将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:坂本龍馬

13021514 こうしてポメラで書いていて、いくつものことを思い出します。

2013/02/16 05:49今こうしてポメラに書いています。リビングの炬燵に入って書きたくなったものです。
 目の前にバレインタインのチョコレートがあります。娘のおはぎがくれたものです。ホワイトデーにお返ししなくちゃあな。何にしようかなあ。
 小学校4年の頃森永チョコレートを口にしたことを覚えています。非常にまずいものでした(私には)。そのあと口にしたことあるのかなあ?
2013/02/16 06:01もう今日は外を歩くことはないだろうな。いや私は一日一万歩歩くのだ。やっぱりあるかないと。やっぱりまたお菓子を持っていこうかなあ。でももうお菓子も喜ばないのかなあ。
 でもでも、ポポは喜んでくれます。もちろん、ポニョもポコ汰も喜んでくれますが、私の小さい時のこととは比較できないのだろうな。
2013/02/16 06:20昨日歩いた谷中の三崎坂を思い出しています。あそこを歩いて、私は丹下典膳と丹下左膳の戦いを思いだし、また山岡鉄舟を思い出しました。また関係はないのですが、地蔵様が何人も並んでいるところで私はいつも坂本龍馬を思い出すのです(その地蔵とは何の関係もないのですが、でも私は訳はわかっています)。
13021515 私はあの地域のお墓の中をいくつも歩いていた記憶が甦りました。何であんなところを歩いていたのかなあ。私が21歳の時かなあ。
 いろんなことを思い出すものです。

 坂本龍馬を思い出したのは、周の漢詩入門「坂本龍馬『愛酒詩』」に載せた六地藏の写真を思い浮かべたのでした。

12110505 この手紙を読むと、龍馬はお龍さんと、どうみてもいけないことをしています。

此サカホコハ少シうごかして見たれバ
 よくうごくものなり又
  あまりにも両方へはなが高く
  候まゝ両人が両方よりはなおさへて
  ヱイヤと引ぬき候時ハわずか
  四五尺斗のものニて候間又 本の通り
  おさめたり

サカホコ
あらがねにてこしらへたものなり

 こんなことしちゃあ、いけないよな。私はあの高千穂の峰には登りまして、この逆鉾は見たものですが、それより90数年昔に、二人のアベックが「両人が両方よりはなおさへて、ヱイヤと引ぬき」なんてことをしているなんて想像もできませんでした。

12091802 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPがありました。

己という存在が 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月18日(火)08時57分54秒
  坂本龍馬は、不確かな記憶によれば、小学校の5年生になった頃、学校の図書室にあった「日本の偉人」というシリーズ物の一冊で知りました。子供心に「何となく、恰好ええなぁ」と感じたものです。剣道の達人、北辰一刀流の使い手、そんな言い回しが文章の中にあったのでしょう。大人になってから、司馬遼太郎の作品を知り、龍馬を巡る人間模様も知りました。歴史に「若しも」は禁物ですが、龍馬とさな女が添い遂げて子孫を残したら、どんな家族になっただろう、と想像してみるのも歴史好きの楽しみの一つかも知れません。

 私も、「司馬遼太郎『竜馬がゆく』」を読みましたのは、高校生のときでした。
 その後『燃えよ剣』『功名が辻』『国盗り物語』『北斗の人』『殉死』『坂の上の雲』『城塞』『花神』『播磨灘物語』『翔ぶが如く』『空海の風景』『胡蝶の夢』『項羽と劉邦』『韃靼疾風録』等長編は読みました。
12091803 短編でも『酔って候』『人斬り以蔵』等は読みました。多分もっと読んでいます。ほぼ兄の本で読んできました。
 あともっと短編は読んでほぼすべて読んだかと思っています。ただし、『街道をゆく』は全部を読んではいません。
 そうですね。その中では、『竜馬がゆく』は好きな作品です。ただ『翔ぶが如く』『項羽と劉邦』などは好きになれません。『殉死』は私の嫌いな作品といえるかと思います。 また一つひとつの作品にもいつか述べることがあるだろうと思っています。

 この『竜馬がゆく』は私も、「これが坂本龍馬なのだろう」と思い込んでしまった作品です。乙女姉さんも、こんな人なのでしょうね。私は乙女さんが結婚して結局別れてしまったことを思います。相手はお医者様で、子どももいたのですね。
 ただ土佐というとこころは、ものすごく離婚が多かったようです。今よりも多かったようです。しかも女性から離縁することも多いのです(ただし、乙女姉さんは違いますが)。
 その彼が千葉さな子と一緒になっていたらどうなのでしょうか。さな子は亡くなるまで龍馬と婚約したと言い続けたそうです。そして彼女は独身を貫くのですが、つい近頃は、違うことも分かってきたようです。つまり彼女にはほかにも好きな男性がいたようです。
 千葉道場の辺りをまた歩いて、そんなことも想像したいです(前に私が歩いたときには、この新しい男性の存在は知られていませんでした)。
12091804 思い出せば、私は吉川英治のあとに、大量に読みました時代作家です。私はけっこう司馬遼太郎は読んでいる人が多いので、話すと、「私が遼太郎が好きではないのだ」と思われるかたがいるようですが、そんなことはないのです。
 ともあれ、また読んで行くことはないでしょう。とくに、毎朝日経新聞で「浅田次郎『黒書院の六兵衛』」を読んでいますと、「もう司馬遼は読まないだろうな」なんて思いになります。

11050707 1832年(天保3)2月2日〜1879年(明治12)8月31日の生涯でした。この乙女(おとめ)は、身長約174cm、体重約112kgという、現代でも実に巨大とも言える女性でした。
 この乙女が実に文武に長けた女性であり、龍馬の良き理解者でした。とくに、母を早くに亡くした龍馬には、実にいい姉だったでしょう。だが彼女自身は、結婚には失敗したと言ってよく、離婚して、家に帰っています(もっとも土佐では、この離婚ということは珍しいことではないようです。むしろ現代に近いほうが離婚は少ない)。
 龍馬は実に誰にもよく手紙を書いたのですが、一番数を書いたであろうお龍さんへの手紙は彼女がすべて燃やしており、今では、この姉あての手紙を読むことしかできない(他の人への手紙も読めますが)のです。
 龍馬の手紙は、すべて絵が入っており、手紙の数・量だけでは負けていない私も絵はありません。
 実に若くして亡くなってしまった龍馬です。私も悲しく悔しくてなりません。あと、龍馬が殺されたあと、お龍が坂本家に行きますが(お龍は龍馬と結婚していたのです)、この乙女とは少しも合わずに、やがて坂本家を出てしまいます。(2011.05.09)

