将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:周の歌集

13031206 この歌がいつも思い出されてきます。

歌名 蘇州夜曲
作詞 西条発十
作曲 服部良一
昭和15年
歌 渡辺はま子
歌 李香蘭(山口淑子)

 この歌は私は、渡辺はま子の歌として、また李香蘭(山口淑子)の歌としても、よく聞いてきたもので、また私自身が歌ってきました。
 この歌は昭和15年の映画「支那の夜」の劇中歌です。

1. 君がみ胸に抱かれてきくは
   夢の船歌恋の唄
  水の蘇州の花散る春を
  惜しむか柳がすすり泣く
2.花を浮かべて流れる水の
  明日の行方は知らねども
  今宵うつした二人の姿
  消えてくれるないつまでも
3.髪に飾ろか口づけしよか
  君が手折りし桃の花
  涙ぐむよなおぼろの月に
  鐘が鳴ります寒山寺

  私はいつもこの歌を蘇東坡の「飲湖上初晴後雨」の絶句から生まれてきたと思っています。

       飲湖上初晴後雨  蘇軾
 水光瀲灧晴方好 水光瀲灧として、晴れ方(まさ)に好(よ)く、
 山色空濛雨亦奇 山色(さんしょく)空濛(くうもう)として、雨もまた奇なり。
 欲把西湖比西子 西湖を把(と)って、西子に比せば、
 淡粧濃抹總相宜 淡粧濃抹、総て相(あい)宜(よろ)し

 でも私ももっと学んでいかないといけないなあ。

1303020813030207 今日は2013(平成25年)3月3日のおひなまつりの日です。
 昨日私は三人の孫(ポコ汰、ポニョ、ポポ)のまごころ会保育園のお雛祭りに行きまして、ものすごく嬉しい思いでした。私はどんどん演技が進行しますで次のように書きました。

 今はポコ汰が壇上で唱っています。
「明かりをつけましょう、ぼんぼりに〜」の歌です。
 あとで、この歌詞を私のブログにUPします。

 ところが、ウィキペディアで読みますと、単純には書けないのだ、単純にはコピーできないのだということを感じました。
 以下のようにあります。

 題名どおり、ひな祭りを歌った曲。1935(昭和10年)、サトウハチローが娘に雛人形セットを買ってやった前後に作詞したとされる。それに河村が曲をつけ、1935(昭和11年)1月にレコードが発売されている。

 一方で、歌詞の中に官女から嫁いだ姉を連想するくだりがあるが、これについては、嫁ぎ先が決まった矢先に18歳で結核で亡くなったサトウハチローの姉のことを歌っているものであり、この曲が短調なのはハチローの姉へのレクイエムだからであるとの解釈もある。
 サトウハチローが作詞した楽曲の中では最もよく歌われるものの一つともいわれ、日本では広く知られた曲となっている。一方、歌詞には雛人形を歌った内容としては不正確な描写が含まれており、作詞したサトウハチローはこうした誤りを気にし、晩年までこの曲を嫌っていたという。具体的には、男雛と女雛を「お内裏様とお雛様」と呼ぶのはこの歌から広まった誤用で、また右大臣を「赤い顔」としているのも誤りである。13030209

 それでも、私は以下に歌詞をあげます。私の二人の娘夫婦にも4人の孫にも伝えたいからです。
 私の次女ブルータスは昨日ケータイメールで孫じゅにの顔写真を送ってくれました。私はそれをパソコンに送付してよく見ているものです。
 そういえば、長女おはぎのポニョにも、次女ブルータスのじゅににもお雛祭りのお菓子は送りました。

歌名 うれしいひなまつり
作詞 サトウハチロー
作曲 河村光陽

 あかりをつけましょ ぼんぼりに
 お花をあげましょ 桃の花
 五人ばやしの 笛太鼓
 今日はたのしい ひな祭り

 お内裏様と おひな様
 二人ならんで すまし顔
 お嫁にいらした 姉様に
 よく似た官女の 白い顔

 金のびょうぶに うつる灯(ひ)を
 かすかにゆする 春の風
 すこし白酒 めされたか
 あかいお顔の 右大臣

 着物をきかえて 帯しめて
 今日はわたしも はれ姿
 春のやよいの このよき日
 なによりうれしい ひな祭り

 どうしても、この歌を唄ってしまいます。そして孫の二人、ポニョとじゅにをいっぱい思います。ポコ汰とポポには、「男の子には5月5日の祝うときがあるんだよ」と言ったものです。

12062203「周の歌集」を終えます

  以下に書きましたように、

   日本の新しい著作権法

 今後は、もうUPしません。ただ以前にUPしたものは、このままにしておきます。これで、もう公開していいというのは、著作者の亡くなった50年後ですから、当然私は生きていませんので、これでもう書いていくことはないでしょう。

12061910 現在の世界の中で、この日本にはたくさんのロボット(世界の約8割の数のロボット)が使われているといいます。どうも欧米ではロボットというのは邪悪な存在なのか、日本ほど使われていません。たった今も日本のあらゆるところでロボットたちは懸命に働いているにちがいありません。この日本でそんなにロボットが親しい存在として使われているのは、鉄腕アトムのお蔭だと私は思っています。

歌名  鉄腕アトム
作詞  谷川俊太郎
作曲  高井達夫

一 空をこえて ラララ 星のかなた
  ゆくぞアトム ジェットの限り
  心やさし ラララ 科学の子
  十万馬力だ 鉄腕アトム
二 耳をすませ ラララ 目を見はれ
  そうだアトム 油断をするな
  心正し 科学の子
  七つの威力さ 鉄腕アトム
三 まち角に ラララ 海の底に
  今日よアトム 人間守って
  心はずむ ラララ 科学の子
  みんなの友達 鉄腕アトム
        (1963年昭和38)

 雑誌「少年」に掲載されていたアトムから、テレビアニメになってこの歌がついたとき、アトムは単なるロボットから、「心やさし  心正し  心はずむ」という科学の子としてのアトムとして完成していったように思います。こうしたアトムがどんなに日本の子どもたちに夢を与えてくれたことでしょうか。この歌の作詞者が詩人の谷川俊太郎というのにも最初は驚いてしまいました。
 もうすぐアトムが生まれるはずの21世紀の年が近ずいているといいます。どんなアトムが生まれてくるのでしょうか。(1998.11.01)

曲名  島唄(オリジナル・ヴァージョン)
作詞  宮沢和史
作曲  宮沢和史
 唄   THE BOOM

  でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た

  でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た
  くり返す悲しみは 島渡る波のよう
  ウージの森であなたと出会い
  ウージの下で千代にさよなら

    島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
    島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の涙

  でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ
  ささやかな幸せは うたかたの波の花
  ウージの森で歌った友よ
  ウージの下で八千代の別れ

    島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
    島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を

  海よ 宇宙よ 神よ いのちよ このまま永遠に夕凪を

    島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
    島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を
              (1992年)

12061901 私が沖縄で働いていたときに、沖縄の人どうしが話している言葉がどうにも判りませんでした。なんだか気持のよい外国語を聞いているようでした。それが段々と、かなりこの言葉はかなり美しい優しい言葉なのだなと気がついてきました。そして、なんだか私の心の底にある遥かな過去の思いがわきあがってくるような思いにとらわれてきました。柳田国男のいう「海上の道」を私の生まれたところから逆にたどればここに来てしまうのだろうか、なんて思ったものです。
 そしていま、その沖縄の歌、沖縄の民謡をベースにしたと思える歌がかなり若い人に受けているのをとてもわがことのように喜んでいます。
 このBOOMというグループは私の一家4人全員がファンです。CDもビデオも本もすべてのものが私の家には揃えてあります。

 次は同じ「島唄」ですが、沖縄の言葉で唄っている「ウチナーグ・ヴァージョン」といわれるものです。

曲名  島唄(ウチナーグ・ヴァージョン)
作詞  宮沢和史
作曲  宮沢和史
編曲  THE BOOM
 唄   THE BOOM

  でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た

  でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た
  くり返すくぬ哀(あわ)り 島渡る波ぬぐぅとぅ
  ウージの森であなたと出会い
  ウージの下で千代にさよなら

    島唄ぐゎ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
    島唄ぐゎ 風に乗り 届けてたぼれ わんくぬ涙ぐゎ

  でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ
  ささやかな幸せは うたかたぬ波ぬ花
  ウージの森で歌った友(どうしぐわ)よ
  ウージの下で八千代の別れ

    島唄ぐゎ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
    島唄ぐゎ 風に乗り 届けてたぼれ わんくぬ愛を

  海よ 宇宙よ 神よ いのちよ このまま永遠に夕凪を

    島唄ぐゎ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
    島唄ぐゎ 風に乗り 届けてたぼれ わんくぬ愛を
               (1992年)

 沖縄のことばは、母音が3音しかないからなのでしょう。私たちの祖先の万葉の時代の更にまえには、日本語時代がそうだったのかもしれません。

 旧日本語というのはたぶん三〇%か四〇%くらいの割合で、南と
北の方の言葉に残っているだろうと、そういう仮定を設けるとしま
す。そうすると日本語の研究が南の方でわりに整っているから、南
の方の言葉で言いますと、琉球語とか、もっと先の八重山語という
ふうに限定してもいいんですが、そこでは三母音だとされています。
母音が「あいう」しかないと考えます。

吉本隆明・北山修対談「こころから言葉へ」1993.11.15弘文堂

 だから、え(E)お(O)がないので、

        の(NO) → ぬ(NU)

ということなのでしょうね。
12061902 しかし、この島唄を何度も事務所でも自宅でも聞いていますが、やっぱりいい歌だなと思います。私の家族はみな「THE  BOOM」のファンですが、私はこの「島唄」と沖縄含めた南島のファンでもあるのです。私はこの歌を聞きながら、吉本(吉本隆明)さんのいくつもの南島についての言葉を思い浮べます。海岸でやしの実を拾ったり、風がどこから吹いてくるのか調べている柳田国男の姿を想像します。
「博徒外人部隊」や「沖縄ヤクザ戦争」などのヤクザ映画思いだします。「瑞穂」や「瑞泉」という泡盛の味思い出します。

 それから以下は毎日新聞にのった「島唄」ということについてその日に私が書いたものです。

 毎日新聞「うたものがたり」のこと
 現在毎日新聞の夕刊(除土曜日)に「うたものがたり」という連載があります。戦後の歌謡曲について、テーマをきめて全5回づつ連続掲載され、また次のテーマになります。
 きょうからは「島唄」という題名にて始まりました。
 沖縄には「ブナガヤー」とか「キジムナー」という妖怪の伝説があるようです。
 沖縄では一般的に「キジムナー」で知られるこの妖怪。背丈は幼児ほど、肌も髪も赤い。巨木にすみ、空を飛び、川で魚を取る。
 旧暦八月の丑三つ時。子供たちは川沿いの大木にやぐらを作り、やみの世界をのぞいた。満天の星空と月光に照らされた畑の所々に、チラチラと揺れる赤い炎。「ブナガヤーが夜、カニを取るため灯をともしている」。人と森とが共に生きていた時代、村人たちはそう信じていた。ブナガヤーは自然への畏敬の象徴でもあった。
              (毎日新聞1994.3.7夕刊「歌物語−島唄1」)

12061906 島尾敏雄の奥さんのミホ夫人はこの妖怪を「ケンムン」と言っています。奄美の加計呂麻島ではそういう妖怪になるのでしょうか。そして、ミホさんは成人してからもこの「ケンムン」を怖がっています。あの沖縄のガジュマルの木などを見ていると、なんだかたしかにこんなおばけがいるようにも思えてきます。昔石垣島の北の川平(かぴら)にいったときに、夜暗くなるとなんだかわからない自然が出現するように思えたものです。
 でもこうして「島唄」が唄われて、もっと沖縄のいろいろなことが思い浮んできます。明日の連載も、私たち一家あげてたのしみです。(1998.11.01)

12061805 私の二人の中学生の娘たちもたいへんに尾崎豊が好きであるようです。いや彼女たちの友達たちも同じみたいなようです。彼の表現する言葉がかなり引き付けるのでしょうね。

 一つの芸術的な表現というのは、あらゆる立場、あらゆる悪も善
も退廃も何も全部許容するというものの裏返しと言いましょうか、
あらゆるインチキな評価や間違っている評価までも引き受けなきゃ
ならないという気がするんですね。結局最後になって何がものをい
うかというと、その人の表現した作品といったパーフォーマンスが
ものを言うのであって、その存在感に対しては、誤解なんかでなに
も言うことはできないだろうと。
 尾崎さんという人のその作品とかパフォーマンスは、あくまで僕
の感じですので、当たっているかどうかは別なんですけれど、この
人は明らかに言葉の人だなって感じたんですね。尾崎さんっていう
人は、自分が思ったかと、あるいは言いたいこととかいっぱいあっ
て、それをストレートに言う場合もあったり、比喩的に言ってみた
り、場面設定や主人公を変えて、という風に表現してみたりしなが
らそれを曲にのせて演じているけど、結局、この人は言いたいこと
をそういう形で言葉で言っているに過ぎない言葉の人じゃないかっ
て思うんですね。
                (「尾崎豊は
殉教者か」吉本隆明、尾崎健一(豊の父)、山下悦子の対談におけ
る吉本さんの発言。「宝島30」1993年10月」号

 尾崎豊はたいへんに吉本さんを尊敬していたということです。表現する言葉を大事に大事にえらんでいたのでしょうか。

曲名  卒業
作曲  尾崎豊
作詞  尾崎豊

  校舎の影 芝生の上 すいこまれる空
  幻とリアルな気持 感じていた
  チャイムが鳴り 教室のいつもの席に座り
  何に従い 従うべきか考えていた
  ざわめく心 今 俺にあるものは
  意味なく思えて とまどっていた

  放課後 街ふらつき 俺達は風の中
  孤独 瞳にうかべ 寂しく歩いた
  笑い声とため息の飽和した店で
  ピンボールのハイスコアー 競いあった
  退屈な心 刺激さえあれば
  何でも大げさにしゃべり続けた

