将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:吉本隆明全著作(単行本)

1112040711120408 私がここに書いていた「吉本隆明全著作(単行本)」のログ記録を終えます。このあとの吉本隆明さんの書評は、この現在の「将門Web」にUPされているはずです。 でも はじめの日付が、私がUPした日付で、(2005.01.31)などというものが、それのもともとの書いた日付です。

2011.11.17吉本隆明全著作(単行本)「時代の病理」
2011.11.18吉本隆明全著作(単行本)「情況との対話-不況とはなにか」(1993.04.12)
2011.11.19吉本隆明全著作(単行本)「不況とはなにか(続)」(1993.05.08)
2011.11.20吉本隆明全著作(単行本)「UNTACなど認められない」(1993.06.27)
2011.11.21吉本隆明全著作(単行本)「辛棒づよい人たちの政治劇」(1993.07.10)
2011.11.22吉本隆明全著作(単行本)「総選挙の話」(1993.08.20)
2011.11.23吉本隆明全著作(単行本)「経済連環系の話」(1993.09.12)
2011.11.24吉本隆明全著作(単行本)「女性をめぐるエピソード」(1993.10.17)
2011.11.25吉本隆明全著作(単行本)「豹変する政治プラン」(1994.08.12)
2011.11.26吉本隆明全著作(単行本)「サリン考」(1995.05.11)
2011.11.27吉本隆明全著作(単行本)「都市博中止は是か非か」(1995.07.07)
2011.11.28吉本隆明全著作(単行本)「情況へ」(1995.07.07)
2011.11.29吉本隆明全著作(単行本)「追悼私記」
2011.11.30吉本隆明全著作(単行本)「わが転向」(1994.03.25)
2011.12.01吉本隆明全著作(単行本)「吉本隆明歳時記」
2011.12.03吉本隆明全著作(単行本)「わが転向」の日経新聞書評(1995.04.14)
2011.12.04吉本隆明全著作(単行本)の「はじめに」に私が書いた内容(2002.12.09)
2011.12.05「吉本隆明全著作(単行本)」のログ記録(2011.12.05)

 なお、「情況との対話-不況とはなにか」「不況とはなにか(続)」「UNTACなど認められない」「辛棒づよい人たちの政治劇」「総選挙の話」「経済連環系の話」「女性をめぐるエピソード」「豹変する政治プラン」「サリン考」「都市博中止は是か非か」はすべて「情況との対話」に含まれているものです。
  なんだ、これしか書いていないんだと、少々情けなく悲しくなります。とにかく、こうしてUPしました。

11120305 私が最初に吉本さんの本を読んだのは、いつのことで、何を読んだのかなと思い出してみます。
 たしか大学2年(1968年)の秋頃、「情況への発言」(1968.8.15徳間書店)が最初だったかと思います。次の年は私は府中刑務所に約8カ月勾留されることになり、絶好の読書できる期間だったのですが、私は吉本さんの本をもっていなかったもので、1冊も読んでいません。その同じ年の12月にまた埼玉県朝霞署に逮捕勾留されることになりましたが、このときは接見禁止中だったにも拘わらず、当時の彼女が裁判所の許可をとりまして、何冊もの本を差し入れてくれました。このときに、「共同幻想論」(1968.12.5河出書房新社)、「自立の思想的拠点」(1966.10.20徳間書店)を読んだものでした。その後は、とにかく吉本さんの本はどれでも読むようになりました。ちょうど「模写と鏡<増補版>」 (1968.11.15春秋社)を読んだあたりから、「この人の本はすべて読んでいかないといけないな」と思うようになりました。
 それが私が28歳くらいになったときに、もう吉本さんの総ての本だけではなく「試行」や他の著者の語る「吉本隆明論」や雑誌の「吉本隆明特集」というようなものまで総てを読まないとならないという気持になってきたものでした。
 ただ、私にはどうしても吉本さんの言われる内容がうまく飲み込めず、よく私より判っているだろうと思われる人に、いつも吉本さんの書かれている内容について聞いていったものでした。
 そんな私なのですが、吉本さんの本を読んだ書評を少しばかりここにあげてあります。
 私はいつか吉本さんの本の総ての書評が書けたららいいなと思っているところです。時間はかかるでしょうが、やり続けてまいります。(2002.12.09)

11120210 以下の文を読んで、なんというかまず腹がたちました。どうにも質の悪い文章です。吉本さんのことが全く判っていないというよりも、なんとか吉本さんをけなしたいという意図しか考えられません。

吉本隆明「わが『転向』」――新左翼の理論家から消費社会を擁護
          95.04.02 本紙朝刊 19頁 写図有(全1891字)
 戦後五十年、日本は大きな変遷を遂げ、保革連立政権が誕生するなど、考えられなかった現象が生まれている。思想界でも、新左翼の教祖というイメージが強かった吉本隆明が「わが『転向』」(文芸春秋)という本を出し、ちょっとした話題を集めている。若いころライバルの文芸評論家、花田清輝を「転向ファシスト」と呼んで糾弾するなど人一倍、「転向」に敏感だった吉本が、今なぜ「わが『転向』」なのか、その周辺を探ってみた。 今の若者にとって吉本隆明は、思想家というよりも「吉本ばななのお父さん」というイメージが強いかもしれない。
 吉本自身も「わが『転向』」の中で、「中野重治は神様のような小説家ですが、新しい世代は公然と『知らねぇ』と言う。それは僕も同じことで、『吉本隆明って、何か六〇年頃流行ってたらしいぞ』と言われたりするようになりましたがと率直に打ち明ける。
 しかし、団塊の世代より上の人なら吉本が新左翼の理論的指導者だった印象が強いだろう。吉本は六〇年安保では全学連の学生と行動を共にし、国会突入で逮捕された。その後、「自立の思想的拠点」や「共同幻想論」などの理論的著作によって多くの若者を魅了し、六〇年代末から七〇年代にかけては、全共闘運動の高まりに大きな影響を与えた。
 その吉本が変わったと言われ始めたのは八〇年代から。「マス・イメージ論」「ハイ・イメージ論」などで少女コミックや広告のコピー、ファッションなどのサブカルチャーに目を向け、若者の新しい感性、高度消費社会、都市文化を積極的に擁護し始めた。
 また思想的にはノーベル賞作家大江健三郎が「あいまいな日本の私」で強調した戦後民主主義の理念を、旧ソ連が産みだした文化理念の「良心的同伴理念」と批判するようになった。逆に新保守主義とみられる小沢一郎の著書「日本改造計画」については「常識に富む本」として高く評価している。
 「わが『転向』」は、こうした八〇年代以降の思考の変遷を、雑誌「文芸春秋」編集部のインタビューにこたえて率直に分かりやすく語っている。 それにしても「転向」とは刺激的な表題である。吉本は若いころ、文学者の戦争責任を追及し、戦争中は国家社会主義者の中野正剛の「東方会」に属し、戦後は革命的芸術運動の指導者となった花田清輝を「転向ファシスト」として批判し、文学史上有名な論争を展開した人である。
 その本人が編集部がつけた「転向」という言葉をそのまま使うことを承知したのは、「七二年前後に対する現状分析を契機にして、わたしに思考の転換があり、わたし自身のこしらえた概念と定義によれば、社会総体を把みそこねたために起こる思考転換が『転向』にほかならないから、わたしの軌道修正をそう呼んでもいいと思ったからである」と説明する。
 では七二年を境に、日本がどう変わったというのであろうか。まず第三次産業の従事者の人数が第二次産業よりも多くなった。高層ビルが次々と建ち始め、日本の経済活動が生産から消費へと移行していった。個人消費が国民所得の六割から七割の間を占めるようになった。従来の資本主義が生産本位だったのに対し、超資本主義、あるいは消費資本主義と呼ぶ高度な資本主義社会が到来した。
 吉本は、日本人の九割が自分を中流と考え、所得格差は社会主義より少ないという事実を前にして、社会主義は善で資本主義は悪という考えはもはや成立せず、「体制―反体制」といった意味の左翼性は必要も意味もなくなったというのである。
 たしかにこれでは新左翼の理論的指導者どころか、消費社会擁護論である。その認識は理論の深さを別にすれば、経済新聞を熱心に読んでいるビジネスマンとそれほど違いはないだろう。吉本があげている様々なデータ分析は、常識人からみても納得のいくものばかりである。
 しかし、バランス感覚からいえば、吉本の思考はあまりにも整理され、新しい出来事や若い世代に対して物分かりが良すぎるようにも思える。若い評論家、大塚英志は「吉本隆明はいつ『ばなな』を生んだか」という評論で、吉本が変わったのは、二人の娘と七八年に映画館でアニメ「さらば宇宙戦艦ヤマト」を見たことが影響しているのではないかと推測しているが、興味深い指摘だ。
 何も思考の転換を悪いといっているわけではない。変化は当然だろう。ただ「戦争の実体に、おのれの生存の中核でぶつかった、わたしどもの評価のアクシスを、こういうひとかけらの自己批判もない言辞をロウして通りすぎることはできない」(一九五九年)と激しく「転向」を批判した事実にふれていないのがやや物足りないのである。編集委員 浦田憲治 日本経済新聞社

 まずいつの時点で吉本さんが「新左翼の理論的指導者だった」のでしょうか、この浦田編集員にそれを言明していただきたいものです。こんな物言いを私はこれで始めて眼にしたものです。吉本さんは私たちのいわゆる三派全共闘世代が運動していたときに、なんら私たちのことを支持したことも、なにか指導的な物言いをしたこともありません。1967・10・8の羽田闘争に際しては、「無知が栄えた例(ためし)はない」というマルクスの言葉で三派の行動を評しました。また私たちのやった学園闘争のことを、一貫として学園紛争としてしか言ってきていません。私はこれだけは「闘争」と呼んでほしいのだけど、まあ今思えば、それは吉本さんへの甘えかなといえるでしょう。
 ただし、私たちの時代のさまざまな表現行為、アジビラやタテカンに書かれていた言葉に吉本さんの言葉がより多く使われていたのは間違いありません。吉本さんの言葉ほど、情況を適確に表現し、私たちの気持をまた適確に表現してくれる言葉はほかになかったのです。
 私たち学生活動家は、「よしましょう、昼寝をしますよ」という吉本さんの言葉を知りながらも、「でも俺は街頭に行く」とデモに出かけたものなのです。吉本さんのこの「昼寝をしますよ」という言葉を利用して私たちの行動をけなすいわゆる「吉本主義者」こそ嫌悪したものです。今こうして吉本さんの大いなるファンであり、崇拝者になった私でも、今も「吉本主義者」とは絶対に呼ばれたくありません。
 しかし、どうして「さらば宇宙戦艦ヤマト」を見たことが吉本さんの変わったということに影響しているなどと言えるのでしょうか。吉本さんが変わったというのなら、それは「現在」という全情況、全存在の影響なのです。

 「さらば宇宙戦艦ヤマト」には動画による人物描写の単純化・類
 型化・形態の飛躍が、ちょうど宇宙のうえドラマの単純な思想が、
 その融合点にぴたりと適応し得ていた。わたしはこの日本的な心
 情と、ヘーゲル流にいえば自由なのは一人の専制者だけで、あと
 の人間は自由の何たるかを知らないようなアジア的な思想の純化
 されたイメージが、宇宙フィクションのあらゆる映像技術を採り
 入れたような手法と融合している無類の宇宙動画の世界にもっと
 も衝撃をうけた。宇宙の平和をまもるために地球連邦に属する宇
 宙戦艦ヤマトの元の乗組員たちが、ひそかに集結してふたたび宇
 宙戦艦ヤマトに乗組んで、宇宙を侵略し席巻しながら太陽系に近
 づいてくる白色彗星に挑戦する日本製の <スターウォーズ> であ
 る。だが <スター・ウォーズ> をヤンキー式のスリル・スピード
 の面白おかしい西部劇とすれば「さらば宇宙戦艦ヤマト」はおお
 まじめに観客を泣かせる心情の迫力をもった日本的な特攻物語で
 あるといえよう。登場するヤマトの登場員たちは、いずれも旧帝
 国軍人の思想の最良の部分がもっている倫理を、そっくりそのま
 まうけ継いだ <男らしさ> と <勇気> と <献身> と <健康さ> の
 権化であるように設定されている。吉田満の手記『戦艦大和ノ最
 後』が手法によってでなく、描かれた事実の強烈さで衝撃をあた
 えるのとおなじような意味で「さらば宇宙戦艦ヤマト」は日本的
 な心情の観客、つまりわたしたちすべてに、衝撃を与える要素を
 もっている。        (「宇宙フィクションについて」
              「映画芸術」昭和五三年一〇月号)

 この「宇宙戦艦ヤマト」も結局は「夏を越していない」(この夏とは終戦の年の夏のこと、すなわち戦争を越えていないということ)といわれているのです。なんで今また、「御国の為に」死んでいく特攻隊の姿を見て、それで「消費社会を擁護」するようになるのだ。
 吉本さんが自らの変化を「転向」と呼ぶのなら、それはそれでかまわないといっているだけで、それをどうして花田清輝の破廉恥な「転向」と比較できるのでしょう。いったいこの浦田編集員は吉本さんの「転向論」を読み込めているのでしょうか。

  転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近
 代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったた
 めに、インテリゲンチャの間におこった思考転換をさしている。
 日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものがと
 びぬけて大きな要因であったとは、考えない。むしろ、大衆から
 の孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向論
 のアクシスである。
  (「現代批評」一九五八年一一月刊に掲載された「転向論」)

 この吉本さんの転向論からは、吉本さんの転換が戦前の「転向」などというものをまったく質の違うものだということが判るはずなのです。吉本さんのどこに「大衆からの孤立感」があるのでしょうか。
 そもそも、この浦田編集員は、この「わが『転向』」そのものすら読み込めていないとしか思えません。

  ですから、僕は「転向」したわけでも、左翼から右翼になった
 わけでもない。旧来の「左翼」が成り立たない以上、そういう左
 翼性は持たないというだけです。だから僕は「転向」したといわ
 れても一向に構いませんが、自分自身では「新・新左翼」と定義
 しています。
  そして「七二年頃からどうやら時代の大転換があった」と分析
 できてからは、挫折の季節を経てなお、かつての考え方にしがみ
 ついている人との付き合いは免除してもらうことにしました。こ
 れまでは、責任がないわけではない、と思ってきましたが、時代
 が変わってしまったんだから罪報感もこれきりにさせてもらおう、
 つきあいにエネルギーを費やすのではなく、自分の考え方を展開
 して公にすることにエネルギーを使おう、と考えるようになりま
 した。

 こうして吉本さんは無駄なことへエネルギーを使うのではなく、さらに適確なる「現在」への把握へ向うわけです。

  今の都市は工業都市ではなく、第三次産業都市というか、「超
 都市」になっています。この、都市から超都市へ移っていく過程
 をキチンと論評しなくてはいけないと意識しはじめたんですね。
 僕の著書としては、大衆文化論にあたるのが『マス・イメージ論』
 であり、超都市論を『ハイ・イメージ論』で、これはまだ完結し
 ていませんが、正面から論評してみようとしたわけです。これら
 は『共同幻想論』の続きとなっており、『共同幻想論』が、共同
 体のあり方を、過去に遡って論じてみたとすれば、『マス・イメー
 ジ論』や『ハイ・イメージ論』は、現在から未来への共同体のあ
 り方を規定しようとしたものです。

 結局はこの浦田編集員は、こうした吉本さんの現状が不満でならないわけなのでしょう。「どうして吉本は都市資本主義を評価するのだ」という気持が紛々と匂ってきます。ソ連が崩壊し、しかしながら、それを崩壊させたのが「反スターリン主義」である世界の「新左翼」ではなかったことが不満なのでしょう。
 しかし、浦田編集員がどう不満だろうと何を言おうと、私たちが今存在している「現在」の姿を適確に把握し、表現できるのは、もはや吉本さんしかいないことは自明なことなのです。この浦田君ですら、自らのさまざまな思考法や分析の中に、吉本さんの方法が入ってしまっているのを気づかないわけがないのです。
 なにはともあれ、こうしたまとはずれで嫌味な書評を書いたことだけは、吉本さんは気にもしないでしょうが、私はこの浦田君をよく覚えておきたいと思いました。     

11120105 何年か前にニューヨークにいる友人が電話してきて、話のおわりに突如吉本さんの「歳時記はいいね」と言い出しました。「そりゃそうだよ」といいながら、電話のあとまた本を手にとってみました。

 この本の最初にこうあります。

  わたしの好きだった、そしていまでもかなり好きな自然詩人に
 中原中也がいる。この詩人の生涯の詩百篇ほどをとれば約九十篇
 は自然の季節にかかわっている。こういう詩人は詩をこしらえる
 姿勢にはいったとき、どうしても空気の網目とか日光とか屋根や
 街路のきめや肌触りが手がかりのように到来してしまうのである。
 景物が喝えた心を充たそうとする素因として働いてしまう。                                                                     (「春の章−中原中也」)

書名  吉本隆明歳時記
著者  吉本隆明
発行所 日本エディタースクール出版部

 最初が中原中也なのですが、私は中也のいい読者ではないのです。でもこうして春の季節の中に扱われる中也をみていると、もっと読んでみようかなという気持になってきます。中也の詩集をあらためてまた開いてしまいます。

  詩に憑かれ、少年期を脱する頃じぶんを天才だとかんがえた詩
 人はたれも、中原中也のように詩をこしらえ、それ以外にはなに
 もやる気がしないし能もなく、生活に適応できないじぶんを鍛え
 ていくにちがいない。けれどかれがある時、空しさを感じて、詩
 をこしらえるのを諦め、小さな生活の環を大事にしだしたとした
 ら、たれもほっとするだろう。これは天才を遇する俗世の声であ
 る。あるいは子を遇する父の声だといってもよい。中原中也はこ
 ういう詩と詩人の存在の仕方のメカニズムについて、たぶん気づ
 いていた。それだけ凡庸の何たるかを知る心さえもっていた。け
 れど宿業がかれを詩作へひき戻して離さなかった。かれにおける
 自然の景観や深い季節感は、この宿業の不可避さの代同物である
 ような気がする。         (「春の章−中原中也」)

  そのほか、梶井基次郎、堀辰雄、立原道造、嘉村礒多、葛西善蔵、正宗白鳥、牧野信一、宮沢賢治、長塚節、そしてそのほか何人かの詩人歌人が扱われています。ひとりひとりの詩人たちを季節の中に解明するその言葉に眼を見張る思いがあります。私にとっては小説でしか知らなかった、そしてそれほどひきつけられて読んだわけではないこれらの詩人たちが、あらためてその息吹を感じることができた気がします。
  例えば、梶井基次郎の「桜の樹の下には」をみたところでは、

  この自然詩人は中原中也とちがって、季節のように繰返し経め
 ぐる悔恨と希望にさいなまれることはなかった。かれにとって自
 然はただ、生と死によって両端をおさえられた<祝祭>や<儀礼>と
 同一視された。かれの自然は季節のように移ろわない。ただ生と
 死とが自然の起源から終末にかけて繰返し交替し、人間の生涯も
 また誕生から成人に、成人から老衰へ、老衰から死へと、いわば
 小さな生死を繰返されるものと認識されていた。認識されていた
 というよりも無意識のうちにそう見做していたといった方がよかっ
 た。たぶんそれは、肺結核というその頃は天刑病のようにみなさ
 れて、安静と栄養と自然治癒のほかに手だてがなかった病気と関
 連があった。          (「春の章−梶井基次郎」)

