将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:吉本隆明

 さらに当日私が口頭にて付け加えたこと、そして付け加えたかったことを、以下書いておきます。

 私が(資料3)で紹介しました灰谷健次郎「兎の眼」ですが、私はここで足立先生が展開されている作文教育が、戦後の作文教育の典型的なものではないかと思っています。そしてこれで教えられても、論文を書くという訓練にはならないのだとということを考えているのです。
11062002 ただ、私は灰谷さんという作家はさほど好きではないのですが、この小説に出てくる足立先生は大好きです。もう私は何度もこの小説を繰り返し読んできまして、いつも必ず涙を流しています。そして今回、また全部のページを読み返してみて、足立先生の戦争および戦後への時代との格闘の中で、この作文の教育方法は、足立先生にとっては正しいことなんだなと気が着きました。ただ、もう現在は、戦後といっても、もう時間がものすごくたってしまったのです。やはり、今の子どもたちには、明確に評論や論文を読み下し、自らも論文を書いてみるという訓練が必要なのです。
 そのことを私は(資料4)の三浦つとむさんの「認識と言語の理論」の中の引用で示したつもりです。こうした訓練ができえているだろう学習塾や予備校では、絶対にいい結果が出来ているはずです。
 また、以下を読んでいただければ、これは、現在の現実の学校でも実現できることであることは十分お判りいただけるのではと思います。

   作文指導

 これは私の次女のブルータスが、現在自分の担任クラスで実践しています作文の指導です。この指導によって、生徒たちの作文に対する姿勢はまったく違うものになっていきます。作文を苦手だなどという意識は消えてしまうかと思います。さらに以下も読んでみてください。

   ブルータスの作文指導
  (これはこのあとにUPしてまいります。その際リンクします)

 それから、私はこうして要望したきた中で、学生の人たちに、論文を書くというテクニックを教えることができればいいと考えているわけではありません。論文指導のプロともいう予備校の先生方の本を読みますと、「え、これはちょっと違うよ」と思ってしまうことを平気で書いている方がおいでになります。なにか論文を簡単に書けるテクニックがあるかのように展開される方がおいでになります。このことは「これは駄目だよ」と指摘することはできますが、相手の講師名を指摘するのはやめましょう(口答ならいくらでも教えますよ)。
 私は、この(資料4)で、三浦つとむの本を紹介しましたが、この「言語と認識の理論」は全三冊のかなり本格的なものです。またこの三浦さんには「日本語はどういう言語か」と本もありますが、これはまた実にいい内容です。吉本(吉本隆明)さんが、「言語にとって美とはなにか」を書かれるきっかけにもなった本だとも聞いています。
 こうしたちゃんとした本で学ぶことこそが私は大事なことだと考えてします。そうしたことを決して忘れてはいけないのだと私は考えております。
 とにかく、私が文教大学に要望した内容は、けっしてそれを実現することが大変なことだというわけではありません。ぜひとも、実現させていただきたいことであることを、再度要望したいと考えます。(2004.10.25)

「私の孫のじゅにが原因の分からない病気で入院しています」へのコメントへのあおぞらさんのコメント へ再びあおぞらさんから、次のコメントをいただきました。

1. Posted by あおぞら   2011年06月03日 07:27
 お孫さん快方に向かわれたとのこと、本当に良かったです。心配されるお気持ちがよく分かります。私自身、孫のことは子供以上に気になるものと日々感じています。存分にお酒をめしあがって下さい。私も六十一。団塊と言われる世代です。赤坂という人に付いてお書きでしたが、過去を神話化、観念化することの馬鹿馬鹿しさは私も感じるところです。その種の位置で人を見、物事を論じることの愚かさに気付かせてくれたのは、学生の頃に接した吉本隆明さんの著作だったように思います。都市的知性等々に違和感を持つ田舎出の学生に、「お前は間違っちゃいないさ」と著作の中で言ってたのは、当時も吉本さんら、ほんの一握りの人々だったと思います。適切に抜粋された吉本さんの著作、時々読ませて戴いております。私にはご紹介できるほどのものはなく、拝見するばかりですが、また時々訪問させて戴きたいと存じます。ご家族とご一緒にお元気な日々を―。

11060602 赤坂さんのように言われることはもう私は辟易しています。平気で「学生時代は暴れたかもしれないが、社会に出ては、企業戦士になって・・・」なんて言い方は、実にあちこちで言われました。本当に「企業戦士」とかになりたかったものですよ。ときどき、「雇いたいと思ったが、あなたは警察で『雇っちゃだめだ』といわれるいる人なんだ。覚えがありますか」なんてたびたび言われたものでした。
 中には、マルクス主義とか共産主義をとうとうとけなされる人がいて、私は「俺こそが反共主義者なんだけどな」と思っていたものでした。今思い出しても、みなくだらない人が多かったものですね。
 私は「もう履歴書を莫大に書くのが嫌になり(市販の店にたびたび買いにいくこともできなかった)、軽オフセットで印刷したものです」と言ったものですが、そういうとまたみなさんは分からないのですよ。
 私が作成したのは、履歴書をプリントしたものに、さらに私のあまり綺麗といえない字で再プリントするのです。写真はある印刷屋で小さくプリントしましてそれを張りました。だからこの写真はアミ点になっています。それで、これを実はこの履歴書を印刷したものだと見分けられる人は、100人に一人いるかいないかです。どうせ莫大にあちこちの会社へ行くのですから。ただし、これは私が31、2歳の頃です。
 それ以前はちゃんと書いていました。だから実に大変でしたね。

 明日はじゅにのまた大手術の日です。私はまたそばに行きまして、祈っています。今回初めて分かりました。必死に祈ったり、願ったりすることがいいのであり、正しいのです。私もまた明日もじゅにの手術の成功を祈ります。
 吉本(吉本隆明)さんのことは、私はいつも莫大に読むようにしています。いや私は理解も遅いので、とにかくただただ何度も読むのです。
 また明日も私はじゅにのすぐそば(と言っても、すぐそばで会えるいるわけではありません)で、じゅにのことばかり考えて、そして阿呆なじいじですから、涙も流しているでしょう。

2017022016私は11052415島尾敏雄は、全作品を読んでおり、しかも私のすぐそばには、「勉誠出版『島尾敏雄事典』」が置いてあります。

なんか羞ですね。
それで私のブログには、以下を書いています。奥様ミホさんと長男の伸三さんの作品を読んだ私の思いも書いています。

http://shomon.livedoor.biz/archives/51888307.html
島尾敏雄『死の棘』

http://shomon.livedoor.biz/archives/51904358.html
島尾敏雄『贋学生』

http://shomon.livedoor.biz/archives/51888312.html
島尾ミホ『海辺の生と死』

http://shomon.livedoor.biz/archives/51888320.html
島尾伸三『月の家族』

私が全作品を読んでいるのは、太宰治と島尾敏雄とチェーホフだけですから(ほとんど作品を読んでいる作家は他にもいますが、日記等々もすべて読んでいますのはこの三人です)、もっと書かないといけませんね。
そして私に島尾敏雄を教えてくれたのは、吉本(吉本隆明)さんです。

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11052412  吉本隆明(よしもとたかあき)は1924年11月25日の生まれで、私が一番尊敬崇拝する人です。私はどうしても名前を(よしもとりゅうめい)と読んでおり、漫画家である長女のハルノ宵子、小説家である次女のよしもとばななも私は作品を二人ともそのほとんどを読んでいます。
 ただし、この頃は吉本ばななの近頃の作品を読むのがおろそかになっているなと反省しています。
 吉本隆明さんの奥さまは、吉本和子さんです。1927(昭和2)年4月28日の生まれですから、吉本さんとは3歳違いなのですね。
 吉本さんが住まわれた東京の街を見てみますと、「月島」「新佃島」「上千葉」「駒込」「田端」「仲御徒町」「谷中」「千駄木」「本駒込」になります。最初の3つ以外は、もう私の実に親しい街ばかりになります。
 吉本さんは、この和子さんと三角関係の激しい恋の相手として勝利し、結婚しています。私は『試行』をずっと1973年くらいから購読しており、いつも購読料を支払うときに、幾許かをカンパしておりましたが、いつもそのときの御礼と「では、こうしましょう」という私に有利なようなお返事を丁寧にいただいていました。あれが、和子さんだったのですね。和子さんは、実に『試行』の事務方を三十六年間にわたって担当されているといいます。
 私は吉本さんと、その二人の娘さんの作品は今後もすべてを読んでいきます。でも和子さんの作品は一冊も読んでいません。反省しないとなりませんね。今後読んでいきたいと思っています。

11051320 この著者を初めて見たときのことです。新潮社の詩の雑誌「鳩よ」の「かっこいいこと、わるいこと」というテーマのイベントでした。私は何人かの友人を誘って行きました。最後に吉本(吉本隆明)さんの講演があるからでした。
 最初のほうで、このねじめ正一がパーフォーマンス詩人として紹介され、自分の詩を身振りをいれて歌いだしました。私はなんだか訳がわかりませんでした。何がかっこよくて、何がわるいのか。ほとんどの聴衆がのっていません。わずかに手拍子する人が何人かいました。私はなんて詩人って悲惨なんだろうと思ったものです。
 次に泉麻人を中心に新人類とかいわれる人たち4人のパネルデスカッション。勿論「かっこいいことわるいこと」とのテーマ。またまた何故か決りません。私は泉麻人なんて好きではないが、こういうイベント見ていると、やはりやっている方に気持ちが移ってしまい、なんとかうまく話が展開しないかと願ったものです。泉だけが懸命にからまわりしていて、痛々しく見ているのが辛かった。このデスカッションで、一番面白かったのはこんなことです。一番前ですわっていた老年の紳士が眠り出していました。泉がその人に向かって、

 「ああ、そこのかた、…………、やはり吉本さんですか。もうす
  ぐですからね。もう少しまってください」

といったとき、会場は少し楽しくなりました。そう会場は、吉本さんの話をききにきている人が大部分なのです。私は新人類の旗手も形なしだなと思いました。
 吉本さんの登場で、会場はやっと落ち着いてきます。私はどういうふうにきょうのテーマにちかずけて話すのかと思っていました。しかし、吉本さんはやはり主催者や泉のこと充分に考えていたのです。吉本さんは文芸批評における、かっこいいことわるいことという機軸での批評の話を見事に展開しました。私はなるほど、なるほど、そうだ文芸作品をかっこいいとかわるいとかで、充分批評できるのだと考えたものです。
 そしてきょうの出演者は、吉本さん以外はみなかっこわるいなと思ったものです。とくにあのねじめ正一ってのは、いったいなんだいと。私と同じ歳で、詩を馬鹿にしているんじゃないかと思いました。いやよく考えてあげれば、詩ってそれだけで食っていくのは大変だから、あんな無理するのもしかたないのかとも同情しました。
 その詩人が小説を書いたというので、「結局詩から逃げたのかよ」と思ったものです。詩人も批評家もなんかすぐに小説書いてしまう。また同じだろうと。

 ところがそのねじめ正一のの小説を読んでみたのです。いやこれは吉本さんのいう観点からも、私にはかっこいい小説だといいきれるように思いました。自分の育ち住んできた商店街のことを書いています。丁寧に丁寧に書いています。見ている視線がいいんですね。

書  名 高円寺純情商店街
著  者 ねじめ正一
発行所 新潮社

 私たちの年代には、これらの商店街が必ず一つかそれ以上郷愁としてあるように思います。そしてそれが少しずつ少しずつ、こわれていくんですね。いろいろな街を見ていてもそう思います。その私たちのこころの中にある商店街を、この小説は見事に再現してくれていると思います。そうだ、街はこうなんだと。
そして現実にはもう商店街はこのようには存在していないのでしょう。
 できたらこの著者にさらにこの商店街がだんだん変遷していくさまを書き続けてほしいなと思います。
 私はいわゆる、通産省や中小企業庁やそれにのったコンサルタントが「コミニュティマート−くらしのひろば」なんて言ったって、あんまり信じられないのですね。街をたくさんみてきましたが、そんな分析や提案より、この小説の方がおおいな参考になります。とにかくねじめ正一にはこの街の変遷を書き続けて欲しいのです。

書  名 高円寺純情商店街本日開店
著  者 ねじめ正一
発行所 新潮文庫
1990年4月新潮社より刊行

 上に書いたとおり、この著者はこの商店街のことを書き続けています。この著者が実際にやっている古本屋は高円寺ではなく阿佐ヶ谷南口であるらしいのですが、小説の中では隣の高円寺北口で、お店は「江州屋乾物店」になっています。今では実際の高円寺北口商店街が「高円寺純情商店街」と名前を変えてしまうというような事態も生まれています。
 上にも書きましたように、私たちの中にある郷愁の商店街が実際には存在しえなくなっているように、この架空の純情商店街も少しづつ変わっていってしまいます。誰もが嫌な思いになってしまうことなのですが、これはもう全国どこの商店街でも進行してしまった、あるいは進行しつつあることなのでしょう。
 ここには、次の3つの作品が掲載されています。

 大黒メロン
 八月のキャッチボール
 本日開店

 この純情商店街にスーパーマーケット大黒屋が進出してきます。主人公正一の「江州屋乾物店」の父親もその反対運動の委員になって慣れない運動をやっていきます。ちょうどそのときに、正一の祖母が脳溢血で倒れてしまいます。その祖母の病気見舞に大黒屋から届けられるのが、立派なメロンなのです。このスーパーの進出はさまざまなことをひきおこします。おそらくはどこの商店街でもみられたことなのでしょう。おばあさんは死にますが、その葬儀の席でもさまざまな思いが錯綜します。

  ふいに大声を上げて叫び出したくなって、正一は息を吸い込ん
  だ。ウチはころんでいない、裏切ってなんかいない。スーパー大
  黒が勝手に花やメロンを送りつけてきただけなんだ。矢もたても
  たまらなくなってあたりを見まわすと、曇りガラスをはめ込んだ
  店との境のガラス戸に、まん幕の黒白の縞がぼんやり映っていた。

 小さな純情な商店街が大きな資本主義に飲み込まれるかのように変遷していきます。

 3つめの「本日開店」では、こうしたスーパーの進出で正一の隣の「魚正」が店をたたんで吉祥寺でラーメン屋を始めるという話になります。もういままでの商店街も反対だけ言っていられなくなっていきます。なんとかスーパーとも共存していかなければならないようです。しかし、こうして魚屋に焦点をあてている著者の眼は実によく見ているなと思います。どこの商店街でも、誰もが必要としているが、実際にやっていくのが一番困難になっているのが、この魚屋だと思います。この小説の中では、ちょうどこの「魚正」が立ち退いていくのが、「高円寺阿波踊り」の祭りのときです。
 考えてみれば、なんで東京の高円寺が「阿波踊り」なのでなのでしょうか。これがなんとか東京で生きていかなければならない商店街のひとつの生き方だったのでしょう。おそらくはけっして商店街のみんなが一致して賛同したものではないだろうと思われます。この正一の父もこのイベントには賛成していません。だから彼は一度も踊りの列に加わったことはありませんでした。だが、この「魚正」の立ち退きのときには、その父も踊りの列に声をかけてしまいます。何度読んでも思わず涙ぐんでしまうところです。

 「えらいやっちゃ!えらいやっちゃ!」
  観客の後ろから聞き慣れた怒鳴り声が聞こえた。いつのまにか
   見物客の最前列に出てきた父親がケイ子のほうを真っすぐ見な
   がら怒鳴っている。あんなに阿波踊りを嫌っていた父親が掛け
   声をかけるなんてめずらしいことだ。

 こうしてこの物語の中で、私たちの眼の前で展開される登場人物たちの動きは嬉しいものなのですが、さてこのあとこの街は、正一たちの店はどうなっていくのでしょうか。いったいスーパーと共存できるものなのでしょうか。また次の作品の中に、そうした物語がまたどのように描かれていくものなのか見ていきたいなと思っています。(1998.11.01)

 1970年11月25日三島由紀夫が、市谷で自刃したことに関して、吉本(吉本隆明)さんは、

  三島が<日本的なもの>、<優雅なもの>、<美的なもの>とかん
  がえていたものは、<古代朝鮮的なもの>にしかすぎない。また、
  三島が<サムライ的なもの>とかんがえていた理念は、わい小化
  された<古代中国的なもの>にしかすぎない。この思想的錯誤は
  哀れを誘う。かれの視野のどこにも<日本的なもの>などは存在
  しなかった。それなのに<日本的なもの>とおもいこんでいたの
  は哀れではないのか?
                     (試行1971年2月「情況への発言」)

といっています。そしてこの「日本的なもの」とは、本居宣長がつくりだした概念であるといいます。
「本居宣長」というタイトルにひきよせらて、この新書を読んでみました。れのです。

  本居宣長は(1730−1801)はたえず再生する。多くの
 変動と転換を経てきた近代の日本にあって、文化史上、思想史上
 の人物で、宣長ほど、その都度、高い評価をあたえられながら生
 き続けてきた人物は、親鸞などの仏教者を除いたらほかには見当
 らない。ことに戦争をはさんだ前と後の時期に、なお変わらない
 評価の高さを保ってきたことは、考えてみれば不思議なことでな
 のだ。宣長は近代日本のそれぞれの時代に、ある評価の高さをもっ
 てたえず再生するのである。

  私が再生というのは、直接に宣長その人をふたたび当代に甦ら
 せることだけをいうのではなく、「日本とは何であるか」を求め
 るような、日本人のする「自己(日本)」への言及、日本の自己
 同一性(アイデンティティー)を求めるような発言を近代のおけ
 る宣長の言説の再生だと見る、

11050704 著者は日本文化論宣長神話の解体ということで、宣長の「畢生の大業」である「古事記伝」の解体をしていきます。
 中国の史書に範をとった「日本書紀」ではなく、「古事記」にこそ「皇大御国=すめらおおみくに」の本当の姿があるという。「漢意=からごころ」でない日本があるという。だが漢意でない「やまとごころ」とはいったい何であるのでしょうか。
 それに対する宣長の答えは、「絶えず漢意を否定すること」と主張しているとしてしか思えないのです。これがこの著者の「古事記伝」解体なのでしょう。まったくそのとうりなのだと思います。
 だけどなぜ宣長はそう考えたのでしょうか。そしてまたたとえば、そんな宣長にどうして小林秀雄があこがれてしまったのでしょうか。

