割ということの秩序みたいなものとその両方を負わされていて、そういう役割の時にはもう学童の方を向かなくてても反対向いていたっていいんだよ、という感じがしますし、それはしょうがないのだということですね。今の学校制度の中では、子供とは遊ぶとき付き合う以外ないよ、「制度としての教師」を外すならそれ以外ないよという感じがします。
「子供はぜーんぶわかってる」2005.08.25批評社

 実朝のことをいわれて、こう言われるときに、私は逆に実朝のことも、そして今の教師のことも少しは判った気がしています。実朝は、「制度としての実朝」という役割を果たしたが、やがて殺されてしまった。教師は今どうなんだろうか。今は子どもと遊ぶしかないということに、私はものすごく納得もしてしまう気がするのです。

12042906 そうしますと人間の総量というのは年齢にふさわしくだいたいが同じなのではないかと思います。アバウトで言えば人間としては変わりがないのです。知識を増やせば知識を増やした分だけ他のことについての見解や体験とか考え方とかはあまり豊富でないということになります。この学校は世間からあまりよく言われていないけれども、学生はすごくいろんなことについてちゃんとした考えをもっているじゃないか、見解を披露しているじゃないかとわかったんです。それでこれはちょっと違うぞ、社会的にというか世間的にというか一般社会のいう学校の優劣や人間の優劣は、総合的に見ると、───僕は勝手に「人間力」という言葉を勝手に作っいるのですが───、「人間力」においてはまず何の隔たりも変わりもないと思いました。
「子供はぜーんぶわかってる」2005.08.25批評社

 これはもうすごく納得します。私もこういうことに気がついていたような思いがあります。もちろん吉本さんが言われて、私はその大事さにはじめて目が醒めるように気がつくわけなのですが。でも、このことはもっと多くの人が判ってほしいな。ただし、また一番理解できないことでもあるでしょうね。

 この人間力というのは根本的に何なのか。一言でいうと、自己についての自覚ということになります。
 つまり思考することと実行することの間にはあるひとつの空隙、分離があって、その分離のなかに人間だけが言葉を見出したりするわけです。ある何かを行うことがいいことか悪いことかというのは、かんがえではよくわかっているんだけれど、実際にそれを行うことの間には完全に分離がある。この分離が非常に重要なことで、その場合にはかんがえる自己であるところの <自己としての自己> と、何かを行うところの自己である <社会的自己> との分離ということになります。
『還りのことば』2006.5.1雲母書房「記<空隙>より出る言葉」」

 この分離した二つの自己を自覚しないとならないわけですが、私がそれをできているのかというのをいつも考えます。これが自覚できることが、私の人間力なのだから、絶えず私はそのことを自覚しているつもりです。

12042901 世界はどのような形態になるのか。私自身の段階づけでは「アフリカ的段階」と言っているが、アフリカ的段階のところが、意識的に主として農業を行う農業国としてとどまる。そうでない先進国は、どういう体制をとっていようと、混合体制のままハイテク産業のほうに収斂して、自然産業がだんだん減少していく。これは避けられない。だから、私は贈与関係で均衡を保っていって、農業主体のところにはハイテク産業のところからハイテク装置を無償で贈与し、逆に農産物を食糧分だけ輸入するというかたちに収まるのではないかと、漠然と予測している。
「時代病」2005年7月31日ウェイツの「あとがき」

 このことは、吉本さんは前にも言われていて、それが実に私には分かりにくいことでした。でも今は何故か納得してしまうのです。その私の納得の内容を私がもっと展開できなければならないと考えているのが、今私の段階なのです。

12042707 消費産業ともいえる第三次産業は、日本でも半分以上を占めているが、第三次産業は、自然産業と言われる第一次産業や、工場での大量生産をを中心にした第二次産業に対してもどんどん侵入していく。したがって、第三次産業というのは、第一次、第二次産業の次に歴史的にやってきた産業段階というよりも、産業段階の歴史を越えたものと定義できるのではないか。
 (「時代病」2005年7月31日ウェイツの「あとがき」

 このことをいつも感じてきていました。第三次産業の次に、第四次産業、第五次産業が出現するのではなく、この第三次産業が「消費産業」といえるというところが大事なのだと思います。消費はまた生産なのだと思えるのです。ただ、これはマルクスの言葉でもあるんだな。