というこの詩人の資質を述べ、

  ではこの切実な病身の詩人に生の恢復がやってくるとすればど
 うやってくるのか。かれの肉親や知友がかれを救うのか、社会が
 かれを救うのかわからぬ。ただ確かなことは感覚を生理に同調さ
 せ、生理を自然の敏感な反応器自体に化して、異和がなくなるま
 でに到りついたときに恢復はやってくるにちがいなかった。かれ
 にはそれはやってこななかった。反対に死がやってきたのである。
 死はどうしてやってきたのか。自然に鋭敏に反応するかれの生理
 的身体の消耗が、もっとも陥没する冬の季節を超えて春まで耐え
 えなくなったときである。    (「春の章−梶井基次郎」)

といっています。こうしたことからまた彼を読み直してみれば、もっとこの詩人に迫れるよう思います。
 なんだかいくらでもあげていきたい気がしてきます。

  たとえてみれば米粒のうえにどんな微細な文や図柄を巧みに描
 いても所詮は巧みな<芸>以上のものではない。なぜならば対象の
 選択力に内的な衝迫と必然がなく、ただ珍しいための限定しかな
 いからだ。それと同じことであった。この方法を極限まで追いつ
 めていったのが長塚節であった。そして極限まで追いつめられて
 いってはじめて、子規派の『万葉』の歌の把握に重要な欠陥があ
 ることが露呈されたといってよい。  (「冬の章−長塚節」)

 これを読んで、私には退屈で暗い「土」の作者でしかなかった長塚節が生き返ってきた思いがします。また私にとって苦手だった短歌を読み取ることも少しはできるようになった気もします。忠実な正岡子規の学徒だった節が死の直前にたどりついたものを感じとることができました。
 ではこれら自然詩人たちが生きてきたそもそもの<季節>とは何なのでしょうか。

  詩歌の主題として季節がある普遍性をもって時代を超えてきた
 のはじつは不可解なことにちがいない。それは<アジア的>な特質
 のひとつであった。           「季節について」)

 ヘーゲルは世界史な視野から<アジア的>な<自然>に言及した。このヘーゲルの<アジア的>な<自然>に関し概念を次の3点で展開しているといいます。

 1.<アジア>では、<自然>は人間の自然意志の否定の上に成立っ
  ているから、この概念は絶対的な存在の概念と手易く一致して
  しまう。
 2.<アジア的>な<自然>の特質は「高地」と「盆地」の両地域の
  全面的な対立にもとめる。このヘーゲルのいう「盆地」とは、
  デルタといってもいいのかもしれない(ただしこれは周の解釈)。
 3.第2の点に海への通路を加えたアラビアのような「前方アジ
  ア」である。ここでの「高地」が象徴するものは遊牧である。

  わが列島の<アジア的>な<自然>規定は中国と、中国を経たイン
  ドの農耕的な原理を高度な哲学や宗教的な思想となった後に海を
  通じて受容した。それは自然意志のままに生活していたひとびと
  の上に<自然>を唯一の絶対者にまで高めた哲学と宗教と制度を強
  引に接木することを意味したにちがいない。島々という原理は海
  に囲まれた閉域という意味と農耕<アジア的>な文化の受容という
  意味をもっている。わたしたちの列島が古代に入ったというその
  ことが、ヘーゲルのいう<アジア的>の三つの原理を小規模に庭園
  的に併存させることにほかならなかった。中国とインドの <アジ
  ア的> な<自然>規定を制度によって受け入れる以前にはこの島々
  はシリアや小アジアやアフリカの原理をもっていたかもしれなかっ
  た。そして古代の末期はひとまず中国とインドの<アジア的>な原
  理がいわば膚身についた時期にあたっていた。そして端境アジア
  的というべき融合が自然観にあらわれた。(「季節について」)

 中国インドから<アジア的>な<自然>規定を受け入れたとき、同時に制度的な<自然>規定も受けとり、この季節の概念をも受け取ったと考えられます。ところが、我が国の空間の中には、「みちのく」や「つくし」のように、ちがう季節が推移すると思われる異地域もあったわけで、そこでさまざまな<季節>への各詩人たちの思いが生まれたように私には思えるのです。

題名  わが転向
著者  吉本隆明
発行所 「文藝春秋」1994年4月特別号に掲載され、文藝春秋社より発刊
1995年2月20日第1刷

11112908  吉本さんには、「現代批評」1958年11月刊に掲載された「転向論」があります。私たちの誰もが最初のころ目にした吉本さんの論文であるかと思います。この文を読んで、私たちに何かどうしても重くかかわってくる「転向」ということを鮮やかに解明してくれたように思ったものでした。

    転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近
  代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったた
  めに、インテリゲンチャの間におこった思考転換をさしている。

    日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが
  とびぬけて大きな要因であったとは、考えない。むしろ、大衆か
  らの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向
  論のアクシスである。

  私は私の後輩の活動家が拘置所にいたときにもこの「転向論」の収録されている「芸術的抵抗と挫折」を差し入れしていますが、ちょうど私と同じところにアンダーラインや印しがつけてあります。誰も同じようなところにひきつけられたに違いないと思ってしまうのです。

  さてこの「転向論」の時からはもう36年たってしまっているわけです。もはや戦前の共産主義運動にかかわった人たちの転向の問題を私たちの問題としてひきつけて考えるよりも、私たち自身の今の存在を考えなければならないでしょう。私たちも総じて転向してしまったのです。その私たち自身のことを考えようとする目の前に、吉本さんのこの文が提示されました。私は早速手にしたものです。
  読んでまったく「いいな、いいな」と言っている自分に気づきました。そしてよく頭をめぐらすと、「しかしこれはまたいろいろな連中を刺激するだろうな」と思いました。もうあちこちの飲み屋で、私とこの吉本さんの文に文句をつける連中との言い合いの細かい内容まで見えてくるようです。その人たちは、昔は私も一緒にスクラムを組んで闘った人たちです。そして今も、左翼だと思っている人たちです。左翼がまだ、社会主義がまだ有効性をもっていると思っている人たちです。でも私はまだ、その人たちを友だちだと思っているから、まだまだあちこちで言い合いを続けていくでしょう。これは当分致し方ないなと思っているところです。

    ですから、僕は「転向」したわけでも、左翼から右翼になった
  わけでもない。旧来の「左翼」が成り立たない以上、そういう左
  翼性は持たないというだけです。だから僕は「転向」したといわ
  れても一向に構いませんが、 自分自身では「新・新左翼」と定義
  しています。
    そして「七二年頃からどうやら時代の大転換があった」と分析
 出来てからは、挫折の季節を経てなお、かつての考え方にしがみ
 ついている人との付き合いは免除してもらうことにしました。こ
 れまでは、責任がないわけではない、と思ってきましたが、時代
 が変わってしまったんだから罪報感もこれきりにさせてもらおう、
 つきあいにエネルギーを費やすのではなく、自分の考え方を展開
 して公にすることにエネルギーを使おう、と考えるようになりま
 した。

  私はこのようなところまで到れていないわけで、まだまだ過去の付き合いのなかにぐずぐずしています。まあ私などはどうでもいいのですが、吉本さんはこうして、「マス・イメージ論」と「ハイ・イメージ論」の世界に到るわけなのです。

    今の都市は工業都市ではなく、第三次産業都市というか、「超
 都市」になっています。この、都市から超都市へ移っていく過程
 をキチンと論評しなくてはいけないと意識しはじめたんですね。
 僕の著書としては、大衆文化論にあたるのが『マス・イメージ論』
 であり、超都市論を『ハイ・イメージ論』で、これはまだ完結し
 ていませんが、正面から論評してみようとしたわけです。これら
 は『共同幻想論』の続きとなっており、『共同幻想論』が、共同
 体のあり方を、過去に遡って論じてみたとすれば、『マス・イメー
  ジ論』や『ハイ・イメージ論』は、現在から未来への共同体のあ
 り方を規定しようとしたものです。

  ここのところが、多くの進歩的評論家等々が吉本さんと合わなくなっていくところだと思います。「どうして吉本は都市資本主義を評価するのだ」というところでしょうか。それはそれらの人たちがこの時代の分析ができていない証左だと私は間違いなく思っています。あいかわらず、社会主義やマルクス主義やロシア革命が間違っていたのではなく、スターリンが悪いのだですませたいのでしょう。
  またそうした連中が一番引っかかってくるのが、こうした吉本さんの流れからでてくる「小沢ファシスト論の雷同者こそファシストだ」という刺激的な言葉だと思います。これでまた間違いなく、私も攻撃され私は当然に大声で反論していくことになると思っています。
  私は小沢一郎というと、密室政治、料亭政治、恫喝政治のみの政治家であり、平気で嘘をつく奴だと思ってきました。それが昨年政権をとってからは、どうも少し違うようだなということに気がつきはじめました。違うというのは、小沢が変わってきたことと、私の見方も変化したことがあります。もはや自民党の明治大正生まれの政治家がやっていた時とは、かなり何もかもが違ってしまったのです。
  吉本さんは細かく「小沢のどこがファシズムか」といって展開していますが、読んでいてなるほどとうなずくところばかりです。

    ですから、ここ十年、十五年までの間に限っていえば、小沢一
 郎の意見に僕は異論ないですね。現状のように「体制−反体制」
 の対立や左翼性が消滅した時代が続き、その都度の「イエス・ノー」
 が時代を動かすことになるんじゃないでしょうか。

  この「その都度の『イエス・ノー』」というところは本当によく判ってきます。反体制だから、左翼だから、労働組合だから正しいのではなく、その都度の判断なのです。だから例えば、私のまったく評価しない嫌いな社会党が、「福祉税法」などというアメリカ向けの悪法を潰してしまったのは、「その都度のイエス・ノー」の原則に従って、断乎評価し誉めたいところです。

  最後に「新しい『マルクス』の誕生」というところで、ロシア・マルクスの思想が蘇生することはないが、マルクスは十年、十五年後に蘇生するかもしれないといっています。これも私など感激して読んだところなのです。でもまたこのところも誤解しかしない人がいるんだろうなとは思っていますが。

    あるとしたら、かってマルクスが資本主義が興隆し、都会が隆
 盛し、労働者街が出来て公害病としてロンドンで肺結核が流行し
 ているのを見て、資本主義はだめだというふうに思ったように、
 十年、十五年後の超資本主義が行き詰まった時代に、「新しいマ
 ルクス=救世主」が登場し、僕らには思いもよらない思想を提示
 してくれる時でしょう。もちろんその「マルクス主義」は、「左
 翼」とは全く関係ない主義主張でしょうけれど、そういう「マル
 クス」なら、ぜひとも誕生してもらいたいですね。

  いま何かこうしたマルクスがやがて誕生するような気がしています。その時私たちは、マルクスのいう「人類の前史が終った」といえるのではないのかと私は思っているのです

  ひとの死の印象は不思議なものだ。妙にさっぱりしたのもあれ
  ば、なにかしこりのような重いかたまりをのこすのもある。
                                              (「小川徹」)

書名  追悼私記
著者  吉本隆明
発行所 JICC出版局
定価  1,400円
1993年3月25日初版発行

11112808  内容は美空ひばり、磯田光一、鮎川信夫、島尾敏雄、サルトル、三島由紀夫等々に対する追悼文の集成です。ほとんどが「試行」等で読んでいる文章ですが、こうしてまた改めて読み直してみると吉本さんの死者にたいする痛切の感情がよく分かるように思います。吉本さんはけっして愛惜ばかりで追悼しているわけではありません。死者に対して憤慨している文章もあります。私たちがかなり興味もてる死者と吉本さんのかなりな関係をさまざまに考えさせられた文章です。

  <死> はひとの存在が共同幻想に出会うことだ。わたしたちの存
 在は共同幻想の <今> に出会おうとして時間のふちをたどりなが
 ら、けっして時間の内側に陥ちこまないように駆けぬけていく。
 あるばあいは共同幻想の <今> に出会うことがあるかもしれない。
 けれどもたいていはその <今> はわたしたちの存在とすれちがい、
 ゆきちがいをうみ、そのためにいやおうなくその存在の <死> の
 貌を情況から外らしてしまう。 <死> はどんな死であっても異和、
 関心を惹きつけづにはおかない。わたしは情況 <今> と過不足な
 く出会った <死> よりもゆきちがいや齟齬をきたした <死> にた
 くさんの思いをいだく。          (「対馬忠行」)

 どれも興味ある追悼文ですが、今回はこの対馬忠行への追悼文にかなりに魅せられました。この本に収録するのに、大幅に修正されたということですし、対馬忠行の死が私たちにかなりな感慨を抱かせたものだったからです。

  新聞記事は四月十一日に播磨灘で投身し、八月十一日に死体が
 浮上したことをひとつのちいさなカコミ記事のなかに伝えたのだっ
 た。                   (「対馬忠行」)

 これは79年のことでした。私もこの新聞記事で、この死体が対馬忠行だったことに驚いたものです。なんだか「社会主義」とか「マルクス主義」とかいうものの未来を象徴しているように思えたものでした。

  かれは革命家にはじぶんの <死> をじぶんの掌中にもっている
 権利があると述べたトロツキーにならって <死> を択んだのであ
 ろう。レーニンは普通の生活者がたまたま不可避的に革命家となっ
 た存在だが、トロツキーははじめから <革命家> とでもいうより
 ほかない存在だった。このことはふたりの記述の文体が語りかけ
 てくる含みだといってよい。トロツキーの文体と思想にはそう緊
 張する必要がないのに緊張しているところがある。革命家でない
 ことは <死> を意味するという発想が当然のようにおもえた。対
 馬忠行はじぶんが学問的な研鑽をつむことができない衰えを感じ
 たときトロツキーの自伝の言葉が蘇えったにちがいない。
                      (「対馬忠行」)

 対馬忠行のやった仕事は、現在の世界の情況をみるとき、かなり先駆的な意味があったと思います。何故ソ連がナチズムと双生児的存在でしかなかったのかの考察は、対馬忠行の仕事の中にみることができます。だがどうしてこんな模範にもなりえない国家の考察に彼は情熱をかたむけたのでしょうか。私が思うには、やはり世界最初の社会主義革命をやったというソ連を、やはりなんとかしなければと強烈に思っていたのだと思います。私たちにとってはソ連なんて最初から全体主義国じゃないのかなどと言えるわけですが、彼にとってはそうではなかったのでしょう。なんとしてもソ連の誤謬性を批判していきたかったのと思います。それがいくら研究批判したとしても、その相手にさらに幻滅していくとき、彼の死がおとずれたわけだと思うのです。

  対馬「ソ連論」の最大の弱点は、レーニンの軍隊論を鵜呑みに
 したその軍隊論にあった。というよりも対馬がレーニンと(部分
 的にはトロツキー)に依存してスターリン以後のソ連の実現を批
 判するという非自主性を脱却しえないところにあった。
                      (「対馬忠行」)

 レーニンに依拠してスターリン主義とやらを否定したって、それは何にもなっていないのです。しかし、これはひとり対馬忠行のみならず、日本の新左翼に共通するところなのです。自殺するのは対馬忠行ひとりではないはずです。新左翼が依拠した思想そのものがもっと謙虚に反省し、自殺するべき思想はまたそうすべきなのです。

 その他の追悼文も、追悼される側の人間がそれぞれ私にとってもかなりな意味のある存在だったので、かなり読んでさまざま考えてしまいます。また別なときに読めば、また別な追悼文に魅せられるに違いありません。私は今回は対馬忠行にたいする文のみで、この吉本さんの著書を紹介しようとしたにすぎないのです。

 あとひとつだけ紹介するとすれば、小林秀雄への追悼の中で、小林のみならず本居宣長の「源氏物語」理解の欠陥を指摘しているところは、かなり私をうならせたものでした。くわしくは当然読んでいくしかないのですが、少しだけ見てみましょう。

  物語の登場人物たちを動かす語り手と、語り手を動かしたり、
 じかに登場人物をしている作者とをはっきり分離出来ない、読
 みからきている。            (「小林秀雄」)

 つまり現在の「源氏」理解では、この物語が作者と語り手の完全な分離に耐える優れた作品であるという点まで到っているということだと思います。小林にも本居宣長にも、そのことの読みが欠けていたということだろうと思うのです。

書名    情況へ
著者    吉本隆明
発行所  宝島社
定価    2,800円
1994年11日10日初版発行

11112803 産経新聞に月1回第一日曜日に連載していた「社会風景論」という吉本さんの情況論があります。私はこれが読みたいだけで、毎日新聞の購読から産経新聞に替えようかななどと真剣に考えたものでした。毎月第一日曜日に駅まで行って買っていたものでした。
 最期の連載の8月の第一日曜日には、暑い中自転車で我孫子駅まで産経新聞を買いにいきました。すぐに新聞を開いたのですが、まったく驚いたのですが、隅々まで見ても、この「社会風景論」はありませんでした。どうやら連載を終えたようでした。
 この「社会風景論」16回分すべてと、吉本さん主宰の「試行」に連載されている「情況への発言」の51号(1979.1)から73号(1994.11)までの16回分、そして「中央公論91年4月に掲載された「わたしにとっての中東問題とは」を収録してあるのが、この著書です。

「社会風景論」の最初が「金丸信保釈の日」ということで、金丸信の所得かくしと脱税事件に対する印象が述べてあります。当時私もまったく同じように感じていたものだと思い出しました。

  わたしは金丸信にたいしてよりも、新聞やテレビの経営者や、
  雇われ記者や、キャスターのほうにたくさんの批判を感じた。現
  在の世界の資本主義や社会主義の体制で、清潔で金のかからない
  政治をできるとかんがえたり、実現している者がいると考えたり
  するのは、まったくの勘ちがいなのだ。人を支配できることに喜
  びを感じたり、お金は活動していればひとりでに、ふところに入っ
  てくるものだとかんがえたり、そういう願望が人一倍つよい人間
  が政治家になっているにきまっている。自分のことは勘定にいれ
  ず、清貧の思想をまもり、四六時ちゅう民衆のために献身してい
  る政治家などは、資本主義国にも社会主義国にもひとりもいるは
  ずがない。またそんな政治家が、現在の段階でいたら、かえって
  うす気味わるいとおもう。      (「産経新聞」93.4.3)

 金丸にしても私たちにしても、脱税は違法なことです。だが個人の所得や財産の内容はあくまで誰も介入されるべきものではないのです。それをさも正義の味方のようなに振舞ったのが、各マスコミの論調でした。

  金丸信が嘘つきなら、新聞やテレビの経営者や、雇われてたて
  まえだけの発言をしている記者やキャスターのインテリたちも嘘
  つきだとおもう。個人の所得や財産にまで介入するような報道を
  やるのなら、自分たちも死ぬ気までとはいわないが、傷つくこと
  は覚悟のうえでやるべきではないのか。そうでなければ社会はい
  つまでもたてまえだけの情報がマスとなって流通し、民衆は永久
  に虚像の情報で無知のまま引きまわされることになる。
                   (「産経新聞」93.4.3)

 ほぼ私がそのまま感じていたことがそのまま書かれていることに、思わず嬉しくなってきてしまいます。

  わたしは政治はいやいやながら当番だから仕方ないというよう
  にやる制度が理想だとおもっている。ちょうど町内のゴミ当番と
  おなじようにだ。だが人間の社会がそんな風景になるのが、どん
  な遠い未来か、どんな過程を踏んでいくのか、充分に知っている
  つもりだ。                          (「産経新聞」93.4.3)

 私にはこうした政治の形がどれくらい遠い未来なのかは分かりません。ただこうした制度が理想だということと、そうした理想に向って自分も進んでいくのだという気持を持っているつもりです。

 この「社会風景論」はどれも私たちが情況を見るときに、興味深いことを書いているわけです。どれも面白いのですが、「初詣の感想」という今年最初の掲載を見てみましょう。この年の不況感の予測とでもいうことが書いてあります。