 ドストエフスキーやランボーに関する小林秀雄の文章を読んでいると、よくこれだけ読み込めるものだと感動してしまいます。それがこと宣長のことになると、どうしてああまで万歳してしまうのか。そこに三島由紀夫と同じ哀しさがあるような気がするのです。
 この本を読みおわっても、「なんだこれだけなのか」という不満が残りました。「本居宣長『古事記伝』解体」というような書名だったら、わざわざ買わなかったのに。「本居宣長」とあるのなら、宣長の源氏もやってほしかった。
 小林秀雄がはじめて折口信夫に会ったとき、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ。ではさようなら」といわれたといいます。私にはこれが重要なのですよ。漢意を拒絶する本居宣長に肯定したり否定したりしてつきあって、いったいそれが何になるのだ。
「物のあわれ」に核心をおいた宣長の源氏こそ、絶えず再生する宣長の存在といえるのではないのか。
 平安時代、貴族の男たちは毎日漢文で日記をつけていました。そして婦女子が読む物語など、頭から馬鹿にしていたはずです。これは近代にいたるまでそうであると思われます。だが当の婦女子たちは、ちょうど少し前に現代の男の子たちがたちが、毎週「ドラゴンボール」を見たいがために「少年ジャンプ」買うように、あの時代の少女たちも、紫式部の物語を待ったことでしょう。そんな少女たちと、彼女たちの読む「物語」をきっとその時代の大人たちは愚かだと感じていたことでしょう(今と同じですね)。
 それを、それらの物語をはじめてまともに評価したのが、本居宣長ではないでしょうか。そこに私はいまも生きている、いまも再生する宣長を感じることができるのです。これが折口信夫がいいたかったことであると思います。宣長の怪しげな漢意を排するやまとごころなどにのっかって、自刃したりすることが、宣長を正当に評価していることではないのだ。
 またこの著者は宣長について書いてくれるのかな、などと思いますが、こんどはよく立ち読みしてから買いましょう。(1998.11.01)

2018010103

書  名 成熟できない若者たち
著  者 町沢静夫
発行所 講談社

11042817 この本は真夜中に目をこすりながら、どうやら読み終えたものでした。どうも読むのにつらく考え込んでしまうことが何度もありました。
著者の紹介欄には、「精神科医・心理学者。国立精神・神経センター精神保健研究所成人精神保健研究室長」とあります。
1988年から89年にかけて、連続幼女殺人事件と女子高校生コンクリート詰め殺人事件がありました。

私自身、この二つの大きな事件を知ったとき、残念ながら、そ
れまでに多くの現代青年から受けてきたイメージとそれほど大き
なずれを感じなかった。  (序章「二つの事件と青年たち」)

そして、この精神科医としての著者のところにくる青年たちの症例がいくつも挙げられています。
「昔俺もそうだった」「俺らのときだって、不良もいれば、登校拒否児もいた」「おとなになれば直るさ」ってなことではけっしてないのです。私たちの青少年のときとは、大きくなにかが違うのです。

日本では、欧米に多くみられるエディプス葛藤(母をめぐって
父と争う葛藤)はあまりみられない。子供は、生まれた時から母
親が死ぬまで、父親と争うことなく母親を独占できることが多い。
この傾向はますます強くなっているように思われる。母と子の蜜
月期間は延びるばかりである。子供は大人にとっての宝であり、
王子様であり、王女様であり、したがって母親や父親のほうがあ
たかも召使のようになってしまっていることが時にみられるもの
である。多くは父親が家庭での地位が一番低い、それは父親の収
入いかんにかかわらず、である。そのため、青年は社会に出ると
きになって初めて、自分がいかに母親に依存していたかを知るこ
とになる。知ってそれを改善できる力を獲得する道が遠くなって
しまっている人もいる。そのため社会へでる寸前で、何もせず無
為にたたずんでしまう青年もきわめて多いように思われる。

たしかに日本では、父親ってかげが薄いなって思います。この本に「日米中の父親比較」という、3国の子供が父親とどの程度はなしをするのかという調査なのです。それによると、父親と「あまり話さない」「ぜんぜんはなさない」をふくめて53.2%、米24.9%、中22.8%。米中は同じようなものですが、日本はあまり父親との会話がないようです。これは私のところへ遊びに来る娘たちのともだちの話とほぼ一致しています。彼女たちの話だと、小学校5年生くらいから、父親とは「ぜんぜん親しく口をきけない」し、「ほとんど話したことない」そうなのです。
この本の最後の章が吉本(吉本隆明)さんとの対談になっています。そのなかで吉本さんは

宮崎という人が殺した子の遺族に送った手紙を見ると、今田勇
子という名前でやっていますね。あれは母親の物語をつくってい
ると感じました。自分は石女(うまずめ)で、子供がほしいので
そうしたんだということとか、自分の子供は生まれてすぐに死ん
じゃって、その死んだ子は天国にいるから、それに対していい友
達がほしいという母親の切実な願いで、こうしたんだという物語
をつくっているんじゃないでしょうか。僕は、母親の物語をつくっ
たことは、とても重要なことに思います。つまり、本当ならば自
分が母親からつくってもらいたかった物語をその中にいくぶんか
でも入れて、物語を作ったみたいに思えるんです。

と述べています。この事件を異常性愛によるというような論調が多かったように思いますが、この吉本さんの見解は、この町田静夫の展開しているおおくの青年の症例からみると当っているのではないかと思うのです。
いやもちろん著者は結論をだしているわけではありません。吉本さんには、一貫した結論があるように感じますが。ただ私はこれで、登校拒否の問題とか、電車や街で出会うさまざまな青少年たちの姿を考えました。それらのことまたあらためて展開したいものです。
とにかく家庭での母親、父親の姿・存在って大事なんだなと思います。(1998.11.01)

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11042115書 名 上海の長い夜(上下2巻)
著 者 鄭念(ていねん)
訳 者 篠原成子、吉本晋一郎
発行所 原書房

  この本も読みはじめたら、たちどころに読まねばならない感じです。主人公がどうなってしまうのかという思いで、一気に最後のページまで至ってしまいました。いろいろなことを考えました。吉本(吉本隆明)さんの「アジア的」ということ、「収容所群島」をはじめとするソルジェニーツィンの数々の作品。それにジョージ・オーウェル「1984年」を思い出しました。

  日本でどれくらいの人がソルジェニーツィンを読んでいるのでしょうか。「収容所群島」においてはかなりなことがあきらかにされています。人類史上はじめて人間を解放するものと考えられたものが、逆に史上最大の陰惨な大衆弾圧と殺戮の場となってしまった。そしてそれは従来考えていたように、スターリンにその責任があるのではなく、レーニンの中にこそその根源があるということが述べられています。ソルジェニーツィンはレーニンの出したたくさんの指示文書の中からそれを抜き出しています。私も読んで「え、レーニンがこんなことまでいっているのか」と驚いたものです。そしてそのレーニンの犯した誤謬とは、吉本さんのいう「アジア的」な問題と、国家の捉え方によるのだろうと思うのです。アジアの巨大な専制政治の残忍さと

  国家はある階級がある階級を支配するため暴力装置

というマルクス国家論の間違えた捉え方レーニン「国家と革命」によると思われます。随分大昔にテレビで見たのですが、ソルジェニーツィンは内村剛介の問いかけにこう答えていました。

 内村「ではスターリンではなく、レーニンにその問題があったの
   でしょうか」
 ソルジェニーツィン「いやレーニンに帰せられるものはほとんど
          ありません。悪いのはマルクスです」

友人と一緒に見ていて、私たちは声をあげて笑ったものでした。
 私は吉本さんが「アジア的ということ」という文の中でソルジェニーツィンを引用しているところを読んで、随分と納得できたものです。しかしそれにしてもソルジェニーツィンをこうして読み込めるのはまたしても吉本さんだけなのかもしれません。

 そしてこの「上海の長い夜」なのですが、まさしくこれらのことのすべてが提示されているように思いました。これは中国の文化大革命で作者の実体験が書かれています。彼女を弾圧取り調べする側からはいつも「国家はある階級がある階級を抑圧する道具である」というレーニンの言葉が、レーニン亜流の毛沢東の言葉がしばしば出されてきます。したがって彼女を拘置している刑務所は、昔は国民党が共産党を抑留していたのだが、今はこうしてプロレタリアがブルジョワ階級を抑留しているのが当然というわけです。しかしこの国家論はいまでもこの日本でもたくさんの党派がたくさんの人が信奉しています。「愛国心教育」などどはずかしげもなくいう、共産主義者とやらがいますからね。
「祖国と学問のために」なんていう機関紙だしているのは一体だれだろう。
 国家に期待してしまっているたくさんの人たちがいます。数々の政治献金等々の問題で検察が駄目だと非難する輩、国鉄が民営化されることに反対していた連中、みんな国家に期待しています。国家と資本が対立すると、やはり国家を支持してしまう人たち、いったい何なのでしょうか。
 この作者は最後は国を棄てます。そうなんです。彼女に対して国は何をやったのでしょうか。一人娘を殺し、彼女を6年半収容所に抑留しただけです。文化大革命のときほど、大衆が政治に夢中になった時代もないでしょう。そんな事態は最低の時代なのです。選挙のときに投票率が圧倒的に高いところなんかは、私はけっしていいところだとは思わないわけなのです。

「1984年」で描かれている世界は、この「上海の長い夜」の世界です。やはりジョージ・オーウェルの予想した未来社会は本当にあったのですね。「1984年」の主人公の仕事は、昨日まで敵国や味方であった国が、その逆になると、あらゆる記録文書を逆に作り替えたりすることです。 この「上海の長い夜」でも、文革の最初は、劉少奇、トウ小平が批判され、やがて「非孔非林」ということで、林彪派が失脚、周恩来も「非孔」という名目で狙われます。そして最後は「四人組逮捕」で、今度はまた江青以下が批判される。そのたびに中国の民衆は、それぞれ誰もが最初から悪かったというのを覚えさせられ、スローガンを叫ばねばならない。まったく「1984年」の世界です。
 作者が中国を出る決意をするのは、やはり無実が証明されたとしても、もうこの国家そのものが信用できなかったのだと思います。

  私自身が祖国に忠実でありたいと懸命になったことは、神様は
 ご存知でいらっしゃる。それにしても、私は失敗した……………
 それが私自身の落ち度によるものではなかったが。

 彼女がカナダやアメリカに落ち着いたときの気持を想像できます。あの全体主義の中からやっと抜け出せたのですから。そして私は考えたのです。日本がこんな国になったとしたら、私はどこへ逃げ出せるのだろうかと。やはりそうならないように、日々生きていくべきなのでしょうね。
 それにしても、できたらこの本が中国語に翻訳され、たくさんの中国の人に読まれることを願います。(1998.11.01)

 私の友人の まっくまっく に行きましたら、4月19日のUPに「父が亡くなりました」という記録がありました。
 悲しいよね。82歳だったのですね。「父の娘で本当に良かった、又、来世も父の子供でありたい」というところで、また涙がでました。
 そのあとで、3月26日の「観て下さい」を拝見しました。この渡辺謙さんの「宮沢賢治『雨ニモマケズ』」の朗読を聞いて、また元気をもらいました。
 この詩は、私が小学5年生のときに、担任の先生から知りました。そのときから、私の大好きな詩になりました。私の好きな吉本(吉本隆明)さんもまた、宮沢賢治が大好きです。
 とにかく、このユーチューブをここに載せます。

1104070592-12-06 01:34:59 TR通信・43
TR通信・43 ひーき男

 なんだかこの教師は怖いですね。

手紙を読めば、この教師が人間的にだけではなく、性的に未熟、ないし問題があるように感じる。

 私も感じます。何か嫌なものを感じます。私は教師に聖人君子になれとはいいませんが、こんな未成熟な人は教師になってほしくない。とにかく嫌です。

 私には1つ年下の友達以上、恋人未満ってかんじの人がいます。べつにつき合ってるってわけではないのですが、ただ私の片思いなだけなんです。けど彼も私のこと好きだって言ってくれました。けど、今みたいな関係のままの方がいいので、お互い、告白などはしません。

 それに比べて、この子はいいですね。こんな関係は私たちの時にもありました。ほほえましくいいことです。

吉本隆明さんによれば、ミシェル・フーコーという思想家はこうしたことを「微細な権力」の問題としており、最終的に残る権力の問題はこれであると指摘しているらしい。

 私にはフーコーとはまだとてつもなく分からない人です。ただ吉本(吉本隆明)さんと対談したときに、もっととんでもないことをいいだすのかと思っていたが、かなり丁寧に話されるので、かなりな感動でした。

   ミシェル・フーコーが死んだ。現存する世界最大の思想家の死
  であった。かれはわたしたちのあいだに、「人間」は現実のたく
  さんの具体的な物の秩序のなかに、目立たないようにはさまった
  裂け目にすぎず、いまから二世紀ほどまえにはじめて生みだされ
  たもので、やがてもうすこし新しい考え方がみつけられれば、そ
  のうちに消えてしまうものだということを、目のさめるように鮮
  やかに啓示した。  (吉本隆明「ミシェル・フーコーの死」)

 もっと私もやらなければと反省します。ここらへんはよく分からないのです。

11033016 私は絵というのはまったくよく分からないのですが、その私にもどうにもひきつけられる絵がたくさんのっている本があります。私の一家四人みんなでしばしみつめてしまいました。

書  名  山田かまち作品集青い炎
発行所  学研

 著者の山田かまちは、1960年7月21日生まれで、77年8月10日真夏の白昼閉め切った自室でエレキ・ギターの練習中に感電死しました。高崎高校の1年生でした。死後、ベッドの下から大学ノートやスケッチブックに書き散らされた、おびただしい数のデッサンや水彩画が発見されました。
 1981年、89年に高崎にて山田かまち水彩デッサン展が開催され、92年2月20日高崎市に「山田かまち水彩デッサン美術館」が開館。開館一年あまりで、入館者は三万人を超えたといいます。
 これほどの無名の少年に何故こんなにまで人はひきつけられるのでしょうか。尾崎豊とはまた違うのでしょうが、そのほとんどが、若い人であるところは同じようなことがなにかあるのかもしれません。山田かまちの17年という短い生涯のなかに、若い人たちを強烈にひきつけるものがあり、それが彼の数々のデッサン、水彩画、詩にあらわれているのでしょう。いや若い人だけでなくとも、この私でさえ強くひきつけられてきます。

 水彩画やデッサンのもつ強烈さを私はどう表現したらいいのか判かりません。ここでは同じくらいたくさん書かれている詩を一つ見てみたいと思いました。

  秋は青く乾いている
 ぼくはずっと  君のことを想っている。
 道はいつもそこで乾いていて
 ぼくは止まって
 枝にみちびかれる。
 見失って遠くに矢を放てば
 君は再び現れては消える。
 追い。消え、
 そのままぼくは幻に夜空を見、
 星の輝きにつかまっている
 遠く宇宙のはてから

 これは16歳のときに、ある少女に恋をしたときの詩のようです。私には彼がいったいどこからこのような表現ができるのかなと思ってしまいます。思わず、また吉本(吉本隆明)さんの本を開いてしまいました。

  詩の修辞的な可能性をもっとも極度まで拡大してみたい欲望が
  ゆきつくとすればどこだろうか。この欲望は修辞的な自然あるい
  は修辞的な宇宙を獲得しようとする無意識な欲求に根ざしている。
  言葉が規範のうえにしか成りたたないことがあたえる拘束感は、
  社会が自然の上に成り立っていることにくらべてはるかに重苦し
  いものだ。いったん言葉を<書く>という体験に深入りしたとき意
  のままにならなかった記憶は修辞的な生涯を決定する。表現は強
  いて造りだそうとせず、みつけ出されるまでまつのだというのは
  修辞的な詭弁で、どうかんがえようと<書く>という体験ではじめ
 て言葉は人間にとって自由なものではないことを実感することに
  はかわりはない。このときに言葉がもしも自然のように完備(コ
  ンパクト)にそこに在るものとなしうるなら、という願望がおこ
  るのは当然である。そしてその願望が現実の生活体験にもはや異
  なった構造があることを認めようにも認めがたくなった詩人たち
  からはじまるのも当然といえる。このようにしてまず意味の脈絡
  を変更することによって言語の規範に異を立てようとする。そし
  て異議はやがて規範の拡大につながることは予め詩の与件となっ
 ている。  (「戦後詩史論−修辞的な現代」1978.9大和書房)

 なんだかこの山田かまち君にはもっともっと生きて、たくさんの詩を書いてほしかったと思います。彼がいくつもいくつも言葉を選び、なんとかそのときの自分の表現行為をしているのが判ります。
 多分彼の数々の水彩画も同じように思います。過去の画家が自分の内から出てくるものをそのまま表現しようとするだけでよかったのが、もう彼のような現代に生きていた表現者には、いくつもいくつも色を選び、それをそのままいそがしく紙の上に表現しているように思えました。きっとなにかいそがしかったんだろうな。そうだよいそがしいんだよね。まってないものね。

   修辞的な現代
  戦後詩は現在詩についても詩人についても正統的な関心を惹き
  つけるところから遠く隔たってしまった。しかも誰からも等しい
  距離で隔たったといってよい。感性の土壌や思想の独在によって、
  詩人たちの個性を択りわけるのは無意味になっている。詩人と詩
  人を区別する差異は言葉であり、修辞的なこだわりである。
       (「戦後詩史論−修辞的な現代」1978.9大和書房

   誰の詩も同じように見えてしまう。体験からでた言葉ではなく、
  言葉だけのこだわり、修辞的な差異を競うだけになってしまった。
  これは現在の情況を指している。さてそこで吉本さんはさらにそ
  の先を突き詰めようということなのだろう。それが<マス・イメー
  ジ>であり<ハイ・イメージ>である。 (「吉本隆明鈔集」より)

 思えば現代とは何なのかいつも考えてきました。私が、ある飲み屋でのんでいたとき、山田かまちはこうしてたくさんの表現をしていたのだなと思います。私はどちらもおんなじだよといいたいわけですが、君の表現にいくつも涙するところがあるのです。私はそれをいいたいだけなのです。
 この本は長女の15歳の誕生日に贈りました。できたら一緒に、山田かまちの美術館を訪れたいと思っています。……そしてそれはいつか実現するでしょう。また親子でさまざま涙を流すに違いありません。(1998.11.01)

