将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:吉本隆明自著を語る

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 これまで僕は言葉というのは自己表出と指示表出という、二つの要素から成っているという言い方をしてきましたけれど、言葉と芸術的表現との関係の場合、言葉っていうのは自己表出と指示表出の「織物」なんだ、ということなんですね。つまり概論としては、分離して説明する以外にないんだけれど、ほんとは言語というのは織物でこれは分離できるようにはできてないよ、ということなんです。(「吉本隆明 自著を語る」第九章『心的現象論』)

 ことばが、この二つの表出の織物である以上、その織物を解いたら、もう織物ではなくなるわけです。だから、自己表出だけであるいは指示表出だけの言葉は、芸術にはならないわけです。これは実に理解しやすい説明です。

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 言語を根幹に据えて、言語の表現───つまりは小説とか詩とか文芸批評の問題を、捉えてみようと思ったんですね。だから中途半端っていえば中途半端
だけれど、一番活発な精神的な働きがあるときだといえば、そうですね。
(「吉本隆明 自著を語る」第九章『心的現象論』)

 ところが、これが「中途半端」などころではなかったという思いがします。しかし私なんかには一番判りにくい書物であるかと思っています。私が読み解けるには、どのくらいの時間がかかることでしょうか。

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 いわゆる表現の芸術性が問題になるのは文学なんだという観念をもっと広げていったら、それは普遍文学というものになるんじゃないかと。だからその頃、俺は何をしたいんだっていわれたら、実際にあるかどうかは別にして普遍文学っていうものを想定していたんです。ジャンル別にこれは文芸、これは何っていう考え方をとらなくても普遍文学っていう概念を作れば最終的にその中にみんな入っていくんじゃないかと考えてましたね。それで相当程度の問題は、歴史的にもそれから現実的にもその範囲の中に入れていくことができるんじゃないかということは今でも考えたりしてますけれど。これは柳田国男なんかの影響が現れたひとつの形だと思います。(「吉本隆明 自著を語る」第七章『共同幻想論』)

 このことが『共同幻想論』について書かれている中に書いてあるというのが私には大きなことに思えます。『共同幻想論』というのは、私は単純に国家論だと思ってきたわけなのですが、そんなことでくくれないのだということを私は感じています。

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 周りの人間の死というのを観念として知っていくという形でしか、死というのは私たちの中で実体化されないのであって、それは結局死というのは共同幻想としか成立しないということなんです。そこにこそ共同幻想としての死が個人の死を侵食していくという形で、自己幻想と共同幻想の関係性が表出してくる。『遠野物語』や『古事記』といった古典における、たとえば死の扱い方を辿りながら、自己幻想と共同幻想という概念を切り口として設定し、文芸批評、政治思想、そして社会思想として統一的な接点を産み出していきたいというのが、この『共同幻想論』の基本的な考え方ではあります。(「吉本隆明 自著を語る」第七章『共同幻想論』)

 私は今自分の母の死というものに出会い、このことを強く感じている。死は私の母の死を通してしか実体化されないのだ。母の死を通して、私は人間の死というものについて何も知らないのだ、ということを強く感じている。共同幻想としての死のみが私の前に顕れている。

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 そうすると言葉っていうのは最終的な言い方で言えば、コミュニケーションのための言葉───”指示表出”と、自分なりに自分を納得させるための言葉───”自己表出”という二つの側面があると。そうするとこの”指示表出”と”自己表出”の織物って言いましょうかね。織られてそれで出てきた布きれみたいなものが言葉なんだっていう概念に到達したわけです。(「吉本隆明 自著を語る」第六章『言語にとって美とはなにか』)

 この概念はもう実に納得してしまいます。現実に今も言語を使っているわけだから、このことが実によく判ってくる気がしてしまうのだ。ただ、このことは世の言語学者には、かなりショックだったことだろうな、とつくづく思いますね。

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