11050804  坂本龍馬は、1836年(天保6)1月3日〜1867年(慶応3)12月10日の生涯でした。思えば、短い生涯でしたね。
 この楢崎龍は龍馬と結婚した女性と言われています。1841年(天保12)7月23日〜1906年(明治39)11月15日の生涯でしたから、龍馬の死後も長く生きていたのですね。
 彼女は、龍馬からの手紙をたくさん持っていましたが、すべて燃やしてしまったといいます。龍馬はたくさん手紙を書いていますが、みな手紙に絵が入っており、このお龍さんの手紙も残っていたらなあと私は悔やまれます。
 私は今も手紙を書きますが(2008年は610通を超えました)、絵も図もありませんね。ほぼこのお龍は、龍馬がいかなることをやった人物なのかということは興味がなく、知らなかったといいます。
 お龍が寺田屋で風呂に入っていたときに、捕り方に包囲されたときに裸で龍馬に知らせた(ただし、一重の湯帷子だけでした)といいます。このときの龍馬の傷を薩摩藩へ行ったときに、霧島温泉へ湯治に行っており、この1866(慶応2)年のときが日本最初の新婚旅行と言われています。実は、

  桂小五郎の愛した女、幾松

の二人も、慶応元年に京都から城崎温泉に寄って萩に行っています。これも新婚旅行と言えるのかなあ。
 私も龍馬に習って、手紙に絵を入れたいものですが、そしてパソコンだから簡単なはずですが、どうにも私には無理なようです。

 楢崎龍は、1841年(天保12)7月23日〜1939年(明治39)1月15日の生涯でした。だから龍馬が殺されたときから実に40年ほど生きていた生涯でした。
 1865年(慶応元年)8月1日に、龍馬とお龍は結婚しています。その翌年1866年1月22日に薩長同盟がなり、その翌日に寺田屋で襲われましたが、応戦し、お龍の必死の働きもあり、かろうじて命を守り通し、龍馬は姉乙女の手紙に、「お龍がいたから命は助かりました」と書いているくらいです。
 ただ、このときに負った手の傷は大きく、その後龍馬はこの手を写真撮影のときにも、後に隠したくらいです。だから龍馬の写真では必ず手を見せないようにしています。
 この傷の治療のために、西郷隆盛の鹿児島まで二人で行っており、さらには霧島温泉に行っています。霧島山の山頂にある逆鉾を二人で抜いてしまったと言われます。あの逆鉾は私は小学6年の修学旅行で登って見ており、その90年くらい前に龍馬とお龍がそんな悪戯をしたということは知りませんでした。
 ともかく、これが日本で最初の新婚旅行と言われているものです。
 龍馬は手紙をよく書いており、それに必ず絵が入っており(実に簡単な絵です)、いつも私は実に感心しているばかりです。(2011.05.08)

11050604  この平井加尾(かお)は、1838年(天保9)〜1909年(明治42)の生涯で、坂本龍馬の初恋の女性と言われています。
 彼女は平井収ニ郎の妹で、山内容堂の妹について京都三条家に使えました。兄は土佐では上士でしたし、龍馬は勤王党であり脱藩しますので、妹に付き合わないようにいいます。だがやがて、この兄は山内容堂の命で切腹となります。この兄は上士でしたが、勤王党だったのでした。
 龍馬は収ニ郎切腹のときには、この加尾を気遣い、姉の乙女にそのことを手紙に書いています。ただ加尾は27歳で西山志澄(彼は25歳でした)と結婚しています。その翌年の1867年12月に龍馬は暗殺されています。
 この龍馬を殺したのは誰か(殺した下手人ではなく、命じたのは誰か?)と思っていますが、この加尾は西山志澄と幸せな生涯を送っています。ただ、やはり龍馬と一番結ばれたかったと願っていたと私は思ってしまうのです。(2011.05.07)

11050507 この千葉さな子は1838年(天保9)3月31日〜1896年(明治29)10月15日の生涯でした。彼女は千葉周作の弟・千葉定吉の次女で、龍馬と始めて会った頃は、剣術はもう免許皆伝であったとされ、実は龍馬とは婚約したとも言われています。このさな子もそういう思いがあったようで、彼女は自分を龍馬の妻として龍馬の死後一生独身ですごしました。
 また龍馬の恋人であったとされるお龍さんも、このさな子を憎くんでいたのは、彼女がいつまでも自分は龍馬と結婚したと言い続けたからでしょう。しかし、現在のような結婚の制度があるわけではありません。ただ、龍馬が自宅へ送った手紙には、このさな子のことを好意を持っていたことが書かれており、龍馬の故郷の家庭ではさな子のことをいつかは龍馬の妻になるのかなあ、と思っていたように考えられます。
 ただ、どうみても龍馬の暗殺は余計なことでした。彼が生きて、そののちにも活躍してくれていれば、もっといくつもの夢を見せてくれたと思います。
 そしてそうすれば、お龍のその後の惨めな姿も、このさな子のつまらないその後の姿も見なくて良かったのにと思うのです。(2011.05.06)

d4c23eef.jpg 西郷は3度結婚しています。
「西郷隆盛の愛した女、愛加那」に書きましたように、最初の妻は実家に帰り、2度目の愛加那は、奄美大島の娘で、島の人間を鹿児島には連れ出せないので、別れました。
 そして3度目の妻になったのが、この糸子です。西郷が39歳のときで、糸子が23歳のときでした。3人の子どもをもうけ、2度目の妻愛加那の子ども2人も引きとって育てました。
 西郷が坂本龍馬を連れてきて(このときは龍馬の恋人お龍さんも一緒でした)、泊めたときに、この糸子が家の屋根が破れていて、それで水漏れがするのを、困っているのを、西郷が「今は日本中が水漏れしているようなときだ」と糸子に言っているのを、私は龍馬がくすくす笑って聞いていたように思います。
 この糸子がのちになって、上野の西郷像を見たときに、「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と言ったといいます。
 ただもう私なんかにはあの像が隆盛なのですね。鹿児島南州神社の軍服を着た西郷さんよりも親しみがあります。糸子夫人なら、あの軍服を着た西郷さんの像なら少しは満足なのかなあ。(2011.05.04)

