将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:呉起

13040810 このルカ傳の中のイエスの言葉は、「角田房子『責任ラバウルの将軍今村均』」の言葉を思い出しました。

  若その一匹を失はば、九十九匹を野におき、往きて失せたる者を見出すまでは尋ねざらんや

 これは私が九十九匹の羊と題して書いています。いや私のブログを検索するといくつも出てくるのですね。私はこの今村均が中学生のときから好きなのです。戦国時代に活躍した呉起の『呉子』は今も開いて読んでいます。私は『孫子』よりもこの『呉子』が好きなのです。
 ラバウルでの今村均を思い出すと、いつも『呉子』の呉起が思い出されるのです。呉起のいくつもの言葉を思い出しているのです。

第15章
 取税人、罪人ども、みな御言を聽かんとて近寄りたれば、パリサイ人・學者ら呟きて言ふ、『この人は罪人を迎へて食を共にす』
 イエス之に譬を語りて言ひ給ふ、『なんぢらの中たれか百匹の羊を有たんに、若その一匹を13040811失はば、九十九匹を野におき、往きて失せたる者を見出すまでは尋ねざらんや。遂に見出さば、喜びて之を己が肩にかけ、家に歸りて其の友と隣人とを呼び集めて言はん「我とともに喜べ、失せたる我が羊を見出せり」われ汝らに告ぐ、かくのごとく悔改むる一人の罪人のためには、悔改の必要なき九十九人の正しき者にも勝りて、天に歡喜あるべし。 又いづれの女か銀貨十枚を有たんに、若しその一枚を失はば、燈火をともし、家を掃きて見出すまでは懇ろに尋ねざらんや。遂に見出さば、其の友と隣人とを呼び集めて言はん、「我とともに喜べ、わが失ひたる銀貨を見出せり」われ汝らに告ぐ、かくのごとく悔改むる一人の罪人のために、神の使たちの前に歡喜あるべし』
 また言ひたまふ『或人に二人の息子あり、弟、父に言ふ「父よ、財産のうち我が受くべ13040812き分を我にあたへよ」父その身代を二人に分けあたふ。幾日も經ぬに、弟おのが物をことごとく集めて、遠國にゆき、其處にて放蕩にその財産を散せり。ことごとく費したる後、その國に大なる饑饉おこり、自ら乏しくなり始めたれば、往きて其の地の或人に依附りしに、其の人かれを畑に遣して豚を飼はしむ。かれ豚の食ふ蝗豆にて、己が腹を充さんと思ふ程なれど、何をも與ふる人なかりき。此のとき我に反りて言ふ『わが父の許には食物あまれる雇人いくばくぞや、然るに我は飢ゑてこの處に死なんとす。起ちて我が父にゆき「父よ、われは天に對し、また汝の前に罪を犯したり。今より汝の子と稱へらるるに相應しからず、雇人の一人のごとく爲し給へ』と言はん」乃ち起ちて其の父のもとに往く。なほ遠く隔りたるに、父これを見て憫み、走りゆき、其の頸を抱きて接吻せり。子、父にいふ「父よ、我は天に對し又なんぢの前に罪を犯したり。今より汝の子と稱へらるるに相應しからず」されど父、僕どもに言ふ「とくとく最上の衣を持ち來りて之に著せ、その手に指輪をはめ、其の足に鞋をはかせよ。また肥えたる犢を牽ききたりて屠れ、我ら食して樂しまん。この我が子、死にて復生き、失せて復得られたり」かくて彼ら樂しみ始む。然るに其の兄、畑にありしが、歸りて家に近づきたるとき、音樂と舞踏との音を聞き、僕の一人を呼びてその何事なる13040904かを問ふ。答へて言ふ「なんぢの兄弟歸りたり、その恙なきを迎へたれば、汝の父肥えたる犢を屠れるなり」兄怒りて内に入ることを好まざりしかば、父いでて勸めしに、答へて父に言ふ「視よ、我は幾歳もなんぢに仕へて、未だ汝の命令に背きし事なきに、我には小山羊一匹だに與へて友と樂しましめし事なし。然るに遊女らと共に、汝の身代を食ひ盡したる此の汝の子歸り來れば、之がために肥えたる犢を屠れり」父いふ「子よ、なんぢは常に我とともに在り、わが物は皆なんぢの物なり。されど此の汝の兄弟は死にて復生き、失せて復得られたれば、我らの樂しみ喜ぶは當然なり」』