  正月三が日のハレの日に冷え込みの雰囲気が板についたと感じ
  られたのは、この減収感とその延長線のうえにかんがえられる不
  安感だとみなされよう。でもわたしはこれは愉しいずれの一種の
  ような気がする。減収などほとんどなく、せいぜいひどくても現
  状維持にすぎないのだが、択んで使える消費だけでなく、光熱費
  や水道代や食費など必需消費の部分を節約しようと、電灯をぱち
  ぱち消したり、水道を固くひねったり、お茶を加減したりするの
  で、せちがらい感じが日常につきまとって減収感になってあらわ
  れるのだとおもう。本当は択んで使える消費の部分ですこし控え
  るだけで充分なはずなのだ。政府や経済団体の首脳は、早急に所
  得減税を実施すべきだというようになってきた。ようするにあま
  り迂遠なことばかりやっていられなくなったのだ。でもほんとは
  まだ迂遠なのだといっていい。もっと国民大衆の個人消費、とく
  に択んで使える消費を刺激するような、第三次産業へのテコ入れ
  と消費税の減価へと踏みこんだとき、世界の先進地域国家への不
  況へのストレートな対応がはじまるのだとおもえる。今年はどこ
  まで政府の経済政策がつきすすんでゆくのかを問われる年だとい
  う気がする。そこから新しい事態がやってくるにちがいない。
                   (「産経新聞」94.1.9)

 現在に到っても、これだけのことにすら政府にしろ反政府しろ、誰も言い得ていないように思えます。

 この著書はこの「社会風景論」は量的にはまったく少なくて、大部分が「試行」に掲載された「情況への発言」になっています。私は「試行」の定期購読者でしたから、みなすでに読んでしまっている文章ばかりなのですが、最後の「徒党的発言の批判」(94年11月「試行」73号)はまだ送付されていなかったために、「試行」誌上では読んでいませんでした。実はここが一番あせったところでした。私は「え、もう発行されているのかな、どうして俺のところにこないのだろう」と大変にあせったものです。このことだけは、なんだか不満なところです。
 定期購読者である私にとって、単行本に収録される「情況への発言」も、もう先に読んでいるよというのが、ひそかなる優越感だったのに、今回は驚いてしまったものです。

 この未だ見ぬ「試行」73号での内容は「言葉狩り」の問題を扱っています。高校の国語の教科書にのった筒井康隆の文章に「日本てんかん協会」が、「差別を助長するのでは」と抗議して、それが筒井の「断筆宣言」にまで到った問題です。私はこの話題になっている問題を、けっこう詳細に見るようにしていたところでした。
 菅秀美「『超』言葉狩り宣言」を手に入れて、さまざま検討し、なるほどよく菅ちゃん(実は私には友人でもある、恥しいんだけど)は、詳しく書いてくれているのはいいけれど、これもまたまったく駄目なのじゃないの(ぜんぜんどうしようもなくこれまた駄目だと)と思っていたところでした。

 「言葉狩り」、つまり組織、集団、政治徒党によって、言葉から
  入ってくる制約や禁止の強制、脅迫は、「差別」せよというもの
  (たとえば戦時下の天皇制によるような「敬語を使え」)であっ
 ても、「差別」するなというものでもあっても(部落解放同盟か
 ら菅や金井や柄谷、浅田のような徒党からのものであっても)す
 べて、拒否し否定し、粉砕すべきものだ。この連中にはいくらいっ
 てもわからないだろうが、「言葉狩り」というのは「人間狩り」
 よりもっと悪なんだ。それは「生命がけ」という言葉はあるが、
 「言葉がけ」という言葉がないのとおなじ理由による。「人間狩
 り」をやる者や組織は、じぶんが権力、組織、個人の死を拾った
 り拾われたりすることがありうることを前提にしている。部落解
 放同盟、フェミニズム集団、その他日本てんかん協会でも菅や柄
 谷や浅田のようなマカロニ・ウェスタンの徒党や蓮實、金井、渡
 部直巳のようなその同伴者でも同じことだ。ようするに「言葉狩
 り」など肯定するのは、甘ったれの徒党なんだ。

 吉本さんはもっと厳しくこれらの「徒党」を批判罵倒している。だが分かるだろうか。本当はその底に、どんなに優しい気持がこめられているのか分かるだろうか。菅ちゃん、馬鹿はいいかげんにしてほしいのだ。
(菅秀美のペンネームの「すが」の漢字は糸へんに圭ですが、JISに出てきません。だから本名の字「菅」を使いました)

題名    情況との対話第29回−都市博中止は是か非か
著者    吉本隆明
掲載誌  徳間書店「サンサーラ」1995年8月号
定価    650円

  青島幸男は都知事に就任してすぐに、知事選のときじぶんが公
  約に掲げた「世界都市博覧会の中止」と、都議会がすでに決定し
  ていた都市博の開催についての準備工事の進行のあいだの矛盾に
  当面した。軽味の芸を本領とする青島幸男でも、都市博中止とい
  う公約など、どうせ知事に当選するはずがないから冗談半分に掲
  げてみただけだというように茶化すだけの器量はなく、「悩みに
  悩み、熟慮に熟慮を重ね」たと声明文の中でのべている。わたし
  はほかのことは青島都知事を選んだ都市大衆の叡知に舌を巻くほ
  ど感服したが、この公約はつまらない独りよがりだけで、都市大
  衆の利害をまったく勘定に入れずに、じぶんの理念を大衆のため
  につくすものだと主観的に思い込んでいるだけの旧来の進歩派
  (スターリン・ソフト)を一歩も出ようともしないし、破ろうと
  もしない態度におもえて仕方なかった。

11112602 私が青島の「都市博中止」という公約を不快にしか感じていなかったことが、まったく吉本さんによって、同じく語られているときに、私は自分が過去いわば左翼過激派であったときから今の私に到るまで歩んできた道がやはり間違いではなかったようだなという確信を持ちました。まさしく自らは、自民党保守派とは違う理念をもった進歩派なのだと思い込むだけの連中ほど、私にとってはただただ反吐の出るだけの存在でしかないのです。
 吉本さんはこの文の中で、まず青島幸男が(大阪では横山ノックが)なぜ当選したのかを分析しています。青島以外の候補者について述べている内容は思わず笑ってしまいます。わけても大前研一についてのところは、これは大前もまいるだろうなと思ってしまいました。

  大前研一は、たぶん候補者のなかでは政治的な見識も、経済政
  策的な見識も、学問も、格段に優れているとおもう。でも都民大
  衆の票を獲得するのには何かが欠けているような気がする。ひと
  口に、欠けているものは見識ではなく、大衆性だといってもいい。
  譬てみれば、芸術大学の声楽科の研究生や教師が郷ひろみの歌唱
  は発声法が出鱈目だからだめだと評価したとしたら、だめなのは
  研究生や教師のほうで、郷ひろみはやはり偉大だと、評価できる
  ような大衆への叡知がないのではないかと思わせるところがある
  ような気がする。

 実をいえば、大前は子どものときから吹奏楽や合唱をやっており、それこそが自分の思考の原点なのだと言っているようなところがありますから、「郷ひろみなんて冗談じゃない」というところがあるでしょうから、それをわざわざ踏まえて言っている吉本さんて、実に面白い人だなと思いました。大前はくさりきってしまうでしょう。うん、もっとくさりきっていただきたいものですね。
 さてそれで、青島の世界都市博中止の公約なのですが、吉本さんは都議会の「決議」の要旨を紹介したあと、次のように述べています。

  わたしの意見をすこし細かく言えば、次のようになる。
 (1) 都市と文明の在り方について、できるかぎり世界じゅうの都
    市から展示を集めるようにすれば、居ながらにして得られる知
    識、見聞、論議の豊饒化は量りしれない。すくなくとも都市と
    文明のこれからの在り方について飛躍的な進歩と知見をもたら
    す基になりうる。そのために博覧会は中止よりも、もっと大規
    模なほどよい。
 (2) 都市や国民が展覧を見物に出かけることで感性的な愉しみ、
    都市と文明への見聞の豊さ、行楽の機会などが獲得されること
    をかんがえると、都市の消費大衆にとって損になることなど何
    もない。
 (3) あまりに期待をかけることはできないにしても都民や国民の
    消費が活性化され、企業体の収益が刺激され、不況を脱するた
    めのいくばくかの経済好転をもたらすことは疑いない。
 (4) もし企業体の不当な過剰利得や自治体職員との癒着が心配な
    ら青島幸男が、一般都民から委員を選出して、構想のなかに加
    え、監査するシステムをもてばよい。

  鈴木前知事は、青島幸男が世界都市博中止を公約したからといっ
  て、中止を決定したことを「サリンを撒いたとおなじだ」と評し
  たと報道している新聞があった。わたしなどもおなじような感想
  をもつ。こんなことをいうと青島や周辺の市民主義支持者は、
  鈴木都知事は保守派だから、その都政とくに東京湾岸の開発
  や世界都市博は悪くて、企業体を利するだけで、都民にとって
  無駄使いだくらいに思って、また大衆を誤るかもしれないが、
 これほどの進歩派の嘘はない。米自由化反対というスローガンや、
  その前の消費税反対のスローガンとおなじように、都民や国民大
  衆をだまして、スターリン思想そのままの反動政策に奉仕させ、
  それが間違いであることが明瞭になった現在でも、何も責任をと
  らずにつぎの誤った反動政策を打ち出す。どこにも自己の理念
  について内省を加えないまま、まだおなじことをやろうとしている。
  そしてまだ旧い区分けのままに進歩派は善で、保守派は悪とい
  う固定観念を押し通そうとしているとしかおもえない。いい
 加減に自分の党派本位の主観にすぎないかんがえを解体して、
  都民や国民大衆一般(市民主義の運動者のことではないよ)の
  利害を本位とする普遍的な場所に就くべきだとおもう。

 確かに青島に限らず市民主義者や進歩派ほど、自らのみが善であり、保守派や各企業体はすべからく悪だとしてしまう傾向が顕著です。そして一体こうした傾向とどのくらい私たちは言い合いを続けてきたことでしょうか。これからもまだまだ続くに違いありません。またこれは、清貧思想の持主や反動エコロジストにも共通して見られることでもあると私は思っております。
 吉本さんは青島の5月31日の「世界都市博覧会の中止決定に当って」という声明を全文紹介したあと、さらに次のように言っています。

  軽味の話芸を身上とする芸能人が、真面目な顔して嘘をつい
  たらおしまいだぜ。ようするに、この声明の言っていることは
  二つだ。
 (1) 「都市博は撤回」というのは、公約であり、それで知事選
    に臨んだのだから、都知事に就任してこの公約をひるがえす
    ことは都民のじぶんに託した期待を裏切ることになり、都民
    の政治不信を決定的なものにするから、この公約を守ること
    が、いちばん優先さるべきだとかんがえる。
 (2) 都市博構想はバブル最盛期の所産で、臨海副都心開発のきっ
    かけとしての意義を喪っている。現在の社会経済状況のもと
    では成功するかどうかの危惧もある。この二つとも不可解な
    言い草だ。もし「都市博は撤回」という公約が、都民のため
    に不当な公約だったらどうなんだ? そのことに何も触れて
    いないではないか。そしてわたしは都市大衆にとって中止の
    方が不当な公約だとしかおもえない。だから何故不当だった
    のか、なぜじぶんが都民のためではなく、市民主義運動のた
    めを都民のためと錯覚したのかを摘出して、いさぎよく都市
    博進行の方向で、青島幸男の構想を宣明すべきではないか。
  企業体に不正が起こらないように一般都市大衆から監査委員
    を挙げるとか、都市博終了後に設備利用については一般都民
    大衆の利益を優先するとか、青島にふさわしい方策はいくら
    でもあるはずだ。わたしは都市博が一般都民のために不利益
    になるという理由を数えることはまったく不可能だとおもう。
    また経済的にも中止した方がかえって、都税を使い込み、不
    況を倍加し、都民と都市と文明を委縮させることは明瞭だと
    思う。

 そもそも私は青島が都知事選に出たときから、この公約に関してどこまでまともに考えていたのか自体を信じていませんが、とにかく「都市博開催」に×を付けた以上、なんであれ、それをそのまま通そうとしか考えておらず、都民のことなど何一つ考えていないとしか思えません。いったい都市博を中止すると、どう都民にとって利益になるのでしょうか。都市博を開催すると、どう都民にとって不利益が生まれるというのでしょうか。これは彼が都知事という政治家となった以上、彼自身の言葉で説明すべきことなのです。

  個人消費が実所得の半分を超えた高度消費社会の先進国で、湾
  岸を構築し、都市博を推進することが、社会経済を悪化させるこ
  となどあり得ない。また不況をなかなか脱しきれない現状の社会
  で、消費活性化と少しばかりではあるが企業効果を促進しないこ
  ともありえない。青島幸男の声明は、ほとんど信じられない都市
  社会の貧困化の政策につながるとしか言いようのないものだ。こ
  んなことは、黒古一夫のような無智な文士にしか言いようのない
  ものだが、青島幸男はいったい何を考えているのだ。ゴミ捨場の
 ゴミ処理を見学して、都民はゴミを少なく出すようにしないとい
  まに東京はゴミに埋まってしまいますなどと語るのをみて、もし
  かしてこの人はとんでもないことを考えていて、都市博の中止も
  その一環ではないのかと、ふと危惧を感じた。高度の焼却技術装
  置を建設して、灰化したゴミで都市の陸地を増強するという方策
  こそ、構想すべきなのだ。それは都市博を鈴木前都知事よりももっ
  とできるだけ大規模に実施するのが、都民大衆のためだというの
  とまったく同じことなのだ。馬鹿な清貧主義による社会の貧困化
  政策はじぶんたちの仲間だけのことにしてもらいたいものだ。

 まったく清貧の思想などというのは、勝手に自分たちだけで自分の家だけでやってほしいものです。ゴミを適確にかたずけてくれるべき都知事は、それを淡々とやればいいのです。何か私たちの生活の姿勢や生き方がゴミの増大に一番問題なのだなどというのは、許し難いことであると思います。それなら、もうそんな人は都知事としてはいらない存在でしかないのです。だが、私はおそらく青島はまったくそうした思考を持った存在であるのだろうと、今確信しつつあります。
 でもそうした都知事がいるとしても、私たちはまた一人の吉本隆明を持っていることこそが、とにかく嬉しいことであることはいうまでもありません。

題名    情況との対話第27回−サリン考−
著者    吉本隆明
掲載誌  徳間書店「サンサーラ」1995年6月号11112505

 現在さまざまなところで語られているサリン事件およびオウム真理教に関する一番優れた論考だと思いました。これだけ歯切れのいい気持いい言い方を、私たちはこの間眼にすることができなかったものです。思えば私たちはとても嫌になるような情況の場に生きてしまっているのですね。

  わたしは自民党と社会党が差異を失って浮遊しながら国政権を
  掌握している現在の政治社会状態と、サリンによる無差別殺傷が
  犯罪として出現してきたことと、大手の新聞やテレビ報道機関が
  無差別に法的確定の以前の段階で特定の個人や集団を犯罪者とし
  て葬ろうとする出鱈目な言説ふりまいていることは、絶対に関係
  あるところに、現在の情況は突入しているとおもっている。この
  浮遊する社会現象になかに、わたし(たち)はわたし(たち)の
  理念を確定すべき課題を背負っている。誤ることは恐れるべきで
  ないし、誤らないことを自慢したりすべきでない。ただ無辜の民
  衆の殺傷はあまりに悲しくどんな立場でも許されるべきでない。
  自衛隊合憲と公言して戦乱の外地に、成員たちを派遣するのだっ
  ておなじことだ。

 これが一番最後に書かれているところです。本当に私たちは、こんな情況下にある社会に生きてしまっているんだなと痛切に感じます。
 この「サリン考」は大きく2つの部分から成り立っています。1は昨年6月27日発生した「松本サリン事件」、2は今年3月21日おきた「地下鉄サリン事件」です。
 松本サリン事件は突如おきた不可思議な事件なのですが、問題はこんな猛毒ガスをいったい誰が何のために作ったのかいまも一切分からないことと、毒ガス発生源に一番近いところの一会社員を、警察やマスコミのみならず私たちまでもがあたかも犯人と思い込んでしまったことにあります。毒ガスを作り、死者7名、中毒患者30数名を出した犯人はいわば許すことの出来ない犯罪者であり、彼等犯人の責任であるわけですが、一時にせよかの会社員を犯人としてしまったことは私たち含めて大いに反省しなければならないことでしょう。

  理性的にいえば、サリンを製造し、それを放出させて、故意に
  しろ偶然の不注意にしろ、無差別に無関係の人々を殺傷したと立
  証できないかぎり、どんなに警察や報道機関が限りなく黒にちか
  いという印象を与える発表や報道をやったとしても、その会社員
  を犯人扱いにして誹謗したり、極めつけたり、村八分にしたり、
  悪魔のようなどぎつい色彩で塗りつぶしたりすべきではない。法
  を侵犯しているかどうかと、道徳を侵犯しているかどうかとは、
  げんみつには関わりのないことは、法治社会での大原則だからだ。
 また法の判定にたずさわる者が違法だとも法の侵犯だとも決定し
  ていない以前に、その人物を違法者や罪人とみなすこともまった
  く不当で、社会の公器を自称する報道関係者がなすべきことでは
  ない。またもっといえば違法者や罪人にたいして道徳的に排除を
  施すことは市民社会の成員として必ずしも正当な振舞いといえな
  い。ここまで理性的な内省を加えたとき、松本サリン事件でサリ
  ン発生源の近くにいて、自身も被害をうけて入院していた第一通
  報者の会社員を、一時的にせよ犯罪人のように思い込んでその印
  象をじぶんにたいして固定してしまったわたし(たち)は、決定
  的な錯誤に加担したといってよかった。ましてや、そんな印象を
  与えて恥じなかった長野県警も、そういう印象を流布した新聞、
  テレビなどの報道も、決定的な行き過ぎで不当だというほかない。
  ことに新聞やテレビの常軌を逸したきめつけは心底から不快感を
  禁じえなかった。

 未だ法と道徳が区別できていないのだなというのが、現代日本の社会なのではないでしょうか。そしてそれは私たち自身にもいえることなのです。

  わたし自身もスターリン・ソフトや同伴者から偽の風評(うわ
  さ)を意図的に流布されて、心身の負荷に耐えた経験が幾度かあ
  るから、この偽の風評の発生源にたいして強い警戒心を失ったこ
  とはない。そして極端なことをいえば、じぶん自身で見聞きした
  り、確認したことがない社会的評価や酵母のようにふくらんだ風
  評は一切信ずるなというモットーをひそかに内心に握りしめてい
  る。さらに偽の風評に便乗して人を陥れることに加担したものを
  一切信ずるなとも考えている。それなのにじぶんもうかうかとの
  せられそうになってしまったとおもうことも、しこたま繰り返し
  ている。人間というのは何ということになっているのだ。わたし
  たちは現在、飢餓からやっと離脱できそうになった社会を獲得し
  たかわりに、精神の病気を途方もなく伝染させられる無防備な、
  お寒い心身の状態で、この社会を通り過ぎようとしていることに
  なっているのだ。

 この私たちの社会の嫌な部分を、またしても地下鉄サリン事件で私たちは眼の前にすることになりました。
 この事件そのものは、犯人たちの悪質さとサリンという無差別な毒ガスの恐ろしさを如実に私たちの前に提示してくれました。
 この事件に対して、オウム真理教が関与している疑いのあることを断定したはじめての記事が以下だといいます。