  行儀よくまじめなんて 出来やしなかった
  夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
  逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった
  信じられぬ大人との争いの中で
  許しあい いったい何 解りあえただろう
  うんざりしながら それも過ごした
  ひとつだけ 解ってたこと
  この支配からの 卒業

  誰かの喧嘩の話に みんな熱くなり
  自分がどれだけ強いか 知りたかった
  力だけが必要だと 頑なに信じて
  従うことは負けることと言いきかした
  友達にさえ 強がって見せた
  時には誰かを傷つけても

  やがて誰も恋に落ちて 愛の言葉と
  理想の愛 それだけに心奪われた
  生きる為に 計算高くなれて言うが
  人を愛すまっすぐさを強く信じた
  大切なのは何 愛すること
  生きる為にすることの区別迷った

  行儀よくまじめなんて クソくらえと思った
  夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
  逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった
  信じられぬ大人との争いの中で
  許しあい いったい何 解りあえただろう
  うんざりしながら それも過ごした
  ひとつだけ 解ってたこと
  この支配からの 卒業

  卒業して いったい何解るというのか
  想い出のほかに 何が残るというのか
  人は誰も縛られた かよわき小羊ならば
  先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか
  俺達の怒り どこへ向うべきなのか
  これからは 何が俺を縛りつけるだろう
  あと何度自分自身 卒業すれば
  本当の自分にたどりつけるだろう

  仕組まれた自由に 誰も気づかずに
  あがいた日々も 終る
  この支配からの 卒業
  闘いからの 卒業

 やはり今の時代が彼の表現を生み出したようにも思える。そういえば、私もこの歌を唄ったことがありますね。

  忘れないで強く生きることの意味を
  探している 答えなんかないかもしれない
  何ひとつ確かなものなど見つからなくても
  心の弱さに負けないように立ち向かうんだ
  さぁ走り続けよう 叫び続けよう
  求め続けよう この果てしない生きる輝きを

                            (「誕生」より

 この詩は、私の長女おはぎが、中学2年のときに先輩の卒業生全員に贈った尾崎豊の言葉です。尾崎豊は多分永遠に彼らの心に残っていくのでしょう。(1998.11.01)

曲名  狂わせたいの
作詞  阿久  悠
作曲  徳倉俊一
 唄   山本リンダ

一 ぼやぼやしてたら 私は誰かの
  いいこになっちゃうよ
  これほど可愛い女は二度とは
  お目にはかかれない
  あなたに抱かれて かげろうみたいに
  ゆらゆらゆれるのよ
  時には涙をやさしく流して
  すがってみせていい
  私は恋の女 いつでも恋のどれい
  好き好き好きで燃えて 狂わせたいの
  からだにつないだ鎖をはずして
  どこかへつれてって
  必ずすてきな夢みる気分に
  あなたをしてあげる
二 ぼやぼやしてたら 私は誰かの
  いいこになっちゃうよ
  欲しけりゃ欲しいとこころとからだで
  はっきり言っとくれ
  一つの国でも 私に賭けても
  決して損はない
  今日から毎日 花園みたいな
  くらしが出来るのさ
  私は恋の女 いつでも恋のどれい
  好き好き好きで燃えて 狂わせたいの
  真赤に色づく 私のくちびる
  こころを焦がすのよ
  この目を見たならあなたは二度とは
  忘れてくらせない
        (1972年)

 この歌がはやったときに、私の作ったテーマが埼玉大学のむつめ祭の統一テーマとなりました。私が大学6年の時のことです。以下その時のプログラムに書いた文章です。

  *****************************
     狂わせたいの
     …………花弁はうずく女は叫ぶ
            俺の墓はどこだ!……………

12061409 60年から70年が「西田佐知子から藤圭子へ」の時代であり、内に黛ジュン、小川知子を含むとすれば、今は「欧陽菲菲から山本リンダへ」の時節、腰の直線運動から回転運動への変遷の時といえるだろう。
 我々は欧陽菲菲の出現は、日帝の蒋介石に対する最後の義理だてて勘ぐったものだったが、その歌と共に左右に揺れ動く腰には純粋に今までの女性歌手の腰の動きを完全に総括した最高のものがある。昔、「安保粉砕!」の声を聞いた御堂筋は、今、欧陽菲菲の腰をどう感じているのだろうか。少なくとも、たとえ豊かに見えようとも、八三センチのヒップには、もはや大陸反攻の夢も影も見えないのだ。
 欧陽菲菲の腰が歌に付随した腰であるとすれば、山本リンダの場合は、腰が独立、歌が腰の前に拡散してしまっているのである。そして、前後左右の直線運動ではなく、華麗なる回転運動なのである。
 山本リンダが、あの大胆な衣装で「どうにもとまらない」と唄い出した時、我々はまず驚異し、そしてどんなにテレビの画面にしがみついたことだろう。何故あんなに腰が回転できるのか。何故あんなにまで官能的なのか。もはや山本リンダには、横浜の港の暗い空は見ることはできない。見えるとすれば、敗戦の日の真青な空と白い肌との、奇妙な矛盾だけである。
 昭和20年8月15日、日本はかつてないほどの澄みきった空をもった。「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ暗イウチハマダ滅亡セヌ」(太宰治)。滅亡への指向をもった青空を、「戦後」は欺瞞と痴呆の末に曇らせてしまった。

   きょう咲きてあす散る花の我が身かな
     いかでその香を清くとどめん

 この益良夫の心を、「戦後」はどれだけ理解したろうか。西田佐知子や藤圭子のもっているものが、「戦後への抵抗」の暗さとすれば、そんな「戦後」の曇った空に生まれたのが、山本リンダ24才の白い肌と腰の回転運動である。 西田佐知子が「アカシアの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい」と唄ったとき、我々の先輩たちは、たとえ死んでも、その先を見きわめたいという思いをこめたろう。そして我々は、小川知子が『処女だ』と言い張ったときは、かすかに笑い、黛ジュンの揺れるバストを思いながら、「雲にのりたい」と唄ったものだった。夜汚いバリケードの中で藤圭子の歌を聴いたときも、拘置所で独り、「……どう咲きゃいいのさこのわたし……」と聞いたときにも、我々にはまだその淋しさを突きぬけんとする思いがあった。「花弁がうずき女は叫び、男は夜霧に消えていく」、やがて夜霧の彼方から、必ず戻ってくるだろう……。そんな思いがまだあった。
「雨降ってぢ固まる」我々はやっと、ぢを固めて戻ってきた。もはや我々はどこへも行きはしない。そんな思いは棄ててしまった。今の我々が求めるのは、政治ではない、思想ではない、女の腰であり、捜すのは俺たちの墓場である。そして自らの墓を見つけ出したなら、すぐに粉々に打ち壊してしまうだろう。我々は死に場所を求めているわけではない。花弁のうずきを目の前にし、耳をふさぐことなく、女の叫びを聞きながら、自らの観念の所産を打ち壊すのだ。 今、山本リンダはノーブラ、ノーパンの真赤な衣装で「狂わせたいの」と登場してきた。またも激烈な回転運動で。彼女のあの姿、あの腰の回転運動を見て、狂わない男がいるだろうか。ただ、どんな男も求めるものは同じでも、突きぬけられるのは我々である。
 さあ、今年も又、徹底して酒を飲み、べっちょ的にべちょろう。
                    (埼大歴史研究会ダッケ派)
                 −第23回むつめ祭プログラムより−
  *****************************

 このテーマは大変に物議をかもし出しました。まず当時の日本共産党民青が、大量のビラをまいて、かつ建て看板を大量動員して、このテーマをけなしました。なんでも、東大や東北大の学園祭のテーマは素晴らしいが、埼大のむつめのは最低だというような内容です。しかもそれを比較して書いてくれました。ほとんど、私のが一番いいじゃないかと思わせるのですが(私のがいいわけではない、それらの大学のはすべて日共のテーマだったからだ)、私はたいへんに嬉しかった。なんであんなにまで、気にいって宣伝してくれるのだろうと、そのうち「日共諸君ありがとう」というビラを出しました。このビラほど大量に読まれたビラもありません。その後、日共は沈黙してしまいました。
12061410 私はそのビラに、ついでに私のテーマおよびむつめ祭をけなした、女解放戦線という連中と、共産同叛旗派を徹底批判しました。ついでに、革マル派もけなしました。叛旗派には私のシンパがたくさんいたので、可哀想でした。女解放とかいう連中は、その後10年くらいたって私にあやまってきました。革マル派はなんにしろ永遠に許しません。
 しかしこの時には、実は下宿にテレビなんかなかったから、山本リンダの歌を聞くのはなかなか機会がなかったのです。テレビの見すぎだなんていわれたのですが、見すぎなほどテレビを見たいななんて思いながら、いろいろ頑張っていたのを思い出します。(1998.11.01)

 1960年代の歌といったら、真っ先に思い浮ぶのはこの歌だと思います。

曲名  アカシアの雨がやむ時
作詞  水木かおる
作曲  藤原秀行
 唄   西田佐知子

一 アカシアの雨にうたれて
  このまま死んでしまいたい
  夜が明ける 日がのぼる
  朝の光のその中に
  冷たくなったわたしを見つけて
  あの人は
  涙を流してくれるでしょうか
二 アカシアの雨に泣いてる
  切ない胸はわかるまい
  思い出のペンダント
  白い真珠のこの胸で
  淋しく今日もあたためているのに
  あの人は
  冷たい瞳(め)をして何処かへ消えた
三 アカシアの雨がやむ時
  青空さして鳩がとぶ
  むらさきの羽の色
  それはベンチの片隅で
  冷たくなったわたしのぬけがら
  あの人を
  さがして遥かに飛び立つ影よ
       (1960年 昭和三五)

12061516 この歌声を聞いたときに、みな樺美智子さんのことを想い浮かべたのは判る気がします。私たちの年代でも何度も6・15には追悼集会がありました。今でも当日には花束が国会の樺美智子さんが亡くなったところに届けられるようです。
 思えば60年代の最初というのは、こうした悲しい歌が出発だったのですね。冷たくなったこの人を残して、みんなどこへいってしまったのでしょうか。「何処かへ消えた」ところでは、私には生田浩二さんを思い浮かべてしまいます。生田さんはアメリカへ行ってしまい、事故で亡くなりました(1966年3月23日)。もっともっと多くの活動家も何処かへ消えていきました。
 だが、当時はまだ小学6年生だった私たちは、またこの歌の時代を出発として、70年安保闘争に向けた歩みに入っていったような気がします。
 もうそれからまた何年もたってしまったわけですが。(1998.11.01)

12061503 私が大学へ入学したのが1967年(昭和42)。ちょうどベトナム反戦闘争が盛んなときでした。10・8羽田闘争から翌年エンプラ闘争、王子野戦病院闘争、三里塚闘争と言わば反戦闘争の連続の時代でした。
 そして70年安保闘争の年に次のような歌が唄われました。

歌名  戦争を知らない子供たち
作詞  北山  修
作曲  杉田二郎

戦争が終って 僕等は生まれた
戦争を知らずに 僕等は育った
おとなになって 歩きはじめる
平和の歌を くちずさみながら
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ

若すぎるからと 許されないなら
髪の毛が長いと 許されないなら
今の私に 残っているのは
涙をこらえて 歌うことだけさ
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ

青空が好きで 花びらが好きで
いつでも笑顔の すてきな人なら
誰でも一緒に 歩いていこうよ
きれいな夕陽の輝く小道を
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
     (1970年昭和45)

 私は非常にこの歌には違和感を覚えました。

   どうして俺達が「戦争を知らない子供たち」なんだ?

 戦争は私たちの目の前に展開されていました。王子野戦病院へは、ベトナムで死んだアメリカ兵の死体が運びこまれ処理されていました。沖縄では毎日実弾演習が続けられ(今現在もそうだが)、私たちと同じ年齢のアメリカ兵がベトナムへ送り込まれ、そしてまたそこで「戦争」という名の元にベトナム人を殺していました。

   どうして俺達が戦争を知らないなんていえるのだ。

 もっというと、私たちの父親はあの大東亜戦争へ行って帰ってきました。帰ってこなかった人もたくさんいます。私は昭和23年の戦後生まれですが、戦争の話はいくつもいくつも聞いてきました。

   俺達だって、戦争のことをいくらでも知っているんだよ。

 もちろん、作詞の北山修も杉田二郎も私たちと同じ世代であり、好きな人たちでした。彼らのこの歌に込めた意味は、

   世界に「戦争を知らない」という子どもたちがたくさんに
    なったらいい

ということなのだろうと思います。でもそうだとしても「戦争を知らない」という歌詞が出てくるこの歌だけは決して唄う気になれませんでした。杉田二郎もあちこちで、この歌を唄うことへのこだわりを話していたかと思います。
 また北山修は吉本さんとの対談で次のように言っています。

  当時、僕たちの歌を学生運動の人たちが歌ってくれたりもしま
  したが、一方で「戦争を知らない子供たち」なんていう歌は沖縄
  のフォークシンガーの人たちに馬鹿にされましてね。「戦争を知
  らないとはなにごとか。お前たち認識不足である。世界中で戦争
  は起きているじゃないか」とやられましたよ、意味が違うんだと
  言っても通じなかった。あの歌を歌い始めると、「帰れ、帰れ」
  と言われたりしましてね。杉田二郎という男が歌っていたんです
  が、沖縄では歌えなかったり、「戦争を知っている子供たち」な
  んている歌が沖縄でつくられて、ソノシートになって売られたな
  んてこともありました。
 
(吉本隆明+北山修「こころから言葉へ」掘崟ぢ紊鯆兇┐董廚
  中での北山修の発言)

 沖縄の青年たちには、この歌を唄うことは絶対に認められなかったのでしょう。あれだけの基地があって、そこから日々ベトナムへ戦争の現場へ米軍兵士が飛び立っていっているのです。
 でも随分前のことですが、昼間あるところで食事していたときに、杉田二郎がNHKのテレビで、「この歌は昔は唄えないことがあったんですよ」といいながら、今やっと唄えるという顔で唄っていました。私はその杉田二郎の顔を見ながら、「よかったね」とつぶやいていました。
 でも私は唄えません。絶対に唄いません。(1998.11.01)