11030704書 名 春日野清隆と昭和大相撲
著 者 川端要壽
発行所 河出書房新社

 著者の川端要壽は栃錦清隆と小学校の同級生です。上記の本のほか、彼の出版されている著書というと、

 「堕ちよ! さらば 吉本隆明と私」
 「修羅の宴 吉本隆明と私」 
 「二子山勝治伝」

があります(もっとあると思いますが、私の読んだのは以上です)。川端要壽は吉本隆明の中学時代からの親友でもあるのです。栃錦と吉本隆明という2人の巨人のあいだにこの川端要壽はいます。2人とも東京下町の貧乏人の生まれであり、栃錦は大正14年2月20日に小岩に、吉本隆明は同年11月25日月島に生まれました。なぜか川端はこの2人を相対させて書いているような気がします。
 そして私にはこの2人の巨人のあいだにもうひとりの巨人が見えます。

 私の自宅にテレビが入ったのが昭和32年でした。そのころはちょうど、千代の山、鏡里、吉葉山、栃錦の4横綱の時代から栃若の時代へのうつり変わりのときでした。はっきりいってそのあとの柏鵬時代は大味であんまり面白くなかった。この栃若時代の相撲が最高でしたね。そして私はなんといっても栃錦が好きでした。
 川端も、ときの相撲の評論家もだれも栃錦が、十両に、幕内に、大関になれると思いませんでした。まして横綱になるなんて誰が予想したことでしょうか。

  彼の偉大さは、結果が偉大なのではなくて、その地位、地位に
 あっての限りない努力なのである。

まったくこのとおりだと思います。
 そして理事長時代、たぶん栃錦には相撲が安定した存在になっているとは思えなかったのではないでしょうか。大阪相撲、京都相撲、東京相撲が存在したのは、ついこの間のことであったし、天竜事件のごたごたもついこのあいだのことであったはずです。
 だから栃錦はおごることなく努力したんだと思うのです。それがいまの相撲の隆盛になっているんだと思います。
 吉本さんがこの本の序文にこう書いています。

  相撲はたぶんボクシングとともに、いちばん土俵やリング外の
 はげしい修練と集中心と足腰や身体の訓練が必要なスポーツにち
 がいない。土俵上の一瞬の立ちあいや、リング上の単調にみえる
 打ち合いの背後に、たゆま ない修練が感じられるため、わたし
 たちはその膨大な修練の暗喩として一瞬の勝負や三分間の打ち合
 いをみているのだとおもう。

 この吉本さんのいう「たゆまない修練」の原点に栃錦がいると思うのです。

 それにしてもこの2人のあいだのもうひとりの巨人といえば、それは昭和天皇です。その人物と栃錦はニコニコ笑って話しています。吉本隆明は遠くからその人物を見つめています。(1998.11.01)

 私が以下で書いた内容について、さらに書きます。

  http://shomon.livedoor.biz/archives/51888624.html
                      だいたいでいいじゃない その2

11021803 私は、吉本(吉本隆明)さんが言われる「だいたいでいいじゃない」という考え方をあちこちで言い続けてきました。そこの会社の仕事として、この考え方を基本にもっていないと駄目なのだ、さもきちんと細かくやることはかえって間違いなのだというコンサルをしてきたものです。このことを例えば、オフセット印刷での4色分解のことや特色印刷と用紙の関係で説明したり、あるいは木造建築のことで説明もしてきました。またK1とプロレスでも説明したり、あるいは、サザエさん一家のことを書いた「磯野家の秘密」という本を説明して、こういう傾向が若い人にありがちだが、それでは駄目なのだというふうに説明してきたりしたものです。
 だが、そもそも私が次のように言った内容なのです。

 次の計算をコンピュータはどうやってくれているのでしょうか。

      1÷3×3

 これを電卓で正確にじっくりやろうとすると、答えは1にはなりません。無限に0,9999999……………………が続きます。ところが、コンピュータだと、これを見事「1」という答えを出します。どうしてでしょうか。これはコンピュータが「四捨五入」といういわば「だいたいでいいじゃない」という概念を含んでいるからできるのです。これは実はコンピュータを作るのにはちょっと面倒なことであるわけですが、そうしないと、この「だいたいでいいじゃない」という概念をわざわざ入れないと、正しい答えが出てこないわけなのです。
 数学的に、科学的に

      1÷3×3

の答えは、「1」なのです。

 実は私自身が、自分のこの言い方に、「でももう少し説明してくれよ」という気持がありました。「目の前のパソコン画面上でやってみせてくれ!その上でさらに理窟として説明してくれ!」という思いでした。
 このことで、かなり私は自分自身で困っていました。それで、先週15日に数学とコンピュータに詳しい(実はそれだけではなく、例えば天気予報のことなんかも詳しいよ。彼は「K」という会社をやっています)私の友人に会いまして、このことを質していきました。
 以下彼の答えです。

 1/3*3=0.999999999=1? について

 (普通に計算すると………)
 ここでは計算機を意識して計算をする。すると表現できる桁は限りがあるので、仮に10桁表現できるとすれば、

 1/3=0.333333333 (1)

 次に

 0.333333333*3=0.999999999 (2)

となり、結局

 1/3*3=0.999999999 (3)

となり、これは1でない。何かがおかしい。

(少し約束………)
 そこでもう少しきちんと考えてみる。
 それには約束も必要である。計算機で計算するのだからそこで表示できる桁数にはりがある。仮にその桁数を10桁とする。(上の場合では数字の部分が10個と考える)
すると、(1)、(2)(3)のいずれも正しいから、

 1=0.999999999   (4)

となって困ってしまう。

 (あるアイデアで解決・・)
 では、どうしたら正解に到達できるのであろうか。これは簡単なアイデアで解決する。
 10桁の場合なら更に1つ小さな11桁目を覚えさせておくのである。具体的に書くと

 1/3=0.3333333333 (5)

 次に       

 0.333333333*3=0.9999999999 (6)

となり、結局

 1/3*3=0.9999999999 (7)

そして、この一番下の位を四捨五入して表示すると

 1/3*3=1.000000000 (8)

となり、計算は上手く運び、めでたしめでたしとなるのである。
 10桁というのは仮の話なので、N桁の時にN+1桁を覚えさせておけばよいと云う事になる。
 (見える数字以外に1桁だけ見えない数字を覚えておけばよいのである)
 話は、此れで終わりある。

 つまり、この約束をパソコンに入れることにより、パソコンは数学的に正しい答えを出してくれるのだと思います。
 この「約束」が、たくさんの仕事や学問のことでも大事なことになるのだと思います。まさしく「だいたいでいいじゃない」ということは、いい加減でいいということではなく、「ここは、このように約束しておこうよ」ということだと思うのですね。(2002.06.17

11021503 次女の「卒業文集」を随分くわしく読んでみました。とっても楽しい内容なのだけど、長女のと比べると、少しまとまりすぎているかなという印象です。たった1学年しか違わないのに、学年によっても個性があるのですね。
 私よく妻とも話すのですが、私たちの子どものときより、今の子たちは個性があるねと思うのです。こんな文集見ていてもそう思います。私の小中高校のときの卒業文集なんて、ほんとつまらない無味乾燥なものですよ。昨年長女の卒業文集手にしたとき、とても驚きかつ感動しました。子どもたちがみんなで一生懸命つくっているんだもの。
 長女は将来漫画家になりたいと思ってましたから、いろいろ書くのが好きなのですが、同じクラスにまた中ちゃんという、漫画家志望の子がいて、この子のほうがプロなんですね。この子が卒業文集のクラスの絵すべて書いてて、「やっぱり中ちゃんって、すごいね」なんて、我が家全員で感動していました。
 長女に漫画書くなら、ロットリングでケント紙に書けと言ってたのですが、私の友人のデザイナーから「ロットリングじゃなくてGペンでいいよ」といわれ、長女と柏東口の画材屋さんいって、いろいろ買いました。でも中ちゃんなんか、もうとっくにGペンもスクリントーンもなにもかも使っていて、やっぱり真面目にすごく努力しているんですね。それにこの画材屋さんに、漫画家志望の女の子の多いこと。やっぱりデビュー前のさくらももこのみたいに「りぼん」に投稿しているんだろうな。
 娘のひとりひとりの友だち見てると、この中ちゃんにかぎらずみんな個性ありますよ。ウチに遊びにきたとき、話したり、やっているのを見ていると、本当にそう思うのです。
 私が子どもたちのことで思うのは、まず最初に「子どもはこうあるべきだ」という観点から論を展開してほしくないのです。子どもたちの林間学校のしおりや卒業の文集やいろんなもの読んだり、彼らと話したり、接したりする中で、彼らのこと知って、その上で、自分の子どもの時代との比較や、自分達の意見思想から論を展開すべきだと思います。けっこう見方が変わることもあるでしょう。やっぱりいまの子どもたちは、ここが駄目だと確信できることもあるでしょう。でも最初から「子どもはこうあるべき」というのはやめてほしいのです。
 私が大学生のころもよくいわれましたね。「学生は勉強していればいいんだ」と。なにをいっているんだ。昔勉強をしたい、青春を楽しみたいと思っていた学生たちを学徒出陣と称して明治神宮外苑から送り出したのは、いったい誰なんだ。もうそんなこと2度とさせないぞと私はあの大学時代をすごしたものです。

11021205 この作品について、吉本(吉本隆明)さんの言われたことが耳に残ります。「インテリ向けの大衆小説」。もう私はものすごく吉本さんの言われることに感激します。
 でもでも、どうしても、「吉本さん、それじゃあんまりだよ。和巳がそれじゃ可哀想だよ」という思いも私にはあります。この吉本さんの言葉とともに、私には忘れられない小説です。
 この小説の中の登場人物の阿礼も阿貴も私は好きですが、どうしても阿礼の魅力には考え込んでしまうものです。私にはその姿が目に浮かんでしまうのです。ただただ美しい阿礼を思います。そして宗祖になってしまう千葉潔の存在も忘れられません。
 でもいつも、「だから高橋和巳は、駄目なんだよ」と思い、そして口から出して言ってしまう小説です。
 もう二度とページを開けることもないだろうという私には、でもいくつもの思いが甦るばかりです。もう随分昔に読んだ小説ですが、今も作品のあちこちが私の脳裏に明確に甦ってきます。もう思い出したくもない小説なはずなのですが、でもでもあちこちを思い出し、それぞれにシーンを思い浮かべてしまうのです。
 その私の心に甦る内容に私は嫌になり、でもその魅力にどうしても引きづられる思いもあるのです。(2011.02.12)

11021005 私は毎日本・雑誌を読んでおりますが、その記録を「将門Webマガジン」の「今週の雑続」と以下に掲載しています。

    本のプロ

 私はここに

    周の雑読備忘録

というページをもっています。
 この「本のプロ」で、毎年「日記オーナーが選ぶ私のベスト3」というアンケートがあります。これは以下に集成されています。

   http://www.hon-pro.com/kikaku/kikaku_top.html

 私も昨年から答えてきました。それが以下です。

2003年「今年のベスト3」

【第1位】「現代日本の詩歌」  吉本隆明
【第2位】「革命的左翼という擬制」 小野田襄二
【第3位】「金持ちA様×貧乏B様 成功の気づき方」

 第1位なのですが、私は漢詩は大好きなのですが、短歌・俳句・現代詩には、とにかく苦手意識しか持っていません。そんな私に、たくさんのことを教えてもらいました。私の「吉本隆明鈔集」でもいくつも書かせてもらいました。
 第2位は、「革命的左翼」というよりは、「革命的共産主義者同盟という擬制」という題名のほうが正確かもしれません。でもよく書いてくれました。そして「革共同」のみならず、「共産主義者同盟(ブンド)」の60年安保での様も見せてもらった気がしています。
 第3位は、テレビの番組も実に面白いのですが、こうして本になってもいいですね。私は経営コンサルタントですが、私がいつもあちこちでコンサルしている内容と同じ言葉が出てくるときに、私は嬉しくなっています。

  番外としまして、以下2冊もあげます。

「下足番になった横綱 ~奇人横綱男女ノ川~」 川端要壽

 川端要壽さんは、どうしても内容にひきつけられます。この不思儀な横綱をよく書いていただきました。

「トロイア戦記」 クイントゥス

 いわばホメロスの「イーリアス」と「オデュッセイア」の間にあった事実を読めました。内容は知っていることばかりという感じでしたが、その戦いの様を読むことができたことは嬉しいです。

今年ブレイクした作家ベスト3

【第1位】飯嶋和一
【第2位】高島俊男
【第3位】アゴタ・クリストフ

 第1位の飯嶋和一さんは、今年初めて知った作家です。そして出ている作品はすべて読みました。私のホームページに彼の書評のページを作ったくらいです。
 第2位の高島俊男さんは、もう読みながら笑ったり、考え込んだり、頷いたりしていました方です。今後もすべての作品を読んでいきたいと考えています。 第3位のアゴタ・クリストフは、実に「悪童物語」を読んたときからひさしぶ りに、その続編、最終篇を読みました。「やっぱりスターリン主義は許せないな」なんていう陳腐なことを言えないくらい、彼女の作品はすごいです。あと、できたら、この作品がフランス語ではなく、最初ハンガリー語で書かれていたら良かったのにななんて思いました。
 番外として横山秀夫さんです。よくまあ、こうして警察内部の動き、考えが把握できるものだなと感心しました。うん、警察って、ああいうところがそのままありますね。

本プロのおかけです

『読者は踊る』斎藤美奈子
『これでもイギリスが好きですか?』林信吾

 斎藤美奈子さんは、すぐファンになりました。思えば、私のような全共闘を嫌いなようで、それはそれは愉しいです。
 林信吾さんについては、私はイギリスは大昔から嫌いです。その確認になりました。

今年のベスト1 映画・ビデオ

「赤目四十八瀧心中未遂」荒戸源次郎

 荒戸さんが映画を作ったというので、見にいきました。ひさしぶりに荒戸氏の作る映画です。実はこの映画について、あちこちで喋ってきました。そうですね、飲んで喋ったほうがよさそうですね。(2003.12.30)


2004年今年のベスト3

1 今年のベスト3
【第1位】「戦争と平和」 吉本隆明
【第2位】「三国志 第1巻」 宮城谷昌光
【第3位】「青玉獅子香炉」 陳舜臣

 今年もたくさんの本を読みましたが、その中でベストを選ぶのは難しいです。
 でもとにかく1は、1995年3月10日二、著者の講演を私自身が聞いていました。懐かしい思い出です。
 2は、この1巻だけでも、他の方たちと違う三国志を思います。吉川英治さんの最初は、劉備玄徳がお茶を尋ねる旅人のシーンでした。思えば、正史も演義もまた違うものでしたね。
 3は、この物語を私が知ったのは、今から36年前の府中刑務所の独房の中のことでした。今やっと、今の私と繋がった気がします。(こうした内容は、私のホームページ内で書いています)
 それで、番外ですが、本日帰宅の中の電車で読んだのですが、

  伊古浩爾「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」

がかなり大好になりました。「今年のベスト3」とどうしようかな、というところで、こうした書きました。

2.今年いまいちだったベスト3
【第1位】「蒼穹の昴」 浅田次郎

 ええとこのベストを書くのは難しいな、という思いです。ここであげた「蒼穹の昴」は、歴史的には「戊戌の政変」という、私たちにとっては、どうでもいい事件なのですが、それをまたいろいろと思いだして、ここまで書かれて、でもでも私は理解できませんねえ。

3.来年読んでみたい作家や作品

 まず、「とにかく年間300冊を読む」ということを達成させたい、です。

4.今年のベスト1 映画・ビデオ

 「ホテル・ハイビスカス」

 今年の映画というわけではないのですが、「ナビィの恋」の中江裕司監督の映画です。家族みんなで見ていました。やはり沖縄の空気がいいですね。私の家族全員が沖縄が大好きです。2回連続見ました。大好きな映画です。(2004.12.31)

  このあとの、「2005年私のベスト3」は以下にあります。

 http://shomon.livedoor.biz/archives/50306355.html
              2005年私のベスト3

 それでそのあとの2006、2007、2008、2009、2010年は書いていません。やるべきだったなあ、と今すごく反省しています。(2011.02.11)

11020502 吉本ばなな(現在は「よしもとばなな」です)がアメリカでも読まれているという。以前村上春樹や村上龍も読まれたみたいですが、その比ではないようです。以下その記事です。

「キッチン」米でも人気 ばなな旋風、増刷中
                93.01.29  夕刊 10頁
【ニューヨーク28日=共同】米国で今月中旬から発売された吉本ばななの代表作「キッチン」がベストセラーとなっている。キッチンは日本では二百万部近くが読まれたほか、既にイタリアでもロングセラーになっている。英訳本の編集者は「若者の喪失感、愛の力の大事さといった主題が米国の若者にも訴えた」と話している。
 米国では発売と同時に、各地の一流紙が一斉に書評で取り上げた。街頭の宣伝ポスターや新聞広告も手伝って、サンフランシスコ・クロニクル紙調査のベストセラーには先週、いきなり十一位で初登場、二十八日まとまった今週の集計では八位に入った。
 ニューヨークの各大型書店では売り切れに近い状態で、出版元のグローブ・プレス社は初版四万部に加え、四万部を増刷中という。
 米国では、日本の作家としては谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成、安部公房らがよく知られており、若い作家が広く読まれるのは、四年前「羊をめぐる冒険」がヒットした村上春樹以来のこと。朝日新聞社

 谷崎、三島、川端の場合は、「日本」ということがあったと思う。東洋の中の、中国とはまた違う文化をもった日本、その「日本」とやらをなにか象徴する作家たち。
 両村上の場合はどうなのだろう。吉本(吉本隆明)さんの文芸公演だとかならずこの二人の作品に触れられる。それでそれが不満な聴衆もいる。「何故吉本さんが村上(どっちにしても)いいというのだ」と。中上健次がそうだった。でも別にそれは相対的なものなのだ。例えば、現在の大江健三郎と比べれば、それは確かに村上の方が上だと思います。
 ではばななはどうなのだろう。吉本さんは「親馬鹿」になっちゃうのか、ばななの作品を批評しません。でもあるインタビューで言っていました。ばななの「うたかた」なんかまあ55点だって。……そうなると、村上は何点になるのかな。今の大江なんかマイナスになっちゃうかな。
 やはり確実に時代がかわっているのだと思います。やはりばななはいいと私は思います。日本を代表できる作家になりえていると考えます。嬉しいことです。(1993.02.15)

11020201 1997年8月29日の柏市民ネットでの「暑気払い」の3次会にて、突如として、三島由紀夫の話になりました。三島の文学のことではなく、三島の最後の行動についてでした。けっこう長い話になりました。そこで、以下私の思うところを書いておきたいと思いました。

 私は三島さんのやった、1970年11月25日自衛隊市谷駐屯地への行動は、あきらかに彼の政治的行動だと思っています。
 あれほどの文学者が、政治的にはなんら効果のないと分かっている行動をするわけがない、あれはあくまで彼の文学の上での行動なのだと思う向きがあるかと思いますが、私はそうは思わないわけです。
 確かに三島さんは、あの行動自体が「愚行」であることは百も承知だったでしょう。だが、それでも彼にとっては、ひょっとしたら自衛隊の決起が起きるかもしれないと思い込んでいた行動だったのです。そして、その決起が起きようと、起きまいとつまり、自らの政治的行動が成功しようと失敗しようと、自決するのだということだけは決めていたと思うのです。
 三島さんはかなり、政治というものを空想的に考えていたかと思います。ちょうど、武士を空想の中で美化していたのと同じだと思います。江戸時代の武士たちは、自分の仕事が成功した場合も失敗した場合にも、美事に腹を切っていたのではなく、大部分の武士たちはただ黙っていじいじと生きていただけでしょう。三島さんが空想の中で美化していた武士など、どこにもいなかったのです。
 私が参加した東大闘争の安田講堂攻防戦で、三島さんは誰か一人でも学生が講堂屋上からでも飛び降りるのではないか、そうしたら大変なことになると考え、警視総監に警告していたようです。そんなことになったら、革命状態になると思っていたわけです。また、左翼の中にも「武士」がいるはずだという思い込みでもあったわけです。だが、そんな学生は一人もいませんでした。そんなことが政治的に効果あるなんて、私たちは少しも考えなかったからです(ひょっとしたら、左翼のセクト馬鹿幹部の中には期待していた部分もいたかもしれないが)。
 政治というのは、実は格好のいいものではなく、実につまらない地味なものだと思います。この点では三島さんは、まったく理解できていなかったのではと思います。
 私は少なくとも、大学において学生運動という形の中で政治を体験していました。たとえば、クラス討論をやるにしても、まずは英語(ようするにクラス全員の集まる授業)等々の先生に、授業を10分でも20分でももらわなければなりません、ことによったら、90分間授業全体をもらう場合もあります。まずは英語等々の先生を了解させなければならないのです。そして、クラス討論の中では、敵である日本共産党民青勢力と激しく論争をして行って、そこで多数派にならなければなりません。これは実に地道で面倒なことなわけです。
 そしてこのクラス討論をへて、ストライキを組織する場合にも、また大変な動きをしなければなりません。

  私もベトナム戦争には反対なのだが、どうしてそれだからといっ
  て大学でストライキをやらなくちゃいけないの?