地下鉄サリン事件 オウムの犯行と断定
数人の実行犯特定 警視庁
     95.04.16  朝刊 1頁トップ (全868字)
 死者十一人、負傷者五千人以上を出した先月二十日の地下鉄サリン事件で、警視庁築地署捜査本部は十五日までに、オウム真理教による犯行と断定、工作部隊に所属する実行犯数人を特定したもようだ。全国各地の教団施設に対する一斉捜索から押収したフロッピーや光ディスクの解析などから判明したもので、数人のうち一部はすでに逃走している。このため、捜査本部では、全国警察を通じ所在確認を急いでいるが、空前の無差別殺人事件は発生から一カ月を前にして、重大局面を迎えた。
 これまでの調べで、地下鉄事件では、日比谷、丸ノ内、千代田の営団地下鉄三線の五電車にサリン溶液が十一個置かれ、乗客が複数の不審者を目撃している。
 捜査本部では、山梨県内の施設・第7サティアンから、サリン製造に伴う化学物質が見つかったことから、オウム教団が地下鉄サリン事件に関与したとの疑いをいっそう強め、テロ、拉致(らち)、信者連れ戻し・監禁などを担当する工作部隊が実行犯として関与しているとみて、割り出しを急いだ。 その結果、全国の教団アジトや施設などから押収したフロッピー、光ディスク、メモ類を詳細に解析した結果、実行犯数人の名前が確認された。
 さらに、この数人に事件当日のアリバイがないほか、目撃情報の身体的特徴が酷似しており、身辺捜査などから事件に深く関与していることが裏付けられたという。
 このため、十四日の全国百三十カ所にのぼる一斉捜索でも、数人の発見に全力を挙げたが、一部の所在が不明となっている。捜査本部では、数人が口裏合わせをしている疑いもあるため、全員の所在が確認されるのを待って、逮捕状を用意して、一斉に取り調べることにしている。また、山梨県上九一色村にある教団施設・第7サティアンからは、すでにサリン製造の過程でできる中間・最終段階の物質や、副生成物や分解したときにできる残留物を検出したため、この施設をサリン工場と断定。
 新たに施設内の秘密実験室から十人以上の指紋を検出し、製造メンバーは化学班の十三人にのぼるとみており、実行犯と併せてメンバーの行方を追っている。産業経済新聞社

 この記事について吉本さんは、「はじめてオウム真理教にたいする疑惑をはっきりと断定した真面目な画期的な記事として映った。繰り返していうが、はじめての真剣な記事なのだ」といっています。その理由は次のように述べられています。

 (1) 営団地下鉄、日比谷線、丸ノ内線、千代田線の五電車にサリ
    ン溶液が十一個置かれ、乗客が複数の不審者を目撃していると、
    数字をあげて記事にしていること。
 (2) オウム施設から押収した資料を分析した結果、実行犯数人の
    名前が確認されたと記していること。またこの数人の事件当日
    のアリバイがない、目撃情報の身体的特徴がこの数人と酷似し
    ていると述べていること。
 (3) オウム真理教の第7サティアンからサリン製造の過程ででき
    る中間生成物、最終生成物、とくに副生成物や分解生成物が検
    出されたと記していること。ここに挙げた個条を記事にするこ
    とは、築地署捜査本部の作りあげた嘘でも、産経新聞の作りあ
    げた嘘をもとにしても、書くことはできないはずだ。またこの
    個条の嘘をデッチ上げたとしたら冗談や煽情記事といって済ま
    される事柄ではない。

 オウム真理教が犯人だというわけではなく、オウム真理教に対する警察の嫌疑をはっきりと初めて責任をもって報道した記事といえるでしょう。この記事以前の各新聞テレビでの予断をもった内容には呆れ返るばかりでした。

  ここまで記してきたのだから、当然言うべきだと思うが、地下
  鉄サリン事件以後わたしが読んだ新聞記事、テレビ報道ワイド番
  組のただの一つも、信用する気になれないものばかりだった。記
  者たちは何も存在を賭けようとせずに、無差別殺傷事件の犯人を
  疑定しようとしている。わたしはほとんど絶望的な気分になった。
  新聞記者たち、テレビキャスターやアナウンサーたち、ゲストと
  して出演している宗教ジャーナリストと称する男女、宗教学者、
  そしてわけてもひどい法的無知は、オウム真理教脱出信者を救援
  する対策の会と称する弁護士たちの言動にあらわれている。法律
  が地下鉄サリン事件や脱会信者の誘拐犯の嫌疑を特定できないう
  ちから、オウム真理教にたいいして予断と偏見にみちた殺傷犯人
  あつかいの報道と吊し上げをやっていた。ほとんど眼を覆うばか
  りの与太話でオウム真理教を殺人者あつかいして指弾している。
  たとえ殺人犯と確定した人物にたいしても差別したり、関わりの
  ない弥次馬のくせに石を投げて憎悪を報いるべきではない。まし
  て法律はオウム真理教の教徒あるいは組織が、サリンによって地
  下鉄で無差別に殺傷したとする嫌疑すら特定できていない段階の
  出来ごとだ。この段階で新聞やテレビの報道関係が先入見を一般
  の民衆に植えつけるのは不当きわまるもので、決してなすべきで
  はないと説く法曹関係の専門家は一人もいないのだろうか。素人
  がうかうかとのりすぎるのは、まだ仕方ない。わたしはこの間の
  松本サリン事件、地下鉄サリン事件とオウム真理教犯行説の予断
  を結びつけて報道して何の恥じらいもないばかりか、まるで正義
  を背負いこんだ人間であるかのような調子の言説を臆面もなく、
  居丈高にふりまく報道機関にとぐろをまく知識人士にたいし、あ
  らためて深い絶望をおぼえた。

 まったくこの間、テレビ等々で見聞した識者を見ていると、ごく少数をのぞいては、もうそれこそ「ひでえもんだな」という思いを強くしました。なんでこんな風景しか私たちの前に提示されないのでしょうか。
 さらに吉本さんは、この数々の報道で一方の当事者になってしまったオウム真理教の麻原彰晃に対して次のように言っています。

  わたしはオウム真理教の教祖麻原彰晃を、その著作から判断し
  て優れたヨーガの修行者だとおもってきたし、いまもおもってい
  る。この人が失策を演ずるとしたら穴(欠陥)はただひとつ、文
  明の歴史をすべて何者かの陰謀としてとらえる退化した史観や社
  会観にあるとおもう。これはエコロジストにたいするわたしの考
  えとおなじだ。優れたヨーガの修行者がかならずしも文明や社会
  や歴史や現在の世界情況の優れた分析や実行者とはかぎらない、
  ヨーガの修行者だから、俗世間のことに関心をもつべきでないな
  どとはいわないが、人はしばしば不得手な穴(欠陥)を拡大して
  誤るものだとはいえそうな気がする。わたしにもしこたま愚かな
  経験があるからだ。

 この麻原の欠陥の指摘はかなり決定的なものと思われます。ヨガの先生としてなら、多分優秀な存在だっただろうに、麻原は何故か世界を明確に分析でき、歴史を自らの思うとおりに流れるものと錯覚したときに、彼等が今直面してしまった現状をひきよせてしまったとも言えるのではと私には思えるのです。ただこれはひとり麻原のみにあるのではなく、エコロジスト、環境保護主義者、清貧の思想の持主等々に多く感じてしまう傾向であるわけです。
 松本サリン事件および地下鉄サリン事件をわたしたちがテレビ新聞等で見ている限り、たしかに現在の日本のさむざむとした現状を如実に眼にしてしまいます。たとえどんな凶悪事件が起ころうと、それに対して法により原則的に冷静に対処できる社会であったなら、どれほど私たちはほっとすることができることでしょうか。そうした当り前のことができていないということが、大変に寒々とした現在の情況を象徴しています。ただ、それにしても私たちはその現在という中に、こうして原則的なことをきわめて冷静に判断論考できる一人の吉本隆明をもっていることは、大いな喜びであると私は強く思っています。

 今回の村山政権成立に関する吉本さんの見解をはじめて読むことができました。

題名  情況との対話第18回−豹変する政治プラン
著者  吉本隆明
掲載誌 徳間書店「サンサーラ」1994年9月号11112327

 はっきりと「おもわずゲェッと吐きたくなるほど、最悪の内閣ができたとおもった」と言っています。私は「吐きたくなるほど」ではありませんが、こうした吉本さんの言い方に「いいな、いいな」とつぶやいてしまいました。

  ひとによっては自民党と社会党という水と油が「さきがけ」を
  乳化剤にして保守も進歩もない、また右翼も左翼もない<野合>を
  遂げたと評するむきもある。また田英夫や国弘正雄らのリベラル
  ソフトの徒党にとっては、祝盃をあげるところをテレビ映像に披
  露するほどの快挙だということになる。また構造・構改のマルク
  ス主義者浅田彰や猪口邦子などにとっては、思惑どおりの政府が
  できたことにちがいない。わたしの感想は正反対だ。おもわずゲェッ
  と吐きたくなるほど、最悪の内閣ができたとおもった。でも前に
  (前々号参照)書いたように、まんざら奇妙な取りあわせだとは
  おもわなかった。農業問題(食管法、農産物自由化、農村票)を
  基準にすれば、その保守反動性は自民と社共に共通だといえる。
  わたしはこの村山内閣に共産党が参加するかあるいは与党化すれ
  ば、最悪の内閣としての条件は申し分なく整うとおもう。事態は
  そうなればとてもはっきりする。

 まったく、これに日共が参加すればまさしくはっきりしますね。ただそうはならないようですね。日共はそんなことより、宮顕は丸山真男けなしに一生懸命というところでしょうから、まったく現在の情況には無縁な存在なのです。それにこれ以上最悪にはしてほしくありません。

  わたしが村山内閣の出現を最悪だというのはほかでもない。自
  民党は、資本主義がふるい体質の時期のように資本や企業体によっ
  て生産を制せられ、サラリーマンや労働者が喰べるために仕方な
  くそれに従事して働くといった事態ではなくなって、消費的な生
  産や消費支出の場面に大部分の重点が移されてしまったことを資
  本や企業体が反省することなしに現在の社会を動かせると、いま
  も考えているし、社会党はスターリン的な社会主義インターの意
  識のままで、ただ理念に水を薄め、甘味を加えてソフトにすれば
  済むと考えたままで自民党と連合すればいいとかんがえているこ
  とが、最悪だというのだ。

 たしかに自社はもう55年体制は終ったといいながら、どうして終ったのか、一体何が終ったのかということが判っていないのだと思います。まさしくそうしたあいまいさのみで結局はなんとかだらだらと続いていくような内閣であるように思います。
 とはいえ、こうした内閣が出来てしまったのは、現在野党になってしまった側の責任も重大だと思います。とくに今回は小沢一郎の最大の敗北であり、彼にこそかなりな責任があるように思いました。吉本さんは小沢を強引だとは思わないと述べているのですが、私にはどうにも強引すぎたやり方だったように思います。

  わたしは小沢一郎に欠陥があるとすれば、特定の党派や阿呆と
  しかいいようのないスターリン主義の残党などの評価はどうでも
  いいのだが、一般の国民大衆からみたらじぶんの政治的な挙動が
  どう視えるかという複眼のイメージをたえず繰り込んで判断でき
  なかったことにあるとおもう。

 この複眼のイメージをたえず繰り込むというのは、政治家のみならず私たちがいつも身につけているべきことであるように思えます。その点では小沢の率直さはなかなかいいのです。マスコミ等にいいたいこという姿勢などは感心してみていました。だが結局は彼の考える政治とはやはり密室政治、料亭政治から抜け出ているように思えないのです。

  わたしは小沢一郎を政治家には稀な率直な言動の持主で、わた
  したち一般の国民大衆のところまで人間を感じさせることができ
  る近来にない政治家だとおもってきた。しかし数年まえ何の失政
  もない東京都知事を下ろそうとした動きからはじまり、社会党を
  除外して統一会派「改新」をつくろうとしたり、海部俊樹を唐突
  に首相候補にもってきたりした言動を終始みていると、早急さの
 あまり一般の国民大衆の願望がどこにあるのかを見失ってしまっ
 ているとかんがえざるをえなかった。政治党派や文化知識人から
 ファシズム呼ばわりされても、本質的にはどうということはない。
 だが一般の国民大衆から理解できるイメージを失ってしまったら、
 政治家や政治運動家としての意味は半減してしまうのだ。もっと
 きびしくいえば政治家(政治運動家)失格なのだ。

 思えばあの都知事選のときには、アントニオ猪木おろしの時に土下座したとまでいわれています。おそらくは密室の中で行われることは、一般大衆には知りようがないし、関係ないことだという政治姿勢を感じてしまいます。こうして吉本さんに政治家失格とまで言われてしまうと、これはこれは小沢はショックでしょうな。

  一般の国民大衆は政党のイデオロギーの差異については第二義
 以下の大ざっぱな判断しかもってはいない。だがどんな立派な政
 治基本方針やイデオロギーを掲げても、実際にじぶんたちのとこ
 ろまで響きが伝わってこない行動をすれば、即座に第一義的な判
 断ができる存在だということは忘れてはならないといえる。

 忘れているのは、自社さきがけの政権側の大部分の政治家であり、また小沢も同じであったといえるのではと思います。
 だがけっして世界が暗く、よくなくなったのではなく、こうして政治なんてそれほどのものではない、本来は俺たちみんなで自前でやっていかないとどうにもならないようだと、たくさんの労働者、経営者、私たち国民に知らしめてくれたことは、それはまた良かったと思います。
 そして吉本さんがいうような時代世界になっていることを、おそらくは現在の与党にしろ野党にしろ、何人かの政治家たちは気がついているように思います。その人たちがきっとやがてはもっと政治の前面の出てくる時代がくるであろうことを、私は信じていたいと思っています。

題名  情況との対話第8回−女性をめぐるエピソード
著者  吉本隆明
掲載誌 徳間書店「サンサーラ」1993年11月号11112306

 ここで読売新聞の6月29日の資料をあげているのを見てみたいと思います。女子の大学、短大生を対象にして、「魅力ある働く女性」の具体的なイメージについてアンケート(文化放送調査室)をとった結果の十位までです。

   魅力ある働く女性
 1.雅子皇太子妃
 2.母親
 3.小宮悦子(ニュースキャスター)
 4.ヒラリー・クリントン(米大統領夫人)
 5.田丸美寿々(ニュースキャスター)
 6.桜井良子(ニュースキャスター)
 8.安藤優子(ニュースキャスター)
 9.松田聖子(歌手)
 10.在籍大学の教官

 ここで思うのは、私などのイメージとは随分と違うなと思ってしまいます。私たちの年代の男性がこの中であげるとすれば、小宮悦子くらいではないでしょうか。

  このアンケートのいちばんの特徴は、魅力があるかどうかの判
  断が、視覚から得られた印象によって成立っていることだ。視聴
  覚からと言いなおしてもいいし、もっと具体的にテレビからうけ
  た印象と解説を主にしていると言ってもいい。けっしてその女性
  の書いた本を読んだとか、その女性の語る見解から得られたもの
  ではない。
  もうひとつ目立つ特徴をあげれば、もう一世代まえの女子の大
  学や短大の学生だったら、もしかすると「魅力のない」」とか
  「嫌な女性」のイメージとしてあげたかもしれない女性が、魅力
  あるものとしてあげられていることだ。わたしだったら「母親」
  とか「友人・知人・先輩」とか「在籍大学の教官」とかいうのに
  何も感想が浮ばないが、固有名があげられている女性は、小宮悦
  子や安藤優子をやや例外とすれば概して「嫌な奴」のイメージに
  近いものと言える。

 これは確かに私にも判らないなと思うところです。この視聴覚からの(要するにテレビからの)判断というのは、あらゆるところで感じてしまいます。ただし、これはこの年代の女性に限らないことに思えます。もうひとつの「嫌な奴」というようなことに関しては、さらに次のようにいっています。

   ここでひとつのエピソードを思い出す。夏目漱石の『虞美人草』
  に出てくる「糸子」という女性は漱石の女性の理想像になぞらえ
  ることができる。格別に知的な教養をもっているわけでもなく、
  美女でもないのだが、世俗にたいする判断や異性や肉親に対する
  親和力のなかに叡知をひめている。「糸子」の老いた姿を想像す
  れば『坊っちゃん』坊っちゃんの老女「お清」に、若くすれば
  『三四郎』の中の野々宮の妹に転換することができよう。『虞美
  人草』のなかで自殺してしまう美女で嬌慢で知的な女主人公「藤
  尾」は、漱石がいちばん嫌な女になぞらえたものだとみなすこと
  ができる。わたしはある女流作家がこの作品で「藤尾」をいちば
  ん好ましい女性としてあげているのを読んで、ほとんど仰天した
  のを記憶している。もはやそれは好き嫌いの問題というよりも人
  間にたいする認識力のちがいのようにおもえたのだ。男女のあい
  だの認識力の違いは深淵に類すると改めて感じた。わたしは女子
  の大学や短大の学生が「魅力ある働く女性」の上位にあげている
  人たちをみて、やはり仰天したといっていい。

 なるほどねと思い、また「虞美人草」をあけてみたりしました。「お清」が漱石の理想の女性というのはよく分かる気がします。いや漱石のみならず、男性なら多いように思うのですが、違うでしょうか。吉本さんもお清なら安心して接することができるのではないでしょうか。だってフェミニズムだなんだなんて面倒なことはいわないもの。
 どうもこの文にはあまり私はひかれませんでした。吉本さんの女性との対談でも、例えば大庭みな子とか上野千鶴子とのはどうにもうまく話ができているようには思いませんでした。たぶん瀬戸内寂聴なんかとだとうまくかみあった対談になるように思います。……ちょっとこのことはまたいろいろ考えてもいいことを含んでいるようにに思えてきます。

題名  情況との対話第7回−経済連環系の話
著者  吉本隆明
掲載誌 徳間書店「サンサーラ」1993年10月号

11112301 いつも吉本さんが引用する資料には驚いてきたものです。驚くというのは、その資料というのが、誰でもどこでも手に入るような資料ばかりだからです。今回の「情況との対話」で引用されている資料は、東京新聞、読売新聞、日本経済新聞に掲載された資料ばかりです。

 東証上場企業の92年度経常利益上位20社
 男子学生が選んだ人気企業
 女子学生の人気企業ランキング

というような表がここで提示されています。こうした資料から論を展開した経済学者など他に私は知りません。
 ここでいう「経済連環系」とはいったい何なのでしょうか。

   すくなくとも女子学生の人気企業のイメージが実体として指向し
  ているのは、大部分が、第三次産業に属しており、第二次産業で
  ある製造業にかかわるごく少数の企業も、軽化学企業に属するも
  のばかりだから、わたしたちはこの指向性を先進地域国家におけ
  る産業社会の近未来像としてかんがえて大過ないことになる。もっ
  とはっきりいってしまえば、個人所得においては次第に拡大して
  いく一方である選択できる消費に対応する産業への傾きを累進さ
  せてゆくし、企業体についていえば設備投資をはじめとする総支
 出が選択消費を拡大させ、促進させる方向にむかってゆくことに
 なる。この選択消費の増大と企業体の質的な転換とは、どちらが
 ニワトリでどちらが卵であるかをいうことが無意味であるような
 連環系をつくっている。そしてこのことは女性と男性との知的な
 指向性の転倒や転換ともふかく連環しているといえよう。

 こうした連環が、実はたぶん螺旋状に上昇していくイメージが私にはわいてきます。そうしたことが、産業をより高次化していく自然な過程であり、これが貧困から離脱する方向でもあると言っています。「わたしにはこの経済原則は数学の公理にちかいものにみえる」とまで言っています。
 このことはいままで吉本さんはさまざま言ってきているわけですが、今の長引く不況という事態の中で、さらに確信してきたものだと思われます。政府なり反政府の識者が考えてきた経済政策なり、不況対策はこのことを完全に欠落していると思われます。いやそうした「数学の公理にちかい」経済原則がまったく理解できてはいないのです。

