将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:埼玉大学

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 私が沖縄を訪れたのは25歳の時でした。私は埼玉大学を出たあと、ある印刷屋に勤め、辞めて浦和で飲んでいたのですが、急遽東京駅から汽車にのり、名古屋・京都・大阪と飲み続けました(それぞれの街をけっこう歩きました)。鹿児島で知っている友人の店でも飲み(そこのお母さんが私の母を懐かしく思い出してくれました)、鹿児島港から船で沖縄へ向かいました。この船の中で読んでいた『トゥキュディテス「歴史」』は実によく覚えています。
 それで那覇に着いて、泡盛の二日酔いの中で気がついたのは、もうヘルメットをかぶって塔に登っているときでした。15082902
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 あそこの飯場では、ただただ泡盛を飲み(昼はオリオンビールでしたが)、米軍用飲み屋で(辺野古社交街というところでした)のみ、そしてけっこう手紙を書いていました。 当時の彼女が来てくれて、竹富島、石垣島も行きました。竹富島の新田荘もよく思い出します。15082907
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 私は沖縄が大好きです。ただ私は奄美含めた南島が好きなのです。私はこうして南島が好きでいるのは、もちろん島尾敏雄、そして柳田国男、そして吉本(吉本隆明)さんのおかげです。

12041002 私が埼玉大学に入学したのは、1967年(昭和42)で、大学を出たのが1973年(昭和48)でした。私はここで激しく学生運動に邁進していたわけですが、そこで親しくなった友人たちもまた学生活動家ばかりでしたが、みな過激派でもありましたが、同時に一緒にアルバイトをして、親しく飲み開ける友人たちでもありました。
 また、大学6年のときに知り合った「日の丸土建」の仲間も、同じく左翼過激派の仲間であったわけですが、

   日の丸土建

これまた、私たちと同様、よく飲みあう友人であったわけです。
 そのよく飲む酒に、一番合う肴といいますと、それは皆で唄う歌でありました。そのいつも唄う歌で、私たち独特の歌がたくさんありました。それをここにまとめようと思っています。
 まだ3つしかあげていませんが、もっともっとあるのです。とくに、日の丸土建は実によく唄いました(よく踊ったし、花見のときなんか、周りに見学者の列ができました)。これは私たちの記憶の中にあるのですが、早くここに記録しておきたいと思います。
 面白い歌ばかり、たくさんありますよ。(2005.02.28)

11080106   Saturday, October 18, 2003 10:41 AM
初めまして。苫米地 聰(とまべち さとし)という者です。たまたま貴兄の吉本隆明がいっぱいのホームページを拝見しました。

 高校1年のときに、出版された「情況」(河出書房新社)を読んで以来、吉本隆明氏の著作を読み続けて来ました。また、「試行」も終刊になるまで20年くらい購読していました。もっとも隅から隅まで読んでいた訳ではなく、「情況への発言」滝村氏の国家論、宮城賢さんのエッセイなどを読んでいただけですが。しかし、ここ10年くらいは数学の専門書ばかり読んでいたので、吉本氏の本を買ってはいても未読のものが多いです。

 貴兄のホームページを見て、またぼちぼち未読のものや、引越のとき以来開いていない段ボールから引っ張りだして、以前の著作も読み返してみようかなという気になりました。
 また、数学の勉強に疲れたら盛りだくさんボリュームのある貴兄のページをウィスキーを呑みながら読ませていただきます。

ちょっと刺激されたことに感謝しつつ 苫米地 聰

   Saturday, October 18, 2003 2:07 PM
 はじめまして。メールをありがとうございます。

高校1年のときに、出版された「情況」(河出書房新社)を読んで以来、

 あの本は1970年11月出版で、私は大学4年生でした。そうすると私とは6年の差になるのかな。私は埼玉大学に6年在学しましたが、その後も関わり続け(もう学生運動では関われませんでした)、埼玉大学の学園祭をやる後輩たちとつき合い続けました。とくに私の6、7、8年下の世代とは深くつき合ったものでした。
 思えば、埼大の学園祭の後輩たちとは今でもつき合っています。今年の大学1年生なんか私より37歳も年下なんですね。