という、いわば正当な疑問に対して答えて、かつストライキ派に誘導しなければならないのです。そしてストライキが成立したとしたら、今度はストライキを貫徹しなければなりません。日共民青派は組織として、私たちのストライキを実力で阻止しようとやってきます。また

  君達がストやるのは勝手だが、どうして私が授業を受けようと
  するのを妨害するのだ

と言ってくる右派保守的学生を説得し、ピケッティングを守りきらなければなりません。ここで負けたら、惨めになってしまうだけなのです。そして民青とのゲバルトを貫徹する中で、さらには街頭へ出て行きます。街頭へ出れば、機動隊の壁が待っていて、私たちはさんざんに殴られます。
 そしてまたこうした行動がずっと続くわけです。
 でもこうしたことが、こうした面倒なことが政治的な行動であるのです。そうした経験は三島さんにはまったくありませんでした。現在の自民党、あるい民主党等々の議員でも、そのほとんどは学生時代にこうした運動の中にいました。それは新左翼だけではなく、日共でもありましたし、ストライキを壊そうとする右翼秩序派でもありました。田中真紀子などは、第一次早大闘争のときに、ストライキ反対派として活躍した学生であったようです。誰もがこうした政治行動をしていたわけです。
 だが三島さんには、そうした経験はまったくなく、むしろ政治を空想の中で想像してしまいました。男が、武士が、心の底からの真心を吐露すれば、武士たる自衛隊は決起してくれるかもしれないと思い込んでいたのが、あの最後の姿であるわけです。
 しかし当然に、当の自衛隊員は罵倒で答えました。あのときの音声記録を聞くと実に悲しくなってきます。これだけ必死になっている三島さんの話をどうして聞いてあげないのだと思うんですね。三島さんはマイクも使っていません。自らの肉声で自らの愛している武士たちに話しかけたかったのでしょう。もしも、汚く政治なれしている新左翼だったら、あのときには確実に拡声器を用意するでしょうし、すぐさま、各新聞社、各テレビ局に連絡していたでしょう。だが三島さんは、政治には素人でした。でも当りまえのことですが、真心で政治が動いたためしはないのです。
 そして、三島さんはあの自衛隊員たちの罵倒をきいて非常に悔しかったはずです。でも最初から決めていたことです。とにかく腹を切らなければなりません。森田必勝も悔しかったことでしょう。どうして、お前らは三島さんの死を賭した訴えを聞かないのだと悔しくてたまらなかったはずです。でも森田も死を決めていました。それが武士としての当然の行動なのです。そう思い込んで、そのとおりやったわけです。森田にっとては、あの行動は文学上のことではありません。彼にとっては、本当に憲法改正をするべく、愛する自衛隊に訴えた真心からの政治的行動だったのです。
 三島さんは、空想の中で思い込みの中で、新左翼に期待していました。新左翼こそ、本当の敵になると思い込んでいました。新左翼の70年安保闘争というのは、「佐藤訪米」を阻止することでした。日米帝国主義同士がアジア再編成をしていこうというのを絶対に阻止する、ひいては日帝を打倒していくということです。そのために、共産主義者同盟=ブンドの呼号する「各職場でのマッセンストおよび中央権力闘争」というような形で、首都東京が戦場になると、これは大変な形で混乱状態になるから、そこで自衛隊が軍隊として出てくる必要があると三島さんは考えていました。だが、新左翼には、それほどの実力も根性もなく、すべて警察機動隊の力で押さえ込まれてしまいました。これが三島さんの危機感になるわけです。このままでは、自衛隊には出番がありません。自らの存在を否定する「憲法9条」を守る自衛隊として存在し続けなければなりません。これは、彼のあのバルコニー上での絶叫の中で述べています。
 そして、そうした危機感からの行動も、やはり成功はしませんでした。成功しようが、失敗しようが自刃する予定でしたから、悔しさの中で三島さんと森田必勝は死んで行ったわけです。武士はそうするべきなのでしょう。でも私はこう異議したいのです。日本の中で一番切腹を繰り返した集団というと、幕末の新撰組でしょう。新撰組では毎日のように隊員が切腹していました。だが、その死は武士として自ら選んで行ったというよりも、そのほとんどが無理やり強いられてやっていったものなのです。
 また武士道を説いた「葉隠」(三島さんが絶賛している書物であるわけだが)には、実は江戸時代の武士たちは見向きもしなかったのです。どうして三島さんは、これほどまでに、空想し期待しすぎたのでしょうか。 (1997.08.31)

 私は、三島さんのあの最後の行動はあくまで彼の政治的行動だと断言します。なんであんな有効性のない行動が「政治」だと彼が判断するのだと、思われるかもしれませんが、彼にとっての政治とは、「武士」を空想の中で理想化したことと同じように、ただ思い込みの中にあっただけなのです。いろいろな理窟を述べたとしても、腹を切ってしまえば、その前にはそんな理窟は吹っ飛んでしまうんだというところがあったと思います。
 でも、それは彼が武士たちに期待していただけのことであり、実際の武士というのは、ほとんどがいじいじと生きていただけの存在だったのです。
 武士を彼が空想の中で作り上げてしまったと同じように、彼はまた「日本」をも思い込みの中で作りあげてしまいました。私に言わせていただければ、彼は本居宣長にだまされてしまっただけです。本居さんのいう日本というのは、簡単に言ってしまえば、「漢意=からごころ」を絶えず否定することであると言っているかと思います。具体的に「やまとごころ」は何かというのではなく、「外国からの文化流入を絶えず否定する」と言っているといえるでしょう。三島さんも同じでした。そして、その中心に「天皇」という概念を置いたわけです。
 この三島さんの市谷での自刃に関して、吉本(吉本隆明)さんは、次のように言っています。

  三島が<日本的なもの>、<優雅なもの>、<美的なもの>とかんが
  えていたものは、<古代朝鮮的なもの>にしかすぎない。また、三
  島が<サムライ的なもの>とかんがえていた理念は、わい小化され
  た<古代中国的なもの>にしかすぎない。この思想的錯誤は哀れを
  誘う。かれの視野のどこにも<日本的なもの>などは存在しなかっ
  た。それなのに<日本的なもの>とおもいこんでいたのは哀れでは
  ないのか?        (試行1971年2月「情況への発言」)

 さらに言うと、三島さんは、でも「思い込んでいた」わけです。そして「思い込むこと」こそが大事だったのでしょう。それがいつも彼が考えていた「政治」なのです。そしてさらにひょっとすると、実は思い込みのみで政治を考えていただけではなく、実際の政治的行動が成功した際の日本の姿として、イランのような宗教的国家のような姿を考えていたのかなとも思えます(これはまた吉本さんの指摘なのだが)。
 だが、はっきりしているのは、私たちの生きて、今住んでいる日本というのは、三島さんや本居さんがいうような、天皇制が成立した以降のみをいうのではありません。そのような日本は、いわば「古代朝鮮的な」あるいは「古代中国的な」日本でしかありません。日本とは、それ以前に約8千年から1万年と予想できる時間をもったもっと大きな存在なのです。そして、この本来の日本というのは、その上に一見かぶさってしまった本居さんのいう日本の存在の中でも、いくつもいくつもその姿を見せてくるわけです。それが現在の沖縄の姿でもあるし、日本の歴史の中でもたくさん露出されてきます。
「古事記」の中に折口信夫は、このもっと深い、もっと古い日本の姿を見つめることができました。柳田国男も山人たちの話の中に、この日本の姿を見てきました。
 戦前の話ですが、柳田さんと折口さんが二人で仁徳天皇稜を訪れたことがあるそうです。そのときに、柳田さんは折口さんが止めるもの聞かず、どんどん稜の中に入って行こうとしました。守衛があわてて止めるのですが、そのときに柳田さんは、えらく怒ったらしいのです。

  なんで、中に入れないんだ。でも入らなくたって、中のことは
  みんな判っているんだよ。

 まさしく、柳田さんには(もちろん折口さんにも)、この古墳の中のことは判っていたわけなのでしょう。今も仁徳天皇稜も応神天皇稜も公開されないわけですが、私たちも、「もう判っているよ」と言ってもいい時代なように思います。(だが、柳田さんというのは、また違うところでは、天皇の姿を見ると涙を流してしまうようなところがあるわけです。彼の中にも二つの日本が存在したのでしょうか)。もう宇宙にはたくさんの人工衛星が飛び、地上の姿をいつでも見せてくれます。コンピュータがここまで発達しました。もう隠しようがないんです。

 思えば、三島さんはあの時代に死ぬしかなかったのかなと思ってきます。ただ、その死に方の凄まじさだけは、いまも私に三島さんの存在を忘れさせません。これは私だけではないでしょうが。
 私はあのときは大学4年生で22歳でした。あのあと1週間後に私たちは、「三島由紀夫追悼集会」と「追悼デモ」を企画実施しました。埼玉大学構内で集会を持ち、浦和市内をデモ行進しました。みな黒ヘル(私は黒ヘルって嫌いなのだけど、このときだけはかぶった)をかぶり、手に手にお線香を持って行進しました。ただ、追悼集会ですから、アジテーションは難しかったですね。デモを規制する埼玉県警も、なんだか訳が判らなかったようでした(もっとも私にだけは「なるほど、やっぱりな」と思ったことでしょう)。おそらく日本中で、左翼が三島追悼の集会デモをやったのは、私たちだけでしょう。懐かしく思い出します。(1998.01.15)

11012804  Business Media 誠 にこの記事がありました。

プレゼンで気になる「えーと」「あのー」という「場つなぎ音」。間延びするし、頼りない印象を与えるので極力減らしたいところですが、なかなか減らせないのも現実。原因から探っていきましょう。

 私も何人かの前で話すときには、その前に自分で喋る練習をしていきます。それは、まず我孫子の自宅のときも、今の王子の家でもお風呂場の中でやります。ときに私は詩吟もやってしまうために、その声が外に漏れてしまうだろう迷惑を考えるからです。
 これらの「えーと」「あのー」が口から出てしまうことを、ここでは次のように言っています。

1.単に練習不足
2.ストーリーが固まっていない
3.実は心から話したい内容ではない
4.準備してきたことを全部話さなければならないという思いこみ
5.沈黙に対する恐怖

 そこで私が一番関心をもったのは、「沈黙に対する恐怖」というところです。
 以下のようにあります。

「沈黙もスピーチのうち」だと認識してください。沈黙があるからこそ、スピーチにメリハリがつけられます。ぜひ勇気を持って「沈黙」してください。

 私はこれは、昨年10月に発行された「吉本隆明『ひとり』」(講談社)と同じことが述べられているなと思いました。吉本さんは、次のように言っています。この本の23ページに次のようにあります。

 人は誰でも、誰にもいわない言葉を持っている。
 沈黙も、言葉なのです。
 沈黙に対する想像力が身についたら、本当の意味で立派な大人に
なるきっかけをちゃんと持っているといっていい。

 これは、この本で「書き言葉」と「話し言葉」のことが書かれていて、私にはものすごく注目し、関心し感激していたのですが、それに関連していることです。私はただただ感激しているばかりです。

プレゼンで「えーと」「あのー」を言ってしまう5つの理由

11012703 またこの漫画を読んでいるわけですが、この作品は、その前にある『天界の音』と並んで古道具屋の上柳千(せん)の話です。
 前にも思ったのですが、この千は、私には吉本隆明さんを思い出させます。一見何をやっているか判らないのですが、実は人類を破滅から救うようなことをひっそりとやってしまうのです。
 中にある「姉について」で、妹のよしもとばななが、で次のように言っています。

  姉は何だかよくわからないけど「愛」にあふれた人で、作品も
 そうで、その「愛」はとてもはげしく熱く巨大に今日も燃えつつ、
 大宇宙とつながっているようなのです。

 なんだか、このことが実によく判ります。
 でもできたら、また漫画の新しい作品を見せてもらえないかな。そのことを強く希望します。(2010.06.26)

11012701 私はこれをいつ読んだのだろうか。とにかく、私の大好きで尊敬する吉本隆明さんの娘さんの作品だということで、読んだものでした。
  一つ前に書きました『ムーンライトシャドウ』も、これと同じ本に掲載されていたものです。
 私は新宿でよく飲みまして、ゲーボーイもおかまさんとも随分知り合いになりました。ただこの作品のえり子さんのような美形の方には会ったことがありません。
 主人公のみかげは、両親と祖父母を失っています。その中で一番みかげが親しかったのかもしれない祖母の知人の雄一の家に住みはじめます。
 この雄一の母親(元は父親だった)がえり子さんで、ものすごい美形なのです。彼はゲイバーを経営しています。
 なんだか、この物語が現実に新宿でよく会う人たちとは違って、小説の中のすさまじい展開に驚いてしまいます。
『キッチン』の続編の『満月』ではえり子さんは殺されてしまうのです。そんなことは、私の目の前の現実では、少しもないものでした。
 ただ。少し角度を深化させれば、どこにでも生まれてきたようなことだったのでしょう。そのことを充分に思うものです。
 もちろん私がそういう世界には出会わなくて正解でした。
 こうした世界を深化させ、作品を生み出した作者をすごいなあ、と思いました。
 おそらく、この作品についても、これから何度も書くことがあるかと思っています。(2011.01.27)

  吉本ばななは、「よしもとばなな」になったのですね。知らなかった。以下のようなことらしいです。

  2003年に長男をもうけるが、その子の名前を姓名判断で考えて
 いたら、自分の名前こそ良くない事がわかり、今のペンネームで
 ある「よしもとばなな」に改名した。

11012608 なんかいつも驚いちゃうな。彼女は「右の太ももにバナナ、左肩にオバケのQ太郎のタトゥーを入れている」ということです。なんか私は驚くばかりです。
 でも私は彼女の作品は、ほとんど読んでいます。そして大ファンです。昔、私に「それって、お父さんの吉本隆明でじゃないの?」と言った人がいます。私は「そうだよ、なんかおかしいかい。私は隆明さんの娘さんだから、彼女の作品も大好きなのだ。なんか間違えているかい?」
 でも今では、もうただただ、よしもとばななの作品が好きな私になっています。

 私の次女のブルータスは小さいときから漫画しか読みませんでした。どうも本を読むのが苦手なようなのです。それでも、高校3年生の半ばを過ぎてから、大学入試のために少しは文学とか評論作品を読まねばならなくなりました。
 それでも評論はよく読めないし、その価値が判らないなどと言っていました。
さて、そんなことをしていても入試は迫ります。さすがにあせって来る気持があるようでした。あるとき、一体何を読み始めればいいのと聞いてきました。

 周「そうだな、たとえば漱石、そうだ『こころ』くらいは読んだ
    だろう。あれは感動したろう

 ブルータス「全然感動なんかしないよ。あれはさ、3つの部分に
    別れているじゃない、最初と2番目のところなんかいらないん
    じゃない。最後のところだけにすればいいのに

 周(これじゃ困ったと思って)「そうじゃないんだよ、……、そ
    うか漱石じゃないとしたら太宰治はどうだ?

   ブルータス「読んだことないよ!
  周「困ったな、……、そうだ、吉本ばなななら読めるんじゃない
    か。え、まだ何も読んだことがないの。……、そうそう、これ
    なら短編だからすぐ読めるよ

と薦めたのが、「キッチン」の最後に載っている「ムーンライトシャドウ」です。これは私がけっこう誰にも薦めているのですが、それまでばななを避けていた人も確実にみんなこれでばななのファンになってしまってくれたといいきれる作品です。
 これなら、せいぜい30分もあれば読めるよ、と言って手渡ししました。ブルータスは珍しく素直に自分の部屋にこもって読み始めたようです。20分くらいたった頃、ブルータスの部屋へ行きました。

 周「どうだった? 涙出たろう?