 あるものが富めばあるものは不可避的に欠乏するとか、ある国が
 富めばある国は必然的に欠乏するとかいった総需要と総供給には
  じめからタガをはめて限定しなければ、とうてい連環系を形成し
  ないような馬鹿話を流布して、わたしたちのうちに潜む通俗的な
  倫理感を惑わす俗説が、どんなに人々を毒してきたか量りしれな
  かった。総需要も総供給も、どこまでも可変のパラグラムであり、
  生産と消費も、欠乏と過剰も、方向ベクトルの並進と逆進性をか
  んがえることなしに、経済的な指標となることはありえないのだ。
  わたしたちは幼稚な倫理感が経済的な概念と短絡して、倫理の仮
  象がつくられるさまに、どれだけ進歩を遅延されたかわからない。
  いまさしあたってこの仮象とたたかわざるをえないのは、途方も
  ないエネルギーの浪費だが、致し方がないことである。

 この「あるものが富めばあるものは不可避的に欠乏するとか、ある国が富めばある国は必然的に欠乏する」という思考方が過去から現在に至るまで、どれくらいはびこっていることでしょうか。これは、一つは共産主義をめざした社会主義勢力のいっていたことであり、そしてもう一つは、平等はいいのだがそれは国家間においても平等にであるべきだという国家社会主義勢力のいっていたことであるわけです。そしてそれは戦前のみの話なのではなく、今も同じ思考方が厳然と私たちの前に存在しているのです。
 これではまさしく、「いまさしあたってこの仮象とたたかわざるをえないのは、途方もないエネルギーの浪費だが、致し方がないことである」。まったくこの通りです。
 まだまだこうした浪費とも思える闘いを積極的に続けていくことは、私たちにとって大事なことなのです。すくなくとも私はそうしていこうと考えています。

題名  情況との対話第6回−総選挙の話
著者  吉本隆明
掲載誌 徳間書店「サンサーラ」1993年9月号

11111918 この雑誌も発売されるのが待ち遠しく、すぐ買って吉本さんのだけは真っ先に読んでしまいます。ただしこうして取り上げるのはもう読み終ってから随分たってしまいました。この文は総選挙の結果がでたばかりのところに書いたものとのことです。思えば吉本さんが国政選挙のことなんかに触れるのは初めてのことではないでしょうか。

  自民党の政府は腐敗した金権体質だとか一党独裁だとか非難さ
  れながら、国際的にはわが国を世界経済を主導する実力をもつま
  でに導いてきた。国内的にはまがりなりにも九割一分の国民大衆
  がじぶんたちは中流だと自認するようになり、また統計データか
  ら計ると、最低の所得者と最高の所得者の格差が、一対四くらい
  のところまで平等化を実現してきた。戦後半世紀のあいだに日本
  社会をそこまでもってくることに政治的に寄与した。この平等化
  のデータは世界の第一位になっている。旧進歩や旧左翼の知識人
 たちは不服で、不愉快だろうが、自民政府にも進歩・左翼の公党
  にも特別のシンパシーなどをもたないので、公正にみれば、これ
  がかけ値のない判定になる。そのために社共のような左翼政党が
  スローガンにしているようなことは、ほんとうはもう保守政府の
  主導する高度資本主義によって、大部分実現してしまった。現場
  に働いている労働者やサラリーマンはそれを知ってしまっている。
  それに気がつかないのは社共のような旧い進歩・左翼の政党と、
  現場知らずの知識人だけになってしまった。もう存立の理由を思
  いきって変えられないかぎりは、意味がなくなってしまった。こ
  れは選挙まえにほとんど判ってしまっていた。自民と社共の対立
  と妥協の政治体制が解体して、社共の存在の無意味さが露わにな
  ることは、総選挙にかならずあらわれるとおもえた。

 このことと、新生党を中心として総選挙の動向は展開されるに違いないということが予測のイメージだつたとのことです。まったく、このとおりだったかと思います。吉本さんの予測がはずれたのは、投票率がもっと高率になると思っていたことです。私も結果として投票率が戦後最低だったのは嬉しいのですが、もっと高くなるだろうと予想していました。

  国民大衆のほうはわたしが思い込んでいるほど、今度の選挙を
  重要だともおもっていないし、興奮気味でもなかったことを意味
  している。にもかかわらず、結果的には妥当な選択の判断をしめ
  したといっていい。

 なんだか今度のこの総選挙こそ大事なことだと言いまわっていたマスコミがかなり滑稽に思えます。選挙後、一番元気なく思えたのは、自民社会党よりも、私には各マスコミに思えました。

  わたしが妥当だという意味は主に勢力分布についてだが、国民
  大衆の方からの判断が妥当だったという意味は、自民党が単独で
  は絶対多数を得られないように分割されたことと、社会党と共産
  党の意味が、ちょうど世界の情勢に見あった程度の軽さに修正さ
  れたことに帰着する。もっといえば、これから数年間をかけて自
  民党的な中心をもった保守政党と、新生党を中心にしたより進歩
  的な政党との二つの政権政党が形づくられてゆくに相違ない最初
  の兆候が、見えはじめたことを意味している。別な言い方をすれ
 ば社会・共産党的な民利・民福の課題はほんとうはもう国民大衆
  にとっては実現されてしまっているから、最小限二つの政権担当
  の能力をもった政党があれば用が足りる時代に入ろうとしている
  ということだ。

 これは現在細川政権ができて、今後こうした形で日本の政治政権が推移するだろうと推測できると思います。それでは社共、左翼勢力に存在意味はないのでしょうか。

  それでは社会党や共産党や新左翼には何の存在意味もないのだ
  ろうか。もちろん九割一分の国民大衆はそういう判断を選挙によっ
  て下した。民利・民福の経済政策については社共が国民大衆に清
  貧と節約を強要する以外に能がないこともはっきりしてきた。た
  だひとつ存在理由が見つけられるとすれば、戦後憲法の非戦条項
  を世界に冠たるものとして国連を介して積極的におしすすめ、核
  兵器をもたない諸国とともに米・ロをはじめとする核兵器を保有
  する国々にその廃絶をすすめる具体的な方策を提案し、それを推
  進する役割を担えるかどうかということだけだ。また国内的には
  非自民党の連帯勢力のあいだに、世界の核兵器の廃絶を働きかけ
  ることを、国是となしうるような常識的な合意をとりつけられる
  かどうかを試みることだ。その課題だけはいまのままで、社共や
  進歩・左翼勢力でも、やりようによって可能な課題としてのこさ
  れている。

 まさしくこのことだけでしょう。現在社会党がこうした合意を細川政権でとりうるなら、すこしはその存在意味を果たしているといえるのかもしれません。そしてこのことは今後の日本が国際社会で果たしていく役割として大切なことなのです。
 しかし現実の社共はどうなのでしょうか。そしてその社会党を支持してきたという連合とかいう労組はどうなのでしょうか。とくにこの間、山岸とかいう人は活躍したようですね。

  自民党と共産党をのぞいた政治勢力の創出は、新生党を中心と
  した政治改革派がやればいいことで、労組などが介入すべきこと
  でもなければ、公党と癒着したり、引き廻されたりすべきことで
  もない。労組に存在の理由があるとすれば、すべての政党とかか
  わりのない自主労組を組みあげることでしかない。そのために何
  よりも必要なことは労組の理念をソ連型の旧い国家社会主義から
  解き放すことだといえる。

 山岸の動きは「最低の動き」といえます。いったいあのようなことが労働組合のやるべきことなのですか。あのような政治勢力の創出に必死に動くことが、その役割なですか。
 吉本さんは最後に文学的な趣味の話というので、テレビの画像でみた候補者のことを言っています。羽田や小沢はかなり本音に近いところでものを言っていたのではないか、それに対するテレビキャスターは「やっぱり駄目だねと思わせるだけだった」といっています。今回ほどテレビ等のマスコミ陣が新たな政治勢力を眼の前にして惨めで駄目に見えたのははじめてだったのではないでしょうか。私は選挙後の田中真紀子と筑紫哲也の対談を見てもそう思いました。あの田中真紀子の前で、筑紫はかたなしでした。
 どうでもいい山花のことはさておき、私の嫌いな共産党の不破に関して次のように言っています。

  共産党の不破哲三は、テレビの画面ではなかなかの男前で、押
  し出しもよく婦女子に人気があるだろうなと感じた。いつもご立
  派で清潔政治をやっているような発言をしていたが、もちろん聞
  く人が聞けば嘘と矛盾がすぐ判る程度のものだった。田原総一朗
  などはあなたたちの発言はいつも正論なのだが、その正論が現実
  離れしているからいけないのだと言わんばかりだったが、わたし
  などが不破の発言を聴いたり表情を視たりしていると、正論など
  はちっとも言っていない。赤松や山花にくらべると組織だった嘘
 をいっているだけで、人間的な魅力も本音も感じられなかった。
  もちろん政党としての集合的魅力も本音もない。この人たちを本
  音のいえない魅力のない人間にしてしまったのはレーニンの組織
  論の罪なような気がしてならなかった。

 田原総一朗という人はパソコン業界のことなど書いているときは面白いのだが、ひとたび政治勢力の話になるとなんでこんなに硬直した形で視ているのかなと思ってしまいます。たとえば、社会党が内部で統一ができないと、社会党の護憲派いわゆる左派(とかいう)を支持する人の票は共産党に流れてしまうなどといって社会党になにかいいことを教えているような気になっている。あのひとの政治勢力のとらえかたは右から左まで自民党から共産党まで一列に並んでいるのだろう。私などからいわせれば、日共などというのは超保守頑迷固陋政党なのだから、社会党の左派(とかいう)を支持するひとが社会党に絶望したら共産党に行くわけがないのだ。そんな人は黙って棄権してしまうだろう。とにかく共産党をあまり尊敬してたら駄目ですよ。
 あと、栗本慎一郎のことは書いていますが、細川や武村には触れていません。それが少し残念です。

題名  情況との対話第5回−辛棒づよい人たちの政治劇
著者  吉本隆明
掲載誌 徳間書店「サンサーラ」1993年8月号

 6月15日を中心とする自民党の内紛とか崩壊とかいうことへの情況論です。実に吉本さんらしい内容だと思いました。

   わたしには、庶民とか市民とか呼ばれている九割の人たちのあ
  いだにまぎれこんで日常を繰りかえし生活していくのが、普段着
  のときの理想だといっていい。それと同時に、どんな政治社会制
  度や機構にも閉塞されずに、じぶんなりの理念をどこまでも膨ら
  ますことが、じぶんの知識にとっての普段着のままの理想だとい
  える。

11111909 まったく私もこうした日常が一番いいと思います。理想です。私の父や母がやってきたように、私もこうした毎日を過ごしていきたいと思っています。政治情況がどうだろうと、世界の環境が破壊されるとか言われても、ただ繰りかえされる日常をそのまま生きていきたい。

   それなのにわたしには九割の庶民とか市民とかに比べると普段
  の辛棒づよさが欠けている。だが戦後半世紀ほど生きてきたおか
  げで、辛棒づよさを欠いていても、庶民や市民の生活の真上のと
  ころで演じられるどたばた政治劇を我慢するのはどうすればいい
  か、何となく体得してきた。ようするの辛棒づよさがたりない部
  分だけ眼をそむけて見ないようにすればいいのだ。つまりそれだ
  け無関心を装えば辛棒できることになる。そうでもしなければ戦
  後半世紀にもわたる政治的な愚劇の下で生活を維持するのは不可
  能だったといってもよい。

 普段着のときの理想のように過ごしたいと思っても、やはり簡単にそのようにはいかないのです。私の父も母もそうだったのだ。理想のようには生きられないのだ。だから無関心になりきれればいのだ。だがここでもやはりそうなりきれない。どうしたってやはり辛棒しきれないものなのです。

  公党のあいだで政治的な愚劇が起こるたびに、公約の不履行で
  怪しからんとか、国民不在の政治だとか、民主主義の重みを心得
  ない政治家だとか、批判のコメントを飽きずに新聞などに語って
  いる市民主義者の知識人をみていると、やはり辛棒づよい人たち
  だなと感心したり、馬鹿にしてからかいたくなったりしないわけ
  にいかない。
  だが少しでも現実の政治がよくなるようにという発想をとれば、
  誰でも市民主義の知識人のようにじぶんを馬鹿の振りまでもって
  いくよりほかにないにちがいない。

 この政治的な愚劇は実は戦前からのものなのです。そしていつも正義の面した連中が、これに怒りのコメントをしてきました。私たちが思い出すだけでもいくつのこうした愚劇があったことでしょうか。

  田中角栄事件、リクルート事件、佐川事件、金丸問題と、政治
  資金や政治献金の流れを追及する仕方が、進歩政党や市民主義の
 神経症としかいいようのない卑小なそして架空の清潔主義と清貧
  主義に収斂していく有様が、苦々しくてならなかったので、政治
  改革の問題が、宮沢政府の死命を制するほど重大だとはおもって
  こなかったし、これによって政治がきれいになり、金がかからな
  くなるなどという論議は、馬鹿話以外の意味はないとおもってき
  た。

 私はこれらの愚劇のひとつひとつになんらの怒りの感覚を持ちませんでしたが、それを正義の味方よろしくなにかコメントしている進歩的市民主義者のほうにこそ腹をたてたものです。彼らに私が怒りをもつのは、結局はこれらの事件の当事者たちを選挙で選んだ選挙民のほうに一番の責任があるかのようなことをいうのですね。そしてまたそれでもこれらの事件の当事者たちがまたしても再選されてしまったりすると、なおさらにそれらの選挙民が駄目だというようなことをまたいい続けるのです。政治家が刑事事件のようなことを起こして、それがたしかにその政治家がやったのなら、悪いのはその犯人自身なのですよ。

  現在、あまり変りばえしない選挙案や政治資金の規制案をめぐっ
  て、敏感な若手の議員政治家たちが立ち騒いでいるのは、保守に
  しろ進歩左翼にしろ、じぶんたちの掲げているスローガンの大部
  分はすでに企業や国民大衆によって不用とされていることに気づ
  きはじめたからだとおもえる。それは近代以降、わが国ではじめ
  て政治家(政治運動家を含めて)がじぶんたちの存在の基盤に疑
  いをもちはじめたことを意味している。

 この立ち騒いでいる若手の議員政治家などの感覚は正しいし、いいものだと思います。だが彼らが自らの存在の基盤を失いつつあることを明確に認識したらどうなるのでしょうか、いや明確に認識してさらに考えをまとめていったとしたら、それはすこしはまともな政治家の姿をみることができるようになるのかもしれません。そのときに「政治」ははじめて私たちの前に明確な姿を現すように私は思えているのです。

11111904 カンボジアで国連ボランティアの中田厚仁という青年が射殺されたことに関して、私はほとんど何か記すというようなことをしてきませんでした。いま吉本さんの「サンサーラ」7月号の文を読んで耻ずかしい思いがします。やはり吉本さんは当り前のことをいつでも原則的にきちんという人だなと、いまさらながらに感動しました。

題名  情況との対話第4回−UNTACなど認められない
著者  吉本隆明
掲載誌 徳間書店「サンサーラ」1993年7月号

 私もいくらか飲み屋等では話をしました。飲み屋の会話でも私たち以上の年代の人たちが同じように言ったのは、あの中田さんのお父さんのテレビの画像での発言でしょうか。みんな、なぜ「息子が死んだのが悲しくて堪らない」と真っ先にいわないのだろうということでした。「なんだか戦争中の出征兵士の親みたいだな」といったかなりな年配の人もいました。本当は私なんかもっとこのことをつきつめて考えるべきだったかなと思います。吉本さんが随分前に「戦争が露出してきた」といったことがまた繰返されています。
 吉本さんはこのことを、「死者に鞭うつ感じがともなうのは申訳けない気がするが」といった上で、原則的に言うべきことを明確に述べています。

  第一に国連にボランティア制度があり、どんな資格や希望があ
  ると、その制度に参加できるのか、そして何をやるのか、じぶん
  がまったく知らなかったということがショックだった。
  第二に日本人の青年にどんな世界観や人生観や利害感覚があれ
  ば、そのボランティアの応募しようと志すのか、わたしには見当
  もつかないことがショックだった。わたしだって無意識のうちに、
  じぶんの利害感情をぬきにしてボランティア行為をしていること
  はある。でもその行為中のじぶんの精神状態が不健康に見えて仕
  方ないので、できるだけやらないようにしている。善いことをし
  ているといったあの精神状態が、たまらなく自己嫌悪をもよおす
  ので、できるなら避けたいという願望があるからだ。

このところからすると、

  中田厚仁さんの父親・武仁さんが、テレビの画像に映って喋っ
  ているのをみて、あっけらかんとして息子は人間の尊厳のために
  殉じたので、じぶんはその遺志をうけ継いでいきたいといったこ
  とを語っているのを視ていて、しきりに違和感をおぼえた。

というように感じ、本来なら

  わたしの思い込みのなかでは、中田厚仁さんの父親は、当然な
  がら、うちの息子は国民の合意もないで政府だけが勝手にきめた
  PKO(国連平和維持活動)などに無償奉仕するためにカンボジ
  アに出かけ、生命を落とすようになったら、ただの犬死だからよ
  せというのも聞かずに、出かけて射殺されてしまった。どうか日
  本の青年たちは息子のような無駄死などはせずに、じぶん個人の
  愉しみや生きる目的のためだけ生涯を使って下さいとでも言うも
  のと想像していた。

ではないのかと述べています。これは全く私たちが飲み屋などで話していたことと同じです。吉本さんは自分だけがひとり孤立しているのかなと内心ゾッとしたといっていますが、まだまだ私が飲み屋等々で話した内容は吉本さんを孤立はさせません。
 中田厚仁さんは「民主主義の種をカンボジアにまきたい」と語ったということですが、

 「民主主義の種」をまくためには前提がいる。それはもし公的な
  ことと私的なこととのどちらかを尊重しなければならない二者択
  一の場面にぶつかったら、私的なことの尊重を、じぶんにとって
  も他人にとってもためらいなく択ぶという意志をもつということ
  だ。これがなくては自国や他国に「民主主義の種」をまくことも
  不可能だし、「人権」や「生命」を守るのに加担するのも不可能
  だとおもう。

ということだと思います。これは私たちが両親の代から受け継いだ当り前かつ大切なことであると思います。なんであんな悲惨な第2次世界大戦を終え、戦後を生きてきたのでしょうか。
 また警視庁高田晴行警視の死に対しても、私たちにはあまりな情報不足のところがあったと思います。

  文民警察官というのは初耳の言葉で、新聞・テレビはその性格
  を解説してしかるべきだとおもった。

というのはまったく同感です。いったい何なのですか。文民警察官というのは。
 ではこのカンボジアへのUNTACの介入の問題をどうとらえるべきでしょうか。これがひいてはではカンボジアの問題をどうしたらいいのだということにもつながることだと思います。吉本さんはもし日本がこのような状態になっていたとしても、私たちが国連がかり集めた各国の文民や兵士からなる機構に管理されたり命令されたりしたいだろうかといっています。私たちだってUNTACのようなものはいらないのです。私たちの国内的な問題は私たち自身で解決すべきことなのです。ただし

  もちろんこの国内的な混乱が、隣国をはじめ国連諸国に損害や
  危害を及ぼしたり、国家間の戦争になりかねなくなったかぎりで
  は、国連の介入はやむを得ないものと考える。

これが大原則なのだ。だから

  カンボジアの問題は、傍観的に観察していてどんなに悲惨にみ
  えても、無駄な殺し合いにみえても、カンボジアの国民大衆自身
  の思いとはべつだ。そして当事者の選択や非選択にゆだねること
  が、大原則であるべきだ。またカンボジアの政治的な勢力が、ど
  んな愚かな殺人集団であっても、どんなに賢い善意の集団であっ
  ても、その選択は国民大衆の無意識の許容範囲と選択にゆだねる
  ことを原則とすべきだ。