11022602 私は自分では司馬遼太郎のいいファンとは言えないという思いですが、いままでたくさんの作品を読んできました。
  好きな作品と言ったら、この『竜馬がゆく』と『燃えよ剣』でしょうか。どちらも、この作品で坂本龍馬と土方歳三のことを知った思いがしました。
  ただし、あちこちで作者の強い思いの中で作られてしまうヒーローを感じました。この小説の中でのことが実際の歴史にあったことのようにされていることを、私はいくつもみています。
 司馬さんの作品で私が馴染めないのは、作品の物語の展開ではなく、司馬さんが自分の言葉で歴史の解説を事実かのように語ることです。いくらでもその例をあげることができますが、これは比較的それが少ない作品だと思います。
 この作品では、竜馬に限らず、勝海舟、乙女、おりょう、お登勢、千葉さな子など、みなこの作品でその人物を見てしまっています。仕方ないと言えるのかなあ。どうしても私も好きになってしまう作品なのです。(2010.11.09)

 孫文が満州を日本に売るということに関する記事をUPしておこうと思いました。私が読んだ毎日新聞の記事は、

孫文に「もう一つ」の対日政策 巨額援助条件に満州租借容認?――密約示す書簡発見
  95.05.22  東京本紙朝刊 3頁 3面 写図有 (全0字)
  【この記事の本文は表示できません】  毎日新聞社

ということでした。読売新聞も同様です。朝日新聞は大事なこと(日中盟約のこと)書いてありません。産経新聞はほぼ毎日と同じように書いてありますが、資料などが付けられていません。それでもともとの共同通信の記事をダウンロードしてみました。

 ◎「戦後50年」孫文が満州租借に同意?「1千万円」で対日密約 95.05.21
    「愛国者」に別の顔  三井古書簡が記録
11013005 中国の近代革命家、孫文が一九一二年(明治四十五年)、現在の一兆円前後に当たる当時の一千万円と引き換えに旧満州(中国東北部)を日本に租借する密約に同意していた―と記す古書簡を、富山国際大学の藤井昇三教授が東京の財団法人・三井文庫で発掘し、六月出版予定の共著「新しい東アジア像の研究」(三省堂)で紹介する。
 孫文といえば日本の対中侵略意図を警告した「愛国者」としてのイメージが鮮烈。密約は実現しなかったが、日本への租借を一時的にせよ容認したとの記録が真実だとすれば、孫文の”もう一つの顔”を示すものと言え、中国、台湾でも反響を呼ぶのは確実だ。
 この古書簡は三井物産社員として上海に駐在していた森恪(もり・つとむ)が東京の三井物産顧問、益田孝にあてた書簡(一九一二年二月八日付)で、「上海三井物産株式会社支店」名の便せん三十六枚に墨書されている。森はこの中で、元老の桂太郎から益田を経て内命を受けた、として南京に孫文を訪ねた経過を記録している。
 森書簡によると、二月三日に森は孫文と対談。軍閥、袁世凱(えん・せいがい)との対決で苦境にあった孫文に森が、日本の孫支援と引き換えに「満州」を日本の勢力下にゆだねるよう迫った。これに対し、孫文が「満州を日本に一任して、その代わりに我革命の為(ため)に援助を日本に乞(こ)う」と希望していたと記述している。
 さらに、日本が四日以内に一千万円の借款の用意を電報で伝えれば、孫文は満州租借を認める―との内容の益田あて電文を作成した、と明記している。
 藤井教授によると、日本側は協議のため孫文らの訪日を求めたが、日本側は一千万円の資金調達ができず、密約は実現しなかった。孫文は政争に敗れ、「森書簡」から一週間後の、二月十五日、袁世凱は臨時大総統に推され、翌三月十日正式就任することになる。
 この書簡と別に、藤井教授は都内の研究者宅で、日本亡命中の孫文らが一九一五年二月五日に調印したと考えられている「日中盟約」の正本も発掘、その中で中国の鉱山、鉄道、海運での日本の利権などを容認している。
 この「盟約」は、孫文および同志の陳其美が、満鉄元理事の犬塚信太郎、満鉄社員の山田純三郎と調印したとされる。民間レベルの”念書”だが、日本政府は当時、袁世凱政権に、権益を強要する「対華二十一カ条要求」を突き付けており、受諾を迫る圧力として「盟約」が、用いられた可能性もある。
 藤井教授は「傍証となる文書も見つかっている。功績ある政治指導者でも誤りはある、という立場から客観的な考証を進めたい」と述べている。(松尾共同記者)

 ◎森恪書簡の要旨  孫文が満州租借に同意?   95.05.21
 森恪が上海から東京の益田孝にあてた一九一二年二月八日付書簡(三井文庫所蔵)の要旨は次の通り。(原文は旧漢字・カタカナ交じり表記) 小生南京着の翌日すなわち三日朝孫文を訪(と)い(中略)彼我対談の要旨左の通りにござ候。

 森 露国(ロシア)が南下を企つる間、独(ドイツ)人が青島を保留する間(中略)もし貴下が、既に運命の定まれる満州(現・中国東北部)を捨て、これを日本の勢力に一任し、その代償として日本の特種なる援助を得て革命の大事を完成せんとの決心あらば(中略)実は桂公(元老、桂太郎)より益田氏に対して這般(しゃはん=これら)の内意を漏らされし次第にして(中略)日本より貴下の便利とする地に軍艦を回航し三池港に直航し特別列車にて京都に至り東京より桂公の来会を促して会見する事を取りはからうべし。
 孫 満州は日本に一任して、その代わりにわが革命の為(ため)に援助を日本に乞(こ)う希望なりしが、日本は余らを遠ざけて近寄せず。最近革命政府の財政窮乏の極に達し、もはや軍隊に供給すべき財源なく、全く破産の域に達せり。革命政府の倒れざる間に機先を制して南北の和議をまとめ、一時政権を袁世凱に渡すの外なきなり。
 森 万一日本側が、満州問題を密約するの意を決し、ただちに軍資を貸し援助を与えんとの意を五日までに(五日間以内の誤記)内報あれば貴下は和議を延ばして(中略)日本に行くや。
 孫 もちろんなり。
 森 しからば(益田あてに)電文を起草せん。        

 とて小生支那(中国)文にて前述の大意を認め、孫および胡漢民(孫文の同志)これを添削し、小生これを暗号に訳し午後五時四十分孫の方より貴下あて御架電申し上げ候。電文左の通りに候。
 孫は満州租借を承知せり。すぐ一千万円を借せば、袁世凱との和議を中止し孫文または黄興(孫の同志)日本に行きて満州の秘密契約をなさん。満州の件断行する気なれば四日以内に、一千万円貸すと電信せよ。(共同)

◎「日中盟約」要旨  孫文が満州租借に同意?    95.05.21
 藤井昇三教授によると、都内での現存を確認した一九一五年(大正四年)の「日中盟約」(中国語版は「中日盟約」、全十一条)の要旨は次の通り。(原文は旧漢字、カタカナ交じり表記)