12061403 私がここに「周の歌集」(もちろんこれはこの歌集に限らないことですが)を書いていることで、「著作権法」が大変に気になっていました。
 ウィキペディアによりますと、以下のようにあります。

著作者の生存期間および死後50年までを保護期間の原則とする(著作権法51条2項)。無名または周知ではない変名の著作物、および団体名義の著作物の著作権は、公表後50年まで保護される(著作権法52条1項、53条1項)。また、映画の著作物の著作権は、公表後70年まで保護される(著作権法54条1項)。

 そうすると、正確には、私の書いている「歌集」でもいくつか気になるものがあるわけです。そして今後また書いていくものは、さらに時代的に現代に近くなり、いくつも気になるものです。
 ほぼ、私の書いているもので問題になるであろうというものは、みな歌の歌詞の部分ですね。
 だが私としては、今後書くものについても、歌詞がないと、私の書くところが完全にあやふやになってしまうと思っています。
 だから今後も、歌詞はあくまで私の書く文章の引用部分だということでやってまいります。それでも「これはまずい」ということならば、私の書いたものへのコメントで書いてください。
 そのコメントの内容で私は判断します。(2012.06.15)

12061402   明日に「周の歌集」で「著作権のこと」を書くために考えています。私の場合は、歌の歌詞の問題で、作詞者の死後50年経たないとその著作権は消えないのですが、これだと、私の「周の歌集」ではいくつも関係するかなあ、というものがあります。
  私は、あくまで私の「歌集」の書いてある内容が主体で、その歌の歌詞はあくまでその添付した資料であると考えています。 さてそれでも、「これはおかしい。これは駄目だ」という方には、コメントいただきたく思っております。

 私が唄いたくないどころか、聞きたくもない歌がこの歌です。

歌名  がんばろう
作詞  森田八重子
作曲  荒木 栄

一 がんばろう!
  つきあげる空に
  くろがねの男の こぶしがある
  燃えあがる女の こぶしがある
  闘いはここから 闘いは今から
二 がんばろう!
  つきあげる空に
  輪をつなぐ仲間の こぶしがある
  おしよせる仲間の こぶしがある
  闘いはここから 闘いは今から
三 がんばろう!
  つきあげる空に
  国のうちそとの こぶしがある
  勝どきをよぶ こぶしはひとつ
  闘いはここから 闘いは今から
         (昭和三十四年)

12061113 まったく品のない、嫌な歌だなと思っています。三池争議で唄われだしたと聞いています。最初の歌詞では、「燃えあがる女の」というところは、「燃えつくす女の」と言ったようです。そのころは少しは唄えたものだったのかもしれません。でもいつから

   がんばろう!  ソレソレェッ!

なんていうへんな掛け声を入れるようになったのでしょうか。まったくひどいものです。
 この歌は私たちの時代に、何かあると、私たちの敵である日本共産党民青がスクラム組んで唱う歌でした。彼らは、討論をしていて、論理で負け、ルールで負けそうになると、突如として全員がスクラムをくみ、この歌を唱いだします。ゼッケンをつけはちまきをして、スクラムを組んでこの歌を唱いだします。心の底から嫌悪感しかわき上がってきませんでした。
 私はゼッケンとかはちまきというのは本当に嫌でした。それからリボンをつけたり腕章をつけるのも嫌でした。運動会の鉢巻きならいいのですよ。だけど、あのようなものを身にまとうことが、どうして闘いなのでしょうか。ただ、私たちが運動を去ったあとの新左翼も、何故かゼッケンをつけたりするような醜い姿になってしまいました。おさらばしてよかったな。
 それから、「闘うぞ!」とか言って、こぶしをあげるのも大嫌いです。絶対にやりたくありません(私はシュプレヒコールは好きですよ)。
 私が労働組合を作って闘ったときに、ゼッケンとかリボンをつけようなんていう提案がありました。私は「そんなのやるんなら、俺辞めちゃうよ」で、すぐボツになりました。「インターナショナル」や「ワルシャワ労働歌」を唱っているときに、「もっとこんなやさしい歌がいいんじゃない」と言って、この「がんばろう」を示されたときには、

   こんな歌唄うなら、俺は組合なんか辞める

と言ってボツにしました。
 ただ私は組合の腕章だけは認めました。赤に白地で「団結」とか書いてあるものです。私たちも昔腕章だけはしたことがあったからです。ただその腕章とは、ただのひもでした。ひもで色わけしておかないと、三派全学連というのはノンヘル(ヘルメットかぶると色わけで判るわけだが)の場合は他党派が区別できないので困るわけです。つまり色違いのひもを腕に巻いている人は殴ってもいいということですね。だから、それとは少し違うけれど、組合の腕章はいいだろうということにしました。「腕章の役割は敵味方の区別だから、いいか」ということだったのです。
 とにかく、この歌に象徴されるものが、共産党とかゼッケンとか、こぶしをつきあげるとか、とにかくすべて嫌ですね。
 それにしても荒木栄さんという方は、若くして亡くなったようですが、こんな歌ばかり作られたのですね(「沖縄を返せ」もそうです)。どんな方だったのでしょうか。(1998.11.01)

12061012 私がこの「周の云々の歌」ということでさらにUPしていくわけですが、もっとたくさん書き続けていって、いつかは膨大なる歌集にしていきたいのですが、簡単にはいきません。でもなんとか続けていきたいなと考えています。
 それで、でもそうした私が作りたい歌集には絶対載せたくない歌というのもあります。私が過去絶対唄ってこなかった、絶対に唄いたくなかった歌です。
 何年か前にTBSテレビ(午後11時からやっている報道番組)を見て、そんなことをよくよく思い出しました。大工哲弘という沖縄の歌手の方が「95年沖縄を帰せ」という歌を唄っていました。どうにもこの「沖縄を帰せ」という歌は私には嫌いな歌なのですが、彼は「沖縄へ帰せ」と唄っています。「これならまあいいかな」と思ったものです。

歌名  沖縄を帰せ
歌詞  全司法福岡地裁支部
作曲  荒木 栄
     (1954年昭和31)

固き土をやぶりて
民族の怒りに燃ゆる島沖縄よ
我等と我等の祖先が
血と汗をもて
守り育てた沖縄よ
我等は叫ぶ  沖縄よ
我等のものだ 沖縄は
沖縄を帰せ
沖縄を帰せ

 私はこの歌を絶対に唄ったことはありません。私たちは昔いわゆる三派とか新左翼とか全共闘とか言われていたときには絶対唱わない歌でした。
 でも例えば、私たちがみんなで集まって飲むときに、ふざけて日本共産党=民青の歌を唱う連中がいました。この「沖縄を帰せ」も民青の唱う歌としてふざけて唱っていました。本当にふざけてです。でもどんなに酔っても、そのおふざけには乗れない仲間が何人もいました。私もただただしらけて黙っていただけです。
 いったい、この日本本土にいる私たちに「沖縄を帰せ」という資格があるのでしょうか。沖縄を「どこからどこへ帰せ」というのか、言い切れるのでしょうか。私たちは絶対にそんなことは言えなかった、言わなかったものです。
 70年安保闘争に関して、沖縄のことも大きな闘争課題でした。いわゆる新左翼も68年11月7日から「沖縄闘争」と言い出して闘いを組み出しました。でもどうにも明確にこの闘争を位置ずけできていなかったと思います。当時新左翼の最大党派であった中核派などは「沖縄奪還闘争」などと豪語していました。いったい「どこからどこへ奪還するのだ」。
 私はよく中核派の連中にこのことを問いました。彼等(私に問い詰められる連中は)も70年の最後のころは、「沖縄を帝国主義から人民の手へを奪還するのだ」なんてごまかしていました。でも本来は「アメリカから日本へ帰せ」ということでしょう。アメリカ帝国主義から日本帝国主義へ帰ったって、どうだというの。今の今、それがどんなことだったのか、それこそはっきりしたわけではないのですか。「民族の怒りに燃ゆる島沖縄よ」って、本当ですか。沖縄の人は「民族の怒り」に燃えていたわけではありません。「日本民族」という怒りなんかありませんでした。人間として、怒りを持っていたのです、そしてその怒りの対象はアメリカ帝国主義だけではなく、日本帝国主義だけではなく、日本本土の私たちにも向けられていたのです。それで、どうして私たちが「沖縄を日本へ帰せ」なんて唱えるのですか。どうして私たちが「我等のものだ  沖縄は」なんて唱えるのですか。沖縄が私たちのものだといえる資格は私たちにはありません。
 何年か前に起きた沖縄の米兵による女児暴行事件も、沖縄の人は「日本民族」として、アメリカ人を憎んでいるわけではありません。「核抜き、本土なみ」などという嘘をついて沖縄をあくまで裏切り続けている日本と私たちこそが糾弾されるべきなのです。
 だから私はこの歌は唱えないのです。でもこのTBSの報道番組で大工さんが

   沖縄を帰せ 沖縄へ帰せ

と唄っていたのは良かった。私も「どうせ唄うなら、『沖縄へ帰せ』と唄え!」とテレビに向って毒づいていたら、彼がそのとおり唄ったので、少しは気が晴れました。
 でもそれでも私はこの歌は絶対に唄いません。私には唄えません。
 そのテレビ番組の中で昔の映像が写るなか、嘉手苅林昌の唄う沖縄の民謡が聞こえてきました。
 私はほっとしました。沖縄はあのような歌の中にあるのです。(1998.11.01)

12061104 いつも飲み屋で唄おうとするとカラオケにない曲がありました。とうぜんに私はなんにしてもそのまま唄うわけです。私に慣れた流しの方は、当り前のように伴奏してくれます。
 ただ、私がしつこくあちこちのお店でアカペラで唄い続けたために、今ではどこかのカラオケには入っているようになりました。

曲名  港が見える丘
作詞作曲 東 辰三
 唄   平野愛子

一 あなたと二人で来た丘は
  港の見える丘
  色あせた桜唯一つ
  淋しく咲いていた
  船の汽笛咽び泣けば
  チラリホラリと花片
  あなたと私に降りかかる
  春の午後でした
二 あなたと別れたあの夜は
  港が暗い夜
  青白い灯り唯一つ
  桜を照らしてた
  船の汽笛消えて行けば
  チラリホラリと花片
  涙の雫できらめいた
  霧の夜でした
三 あなたを思うて来る丘は
  港が見える丘
  葉桜そろよ訪れる
  潮風浜の風
  船の汽笛遠く聞いて
  うつらとろりと見る夢
  あなたの口もとあの笑顔
  淡い夢でした
                (昭和二二年)

 いったい戦争が終って、どのくらいの数の女性がこの歌と同じ思いをしたのでしょうか。この歌の女性の「あなた」は戦争から戻ってはこなかったのです。ちょうどこの女性とは違って、戦地から帰ってきた父のおかげで、私は昭和二三年に生まれたわけです。哀しい、絶対に忘れたくない歌ですね。
 私は一回だけお見合したことがありますが、その相手とのデートで横浜へ行きました。外人墓地から、港が見える丘公園に来たとき、私は「では、平野愛子『港が見える丘』を唄います」と宣言したら、彼女から拒絶されてしまいました。でもいまでも彼女にはいいたいんだよな。この歌で唄われた、たくさんの日本の女性の心を知ってほしいんだって。(ただし、このお見合の相手の女性がいけないのではありません。その時までの奇怪な周の言動がいけなかったのです。彼女はいい人でした)
 でもやはり悲しい悔しい歌ですね。この「あなた」とこの女性は二人で愉しい人生をおくる権利も資格もあったのに、あの戦争のためにもう「淡い夢」しか残っていないのです。この「あなた」はいまどこに眠っているのでしょうか。南海に沈む船の中か、それともビルマの山河なのでしょうか。
 絶対にあの戦争を起こしたやつらを許したくありません。大政翼賛会を作って、戦争にまで到らせた近衛文麿をはじめとする連中を許す気はありません。いままた、同じように「綺麗な政治」などという連中こそ、この「あなた」を戦争に送った類と同じです。市川房枝が戦前も戦後も「政治浄化」などと叫んでいましたが、あのおばさんこそこの「あなた」を戦場に送ったのです。市川房枝にとって、悪い汚い政党政治よりも、大政翼賛会が一番綺麗ないいものだったのでしょう。だが、それがこの「あなた」を今も未だ南海の底に沈めているものなのです。(1998.11.01)

12061101 私が永年関わっていました松戸自主夜間中学の忘年会でのことです。私が詩吟をやって、それからしばらくたって誰も唄わないので、さらに私が平野愛子「港の見える丘」を唄いました。そうしましたら、代表の藤田恭平先生がたって、次の歌を唄ってくれました。

曲名  君忘れじのブルース
作詞  大高ひさを
作曲  長津義司
 唄   淡谷のり子

一 雨ふれば 雨に泣き
  風ふけば 風に泣き
  そっと夜更けの 窓をあけて
  うたう女の 心は一つ
  ああせつなくも せつなくも
  君を忘れじの ブルースよ
二 面影を 抱きしめて
  狂おしの いく夜ごと
  どうせ帰らぬ 人を知れど
  女ごごろは命も夢も
  ああとこしえに とこしえに
  君を忘れじの ブルースよ
         (昭和二三年)

「港の見える丘」が戦争で帰ってこない「あなた」を詩った歌のように、この歌も戦争で亡くなった「君」を詩ったものです。藤田先生は少し解説をしてくれました。だけど夜間中学の若い諸君がどれだけ判ってくれたのかは、それこそ判りません。
 だがとにかく私は、こうした帰らぬ「君」のことも、その君を忘れないこの女性の存在も忘れることはありません。私はこの歌が唄われた昭和23年にこの世に生を受けました。(1998.11.01)