というと、少し悲しい顔をして、

 ブルータス「うん、涙が出たよ。いい作品だね

ということで、もう「キッチン」を読んでいました。やっと、感動する本の存在に気がついたようです。
 ブルータスはすぐに、「キッチン」「満月」と読んでしまい、姉のおはぎから「マリカの永い夜」も薦められ、それも読んで、たちどころに「白河夜船」まで読み終わってしまいました。
 あれほど本嫌いだったブルータスも、どうやらやっと本を読むことの魅力が判ったようです。そして、やっぱり私はばななに感謝したいなと思います。

 私もよしもとばななは大好きな作家であり、かつその作品も好きなのですが、まずこの作品を見てみたいと思います。

 太宰治の「走れメロス」を最初読んだとき、思えば中学2年生だったのですが、私にはあの話自体を信用できなかった。まあシラーの詩を太宰なりに翻訳したもので、太宰は「こんなことは、本来ありえないのだ」ということで書いたのだと思いこんでいました。それが、だんだんこの年をとるごとに読見返してみると、自然に涙がでてくるようになるのですね。
 さくらももこの映画特別描き下ろし「ちびまるこちゃん」は大野くんと杉山くんの友情物語です。これも最初なんで女のひとは男の子の友情なんて想像誤解するのだろうと思いました。しかし何度も読むうちに、二人の友情と二人を囲む友達たちの姿に私も涙が出てくるのです。
 まだこんな物語があるんだ。俺だって純粋なんだと思うのですね。
 まだこんな小説が存在します。それがよしもとばなな「ムーンライト・シャドウ」です。

書 名 ムーンライト・シャドウ
著 者 吉本ばなな
発行所 福武書店
    (「キッチン」の中に入っている短い小説です)

 最初に主人公の恋人が鈴をもっているという記述があります。この鈴が最後に大事な役割をします。
 この恋人が急に交通事故で死にます。この死んだ恋人に、ある川のところで再会します。その時に鈴の音が聴こえてきます。それが読んでいると、その鈴の音が私たちの耳に聴こえてくるのですね。
 ちょっと読むとばかばかしい話なんですよ。「こんなことあるわけないじゃないか」と。でも違うんですね。やはり鈴の音は聴こえるし、こんなことやはりあるのですよ。

  たとえば、遠くひびいている汽笛の音をききながら、わたした
 ちはしばしばそれを対象である汽船からの音をきいているのでは
 なく、ただ音の響きをきいているという意識の瞬間を体験するこ
 とがある。そのときわたしたちは聴覚において時間を知覚してい
 るのだ。            (吉本隆明「心的現象論」)

 吉本ばななは自分では父親の著作思想の影響はないといいますが、自然に分かってしまっているのですね。
 こんな体験というのは、私たちには大なり小なり誰も出会っているように思います。おそらく私たちの祖先は太古の山や森の中で、こうした体験を神話や物語にしてきました。また私たちが小さなときにも、こうした不思儀な体験をしてきているかと思います。ただ、次第に大人になるに従って、こうした音が聞こえなくなり、かつ忘れ去ってしまうのです。
 そんな大人になってしまった私でも、この小説を読むと、鈴の音が聞こえてくるし、自然に涙が頬を伝わります。

 まだこんな小説があります。こんな小説を書ける作家がいます。文学ってすばらしいものなのですね。

 以上は、私が過去2度に渡って書いたものを合体しました。今後もばななのいくつもの作品について書いていくつもりでいます。(2011.01.27)

11012107 何年か前に、金曜日の夜に帰宅するときに、コンビニの周りで「少年ジャンプ」の発売を待っている多くの男の子たちの姿を見たものでした。本屋だと月曜日発売のジャンプを誰よりも早く読みたいのです。そして彼らが読みたい漫画はもちろん「ドラゴンボール」でした。
 私はこの少年たちの姿を見るときに、いつも平安の時代に紫式部の出す「源氏物語」を心待ちにしているたくさんの少女たちの姿を重ね合わせて感じていました。そして、この少女たちのずっと後輩に與謝野晶子がいるのだな、と思うのです。

書  名   源氏物語
訳  者   與謝野晶子
発行所   角川文庫

 私が源氏物語の世界に初めて接したのが、ちょうど21歳のときでした。谷崎潤一郎「新々訳源氏物語」をいっきに読んでしまいました。当時私は学生運動のことで、府中刑務所の拘置所にいたので、ひとりで誰にも邪魔されることなく読むことができました。しかし、かなり難しいのです。ちょうど中央公論社版で毎巻に登場人物の関係図があり、それを見ながら、「あ、そうか、これはこういう関係か」なんて確認しつつ読んだものです。
 しかしそれにしても難解なことには変わりありません。源氏と各女性たちとのあいだにとりかわされる短歌なんか、いくら読んでもさらによく分かりませんでした。これだと原文の源氏って、もっとむづかしいんだろうななんて想像していました。

 ところが、吉本さんの源氏に関する文とか、小林秀雄に関する文などを読むようになってから、どうも私のこの源氏に対する感じはなにか違うのじゃないかなと思い至るようになりました。
 もっと源氏は軽く読んでいけるものなのではないか。手軽に読んでのちに、いろいろなことが見えてくるのではないのかと思い到ったのです。谷崎源氏では、あまりに律儀に律儀に忠実に原文にそっているだけで、少しも面白く読んでいけません。そうしたときに、昔中学生のころ、少し接したことのある、與謝野晶子の訳で源氏に迫ってみたいと思いました。
 そしてどうやら、吉本さんのいうことの意味が少しは判ってきたものです。

 小林、宣長の源氏理解の欠陥
  宣長の「物のあわれ」論は、「源氏物語論」としてだけでなく、
文学論としても画期的なものだったが、敢えていえばもうひとつこ
の物語の奥行きを測るところまではゆかなかった。
 わたしたちが現在『源氏物語』をたどるとき、この作品が作者と
語り手の完全な分離に耐えるものであることが、すぐに理解される。
宣長の『源氏』理解と、それをいわば円環的に追認し、情念を傾け
る小林秀雄の『源氏』理解の欠陥は、すぐに「宇治十帖」を論じて
いる箇所にみることができる。
(「小林秀雄について」1983.5「海」に掲載 「重層的な非決定へ」
1985.9大和書房に収録 「追悼私記-小林秀雄批評という自意識」
1993.3JICC出版局に収録)

 つまり現在の「源氏」理解では、この物語が作者と語り手の完全
な分離に耐える優れた作品であるという点まで到っているというこ
とだと思う。小林にも宣長にも、そのことの読みが欠けていたとい
うことなのだが、小林にはさらに宣長の「物のあわれ」論にも至っ
ていなかったのではと思われるのも吉本さんの指摘である。
                         (周の『吉本隆明鈔集』より)

 私はこの長大な物語のなかで、好きになれるところ、好きになれる女性といったら、空蝉と夕顔でした。だが、たとえばどうして、空蝉は源氏の思いを拒絶するのか、どうして夕顔は突然死んでしまうのかがよく判りませんでした。

  こうした空蝉とか夕顔とかいうようなはなやかでない女と源氏
 のした恋の話は、源氏自身が非常に隠していたことがあると思っ
 て、最初は書かなかったのであるが、帝王の子だからといって、
 その恋人までが皆完全に近い女性で、いいことばかりが書かれて
 いるではないかといって、仮作したもののいうように言う人があっ
 たから、これらを補って書いた。なんだか源氏にすまない気がす
 る。                     (「夕顔」)

 こうして「なんだか源氏にすまない気がする」といっているのは、語り手なのですが、作者は「すまない」といっているわけではなく、厳然と読者に対して向っている力強い女紫式部を感じてしまいます。ここらのことが、與謝野晶子が「源氏物語」の中に力強く自立した女を感じてこうして訳していった動機なのかなとも思います。「源氏物語」は源氏の華やかな女性遍歴の物語なのではなく、その中に力強い作者の存在をも感じられるのです。おそらくは藤原道長に口説かれたこともあったであろう作者が空蝉の姿でもあり、また夕顔を殺してしまうのは、源氏自身のなかにある、「貴種」としての、もうひとりの源氏なように思います。
 與謝野晶子には、「源氏物語」はよく読み込んできていた物語なのだと思います。だから、読んでいると、書いているのが、紫式部なのか、與謝野晶子なのが判らなくなってくるところがあります。これが谷崎源氏だと、おおいに違うのですね。正確に正確に、そして谷崎はこの物語に魅せられすぎているように思われます。それに対して、與謝野晶子には、この物語がもう自らのものとして、こなれすぎているような感じがあります。谷崎は何度も何度も源氏を訳しなおします。多分もっと生きていたら、また訳し直して完全なものを作ろうと考えたのではないでしょうか。與謝野晶子はそうではなく、こんなに面白い身近な物語を、出来るだけ大勢の女性たちに読んで貰いたいとのみ思っていたように、私には思えるのです。
  ただ私にはまだまだ源氏にはもう少し迫り足りないように思っています。また何度も、読み返していきたいなと思っているところです。(1998.11.01)

11011609 随分昔のことになりますが、強烈な二日酔が夕方になってもさめないまま、何人もの友人や初対面の人たちと飲みはじめたことがあります。私はこうしたことは実はいつものことでもあるのですが。そこでどういうわけか戦争文学の話になってしまいました。
  最初は大岡昇平「俘虜記」「野火」の話です。私は当時吉本-埴谷論争のため大岡昇平には非常に不愉快に思っていたこともあり、「俘虜記」のあのシーン、銃の照準で白人兵をとらえたとき結局銃をぶっはなさなかったというのに猛烈に異議をとなえました。あの兵が大岡昇平ではなく私たちのような普通の庶民だったら躊躇なく引き金をひいていたのではないか。そしてそれのほうがあたりまえだ。したがってあんな小説は戦争の実体をとらえてはいないのだ。

  そして誰かが日本にはまともな戦争文学というのはないのではないか、あれだけの戦争をやってまっとうに文学で描いていないのではないかというのに対して、段々二日酔も醒めてきて、本格的なその日の酔いになり激しく反論しました。第1次大戦後のフランスのドレフィス事件やロシア文学でのショーロホフ「静かなドン」からソルジェニーツィンの話のあと、では日本はどうなのかという話です。
 私は五味川純平「戦争と人間」、大西巨人「神聖喜劇」、島尾敏雄の数々の作品をあげました。そして、山口瞳の「江分利満氏の優雅な生活」も立派に戦争をとらえていると主張しました。
 その山口瞳のこの小説のお話です。

書 名 江分利満氏の優雅な生活
著 者 山口瞳
発行所 新潮文庫

 三島由紀夫はこの小説を絶賛していました。同じ戦中派としての共感もあったようです。それに対して、山口瞳はどうもありがたくないという対応だったと思います。だが、山口瞳からいわせれば、ゲートルをうまくまけないでビンタはられていた自分と、東大出の秀才とが同じ戦中派であるなんて信じられなかったのだと思います。
 あるとき羽田空港で若いひとたちに囲まれている三島を山口瞳がみて、なんだか三島の回りはボーッと明るかったそうです。あんな華やかな人間が同じ戦中派であるわけないということのようです。山口瞳のひがみでもあるのでしょう。そして三島は、そんな山口瞳に対して、「いやいや、俺だってあなたたちの仲間なんだよ」と気弱にいっている気がします。

 さてこの小説は、大正十五年生まれで、現在東西電機(本当はサントリー寿屋なのでしょうけれど)に勤める江分利満(実は作者)のごく普通の日常が書いてあります。「ごく普通の日常」といったって、私たちはそれが毎日毎日たくさんの大変なできごとの積み重ねであることを知っています。江分利にとっても、戦後どうにかやってきた自分は大変なことをごくあたりまえにやってきたという自負があると思います。
 江分利は面白いんですね。大酒飲みで、人にからんで喧嘩ばっかりしている。妻のノイローゼも息子の喘息も、親父の借金も本当にたいへんなことばかり。

  東西電機の赤羽常務が江分利にきく。
 「江分利。お前、兄さんどうしてる?」
 「ええ。まあ、なんとかやっているようです」
 「へええ。奥さんの病気は?」
 「おかげさまで。まあまあですね」
 「ふうん。坊やの喘息は?」
 「咳は出ますが、まあいいようですね」
 「あ、そうや、お父さん退院したそうじゃないか。どんなふうや?」
 「ええ、まあ、ぶらぶら……」
  常務はついに癇癪を起こす。
 「なんや!お前の言っていることは、ちっとも訳わからんやないか!」
  そんなこといったって仕方ないじゃないですか。これが現状なん
 ですから。

  マンモス企業のマンモスビルの社員食堂にカレーライスを食べよ
 うと思って、つらなる長い長いバカバカしい列にいる三五歳の中堅
 社員、典型的なホワイトカラー、そんなものはどこにも存在しない。
 そんなものは、どっかの社会心理研究所の調査にまかせればよい。
 マス・ソサイアティのなかのひとり、とは江分利も思っていない。
 「あなたは通勤の満員電車の中でどんなこと考えていますか?」
 「はい、何も考えておりません」「あなたの就職の動機は?」「ま
 あ、なんとなく」
 「あなたは今の職場に満足していますか?」「ええ、満足していま
 す」
 「将来、何になりたいですか?」
 「大過なくつとめたいと思います。みんなのために」「あなたの尊
 敬する人物は?」「さあ、ちょっとおもいあたりませんね」

 江分利はカルピスが恥ずかしい。神宮の野球場も恥ずかしい。文学座も、築地小劇場の食堂のカレーライスも、N響も恥ずかしい。何故なのか。

  昭和のはじめにあって、昭和のはじめに威勢がよくって、それが
 ずっと十年代から戦後のいまでも威勢がいいような、そういうもの
 がはずかしいんじゃないかね。

 江分利はある日曜日妻と息子ととある公園にいく。江分利は当然二日酔いだが、角瓶をもっていく。それを飲みながら、だんだん思い出してくるのです。

  江分利の前に白髪の老人の像が浮かびあがってくる。温顔。どう
 してもこれは白髪でなくてはいけない。禿頭ではダメだ。禿頭はお
 人よし。神宮球場の若者たちは、まあいい。戦争も仕方ない。すん
 でしまったことだ。避けられなかった運命のように思う。しかし、
 白髪の老人は許さんぞ。美しい言葉で、若者たちを誘惑した彼奴は
 ゆるさないぞ。神宮球場も若者の半数は死んでしまった。テレビジョ
 ンもステレオも知らないで死んでしまった。「かっせ、かっせ、ゴォ
 ゴォゴォ」なんてやっているうちに戦争にかりだされてしまった。
 「右手に帽子を高くゥ」とやっているうちはまだよかったが「歩調ォ
 とれェ、軍歌はじめェ、戦陣訓の歌ァ、一、二、三……やまァとお
 のことうまれてはァ」となるといけない。
  野球ばかりやっていた奴、ダメな奴。応援ばかりしていた奴。な
 まけ者。これは仕方がない。
  しかし、ずるい奴、スマートな奴、スマート・ガイ、抜け目のな
 い奴、美しい言葉で若者を吊った奴、美しい言葉で若者を誘惑する
 ことで金を儲けた奴、それで生活していた奴。すばしこい奴。クレ
 バー・ボーイ。heartのない奴。heartということがわからない奴。
 これは許さないよ。みんなが許しても俺は許さないよ、俺の心のな
 かで許さないよ。

 江分利は思い出す。ウィスキーに手がのびる。夏子夫人が「パパも、もう止めなさいよ」という。もうここらへんになると私は涙があふれ、とまらなくなるのです。この「白髪の老人」とは一体誰のことになるのでしょうか。

 三島由紀夫の自刃のときにも、適確に書いていたのは、私は吉本(吉本隆明)さんと、この山口瞳であると思いました。実に執拗に執拗に書いています。
 山口瞳はもう亡くなりました。もう戦中派と言われる人も亡くなっていくんだなと悲しかったものです。彼の著作はほんんど読んでみました。そしてとくにこの小説はいつもいつも読み返しています。(1996.11.01)

11011001 明治から大正戦前戦後という時代の流れを考えるときに、帝都となった東京という都市の変貌の仕方が大きな意味があるように私には思えてしまいます。この東京の姿から日本の近代化を解明した文章があります。磯田光一のものです。

  私はこの磯田光一のことを思うと、まずどうしてあんなに早く亡くなってしまったのだいう思いにかられます。もう情況の在り方に耐えられなかったのかななどと思いめぐらしてみています。

書 名 思想としての東京-近代文学史論ノート-
著 者 磯田光一
発行所 講談社文芸文庫
1990年3月10日第1刷発行(1978年10月国文社より刊行)

 磯田の著作を読むといつもそうなのですが、その切れ味のよさには感服しながら、どうも「否、否!」とつぶやいてしまいます。どうしてもその切り方に眉につばをつけてしまうのです。
 最初、森茉莉の「気違いマリア」から「要するに、浅草族は東京っ子であり、世田谷族は田舎者なのだ」という言葉を引用して、これには半面の真理が含まれているとしています。

  昭和の東京が西側に膨張しながら近代化を達成したことを考えれば、
 新上京者として日本近代化の指導層になった地方人は、主として世田
 谷、杉並方面に居を構え、森茉莉の“浅草族”を工業地区のうちに封
 じこめることによって近代化を達成したのである。とすれば、このひ
 ずみが文学のうちにどうあらわれざるをえなかったかを問うことは、
 日本の近代化の精神構造をトータルに問い直すことにもなるはずであ
 る。

 たしかにそうだなとは思っても、なんだか私などが飲み屋でやっている戯れ言のような気にもなってしまます。要するにこのように私たちが普段思っていながら、単なる酒のみ話にしてしまうことを、磯田は真面目に向い合い論じているということなのでしょうか。

   東京生まれの谷崎潤一郎が関東大震災後に関西にのがれて感受性の
 安定をはかり、永井荷風や石川淳が地方人にたいして強固に武装しな
 がら“下町”の江戸文化に固執し、さらに小林秀雄、永井龍雄、福田
 恆存、中村光夫らが、東京の近代化に絶望して鎌倉に“第二の江戸”
 を求めざるをえなかったのはけっして偶然のことでない。住居の選定
 も人間生活の上では、最も広い意味での表現である。それはひょっと
 したらイデオロギーの表皮の下にある感受性の質まで関係があるのか
 もしれない。いま挙げた人々に加えて下町育ちの吉本隆明の、新宿に
 たむろする文化左翼への激烈な憎悪、あるいは江藤淳の、ファナティッ
 クなものへの嫌悪感をつけ加えておいていいかもしれない。