 日本および中華は東亜永遠の福利を維持するため両国提携の必要を認むるをもってここに左のごとく約定す
 第一条 (略)
 第二条 中華海陸軍に使用する兵器弾薬兵具等はすべて日本と同式のものを採用する
 第三条 中華海陸軍に外国軍人を聘用(へいよう)するときは主として日本軍人を採用する
 第四条 中華政府および地方官庁に外国人を聘用するときは主として日本人を採用する 第五条 (略)
 第六条 中華における鉱山、鉄道および沿岸航路を経営するため外国資本を要し又は合弁の場合はまず日本に協商すべし     
 第七条~十一条 (略)
 大正四年二月五日すなわち中華民国四年二月五日東京において作る
         孫文  印
         陳其美 印
         犬塚信太郎 印
         山田純三郎 印
【注】藤井教授によると、犬塚は満鉄元理事、山田は満鉄社員で、孫文の後援者。(共同)

◎1兆円か230億円か  83年前の1千万円     95.05.21
  孫文が満州租借に同意?
 一九一二年(明治四十五年、大正元年)の一千万円は、現在の一兆二千億円に相当するとの計算もできる。同年度日本の一般会計予算は約五億八千二百万円で、本年度は約七十兆九千八百億円。日本の財政規模に占める割合で、はじき出した金額だ。ただ、第二次大戦後の日本経済の飛躍的発展を考えれば、単純比較は無理。
 一方、総理府統計による東京でのコメ小売価格の対比に基づいて計算すると、八十三年前の一千万円は、現在の二百三十億円にすぎない。
 いずれにせよ、森恪書簡が事実だとすれば、道義的な問題はおくとしても、広大な中国東北部(旧満州)の「代価」としては非常に安く、当時の孫文の窮状を物語っていると言えよう。(共同)  

◎孫文が満州租借に同意?        95.05.21
    「談話」陳在俊、久保田文次、兪辛☆の各氏                 
 台湾の国民党中央党史委員会前専任委員、陳在俊氏の話
 孫文は一九一二年元旦、中華民国総統に就任した際、全国民衆に対し「国家の本は人民にあり、漢、満州、モンゴル、回、チベット(各民族)の地を合わせ一国となす」と宣言している。満州とは「東三省(現・中国東北部)」を指し、領土統一の範囲内である。孫文がこの直後に、東三省を日本に租借させようとすることはあり得ず、孫文の権力もまだこの地域に及んでいない。「森恪」書簡は絶対に真実ではない。
「日中盟約」について言えば、もし孫文に日本側と「盟約」を結ぶつもりがあるならば、頭山満(民族派の巨頭、一八五五―一九四四)や犬養毅(後の首相、一八五五―一九三二)らを通して表明するはずで、外務省の小池政務局長や民間人の犬塚信太郎、山田純三郎と締結することはあり得ない。三人は、日本政府を代表できるのだろうか。
 また小池局長あて「書簡」や(中国語版の)「中日盟約」は日本式の漢字や中国文であり、孫文の署名、押印は偽造されたものである。
 もし「森書簡」や「盟約」が本物ならば、一九三一年の満州事変の時に、これを公にしていたら、国民政府は倒されていただろう。
 久保田文次・日本女子大学教授(中国近代史)の話
 当時の孫文や中国の革命派が援助を得るために日本の資本家や軍人に接近していたことは事実である。資本家や軍人が無条件・無報酬で援助をするとは考えられないから、革命派は相当に譲歩する姿勢を示さざるを得なかったと思う。従って、「森恪書簡」や「日中盟約」を頭から偽書として否定することはできないと思う。日本の研究者の多くは同様に考えている。
 もちろん、中国や台湾の研究者の言うように筆跡や印鑑の鑑定などによって詰めをする必要はある。また、当時の中華革命党(後の国民党)の内部文書や謝持(当時の孫文の側近、一八七六―一九三九)の日記などは孫文が日本の政策を批判していたことをはっきり示している。両文書の内容は、こうした日本批判の史料と対照しつつ総合的に判断すべきである。
 中国・天津の南開大学の兪辛☆教授(日本近現代史、日中関係史)の話
「『満州』借款」に関し、森恪が孫文にこの問題を提起し、交渉したのは事実だ。しかし、当時の孫文の対応と態度を明確に立証するには、これに関する孫文の電文などが必要だが、まだ見当たらない。
「日中盟約」の真偽を考証するのは容易なことではない。犬塚信太郎の署名と(孫文が盟約の内容を日本外務省高官に伝えたとされる)「小池あて書簡」の孫文の署名は本人のものではない。
 両文書にはかなりの疑問点があり、これらの問題を究明し、確実な結論を出すためには、さらに新しい史料の発掘が必要であり、新史料を利用して綿密な考証をするべきである。(共同)

 朝日新聞はどうしてか、「満州租借」のことは書いていますが、「日中盟約」のことは書いていません。
 さてこれは重大な資料ですね。前々からこのことは言われていました。だが私がこうしてその資料の内容まで目にしたのは初めてです。孫文とはいったい何たる革命家なのでしょうか。中国の一部を帝国主義に売り渡して、何が革命なのでしょうか。何が三民主義なのでしょうか。こんな男だったのか、こんな政治家だったのかと、全く反吐を吐きたくなる気分です。
 私にはどうして北一輝があれほど孫文を嫌っていたのか、憎んでいたのかがようやく判ってきた気がします。やっぱり北一輝は正確に中国を見ていたのでしょう。(1995.05.27)

 実を言うと私は昔孫文が好きでした。高校生の頃より彼の言う「大亜細亜主義」などという主張に魅力を感じていました。「孫文先生選集」「孫文先生對日言論選集」というような本を手に入れて読んでいたものでした。1924年(民国13年)11月28日神戸高等女学校においておこなった「大亜細亜主義」という講演がとくに好きで、大変に長い文章なのですが、すべてガリで切って謄写板で印刷して、あるゼミ合宿でレポートとして使ったことがあるくらいです。
 そんな孫文への私の思いを、5月27日のUPでさらに書き続けたかったのですが、なんだか孫文のひどさの前に今更ながら裏切られた気がしてがっかりして、書いている気力がおきませんでした。
 しかし、やっぱりきょうは何かを言っておこうと思います。

