10120506 私が埼玉大学の学生だったときの学長であった和達清夫先生が1月5日午前10時17分動脈りゅう破裂のためなくなりました。92歳でした。
 告別式は8日午後12時30分から、新宿区新宿2-9-2太宗寺で。喪主は長男嘉樹氏。
 和達先生は1956年初代気象庁長官に就任。地震学の権威であり、埼玉大学の学長もながく歴任されていました。埼大の学長をやめてから南極にいかれたりして、私はお身体が心配だったものです。
 和達先生が学長だったときは、ちょうど学生運動がもっとも盛んなときでした。だからいつも私たち三派全学連・全共闘系学生とは大衆団交やなにかでいろいろと大変だったはずです。
 埼大が北浦和駅前から大久保地区に移転を考え、移転をきめたのは1965年ですが、大久保というのはかささぎが飛び、ひばりが鳴くところで、大学の屋上に登ると地球が丸く見えるといわれ、さすが気象の和達さんの選ぶところだと言われたものでした。
 体格のいい大柄な先生で、いつも埼大のキャンバスをひとりでゆっくりと歩いておいでになりました。私が大学1年から2年生にかけて(1967年12月から68年5月まで)のバス代値上阻止闘争では最後の学長団交のときなど、おどろくほどのスタミナで、かつ私たち学生活動家のひとりひとりの名前を知っていて、しかも私たちを呼ぶときにかならず「さん」ずけをされ、それは温厚であり、かつ頑固で少しも私たちに屈することなく、今思えば尊敬すべきことでした。もちろん私はそのころは先頭で先生をやじっていましたが。
 その後埼大の学園闘争の最中でも、かなり私たちのために御苦労されたようです(私はそのときは拘留中で大学にいませんでした)。私たちの後輩の世代ともかなりな攻防があったようですが、和達先生はとにかくしぶとく頑張られたようです。
 たしか子どもさんのことで、かなりなご不幸があって、そのときには心配したものでした。
 私たちはなんといっても左翼過激派(私はその当時も国粋主義者を自称していましたが、左翼であるとも思っていました)ですから、私たちの集まりにおいでになることはありませんでしたが、空手部のような体育会系のほうの酒飲み会にはおいでになって、酒飲んで歌を唄っていたようです。体育会系にも当然私たち左翼の連中が大勢いましたから、よくそんな飲み会での面白い話をききました。そんな話をきくたびに、あの先生はいい人なのだなと思いました。本当は私たちの方だっておいでになりたかったのでしょうが、そんなことすると学内最大の保守派である日本共産党がどんなキャンペーンをはるかわかりませんからね。いま思えば残念です。
 先生のことで一番思い出されるのは、1967年10・8の羽田闘争で、逮捕起訴された私たちの仲間に対して、日本育英会がその奨学金を差し止めたときに、それへの抗議の長い声明文を図書館の外の壁に貼りだしていたことです。思えばよくそこまでできたものだと、今なら感激してしまうのです。
 大学時代のあの時代のいろいろな方が亡くなられました。私たちにはなんだか、とても悲しい寂しいことです。
 合掌します。(1995.01.08)

 この先生で思い出すのは、たしか1983年のある春の日、御茶ノ水の駿河台の明治大学のわきの路の歩道を歩いているときに、お会いしたのでしたが、そのときに先生が会釈をされたことです。もちろん、私も会釈を返しました。私のような昔のチンピラの過激派に会釈してくれたのです。そのときに私は何か熱いものを感じたことを覚えています。(2010.12.06)