といいきるべきなのです。
 それから、吉本さんが「カンボジアでのUNTAC要員の犠牲者」の国別一覧を掲げていますが、これをみるとかなりなことを感じてしまいます。宮沢以下はこうした国連のアメリカを中心とするひきまわし差別構造を理解しているのでしょうか。犠牲者は日本以外は、みなブルガリア、カンボジア、バングラディシュ、コロンビア、フィリピンという弱小国ばかりなのです。思えば、高田さんが殺されたとき、前を行くオランダの部隊は完全装備でまったく被害がなかったようですね。現在のソマリアでのパキスタン兵も同じことでしょう。これでまた日本もモザンビークまで行ってまた同じことが繰返されるでしょう。宮沢以下は、判っていないのではなく、中田さん、高田さんの血で、なにか国連での評価が得られると考えているとしてしか思えません。

  宮沢喜一の保守政府が、それほど国連に寄与し、国連のなかで
  発言権を得たい願望をもっているのなら、米ロ両国をはじめとす
  る核兵器を保有している諸国家のあいだに核兵器廃棄にむかうべ
  き具体的な方策を、先頭になって提案し、それを国軍の縮小や廃
  止にまで拡大させる国際政策を推進してゆくことの外に何もあり
  得ない。それ以外に国連機構などが存在する意味がないことは、
  次第にどの国家によっても明瞭になりつつある、とわたしには思
  えるのだ。

 このことを日本こそがやるべきだと私は痛切に考えます。

不況とはなにか(続)

題名  情況との対話第三回−不況とはなにか(続)
著者  吉本隆明
掲載誌 徳間書店「サンサーラ」一九九三年六月号

 前の「不況とはなにか」

の続編が掲載されました。ちょうど前の第二回が掲載されたあと、四月一三日に政府から一三兆二千億円の「新総合経済政策」が発表されました。
 以下著者吉本隆明さんの論点を追っていきたいと思います。

  なぜこんな大規模な不況の対策を追っかけるようにきめなけれ
 ばならなかったか、はっきりしている。これまでの規模の二回に
 わたるテコ入れくらいでは、おもうような不況脱出のきざしがみ
 られなかったからだ。どうして公共事業費の投入を主にしたケイ
 ンズ型の不況対策がそれほどの目立った効果をあげないのかは、
 これまたとてもはっきりしている。

11111705 この理由は就業者の人口からみても、国民総生産からみても、もはや第三次産業が過半量を占めているのに、あいかわらず第二次産業である建設業に公共事業費を投入するのでは、第三次産業には間接的な効果しか期待できないから、不況対策としてはねぼけたやり方にすぎない。

  第三次産業を物流と金融や信用や証券の流れのような非物流の
 二面から眺めたばあいの特徴はふたつかんがえられる。ひとつは
 物流と金融や信用や証券の流れのあいだに一対一の対応性が成立
 たないことだ。もうひとつはそこから発生するわけだが、物流も
 金融や信用や証券の流れのような非物流も、それぞれに独り歩き
 して、よし有利な経済的な場面に集中して過剰になったり、それ
 にともなう過少な部分をつくってしまうことだといえる。

 こうした先進的な地域である日本で有効な不況対策といえば、投入する公共費の半分以上を第三次産業関係に向けることである。
 さてこの観点から今回の「新総合経済対策」をみるとどうなるだろうか。公共投資の金額の振り分けを分類するかぎり、やはり第3次産業への割り振りは、少なすぎるようだ。こう結論つけざるをえない。

  ここではまだ政策担当者にケインズ的な方策(逆にいえばマル
 経的な方策)の有効さが信じられているのだ。すでに不況の原因
 が先進地域国家における第三次産業の過半分さと、第三次産業に
 おける物流と非物流の独立と分離した動きの跛行性からやってき
 ていることが、はっきりしているのに、不況対策は相変わらず第
 二次産業を主体にかんがえられている。これで効果がすみやかに
 あらわれるとかんがえる方がどうかしているということになる。

 まったく私もこの通りだと思います。ただ、この「新総合経済対策」も私は過去の政策よりは、かなり変わってきているように思います。少しずつ官僚たちも学んでいるのです。私はこの政策の中にかなりな長谷川慶太郎さんの主張の取込みも見えますし、吉本さんの言っていることの取込みも見えてくるのです。またテレビ等でみているとさまざまな経済評論家等の主張がかなり変節しているのを感じます。やはり吉本さんの分析主張を取り込んでいるのや、1年前に慶太郎さんが言ってたことを臆面もなく言っている評論家を見かけます。まあ、あいかわらず「バブルがいけない」などと言い続けている識者よりはまだましかもしれませんが。
 さて次に著者はこの不況の原因を分析し、どうしたらいいのかということを主張している識者のうち、宮崎義一「複合不況」と佐和隆光「成熟化社会の経済倫理」とを批判検討します。
 宮崎義一は、複合的な不況が世界化したのは、金融自由化の流れが一国資本主義的なケインズ政策では統御できなくなったことが根拠であり、それを再構築するのは、一国ではないグローバルなケインズ政策が必要で、巨額な資金の世界的な流れをコントロールできるような強力な世界銀行を作って、世界共通貨幣が形成されるような基礎をつくらなければならないといっている。 もうこれに対しては、先に述べていることで明らかであると思う。不況がどうして起きて、そしてどのようにそこから離脱するのかは、もはや宮崎の方策では話にならないのだ。
 また佐和隆光になると、もっと話ははっきりしてくる。佐和は次のような説教をいっているという。

 (1) 二一世紀の発展途上国の人口爆発と彼らの「発展権」を前提
 とするかぎり、大量生産、大量消費、大量廃棄ないし使い捨てを
 旨とする、二〇世紀型文明の見直しが迫られている。
 (2) いまわたしたちは、こうした「ぜいたく」の粋をきわめた八〇
 年代後半の生きざまを反省し、もったいない、質素倹約、省エネ
 ルギーなど、数年前に「死語」と化した言葉を、あらためて想起
 しなければならない。
 (3) 地球環境を保全することが、飢えと貧困にさいなまれ「発展
 権」を主張する南の国ぐにと、エネルギー多消費型経済発展をと
 げてきた北の国ぐにの双方の利益につながることを、双方確認し、
 協調体制をつくるべきだ。

 いやよくまたここまで退化できるものです。吉本さんは二宮尊徳の「夜話」の世界といっていますが、まさしくそのとおりです。しかしこうした傾向がいまはびこっていますね。周書評117 の中野孝次「清貧の思想」も同じです。

  黒古一夫や佐和隆光や中野孝次が清貧な生活をしても、誰も賞
 めないかわりに咎めるものもいない。だが国民大衆に勤倹節約を
 説教するのは、まったくのお門違いで、この倒錯は諸国のスター
 リン主義者や同伴者が国民大衆をあざむいて破産させた根本的な
 前近代の発想法にしかすぎない。きびしくその錯誤を批判するよ
 りほかありえない。国民大衆に勤倹節約を強要したり勧告したり
 する佐和隆光のような見解が、ひとかどの経済学者の口をついて
 出てくるなど、わたしにはとうてい信じ難いことだ。経済学はま
 かり間違えばすぐに支配の補助学として機能できる側面をもって
 いる。宮崎義一や佐和隆光の不況分析や現在の経済状態の分析は
 それほど不都合だとはおもわないが、そこから導きだしている経
 済倫理や経済政策は、まったくの反動と退化を口当りのいい言葉
 でつらねているにすぎない。それは経済的な知識の蓄積の問題で
 はなく、見識と英知を問われる側面を経済学がもっているからだ。
 自分たちはそうしたければ清貧を守ればいい(ただし建てまえだ
 けの嘘をつくのはもうやめるべきだ)。だが少しは国民大衆の所
 得を増加させ、民衆が自由に豊かなファッション製品を購買でき
 るようになることを促進するような見識を示してみせるべきでは
 ないか。
  経済不況の現状を誤解し、政策や方策を間違えて不況に陥れた
 指導者の責任の後始末のために、国民大衆に勤倹節約を説くなど
 は、まったくの逆縁というもので途方もない間違いなのだ。

 もうなんといったらいいのか、この「不況について(続)」で、この間の不況という情況の問題はほぼ言い尽くされていると思います。とくに最後に、現在さまざまな連中がさも国民みんながぜいたくをしたのがよくなく、今後は倹約、清貧で行くべきなどといういいがかりを見事に論破してもらいました。私などかなりいらいらしていた傾向なのです。
 もうこうなったら、なんとしても、吉本さんに慶太郎さんと対談していただきたいな。そしてあらゆることを話していただきたいものです。

情況との対話-不況とはなにか

11111619 現在の不況にたいして、吉本(吉本隆明)さんの書いている文があります。私はこれを読んで、すべてがはっきりしてきた気がします。そして私たちが今後やるべきことは何なのかということも分かりつつあるように思いました。この文の分析は、かなり吉本さんがあちこちで少しずつ述べてきたことをまとめているように思います。現在の経済的な不況に対する最高の分析だと思います。残念ながら、長谷川慶太郎さんをも超えていると思いました。つまり、慶太郎さんでは言い切れないところを、はっきりと名言しています。
 ただ慶太郎さんの論点との差異等々はまた別に論じるべきかなと思いました。

題名  情況との対話第2回−不況とはなにか
著者  吉本隆明
掲載誌 徳間書店「サンサーラ」1993年5月号

 最初にこうあります。

  ど素人のくせにこの経済的な不況に介入したいモチーフはなに
  か、あらかじめひとつふたつ言っておきたい。ケインズ以後の近
  代的な経済学も、その反対のマルクス経済学も、なまの現実の政
  治経済や社会経済を分析し、経済の政策や社会政策に反映させよ
  うと企てるばあい、いずれもおなじように支配の学の発想だといっ
  ていい。やさしくいい直すと、政治や社会の政策を行える地位に
  あるものが、それを実施しようとするばあいの指針の役割を果た
  すための学問だから、そういう支配がうち出した方策を、国民大
  衆のほうが無条件に受け入れ、大なり小なり忠実にしたがうにち
  がいないことが前提とされている。マルクス主義的な用語でいえ
  ば前衛集団が政治や経済の方策をうち出すと、労働者や民衆はそ
  れを受け入れ、文句をいわずに実行するだろうということが前提
  とされている。

 現在の情況では、いやもう随分前から「ど素人」もなにもないのだと思います。近経学者もマル経学者も、もはやこの情況を切り拓くことはできないのです。それは何故なのかといえば、世界の先進地域、アメリカ、日本、フランス(あるいは旧西ドイツ)においては、

 (1) 個人所得あるいは企業収益のどちらをとっても、所得あるい
  は収益の半分以上が消費または総支出につかわれていること。
 (2) しかも、この個人所得の消費または企業総支出の半分以上が
  選択消費(択んで自由に使っている消費)あるいは設備投資(あ
  るいは択んで自由に増減できるその他の支出)につかわれている
  こと。

のという地域になっているからだといいます。

  この三地域では、すでに支配の経済学は通用しない。政府また
  は反政府が現在の日本のように不況対策をうち出しても、個人や
  企業が選択消費または設備投資を中心とする選択支出をひきしめ
  ることをやめないとすれば、不況を脱出することはありえないか
  らだ。

  もはやこの地域はどんな政府支配をもっても統御できない国民大
衆の経済レベルになっています。ただ実際にはこのことに誰も気ずいてはいないのです。

  支配を中心と考える経済理念はこの地域では潜在的に破産して
  おり、国民大衆の自己支配による自己統御のほかにはどんな政府
  もほんとうは可能ではなくなっているということにほかならない。
  公定歩合の引下げ、国債の発行、減税など、現在政府と反政府
  によって論議されている不況対策などは、いずれもまた支配の学
  としての経済学の政策化が通用すると思っている錯覚にしかすぎ
  ない。

 もはやほぼこれで言い尽くされていると思います。だがここのところを言い切れる経済学者等は吉本さん以外には皆無なのです。
 吉本さんがここで強烈に言っているのは、もはや「不況」ということの判断の視点を変更しなければならないということだと思います。もはや世界の先進的な地域はそうした重要な段階に至っているということです。したがってもしさらに私たちが、この現在の「不況」を脱出しようと考えるならば、この点からの認識からしか出発できないということだと思います。
 現在の政府、及び反政府、相変わらずの支配の学の論者たちが出してくる数々の政策と、もはや世界の新たな地平を認識しつつある、私たちとの今後のせめぎわいがどうなるのかが、そして私はどうすべきなのかが、私のとっての今後のおおいなる課題だと思っています。
 それにしても、いつも言い続けますが、吉本さんがこの同じ時間と空間にいてよかったと今回も強烈に思いました。

書 名 時代の病理
著 者 吉本隆明
聞き手 田原克拓
発行所 春秋社
定 価 1,400円

11111613 この本が店頭に並んだ日に手にとりました。「ああ、こうしたことを吉本さんに論じてほしかったんだよな」なんて思わずつぶやいていまいました。これは1992年9、10月に3回にわたって田原克拓氏による吉本さんへのインタビュー記録です。田原氏は1978年から性格教育センターというカウンセリングの仕事をやっている方です。
 こうしたインタビューで本を構成するというのはよくあるのですが、これはかなりそのインタビューの方法が成功していると思われます。どうしても双方話を合わせ、まとめがちで、問題を探求する方には向いにくいものなのですが、かなりなことまで話が突っ込んで話されています。田原氏が誠実に自分をあくまでインタビューする側として、吉本さんからできるかぎりのことをたくさん引きだそうとしているからだと思います。普通なら、ちょっとかっこつけたがるところを、田原氏が正直に聞き続けているところで、

  田原さんに触発されて、わたしの方もぎりぎりのところで何か
 言えている部分が少しでもあったらという思いがしている。田原
 さんが遠慮ぶかい言葉で発言している分だけ、こちらはこころの
 病理からみられたこの時代の未知に立ち向わなくては、という意
 欲を新たにかきたてられた。        (「はじめに」)

とまで、吉本さんに言わせていると思えるのです。
 田原氏はかなりカウンセリングの現場に吉本さんの理論を応用していると思われます。

  人間の内面の世界をたどる道すじには神経系統があり、<気持>
 の構造もあります。これは人間の「個別性」を考えていくという
 ことですから、そのひとに特有の生活ですとか、両親の問題、家
 族環境の問題など、一つ一つ意味をわかっていくことが大切です。
 おなじような現実の情況にあって病気になるひとならないひとの
 違いもあります。人間の「個別性」をあるがままにみることがで
 きないとカウンセリングは、<治った>という地点に到達しえない
 のではなかろうかとかんがえます。
      (「<個>としての病理現象 1現場から」田原克拓)

 この「個別性」を了解するのに、田原氏は吉本さんからたくさん学んだということです。例として森田療法といわれる画期的といわれるカウンセリング療法より吉本さんの太宰治の「対人恐怖」についての記述のほうが、「これさえ読めば『対人恐怖』のカウンセリングはすべて成立する」とまで言っています。そしてさらに田原氏は「心的現象論」「ハイ・イメージ論」「言語にとって美とはなにか」等からかなりなカウンセリングの方法をえているようです。ここらへんは、読んでいてかなりうなずくところです。

  ぼくはいま、人間の心なり精神を決定している要素をおおざっ
 ぱに三つの分けてかんがえています。ひとつは、人間の心の「核」
 にあるのは、胎児の時と一歳未満の時のあいだでの母親との関係、
 その時の母親との関係の障害が無意識のいちばん底のところに収
 まっているだろうとおもわれます。そのつぎは、乳児の時から幼
 児期までに、これも主として母親ですが、それと家族とか、もう
 すこしひろげれば親戚とか、近親者との対人関係のなかで形成さ
 れるものがかんがえられます。それは無意識に入っていたり、意
 識の方に出てきたりという出方をする心の「中間層」にあたりま
 す。そして三つめの「表面層」のところの大部分は、その手前の
 無意識のところから規制されていく面があって、だいたい意識的
 な振る舞いとか、意識的なそのひとの性格を形成しています。カ
 ウンセリングにひっかかってくるのは、つまり矯正も正常化も可
 能であろうとおもえるのは、「表層面」の部分と「中間層」の部
 分と、そのくらいだろうとおもいます。ひじょうに深刻になって
 きた問題は、一歳未満か胎児の時の対母親関係に限定され、決定
 されちゃうだろうとおもいます。だからそこまで入っていかなけ
 ればどうすることもできないでしょう。  (「<個>としての病
 理現象 2九割の人がカウンセリングを必要としている時代」)

 この胎児、乳児期の対人関係、家族とくに母親との関係については吉本さんが前々から述べていたところです。
 しかしこう述べられてしまうと、ではカウンセリングだなんだといったって、もう胎児の時に決ってしまうなら、もうどうしようもないじゃないかという声も聞こえてくるように思います。いや私はだからこそ、家族という関係は大事であり、そしてそこところの認識をしっかり持っていないと、さまざまな個別の病理の問題は解けないのだと思うのです。そこのところが吉本さんの鋭い指摘なのだと思っています。
 また「女性の病気は初期と晩期に出る」というところは、フェミニズムの問題点を的確に指摘していると思いました。

  女性の場合には、初期と晩期に病気の可能性があって、乳胎児
 にたいして影響を与える病気は初期に存在します。晩期は自分の
 問題としてあるとおもいます。それは男性といいますか、じぶん
 の配偶者といいますか、それに依存するよりもかつて産んだとこ
 ろの子どもの世代に依存します。ひろい意味での性といってもい
 いんですが、それを委譲するといいましょうか、そういうかたち
 で晩期の病気は現れるというのがまず普遍的な気がします。その
 普遍性から女性は女性なりに逃れようという意識があって、それ
 はフェミニズムのなかにふくまれてしまっているとおもいますが、
 それは晩期の問題だとおもいます。だから初期の問題は回避し、
 晩期の問題はいかに解くかというのがフェミニズムの本質的な課
 題で、フェミニストはたいがいそうかんがえているとぼくはおも
 います。男のばあいはまんべんなく病気ということだから、やっ
 てもしょうがない。なんかそれ自体を男性解放とかいっても、は
 じめからぜんぜん意味をなさないということがわかっている。こ
 れはけっして男性のほうが経済的に女性よりも優位な、人類はそ
 ういう歴史をつくってきたからというのはうそであって、男性の
 ほうはもうはじめからそういうのは諦めているというか、もうわ
 かっている。だからあまり主張しないだけで、内緒で浮気したり
 してごまかしているというか、そのくらいですましているという
 感じじゃないかとおもいます。
  フェミニストは、女性解放を経済社会問題のようにいおうとし
 ていますが、それはまったくちがいます。情況的にはそれでいい
 とおもいますが、本質的にはそうじゃないです。初期と晩期をい
 かに解決するか、そういう問題なんだとおもいます。
    (「<個>としての病理現象 3母親と乳胎児期の関係」)

 ここのところはなんら付け加えることのないように感じました。まったくこの通りに思います。
 また現在のさまざまな宗教現象についてのところはかなり興味深く読んでいくことができます。家族の問題等はいままでも吉本さんは展開していますが、こうした現在の統一協会とかオウム真理教等のことを扱ったのは、これが初めてだと思いました。

  いま、日本の社会をひとつの方向に視野をもって見渡そうとす
 ると、わりあい遠くまで見えるという実感が若いひとにもあるん
 じゃないかとおもいます。それと同時に逆に、近くの方を見ます
 と、まるで自分が裸だという実感がもうひとつあるとおもうんで
 す。その裸だというのは、じぶんの周辺で起こることでなんでも
 いいですが、友だちが病気になったとか、喧嘩をしたとか、ある
 いは恋愛したとか失恋したとかいうことでもいいんですが、わり
 あいあいにじぶんの外にひろがっていることから起こってくるト
 ラブルみたいなものがそのままじぶんの身近なところまで迫って
 いるという実感があるんじゃないかとおもうんです。
    (「<社会>問題としての病理現象 4宗教現象と若者」)

 この田原氏がカウンセリングで見ているような若者と、新新宗教に行く若者の姿が同じように見えてしまうということがあるのかと思います。「『新新宗教』現象は、個人が心や精神の<生きていくうえでの地図>がない、見えないという問題を象徴している」(田原氏談)という言葉で象徴できるでしょうか。
 この「新新宗教」とは、天理教、創価学会、立正佼成会等の新宗教ではない、幸福の科学、オウム真理教、統一協会等のことを区別するためにいっています。