  さて最後に、それならば我々は結局どんな問題を解決しようと
  して居るのかと言いますと、圧迫を受けて居る我が亜細亜の民族
  が、どうすれば欧洲の強盛民族に対抗し得るかと言うことであり
  まして、簡単に言えば、被圧迫民族の為に其の不平等を撤廃しよ
  うとして居ることであります。覇道を行なう国は単に他洲と外国
  との民族を圧迫するのみならず、自洲及び自国内の民族をも同様
  に圧迫しているのであります。我々が大亜細亜主義を提唱するの
  は、王道を基礎としてこれ等の不平等を撤廃しようとするが為で
  あります。米国の学者は、民衆解放に関する一切の運動を、文化
  に反逆するのもであると言って居りますが、我々の主張する不平
  等排除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解
  放を求める文化であると言い得るのであります。貴方がた、日本
  民族は既に一面欧米の覇道の文化を取り入れると共に、他面亜細
  亜の王道文化の本質をも、持って居るのであります。今後日本が
  世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道
  の干城となるのか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択に
  かかるも のであります。

 これが「大亜細亜主義」の講演の最後の部分です。私は感動して読んでいたものです。私は孫文が亜細亜の革命思想家として一番もっともまともな人だと思っていました。彼こそは中国のみならず亜細亜全体の解放を考えていたし、とくにこの日本にこそ大きな役割を期待していたと思いました。だがその期待を我が日本は裏切ってしまった。それが「對華21カ条の要求」に端的に現われきたと思っていました。
 私はこうして孫文の思うところを打ち砕いたのは日本帝国主義であり、また彼の後継者である蒋介石だと思っていました。孫文の夢であった北伐を孫文の死後、蒋介石はやりきるわけですが、同時に彼は中国共産党をも徹底して攻撃していきます。なんだか中国を侵略しつつある日本帝国主義よりも、共産党攻撃を優先していくようです。私は当時(18、9歳のころ)はいわば孫文派でしたから、むしろ孫文の意志を無視する日本帝国主義は敵であり、蒋介石はどうしてこんなことしかできなかったのだろうと思っていました。だから西安事件は当然だと思いました。張学良(註1)が父張作霖の敵である日本を憎むあまり、その日本よりも、同じ中国人ばかり攻撃する蒋介石を捕らえ、結局は国共合作にまで到ったのは当然だと思ったものなのです。

  (註1)この張学良は今も台湾で生きており、何年か前にテレビ
  に出てきたが、この西安事件の真相は喋らないようだ。蒋介石そ
  して周恩来との約束なのだろうか。できたら事実をすべて喋って
  ほしいものだ。

 このころまで私が読んでいたのは、歴史の本と孫文の論集、そして宮崎滔天「三十三年之夢」などで、いわば孫文をほめる側ばかりでした。とくに宮崎滔天は好きでしたから、中国革命をこそ真に考え闘ったのは孫文だとばかり私は思っていました。
 私は、孫文が「革命未だ成らず」といって亡くなったあとを、継いだのは国民党蒋介石ではなく、周恩来や毛沢東の中国共産党であると思っていました。私は毛沢東をマルクス主義共産主義者だとは思っていなかったのです。現実に中国共産党も孫文のことをかなり評価していると思います。
 ところが私も大学で学生運動をやるなか、北一輝に触れていくようになりました。北一輝の全集を手に入れ、第2巻の「支那革命外史」を読んでいくと、まったく違う中国革命の姿が見えてきます。北一輝は徹底して孫文を信用していません。信用しないどころか、まったく病的とも思えるほど毛嫌いしています。
 北一輝はいわば日本での社会主義運動が大逆事件で大弾圧を受けたあと(彼自身も大逆事件で逮捕されている)、中国へ渡り、中国革命の為に奔走します。彼は終始宋教仁とともに、革命を目指します。北一輝には大輝という息子がいますが、この大輝は、実は中国の革命家譚人鳳の子どもです。北一輝でよく見る肖像画は中国服を着ています。彼は中国の革命にこそすべてをかけました。しかし、辛亥革命で主導権を握ったのは、革命勃発のときは洋行していた孫文でした。この孫文とは、宋教仁・北一輝とも革命の原点思想が違うために少しも賛同でできません。
 やがて宋教仁が暗殺されます。歴史上では、たとえば教科書などでは、この宋教仁を暗殺したのは北京にいた袁世凱になっています。だが独り北一輝だけは、この暗殺を孫文によるものと信じて疑いません。北一輝には、宋教仁の霊が夢に現われて、そのことを告げたといいます。私はこのことだけは、どうしても北一輝の言うことが信じられませんでした。ちょうど坂本龍馬を暗殺したのが、見廻組の佐々木某ではなく、薩摩藩だというようなものに思われました。北一輝は宋教仁とは大親友でしたから、北のもとへその霊が何度現われてきても当然なように思いますが、どうしてそこまで思い込んでしまうのかと私は思っていたものでした。
 やがてヴェルサイユ条約以降、日本の「對華21カ条要求」の撤廃の五四運動が激しく展開されます。その中国民衆の激烈な排日運動の中で、毎晩現われる宋教仁の霊と会話しながら、北一輝はあるものを書き上げます。それが「日本改造法案大綱」です。彼は、この中国を苦しめる日本の「魂からの革命」を考えたのです。
 私にはこの北一輝の頑ななまでの孫文憎悪が判りませんでした。ここだけは北一輝は勘違いしているよなと思っていました。ひどい日本帝国主義と、それに屈伏した袁世凱こそが敵であるべきではないのかという気持でした。
 だがいまこそ北一輝のいうところがはっきり判った気がします。日本帝国主義と一緒になって中国を分割しようとしたのは孫文自身だったのではありませんか。中国革命をこそ裏切っていたのは孫文自身ではないのですか。いくら何でも、袁世凱は中国の一部を租借させようなどということはしていません。孫文自身には満州は中国ではないという認識だったのでしょうか。いや私にはそう思えません。満州でなければ、また何でも出してきたのではないでしょうか。今回の「日中盟約」という資料がそれを示しています。日本がこうした孫文の出した申し出から、その後中国へ侵略していったのは、孫文にも多大な責任があると思います。
 坂本龍馬を暗殺したのは、事実としてはやはり薩摩藩ではなく幕府の見廻組だったのでしょう。でも宋教仁を暗殺したのは、北一輝の言うとおり孫文なのではないでしょうか。私にも今また、この孫文の「満州租借」と「日中盟約」という資料を眼の前にして北一輝の霊が降りてくるようです。(1995.05.30)

2016122713

10110605 私が詩吟を詠うのに一番好きなのがこの詩なのです。

    絶命詩     黒澤忠三郎(勝算)
  呼狂呼賊任他評 狂と呼び賊と呼ぶも他(ひと)の評に任す
  幾歳妖雲一旦晴 幾歳の妖雲一旦晴る
  正是桜花好時節 正に是桜花の好時節
  桜田門外血如桜 桜田門外血は桜の如し