 呉起のことを『史記』の司馬遷は少しも誉めていません。だが私には呉起がたまらなく、好きなのです。そしてこの呉起のいうことを実現していたのがラバウルの今村均なのです。その今村13040905均がこの聖書のルカ傳の言葉をいうのです。ただし、その際も「私はキリスト教徒ではないですが」と米軍将校、マッピンにいうのです。今村均こそ私の大好きな将軍です。本当に大東亜共栄圏を信じ実践できていた人でした。

書  名 呉子
著  者 呉起
発行所 明治書院

11082704 世に「孫子」の兵法というのはよく知られています。日本では武田信玄が、西欧ではナポレオンが座右にしていたといいます。そしてその作者は孫武と孫濱(この字は本当はさんずいではなく月です)であるとされ、海音寺潮五郎や陳舜臣の小説にもなっています。近年孫濱の兵法書が山東で発見され、実に「孫子」と孫濱の兵法書は別であり、「孫子」は孫武のみが作者らしいということが分かり、話題になったことがあります。
 それに比べて「孫呉の兵法」といわれながら、なんと「呉子」をあつかった書物の少ないことでしょうか。岩波文庫にすら「呉子」はありません。「孫子」の書きだしが、

  兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからず。

というおごそかな語句、戦争の哲学から始まるのに対して、「呉子」は、

  呉起儒服して、兵機をもって魏の文侯に見ゆ。

という非常にわかりにくい文から始まるのをみても、「呉子」はとっつきにくいのです。簡単に兵法を説いていくわけではないのです。
 実に孫武という人はあまりはなばなしい経歴があるわけではありません。呉王闔閭に仕えたとされているだけなのです。それでも「孫子」の価値はいささかも失なわれないのです。だが、「呉子」は作者呉起のひととなりを知らないと、なにも分かりえないということがいえると思います。

 人間呉起を知るには、まず司馬遷「史記」列伝です。しかし私にとっては残念なことにあの司馬遷さえもこの呉起をよく理解しえていたとは思えません。立身出世主義者であり、冷血とか酷薄とかいわれているわけです。
 魯の国に仕えていたとき、隣国斉の大軍が攻めてきます。呉起を将軍にせよという声があがりますが、彼の妻が斉の国の出であることで、反対されます。呉起は自ら妻の首を切って(註1)、斉軍に急襲勝利します。しかし、魯の人たちはそんな呉起を罷免します。そして、魏の文侯に出会うことになります。

(註1)このことによって、自分の妻さえ殺してしまう呉起のこと
 を誰もが冷酷だというわけなのです。「そんなにまでして出世し
 たいのか」という声もあったことでしょう。でも、呉起はこのあ
 と妻帯はしていません。私には、その後の呉起の心には、いつも
 この自ら首を切った若き妻の面影が残っていたのだろうと思うの
 です。

 この文侯に会って、呉起は一番幸せだったのではないでしょうか。文侯は呉起を魏の西河の大守に任命します。

  西河を守り、諸侯と大いに戦うこと七十六たび、全く勝つこと
 六十四たび、余はすなわち均しく解く。

 強国秦と接して、無敗でありました。
 ところが、名君文侯が亡くなり、息子の武侯がそのあとを継ぐと、もう魏は呉起を必要としなくなります。ここらへんは「史記」にくわしく書いてありま
す。
 そして、また魏を出て、楚の国で悼王のもとで改革に勤しむこととなります。