「住居の選定も人間生活の上では、最も広い意味での表現である」とはまったくその通りだと思います。例えば吉本さんはすべて東京の谷中、千駄木、根津、駒込、御徒町等々というところを転々としているわけです。まさか杉並や、世田谷や目黒に住むなどということは考えられないのです。
 そこで磯田の書こうとしていることが、なるほど単なる戯れ話ではなく、やっぱり真面目に取り組んでいて、そして読む価値がありそうだなと私は思い至るわけです。あとはその内容こそが問題なのでしょう。
 この「思想としての東京」に「文学史の鎖国と開国-身内の眼・他人の眼」という補論がついています。この最初の部分が実に印象的です。花田清輝の葬儀の際のエピソードをあげています。

  告別式が終って人々が徐々に帰りはじめたとき、私は中野重治氏と
 竹内好氏との姿を認めた。私から数十メートル離れたところを、両氏
 が背中をたたいたり肩を組むような格好をしなげら、談笑して車のほ
 うに歩いていく後姿を、私はじっとみつめていた。私は一瞬、感動の
 こみあげてくるのを覚えながら、ここにまぎれもなく、“日本”があ
 る、と感じた。

 私は歩いて行く二人の姿より、それを見て感動している磯田のほうに眼がいってしまうのです。この「日本」というのもそのあとの説明でもあまりはっきりはしないのですが、当時共産党員であった「村の家」の中野を、「魯迅」の竹内が飲み込んでしまうというようなことを、「日本」といっているのでしょうか。どうにも私にはまだ異和感が残ってしまうのです。こんなところに「日本」を持ち出す磯田に、異和を感じるのです。単に年寄り二人が、仲よく歩いていて、ほほえましいなとだけ感じられないのでしょうか。私は「日本って、そんなもんじゃないんじゃないの」といいたいのです。
 この著作は何度か開いてきました。まだまだすんなりと中に入っていけない自分を感じてしまうのです。
 要するに、私は磯田のことをこう思っているのです。磯田は吉本隆明の存在を後ろに大きく感じながら、三島由紀夫に向いていた。ところが三島の自刃のあと、かなりな苦悩ののち、どうしてか江藤淳のところへ行ってしまった。おそらくは、もっと違う形があったはずなのに。だからあの若さで死んでしまった。
 私はこのような偏見で磯田をみているのです。かなりまとはずれで、いいすぎなのかもしれません。
 できたら今後彼の全作品を読んで、また考えていき、考え直していきたいと考えています。(1998.11.01)

11010707 子どものときから、私は自分以上に能力のある人たちをたくさん見てきました。「頭のいい人ってたくさんいるなあ」とそうした友人たちを見ていました。だから、きっとその人たちとは、このインターネットの世界で再会できるのだろうと思ってきました。でも少しもそんなことにはなりません。大学での活動家でも、「もうあいつは今、英語じゃなくドイツ語で喋るらしいぞ」とか「今NASAにいるようだ」とか「今日本へ帰ってきて、○○国立大学の教授だって」とかいう友人もいます。でもどうしてもインターネットの世界では出会えません。そんな人たちとは、過去私がどんなことをやっても「まだ、そんなところへいるのか。俺は、もうこんなことをやっているんだぜ」というような差を感じていたものです。でも今はどうなのでしょうか。

  何、まだインターネットなんて古いものをやっているのかよ。俺
  は、もう「瞬間移動法」で毎日火星と木星を往復しているよ。

とか言うのなら、判るんですが、そんなことは絶対にありえません。
 でも私は「どうしてなのかな、あれだけ頭のいい彼らが、なんでメールくれたりしないで、年賀状だけなんだ。しかもその葉書もまだ印刷屋使っているし。ホームページくらい簡単に作れる能力なんかあるはずなんだけれど」という思いなのです。このことが、私には重いしこりのような感じで思っていたものでした。「どうしてなんだろう?」
 その解答らしきものに、私は今出会えたというか、判ってきた気がしています。それは吉本(吉本隆明)さんと吉本さんに紹介された三木成夫さんのおかげです。人間には脳だけではなく、心があるわけです。でもその心というのはいったいどこにあるんでしょうか。もちろん脳で考えることも心の動きです。でも、それ以上に、心とは人間の内臓の働きなのではないかと私は気がついてきました。
 人間は、おそらくアメーバのようなものから次第に進化してきました。魚になって、両棲類になって陸にあがり、爬虫類にも鳥にもなりました。そして、人間は生まれるときに母親の胎内で、その過程をすべて体験してきます。母親が「つわり」になるときは子どもが両棲類の体験をしているときだと言われています。生物が海でのえら呼吸から、陸地に上がって肺呼吸になるときには、動物は大変に苦しい思いをしたのでしょう。だから、胎内の子どもも苦しいし、それが母親のつわりにつながります。
 胎内の子どもは、最初は魚の顔をしていまして、だんだんと両棲類、爬虫類と顔が変化してきます(三木さんの本には、それが点描で描かれています。また谷中の「朝倉彫像館」には、こうした像があります)。人間は鳥でもあったから空を飛ぶ夢を見ることがあるのでしょう。
 人間が植物であったこともあるはずです。だから私たちの身体にはその植物の器官が残っています。それが、口から肛門に至る内臓の働きです。この内臓の働きが私たちの心の大きなものだと思います。私たちが二日酔いで苦しんでいるときは、脳が苦しいのではなく、内臓が苦しんでいるのだから、私たちの心はそれで憂鬱になります。誰かに恋したとすると、脳で彼彼女を思い描くよりは、心臓が胸が心が痛んだり、嬉しくなったりしているのです。
 私はずっと、「脳で考えるのではなく、心で考えよう」と思ってきました。そしてその心とは、やはり内臓の働きだと思うのです。だから、「脳ではなく、内臓で考えよう」と思ってきました。ちょうど植物もさまざまなことを感じていることが判ってきています。植物にも心があるのだと思います。
 私は今、インターネットをやっていまして、そのことをものすごく感じています。「脳だけで判断しようという人間は、もうこれからは駄目かもしれないなあ」、と。
 そして、このことは、人間ということだけではなく、私の相手している企業でも言えるのではないかと思っています。「心で考える」経営コンサルティングができるはずだと考えています。(2001.08.27)

110101062011/01/05 11:52今年の一回目のニチイさんの介護です。私も少々あわてています。いや、吉本隆明鈔集をやっていて、そのあと、ストックフォトEyesPic の写真をとって、それを保存していたらもうこの時間になりました。
 いや年賀状をくれた方の中で手紙を書こうと思う人が何人もいるのですが、書かないとね。
2011/01/05 12:08このときは、私は必ずこの「うちのおかあさん」を書き、かつ「周のポメラ」も書きます。
2011/01/05 12:15ガラパゴスで日経を読みます。日経はガラパゴスで読むのが私には当たり前になりました。ただ問題は、広告面もチラシ広告も読めないことですね。
2011/01/05 12:26こうして大忙しなことはいいです。あとはこれをUPしますね。

 でも、ストックフォトのことをいうなんて、私も少し変なUPです。

10122803 1月28日夕方に、27日に大学時代からの友人の小島均さんが急逝したという連絡が入りました。癌でした。でもお正月にはとても元気だったということでした。それなのに、まったく急なことでした。なんで、こんなに早くどこかへ行ってしまうのだろうと哀しいばかりです。
 彼は私と同じ1967年に埼大に入学しました同級生です。ただし年は2歳上でした。彼は経済学部でしたが、私と同じ「歴史研究会」というサークルで知り合いになりました。私はその中の「東洋史ゼミ」という部門で、彼は「日本史ゼミ」でした。思えば、このサークルの中では、私とは一番の論争相手だったかと思います。
 彼とはじめて知り合った時に、彼はもう丸山真男も吉本隆明もそのまま知っていまして、それどころか大塚久雄も宇野弘蔵もついでに高島善哉(思えば、今はこんな人を読んでいる人こそ皆無だろうな)知っていて展開できます。私は高校時代には丸山真男しか知らないのですから、驚くだけでした。それでもそんな無知な私でも、彼と論争できたのは、私がひたすら学生運動での実践のみを言い続ける活動家だったことです。私は思想的には、反マルクス主義で国粋主義者を自認しておりましたが、ただただ実践活動をすることにおいては、三派系の諸君と一緒の行動をすることばかりでした。私よりもずっとマルクス主義への理解の深い彼なんかは、逆に運動で実践のみしていく行動には批判的でした。思えば、けっこう言い合いをずっと続けていたかと思います。
 だが、私が東大闘争で逮捕起訴されたときに、彼は4月、6月、7月、8月とわざわざ遠い府中刑務所まで面会に来てくれました。思えば、彼にとっての私は、ただの単純なゲバルト学生だっただけでしょうに、よくまあ来てくれたものでした。4月に接見室でガラス越しの彼の姿を見たときには驚いたものでした。「なんで、わざわざ俺なんかに会いに来てくれたのだろうか?」。普通なら私と一緒に運動をやっていた友人のほうこそ面会に来るはずなのに、わざわざ彼は、その役割を引き受けてくれたのです。私は、この4度の面会で彼と喋ったことの内容はすべて覚えています。彼が2度目の面会で、私のことを「羨ましい」と言ったことをよく覚えています。
 私が、その後、再度の逮捕起訴から保釈で出てきまして、また70年闘争でしつこくやっているときに、彼はまた私のことを遠くから見ていました。とくに70年の10・21で、またしても私が若い後輩たちと一緒に、日共民青と激しくゲバルトをしているのを、彼が心配そうに見ていたのを思い出します。「あいつ、まだやっている。いつまでやる気なんだ」という思いだったでしょうね。
 彼は4年で卒業して、丸善に入社しました。部門は洋書関係だったようです。
 でもそれからは会うこともなかったのですが、当時から経済学部の同窓会があったのですが、それには参加していたようです。それで、1985年から、「経済学部だけなんてのはケシカラン」と私が参加しだしました。これが

   浦和会

になっていきました。私が参加し出してからは、もうずっと下の後輩も、大学の職員もみな大勢参加するようになりました。この浦和会は怖ろしい飲み会でして、4次会、5次会、6次会がザラでした。実に土曜日の午後7時から、次の日の昼頃まで飲んでいます。実に午後3時すぎまで飲んでいたこともありました。そんな中で、小島さんは、いつも2次会くらいまでで、帰っていました。あまり身体が丈夫じゃないんだと聞いていました。
 でもこの頃には、昔のように激しく論争することもなしに(いや、私はしつこいから、昔のことをいろいろ蒸し返すのですが、彼が笑って避けていました)愉しく飲んでいました(愉しいと言ってもね、みな昔の活動家が多いから、ときには、殴り合いがあったりして、それは愉しいものでした)。
 思い出せば、私が今の経営コンサルティング事務所を開設したときにも、ある相談をしに来たものでした。もちろんうまく解決しました。
 ただ、ここ数年、彼は浦和会にも参加しなくなっていました。いつも断わりのメールをくれていたものです。身体の具合が悪いので、残念だけれど参加できないという内容でした。

 お通夜にしか参加できませんでした。早すぎるよ、早すぎるよ、今度身体がよくなったら、ゆっくり飲んで、昔のことを話したかったと思っていました。府中へ面会に来てくれたことのお礼をしたかったものでした。
 もう、さようならをいうしかないのですね。悲しいです。寂しいです。(2002.02.14)

 このところ、あちこちでいい続けていることがあります。吉本(吉本隆明)さんが、最新の「悪人正機」という本で次のように言っています。

 いつも言うことなんですが、結局、靴屋さんでも作家でも同じで、
  10年やれば誰でも一丁前になるんです。だから10年やればいいん
  ですよ。それだけでいい。
 (中略)
  それから、毎日やるのが大事なんですね。要するに、この場合は掛
  け算になるんです。例えば、昨日より今日は二倍巧くなったとしましょ
  うか。で、明日もやると。そうするとニ×ニの四倍で、その次の日も
  やったら、また×二で八倍になる。だけど毎日やらずに間を空けると、
  足し算になっちゃうんです。(吉本隆明・糸井重里「悪人正機」朝日
  出版社2001.06.05「素質」ってなんだ?」)

10122802 これ私はよく判ります。その通りだと思うんですね。私もいろいろなことをやってきましたけれど、ちょうど35歳くらいから、ずっと同じ現在の仕事をやってきました。たしかに、それで何かを人前で言えるようになったのは、46歳くらいからだと思いましたよ。
 それから、パソコンの操作でも、ホームページ作りでも思います。毎日やり続けると掛け算になるんですね。それを10年続けることだと思いました。間を空けると、足し算にしかなりません。同じ数字でも、掛け算と足し算では、しばらくすると、結果がまったく違いますね。
 思えば、このことを吉本さんはほかでも言われていました。だから私は自分のホームページも、必ず毎日更新するようにしています。
 このことはいくつかのクライアントでもまた友人たちでもよく感じています。とくにパソコンに関して思います。すこしづつでも、毎日やっている人は、どうにかなってきますが、たまにしかやろうとはしない人は、まったく差が出てしまいます。とくに、パソコンを使わない、あるいは「使いたいんだけれど使えない」理由として「仕事が忙しくて、パソコンに触っていられない」ということをあげる人は、本当に困ったものです。忙しいから、パソコンを使うはずなのです。でも最初の最初は仕方ないかもしれません。それなら、毎日少しづつでも、業務のある部分をやっていくべきです。毎日少しでも続けるうちに、パソコンを使う便利さに気がつくはずなのです。
 掛け算と足し算の差の恐ろしさは、すぐに出てきますよ。(2001.06.18)

10121803 1996年8月15日に丸山真男が亡くなりました。私たちの年代はこの人にさまざまな思い出があると考え、何か書いておこうと前々から思っていました。いまさらなのですが、それを少し書いてみます。

 私が大学へ入学したのが1967年(昭和42)でした。私は「歴史研究会」というサークルに入りました。このサークルは当時、日本共産党民青同盟員と、反日共系との激しいヘゲモニー争奪戦の最中でした。争奪戦というよりは、日共の拠点であったサークルが次第に反日共に奪われつつあるというところでしょう。そしてこの反日共系というのは、いわゆる当時の三派系ということではなく、とにかく日共の独善的なやり方は嫌だという一般学生の姿だったと思います。これがやがては、全共闘の姿になっていったのがどこの大学でも同じだったように思います。
 この反日共系というのが、この歴史研究会では、いわば市民主義者系、のちのべ平連系、構改系などになるのかなと思っています。そして歴史の研究においては、日共の教条的な講座派歴史観に対して、それを真っ向からあるいは労農派的見地から批判していく形でありました。
 そして、この反日共の立場にたつ人たちの当時の私たちの先輩で、いわゆる労農派的見地からでない人が、一番依って立っていた存在が丸山真男でした。日共系を嫌い切り、徹底して批判していた人たちが、いざデモだストだというときに、今度はまた三派系(学内では反戦会議と称していた)を批判する、その根拠には丸山真男があったように思います。丸山真男は戦後民主主義を代表する象徴だったのでしょう。そして当時、この丸山真男を徹底して批判している存在が吉本隆明だったのです。
 サークルでのゼミでは、日本史でいえば、明治維新の規定をめぐって、西洋史でいえばドイツ(ちょうどドイツ革命のあたりをやっていた)のユンカーの性格をめぐって、第2次世界大戦では、ファッシズム対民主主義の戦いという規定をめぐって、常に日共対反日共での論争がありました。そして、現在の情況論では、不思議と日共諸君は割りと沈黙する中、丸山真男と吉本隆明の対立が私たちの中にも現れてきていた気がします。

 私にとっては、丸山真男というのは高校生のときに岩波新書「日本の思想」のみを読んでいた存在でした。そして非常に感激していた政治思想家でした(私は大学生になるまで吉本隆明のことはまったく知らなかった)。私はこの本を細かくノートをとって読んでいたのです。
 私は丸山真男をいわば尊敬していたので、「現代政治の思想と行動」も読んでみました。また丸山の弟子の藤田省三も読みました。だがこの本の内容あたりから、私は丸山真男に疑問がわいてきました。それは同時に私が次第に学生運動に目覚めていく過程でした。私のサークルの尊敬する先輩たちにも疑問がわいてきたところでした。あれほど日共を毛嫌いし、論争すると完膚なきまでに日共をやっつけようとするのに、いざ街頭闘争のことなどになると、どうしてこそこそと三派の諸君を批判するのだろうという疑問なのです。
 丸山の「現代政治の思想と行動」の内容は、私にとって日共民青諸君との論争のときなどには役に立ちました。現代の歴史、たとえばドイツの歴史などの丸山の解説には、日共諸君を攻撃できる内容がいくらでも塗り込められているのです。でも私には次第に丸山のメッキがはげてきたように感じました。丸山の中に鼻持ちならない戦後民主主義文化人意識を感じるのです。もっと言えば、東大の教授としての特権意識しか感じられないのです。そして、彼の中にある大衆蔑視の意識をどうしても感じてしまいます。彼が吉本隆明を馬鹿にするのは、「結局、お前なんか、東大の教授にはなれないじゃないか」というところであり、彼が日共を批判するのも、彼の大衆蔑視の特権意識(もちろん私は日共にも大衆蔑視の意識を感じるよ)ではないのかと思うのですね。
 そして、この大衆蔑視というのは、逆にいうと、ありもしない大衆像を逆に尊敬してしまうことと同じです。言いきってしまえば、丸山は日共を批判する民主主義勢力として振舞っていたとしても、同時に心の奥底では日共を尊敬したのだろうと、私は思ってしまうのです。宮本顕治は阿呆だとしても、本来の日共は正しいはずなのだ、正しくなければいけないのだと心の底では思っていたのではないでしょうか。
 だが、大衆を蔑視し、逆に大衆を尊敬していたとしても、東大の教授に絶対なれない吉本隆明のことは、まったくの敵でしかなかったと思います。「大学の先生にはなれず、しがない評論家にしかなれない」ひがみとか言って、貶していた吉本隆明の存在に、最終的には丸山はその根柢を打ち壊されました。それがあの東大闘争です(誤解しないでほしいのだが、吉本さんは決して東大闘争を支持も不支持もしていません。第一彼は悲しいことに「東大紛争」としか呼んでくれません。私はこれだけは吉本さんに不満です。闘争と呼んでください)。
 東大全共闘は、丸山の研究室になだれ込みました。丸山が言うには、「ドイツ本国にもないナチス研究のための貴重なマイクロフィルム」が破壊されました。丸山は、

  君たちは日本軍国主義もナチスもしなかったことをやった

と全共闘に言いました。全共闘は

  俺たちはお前のような奴を追い出すために闘っているのだ

と答えました(思い出だけで書いているから正確ではありません)。
 このことこそが、丸山の戦後の存在を象徴しています。丸山なんて、東大という象牙の塔にこもっていて、ただ日共を批判する存在だけでした。いざとなったら、すぐに権力の側に身を変えるのです。いざとなったら、日共とも手を組める破廉恥な人間なのです。