  狂人と呼ぼうと、賊徒と呼ぼうと、それはいう人の評に任せよう
  井伊を倒した今は、妖雲も一時に晴れた思いである
  この時はまさしく 桜の咲く三月三日の好時節である
  桜田門外の雪の上に飛び散った血も また桜のようであった

 万延元年3月3日桜田門外で井伊大老を討った時の水戸天狗党のひとり、当日拳銃で襲撃の合図をしたとされる、黒沢忠三郎(1840〜1861)の辞世です。
 当日は今でいえば、4月の桜の季節なのですが、ときどきいまでもある台湾坊主(といわれる台湾周辺で発生する低気圧)の気候のおかげで、季節はずれの大雪でした。
 忠三郎は、神田浦三と名を変えて薩摩藩邸に潜伏し、水戸・薩摩の浪士たちと連絡をとりあい、この挙を計りました。
 彼の銃撃は合図だけでなく、最初に駕篭の中向けて撃った彼の銃撃が、井伊大老には致命傷となったということです。忠三郎は武芸に長けていましたので、大奮闘をしまして、刀が鋸のようになっていたと言われます。身に数創を負いましたが、老中脇坂淡路守邸に自訴しました。即日細川邸に幽閉され、さらに移動させられまして、文久元年7月26日斬られました。享年22歳でした。
 この詩は、その刑死される日の辞世です。最初「走筆作詩(ふでを走らせて詩を作る)」と題して、1句目を「呼狂呼賊任人評」と考ました。そのあと、推敲してこの句になりました。私は意味で、「他評(たひょう)にまかす」というところを、最初の句の読み方の「ひとの評にまかす」と詠っております。

 この詩は昔埼玉大学むつめ祭(埼大の学園祭)の統一テーマになったことがあります。1971年のむつめ祭のときです。もちろん私が提案して採用されたテーマでした。あのとき以来この詩がやたらに埼玉大学関係のイベントで詠われるようになりました。ついでにいいますと、70年安保闘争のときにも、私は集会でヘルメット姿でこの詩を詠いました。

 また同じく忠三郎が刑死の日に作った辞世の短歌です。

  君がため身を尽くしつヽ益荒雄の
    名をあげとおす時こそ待て

 忠三郎の思いは、いつも私に伝わってきます。私はいつもどこでも詠ってきた私が一番好きな詩です。(2003.05.20)

 思えば、71年のむつめ祭のときに、このテーマが選ばれたのは、私が実行委員会でこの詩を吟じたからです。私は学生運動の場では、よく詩吟をやりましたが、むつめ祭の実行委員会で詩われたのは、みな驚いたものでしょうね。いえいえ、学生運動(三派全学連、そのあとは全共闘運動)で吟われるのも驚くべきことだったかなあ。いえ、私がいるわけですから、別に当然のことなのです。
 この「黒澤忠三郎『絶名詩』」を私に詠うように、命じてくれたのは、その前年70年の秋に、私の詩吟の宗家荒國誠先生でした。私はいつも荒先生の声もお顔も思い出しています。
 それから、この71年のむつめ祭の統一テーマは

   呼狂呼賊任他評
    −我がなすことは我のみぞ知る−

 でした。サブテーマの「我がなすことは我のみぞ知る」は、坂本龍馬の「世の中の人はなんともいわばいえ 我がなすことは我のみぞ知る」の歌からとったものでした。

10071007 私はいつも孫が可愛くて、でもそれで長女のポニョのほうは少し悪口を言ったりします。可愛いけれど、実にきかない子でしいじに反抗するのです。でも先程、妻に「あたなのお母さんは、ブルータスのことそんな風に言ったことは一度もない」と言われました。もう私は反省します。そしてまた普通にもっと可愛がります。
 今朝は蜘蛛業で、「歴史さとう」で「坂本龍馬の愛した女、平井加尾」を書きました。もう私は龍馬がそんな昔の人には思えないのですね。いつも手紙を書き、そして手紙にはいつも絵を描いています。私も手紙を書きますが、絵は駄目なのですね。
 この写真も昨日と同じく、7月10日の昼12時12分に撮りました。近所にあったお花なのです。(07/14)

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 坂本龍馬を殺したのは(殺人の指示をしたのは)、私は後藤象二郎だと思います。しかし、龍馬があのまま生きてくれれば良かったのにと私は一番思いますよ。

2010/06/13 08:24今朝は起きるのが少し遅くなりました。でもとにかく、蜘蛛業への「ニュースさとう」と「読書さとう」はもうメールしました。
 きのう私の好きな女性の富田京子さんに手紙を書きながら(昨日彼女の家のポストへ入れました)、「坂本龍馬を殺したのは誰か」ということを考えていました。それでその真相にたどりつけた気がします。
 坂本龍馬を暗殺したのは見廻組になっています。それは実際に手を下した犯人が自白しています。でも問題は、龍馬のいた近江屋を教えたのは誰かということです。それは土佐の後藤象二郎です。
2010/06/13 15:27今さらにある女性に手紙を書きました。こうしてケータイメールでもメールでも手紙でも書くのはいいですね。話ことばと書きことばって大事なことです。私はスカイプを知ってから、でも実際には自分がさほど使わないことを少し不思儀な思いでした。それに比べて実に中国人からは実にスカイプでの呼びかけが多くて、私はもうスカイプ名を替えたものでした。
 話しことばと書きことばでは、私たち日本人は書きことばが好きなのです。だから日本人にはスカイプは向いていないのです。私はスカイプケータイを2種類も手に入れたものでしたが、どちらも私には向いていなかったのです。その意味で、ケータイならどれでもいいです。ケータイメールが実にいいのですね。
 でもこのことは多くの人たちに言いたいことです。このことはまた指示表出、自己表出にもつながったことなのです。このことはちゃんと整理して書いていくべきだな。
 だから2次元だけで考えちゃいけないのだと思うのですね。でも3次元で考えても、それを表出するのは二次元でしかできないよな。

 指示表出と自己表出のことを考えています。でもどうしても二次元でしか考えられない私たちなのです。でも今後の大事な課題ですね。

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  これでは私のインターネット上のブログには一日前の記録をUPするわけで、なんとなく変な思いになってしまいます。もう一日前というのは、古い過去なのですね。