  かれの不幸は、悼王の死があまりに早かったことにあるのだと
 思われる。もしも悼王の死が遅れて、少なくとも十年か五年の執
 政期間がかれに許されたならば、一切が安定して、かれの功績は
 決して商鞅に劣らなかったであろう。戦国時代の局面は主として
 秦と楚との争覇であるから、呉起の覇業がもしも楚国で成功して
 いたのなら、後に中国を統一したという功業は必ずしも秦人の手
 におちるとは限らなかっであろう。
  (郭沫若「十批判書」

 悼王が亡くなり、呉起も殺されます。その最後は実にドラマチックです。

「呉子」の全編は魏の武侯の問に答える形ですすめられます。「呉子」のひとつひとつの言葉は、「孫子」よりもより直接的です。哲学というより法家思想といえるでしょうか。多分この二つの差は、春秋時代と戦国時代の違いもあるかと思います。
 本来なら詳細にわたって「呉子」の解説をすべきなのでしょうが、私としては「孫子」とはちがった悲劇的かつ凄まじい生き方をした呉起とその「呉子」の存在を知ってもらいたいというところがこの紹介文の趣旨であるわけで、これで終りたいと思います。(1998.11.01)

11062604 私はこの呉子のこと、呉起のことを何度も書いています。検索で「呉起 将門Web」として検索すると、もうたくさんヒットしてきます。私は何度も書いているのですね。インターネット上に最初に出てきたものに

 私は『孫子』よりも『呉子』が好きですし、さらには『呉子』よりも、その呉起その人が好きだからです。

なんていうふうに書いています。
 思えば、もうたくさん書いていますから、もう書くべきことは尽くしたのではないのかと思えてきますが、あえてまた書いていきます。

「孫呉の兵法」といいますが、書店にいけばわかりますが(八重洲ブックセンターへ行くと、典型的に判ります)、「孫子」は驚くほどの解説等の本がありますが、『呉子』はほんのわずかしかありません。同じ「兵法」(へいほう、または「ひょうほう」と読みます)書といいましても、大変に差があるのです。ナポレオンも『孫子』を座右にしていたとは聞きますが、『呉子』については、読んでもいなかったと思います。
 間違いなく、『孫子』については、魏の曹操が解釈本を書いており、それで今日まで明確に残っているのだと思います。だが『呉子』についてはとくに古代の人で解釈本を書いたという人は私は知りません。
 ただ孫子と言われる人は、孫武と孫ピン(ピンは「月賓」を一字にした漢字)という人がいて、それが二人とも兵法家であったと言われており、『史記』にも書かれています。だが、この二人の歴史上の出来事を知らなくても、『孫子』の意義は少しも失われません(実は『孫子』の作者は孫武であり、孫ピンの書物は20世紀になって発見されました。これもまた「孫ピンの兵法書」として今は読むことができます)。
 だが、『呉子』については、呉起そのものの生涯を知らないと、読んでも判らないかと言えると思います。司馬遷『史記』の『列伝』にはすさまじい呉起の生涯が書いてあります。
 彼は戦国時代の衛の出身です。隣の魯国に将軍と雇われたときに、隣国の斉が攻めてきます。だが魯の国の人は「呉起に指揮させろ」といいません。呉起が娶ったばかりの若妻は斉人だったからです。だが、魯国の人は驚くべき光景を見ます。「私を将軍にせよ」という呉起の手には、血だらけの若妻の首があったのです。ただちに呉起は斉軍を急襲して勝利します。だが、魯国の人はこんな恐ろしい将軍を首にします。
 そののちに、呉起は呉国で将軍として活躍し、やがて楚国に行きます。どこでも最後は受け入れられません。私には残念なのですが、司馬遷ですら、呉起のことは少しも褒めていません。どこか「酷評」だとばかり思えたのではないでしょうか。なにしろ、自分の妻の首を切ってしまう男なのです。
 でも呉起は、その後最後まで妻帯しません。私には、呉起は最後まで自らが首を切った妻のことが好きだったに違いないと思えます。いつも私はそのことで、涙がわいてきます。そして今も、私の目は涙だけになっています。(2011.06.27)