 吉本さんの本は、もう一貫して読み続けてきました。ただ、私が理解できているのかは、はなはだ自信がありません。もっと吉本さんについて詳しい方が大勢いるはずなんですが、このインターネットの世界では露出されていませんね。なんだか、この世界では、いつのまにか、私が先頭を走っている感じになってしまいました。これはどういうことなんでしょうか。
 数学をおやりなのですね。数学関係のフリーソフトでお名前を拝見しました。私の友人にも、数学に実に執拗にこだわっている人がいます。彼はもう圧倒的昔からパソコンにもこだわっていました。ただし彼はパソコンとはいわず、「計算機」といいますが。この彼と会うと、さまざまな話をして、とくにパソコンについては幾らでも話せるのですが、数学の話は、私はまったく判らないのです。
 私の学生運動の大先輩である小野田襄二さんも、つい近ごろ

  「あなたも解けるフェルマーの定理完全証明」

という数学の本を出しまして、それがまた私にはちっとも判らないのです。ただなんとなく不安でしてね、不安というのは、その内容が、はたして、あちこちの数学者を少しは納得させられるのか否かがはなはだ不安でししてね、いや私にはちっとも責任はないのですが、いちおう敬愛する先輩なもので、そして私と同じアル中なもので、なんだか不安です。

また、数学の勉強に疲れたら盛りだくさんボリュームのある貴兄のページをウィスキーを呑みながら読ませていただきます。

 少しは私も何かを人にも与えられているかな、と嬉しくなります。
 メールありがとうございました。萩原周二
(第168号 2003.11.03)

11020908 私の周の掲示板に、江田明夫さんからの長文の書込がありました。何回かに分けて、ここでレスしていきます。

お久しぶりです。江田です。 投稿者:江田明夫  投稿日:2011年 2月 9日(水)04時38分59秒
   萩原さん、こんばんは。唐突ですが、私はかつて埼玉大学でしばし同じ時間を過ごしたことのある江田明夫です。覚えていますか?
当時教育学部の学生で、1年後輩で、69年の10.21で「ドジ」を踏んで、私も10ヶ月ほど中野で別荘暮らしをしました。と言ったらわかりますよね。
1年浪人をしたので萩原さんより1年後輩だったと思いますが、私は24年の2月17日生まれだから、たぶんほぼ同い年のようです。あなた達の歴史研究会(だったよね?)の部屋にも何度か行ったことがあります。そうだ、歴闘委とか言っていましたよね。当時は理闘委とか育闘委とか呼んでやっていましたね。

 これを見て、すぐにあなたの顔を思い浮かべました。ちょうど2月7日に私は北本通りの通路を渡るときに、29歳のときに、あなたと出会ったことを思い出していました。思えば、もう30数年前のことですね。
 そうしたら、こうしてあなたの書込があり、あなたのここにあったアドレスにメールしたら、すぐに返信をもらいました。そしてスカイプで直接お話できたのでしたね。
 でも私は11時すぎに行かねばならないところがありまして、お話も途中になってしまいました。でもあなたもスカイプをやっていて良かった。私はスカイプはひさしぶりのことで、「あれ、どこにあるのかな(前のパソコンには確実に入っていたのでした)?」と焦りました。でも分かりまして無事にスカイプできました。
 いや、私はスカイプはもう10年くらいかな(とにかく最初から)やっているのですが、やれる人がいないよね、いや日本人には向いていないのですよ。もう中国人からのスカイプ(とくに若い女性が多い)が多くて、私はスカイプ名を替えまして、もう一切無視するようになりました。
 いや中国の人は、例えば、李白の『長安一片月~』(『子夜呉歌』です)なんて書きだしても、知らないのですよね。日本の詩人じゃなく、中国の李白だよ。でももっと昔、スカイプではなく、マイクロソフトのnetmeetingをやっても、中国の人も台湾の人も知らなかったなあ。
 あの頃は、タイの人やロシアの人ともやりましたが、いつも私のことを歳を聞いて、「そんなおじいさんが…」と驚かれたものでした。アメリカの若者は危険で、避けたものでした。彼らはすぐにスボンパンツを脱ぎだして、チンチンを見せちゃうのです。その頃松戸自主夜間中学でパソコンの授業を持っていた私には、危険きわまりりないことでした。夜間中学だから若い女の子もいるんだよね。
 今はスカイプの世界はメジャーになったから、少しは大丈夫ですね。