12060904 何年か前に柏高島屋で開かれた「ねむの木学園のこどもたちとまり子美術展」で始めて宮城まり子さんを直接見ることができました。

曲名  ガード下の靴みがき
作詞  宮川哲夫
作曲  利根一郎
 唄   宮城まり子

一 紅い夕日が ガードを染めて
  ビルの向うに 沈んだら
  街にゃネオンの 花が咲く
  俺(おい)ら貧しい 靴みがき
  ああ 夜になっても 帰えれない
    ネ 小父さん みがかせておくれよ
    ホラ まだ これっぽっちさ
    てんで しけてんだ
    エ お父さん? 死んじゃった……
    お母さん 病気なんだ……
二 墨に汚れた ポケットのぞきゃ
  今日も小さな お札だけ
  風の寒さや ひもじさにゃ
  馴れているから 泣かないが
  ああ 夢のない身が つらいのさ
三 誰も買っては くれない花を
  抱いてあの娘が 泣いてゆく
  可哀想だよ お月さん
  なんでこの世の 幸福は
  ああ みんなそっぽを向くんだろう
           (昭和三〇年)

 宮城まり子さんといえば、昔私なんかのこどものときには、よく男の子の格好していろいろな歌を唄っていたの思い出します。テレビが家庭にはいったころで、彼女ががテレビに出てくると、弟と二人で熱心に見ていたの思い出します。
 私の後輩で、とんでもなく元気な活動家が、あるとき飲み屋でこの歌をこぶしを握りしめ目をつぶって唄い出したことがあります。彼は自ら左翼であり、マルキストであると自負していたのですが、どうしてもこうした歌にたくさんの思い出がつまっているのでしょうね。彼は昭和二四年生まれで、2人兄弟だったから、私たち兄弟と同じように宮城まり子を見ていた時があるのでしょう。そしてこうして歌に出てくるガード下の少年の姿には何かを感じていたのでしょう。
 私たちはどうしたって戦後世代であるわけですが、その戦後とは戦争ときっても切れない関係にあるようです。(1998.11.01)

12060802鬼のパンツ」を書いていましたら、その元の歌も紹介しようという気持になりました。昨日(2012.06.07)この「鬼のパンツ」をよく唄ってくれていたチカちゃんに手紙を書きました。
 彼女の歌声をよく思い出します。彼女の歌声は、実に張りのあるいい声だったのです。あの声をまた聞きたいものです。

曲名  フニクリ フニクラ (日本語詞)
作詞  青木爽  清野協
作曲  L.デンツァ

  ヤンボヤンボポッポヤンボヤ
   ヤンボヤンボポッポヤンボヤ
    フニクリ フニクラ フニクリ フニクラ
    ポッポヤンボヤ フニクリ フニクラ

    赤い火をふくあの山へ登ろう
   そこは地獄のかまの中 のぞこう
    登山電車ができたのでだれでも流れる
    煙は招くよ みんなを (みんなを Hey!)
    行こう行こう 火の山へ
    行こう行こう 火の山へ
    フニクリ フニクラフニクリ フニクラ
    だれも乗るフニクリ フニクラ

    行こう行こう 火の山へ
    行こう行こう 山の上
    フニクリ フニクラ フニクリ フニクラ
    だれも乗るフニクリ フニクラ

    暗い夜空にあかあかと見えるよ
    あれは火の山 ヴェスヴィアス
    火の山登山 電車が降りてくるふもとへ
    燃える炎は空にはえ 輝く (輝く Hey!)
    行こう行こう 火の山へ
    行こう行こう 火の山へ
    フニクリ フニクラフニクリ フニクラ
    だれも乗るフニクリ フニクラ
    行こう行こう 火の山へ
    行こう行こう 山の上
    フニクリ フニクラフニクリ フニクラ
    だれも乗るフニクリ フニクラ Hey!

 この歌が「鬼のパンツ」の元の歌なのですね。私は「そんなこと、もともと知っていたはずではないか」と強く言っていました。
 ああ、チカちゃんにもまた手紙を書きましょう。いやもう書いてあるのです。ただ、このUPもまた伝えるので、今日書きあげるのです。(2012.06.08)

 一つ前に書いた「鬼のパンツ」の2番があるなんてことを知ったときに、「そういえば、「てるてる坊主」もたしか3番が怖い歌詞だったなんて思い出したものです。

曲名  てるてる坊主
作詞  浅原鏡村
作曲  中山晋平

1 てるてる坊主 てる坊主
  あした天気に しておくれ
  いつかの夢の 空のよに 晴れたら
  金の鈴あげよ
2 てるてる坊主 てる坊主
  あした天気に しておくれ
  私の願いを 聞いたなら
  あまいお酒を たんと飲ましょ
3 てるてる坊主 てる坊主
  あした天気に しておくれ
   それでも曇って 泣いてたら
   そなたの首を チョンと切るぞ12060702

 一昨日は、ポコ汰とポニョが翌日(2012.06.06)に上野動物園へ遠足に行く日だったのです。だからポコ汰は懸命に「てるてる坊主」を作っていたのです。
 これは私のブログ将門Webにも、そのてるてる坊主の写真を置いてあります。でも私も王子ばあばの妻も、越谷ばあばも、みなてるてる坊主をつるす紐がどこにあるか分からずに、この時の写真のように、セロテープで付けたものでした。(2012.06.07)
  ただし、この遠足は雨で中止になりました。(2012.06.08)

12060409 こうしてこのポメラもパソコンで読み込みますと、いいですね。

2012/06/07 05:57もう「周の歌集」と「男はつらいよ第19作」の映画評は書きました。「周のIS01ブログ」もこのリビングからUPしました。
2012/06/07 06:35なかなかこれを書くのも大変です。今日はIS01の方が自分に親しく感じられます。
2012/06/07 07:59もう「梅ちゃん先生」です。カントねえ、私は「永久平和の為に」(岩波文庫)以外に何を読んだかなあ。

 思えば、カントもショーペンハウアーも岩波文庫本を2冊くらいずつしか読んでいないな。デカルトはいくつか読んだものでしたが。「世界の名著」(中央公論社版)ででした。
 今インターネットにUPしようとしてもUPできません。その「できない旨」のUPが何度も続きます。
 今やっとできました。

12060408 昨日長女おはぎの家で越谷ばあばとお話していましたら(妻と私はポポの身体が心配で行きましたが、ものすごく元気でした)、この「鬼のパンツ」の二番が怖いなんてお話になりました。
 それで私がインターネットで調べたものなのです。

曲名  鬼のパンツ
作詞  不詳
作曲  L.デンツァ

  鬼のパンツは いいパンツ
  つよいぞ つよいぞ
  トラの毛皮で できている
  つよいぞ つよいぞ
  5年はいても やぶれない
  つよいぞ つよいぞ
  10年はいても やぶれない
  つよいぞ つよいぞ
  はこう はこう 鬼のパンツ
  はこう はこう 鬼のパンツ
  あなたも あなたも あなたも あなたも
  みんなではこう 鬼のパンツ

  きみのパンツは ダメパンツ
  よわいぞ よわいぞ
  5分はいたら 破けちゃう
  よわいぞ よわいぞ
  2分はいても 破けちゃう
  よわいぞ よわいぞ
  はいたとたんに 破けちゃう
  よわいぞ よわいぞ
  あなたも 私も おじいちゃんも おばあちゃんも
   そーっとはこう ダメなパンツ

 これは「フニクリ・フニクラ」の替え歌です。私はこの歌は、保育総合学園(ニチイ学館保育部というところにいたときに知りました。私がこのとき親しくて大好きだったチカちゃんという女性がこの歌をよく唄ってくれていました。
 ここでは保母資格を取るための通信教育をやっており、通学部もあり、私の妻はこのときの始めての生徒でした。それでこのときの資格で、我孫子市で実際の保母になりました(ただし、市の職はパートタイマーでした)。
 でもそのときにも、このいわば2番があるなんて知りませんでした。「きみのパンツは ダメパンツ  よわいぞ よわいぞ」なんて歌詞にものすごく驚いています。
 でも「うさぎのパンツ」という歌詞もあることも知りました。ただただ驚きです。(2012.06.06)

12060405 鬼のパンツだけではなく、てるてる坊主も調べなくちゃな。

2012/06/06 07:55この前に書いたことですが、「鬼のパンツ」のことも私の「周の歌集」に書いて、私の将門WebにUPしましょう。
 いや昨日私のポコ汰が作った「てるてる坊主」のことも書きましょう。いや3番になると、残酷な歌だということに誰も驚くのですね。
2012/06/06 08:00「梅ちゃん先生」を見始めます。この勝手な女に腹が立ちます。
 でも見ていると、彼女も辛いことがあったのですね。見ていて勝手に決めつけちゃだめですね。
 やっぱり今日も涙になります。
2012/06/06 08:16今日の日経新聞に折り込まれていた「レディ東京」をいくつも読んでみました。

 レディ東京をインターネット検索したら、ホームページのアドレスが二つあるように思えるのですが、どうしてかなあ。
 それと「てるてる坊主」の歌詞は以下のようです。

 作詞浅原鏡村 作曲中山晋平
一番
 てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のよに 晴れたら
 金の鈴あげよ
ニ番
 てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
私の願いを 聞いたなら
あまいお酒を たんと飲ましょ
三番
 てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
 それでも曇って 泣いてたら
そなたの首を チョンと切るぞ

12060503 今日はこうして雨になってしまい、残念です。ポコ汰とポニョが上野動物園へ行きます。

2012/06/06 06:25昨日せっかく、てるてる坊主を作ったのに雨になってしまい、残念です。
 昨日おはぎの家で、越谷ばあばも来てくれていて、「鬼のパンツ」の歌詞の2番の話をしました。
 それで今インターネットでこの2番を調べてみました。やっぱり越谷ばあばが教えてくれたように、衝撃です。2番は、

 君のパンツは ダメパンツ 弱いぞ 弱いぞ
 5分はいたら 破けちゃう 弱いぞ 弱いぞ
 2分はいても 破けちゃう 弱いぞ 弱いぞ
  はいたとたんに 破けちゃう 弱いぞ 弱いぞ

というのですね。やっぱり驚きました。
 これはまた「周の歌集」で正式に書いてみます。しかし、かなり驚いてしまいますね。鬼は虎皮のパンツをはいているのですね。これは思えばなんで虎のパンツなのかなあ。どうしてふんどしじゃないのだろうか。私がもし鬼になったのなら、ふんどしになるよなあ。まあ、私が鬼になることはけっしてないか。
2012/06/06 07:22上の「鬼のパンツ」のことは、私の友人にもお手紙しましょう。チカちゃんという、とっても綺麗な女性です。私の妻も実によく知っている女性です。彼女はこの「鬼のパンツ」を実に唄ってくれる娘でしたから、こうして伝えるのは嬉しいな。 

 彼女に手紙を書くことは実に嬉しいです。

曲名  紅屋の娘
作詞  野口雨情
作曲  中山晋平
 唄   佐藤千夜子

一 紅屋で娘のいうことにゃ
  サノ いうことにゃ
  春のお月様薄曇り
  ト サイサイ 薄曇り
二 お顔に薄紅つけたとさ
  サノ つけたとさ
  私も薄紅つけよかな
  ト サイサイ つけよかな
三 今宵もお月様空の上
  サノ 空の上
  一(ひと)はけさらりと染めたとさ
  ト サイサイ 染めたとさ
四 私も一はけ染めるから
  サノ 染めるから
  たもとの薄紅下さいな   
  ト サイサイ 下さいな
          (昭和四年)

12060501 なんといっても昔の歌手でその歌声を知っている一番の昔の歌手といえば、私は佐藤千夜子でしょうか。日本で最初のレコード流行歌手といいます。たくさんの歌を唄われている方で、かついくつもの歌が思い浮かんできますが、この「紅屋の娘」が私には一番印象がつよいのです。
 それに私はこの歌を唄うのがわりと好きなのです。ただどうしても佐藤千代子のようにはなかなか唄えないものだなと思ってしまいます。(1998.11.01)

曲名  人生劇場
作詞  佐藤惣之助
作曲  古賀政男
 唄   楠木繁夫

一 やると思えば どこまでやるさ
  それが男の 魂じゃないか
  義理がすたれば この世は闇だ
  なまじとめるな 夜の雨
二 あんな女に 未練はないが
  なぜか涙が 流れてならぬ
  男ごころは 男でなけりゃ
  解るものかと 諦めた
三 時世(ときよ)時節は 変わろとままよ
  吉良の仁吉は 男じゃないか
  おれも生きたや 仁吉のように
  義理と人情の この世界

12060401 この「人生劇場」は昭和13年日活映画「人生劇場(残侠篇)」の主題歌でした。
 2番の歌詞を読むと、この

   あんな女に未練はないが

というときの、この女とは誰だろうかと思います。飛車角の惚れたお豊かなとも思いますが、やはりこの尾崎士郎「人生劇場」全体の主人公である青成瓢吉の好きだったお袖かなとかも思います。
「人生劇場」はたいへんに長い小説でして、途中では、なんだか飛車角の話ばかりになったりしますが(彼とお豊と宮川の三角関係があったりいろいろです)、ずっと話が続くのは、青成瓢吉の生涯です。彼はたくさんの女性とつき合いますが、ずっと好きなのは、早稲田の学生だったときから惚れていたお袖です。
 実はこの物語は、昭和の戦後にまで続きまして、かなりな年になった瓢吉とお袖が二人で会うシーンがあります。それまで、明治大正昭和戦争と、なんだかすれ違っていたけれど、愛し合ってきて、でもうまく結ばれなかった二人が、老年になってやっと結ばれるのかな、と期待するのですが、でもでも、たしかお袖の家の中の居間の火鉢の側で会話する二人は、とうとう最後迄すれ違いのままです。なんだか、このときの二人の心の中が判るような気になります。だから私はいいたいのです。「だからよ、もっと自分の自我をすてて、とにかく惚れろよ、努力しろよ!」とネ。
 三番の歌詞は、尾崎士郎「人生劇場」での吉良常の心意気で歌詞を構成しています。吉良の仁吉が三河の吉良横須賀村に生まれたのが、天保10年です。この吉良仁吉が清水一家二十八人集と一緒に、伊勢の荒神山に討ち入ったのは、慶応2年(1866年)のときです。このときに、吉良常はまだ子どもでして、三州吉良の浜から船に乗り出す仁吉が吉良常の頭を「坊よ!」となでたことになっています。もっとも、吉良の仁吉は歴史上の実在の人物ですが、吉良常は、小説の中の人物です。のちに吉良常とおおいに関係することになる飛車角というのは実在の人物ですが。
 もっとも、このときの荒神山の討ち入りでの相手は、桑名の博徒である穴太(あのう)徳次郎、その妹が仁吉の嫁だったというのは、真っ赤な嘘です。仁吉は当時独身だった。
 思えば、この長い物語で私が好きな人物といえば、瓢吉の親友の夏村泰三(名前の字が違うかもしれない)と瓢吉の先生である黒馬先生かな。(1998.11.01)