12042704 老齢と幼少とはさまざまな比喩で語られる。「春」と「冬」とか、「芽生え」と「冬枯れ」であったり、「活性」と「衰退」であったり。逆に同一や類似でも比喩される。逆に同一や類似でも比較される。幼児はうまれたばかりのとき、普通の病気という病気は一通り背負いこむ。老人もまた病気にかかりやすい。もちろん逆な意味でもいえる。幼児は一通り病気にかかるが抵抗力が強化される。老人は二つ以上の病気が重なると病気の危険性が増す。幼児は赤ん坊のときよちよち歩きをはじめる。老人は脚力が衰えてよちよち歩きになる。幼児の言葉はたどたどしいが老人の言葉も明瞭でなくなる。幼児は物覚えが少ないが老人も忘れっぽくなる。幼児は路に転んでも擦り傷ができるくらいだが、老人は背骨のヘルニアになって歩くのがたいへんになることもある。変えあげるときりがないが、それは類似性を逆向きにいうこともできるものだ
「中学生のための社会科」2005.3.1 市井文学

 このことは、今私も充分に感じてしまうことなのです。つい先日までの私は少しもこのことを感じていませんでした。たった今はこれを痛切に感じてしまいます。思えば、今にしてやっとこうしたことが判るようになったのだと言えるのかと思います。

12042604 それにしても折口信夫という国文学者はたいへんな人だと改めておもう。歌人の岡野冬彦は柳田国男と折口信夫を弥次喜多道中のように描いた末、柳田国男が修理中の天皇陵にずかずか入って、とがめる門衛にお説教をし、折口信夫が代わりに謝罪してすました挿話を書いていてわたしは興味深く読んだ。
 しかし、岡野冬彦がその本のなかで折口信夫の同性愛やナショナリストぶりを見つけているのはつまらないことだ。こういう固定観念から解放されて、お前みたいな門衛など以前は要らなかった。天皇陵など自由に出入るできるんだと説教する柳田国男と代わりに謝っているお供の折口信夫の愉しい光景を岡野冬彦の本から受け取れるだけでいいのだ。
 つくづく思想を右と左に分けてすましている人士と、それを思想理念、理想として世界を色分けしたヨシフ・スターリンの一国社会主義理論の虚偽を払拭してくれたらと思う。
「中学生のための社会科」2005.3.1 市井文学

 何度読んでもこのとろこは面白いのです。ああ、柳田さんてそういう人だったんだろうな。折口信夫さんもこういう人だったんだろうなと、実に頷いてしまうのです。

12042502 日本近代文芸批評の祖である小林秀雄の『無常というふこと』という古典芸術論のなかに、梅若方三郎の演じる能「当麻」を鑑賞したときのことを記した章がある。そのなかで世阿弥の『花伝書』の「花」という能の概念にからめて「美しい花がある。花の美しさ(などというものは)はない」という名文句がある。「美しい花」という絶対的な能演技はあるが、「花の美しさ」という比較説明的な能演技は世阿弥の能概念にはないのだという意味だ。
 わたしも文芸批評にたずさわってきたからわかるが、こんな簡潔で見事な表現はなかなかできないものだ。これは実際に花を観賞して美しいなと感ずる人はいるが、「美しい花」の存在感を一瞬にして心に容れる人はそういないのとおなじことになる。
「中学生のための社会科」2005.3.1 市井文学

 実は今の私は、これがよく判っていない。いくら読んでも考えても、今の私には、どうしてか私のところから逃げ去ってしまうような寂しさしか感じられないのだ。もっと考えていきたいと思うのです。なんだか、現在の私がどうしてかつかみたくてもつかめないもののように感じている。

12042403 極端に考えると数字は「指示表出」だけ。胃が痛いのを「痛い」とおもっただけで他人には全くわからなかった場合には「自己表出」だけだと考えられるかもしれない。けれどこまかく見れば「3プラス5は8」を暗算するのと、声に出すのと、ノートに記すのとは「自己表出」の度合が違っている。胃が痛いと内心でつぶやくのと、沈黙のままでいるのとは「指示表出」の度合が違う。だから言語はすべてこの両者の織物で、その度合が違うだけだとみなすのが妥当だといえよう。
「中学生のための社会科」2005.3.1 市井文学