  中世の浄土教とか日蓮宗とか曹洞宗とかの当時の新興宗教は、
 <超人的>というのはやめようじゃないか、つまりこれは<倫理>の
 言葉とか<倫理>の行いとかに直さなかったらだめなんだというか
 たちで、それぞれの宗旨、宗派はちがうんですがやったようにお
 もいます。なんといったらいいか、倫理的な教義の純粋化といい
 ますか、純粋化と倫理化がいっしょになってというかたちであっ
 たとおもうんです。現在の「新新宗教」はその逆であって、旧来
 の<倫理>がだめじゃないかとおもわれはじめたときに、いままで
 あった<倫理>を解体してもう一度新しく通用する<倫理>をつくろ
 うとするところはどこにもなくて、従来の<倫理>は基本的に終っ
 ちゃったというかたちになっている。やっぱり<超人的>なことに
 もう一回入っちゃっているような気がします。
    (「<社会>問題としての病理現象 4宗教現象と若者」)

 新宗教とも違って、主唱者の<超人的>能力がこの新新宗教には大事な要素のようです。
 また最後の「転換期における病理の行方」という章では、

  1「バブル現象」の核心
  2 わが不況からの脱出法
  3 水平線上に見えてきた未知の<倫理>

というように展開されています。バブルや不況については、もうほかでも扱われています。最後のところで、吉本さんが「ハイ・イメージ論」において展開している、「贈与論」からの母系社会の問題点に関しては、かなり面白いところです。

  明治以降の社会になってはじめて女性は解放されたとおもって
 いるわけでしょう。それはやっぱりおもてづらなんで、ほんとは
 明治以降になってはじめて男性優位の社会になったんだと理解す
 るのが妥当な理解のしかたなんです。        (「転換
 期における病理の行方 母系社会のおける男女の二重性」)

 これだけの紹介だと、過去に別な論者もいっているように思うかもしれません。そこをちょっと私ではまだうまく説明できないように思いますので、田原氏の「あとがき」から抜き出して、この本の紹介を終りたいと思います。

 「贈与論」については、もちろん「贈与」という概念を経済概念
 と理解しても不都合はないのですが、しかし「無償で提供する」
 という意味に限定しないで「価値あるものを与える」という関係
 性の概念として理解すると、これが一気に現在もなお脈々とつづ
 いている「女性」の問題として轟々と浮上してくることがわかり
 ます。

 しかし、こうして書いてきましたが、また何度も読み返したほうがいいようですね。

11081612匂いを讀む
 1999.4.30 光芒社 1,800円(税別)
 匂いを讀む
   「匂ひ」という古語
   いい匂いと嫌な匂い
   香を聞く
   匂いの病気
   匂いの本性
   匂い以前の匂い
   匂いの描写
   匂いと「こころ」
   転移する匂い
   匂いの起源
   万葉集の匂い
   古今集の匂い
   正徹のばあい
   『おもろさうし』のばあい
   芥川龍之介のばあい
   宗教の匂い
   匂いの原義
   漱石の証拠
   西行歌のばあい
   随筆の匂い
   折口万葉のばあい
   匂いと人権
 現代における匂いとは何か
     対談 平田幸子/吉本隆明
   匂いの強さと幻嗅
   漱石山脈の作家たち
   匂いの多面性について
   匂いの感覚と言葉
   匂いの宗教性について
   香水調合の知られざる世界
   匂いに対する地域差と無臭性
   匂いと香りの違い
   好きな匂いとは?
   男性用の香水と女性用の香水
   香水とワイン
   日本人好みの匂いとは?
   エロスと匂い
   匂いを消す
 あとがき

11081507詩人・評論家・作家のための言語論
 1999.3.21 メタローグ 1,600円(税別)
 妓斥娑柄阿里海
   内コミュニケーションを考える
   胎児に文字を教える
   眼を閉じたままでみえたぼく自身の体験
   アイヌの歌にみられる胎内体験
   言葉の異常と精神の異常は性質が似ている
   内コミュニケーションの原型は一歳未満にできてしまう
   出生で受ける大きなこころの傷
   乳児にとって母親は全世界
   内面を豊かにする育て方
   よい母親とわるい母親
   日本的育て方と家庭内暴力
   理想的だった明治時代の親子関係
   親子間の大きな世代的ギャップ
   母親と家庭内暴力
   太宰治と三島由紀夫の一歳未満のころ
   母親がつくる物語の枠組み
   理想的なよい母親の日本的育て方
   三島由紀夫の出生の記憶
   児童期、学童期の段階について問う
   異常の兆候は中学生であらわれる
   こころの宿命を越えて生きるということ
 狂斥佞竜源を考える
   言葉の<自己表出>と<指示表出>
   内臓にかかわる表現と感覚にかかわる表現
   三木成夫さんの理論に言語論を対応させる
   指示表出と自己表出を軸にした円
   言葉の表情はさまざまに変わる
   「早く起きて」と「午前五時に起きて」の違い
   文学にとっての最後の問題
   病気という概念と言葉の関係
   固定観念が言葉の異常を生む
   言葉の表現には「リビドー」が伴う
   宮澤賢治の文学と自己表出
   フロイトと言葉以前の言葉
   未開原始の言葉を類推する
   日本語の起源を考える
   逆語序である琉球沖縄語
   「腹黒い」という内臓語
   民族語の特色が生まれる理由
   日本の詩歌とメタファー
 係生賚世らみた作品の世界
   日本語の詩歌の最初の形式
   片歌が最古の形式だという賀茂真淵の指摘
   片歌から和歌へと移る道すじ
   東歌は上句と下句が同じ構造をもつ
   日本語の詩歌にしか起こらない<虚喩>
   枕詞の最初のかたち
   アイヌ語と枕詞
   折口信夫と奈良朝以前の日本語
   言語論を応用した大塚金之助の歌の理解
   単調なようで複雑な転換がある作品
   文学作品の価値は韻律・撰択・転換・喩で尽くせる
   幻想的な描写を生むパラ・イメージの視点
   決定的に分析し芸術価値を批評する
   主題は作品の芸術価値と一義的なかかわりはない
   日本と西欧の文学理論
 あとがき

110814061999(平成11年)

ミシェル・フーコーと『共同幻想論』
 中田平との共著
 1999.3.20 丸山学芸図書 2300円(税別)
 第一章 消費資本主義の終焉から贈与価値論へ
      対談 吉本隆明 中田平
   日本の農業問題、消費資本主義
   贈与価値
   旧ソ連の近未来
   近代国家、民族問題
   世界市場
   消費資本主義のもとでの「公害」
   天皇制
   日本人の起源
   『共同幻想論』翻訳まで
   シンポジウム「フーコーの世紀」
   フーコーの圧倒的な印象
   『性の歴史』とエイズの予感
   多面的なフーコー
   世界思想の条件
 第二章 吉本隆明『共同幻想論』を語る
      鼎談 吉本隆明 中田たか子 萩野正昭
   『共同幻想論』のモチーフ
   三つの幻想概念
   フーコーの『言葉と物』と対談の印象
   『共同幻想論』のフランス翻訳をめぐって
   フーコー・シンポジウムと翻訳出版の実状
   『共同幻想論』と天皇制問題
 第三章 『共同幻想論』のフランス語訳の完成にいたるまで
   そもそもの始まり
   フーコーの死
   田村隆一の訳詩集 DEAD LANGUAGE
   大岡昇平の『野火』Les Feux
   『古事記』KOJIKI,Chronique des choses anciennes
   エリセーエフの日本文化論 La civilisation japonaise
   ハイデガーの『存在と時間』の翻訳について
   国立図書館における日本文献の地位
   あこがれのガリマール書店
   大学紀要での公表
   統語法をめぐって
   フーコー・シンポジウム
   大江健三郎氏の返答
 第四章 ミシェル・フーコーと『共同幻想論』
   はじめに
   『世界の散文』と「世界という散文」
   メルロ=ポンティの「表現」expressionとフーコーの「再現」representation
   精神分析学と民族学
   フーコーと吉本隆明の対談「世界認識の方法」
   集合的幻覚 fantasmes collectifsではなく・・・・・・
   ・・・・・・「共同幻想」illusion commune
   フーコーの予告
   禁制と黙契
   憑き、あるいは共同幻想の個人への憑依
   巫覡と巫女
   他界、死とは何か
   生、誕生とは何か
   母系社会の存立構造
   家族とは何か
   母系社会から父系社会への転化
   国つ罪と天つ罪
   日本国家の起源
   おわりに

11081209宗教論争
  小川国夫との対談
  1998.11.20 小沢書店 1,900円+税
  家・隣人・故郷
  宗教と幻想
  生死・浄土・終末
  新共同訳聖書を読む
  宗教論争
  初出一覧

11081204父の像
  1998.9.20 筑摩書房 1,155円
  はじめに
  好きな文学者の父の像
    夏目漱石
    森鴎外
    芥川龍之介と有島武郎
    宮沢賢治と太宰治
  父の像
  あとがき

11081106アフリカ的段階について 史観の拡張
  1998.5.30 春秋社 1,600円+税
  序
  アフリカ的段階について
            
            
            
            
            
  引用文献
  あとがき
  私家版あとがき

11081008アフリカ的段階について<私家版>
  1998.1.20 試行社 非売品
  アフリカ的段階について
            
            
            
            
            
  引用文献
  あとがき

110809081998(平成10年)

遺書
 1998.1.8 角川春樹事務所 1,300円+税
 機〇爐砲弔い …1 「死」をどうとらえるか
   「ここだ」という場所が決められれば、「死」が決まる。
   僕は「あちら側」には行かなかった。
   「臨死体験」を、僕はこう考える。
   「前世」と「来世」はとらえ方が違うだけで同じ。
   「前世の記憶」は幼児期・胎児期の記憶。
   「前世」「来世」は人間にとって重要な問題ではない。
   人間の死は「死ねば死にきり」でよい。
   「死」は科学的に、まだまだ解明されていない。
 供〇爐砲弔い…2 「死」を定義できるか
   「自分の死」については何もいえない。
   親鸞の「死」のとらえ方が、僕は好きだ。
   「向こう側」から見る方法を、僕は模索している。
   社会にも政治にも「死後の世界」がある。
   精神の課題は後戻りを徹底すればいい。
   「肉体の死」を定義するのは難しい。
 掘々餡箸砲弔い
   「天皇制」の起源は「日本国家」の起源ではない。
   日本はいま、死にかけている。
   「阪神大震災」と「地下鉄サリン事件」が「日本の死」に拍車をかけた。
   「民族主義」にとらわれていることが問題だ。
   「天皇制」は自然に残るところだけ残ればいい。
   歴史観を組み直さなければ駄目だ。
   憲法に、政府に対する国民の「リコール権」を規定すべきだ。
    近代日本を動かしてきたのは「元勲層」という制度外の力だ。
   官僚の「「贈賄」と「収賄」は近代主義では割り切れない。
   九割の人ができる政治をやればよい。
   もうすぐ、誰でも総理大臣になれる日がくる。
   これからは、少なくともいまよりはいい社会になるのではないか。
 検ゞ軌蕕砲弔い
   中途半端な教育がいちばんよくない。
   授業のニセの厳格さが、僕はいやだった。
   子供の無邪気な振る舞いが、時にカンにさわる。
   教育に「理念」や「目標」が必要だと、単純にはいえない。
   東大の先生と亜細亜大学の先生を四年間以上交替させればいい。
   頭のよい学生は概して「センス」が悪い。
   「いいこと」をいう奴は、みんな疑ったほうがいい。
 后_搬欧砲弔い
   「一緒に暮らしてもいいな」と思う相手は、一人だけは必ず現われる。
   「はじまりそうになればいいね」という言葉を、生涯の終わりのときにいいたい。
   「終わりのときがはじまり」なら、男女の関係は救済される。
   男女の役割の区別がなくなり、同性愛がふえるだろう。
   人口問題は「なるようになる」しかない。
 此(験悗砲弔い
   いまの文学の問題は、村上春樹と村上龍を中心に見ていけばよい。
   村上春樹の文体は「文学体」であり、村上龍の文体は「話体」である。
   「政治と文学」の立場の批評家で、正確な批評をする人は一人もいない。
   春樹、龍は、どこへ行くのか。
   中上健次は「知識」を殺す方法を知っていたのに、殺せなかった。
   現代詩の主流を占めているのは吉増剛造、谷川俊太郎、田村隆一だ。
   漱石の文体は散文の精髄を具現している。
   「翻訳」されたからといって、「理解」されているわけではない。
 察,錣回想…1 「死」から「生」へ
   十代の後半には、「二十歳以上は生きられない」と考えていた。
   敗戦後三年間、生きた心地がしなかった。
   僕らの世代には、「このままでは引っ込みがつかない」という思いが残っている。
   僕の中には、天皇主義のときの深層がなくなってはいない。
   「絶対感情」は、簡単には否定できない。
 次,錣回想…2 「六〇年安保」から「現在」まで
   僕は「全学連主流派同伴知識人」の第二号といわれた。
   六〇年安保を、日本の資本主義に異議を唱える最後のチャンスと判断した。
   「岸政権が倒れるくらいのことで死ぬのはいやだ」と、僕は思っていた。
   埴谷さんは岩波系に取り込まれていった。
   七〇年安保の頃、「日本資本主義は栄える一方だ」という情勢判断があった。
   労働組合は市民に対するボランティア活動に徹すべきだ。
   資本家は「資本」の、経営者は「企業体」の、文学者は「文学」の場所にいればいい。
   おれの仕事はいいかもしれない、と思うようになった。
 宗〆埜紊
   フィクションとしての遺書
 あとがき

11080809食べものの話
  1997.12.15 丸山学芸図書 1,545円
  食べものの話
   好きときらいと
   食べもののための記念碑
   きらい・まずい
   物食う姿勢
   お米挿話
   香辛料のこと
   食べはじめたらとまらない食べもの
   甘味ということ
   お酒の話
   「ぬれせん」各種
   猫の食べもの
   わたしが料理を作るとき
   うまい・まずい
   即席カレーくらべ
   フライドチキンとハムバーガー
   まんじゅうとあんこ
  食の原点に還って 対談 道場六三郎/吉本隆明
   現役の達人とは
   口は禍 ?
   懐石料理の限界
   金談義
   わが家のソース
   子どものころの味の記憶
   手加減の力
  あとがき (吉本隆明)

11080801新・死の位相学
 1997.8.30 春秋社 2,678円
 内省記 溺体事故始末
 序 ハイデッガー・サルトル・ブランショ・フーコー
   触れられた死
 機仝殿紊鬚弔蕕未現代の死
   1「アフリカ的」段階における〈死〉
   2「一言芳談」と日本中世の死の構え
   3胎内記憶と臨死体験
   4消費社会のなかの〈死〉
    (資料)「餓死老人の希望」 吉本隆明
   5〈がん〉医療と告知問題
    (資料)「近藤誠『患者よ、ガンと闘うな』」 吉本隆明
    (資料)「竹内好の死(抄)」 吉本隆明
    (付)三木成夫の方法と前古代言語論
 供〇爐琉盟螻
   1〈死〉体験の意味
   2戦中派の生き方
    (追補)高村光太郎の言葉の重さ
   3東洋と西欧の生死観
   4『銀河鉄道の夜』にみる死後の世界
    (追補)宮沢賢治のもうひとつの視線
    (資料)「20世紀の名著『銀河鉄道の夜』」 吉本隆明
   5〈死〉が恐怖でなくなるとき
   6心霊現象とホログラフィ
 掘 夘奸啝爐亡悗垢襯▲鵐院璽
 「生きること」と「死ぬこと」
 〈死〉の構造
   本書に取り上げた主要文献
   増補新版の刊行に際して
  覚書 高橋康雄
  初版あとがき
  初出一覧

11080608大震災・オウム後 思想の原像
 1997.6.30 徳間書店 1,500円+税
 序
   オウム・震災前とオウム・震災後
 第一章 消費者資本主義の構図
   不況について
   景気の成り行き
   「住専」現象とはなにか(1)
   「住専」現象とはなにか(2)
   経済指数の現況
 第二章 日本政治の原像
   フランス・中国の核実験をめぐって
   コメと基地
   村上内閣のやったこと
   沖縄・有事・集団自衛権
   「日米防衛協力のための指針」について
   総選挙のモチーフ
   十大ニュース異見
   従軍慰安婦問題考
 第三章 情況との対話
   産経新聞は間違っている
   TBSのビデオ禍
   麻原彰晃 公判についてのメモ(1)
   麻原彰晃 公判についてのメモ(2)
   いじめ問題
   エイズ問題考
   餓死老人の希望
   村上春樹『アンダーグラウンド』批判
 あとがき

11080414夜と女と毛沢東
  吉本隆明と辺見庸の対談
  1997.6.30 文藝春秋 1,333円
  序にかえて 辺見庸
  毛沢東
  夜
  女
  身体と言語
  対談を終えて 吉本隆明

11080406僕ならこう考える
 1997.6.15 青春出版社 1,442円
 1「自分」の行方――私は誰か、私は何か
  ◆自分を好きになる方法、好きな自分の見つけ方
  ◆若いうちの遊びはスネをかじってでもしろ
  ◆この性格はどこでつくられたか
  ◆僕らの中の病的な“思いこみ”の正体
  ◆肉体的なコンプレックスの罠にかからないために
 2「恋愛」の行方――感情と欲望の考え方
  ◆セックスについての個人的意見
  ◆黙って浮気するか、そもそも浮気しないか
  ◆プロポーズの覚悟、離婚の覚悟
  ◆どうにかしたい自分の独占欲、相手の独占欲
  ◆男と女の出逢いについて断言できること
  ◆仕事と恋人はどちらが大事か
 3「社会」の行方――自由を生きるには
  ◆吉本隆明流会社選び
  ◆苦手は避けて通れ
  ◆悔しさを解放・解消する方法
  ◆人間が他人を恐いと感じるとき
  ◆理屈と感覚の微妙なサジ加減
  ◆コンプレックスをプラスに変える社会的発想
 4「真理」の行方――幸福になるために
  ◆成長するということ
  ◆真実を引き出す追及、嘘を増やす追及
  ◆心の傷の活かし方
  ◆僕が死ぬまえに出逢いたいもの
  ◆肉体と精神が影響し合うとき
  ◆“教育”という呪縛の解き方
 5「生命」の行方 −安らぎの哲学へ
  ◆産む・産まぬは選択するものなのだろうか
  ◆良い顔になる老い方、自由になる老い方
  ◆死はどこから来るのか
  ◆死ぬときに持って行けるもの
 あとがき

11080307吉本隆明×吉本ばなな
      吉本隆明,吉本ばなな
  1997.2.15 ロッキング・オン 1,500円(本体1,456円)
  父の記憶、娘の記憶。
    「吉本隆明×吉本ばなな」パート機Σ搬佳价
  父は批評家、娘は小説家。
    「吉本隆明×吉本ばなな」パート供κ験愨价
  吉本家の子として生まれて。
    「吉本隆明×吉本ばなな」パート掘Φ繁椶个覆淵僉璽愁淵襦Εぅ鵐織咼紂
  あとがき

110802091997(平成9年)

ほんとうの考え・うその考え
    賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって
  1997.1.20 春秋社 1,751円(本体1,700円)
  序
  宮沢賢治の実験
    宗派を超えた神
  シモーヌ・ヴェイユの神
    深淵で距てられた匿名の領域
  ヨブの主張
    自然・信仰・倫理の対決
  本書に取りあげた本
  解題――笠原芳光
  あとがき