2010/05/20 06:54今「ニュースさとう」をメールしました。けっこうニュースを探すのに時間がかかっています。それと次は「読書さとう」なのですが、いつも「歴史さという」とどちらかなのに、それが分からなくなっています。いやしばらくは、歴史のほうだと思っていて、今書いている「愛する女」のシリーズなので、では『坂本龍馬の愛した女、お龍』を考えていました。でも今部屋のパソコンで確認しました。そうすると「壺井栄『二十四の瞳』」を書きます。中学2年の5月に読んだのでしたね。
2010/05/20 07:58「ゲゲゲの女房」が始まります。大好きなドラマです。いいなあ。今回の企てが成功すればいいなあ。いや絶対にうまくいきます。
2010/05/20 09:36思えば私の考えることもうまくいけばいいなあ。なかなか大変なことですからね。
 でも思うこと、考えることはいいことです。だって大変なことだものなあ。

 ここに載せた画像は5月21日に午前10時52分(すなわち、さきほど)に撮りましたここの玄関からの写真です。

ab40fe2d.jpg 昨日18日何故か眠くなり、坂本龍馬の番組の前に起こされました。龍馬は千葉さなさんと再会します。彼女はずっと龍馬の妻であると言い続けたようです(結婚はしません)。おりょうさんも正式な妻であったと言い続けたようです。ただ彼女は二人の間で交わされた手紙をすべて燃やしています。これはすごく残念です。龍馬の手紙にはみな絵が入っているのです。私もパソコンでよく手紙を書きまして、そこには曹丕の漢詩を解説なんかしていますが、絵はないですね。なんとなく私は恥ずかしいです。
 写真は4月11日午前9時27分に長女の家ですぐそばで撮りました。こんな写真もいつか孫も見てくれるかなあ。(04/19)

1f8a1793.JPG 3月3日の桜田門外の変の日です。私がそちらに行きまして、詠いましたのが、この日決起したときの黒澤忠三郎の辞世です。「絶命詩」です。3月3日桜の節句に、結句で「桜田門外血如桜」と詩たいました。起句は「呼狂呼賊任他評」としました。1971年の埼玉大学の学園祭のテーマです。ちなみにこのときのサブテーマは「我がなすことは我のみぞ知る」です。これは坂本龍馬の短歌の下の句です。 上の句は「世の中の人はなんとも言わばいえ」です。龍馬らしい歌ですね。
 写真は、一昨日に長女の家で撮りました。ポニョがこの色鉛筆入れを持っていました。その裏に描いてあるものです。これはブルータスが描いたのか、そもそものみーねえが描いたものかは判りません。もともとみーねえがこのハンドル名をつけたのです。(03/03)

63e3b830.jpg 初めて絵文字使いました に書きましたように、私は一切絵文字というものを使ったことがありませんでした。でも昨日テレビを見ていて、坂本龍馬が現存する手紙139通の手紙に絵やカットを使っていることを知りました。彼のいくつかの漢詩は私も知っていますし、過去私のインターネットのホームページでも、このブログでも紹介しています。
 でも彼がこうして手紙でやっていたというのは私は知らなかったことです。私は一昨年(2008年)に608通の手紙を書いています。昨年はまだ何通か今は分かりません。100通を超えたくらいじゃないかなあ。
 でもそれはみな和紙に書いています。でも今後カットも考えよう。手紙の内容が漢詩の解説を書いていて、それでカットが入っているのはいいなあ。でもプリントできるのかなあ。
 でもケータイメールで絵文字が使えるのはいいのですが、そしてそれは私のau以外のも同じく通じるというのはいいのですが、ケータイブログでUPしても、やっぱりそれほど迫力はないですね。いっぱい使ったつもりなのですが、画面では、それほどの迫力はありません。まあ仕方ないかな。
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 昨日テレビで坂本龍馬が139通の手紙を出していて、それが龍馬がいわばもてたことなのだ、ということをやっていました。そしてその手紙には絵やカットが使われていたといいます。
 それをテレビの番組では、その実験をしていまして、イケメンの男性とそうでもない男性が女性を誘うのに、イケメンでないほうが、ケータイメールで絵文字を使ったほうが成功率が格段に高かったのでした。?龍馬もイケメンではありませんでした。龍馬偉大なりという思いです。
 いえ私も龍馬の漢詩は私も学生の時から?詠っています。
そうですね漢詩じゃないけれど、「世の中の人は何とも言わばいえ、『我がなすことはわれのみぞ知る』」という短歌の下の句は1971年の埼大のむつめ祭のテーマで私はサブテーマとして提案したものです。その前のメインテーマは「呼狂呼賊任他評」(きょうとよびぞくとよぶもひとのひょうにまかす)という黒澤忠三郎の詩でした。
それで私も今後絵文字を使うようにします。
 でも問題は、このブログでもどうあかなあ、と思ったものです。でもケータイメールからなら大丈夫のようです。ですからこうしてケータイメールからUPしてみたものです。
それと、このことは「コラムさとう」にもUPしました。

JIN(仁) 第15巻 (ジャンプコミックスデラックス)
JIN(仁) 第15巻 (ジャンプコミックスデラックス)
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 この巻でナポレオン三世が活字だけはでてきます。この南方仁がこの皇帝から招待もされます。できできたら、普仏戦争の中でナポレオン三世に会い、またビスマルクと会う仁も見せてほしいです。

書 名 JIN−仁−第15巻
著 者 村上もとか
発行所 集英社
定 価 530円
発行日 2009年7月8日第1刷発行
読了日 2009年11月5日

 この単行本の裏面にある解説です。

 将軍家茂の死去。幕府への不信感から庶民の不満は高まり、江戸から華やかな賑わいが消えていく。そんな時、横浜を訪れた仁は野風と再会し、彼女の結婚式に招かれる。だが、喜びの最中、横浜を飲み込む大火が起こり・・・!? 野風の旅立ち−−燼の章、感涙の完結話収録!!

 扉にある著者の書いていることです。

 今年(2009年)丁度開港150年を迎えた横浜。筆者も40年程前に通学で通った町であり、懐かしい思い出のある港町です。今回「仁」で描くにあたり、その歴史を調べてみると、昔歩いた通りや公園に様々な歴史が刻まれていることに気づかされました。150年前どころか40年前に比べてみても、いわゆる欧米人の姿をこの町で見かけることはなくなりましたが、日本全体が世界に開かれている現代では当然のことでしょう。けれど江戸時代の最後に多くの庶民が人生を賭してこの港から世界へ旅立っていった事実に、改めて何か新しいものに挑戦してゆく勇気をもらった気がしました。

 野風がフランス人と結婚して、この物語からは去ります。だから彼女にパリで会うシーンもいれて欲しいのですね。
 陣幕が出てきますが、彼がこうした作品で出てくる話は私は初めてですね。ただ、なんとなくこの漫画の陣幕はとてもいい顔をしています。なんとなく彼はもう少し獰猛な顔をしているように私には思えています。でもこれでいいかなんていう気持になりました。