 この吉本さんの説明で、実によく理解できた。昔「言語にとって美とはなにか」を読んだときには、何か口の中でもごもごいうだけで、私は明確に説明できなかったかと思います。今になって、こうして、自分の総てがはっきりした感じで、私はとても嬉しい。

12042306 この本の表題として『中学生のための社会科』というのがふさわしいと考えた。ここで「中学生」というのは実際の中学生であっても、わたしの想像上の中学生であってもいい。生涯のうちでいちばん多感で、好奇心に富み、出会う出来事には敏感に反応する軟らかな精神をもち、そのうえ誰にもわずさわれずによく考え、理解し、そして永く忘れることのない頭脳をもっている時期の比喩だと受け取ってもらってもいい。またそういい時期を自分でもっていながらそれに気づかず、相当な年齢になってから「しまった!」と後悔したり、反省したりしたわたし自身の願望が集約された時期のことを「中学生」と呼んでいるとおもってもらってもいいとおもう。
「中学生のための社会科」2005.3.1 市井文学

 思えば、この中学生とは私のことだと、何度も今確信しました。実際の中学生のときもその通りだったし、今の私も同じなのです。そして今読んでいきまして、また新しくいくつものことを知りました。

12042204 実は、昭和天皇がまだ皇太子のとき、相当激しい皇室改革を行っています。牧野伸顕の日記によると、昭和天皇は摂政になる条件として、「宮中の女官をみんな家に帰して、通いにしてほしい」ということと、「生まれた子供を自分たちで育てたい」ということを挙げたといいます。また、側室を廃止した。これは女官や側室、それから乳母、教育係といった存在を排除することで、自分たちの家族を大切にし、守っていくという意味がこめられていたのではないか。つまり、昭和天皇は、家訓的世界に大胆に手を入れたことによって、近代家族としての天皇家を作り上げたという面がある。
「家訓の重圧に耐えられるか」2005.3.1発行の「文藝春秋」3月号に掲載された

 この昭和天皇のやったことは、長い皇室の歴の中で画期的なことでした。ただ、こうやって皇室を改革しなと、もはやそのままでは、皇室は存続できないといったことがあったのだと思います。さて、さらに問題は、この家訓的世界の改革は、今これからも、さらに続いてかなければ、ならないいることでもあるのだろうと想像します。

12041724 その意味では、昨年の皇太子発言は、このままいけば離婚か、若隠居するしかないというところまで追い詰められてのことではないでしょうか。表だけをみると単なる奥さん擁護にみえるけれども、実は、「今のままの家訓的世界を背負って、天皇家をほんとに維持できるのか」という深い問いかけがあるとみなければならない。だから、ちょっとやそっとの言い方では駄目で、「人格を否定する動きがあった」というくらい激しい言葉でないと家族が解体してしまう、という気持があったのだと思います。だから弁解もしないだろうし、弟や天皇から「前もって相談がなかった」とかいろいろ言われても、そんなことはもう考えたよ、と言いたいのではないか。と私は勝手に考えています。
「家訓の重圧に耐えられるか」2005.3.1発行の「文藝春秋」3月号に掲載された

 ここを読んだときに、「あ、そういうことだったのか」と叫んでしまいました。ようやく、私が心の中から納得できる解釈でした。だがこうだということで、今後の天皇家の存在の仕方も見えてくるように思います。

120409082005年(平成17年)

 いま、皇室で起きている問題をつきつめて考えていくと、最終的には「家訓」をめぐる問題につきあたるんじゃないかと思います。たとえば、大名や豪商、豪農の家には、代々、その家に伝わる家訓が残されていますが、日本の思想史をたどってみると、どうも、これが非常に特異で、重要な要素であることがわかってくる。
 その「家訓」というものの特徴は何だ、と言われると、大きく二つのことが挙られると思います。ひとつは、内容がきわめて日常的かつ具体的であること。たとえば、朝は何刻に起きて、起きたらすぐに東の方に向かって太陽を拝めと、とか、食事につくまでに洗顔その他で身を清める、といったものが多い。われわれが読むと、なんだこれ、どこが重要なんだ、と思うような内容がほとんどなのです。
 しかし、この「家訓」が日本人に与えてきた影響は、無視しがたいものがある。それは何故かというのが、第二の特徴とかかわっていて、つまり、後継者の資格と密接に関わっているのです。それを守らないと後継者の資格が得られない。今でもかつての財閥の流れを汲む大企業などで、社長になるにあたって、代々会社に貢献した人々を祀ってある場合に参拝する、などといった行事をやるところがあるでしょう。あれも、家訓の一種です。 では、天皇家はどうかというと、われわれはその家の中で日常的にどのような儀式をおこなっているかという細目については、ほとんど知りません。しかし、即位の儀式や、大嘗祭、新嘗祭といった農耕に関する儀式、それから婚姻のさいの儀式については、いくらか分かっていて、そこからうかがえるのは、天皇家はおそらく日本でももっとも古層に繋がる、そして、もっともやかましい家訓を抱えている家だということです。
「家訓の重圧に耐えられるか」2005.3.1発行の「文藝春秋」3月号に掲載された