 丸山は現代の荻生徂徠になりたかったのでしょう。若き荻生徂徠は、元禄の時代綱吉の諮問に答えます。赤穂浪士の裁定のことです。徂徠の答えは理にかなったものでした。でもでも、どれくらいこの時代の庶民の声が分かっていたでしょうか。いや、庶民の声なんかどうでもよかったのでしょう。私にとって、徂徠は実に優秀な学者です。すごいな、たいしたものだなとの思いがあります。でもでも、私は大嫌いなのです。
 私は丸山真男もやがて、荻生徂徠と、同じような形に歴史の中にはめ込まれるだろうと思います。すごい人だったな、頭のいい人だったな、でも俺は大嫌いだったよ、と私は言うでしょう。

 もう丸山はどんどん去っていっている気がします。もう本を開くこともないでしょう。読む必要も価値もない方にしか、私には思えないからです。
 でもこうして、ただただ、一気に書いてしまいました。もう少し本を引用して正確に書けばいいのですが、なんだかその気になれません。そして、丸山真男の本は、もう随分昔に古書屋に売ってしまいました。
 もう、これで丸山真男にさようならを言いたいと思います。(1997.04.05)

10121207 19日にあるクライアントの本社で、その会社が新しくつきあう会社の親会社を調べようと、私のノートパソコンからNIFTY へアクセスして帝国データバンク他を調べていました。そのときに、私のクリッピングサービスに埴谷雄高の死を告げるニュースが3つ入ってきました。私はいくつかの項目で新聞のクリッピングサービスを頼んでおり、「吉本隆明」ということで入ってきたものです。そのうちの一つが以下です。

 02/19 13:34 共: 3日間を半世紀かけて執筆  「死霊」未完のまま逝く
共同通信ニュース速報
 半世紀にわたって書き続けた長編小説「死霊」を完成させることなく、十九日、作家の埴谷雄高さんが亡くなった。宇宙、存在をめぐる思考実験だった大作は、第九章を終わったところで未完のまま残された。
 「証明不可能な事態をまざまざと表現するのが、文学の創造性」と取り組んだこの小説は、五日間の物語として構想されたが、第八章(一九八六年発表)で二日目の夜が終わり、第九章(九五年発表)で三日目に入ったところだった。
 八十歳を過ぎても、埴谷さんは毎日、眠られぬまま早朝まで「死霊」と格闘した。“無限的妄想家”の頭の中から紡ぎ出される文章は、一日で数行のペース。近年は「二十年かかるかもしれない。途中で死んでも仕方がないな」と達観していた。
 難解といわれ、日本では珍しい形而上の世界を構築した埴谷さんだが、繰り返しの多い“ボレロ的冗舌”と自ら言うほどの話好き。甘口のワインをちびりちびりと飲みながら、張りのある大声で語る話題は、尽きることがなかった。その語り口は、落語の名人のような雰囲気があった。
 作家の武田泰淳氏、大岡昇平氏ら友人に先立たれ「最近は秀才は出るが、生きる中から思想を絞り出すような人間がいなくなった」と嘆いていた。詩人の吉本隆明氏との「現代」をどうとらえるかの論争を振り返り「ああいうことも、これからの日本ではないかもしれない」とも。最近の短文集「虹(にじ)と睡蓮(すいれん)」の後書きで「このように長く生きることは、またボケることでもあって」と、体の不調と物忘れのひどさをぼやいていた。      
 アナキズムからマルクス主義へ、さらに中央集権的な「党」を批判してきた永久革命者は、「死霊」の残された半分を抱えたまま、この世を去った。
[1997-02-19-13:34]

 私は思わず「埴谷雄高が亡くなった」と声をあげてしまいました。だがそのクライアントには誰も埴谷に関心のある人はいません。
 当日神田会という、私の主宰する異業種交流会がありましたが、私より年上のNさんが来るなり「埴谷雄高亡くなったね」と声をかけてきました。そこでみんなに埴谷がきょう87歳で亡くなったことを伝えましたが、45歳以上の方は、それぞれみな「えっ!」という感じで、いろいろと感慨深げでしたが、45歳未満の方々は「埴谷?ってなんだ」という感じだったように思います。このことが、私には埴谷の存在を象徴しているように思われたものです。
 その場で私の言った言葉。

  こういっちゃ悪いけど、埴谷なんて、80年代の吉本さんとの消費文化
 をめぐる論争のときから、悪い奴だよ。
  いや、戦後「死霊」を書き出したときからだめだな。いやいや、そうじゃ
 ない。戦前に刑務所の中でカントの「実践理性批判」を読んで何かがつか
 めたなんていうのから嘘っぱちだな。

 亡くなったかたをすぐさまけなすのはいけないとは思うのですが、どうしてもひとことふたことみこと、言わないと私の気がすまない人なのですね。(1997.02.22)

2017073102 谷川雁が2日午後5時6分に肺がんのため亡くなりました。71歳でした。これで、吉本(吉本隆明)さんと一緒に「試行」の創刊に関わった3人(村上一郎、谷川雁、吉本隆明)のうち2人が鬼籍に入ったわけです。なんだか時間というのは、非常に無慈悲に過ぎ去っていくもののようです。
三井三池争議のときの谷川雁から、70年代の経営者(たしかテックという会社の社長だった)の姿まで、なんだか遠いところにいる教祖のように私は眺めていました。「自立」とは吉本さんの語彙であるわけですが、これはまた谷川雁が述べたことでもありました。 

自立を思想内容としてとらえれば、それはいかなる範疇にも属さない、名づけることのできない存在に自分がなろうとする決意の問題である。他のあらゆる個人、集団に同一化されない、自分以外の世界すべてにヒジ鉄を加える精神である。

自立とはいずれ「他立」するための便宜的な手段ではなく、それを自己 目的とすることである。10120605

組織形態論としてとらえた自立、展望をもたなければ動こうとしない自立、どうすれば自立できるかと他人に問うことことからはじまる自立なんてものじゃ、自立という言葉がなくのである。                 (谷川雁「民主集中制の対局を」)

しかし、吉本さんはこの「自立」をまさしく私たちの前に見事に提示してくれているように思いますが、谷川雁はどうだったのでしょうか。
吉本さんの雁への追悼の言葉を聞いてみたいものです。
合掌します。(1995.02.04)

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10112906 この「だいたいでいいじゃない」というのは、吉本(吉本隆明)さんの最新作です。この本を読みながらうなずいてばかりいたのですが、私で経験してきたことでも、同じことが実にたくさんあります。そんなことを書いてみます。とくに今回は私自身がやるコンサルティングのことで話してみましょう。

 私がさまざまなことで相談を受けるときに、現在のクライアントであれば、その会社の内容や経営者の性格等々まで知っているために、さまざまな角度からも、あるいは一点に絞ったお話もできます。話だけではなく、「いや、もうこうして実行してしまいましょう」ということにもなれます。だが、はじめてお会いする方で、しかも何の資料も私のほうにもらっていない場合には、もうそれこそ出たとこ勝負です。誰かから「とにかく会って話を聞いてあげてよ」ということだけで、お会いすることも多々ありますから、実はこれは大変なことなのですが、それでも私は何か言わなければならないのです。
 例えば、私がある飲食店の相談を受けたとします。そうしたときに、相手が試算表なりを持ってきてくれれば詳しい話になれますが、まずそんなものを作っていないところが多いし、年度決算くらいはやっていても、当人はそんなこと忘れ果てています。つまり数字的な資料がほとんでないということが多々あるのですそんなときに、私は聞いていきます。まず1カ月の賃料はいくらかということです。
 さて、これからはあくまで例ですよ。
 この賃料が16万円だとします。そうすると、私はこの店がかせがなくちゃならない売上というのは、1日最低8万円だと考えます。理想的には、1カ月の賃料を1日で稼ぐことがいいのですが、最低では2日です。この根拠を聞かれると明確に応えられないから困るのですが、何にも知らなかった相手のお店でも、細かく数字をあげていけば最後にはたぶんこのような結果になるのです。それをもう最初から前提として考え話してしまうのです。まさしく「だいたいでいいじゃない」。だけど、話していけば納得できますよ。
 1日最低8万円稼ぐにはどうしたらいいでしょうか。そのお店が料理店屋で、しかも酒をけっこう飲ませる店だったら、開店を夕方5時で11時閉店としても、客が来るのが7時くらいで、いなくなるのが10時とすると1日3時間の稼働です。そうすると1時間あたり3万円弱売り上げないといけない。そうすると、客単価がほぼいくらであると見当をつければ、もう何人のお客が来てくれないと達成できないとか、席が何席あるから、何回転しないといけないとかいうことが出てきます。これで8万円を達成できないのなら、その店はやがてつぶれます。そうなると、午後7時からではなく、午後5時開店のときから、お客が入ってくるような工夫をしなければいけないとか、昼も定食を提供しようかということを考えないといけなくなります。そこでさまざまなことを考えていけるわけです。 思えば、以上のことは単に財務会計の知識から出てくるおおざっぱな話なのですが、もともと財務会計はどんぶり勘定です。「だいたいでいいじゃない」ということで、もともとやってきたのが財務会計なのです。でもさらに、この財務会計の概念だけでは足りないことも話ます。
 この店が毎日けっこうなお客が入りまして、毎日に売上が20万円を超えたとしても、その実に9割18万円がすべてつけだったらどうなるでしょうか。間違いなく、このお店もだめになりますね。だから、店長やママは、そこらへんのことも考えながらお客とのつき合いをしなければならないのです。思えばこれが資金繰りなわけですが、財務会計には「資金繰り」という考えはありません。
 このように話していきますと、さまざまなことが出てきます。最初は、1日8万円などというおおざっぱな話から、いろいろな展開ができるのです。話は最初に「ちゃんと数字が判らないと判断できない」というのではなく、とにかく賃料くらいは判るでしょうから、それから一緒に考えていくことなのです。 思えば、これが吉本さんのいわれる「だいたいでいいじゃない」ということになるのかなと思いました。(2000.11.27)

10102628 Spider job  蜘蛛業 に書いております 歴史さとう が2010年10月13日〜10月31日までのUPしました14回目の10回分が以下の通りです。この「愛した女」ということでは、10回目の10回分です。

2010/10/31(日)
吉本隆明の愛した女、和子さん
2010/10/29(金)
島成郎の愛した女、博子さん
2010/10/28(木)
芥川龍之介の3人の母
2010/10/25(月)
豊臣秀頼の愛した女、千姫
2010/10/23(土)
サルトルの愛した女、ボーヴォワール
2010/10/21(木)
勘平の愛した女、おかる
2010/10/19(火)
車寅次郎の愛した女、リリー
2010/10/17(日)
徳川秀忠の愛した女、お江
2010/10/15(金)
チェーホフの愛した女、マリア・キセリョーフ夫人
2010/10/13(水)
ゲーテの愛した女、シュタイン夫人

 ちょうど100回続けたところで、この「愛した女」というシリーズは終わります。まだ釈迦とか孔子の「愛した女」ということでも書くつもりだったのですが、私では書けないのですね。資料を探すことができません。
 また別なテーマで書きます。今度は戦争について書きます。日本、中国、欧米等の戦争の歴史について書きたいのです。
 ただし、しばらくはお休みします。少し戦争についても私の心が落ち着かないと書けないのです。その間は、「読書さとう」をしばらく毎日UPしてまいります。

10101704「ニュースさとう」で吉本(吉本隆明)さんのついこのごろの新聞で竹内好について書いていることを書きました。
「歴史さとう」では、豊臣秀頼と千姫のことを書きました。歴史は残酷だなあと思うばかりです。あ、また北鎌倉で東慶寺を訪ねたい思いです。隆慶一郎の小説にこの東慶寺も出てきたものですね。その小説を思い出しています。
 写真は、10月17日の午前11時46分の柳田公園です。私は小さい娘二人とこの大きな遊具に乗って遊んだものでした。二年くらい前にポコ汰とここを滑ったときに、もう少し怖く感じたじいじの私です。(10/25)

10101708「ニュースさとう」で吉本(吉本隆明)さんの「書き言葉」と「話し言葉」ということを書きました(メインに書いたニュースは別のことです)。このことを学校でも教えてくれないかなあ。日本人はどちらかというと「書き言葉」を他の民族よりは優先しているように思えます。だってケータイでも、会話よりもメールをよく使うでしょう。このことは大きなことです。米国人や中国人では考えられないでしょう。
「読書さとう」はこれから書きます。小林秀雄にしようかな。フロイトの『夢判断』にしようかな。二人の顔を思い出しています。
 写真は、10月17日の午後6時05分に長女の家で撮りました。ポポもポニョもこの人形を触っています。この人形と会話することもあるのかなあ。(10/20)

10101604 吉本隆明さんと長谷川慶太郎さんの本はもう読んでいて、実に嬉しいです。たくさんのことを教えてくれます。

2010/10/19 07:15リビングで食事です。ただしまだ少しあとなので、慶太郎さんの本を読んでいます。もちろん蜘蛛業へのメール送付は終わっています。もうすぐ一年が経ちますね。こうしてここまで書いてきて良かったです。
 ただ「コラムさとう」があまり書けていないので、悔しいです。いや書くことはあるので、書いていけばいいのです。
2010/10/19 07:50今食事を終えています。
2010/10/19 09:48義母のお迎えの電話を待っています。電話が来たら、義母を1Fに送り出します。もう電話が来ますね。
 でも義母は毎回行くことを忘れ、私がまた同じことを説明しています。私はそのあと自分の医院へ行って、薬局へも行って、そのあとまたやるべきことがあります。義母はもう何度も何度も同じことを繰り返しています。
2010/10/19 10:04義母に今の時刻と日付をメモさせました。明日もこうしてメモしてもらいます。それでも忘れるでしょうね。でもこのままでは、義母も妻もあまりに大変です。
 もう実に大変です。
 でも数分前に自分でメモしたことも忘れています。でも自分でメモするのはいいですね。それを見ると、自分がメモしたことは分かるようです。
 このあわただしいときに営業のどうでもいい電話がかかってきます。もう怒ってしまいます。なんとか建設と言っていました。
2010/10/19 10:22今、外で義母を送りました。
2010/10/19 12:29この間、医院に行きまして、薬局へ行きました。それでまた出かける予定でしたが、今止めました。いろいろといっぱいありますね。

 昨日の朝、義母のお迎えの電話を待っているときのどうでもいい営業の電話、実に腹が立ちました。本当にひどいものですね。

10101601 きょうになって気がつきました。いつも書いています「周のポメラ」を昨日は書いていなかったのです。電車の中でも開いていなかったのですね。IS01も持っていますから、そちらを開いていたのですが、でも昨日は私のミスにより、かな漢字入力ができなくて使えなかったのですね。それなら、なんでなのかなあ。ただ、王子から秋葉原は12分しかなく、東京駅から帰りの王子までは、吉本(吉本隆明)さんの本『15歳の寺子屋 ひとり』を読んでいたものでした。

10101506 昨日私は秋葉原と東京駅八重洲ブックセンターへ行きました。吉本隆明さんの『15歳の寺子屋 ひとり』を買ってきて、昨日すぐ読み終わりました。実にいい本です。最初を読んで私には涙が溢れていました。電車の中だったので、恥ずかしかったです。
 今朝「読書さとう」で「ブル中野『金網の青春』」を書きました。私は彼女のプロレスが好きでしたし、今も彼女の生き方が好きです。彼女は実にいいプロレスラーでした。
 写真は、10月15日の午後6時19分の長女の家の前の広場です。こうして、アンパンマンが描いてあります。でもこの時間はもう目では見られないのです。(10/18)

10101203 it's a floatingworld! blog に このUPがありました。

『日本の伝説』柳田国男・著

 私は蜘蛛業読書さとうに、「柳田国男『日本の昔話』」を書いています。私は、このあとに『日本の伝説』を書くつもりでいました(私がこの「読書さとう」にはたくさん書いていますので、なかなかこの本に至らないのです)。私が中学2年の6月に続いて読んだ本です。まだ角川文庫の帯が白ではなく、昔の紺色の帯だったものでした。
 私が中学生のときは、この二つだけで、高校2年のときに、「柳田国男全集」に触れだしたものでした(『海上の道』は高2で読んだものです)。でも高校では、もう一人の折口信夫という人にもつかまりまして、もはや実に大変なことになってしまいました。
 そして大学へ行くと、革命運動を熱心にのめりこんでしまい、大変なことになって、また柳田国男、折口信夫に熱心に読もうというのは、25歳を越えてしまいました。あ、もちろん、吉本(吉本隆明)さんを読みだして、それこそその引力のほうが強いものだったのですが。
 でもまた読み続けて行こうと決意するものです。
 いやいくつものことを忘れてはならないですね。

10100101  Spider job 蜘蛛業 に書いております ニュースさとう が9月19日〜9月25日までのUPが以下の通りです。

2010/09/25(土)No.312
あの船長をどうして釈放するの?
2010/09/24(金)No.311
10代女性の約2割がブログ情報を参考にしている
2010/09/23(木)No.310
「でっちあげ」を平気でやる検察官
2010/09/22(水)No.309
策ではなく実を提供するのがWebサイトの魅力
2010/09/21(火)No.308
米ルイジアナ州沖の原油流出が終わったのかな
2010/09/20(月)No.307
吉本隆明の論争で、ロス疑惑やオウム事件のこと
2010/09/19(日)No.306
電子マネーの導入が進まないなと思っていましたが

  これをUPするのを忘れていました。困りますね。あ、でも「尖閣諸島の問題」で私はまたいうべきことがありますので、またあとで書きます。

10091703 私はいつも八重洲ブックセンターにて、本を購入しています。インターネットで注文することもありますが、翌日に手に入るのですが、もうすぐ手にしたいときに行きます。
 でも店員でいい人もいますが、ひどい人もいますね。