11080108宗教の最終のすがた
   吉本隆明+芹沢俊介
 1996.7.20 春秋社 1,751円(本体1,700円)
 カタストロフからの視線――新しい段階の兆候
   西の天災と東の人災  吉本隆明
   ―填譴靴ぞ雍靴里覆で
     青島・ノック現象
     消費資本主義の段階に移った市民の感受性
   ▲タストロフを早める要素
     阪神大震災と、オウム-サリン事件が問いかけるもの
     震災とボランティア活動――政治の主体が民衆へ移りつつある
     矮小化された事件の核心
   資本主義社会を超える兆し
     新しい<善悪>の基準が必要
     息子の死と二人の父親のボランティア
   せ唆鳩从儚悗了代
     時代が変わるときの抗しがたい「力」
     二つの転向概念
     社会党の曖昧さ
 静かなる内戦
   )期的マスコミ現象
     事件固有の情況を理解しない姿勢
     新聞の投書の影響力
   ▲ウム事件の三つのポイント
     1 二代目をかんがえない宗教――自殺する宗教
        「造悪論」の理解の反響
        宗教は家族と敵対する
        極悪であるがゆえに浄土にいちばん近い
        制度外の宗教者という問題
     2 グルと弟子との対幻想の構造
        自己と自己の対話――自己対幻想
        現世を実体化しすぎている欠陥
        市民社会の本音
        市民社会の不安からくる過剰防衛
     3 ニューエイジとスピリチュアリズムとの関連
   精神の<深さ>への渇望
     神秘主義者エックハルトの影響力
     マルクス主義唯物論の誤り
     自我は<深さ>で変わる
     絶対観念に耐える<深さ>
   そゞ気療達点と「造悪」をパラレルに評価
     宗教のわからぬ麻原批判
   われらをオウムと学会に誘うもの 芹沢俊介
 根柢的解決へ向けて
   \鎖世<深さ>とはなにか
     <深さ>は世界を立体化する
     <深さ>はどうしてはかれるか
     教信の非僧非俗――直進的より円環的な価値序列
     <重さ>と<深さ>の関連
     「大洋」期と宗教のつながり
   ⊃搬里<深さ>を備えているか
     身体の成り立ち
     東洋的身体の修練法
   新宗教現象の行方
     境界点を超えてしまうことの衝撃
     極端化した<深さ>への渇望の応え
   ぅ茱屬<深さ>
     神とヨブの問答
     ヨブの言葉に匹敵する言葉を!
     出口のない世紀末現象への手がかり
 <付>親鸞の造悪論  吉本隆明
 覚書ふうに――あとがき  芹沢俊介
 おわりに  吉本隆明

11080101消費のなかの芸
 ――ベストセラーを読む
 1996.7.10 ロッキング・オン 1,751円(本体1,700円)
 かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』論。
 「芸」としてみた中東戦争
 黒澤明『夢』『八月の狂詩曲』など。
 大川隆法『太陽の法』論。
 Mr.ホーキング、出番です。
 つげ義春『無能の人』その他。
 『日本語の真相』って何?
 『生死を超える』は面白い
 『男流文学論』は女流ワイ談でしょう
 上田紀行『スリランカの悪魔祓い』
     『トランスフォーメーション・ワークブック』
 テレビ的事件(1)――『原理講論』の世界
 『国境の南、太陽の西』の眺め
 テレビ的事件(2)――象徴になった婚約
 『磯野家の謎』東京サザエさん学会/編
 大友克洋『AKIRA』1〜6
 『マディソン郡の橋』はどうか
 岩井克人『貨幣論』
 筒井康隆『断筆宣言への軌跡』――この本にかこつけて
 松浦理英子『親指Pの修行時代』の読み方。
 奥泉光『石の来歴』から『滝』へ。
 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』第1部・第2部
 ヘア・ヌードのこと
 『千のプラトー』
 立花隆『臨死体験』
 ビートたけし『顔面麻痺』
 宮崎駿『風の谷のナウシカ』1〜7巻
 麻原彰晃『亡国日本の悲しみ』『日出づる国、災い近し』
 瀬名秀明『パラサイト・イヴ』
 ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』
 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』第3部
 松本人志『遺書』『松本』
 藤原伊織『テロリストのパラソル』
 あとがき
 原典一覧

11073004吉本隆明の文化学
  プレ・アジア的ということ
 1996.6.10 三交社 1,300円(本体1,262円)
 自筆の詩「習作五十一(松川幻想)」 吉本隆明
 プレ・アジア的ということ 吉本隆明
 言語と経済をめぐる価値増殖・価値表現の転移 吉本隆明
   コメント 「フーコーと吉本隆明」 山本哲士
 母型論と大洋論(吉本隆明インタビュー) 聞き手:高橋順一+山本哲士
 カラーページ YOSHIMOTO PHOTO STUDIO
 文化の差異の起源――『母型論』をめぐって 古橋信孝
 価値の此岸と彼岸――『言語にとって美とはなにか』から 高橋順一
 吉本隆明論:序論ノート 山本哲士
 吉本隆明年記 川上春雄

11072808学校・宗教・家族の病理……吉本隆明氏に聞く
 「吉本隆明インタビュー集成別巻」
 聞き手  藤井東、松岡祥男、伊川龍郎
 1996.3.15 深夜叢書社 自由価格
 第一部 実感的教育論・学校論
     法に先走ってクロと言うべきでない
     出家する子どもを説得できるか
     子どもを育てるということ
     女の子と母親・男の子と父親
     父親・母親からのなぐられ方
     家庭に魅力があれば出家していかない
     中流意識 九〇% 時代の教育
     「国家を開く」と同じように「大学を開く」
     教育は自由であることを強制されている
     昔と今の不登校・登校拒否
     いじめといじめられの体験
     「教育」の難しさ・危なっかしさ
 第二部 オウム真理教・家族・家庭
     全仏教の否定面を出したオウム
     不満なマインドコントロールという概念
     我慢ならない市民主義イデオロギー
     数千年かけてつくってきた東洋の方法
     緩くなった男女の親和力・束縛力
     新たにつくられる無意識
     父親世代と違ってきた家のイメージ
     料理へ深入りは物を書くのと同じ
     高齢社会のイメージと仕事
     原稿は十五枚書いて完全徹夜も
     略年譜の間違いと難しさ
 あとがきにかえて (藤井東、松岡祥男、伊川龍郎の対談)
 吉本隆明とわたし (藤井東、松岡祥男、伊川龍郎)

埴谷雄高・吉本隆明の世界
    1996.2.5 朝日出版社 2,900円11072708

11072703世紀末ニュースを解読する
 1996.3.21 マガジンハウス 1,600円(本体1,553円)
  峪の人」の深層と背景
   大江健三郎ノーベル賞受賞
     「主題主義」に転じた大江作品 文学は道徳の教科書じゃない
   ビートたけしバイク事故で重傷
     乾いた情念 無意識の「自爆」
   「略奪愛」大竹しのぶVS「不倫」松田聖子
     いまどき女性の「愛のかたち」と一夫一妻制の行方
   加納典明猥褻図画販売容疑で逮捕
     「猥褻」の基準と公開性の範囲
   青島幸男東京都知事に
     賢明な都民の青島選択 賢明でない青島知事の都市博中止
   産業構造の変化と経営者
     新スタイルの本格企業家 中内功に注目する
   野茂 イチロー大活躍
     日本と外国「場」のレベルと才能の発揮
 ∩碓と宗教
   オウム真理教を思想する\源爐鯆兇┐觸のと出家のラジカリズム
     なぜ若者はオウム真理教に魅せられたか
   オウム真理教を思想する¬牛磴別噂阿量戯絞婿戮とニルバーナ・ニヒリズム
     なぜオウムは「終末論」と「最終戦争論」へと至ったか
   オウム真理教を思想する4駝な価値基準を形成しはじめた「顔のない共同体」
     テレビはオウム・サリン事件をどう伝えたか
   オウム真理教を思想するぁ峪毀閏腟繊廚領冤と善悪観を超えて
     産経新聞紙上で展開された「批判」に応える
   オウム真理教を思想する
   マスコミ報道・宗教家・弁護士・宗教ジャーナリストを一括批判する
     オウム言論情況の頽廃
   『蓮如』(五木寛之著)ベストセラー 蓮如没後五百年記念「蓮如賞」創設
     親鸞と蓮如
 社会と文学の在り場所
   愛知県の中学二年生いじめで自殺
     いじめ問題の実感的処方箋
   脳死問題と「臨死体験」
     脳内現象か現実体験か
   インターネット・ブームとウインドウズ95日本上陸
     マルチメディアでなにがどう変わるか
   不振を続ける文学
     「現実」の前に色褪せている
 だ治 世界史的未来の観点から
   村山首相の「自衛隊合憲」発言
     実質上無効とされた憲法九条の命運
   戦後50年決議成立
     戦争責任を問う場所はどこにあるか
   参院選で棄権が史上空前 社会党惨敗
     労働組合の衰退と無党派層の相関関係
   フランス核実験再開
     核の論理を無化する根底的根拠
   米兵による沖縄少女暴行事件起こる
     日米安保条約の現在をどう捉えるか
 ゾ暖饂駛楴腟繊’清箸慮什澆般ね
   「価格破壊」と「不況現象」
     不況脱出には個人消費の活性化を
   1ドル80円台 急騰する円
     「超円高」の本質
   新食糧法施行
     農業の究極的理想に至る道筋とその困難性
 精神の断層 阪神大震災
   阪神大震災起こる
     適切な事後処理をとれるかが問われる国家と自治体
   阪神大震災その後
     突きつけられた 新たな時代の社会倫理
 あとがき 聞き手から  三上治
 あとがき  吉本隆明

110726061996(平成8年)

定本柳田国男論 吉本隆明著

11072508死のエピグラム−「一言芳談」を読む
    大橋俊雄、吉本隆明
    1995.2.5 春秋社 1,957円

11072501尊師麻原は我が弟子にあらず
 オウム・サリン事件の深層をえぐる
 吉本隆明+プロジェクト猪
 1995.12.31 徳間書店 1,600円
 1 わが情況的オウム論 ● 吉本隆明
   より普遍的倫理へ
   サリン事件の感想に抑制が働く理由
   サリンによる無差別殺傷の意味
   生と死は同じだという観点
   壊滅を免れている浄土教
   人間的倫理と浄土的倫理
   浄土教の概念を変えた親鸞
   仏教解体運動に到達した浄土教
   麻原の予言と第三次世界大戦
   高く評価できるヨーガ修行者・麻原
   麻原とかつての反核運動との類似
   みんなどこかでけっ躓いている
   社会の曲り角に現れたサリンと大震災
   普遍的な倫理は何なのか
   固定した価値観を持つマス・コミ
   いつか徹底的にオウム・サリンと大震災を問題に
   産経新聞は間違っている
   資料/オウムが問いかけるもの 吉本隆明 (聞き手・弓山達也)
 2 語ろう世代と時代 −戦後五十年とオウム真理教事件
   岩上安身/切通理作/小阪修平/松澤正博/三上治/山崎哲/島薗進/横尾和博
 3 全共闘おじさんオウム・サリン事件を語る
   「全共闘おじさんオウム・サリン事件を語る」に応えて ● 吉本隆明
   法曹家、宗教家、精神医学者の呆れた言動
   マス・コミの画一性にコントロールされていない人たち
   宗教思想と理念思想の超越性にまつわる課題
   オウムの宗教的世界観は親鸞の〈善悪〉観の枠外にあるのか
 4 新新宗教としてのオウム真理教 ● 島薗進

11072112尊師麻原は我が弟子にあらず
 オウム・サリン事件の深層をえぐる
 吉本隆明+プロジェクト猪
 1995.12.31 徳間書店 1,600円
 1 わが情況的オウム論 ● 吉本隆明
   より普遍的倫理へ
   サリン事件の感想に抑制が働く理由
   サリンによる無差別殺傷の意味
   生と死は同じだという観点
   壊滅を免れている浄土教
   人間的倫理と浄土的倫理
   浄土教の概念を変えた親鸞
   仏教解体運動に到達した浄土教
   麻原の予言と第三次世界大戦
   高く評価できるヨーガ修行者・麻原
   麻原とかつての反核運動との類似
   みんなどこかでけっ躓いている
   社会の曲り角に現れたサリンと大震災
   普遍的な倫理は何なのか
   固定した価値観を持つマス・コミ
   いつか徹底的にオウム・サリンと大震災を問題に
   産経新聞は間違っている
   資料/オウムが問いかけるもの 吉本隆明 (聞き手・弓山達也)
 2 語ろう世代と時代 −戦後五十年とオウム真理教事件
   岩上安身/切通理作/小阪修平/松澤正博/三上治/山崎哲/島薗進/横尾和博
 3 全共闘おじさんオウム・サリン事件を語る
   「全共闘おじさんオウム・サリン事件を語る」に応えて ● 吉本隆明
   法曹家、宗教家、精神医学者の呆れた言動
   マス・コミの画一性にコントロールされていない人たち
   宗教思想と理念思想の超越性にまつわる課題
   オウムの宗教的世界観は親鸞の〈善悪〉観の枠外にあるのか
 4 新新宗教としてのオウム真理教 ● 島薗進

11072101母型論
  1995.11.7 学習研究社 1,800円
  序
  母型論
  連環論
  大洋論
  異常論
  病気論
  病気論
  語母論
  贈与論
  定義論
  定義論
  起源論
  脱音現象論
  原了解論
  あとがき

11071806親鸞/平凡社ライブラリー 吉本隆明
    不知火よりのことづて
  1995.11.15 平凡社 

11071720超資本主義
  1995.10.31 徳間書店 1,800円
  第一章 超資本主義の行方
      不況とはなにか 1
      不況とはなにか 2
      経済連環系の話
      なぜ働くのか
      税と景気の話
      二階建て税制の批判
  第二章 政治の病理
      辛棒づよい人たちの政治劇
      総選挙の話
      政治過程の病理
      政治的な閑話
      豹変する政治プラン
      豹変の構造
      社会党首班政権の批判
      読売憲法試案の批判
      都市博中止は是か非か
      票の構図
  第三章 情況との対話
      小びとたちの大騒ぎ
      UNTACなど認められない
      女性をめぐるエピソード
      コメの話とはなにか
      コメの話もう一度
      平成の米騒動
      国際問題の一年
      北朝鮮共和国の核疑惑
      現代神話二題
  第四章 一九九五年 阪神大震災−サリン−そしてオウム
      阪神大震災のアウトライン
      阪神大震災の骨組
      公的な表情として
      サリン事件考
      オウム評価の原点
  オウムが問いかけるもの――聞き手 弓山達也(宗教学者)
  あとがき

11070213余裕のない日本を考える
  1995.10.4 コスモの本 1,600円
  1 思想なき社会の局面
    阪神大震災が日本社会に残した事
    サリン―オウム事件の残像
    ”いじめ”と宮沢賢治の童話
    乳児期の心の欠落
  2 わが追憶の記
    心に残る友
    都立化学工業高校の思い出
    幼児のころの沖縄のイメージ
    桜についての記憶
    「自意識」
    読書開眼
  3 移りゆく町の記憶
    〈住む〉ことを感じさせる町
    子供のころ眺めた水辺
    青春とともに通り抜けてきた上野
    日本社会を象徴する上野の変貌
    古典的民家の残存する仲宿商店街
  4 過ぎ去る日々の随想
    七〇年代までのアメリカ
    「笑」はどこへ行ったのか
    おみくじ「兇」の一年
    5gの賭けの変貌
    海辺のパチンコ
    陶器への思い
    〈感覚〉から〈心〉に入る歌――〔対談 中島みゆき〕
  5 日本映画に思う
    印象に残る映画
    映画『全身小説家』を見て
    本格的で非凡な映像作家
    現実の表情を映し出したビートたけし
  6 作家が現在に残したもの
    愛着深い自作品について
    作家・吉本ばななをめぐって
    三島由紀夫「檄」のあとさき
    斉藤茂吉の歌の調べ
    作家の資質の根をあらわにした短篇
    漱石の描いた理想の女性像
    なぜ太宰は死なないのか――〔対談 高橋源一郎〕
    文学と非文学の倫理――〔対談 江藤 淳〕
  あとがき
  初出一覧

11071801親鸞復興
  1995.7.30 春秋社 1,751円
  まえがき
  
  現在の親鸞 現代に生きる課題
  宗教思想家の親鸞 時間に耐えられる思想
  〈死〉の専門家の親鸞 生と死を越境する場所
  大拙の親鸞 「日本的霊性」をめぐって
  蓮如の親鸞(抄) 親鸞思想の通俗化
  
  新新宗教は明日を生き延びられるか 幸福の科学、統一教会、オウム真理教
  『原理講論』の世界
  『生死を超える』は面白い
  【補記・引用原文】
  あとがき
  初出メモ

11071703日本人は思想したか
  吉本隆明・梅原猛・中沢新一
  1995.6.30 新潮社 1,900円
  1 日本人の「思想」の土台
    「日本思想」という言葉の意味
    へーゲル的な国家観への抵抗
    アイヌ・沖縄・本土を繋ぐもの
    近代主義の限界点
    技術の本質と自然
    この世とあの世から見る目
    日本語という遺伝子
  2 日本人の「思想」の形成
    ギリシャ思想と日本思想のはじまり
    行基の重要な役割
    「天つ罪」と「国つ罪」
    「十七条憲法」の背景
    「山の仏教」の精神
    国家も文字もつくらない文化
    稲作は城壁をつくる思想に似合わない
    本居宣長の国学について
    古代の怨霊を見失った近世合理主義
  3 歌と物語による「思想」
    和歌の発生について
    『古事記』は歌物語
    国家神話のつくり方
    ファルス『竹取物語』
    非政治的文学はいつ成立したか
    『源氏物語』の四季感が桂離宮の美学
    「幽玄」の持続と解体
    『今昔物語』以降のアモルフな世界
  4 地下水脈からの日本宗教
    「毛坊主」の系譜
    親鸞は聖徳太子の生まれ変わりか
    死んで甦る「思想」の展開
    法然のデカルト的思考
    多神教と一神教の起源
    縄文的な宗教心と踊りや芸能
    正当派仏教と日本思想としての仏教の臨界点
    怨霊鎮魂も日本人の宗教
  5 「近代の超克」から「現代の超克」へ
    京都学派による哲学の誕生
    「近代の超克」の影響力
    自己愛と分裂性パラノイア
    人間中心主義の限界
    柳田・折口の対立
    超近代小説の可能性
    危ないところで生きる
  終りにひと言 吉本隆明
  鼎談の楽しさ 梅原 猛
  とりあえず、ここまで 中沢新一

J.ボードリヤール×吉本隆明
  世紀末を語る あるいは消費社会の行方について
  1995.6.30 紀伊国屋書店 1,400円
  構成訳  塚原史
  世紀末のカウント・ダウン(ボードリヤール講演)
  消費が問いかけるもの(吉本隆明講演)
  消費資本主義社会とは
  潜在的な権力は大衆の手に
  リコール権を明文化する
  レーニンができなかったこと
  憲法第九条
  日本の社会の特徴
11071424  「死」にいたる三つの条件
  「死後」の社会をイメージする
  消費がいまの社会を解く鍵
  好景気と不況を測るものさし
  親鸞の「死」の見方
  「死」の場所から見えるもの
  対論(ボードリヤール× 吉本隆明)
  消費社会の〈死〉と「死後の世界」
  経済的リコール権の行使
  日本の〈特異性〉をめぐって
  会場からの質問に答えて
  対論 (続き) (ボードリヤール×吉本隆明)
  ポスト冷戦の世界認識
  イスラム原理主義をめぐって
  消費者の抵抗
  ユートピアの喪失と知識人の役割
  過剰の時代の倫理と理念
  雑談風に…
  ヴァーチャルなイリュージョン (ボードリヤール講演)
  顔のないシステム、顔のないテロル (ボードリヤール)
  あとがき(塚原史)

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