 昨年の天皇家の問題、すなわち皇太子が、雅子妃殿下に関して、「人格を否定する動きがあった」と言われたことで、その後弟や天皇から、「前もって相談がなかった」と言われた問題であるが、私には、何がなんだかさっぱり判らないという感じでした。こうして、吉本さんが「家訓の問題だ」と言われたことで、私には何がつかめたという気持がしています。

12041901 留学生といえば、千年前に空海がいます。空海も、辺境から先端の地へ赴いて、よく勉強しました。しかし、『文鏡秘府論』などを読むと、どうも独創性が乏しい。書も、たしかにうまい。うまいが。やはりむこうのコピーといった印象を拭えない。模倣は一つの立派な能力です。でも、結局、空海は才能ある啓蒙家というのを超えなかった。空海ファンには申し訳ないけれど、「平安時代の福沢諭吉」というのは空海の役どころではなかったでしょうか。
「漱石の巨きさ」2004.12.15文藝春秋「夏目漱石と明治日本」に掲載された

 空海という人は、私にとって昔から「すごい能力のあった人なんだろうな」というくらいの印象のみの人でありました。ただたしかに、「空海ファン」ともいうべき人の存在はよく感じるものです。でもこれで、私にも少しは空海の姿が見えてきた気がします。吉本さんはよくこれだけ言い切ってもらえるものです。

12041712 高等遊民とともに、漱石が執拗なまでに繰り返し描いたのは三角関係です。酔狂で書いたのではない。あれは洞察です。何に対する洞察かといえば、文明開花の日本に対する洞察です。
 漱石の三角関係は、ただの浮気や不倫ではない、やや口はばったい言い方をすると、文明史的な比喩としての三角関係であり、明治日本の弱点や特殊性を反映した三角関係であると思うのです。
「漱石の巨きさ」2004.12.15文藝春秋「夏目漱石と明治日本」に掲載された

 私には三角関係という経験がなかったと思う。とにかく、好きな相手にただただ迫って行ったから、他は関係なかった。また今思えば、相手の女性にとっては、ただただ迷惑なことだったでしょう。だから私は漱石の書かれていることが少しも判らなかったのだと、今気がついた次第です。

12041704 漱石で何がいちばん好きかと訊かれたら、ためらわず、『門』と答えます。何より、冒頭がいい。宗助が縁側でごろんとなって、空を見上げる。妻の御米が障子のむこうで、縫物をしている。宗助が、「近江」のオウはどういう字だったかなと訊くと、御米が障子をあけて、物指しで「近」という字を書いてみせる。だれにでも思いあたるところのある、ひっそりとした日常性のひと齣がいいです。
 あのひっそりとした感じは、大江健三郎の翻訳文体では描けないし、川端康成のあのいかにも日本語日本語した文体でも描けない。漱石の、ほどよくメリハリの利いた、きりっとした文章でないと書けない。あれは、近代日本語の一つの達成、とさえいえると思います。
「漱石の巨きさ」2004.12.15文藝春秋「夏目漱石と明治日本」に掲載された

 私が26、7歳の頃だが、営業の仕事で行く先に、「これは『門』の主人公のようだな」と思える初老のご夫婦がおいでになりました。千駄木の夜店通りを少し入った平屋の一軒家でした。春の暖かい日ざしの中で、このご夫婦とその家の縁側でお話していると、いつも私は『門』を思いだしたものでした。そして私は「ああ、このご夫婦も、三角関係で、ここにひっそり暮らしているのかな」なんて勝手なことを考えていたものでした。
 この「ひっそりとした日常性」というのは、そこのご夫婦にも感じたものでした、思えば、あの頃から私には、この吉本さんの言われる『門』を感じたことがあるのだななんて今思うのです。