2010/09/21 07:56きょうも暑くなりそうですね。いつも食事のときにはこうしてポメラを打っています。
2010/09/21 09:38今はまたリビングでこうしてポメラを打っています。
 義母は起こしますと、「病院へ行く」と「山口へ帰る」のどちらかをいいます。「わが家へ行く」というのは、少しも頭にないようです。たぶん、わが家の車に乗る瞬間にわが家のことは少し思いだすのではないかなあ。
 思えば毎日毎日がこの繰り返しですね。ずっとこうして続くことがいいのです。義母が繰り返し言われることが実に困っていますが(きょうは、「この薬を飲むの?」と実に30秒おきくらいに5回聞かれました)、これはもう仕方のないことです。昨日八重洲ブックセンターで、吉本(吉本隆明)さん関連の本が買えたことが実にいいことでした。でも長谷川慶太郎さんの本がなかったのだよなあ。店員さんが持ってきた本は、「もうそれは1年前に、ここで買った本です」でした。実にいやになります。
 思えば八重洲ブックセンターは、ちゃんとした店員さんと、ひどい店員が同居していますね。あの「本を読む」ことと無縁の人はいなくなってくれないものかなあ。まあ、そんなことを私もいえたものではないのですが。
2010/09/21 10:02「ちい散歩」は角舘です。いいですね。今この川も思い出しました。でも角館では私は泊まっていないのだなあ。あのときの旅行も思い出しました。懐かしく細かく思い出しました。

 八重洲ブックセンターで、ひどい人は、私が吉本(吉本隆明)さんの本がなくて(場所が移動していた)、3Fの店員に言いましたところ、その店員はコンピュータの前で、「そういう人のはないと思いますよ」と言いましたので、思わず私は「バカ、ちゃんと調べてみろ!」と声高にいいました(私はそれまでは実に丁寧な喋り方でしたよ)、すぐに目の前の画面には、吉本隆明さんの本がずらっと並びました。あの店員は間違いなく、首になったろうな。吉本隆明さんを知らずして、よく東京駅前のみんなが来る書店の店員でいられるものです。それを深く思い出します。

10091702 午前6時前には、どうしてもこのポメラに書いた文をパソコンからUPするのが大変です。

2010/09/20 05:46朝です。この時間はブログのUPがどうしてもだめ(文章を書いてもUPできないのです。もう30分くらいです)で、いらいらするのなら、こうしてポメラを打っているわけです。今ブログはUPできました。
2010/09/20 07:26どうしてもこうしてブログがUPできるのはいいですね。パソコンの部屋を離れてもすぐに書けるのがいいです。これがノートパソコンではこう行きません。「起動」するというのは実に面倒なものです。
2010/09/20 07:53でも上のことは今までにも言っていることですね。もう私もどんどんと歳とっていくのですね。困ったものです。
 なんとなく2日間孫に会っていないから(前には18日の夕方7時頃に会っています)、もう私は孫のことばかり考えています。きょうの夕方は会えないのかなあ。
 もう「ゲゲゲの女房」ですね。しっかり見ていこう。
2010/09/20 09:46義母のお迎えを待っています。早く来ないかな。そのあと私は吉本(吉本隆明)さん関連の本を八重洲ブックセンターへ買いに行きます。あ、その前にインターネットで店が開店しているか調べておこう。きょうはいっぱいやることがあるものです。

 八重洲ブックセンターへ行きまして、吉本隆明さん関連の本はありましたが、長谷川慶太郎さんの本はなかったです。新聞の広告で見たのですがね。

10091801「ニュースさとう」では、吉本(吉本隆明)さんに関する本の紹介の記事を毎日新聞から抜き出しました。もちろん私はこの本を手に入れに行きます。
「読書さとう」では、「一言芳談抄」について書きました。鎌倉時代に、浄土宗の何人もの僧侶たちの言葉を集めた本で、私が読んだ古書(岩波文庫)は、それを持って戦場に行った方の書き込みがあるというものでした。この本も吉本隆明さんの紹介で知ったものです。
  写真は、9月18日午後12時49分に撮りました。谷中霊園のすぐ前です。いい天気の日でした。(09/20)

10091513 これのUPが今になりました。

2010/09/16 07:43またこうして食事が終わりまして、リビングにいます。いや、このポメラで書かなくてはならないことが他にもあるので、急いでいます。
2010/09/16 08:00もう「ゲゲゲの女房」です。いい話ですね。もっとこの話をよく見ていきましょう。本も読みたいな。
2010/09/16 09:44「ゲゲゲの女房」の本を読むのにはどうすればいいかなあ。図書館では借りられないだろうし。でもきょう注文しようかなあ。この頃吉本(吉本隆明)さんの本以外は買いたくないです。長谷川慶太郎さんの本は買いますが、読み終わると、人にあげるようにしています。本が増えるのだけが困ってしまいます。
2010/09/16 10:09さて義母を「わが家」に送り出しました。

 なかなかこれをUPするのが遅くなりました。

10080103  私のここのサイドバーにあるツイッターで、私の友人のyossitakaさんに以下を書きました。

あ、そうなんだ。あのお寺は私の父が菩提寺と定めたのです。曹洞宗のお寺で、代表は戦争で長男次男が戦死したので、自分が継ぐことになったと前に言っていました。私は11時20頃入りまして、お参りして正午にはもう飲んでいました。暑い日でしたが、いいお墓参りでした

 これは140字という制限がありますので、「、」や「。」も大変なのです。いつもあとで、文字やこうしたものを削除して140字に合わせています。もちろん、私のこのブログにUPする題名をそのままUPするときには、ほぼ字数の問題はありません。
 この正泉寺は実にいいお寺です。住職は、先の大戦のために、突如お寺を継ぐことになり、鶴見の総持寺に修行をされた苦労を語ってくれたことがあります。
 私も大昔は、禅宗といえば、道元の曹洞宗がちゃんと哲学を語っているのだろうと思い込んでいたものでした。「道元『正法眼蔵』」は、岩波書店の「日本思想大系」で最初1970年に刊行されたと思いました。
 でも読んでもよくわからなかったな。でもこの本はあちこちの私の友人たちの本棚でもいつも見かけたものでした。
 でもそののちは、臨済宗の栄西の方に私は興味が移って行ったものです。鎌倉や京都の禅宗のお寺を歩いても、そちらへの興味のほうが大きくなったのです。
 でもあと禅宗といえば、黄檗宗にも興味をもったものです。でもどれももう私には無縁になりつつあります。そもそも私には宗教なんて、難しすぎるのです。
 私は今はけっこう『文語訳舊新約聖書』はよく開いて読んでいます。でもいつも読んでいた『マタイ傅』ではなく、今は『マルコ傅』をよく読むようになりました。
 でもでも、自分の死を考えると、マルコ傅をよく読んでも私にはわからないなあ。私の父母がこの正泉寺なのですが、私の義父は神戸の教会です。だから私はよく『聖書』もよく読むようにしているのですが、やっぱりこれまた私には向いていないかなあ。あまりに私は不勉強ですからね。
 やはり、親鸞の教えには、分かりたいと思うところが一致することも多いです。
 私はやはり吉本(吉本隆明)さんの考えにそのまま従ってしまう自分で行きます。いきそうです。親鸞の教えと、吉本隆明さんの考えに何故か似たところを感じている私です。

10072107 きょう蜘蛛業の目森一喜さんと電話で話していました。それで私の故郷茨城の芸人赤いプルトニウムの話になりました。実は私はこの芸人の女性の大ファンなのです。
 彼女のサイトは、私のこのブログのサイドバーに置いてあります。
 そのときの目森さんとの会話で、私は私が日々読んでおります聖書のマタイ伝を私の故郷茨城弁の表現したら、どうなるかという話になりました。
 それで以下聖書を読んでみました。私はいつも日本聖書協会の文語訳の舊新約聖書を身近に置いて読んでいますが、でもとにかくマタイ伝を読むわけです。
 でもいつも読むのですが、今回はインターネット上で探しました。マタイ伝は、私の好きな吉本(吉本隆明)さんが、『マチウ書試論』を書かれていて、私の昔からの愛読書です。(マチウ書とは、新約聖書マタイ伝のフランス語訳のことです)。
 それでインターネットで以下見つけたものです。私はこの28章だけでも茨城弁にしたい思いでした。
 以下マタイ伝28章です。

「新約聖書」マタイ傅28章文語訳
  さて安息日をはりて、一週の初の日のほの明き頃、マグダラのマリヤと他のマリヤと墓を見んとて來りしに、視よ、大なる地震あり、これ主の使、天より降だり來りて、かの石を轉し退け、その上に坐したるなり。その状は電光のごとく輝き、その衣は雪のごとく白し。守の者ども彼を懼れたれば、戰きて死人の如くなりぬ。御使こたへて女たちに言ふ『なんぢら懼るな、我なんぢらが十字架につけられ給ひしイエスを尋ぬるを知る。此處には在さず、その言へる如く甦へり給へり。來りてその置かれ給ひし處を見よ。かつ速かに往きて、その弟子たちに「彼は死人の中より甦へり給へり。視よ、汝らに先だちてガリラヤに往き給ふ、彼處にて謁ゆるを得ん」と告げよ。視よ、汝らに之を告げたり』女たち懼と大なる歡喜とをもて、速かに墓を去り、弟子たちに知らせんとて走りゆく。視よ、イエス彼らに遇ひて『安かれ』と言ひ給ひたれば、進みゆき、御足を抱きて拜す。ここにイエス言ひたまふ『懼るな、往きて我が兄弟たちに、ガリラヤにゆき、彼處にて我を見るべきことを知らせよ』
 女たちの往きたるとき、視よ、番兵のうちの數人、都にいたり、凡て有りし事どもを祭司長らに告ぐ。祭司長ら、長老らと共に集りて相議り、兵卒どもに多くの銀を與へて言ふ、『なんぢら言へ「その弟子ら夜きたりて、我らの眠れる間に彼を盜めり」と。この事もし總督に聞えなば、我ら彼を宥めて汝らに憂なからしめん』彼ら銀をとりて言ひ含められたる如くしたれば、此の話ユダヤ人の中にひろまりて、今日に至れり。十一弟子たちガリラヤに往きて、イエスの命じ給ひし山にのぼり、遂に謁えて拜せり。されど疑ふ者もありき。イエス進みきたり、彼らに語りて言ひたまふ『我は天にても地にても一切の權を與へられたり。されば汝ら往きて、もろもろの國人を弟子となし、父と子と聖靈との名によりてバプテスマを施し、わが汝らに命ぜし凡ての事を守るべきを教へよ。視よ、我は世の終まで常に汝らと偕に在るなり』

「新約聖書」マタイ伝28章口語訳
 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。すると、大きな地震が起こった。それは主の使いが天から下って、そこにきて石をわきにころがし、その上にすわったからである。その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真っ白であった。見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたは十字架にかかったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしと会えるであろう、と告げなさい」。
  女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。万一のことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話しは、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。そして、イエスにあって拝した。しかし、疑う者もいた。イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 それでこれを茨城弁に翻訳します。でも私では単に大変な苦労をして、時間ばかりかかるだけです。それでインターネット上で茨城弁翻訳ソフトを探してやってみました。
「昔、名古屋弁翻訳ソフトとか、大阪弁とかいろいろあったよな」という思いで、茨城弁翻訳ソフトもあるかなあ、と探したものです。
 それで以下を見つけました。

   http://www.castanea.jp/keyaki/dappe/ 茨城弁変換

 私が苦労して不正確なことをやるよりも、これがいいでしょう。ただし、作者は以下のように言っています。

また、「茨城弁」とはいっても、作者の出身地「水戸」周辺の方言を中心に組み立てています。ご容赦下さい。 今の水戸はこれほど訛りませんが...

 私の不正確なのよりもいいです。私は故郷が茨城だといいましても、生まれただけです。すぐに東京に引越しまして、そののち、秋田市、札幌市、名古屋市、鹿児島市、横浜市、千葉県我孫子市と引越しばかりしました。その他、浦和市、東京早稲田、千葉船橋、沖縄名護市等々にも住んだものです。今は東京の北区です。
 それでは上のソフトで変換しましたものが以下です。ただし、これは文字だけの変換です。実際に読む場合は、できるだけ品悪く、いい加減に、高く低く喋り続け、調子っぱずれで読むようにしてください。一人で読む場合は、笑うのは自分だけです。

「新約聖書」マタイ伝28章茨城弁訳
 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほがのマリヤとが、墓を見にきだ。するど、大きな地震が起こった。それは主の使いが天から下って、そごにきで石をわぎにころがし、その上にすわったがらだ。その姿はいなずまみだぐ輝き、その衣は雪みだぐ真っ白であった。見張りをしでいだ人たぢは、恐ろしさの余り震えあがって、死人みだぐなった。この御使は女たぢにむがって言った、「恐れるごどはねえ。あなだがたは十字架にかがったイエスを捜しでいるごどは、おらにわがっているが、もうごごにおらんねえ。かねで言われだどおりに、よみげえられだんだ。さあ、イエスが納められでいだ場所をごらんなせえ。そしで、急いで行って、弟子たぢにこう伝えなせえ、『イエスは死人ん中からよみげえられだ。見よ、あなだがたより先さガリラヤさ行かれる。そごでお会いできるであろう』。あなだがたに、これたけ言っておぐ」。そごで女たぢは恐れながんも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たぢに知らせるだめさ走って行った。するど、イエスは彼らさ出会って、「平安あれ」と言われだんで、彼らは近寄りイエスのみ足をいでえで拝した。そのどぎ、イエスは彼らに言われだ、「恐れるごどはねえ。行って兄弟たぢに、ガリラヤさ行け、そごでおらと会えるだっぺ、と告げなせえ」。
 女たぢが行っている間に、番人のうぢのある人々が都さ帰って、いっせえの出来事を祭司長たぢに話した。祭司長たぢは長老たぢど集まって協議をこらし、兵卒たぢにたぐさんの金を与えで言った、「『弟子たぢが夜中にきで、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。万一のこどが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなだがたに迷惑が掛からねえようにしよう」。そごで、彼らは金を受け取って、教えられだどおりにした。そしでごの話しは、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまってる。さて、十一人の弟子たぢはガリラヤさ行って、イエスが彼らさ行くように命じられだ山さ登った。そしで、イエスにあって拝した。んだげんど、疑う者もいだ。イエスは彼らに近づいできで言われだ、「おらあ、天においでも地においでも、いっせえの権威を授けられだ。それゆえに、あなだがたは行って、すべでの国民を弟子としで、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなだがたに命じでおいだいっせえのごどを守るように教えよ。見よ、おらあ世の終わりまで、いつもあなだがたど共にいるのである
」。

 さて、これでキリスト教徒の方怒らないでください。私だって、これを蜘蛛業の「コラムさとう」にUPするのでなく、自分のサイトにUPするのですから。

4bc72692.JPG

 今こうして打てることはいいですね。

2010/06/23 07:57昨日はひさしぶりに八重洲ブックセンターへ行きました。「渡辺和靖『吉本隆明の一九四〇年代』」を手にに入れました。私は吉本(吉本隆明)さんや長谷川慶太郎さんの本はもうインターネットで注文しますが、その関連の本やその他の本は書店で見てから買いたいものなのです。書店で少し中身を見ると、「これはひどいな、買わなくていいや」という本も多いものです。
2010/06/23 09:46義母のお迎えをリビングで待っています。どうしても水曜日は遅くなるのです。仕方ないよね。思えば、何か書籍を読んでいられればいいのですが、困ったものです。
 義母を送りましたら、いくつもまたやることがあります。そうですね。上の吉本さん関連の本も読まなくちゃいけないなあ。
 思えば、私が食べられる果物はなんでしょうか。もうリンゴもみかんもすいかも食べられます。でもあとは駄目だなあ。先日東武ストアで、目の前にばななの切れ端を出されて、私はつい我を忘れて怒りました。「私はこんなものは絶対に食べない」。でも反省しました。彼は別に悪くないのです。でも私はバナナは小学2年くらいのときに少しだけ口にしてそれから絶対に口に入れていません。私の好きだったラッシャー木村がバナナが好きだったのですが、それでも私は嫌いです。あと、○○(じつはくだものの名前が分からない、緑いろのうりのあっちの名前)とかパインとかみんな嫌いです。リンゴもみかんも食べられるようになったのだから、それで勘弁してほしいです。
10062002 私の次女のお嫁に行った先の家で今年もびわをたくさんくれました。私はこれもなかなか好きになれません。でも妻がいうのには、これは冷蔵庫で冷やさないほうが美味しいのだそうです。もう私にはまったく分からないことです。
 そういえば、私はケーキとか和菓子も嫌いだなあ。私がいつも買ってあちこち届けていますから、食べられるものだと勘違いする人がいます。これはまったく違うのです。
2010/06/23 21:27それで昼の12時に長女の家に行きまして、ポポをみまして、それで帰ってきて、また夕方行きました。ポコ汰とポニョのお友だちがポコ汰の忘れ物を届けてくれて、もうものすごい感激です。

 夕方おはぎの家に行きましたら、ちょうど保育園の友だちが2人、来てくれました。ポコ汰の忘れ物を届けてくれたのです。とっても嬉しいことでした。

180476db.JPG   義母はどうしても体温の調節がうまくできないようです。だから、どうしても寒く感じられるところもあるのかもしれません。昨日暑いので、リビングに冷房を入れたら、オーバーを着ていました。
  日経新聞の夕刊に今週の17日から5日に渡って、ペドロ&カプリシャスのボーカルだった(今は単独)高橋真梨子さんが「心の玉手箱」を書いています。彼女は1949年の生まれですから、私より1歳年下なだけなのですね。彼女のご両親は広島の被爆者でした。彼女の「ジョニーへの伝言」を今インターネット上で聞きまして涙を浮かべていました。最初この曲を聞いたのはいつだったかな。そのときはそれほど好きにはなれませんでした。でもだんだん好きになりました。あるときに吉本(吉本隆明)さんが、この歌の詩のことを書いていて、「さすが吉本さんだなあ」と思ったものでした。そのときは、『便所の窓から』という現代詩のことも書いていました(吉本さんはこの詩もいい詩だと言っています)。
 写真は昨日の朝この家のご近所で撮りました。(05/22)

20170608241f60c925.JPG  今朝の日経新聞の一面の「春秋」で島尾敏雄のヤポネシアのことが書いてありました。私の大好きな作家です。私は全作品を読んでいます。奥さまのミホさんとの加計呂麻島での出会いもものすごくいいです。私の大好きな吉本(吉本隆明)さんとも親友でありまして、二人の対談も実に興味が持てたものでした。ミホさんの「島尾隊長と会いたい」(ミホさんは目の前のご亭主ではなく、戦争中の島尾敏雄に会いたいのです)の叫びが今も私にも聞こえてくる思いがします。
写真は、5月4日に家族6人で行きました荒川遊園地での川の流れの中でのみんなです(私と長女は写っていません)。もうポコ汰もこれが一番面白かったと言っていました。長女は、「もっとお金を払った乗り物に感激して欲しかった」と思ったようです。ポニョももう夢中で遊んでいます。
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