10030517 この日は実に歩きました。でも、いつも背負っている鞄を持たずにいて、両手が塞がっていると、却って不便なものですね。

2010/03/08 07:21今食事をしてから午前8時少し前に出かけます。
 いつも思うのですが、いつでもたくさんのことがありますね。今は妻のデジカメが充電できないというので、私が聞きたいのですが、でも出かけますからね。
2010/03/08 08:54江古田の練馬東税務署の前です。待ち合わせです。ちょうど9時頃到着の予定でしたが、早くつきました。あと3分だなあ。
2010/03/08 09:37今巣鴨です。このポメラは電車の中で片手で打てるのですが、でもきょうのように両手にものを持っていると無理ですね。いつものリュックならいいのですが、これでは駄目ですね(今は座っているからできます)。だからケータイしかないですね。
2010/03/08 18:10長女の家に来ました。きっともうすぐ二人の孫が帰ってきます。そうしたら、私はまた二人を抱きしめます。
 ここまで自転車で来ました。私はいつも一万歩を歩く気持ちなので、必ずここまでは歩くのですが、きょうは江古田ほかを歩きましたからもう13、000歩を超えています。だから自転車で来たのです。
 それで自転車の上で、ずっと呉子のことを考えてきました。司馬遷が史記で呉起のことを書いているのは私には、司馬遷の誤解、あるいは言い過ぎにしか思えないのです。いやこれはまた書いていきましょうね。そして私は呉起が生涯愛した女性は一度妻にした人であり、それをずっと貫いていました。だがその女性を呉起は魯の国を守る為に首を切り落としてしまうのです。そんなことを思えば、私はただただ呉起に涙するばかりです。
 またちゃんと書こうかな。

 電車の中等では、ポメラ(これは座っているとき)とケータイを打っています。それに文庫本も読みました。
 それと、昨日妻のデジカメの故障で、そのメーカーに問い合わせして、午後1時に最初電話して、再度電話したのが、午後3時25分で、電話が来たのが3時50分でした。もうデジカメの充電器の故障なので、水曜日午前引取りにきます。こういうことは実に大変なことですね。
 上の呉起のことはまた別に書かなくちゃなあ、と考えています。

 九十九匹の羊 を書いてみて、私は今村均のことを思い出していました。それについて、私がこのブログに書きました文章があります。
 2006.04.15に次を書いています。

   http://shomon.livedoor.biz/archives/50550803.html
                  今村均を思うと呉起を思い出す

 それから、2006.04.21に次を書いています。

   http://shomon.livedoor.biz/archives/50560563.html
                        呉起のことで少し

22986a2d.jpg この今村均という人は、大東亜協栄圏の思想を実際に信じていた将軍でした。そして彼は実際にインドネシアでそれを実現します。そして戦後ラバウルの法廷でもそれを主張するのです。
 私はいつもこの今村均を思い出してきました。そしてまたいつも、この聖書の言葉も思い出すのです。

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米国側資料が明かすラバウルの真実
書 名 米国側資料が明かす
    ラバウルの真実
著 者 吉田一彦
発行所 ビジネス社
定 価 1,700円+税
発行日 2007年6月15日一刷発行
読了日 2007年11月10日

 つい「ラバウル」という文字で、手に取ってしまいました。必ず今村均を思い出すのです。実際にラバウルで今村均と接した方ともお会いしたことがあります。やはり、その方のお話は、私にとって貴重な今村均の思い出でした。そしてやっぱり私の思っていた今村均そのものが、事実としての今村均だったと私には思われます。そしていつも今村均を思うときに、私はいつも『呉子』を書いた呉起を思い浮かべています。
 それにしても、日本帝国というのは、実に情けないというかひどいものです。でもやっぱりかなり米国には脅威な存在だったのですね。かなりなものとして闘っています。
 もうそれにしても、やはり大変な戦いをしてしまったものなのですね。

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