曲名  上海リル
作曲  ハリー・ウォーレン
作詞  服部龍太郎
 唄   歌川幸子

  想い出で追いつつ さまよい来れど
  かえらぬは やさしきひと
  いとしの上海リル
  忘れ得ぬ街上海 夢見しその頃
  我を忘れしその頃 いとしの上海リル
  「頬寄せて ささやきし 愛の言葉
  あの息吹き 今もまだ胸にあり 想い出を追いつつ
  さまよい来れど かえらぬは 悲しき人 いとしの上海リル」
  或る時は 汽車に乗り
  また或る時は 空を翔ける
  私は探し求めた 私の恋人 上海リル
           (昭和九年)

12060208 私は、この歌をディック・ミネの歌として記憶していました。ただあまり、ディック・ミネは歌ってはくれていなかったように思いますね。各社競作で、彼のほかには、川畑文子、川路龍子、江戸川蘭子がレコードにしているとのことです。ただ、この歌川幸子のレコードが一番ヒットしたようです。もともとは1933年のコロンビア映画「フットライト・パレード」の主題歌として、かなりヒットした歌でした。戦後昭和25年に津村兼が「上海帰りのリル」を歌ったのは、この歌の後日談といえるのでしょう。
 ちょうどこの歌がはやったころの上海は、ジャズが盛んで自由の雰囲気あふれる街であったようです。そのころの上海を描いた「上海バンスキング」という映画がありました。借金をしてまでジャズに夢中になる男たちを描いた内容です。思えば、今も音楽をやる人って、「バンスキング」がたくさんいますね。私は現在ある芸能プロダクションの役員もやっているのですが、つくずく感じることがあります。
 この「上海バンスキング」が、またどうしてかまったく同じ題名、同じ内容で、二つあります。ひとつは、風間杜夫、松坂慶子、平田満等が出演し、もうひとつは、吉田日出子主演の映画です。当然に当り前に、私は吉田日出子の方しか評価しません。本来は吉田日出子の代表作であるお芝居ですからね。 そしてまたこの吉田日出子の唄う「上海リル」がいいのですね。私のように戦後生まれの者にも、当時の上海のバンスキングたちの魅力が判る気がします。

作詞  津田出之
 唄   吉田日出子

一 明るい シャンデリア
  輝く さかずき
  麗しき ジャズの音に
  踊るは 上海リル
  今日は このお方と
  明日は あの方と
  悩ましき 姿は
  私の 上海リル
二 何時でも 朗らかに
  見せかける
  だけど リル
  おまえは 泣いている
  涙をば 隠して
  笑顔で迎える
  可愛い 可愛い
  私の 上海リル

 私の事務所で、仕事中にときどきこの歌を聞いています。それと、私は吉田日出子の唄う「上海リル」をPHSの呼出音の一つにしています。ときどき、吉田日出子の声が突如として私のPHSから聞こえてくるのです。いいですよ。(1998.11.01)

歌名    流浪の旅
作詞    後藤紫雲
作曲    宮島啓二

一  流れ流れて  落ち行く先は
    北はシベリア  南はジャバよ
    いずこの土地を  墓所と定め
    いづこの土地の  土と終らん
二  きのうは東  今日は西と
    流浪の旅は  何時までつづく
    果てなき海の  沖の中なる
    島にてもよし  永住の地欲し
三  思えばあわれ  二八の春に
    親のみ胸を  離れて来てより
    過ぎ来し方を  思えばわれは
    遠き故郷の  み空ぞ恋し
              (大正十一年)

12060203 この歌はいまもいろいろな歌手によって繰返し唄われています。私は東海林太郎の唄で聞いたのが初めてだったかなと思っています。またやくざ映画でも流れてきたことがあったように記憶しています。松方弘樹の歌声でも聞いたことがあります。またカラオケでもかならず唄う人がいるように思います。しかし、北がシベリアで南がジャバというのは、そのころの日本人にとっての全世界なのでしょうか。(1998.11.01)

曲名  ベアトリ姉ちゃん
作曲  ズッペ
訳詞  小林愛雄
 唄   田谷力三

一 娘よベアトリチェ
  なぜそんなに ねぼうなんだい
  さあ 早く起きないか
  もう 夜が明けてるぜ
    ※歌はトチチリチン
     トチチリチンツン
     歌はトチチリチン
     トチチリチンツン
     歌はペロペロペン
     歌はペロペロペン
     さあ 早く起きろよ
二 ベアトリ姉ちゃんまだねんねかい
  鼻からチョーチンを出して
  ねぼすけ姉ちゃん何を言っているんだい
  ムニャムニャ寝言なんかいって
    ※繰返し
三 ベアトリ姉ちゃんまだねんねかい
  歌で目をおさましよ
  おやじさんが帰って来た
  お前さんが気になって
    ※繰返し
          (大正九年)

12060104 いつもこの歌を聞いていて(かつ声に出して唄っていて)思うのですが、このベアトリ姉ちゃんとはいったい何者なのでしょうか。かのダンテの「新生」「神曲」に出てくるダンテ初恋の少女のベアトリーチェのことなのでしょうか。でも彼女なら鼻からちょうちんを出すわけはないし、どうなのでしょうか。いつもいつも気になるのです。
 ちょうどダンテと私は同じ5月30日の生まれで、ちょうど同じく9歳のときに初恋しました。私にはそのときの少女がかのベアトリーチェと同じような少女に思えているのです。(1998.11.01)

2017062002
歌名  七里ケ浜の哀歌(真白き富士の嶺)
作詞  三角錫子
作曲  ガードン

一 真白き富士の嶺 緑の江の島
    仰ぎ見るも  今は涙
    帰らぬ十二の  雄々しきみ魂に
    捧げまつる  胸と心
二  ボートは沈みぬ  千尋の海原
    風も波も  小さき腕に
    力もつきはて  呼ぶ名は父母(ちちはは)
    恨は深し  七里が浜辺
三  み雪は咽びぬ  風さえ騒ぎて
    月も星も  影をひそめ
    み魂よ何処に  迷いておわすか
    帰れ早く  母の胸に
四  みそらにかがやく  朝日のみ光り
    暗(やみ)にしずむ  親の心
    黄金(こがね)も宝も  何しに集めん
    神よ早く  われも召せよ
五  雲間に昇りりし  昨日の月影
    今は見えぬ  人の姿
    悲しさ余りて  寝られぬ枕に
    響く波の  おとも高し
六  帰らぬ浪路に  友よぶ千鳥に
    われもこいし  失せし人よ
    尽きせぬ恨みに  泣くねはともども
    今日も明日も  かくてとわに
                  (大正五年)

12053110 明治四三年におきた逗子開成中学校の一二名の生徒の鎌倉七里ケ浜でのボート遭難事件の慰霊のために作られた歌です。菊地章子、ミス・コロンビアが唄ったときいています。私があちこちでよく唄う歌でもあります。
私の住んでいる千葉県我孫子の手賀沼でも、昭和一九年一一月二二日に我孫子小学校校長ほか一七名の女教師の遭難事件がありました。中里の渡しから、船に乗った彼女たちに、突如突風がおきてこの惨事になってしまいました。我孫子市湖北の手賀沼湖畔にはこの事件の碑が建てられています(ただし、そこは現在はもう湖畔とはいえず、大いなる田園風景になっていますが)私はこの歌を唄うときには、このふたつの悲しい事故を思い浮かべています。(1998.11.01)

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201705220512052907 浅草オペラの田谷力三といったら、それこそたくさんの歌を思い出します。まずはこの歌を一番最初に思い出しただけなのです。でも晩年のあのお年になっても、よくあのハイテナーの声が出るものだと感心してばかりいたものでした。できたら、亡くなる前に舞台であの声を聞きたかったものだと、悔やまれてならないのです。

曲名  ディアボロの歌
作曲  オーベール
訳詞  堀内敬三

一 岩にもたれた ものすごい人は
鉄砲片手に しかとだいて
あゆむひたいは 帽子に見えねど
服はビロード ひらとなびく
怖(こわ)や 嵐が吹こうと
とどろく その名は
※ディアボロ ディアボロ
ディアボロ
ディアボロ ディアボロ
ディアボロ
二 仇と戦い 血潮に染もうと
きれいな女子にゃ ご親切に
娘が路で 迷うものなら
あすは涙で 家にかえる
怖や 娘はにげても
いとしい その名は
※繰返し  (大正九年)

ところでこの歌なのですが、田谷力三が唄っているのは歌詞が微妙にちがいます。以下が田谷力三が唄う場合の歌詞です。

一 岩にもたれた ものすごい人は
鉄砲片手に しかとだいて
あゆむひたいは 帽子に見えねど
服はビロード ひらとなびく
怖(こわ)よ 嵐吹くも
とどろく その名は
ディアボロ ディアボロ
ディアボロ
怖(こわ)よ 嵐吹くも
とどろく その名は
ディアボロ ディアボロ
ディアボロ
ディアボロ ディアボロ
二 仇と戦い 血潮に染もうと
きれいな女子にゃ ご親切に
娘が路で 迷うものならば
あすは涙で 家にかえる
怖(こわ)よ 嵐吹くも
とどろく その名は
ディアボロ ディアボロ
ディアボロ
怖(こわ)よ 嵐吹くも
とどろく その名は
ディアボロ ディアボロ
ディアボロ
ディアボロ ディアボロ
ディアボロ

さて私はどちらでも唄っております。(1998.11.01)

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歌名  見わたせば
作曲  ルソー
作詞  柴田 清

一 見わたせば あおやなぎ
  花桜 こきまぜて
  みやこには みちもせに
  春の錦をぞ
  さおひめの おりなして
  ふるあめに そめにける

作詞  稲垣 千

二 見わたせば やまべには
  あのえにも ふもとにも
  うすきこき もみじ葉の
  あきの錦をぞ
  たつたひめ おりかけて
  つゆ霜にさらしける
               (明治十四年)

12052817 他でも書いたことなのですが、明治の時代にはこうした西欧の歌にそのまま日本の歌詞をつけた歌が多いように思います。それがけっこう私たちの時代まで口ずさめるような歌になっています。私の父母の時代には学校の「唱歌」でよく唱ったものなのでしょうか。そうした歌として母などから習ったような思いがしています。(1998.11.01)

12052816 ポコ汰がおはぎに連れられてきました。じいじはとても嬉しいです。

2012/05/29 06:05もうこのポメラで書くことが大事ですね。もう「吉本隆明鈔集」と「周の歌集」はUPしているわけですが、そのUPする際にもいつも念入りにパソコンとインターネットを見るようにしています。今日は起きてパソコンの画面に向かったのは4時35分でしたが、最初のUPは5時53分になりました。UPする内容はいわばコピーするだけですが、それでもけっこう時間がかかります。
 ただ、このポメラでは「吉本隆明鈔集」の「鈔」の字が出てきません。これが実に困り果てます。この機器ポメラでも、かなりな単語を登録していますので、ほぼいいわけなのですが、このように、語が登録できないことも起きてきます。もう実に困り果てています。
2012/05/29 08:55今私の隣でポコ汰は、私のガラパゴスでゲームをやっていましたが、今では飽きたようです。今は縦笛を吹いています。
「暑い、暑い」というので、冷房を入れました。今度は私が寒くなります。
 今度はパソコンをやりたがりますから、ばあばのパソコンを立ち上げますが、「パソコンって、どうやるんだろう?」なんていいます。私は「じいじの小さい頃は、パソコンなんかなかったんだよ」といいます。
 今度は小さなオルゴール(昔1個500円だったかなあ)を出してきます。3つあります。鳴らすと、「雨に歌えば」「ライムライト」「オーバーザレインボー」の曲です。昔私がクリスマスに私のクライアントの女性たちに贈ったものでした。あのときは50数個だったから、いくつもの歌があったものでした。たしか3つくらいづつだったから20曲から30曲くらいの種類でした。 
2012/05/29 13:19今午後1時を過ぎて、ポコ汰はお昼寝の時間ですが、私はそばにいないとなりません(ポコ汰がそばにいてくれというのです)。もういっぱいわからないことだらけです。そばにあるCDを動かすのですが、私は少しもわかりませんが、ポコ汰が触ると、CDが回って音がなります。
2012/05/29 14:22私はこうしてポコ汰のそばにいて、ポコ汰は先ほどから、お昼寝の時間なのに、いつまでも眠ってくれません。
 今はポコ汰の上にタオルケットをかけました。
 でも眠ってくれました。少し寝息が聞こえています。いいですね。私の背中のほうで聞こえるのです。
2012/05/29 14:51ばあばが今電話してきました。
2012/05/29 15:21こうしてポコ汰の寝息を聞いていると、とても幸せなじいじです。こんな嬉しいことはありません。私の長女が来ましたら、このことをいいましょう。じいじは、こうして孫のそばにいられることがとっても幸せです。こんな嬉しいことがあるでしょうか。
2012/05/29 16:21今日の「黒書院の六兵衛」ですが(実は今読みました。新聞を今手にしたのです)、ずっと私が書いているように、勝海舟というのは、私はいうように嫌な奴ではなく、けっこういいやつ優れた男だったのかもしれないなあ。
 私の長女おはぎが来て、ポコ汰を連れて帰りました。なんか寂しいです。