 松本良順が「長州征伐以来世間はタガがはずれた桶のよう」と言っていますように、この長州との戦いに敗れた幕府は、もうどうしようもない状態になります。おそらく市井に生きている庶民にもそれは感じられたのではないかなあ。

JIN―仁 (第6巻) (ジャンプ・コミックスデラックス)
JIN―仁 (第6巻) (ジャンプ・コミックスデラックス)
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 3日に5巻までを読んで、さらにそのあと6、7、8巻を引き続き読みました。でもそのあとの9、10巻がないことにとても焦ったものです。

書 名 JIN−仁−第6巻
著 者 村上もとか
発行所 集英社
定 価 530円
発行日 2006年12月9日第1刷発行
読了日 2009年11月4日

 この単行本の裏面にある解説です。

 南方仁が百数十年の時を超え、幕末の時代に迷い込んで2年。時は少しずつ未来に近づいていく・・・。京都では池田屋事件が起こり、歴史はついに激動の時代に突入する。そして、瀕死の佐久間象山の治療のため、仁も血風渦巻く動乱の京都へ! 激動の京都篇開幕・・・!!

 扉にある著者の書いていることです。

 さて、この巻ではいよいよ尊攘派と佐幕派が鎬を削る幕末の京都が舞台となります。それにしても長州藩が天皇奪還をねらって起きた禁門の変で炎上した洛中の地域は、南北だけでも御所から現在の京都駅前にある西本願寺の際までという広大さ。改めてこの動乱の時代に失われた前途有能な人命と貴重な文化財の多さに深くため息をついてしまいました。しかし狭い路地の入り組んだ京都は何度でも再生を繰り返す滅びることのない迷路都市です。この先も折りにふれ物語の主要な舞台となり、登場人物の運命に魅力的な陰影を与えてくれることでしょう。

 幕末の実際の人物が出てきます。南方仁は佐久間象山の身体を診ることになり、坂本龍馬と京都まで行くことになります。もう龍馬は、船で江戸と大阪を行き来しているのです。
 この佐久間象山が治療するのですが、その治療治療中に象山は、南方仁が生きていた西暦2000年の東京を夢にみたことを思い出します。それは象山が子どもの頃10歳のときのことでした。でも残念なことに象山はしれで亡くなります。
 最後に象山は、南方仁に語ります。

 わしが見た未来の世界のことは誰にも語らぬと決めていた・・いつか わしと同じ未来を見たものと出会うまでは・・
 交代だ・・わしに替わってお主が・・闘う番だよ
 この時代があの未来に・・近づく為に・・

 象山のことをいろいろと思い出していました。

JIN―仁 (第2巻) (ジャンプ・コミックスデラックス)
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 この号で、背景に生麦事件があります。あれは実に嫌な事件です。あれが薩英戦争になるわけです。だが、当時のインドや清の対応とは、この日本は違ったと思いますね。

書 名 JIN−仁−第2巻
著 者 村上もとか
発行所 集英社
定 価 530円
発行日 2002年4月9日第1刷発行
読了日 2009年11月3日

 この単行本の裏面にある解説です。

 謎の急患の手術を終えた後、逃走した患者と揉み合って幕末の江戸へタイムスリップした脳外科医・南方仁/ 現代の医術で江戸の人々を救う決意を固めた仁は負傷した外国人水兵を見事な手術で治療/ 続いて流行中の虎狼痢(コレラ)の伝染を阻止しようとするが・・・。

 扉にある著者の書いていることです。

 江戸時代は思っている程に遠い過去ではありません。何故って、その時代に人々を苦しめた病気、例えば結核や性病にしたって、ほんの50〜60年前まで人類を苦しめてきた難病だったのですから。人と病気との闘いに古いものも新しいも無いと改めて思いました。そして更にさまざまな制約の中で想像以上に新医学の吸収に貪欲であった江戸時代の医師たちに心からの敬意を抱かずにはいられないのです。

 この巻で、緒方洪庵が出てきます。「そんな馬鹿な。洪庵は大阪に居たのではないか」と思い調べてみましたが、この作品のとおり、この時期は江戸にいて、1863年に亡くなっています。
 この緒方洪庵の大阪船場に開いた適塾には、大鳥圭介、大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉もいるのですね。私は靖国神社の大村益次郎の像を思い浮かべていました。こうした人物と南方仁がいつか出会うこともあるのかなあ。
 それと坂本龍馬が出てきます。龍馬というのは、来年のNHKの大河ドラマでやるということですが、昔の『竜馬がゆく』とは違ってもっと違う人物だったように私には思えます。思えば、この漫画で描かれている龍馬が私には、もっと本当に近い人物に思えます。

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 坂本龍馬という幕末の志士には、「人は何とも言わば言え 我がなすことは我のみぞ知る」という短歌があり、私が1971年の埼玉大学のむつめ祭の統一テーマの「呼狂呼賊任他評」のサブテーマにしたことがあり、そのころから、彼の作った詩歌には親しんできたものでした。
 その龍馬の「愛酒詩(酒を愛するの詩)」という漢詩があります。

    愛酒詩  坂本龍馬
  酒者可呑酒可飮 酒は呑む可し 酒は飲む可し、
  人生只有酒開膽 人生只だ 酒有りて胆(きも)を開く。
  醉中快樂人無知 酔中の快楽 人知る無し、
  大地爲蓐天爲衣 大地を褥(註1)と為して 天を衣と為す。
  英雄生涯眞乎夢 英雄の生涯 真か夢か、
  厭迄呑酒醉美姫 厭く迄酒を呑みて 美姫に酔はん。

  (註1)蓐(しとね) 敷き布団

  酒というものは、呑むべし飲むべし、
  人生で心を開くのは、ただ酒があるばかりだ。
  酔いの中での快楽を他の人は分かろうとしない、
  大地を褥とし、天を衣としていこう。
  英雄の生涯は、真か夢なのか、
  あくまで酒を呑んで、美女に酔いしれよう。

 土佐というところは、実に大変なほどお酒を飲むようです。この龍馬も実に酒を飲んでいたようです。「大地爲蓐天爲衣」という句を読むと、そんな龍馬の姿も心も見られるような思いになります。
 それにしても、龍馬は実に短い生涯でした。後年、土佐藩主だった山内容堂が東京新橋で、酔って「龍馬よ!!わしを許せ」と叫んでいたようですが、私は龍馬は好きですが、山内容堂は、少しも好きになれない思いばかりです。
 あのまま龍馬が生きていたら、もっと違う夢を私たちに見せてくれていた気がします。

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