12041307 明治以降の文学者でだれがすば抜けているかといえば、漱石・鴎外、これは誰も異論ないでしょう。では、明治以降の思想家で、漱石・鴎外に匹敵する人物はいるか? ぼくなら、柳田国男・折口信夫を挙げます。鴎外・漱石も、柳田・折口も、やはり時代の水準をはるかに超えた、「巨きな関心」をもって、思考の単独走破を敢行した。
 柳田は、国際連盟の裏方をしたほどの国際人です。西欧を理解吸収するために、必死に勉強した。しかし、あるとき、こればかりやっていてもしかたないと気づき、自分の足元の本質探求にのりだしたのです。先行者がいないところで暗中模索して、やはり、いっぱい背負って、いっぱいわからなくなった。いっぱいわからなくなっても、背負ったものを捨てず、とうとう一つの学問をつくりあげたのです。
 折口もそうです。法律の起源、宗教の起源、天皇の起源、そして日本人の起源……、途轍もない勉強量でした。折口はこれを全部吐き出していませんよ。吐き出していないけれど、ちゃんと知っていた。
 漱石・鴎外と柳田。折口というのは、ともに道のりが似ています。いずれも、その頑張りが日本の頑張りそのままになったような、巨大な知識人だったと思います。
「漱石の巨きさ」2004.12.15文藝春秋「夏目漱石と明治日本」に掲載された

 この4人が、巨大な知識人だったというのは、たしかにその通りだったと思います。ただ、そのことをこうして言い得てしまうのは、また吉本さんだけだと思うのです。この4人を並べて論じることが他の誰にできるのだろうかと思ってしまうのです。

12041003 殉死というのは、今となっては、わかりづらいでしょうね。ぼくはとても乃木さんの真似はできないけれど、でもその心情はわかるつもりです。
 かつて、ぼくは軍国少年でした。銃をかついで、さて、何のために自分は死ねるのか、考えた。近親のために戦って死ぬ、というのは一見合理的な解だけれど、自分はそれでは死ねないと感じた。近親や社会という相対的なものではなく、もっと絶対的なもの、理念的なものがほしい。だから、家族のために死ぬと考えるより、生き神さまである天皇のために命を差し出すと考える方がすっきりしたんです。
 昭和天皇が亡くなったとき、多くの人が記帳しに行ったり、涙を流すのをテレビで見て、「土人」呼ばわりした学者がいた、こいつ、全然わかっていないな、と思った。その程度の理解だから、いつまでも天皇制の解明などできないし、もちろん、ひっくり返すこともできないのです。
「漱石の巨きさ」2004.12.15文藝春秋「夏目漱石と明治日本」に掲載された

 この「天皇のために命を差し出す」と考える方がすっきりするというのは私にもよく理解できます。なにか理念的・絶対的な対象でないと、そこまでの決意は難しいのだと思うのです。

12040712 十五の頃でしたか、友人から「おまえ、赤シャツに似ている」といわれて、何のことかときょとんとしたことがあります。「知らんのか。漱石の『坊つちやん子だよ」といわれたものの、わからなかったのです。悔しいから、すぐに神田の書店へ行った。たまたま文庫の棚に『硝子戸の中』しかなくて、それを求めました。読むと、これが随筆ながら、けっこう重たいものでした。ともあれ、これが最初の出会になりました。
「漱石の巨きさ」2004.12.15文藝春秋「夏目漱石と明治日本」に掲載された

 これを読んで私は、非常に驚いたものです。私も同じなのです。鹿児島の照国神社の前の古い小さな古書店で、私はこの『硝子戸の中』を中学2年の秋、購入しました。この古書店が、小さくて古くて、暗くて、おばあさんがいつもひとりで、そしていつも安い古本を、私にはさらに値引きしてくれました。その店と同じで、『硝子戸の中』は、暗くて重い小説でした。そして、この古書店は私が見つけて通いだしてから3カ月で、忽然と姿を消しました。私には、漱石への思い出は、この古書店と『硝子戸の中』が最初で、そしてずっと抱いてしまった印象なのです。

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