 こうしてポコ汰といられる時間もすぐに過ぎ去ってしまうのですね。

 日本の近代の歌といったら、この歌から始まるのは間違いないでしょう。

曲名  宮さん宮さん(とんやれ節)
作詞  品川弥二郎
作曲  大村益次郎

一 宮さん宮さんお馬の前に
  ひらひらするのは何じゃいな
  トコトンヤレトンヤレナ
  あれは朝敵征伐せよとの
  錦の御旗じゃ知らないか
  トコトンヤレトンヤレナ
二 一天万乗のみかどに手向いする奴を
  トコトンヤレトンヤレナ
  覗い外さずどんどん撃ちだす薩長土
  トコトンヤレトンヤレナ
三 伏見、鳥羽、淀橋、本葛葉の戦いは
  トコトンヤレトンヤレナ
  薩長土肥の合うたる手ぎわじゃないかいな
  トコトンヤレトンヤレナ
四 おとに聞こえし関東武士どっちへにげたと
  問うたれば
  トコトンヤレトンヤレナ
  城も気概も捨てて吾妻へにげたげな
  トコトンヤレトンヤレナ
五 国を追うのも人を殺すも
  誰も本意じゃないけれど
  トコトンヤレトンヤレナ
  薩長土の先手に手向いする故に
  トコトンヤレトンヤレナ
六 雨の降るよな鉄砲の玉のくる中に
  トコトンヤレトンヤレナ
  命惜しまずさきがけするのも
  皆お主為故じゃ
  トコトンヤレトンヤレナ
        (明治一年)

12052702 しかし実によくできた歌だと思います。作詞した品川弥二郎も、作曲の大村益次郎も実に近代の軍隊を判っていたと思われます。ちょうどフランス革命後のナポレオン軍がその以前の旧王政の軍隊よりとびぬけて強かったのは、もちろんさまざまなことがあるわけですが、ナポレオン軍の華麗な装備、音楽隊などというものも大きな要素を占めています。フランス軍で歌われた「ラ・マルセイエーズ」に当たるといえるでしょうか。もちろん、「ラ・マルセイエーズ」がいまも歌われているのにたいして、この「宮さん宮さん」の内容では、いまはもう過去の歌になってしまったのは致し方ないように思います。
 ともあれ、この歌も忘られることはないでしょう。
 でも、こんな古い歌だと思えるのに、著作権が消えていないのですね。(1998.11.01)(これは、これを書いた1990年代・1980年代はまだ「著作権が消えていない」ということでした。今は2012年ですから、もう消えています)

曲名  野なかの薔薇
訳詞  近藤朔風
作曲  ウェルナー

一 童は見たり 野なかの薔薇
  清らに咲ける その色愛でつ
  飽かずながむ
  紅におう 野なかの薔薇
二 手折て行かん 野なかの薔薇
  手折らば手折れ 思出ぐさに
  君を刺さん
  紅におう 野なかの薔薇
三 童は折りぬ 野なかの薔薇
  折られてあわれ 清らの色香
  永久(とわ)にあせぬ
  紅におう 野なかの薔薇
         (明治四二年)

12052604 この歌の原詩はゲーテですが、訳者によって随分と違うものになってしまうように思います。それにしても、この曲によりこの詩として一番親しまれてきたかと思います。
 曲の方は、シューベルトの曲もあって、その二つの曲の違いをたしか中学校の音楽の先生がピアノを弾いて私たちに唱わせて教えてくれたように思います。
 ドイツで古くから歌われている民謡というような趣もある曲だなと思っています。私は無理やりに、この詩の薔薇を数多いゲーテの恋人たちの中の誰かななんて考えてしまいます。野なかに咲いているのですから、やっぱりフリーデリケ・ブリオンかななどど想像してしまいます。私はゲーテの数多い恋人たちのなかで、このフリーデリケが一番好きなのです。(1998.11.01)

歌名    紅萌ゆる岡の花(三高逍遥の歌)
作詞作曲  沢村胡夷

一  紅萌ゆる岡の花
    早緑(さみどり)匂う岸の色
    都の空に嘯けば
    月こそかかれ吉田山
二  緑の夏の芝露に
    残れる星を仰ぐ時
    希望は高く溢れつつ
    我等が胸に湧き帰る
三  千載秋の水清く
    銀漢空にさゆる時
    通える夢は崑崙の
    高嶺の此方(こなた)戈壁(ごび)の原
四  ラインの城やアルペンの
    谷間の氷雨なだれ雪
    夕は辿(たど)る北冥(ほくめい)の
    日の影暗き冬の波
五  嗚呼故里(ふるさと)よ野よ花よ
    ここにも萌ゆる六百の
    光も胸も春の戸に
    嘯きみずや古都の月
六  それ京洛の岸に散る
    三年の秋の初紅葉
    それ京洛の山に咲く
    三年の春の花嵐
七  左手の書(ふみ)にうなずきつ
    夕の風に吟ずれば
    砕けて飛べる白雲の
    空には高し如意ケ嶽
八  神楽ケ岡の初時雨
    老樹の梢伝う時
    檠燈(けいとう)かかげ口誦(くちずさ)む
    先哲至理の教えにも
九  嗚呼又遠き二千年
    血潮の史(ふみ)や西の子の
    栄枯の跡を思うにも
    胸こそ躍れ若き身に
十  希望は照れり東海の
    み富士の裾の山桜
    歴史を誇る二千載
    神武の児等が起てる今
十一見よ洛陽の花霞
    桜の下(もと)の男(お)の子等が
    今逍遥に月白く
    静に照れり吉田山
              (明治三十九年)

12052502 私の好きな女優に原節子がいますが、彼女の出演した映画でまた一番好きな映画に「わが青春に悔いなし」があります。その中で、全篇に流れているのがこの歌です。実際には映画の中でそんなに唱われてはいないかもしれません。でも私にはあの映画というと、この歌が耳に聞こえてくるのです。
  まだ大戦争になる前の、自由な京大の学生たちと原節子が吉田山に登ります。明るくて、そして彼女は美しいお嬢さんです。藤田進扮する野毛が、ある小川を渡れない原節子を抱き上げて渡ってしまう。のちに野毛の担当検事になる糸川はそばでただ何もできず見ている。私ならどちらになるかななんて思っていたものです。私だって、いつでもすぐ大胆になれるから野毛の方だと思い込んでいたものでした。
  それにしても、そこに流れているこの歌はやはりいいですね。そしてまた野毛が死んで、戦争が終って、原節子が一人で吉田山に登ります。
  私はこの歌で唱われる吉田山とはどんな山なのかなと思って京都へいったとき、見てみました。小さな山なのですね。(1998.11.01)

曲名  うめがえの

梅ケ枝の 手洗(ちょうず)鉢
叩いてお金が
出るならば
もしもお金が
出たならば
そのときゃ身受けを
それたのむ
           (明治十一年)

12052405 この歌は明治の最初のころからよく唄われた俗謡ときいています。この歌が昭和12年林伊佐緒と新橋みどりが唄った「もしも月給が上がったら」になったといいます。なるほどやっぱりけっこうみんなに唄われていた曲だったから、あんなに一見明るい歌に変わったのかななんて思います。明るいといっても、「もしも月給が上がったら」はストライキから生まれた歌ときいていますが。(1998.11.01)

2017020607

  やくざやくざと 世間はいうが
  やくざ愛ある 涙ある
  刺せば監獄 刺されりゃ地獄
  それを承知の 殴り込み

  ドスやメリケン 怖くはないが
  何故かあの娘の 眼が怖い
  怖いはずだよ あの娘の眼には
  愛という字が 書いてある

12052401 私はこの歌を「やくざ小唄」と聞いてきました。大昔に、埼玉県朝霞署の留置場の中で、あるやくざのお兄さんが歌ってくれました。
 しかし、どうにもあちこち探してみましたが、この歌は見あたりませんでした。そして以下の歌の存在を知りました。

曲名  八九三ぶし
補作詞 仲田三孝
採譜  仲田三孝

一 なるな八九三 堅気になれと
  可愛いあの娘が 泣いて云う
  だけど俺らは 堅気にゃなれぬ
  八九三渡世に 義理がある
二 ドスやメリケン 怖くはないが
  何故かあの娘の 眼が怖い
  怖いはずだよ あの娘の眼には
  愛という字が 書いてある
三 愛という字を 心にしまい
  義理の二の字を 守りぬく
  辛いもんだぜ 極道者は
  半端者には つとまらぬ

 この仲田三孝というかたは、こうしたやくざの歌を集成しているような方のようです。とくにこうした歌はだれが唄いだし、誰が作詞したというのはないのでしょう。
 でもあのときのやくざのKさんを思い出します。実に歌のうまい人でした。いまどうしているでしょうか。
 しかし、やくざというのはかなり辛い渡世ばかりなのでしょうね。そしてちっとも格好よくない。よく留置場にやくざが入ってくると、最初こそ意気がっていますが、三日もたつと、「腹がへる」だの「退屈だ」などと泣き言を言い出します。そんなこと仕方ないじゃないのか、そんなこと覚悟の上じゃないのかと思うのですが。
 しかし彼らはやっぱり可哀想です。警察の取り扱いなんかまったくひどいものです。彼らはそれへの抵抗の仕方を知らないから、またそれで可哀想なものなのです。(1998.11.01)

曲名  芽衣子の夢は夜ひらく
作詞  吉田  旺
作曲  曽根幸明
 唄   梶芽衣子

一 泣くために生まれて きたような
  こんな浮世に  未練など
  これっぽっちも ないくせに
  夢は夜ひらく
二 長い黒髪 断ち切って
  送りつけたい やつがいる
  あいつ不幸か しあわせか
  夢は夜ひらく
三 しょせん男は おだて鳥
  しょせん女は なみだ貝
  抱いて抱かれて つまずいて
  夢は夜ひらく
四 星は流れて どこへ行く
  あたし流れて どこへ行く
  あてのない身の 鼻うたに
  夢は夜ひらく
五 泣くため生まれて きたような
  こんな浮世に 未練など
  これっぽっちも ないくせに
  夢は夜ひらく

12052013 私は梶芽衣子がたいへんに好きでした。「銀蝶シリーズ」などよく見たものです(といっても、このシリーズは2作しかなかった)。彼女は長い髪に黒い帽子をかぶり、黒の姿でいるのがスクリーンでは一番映えるように思いました。最後の殴り込みシーンになって、着物姿で蛇の目傘なんかもっていると、ちょっとがっかりしたものです。
 またこうした仁侠だけではなく、女自身になった役柄もたいへんによかった。思い出されるのは、健さんの彼女役をやった「現代仁侠史」です。藤純子とはひとあじもふたあじも違います。藤純子なら、健さんが殴り込みにいくとき、黙って送って涙をながすのでしょうが、梶芽衣子は「いかないで」と大声を出します。この「現代仁侠史」での梶芽衣子のこの最後の絶叫は今も私の中にはっきりと残っています。私は健さんは藤純子と一緒になるより、梶芽衣子と一緒のほうがいいように思っています。健さんという俳優はセリフを台本の7割くらいしか喋らなくなってしまうようです。それがこの映画のなかで、梶芽衣子に言う、

  私はこんなにしあわせだったことは生まれてはじめてです

という愛の表現は他で見たことがありません。梶芽衣子が相手だからこそでてきたセリフだと思います。
 ところでこの「夢は夜ひらく」は他に園まりと藤圭子が唄っています。それぞれいいのですが、私にはやはり梶芽衣子が一番この歌に似合うように思えます。
 この歌はもともと少年院で唄われた歌と聞いています。少年少女たちは、つらい毎日に「夢は夜ひらく」と、夜自分の恋人や優しい母親に夢で会えることのみが愉しみだったに違いありません。(1998.11.01)

12052004 ある友人の結婚式で、「……子守唄」を唄うといいだした友人がいました。私たちは、「おッひさしぶりに、『望郷子守唄』か、いいな」なんて言い合いましたが、唄いだしたのを聞いたら、「〜逃げた女房にゃ〜」なんて唄っています。「なんだ、『浪曲子守唄』じゃないか、しょうがねえな」なんていいながら、やっぱり他大学の活動家は駄目だななんてひとしきり話になりました。私たち埼大の活動家なら、当然この歌を唄うのです。

曲名  望郷子守唄
作詞  大 次郎
作曲  深井大輔
補作詞編曲 渡辺岳夫
 唄   高倉 健

一 オロロン オロロン オロロンバイ
  ネンネン ネンネン ネンネンバイ
  意見無用と 世間をすねた
  バカな男の 身にしみる
  故郷のおっかさんの 子守唄
二 オロロン オロロン オロロンバイ
  ネンネン ネンネン ネンネンバイ
  おどま おっかさんが あの山おらす
  おらすと思えば 行くごたる
  おらすと思えば 行くごたる
三 オロロン オロロン オロロンバイ
  ネンネン ネンネン ネンネンバイ
  意見無用と 世間をすねた
  バカな男の 身にしみる
  故郷のおっかさんの 子守唄

 高倉健の唄う声は、本当にこの歌にあっている気がします。やくざ映画の一つのテーマは「母」ということがあります。高倉健が藤純子に惚れるのは、その藤純子の手の暖かさのなかに「母」を感じるからなのです。雨の中藤純子の差し出す傘を受け取るときに、健さんの手が藤純子の手に触れます。そのときに、健さんは「母」の温かい手を感じてしまうのです。
 その「母」とは優しいけどまた厳しい母親なのです。この「望郷子守唄」での母親は浪速千栄子です。故郷九州でボタ山のそばで真っ黒になって働いている浪速千栄子の母親がいます。私はそのことを思うだけで、いつも自然に涙が頬を伝わります。
 浪速千栄子が健さんを怒る声が聞こえても、藤純子が傘を健さんい差し出してもいつも涙が出てしまう私です。(1998.11.01)

2016120307

12051906 けっこう何かのときに「練鑑ブルース」を唄うことがあります。この歌は御存知のように、軍国歌謡であった「可愛いスーチャン」の曲に、歌詞をのせて唄っています。もともとの原曲がいいわけなのか、たいへんにしみじみと聞ける歌です。
  ところで、この歌は放送禁止・発売禁止となったこともあって、その歌詞がはっきりしません。いろいろなところに断片的には記されていますが、完全な形のは見あたりません。以下は私の記憶のみで歌詞を再現しています。昔埼玉県朝霞署にいたときに、同じ時期にいたやくざのKさんというかたから教わりました。彼が夜唄う、この「練鑑ブルース」は今から思い出してもふるえるほどの感動ものでした。
  以下の歌詞は私の記憶からです。とくに5番以下は私が作ってしまっているところがあります。Kさんはもっと長い歌詞を唄ってくれていました。

歌名    練鑑ブルース
曲    「可愛いスーチャン」の歌

一  人里離れた  塀の中
    この世に  地獄があろうとは
    夢にも知らない  娑婆の人
    知らなきゃ  おいらが教えましょ
二  身から出ました  錆ゆえに
    ケチなポリ公に  パクられて
    手錠はめられ  こずかれて
    着いた所が  裁判所
三  検事判事の  お調べに
    ついた罪名  凶準罪(註1)
    廊下に聞こえる  ゲソ(註2)の音
    地獄極楽  分かれ道
四  青い車に  乗せられて
    揺られ揺られて  行く先は
    その名も高き  練馬区の
    東京少年鑑別所
五  小さな窓から  空見れば
    あの星この星  スケの星
    可愛いスケちゃん  何してる
    優しいおふくろ  何してる
六  あまりのつらさに  耐えかねて
    鉄の格子を  突き破り
    逃げて帰って  きてみれば
    おふくろ  冷たい石の下
七  許してください  お母さん
    写真片手に  眼に涙
    許してください  お母さん
    長い夜の夢でした

(註1)凶準罪  凶器準備集合罪のこと。ここはやくざさんが唄う
のなら「恐喝罪」とか「暴行罪」とかなるのかもしれません。左翼
がまず少年時代に捕まるといったらこの凶準罪(凶器準備集合罪)
でしょう。ちなみに、私がこの朝霞署にいたときの罪名は「殺人、
殺人未遂、建造物侵入、凶器準備集合」でした。
(註2)ゲソ  逮捕されると、靴はとりあげられ、官の支給するチ
ンケな草履をはくことになる。この草履をゲソという。裁判所でこ
の少年は、手錠腰縄つきの姿で、ゲソでペタペタ歩いてきたわけで
す。

 Kさんが唄ってくれたのは、このおかあさんが石の下つまり墓にいたというのは、鑑別所で見る夢なのですが、なんとかこの生活を終え、やつと帰ってみると、本当に母親は亡くなっていたという内容を切々と唄ってくれました。当時朝霞署にいた、左翼過激派の私も、窃盗犯も、殺人犯も、選挙違反の自民党も、留置場担当の警官も、みんなこの歌声に涙を流したものです。
  ところで私たちは左翼の仲間でも、この東京少年鑑別所へ入れられたのは、何人かいます。ただもう二〇歳を過ぎてしまうと、もう行くことはできません。私はなんだか悔しいようなさびしいような気持になったものです。
 それとまた仲間でよく話したのですが、「身から出ました  錆ゆえに」という歌詞なのですが、これは誤謬ではないのかというのです。けっして私たちがこうした罪名でパクられてしまったのは、「身から出た錆」のせいではなく、「やっぱり国家が悪い」ではないのかということなのです。
  でも、でも、今になってみれば、それは国家も悪かったかもしれないけれど、やっぱり、それこそ「身から出た錆」だったかもしれませんね。(1998.11.01)

歌名    銀蝶渡り鳥
作詞    川内康範
作編曲  曽根幸明
 唄     梶芽衣子

一  惚れた男に  命を賭けて
    傷の痛さに  泣いたけど
    人にゃ見せない  涙の顔は
    明日はどうなる  何処へ流れる
    あゝ  銀蝶渡り鳥
二  何をくよくよ  昨日は見ない
    広いこの世に  ただひとり
    どうせ生まれた  身体じゃないか
    明日は何処やら  何処で恋する
    あゝ  銀蝶渡り鳥
三  夢のかけらも  なんにもないが
    夢があるよな  顔をして
    つらい命を  抱きしめながら
    明日は何処やら  何処で飛ぶ
    あゝ  銀蝶渡り鳥

12052001 梶芽衣子の「銀蝶渡り鳥」シリーズは2作ありました。相手役が渡瀬恒彦でした。できたらもっと作って欲しかった気がしますが、どうしても藤純子のお竜さんシリーズには勝ちようがなかったのでしょうか。でも東映を捨てて、あんな菊五郎のところへいった藤純子より、梶芽衣子のほうが筋が通っているように思うのですがね。
 そういえば、ちょっと話が飛びますが、私はこの歌舞伎の「尾上菊五郎七代目襲名披露」の公演に行きました。ちょうどたしか私が大学5年のときだったかなと思います。私はなんとか幕間に藤純子に会えるというので、「東映に帰れ」と声を掛けたかったのです。しかし公演の幕間に広間に存在する藤純子を、歌舞伎座の上から横から、さまざま見て、その美しさに、私はやじることができませんでした。
 でも、私はもうやくざ映画は梶芽衣子だと決意したものです。でもあの「さそり」シリーズなんかはあんまり好きではなかったな。
 この「銀蝶渡り鳥」は、映画もこの歌も非常にバタくさくて、私は大好きです。でもこんな東映のB級、C級映画はビデオ屋にはまずおいてないのです。それがまったく残念です。(1998.11.01)

12051803  やくざ映画といえば、なんといっても高倉健でしょう。そしてその高倉健が主演した「昭和残侠伝」シリーズで、最後の殴り込みのシーンで必ず流れるのがこの歌でした。

曲名    唐獅子牡丹
作詞    水城一狼
        矢野  亮
作曲    水城一狼
編曲    白石十四男
 唄     高倉  健

一  義理と人情を  秤にかけりゃ
    義理が重たい  男の世界
    幼なじみの  観音様にゃ
    俺の心は  お見通し
    背中で吠えてる  唐獅子牡丹
二  親の意見を  承知ですねて
    曲がりくねった  六区の風を
    つもり重ねた  不孝のかずを
    なんと詫びよか  おふくろに
    背中で泣いてる  唐獅子牡丹
三  おぼろ月でも  隅田の水に
    昔ながらの  濁らぬ光
    やがて夜明けの  来るそれまでは
    意地でささえる  夢ひとつ
    背中で呼んでる  唐獅子牡丹
四  白を黒だと 言わせることも
    しょせん畳じゃ 死ねないことも
    百も承知の  やくざな稼業
    なんで今さら  悔いはない
    ろくでなしよと  夜風が笑う
五  親にもらった  大事な肌を
    すみで汚して  白刃の下で
    つもり重ねた  不幸のかずを
    なんと詫びよか  おふくろに
    背中で泣いてる  唐獅子牡丹

  映画の最後に健さんの花田秀次郎が一人殴りこみに行こうと夜道を歩いていくと、街角で池部良の風間重吉が「ご同行ねがいます」といってとなりに並んで歩きます。健さんは目で挨拶するだけです。私たちは池袋の文芸座で一緒に声を出して歌い出していたものです。
  この歌が一番仁侠の歌としては歌われることが多いのではないでしょうか。私は四番の歌詞を歌う高倉健の声が一番思い出されます。また三番の

    やがて夜明けの  来るそれまでは
    意地でささえる  夢ひとつ
    背中で呼んでる  唐獅子牡丹

は何かのときにいつも心に浮んできました。昔こんなことを書いたことがあります。

    たとえ「あしたのジョー」が「乾物屋のジョー」になったとし
  ても、背中の唐獅子には嘘をつけないから、夢ひとつ意地でささ
  えるのだ。

 ちなみにこれは、漫画の中であしたのジョーは白石葉子に惚れているのだが、現実の世界では紀子(彼女の実家は乾物屋)と一緒になったほうが幸せだろう、だがそうはいかないのだ、ということにあります(漫画では、紀子はマンモス西と一緒になり、ジョーはリングで燃え尽きてしまいます)。
  背中の唐獅子と、夢がいつもいつも問題なのです。(1998.11.01)

曲名  男の誓い
作詞  矢野  亮
作曲  水城一狼
 唄   高倉  健

一  生まれも育ちも  別々だけど
    死ぬときゃいっしょと  言ったじゃないか
    俺とお前の  握るこの手を
    ふたつに切ろと
    男の誓いは  鉄よりかたい
二  隅田の夜風を  素肌に受けて
    流れに重ねて  写した笑顔
    姿かたちは  変わる浮世に
    やつれちゃいても
    胸にはあの日の  血潮が燃える
三  行く道ァ同じさ  あとへは退かぬ
    生きるか死ぬかは  お天頭まかせ
    極道者でも  一度ぐらいは
    世間のために
    命を張るんだ  男をかけて

12051714 この歌も高倉健の歌として、よく唄ってきました。まさしく健さんの姿にはふさわしい歌だと思います。この「握るこの手」の相手には誰が一番あっているかななんて考えます。鶴田浩二や池部良ではどうしても健さんは手を出せないように思います。
 私にはこの相手は小林念侍なんかが思い浮びます。彼が東映の三下ヤクザ役なんかの時代はとても良かったものです。それが今の彼のいい味を出してくれている源なように思うのです。
 私もある会社に入社したその日、私の歓迎会で私の上司になった人の手を握って唄ったことがあります。みんな驚いたようですね。一体何なのだろうと思ったようでした。(1998.11.01)

歌名    男の裏町
作詞    矢野  亮
作曲    不詳
採譜編曲  八木正生
 唄     高倉  健

一  暗い夜ふけの  窓べにすがり
    星もない空  泣き泣き呼んだ
    村の小径で  遊んだころは
    十七、八の  まだ俺ァがきだった
二  こんな冷たい  世間と知らず
    どこをはぐれた  裏町ぐらし
    夢を抱いて  出て来たころは
    十七、八の  まだ俺ァがきだった
三  胸を濡らした  あの娘の涙
    好きと素直に  なぜ言えなんだ
    祭り囃子に  浮かれたころは
    十七、八の  まだ俺ァがきだった
四  風にちぎれる  夜汽車の汽笛
    追えば恋しい  故郷が浮かぶ
    飛んで行きたい  あのころあの日
    十七、八の  まだ俺ァがきだった

12051703  この歌もみんなでけっこう唄ってきました。高倉健の声にあったいい歌だと思います。誰もが同じようにもっている思い出があります。何故こんな自分になってしまったのかという思いがこみあげてきます。
  やくざ映画にはいつも、「故郷」と「母」と「あの娘の涙」が出てくるように思います。だから見ている私たちもいつも涙でいっぱいになってしまうのでしょう。新宿昭和館で見ているときに映画が終わって明るくなるときが実に恥ずかしかったものでした。(1998.11.01)

……ラバウルは美しい火口港の縁に横たわっていた。かかる自然美
に恵まれた場所が、破壊と死の場所と化しているとは想像し難い。
われわれは暫し上空を旋回した。高度一万フィート。今朝は攻撃が
予定されている。アヴァンジャーの青い機影、高射砲弾の黒煙───
ラバウルの日本軍の砲兵は南太平洋で対空射撃が最高に正確だとい
う評判を持つ。当然であろう。連日のように腕を磨かされているの
だから。地上では火災が発生し始めた。町中にも路上にも人影は見
当たらぬ。にもかかわらず、何万という日本軍がそこに潜んでいる
のは知れたことだ。夥しい眼がわれわれを監視し、われわれに発砲
する価値があるかどうか監視していることだろう……。
         (リンドバーク「第二次世界大戦日記」より

12051508 これだけ米軍以下の連合軍に恐れられた存在がラバウルの日本軍でした。実に十万余の将兵が本土からの支援支給のないまま、自給自活の生活をしながら、日本敗戦の日までほとんど無傷でした。
 そのラバウルの歌で私たちがかなり唄ってきた軍歌があります。

曲名  ラバウル海軍航空隊
作詞  佐伯孝夫
作曲  古関裕而
 唄   灰田勝彦

一 銀翼連ねて 南の前線
  ゆるがぬ護りの 海鷲たちが
  肉弾砕く 敵の主力
  栄えあるわれら ラバウル航空隊
二 海軍精神 燃えたつ闘魂
  いざ見よ南の 輝く太陽
  雲に波に 敵を破り
  轟くその名 ラバウル航空隊
三 沈めた敵艦 墜した敵機も
  忘れて見つめる 夜ふけの星は
  われに語る 戦友(とも)のみたま
  勲(いさお)は高し ラバウル航空隊 
                   (昭和19年)

 英蘭豪米軍との戦闘の最前線だったラバウル、そして毎日毎日厳しい戦闘訓練にあけくれ、とうとう最後までここを守り抜いた将兵たちを思います。そして敗戦後最後まで「責任」をまっとうしたラバウルの将軍今村均大将に大いに敬意を感じます。
 この歌はまたいつもいつまでも唄っていきます。(1998.11.01)

2017080125作詞  加藤明勝
作曲  永井建子

12051418 先日(2000年4月29日)の午前2時半頃、私はゴールデン街を歩いていましたら、ある飲み屋のママが私を見て、

あ、「万朶の桜だ!」

と呼び掛けてきました。私はそのママのことは記憶がなかったのですが、なんでも昔彼女の店のあった三番街で、いつも私の唄うこの「万朶の桜か 襟の色」を聞いていたということです。結果として、私はそのママの店で朝まで飲んでしまいました。

一 万朶の桜か 襟の色
花は吉野に 嵐吹く
大和男子(やまとおのこ)と 生まれなば
散兵線の 花と散れ
二 尺余の銃(つつ)は 武器ならず
寸余の剣(つるぎ) 何かせん
知らずやここに 二千年
鍛えきたえし 大和魂(やまとだま)
三 軍旗まもる 武士(もののふ)は
すべてその数 二十万
八十余ヶ所に たむろして
武装は解かじ 夢にだも
四 千里東西 波越えて
我に仇なす 国あらば
港を出でん 輸送船
しばし守れや 海の人
五 敵地に一歩 我踏めば
軍の主兵は ここにあり
最後の決は 我が任務
騎兵砲兵 協同せよ
六 アルプス山 を突破せし
歴史は古く 雪白し
奉天戦の 活動は
日本歩兵の 粋(はな)と知れ
七 携帯口糧 あるならば
遠く離れて 三日四日
曠野千里に わたるとも
散兵線に 秩序あり
八 退くことは われしらず
みよや歩兵の操典を
前進前進 また前進
肉弾とどく所まで
九 我が一軍の 勝敗は
突喊最後の 数分間
歩兵の威力は ここなるぞ
花散れ勇め 時は今
十 ああ勇ましの わが兵科
会心の友よ 来たれいざ
ともに語らん 百日祭
酒杯に襟の 色うつし
(明治42年)

私はこの歌を学生のときから熱心に唄ってきたものです。私たちはみな学生活動家ばかりでしたが、実にこの歌をみなで唱っていたものでした。大学でも飲み屋でもよく唱いました。
私はこの六番で唄われる

アルプス山 を突破せし
歴史は古く 雪白し

というのは、何のことかなといつも思ってきました。ナポレオンのアルプス越えなのか、それともハンニバルのアルプス越えなのでしょうか。
それからこの歌の十番の歌詞は、一般兵舎においては次のように唱ったようです。私たちも、このように唱いました。

十 歩兵の本領 ここにあり
ああ勇ましの わが兵科
会心の友よ さらばいざ
ともに励まん わが任務

それから、もう当然に有名なことですが、この歌は以下の「アムール川の流血や」と同じ曲です。同時に赤松克麿作詩および大場勇作詩の「メーデーの歌」とも同じです。

アムール河の流血や

作詞  塩田 環
作曲  永井建子

一 アムール河の 流血や
凍りて恨み 結びけん
二十世紀の 東洋は
怪雲空に はびこりつ
二 コサック兵の 剣戟や
怒りて光 ちらしけん
二十世紀の 東洋は
荒波海に 立ちさわぐ
三 満清すでに 力つき
末は魯縞も 穿ち得て
仰ぐはひとり 日東の
名もかんばしき 秋津島
四 桜の匂い 衰えて
皮相の風の 吹きすさび
清き流れを けがしつつ
沈滞ここに 幾春秋
五 向が丘の 建男児
虚声偽涙を よそにして
照る日の影を 仰ぎつつ
自治寮たてて 十一年
六 世紀新に 来れども
北京の空は 山嵐
さらば兜の 緒をしめて
自治の本領 あらわさん
(明治34年)

これは、明治33年6月にロシア軍がアムール(黒竜江)河畔にて、大勢の中国人(当時は清国)を殺した事件で作られたものです。第一高等学校東寮歌として発表されたものです。(1998.12.01)

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曲名    空の神兵
作詞    梅木三郎
作曲    高木東六

一  藍より蒼き大空に大空に
    たちまちひらく百千の
    真白き薔薇の花模様
    見よ落下傘空に降(ふ)り
    見よ落下傘空を征く
    見よ落下傘空に征く
二  世紀の華よ落下傘落下傘
    その純白に赤い血を
    捧げて悔いぬ奇襲隊
    この青空も敵の空
    この山河も敵の陣
    この山河も敵の陣
三  敵撃摧と舞い降(くだ)る舞い降る
    まなじり高きつわものの
    いずこか見ゆるおさな顔
    ああ純白の花負いて
    ああ青空に花負いて
    ああ青空に花負いて
四  讃えよ空の神兵を神兵を
    肉弾粉と砕くとも
    撃ちてしやまぬ大和魂
    わがますらおは天降る
    わが皇軍は天降る
    わが皇軍は天降る
              (昭和十七年)

1205140212051403  この歌をいつもいろいろなところで唄います。実に格調高い美しい歌であると思っています。私はこの歌がちょうどインドネシアの攻略のときに唄われた歌のように思ってしまいます。どうしてかその方面軍総司令官の今村均大将を思い浮かべてしまうのです。彼はジャワ島に進出して、真っ先にオランダ軍に捕らえられていた、独立運動の闘士スカルノを釈放します。
  でもいつも何度も唄ってきました。これからもいつまでも唄うつもりです。(1998.12.01)

曲名  加藤隼戦闘隊(加藤部隊隊歌)
作詞  加藤部隊
    田中林平
    旭 六郎
作曲  陸軍軍楽隊
    原田喜一
    岡野正幸

一 エンジンの音 轟々と
  隼は征く 雲の果て
  翼に輝く 日の丸と
  胸に描きし 赤鷲の
  印は われらが戦闘機
二 寒風酷暑 ものかわと
  艱難辛苦 打ちたえて
  整備に当る 強兵(つわもの)が
  しっかり やって来てくれと
  愛機に祈る 親ごころ
三 過ぎし幾多の 空中戦
  銃弾うなる その中で
  必ず勝つの 信念と
  死なばともにと 団結の
  心で握る 操縦悍
四 干戈交ゆる 幾星霜
  七度(ななたび)重なる 感状の
  いさおの蔭に 涙あり
  ああ今は亡き 武士(もののふ)の
  笑って散った その心
五 世界に誇る 荒鷲の
  翼のばせし 幾星霜
  輝く伝統 受けつぎて
  新たに興す 大亜細亜
  われらは 皇軍戦闘隊
           (昭和18年)

1205121412051215 思えばこの歌もよく唄ったものだなといろいろな昔を思い出しました。私たちは学生の時に激しく学生運動をやっていたわけですが、その仲間と一番よく唄ってきたかと思います。その当時も、「軍歌を唄うのはよくない」と主張する連中もいたわけですが、私はよくその部分と論争しました。軍歌であろうが、軍国歌謡であろうが、一方的に否定したって何もならないのです。文化が大衆のものと為政者のものとは違うとか、文化そのものにブルジョワ的なものや、軍国主義高揚があるものはダメだという発想自体が間違っているのです。こうした考えは、要するに毛沢東なのですね。かの「文芸講和」にそうしたくだらない主張がさも正しいことのように書いてあります。
 しかし残念ながら今でも時々そのような主張に出会います。それが過去私たちと同じ側で闘った連中であるのを知るともうとにかく嫌になってきます。いったい何をあなたは学んできたのだという気になってしまいます。ちょうど過去は私たちと同じに闘いながら、今はもう社民党や市民主義者と手をつないでやっている連中にこの傾向を感じてしまいます。
 この歌はちょうどタイのシンゴラに日本軍が上陸して、マレー半島を南下するころ唄われたのでしょうか。私の父がたどった道です。

   輝く伝統 受けつぎて
   新たに興す 大亜細亜

という気持をもった将兵は大勢いたことでしょう。でもやったことも、結果もそうではなかったことも多々あったわけです。いつも軍歌を唄うとき、そんなことを考えます。
 この歌は四番が転調(短調になる)されて、唄うときにもかなり深みを感じてしまいます。

  干戈交ゆる 幾星霜
  七度重なる 感状の
  いさおの蔭に 涙あり
  ああ今は亡き 武士の
  笑って散った その心

 最初はこの四番はありませんでした。それがこの加藤部隊の一員であった旭六郎がノモンハン事件の戦友を追悼する詩を付け加えました。それに軍楽隊の岡野正幸が短調の曲を付けたものです。
 本当に笑って散れたのか、たくさんの私たちの親の世代はどうだったのか。戦後必死に働いてきて、いま少なくとも孫たちの成長を愉しみにすることができるあの親たち(もう随分亡くなりましたが)と同じように、この「笑って散った」とされる人たちもいま生きていれば同じことをできていたはずなのです。
 またこの歌を灰田勝彦が唄っていますね。彼は軍歌を唄うのは嫌ったといわれますが、この歌を唄う彼の声は、私は最高にいいなと思っています。(1998.12.01)

 私がカラオケで一番多く唄ってきた歌というとこの歌でしょうか。いやもちろんカラオケのないところでもそれこそ大量に唄ってきましたが。

曲名  梅と兵隊
作詞  南条歌美
作曲  倉若晴生
 唄   田端義夫

一 春まだ浅き 戦線の
  古城にかおる 梅の花
  せめて一輪 母上に
  便りに秘めて 送ろうじゃないか
二 覚悟をきめた 吾が身でも
  梅が香むせぶ 春の夜は
  戦忘れて ひとときを
  語れば戦友(とも)よ 愉快じゃないか
三 明日出てゆく 前線で
  何れが華と 散ろうとて
  武士の誉れじゃ 白梅を
  戦闘帽(ぼうし)にさして 行こうじゃないか
              (昭和15年)

1205110512051201 私が現在よく行く東京都台東区谷中初音通りの飲み屋街のある店なのですが、そこは実にお客としては私が一番若いくらいのお店です(ただし、このごろは私が連れていく女性が一番若いようです)。私がこの店に入ることになったのは、この「梅と兵隊」があるのです。
 ある夜(たしか1982年くらいのことでしょうか)、私はこの飲み屋街を初めて歩いていました。なかなかどこの店に入ろうか、迷います。とにかく初めてなのですから。そうしたら、ある店の前でママが、私を誘います。私は

 「梅と兵隊」のカラオケテープあるんなら入るよ

と言ったところ、そのママは

 あんた、何言っているのよ、その歌なんか、当然にあるわよ

というので、私はその店に入って、ビール一杯飲んで、すぐ唄いだしました。ママは大正6年生まれの方で、私はすぐにその店の常連になってしまいました。
 もうそれからその店には18年も通っています。もう大正生まれのお客さんは少なくなりました。一番年上では、ついこの間までときどき明治42年生まれの方がおいでになります。今では最初のママ(この方を大ママという)は引退されて(引退と言っても、なんと店のお客と恋愛結婚したのだ)、その妹さんたちがやっています。
 ちょうど日中戦争に出兵している兵隊を唄ったものでしょう。私の父も日中戦争にも行きました。
 まだ私が二八歳くらいの正月に、詩吟の会のお弟子さんたちが、父と兄の自宅へやってきて愉しく新年会をやったことがあります。そのときに、私の父がこの歌を唄ってくれました。父は私の兄の名前が莞爾というのは、二・二六のときの決起将校で処刑された中島莞爾からつけたものであることを言い、その二・二六のあと不幸な日中戦争の中でのこの歌を唄ってくれました。
 その歌はいまでも私の耳に残っています。不幸ないい歌だなと思ったものです。

  武士の誉れじゃ 白梅を
  戦闘帽(ぼうし)にさして 行こうじゃないか

と黙って私の母に敬礼して出かけていく、私の父の姿が見えるように思います。(1998.12.01)

1205101512051016 私は女性の歌手といったら、渡辺はま子を真っ先に思い浮べます。そして彼女の歌はどの歌も好きなのですが、いちばん私自身が唄うのといったら、この歌でしょうか。よくゴールデン街で流しの平川眞作さんの伴奏で歌っています。

曲名  愛国の花
作詞  福田正夫
作曲  古関裕而
 唄   渡辺はま子

一 真白き富士の けだかさを
  こころの強い 楯として
  御国につくす 女等(おみなら)は
  輝く御代の 山ざくら
  地に咲き匂う 国の花
二 老いたる若き もろともに
  国難しのぐ 冬の梅
  かよわい力 よくあわせ
  銃後にはげむ 凛々しさは
  ゆかしく匂う 国の花
三 勇士のあとを 雄々しくも
  家をば子をば 守りゆく
  優しい母や また妻は
  まごごろ燃ゆる 紅椿
  うれしく匂う 国の花
四 御稜威(みつい)のしるし 菊の花
  ゆたか回に香る 日の本の
  女(おみな)といえど 生命がけ
  こぞりて咲いて 美しく
  光りて匂う 国の花
    光りて匂う 国の花
         (昭一三年)

 なんだかこの歌はたいへん好きなのです。渡辺はま子の声量のある歌声で聴くのも好きです。「山ざくら」「冬の梅」「紅椿」「菊の花」と日本の象徴のような花花をあげ、それに負けないけだかい、美しい、女性たちを歌いあげています。
 渡辺はま子の戦後の「モンテンルパの夜は更けて」みたいな、いわば反戦歌もいいけれど、こうした戦時高揚の歌も悪くないなと思っています。(1998.12.01)

 私のもともとの詩吟の宗家荒国誠先生が歌ってくれたものに、前回書きました「'O Sole Mio!(我が太陽)」と並んで、この歌がありました。

      Torna a Sorrento
    Vide 'o mare quant'è bello!
    spira tanta sentimento...
    Comme tu, a chi tiene mente,
    ca, scetato, 'o faje sunna'!
    Guarda gua' chisti ciardine,
    siente sie' 'sti sciure 'e arancio...
    nu prufumo accussí fino,
    dint' 'o core se ne va...
    E tu dice: "Io parto, addio!"
    T'alluntane da 'stu core,
    da la terra de ll'ammore,
    Tiene 'o core 'e nun turna'?!
    Ma nun mme lassa',
    nun darme stu turmiento...
    Torna a Surriento:
    famme campa'!1205100112051002

 先生の迫力のある歌い方を思い出します。
 インターネットで調べてみますと、以下のようにありました。

 この曲は1902年9月15日にソレントを訪れた、時の首相ジュゼッペ・ザナルデッリのために作曲された。

 また前回書きました「'O Sole Mio!(我が太陽)」は次のようにあります。

『オー・ソレ・ミオ』(ナポリ語:'O sole mio、私の太陽)は、イタリアのナポリ民謡。ギアヴァニ・カプロ作詞、エドゥアルド・ディ・カプア作曲。1898年作詞・作曲。

 だから、この二曲は、もう今ではかなり違う存在なのですね。荒先生の唄うことでも、その違いが今分かった思いがしました。(2012.05.10)

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