10122707 先日9日の夜の私の2年下の埼玉大学の後輩からメールが入りました。文面は、彼の同級生だった土屋立行君が突然亡くなり、11日(金)に「偲ぶ会」が催されるという連絡でした。
 私は1967年の入学ですが、土屋君は1969年の入学です。ただし、彼は2浪でしたから、年は私と同じです。ちょうど彼が入学したときの4月には埼大でバリケード闘争が開始されていました。これが埼大闘争でした。なんでも彼の入学した教養学部の入学式では、突如黒ヘルで棺桶を担いだ集団が入ってきて、壇上に上がり、私の友人である山本元君が、巻き紙を出して読み上げました。「本日埼玉大学は死んだ」と始まったようです。そのあと、すぐ金久保さんという私より1年上の活動家が、激しいアジテーションを開始したといいます。
 土屋君たちの学年は、大学入った早々から、こうしたことを受けてきました。いや、実はこの学年は、1969年の1月に東大闘争のおかげで、東大の入試が中止になり、その余波で、あらゆる大学の入試の基準が狂ってきて、どうしてか埼大に流れてくることになった人が多かったようです。そして私こそは、その東大の入試を粉砕してしまった張本人の一人で、その頃は府中刑務所に収監されていました。そして、この土屋君たちの学年は、多くが激しい活動家群になっていきました。
 それとサークル活動としては、この土屋君をはじめ、多くの人たちが私の属する「歴史研究会」に入ってきました。私は5月はじめには、この新しい学年の後輩たちと府中刑務所の接見室で、「はじめまして」と面会を受けたものでした。でも私は独房の中ですから、埼大のことは皆目判りませんでした。なんでも6月12日に羽仁五郎講演会があり、それを妨害しようという日本共産党民青と、私たちの部隊が埼大図書館前で激しく激突したというニュースを読売新聞(府中刑務所は読売新聞しか入らなかった)で読みましたが、私はその図書館前というのが、埼大文理学部(北浦和駅前)の校舎の図書館しか思い浮かばず、どうやってあそこでゲバルトになったのかななんて想像していたものでした(事実は、現在の図書館である、当時は大久保校舎と言われた新しい校舎にある図書館前での激突だったようです)。
 そして私は夏を越して、69年の8月21日に保釈になり、府中刑務所から出てきました。すぐに埼大へ行きましたが、夏休み中であり、しかも上の6・12事件で、何人もの友人が逮捕起訴され、さらに多くが指名手配されており、埼大はがらんとした風景でした。
 その風景の中で、私は2年下の土屋君たちと出会いました。「ずいぶん若い活動家がいるんだな」という思いでした。
 そんな中で「これから、どうしていこうか」なんてことを友人活動家と話している中で、私は偶然というか必然といいますか9月18日の芝浦工大事件に関係してしまいました。これは学生運動の「内ゲバ殺人事件」といわれる最初の事件です(事実は殺人でも何でもなく、事故だったのですが、このことは、また明らかにしていきます)。もう運動をやり続けるのは難しくなりまして、当初は逃げていたのですが、逮捕されるまではまだ時間がかかりそうだということで、それじゃ少し働こうかなんて気持になりました。
 それでちょうど私の弟の紹介で、上野の日本食堂の駅弁作りのアルバイトに行きましたところ、この土屋君に会ったものでした。土屋君は、ここでずっと働いているベテランでした。それで、そのうちに、ここは埼玉大学の上から下の年代までの活動家ばかりが大勢働くようになりました。他大学の人もいましたが、これまた新左翼の活動家ばかりでしたね。
 それでやがて、その年の12月10日に逮捕されまして、12月末までに、埼大からは実に20数人が逮捕されてしまいました。翌年1月10日までに25人が逮捕され、23人が起訴されました。
 そんな中で、それに関係しなかった活動家といいますと土屋君たちの年代がほとんどだったのですが、埼大闘争を継続していきました。だが、なにしろ芝浦工大事件のあとであり、かつ69年の11月佐藤訪米阻止闘争敗北のあとです。みな闘っていったわけですが、ほぼ惨めな敗北に終わりました。このときの敗北の挫折感から、また多くの活動家群は、また70年闘争を組織して行ったのですが、土屋君は、このときの挫折が大きく残ったようです。
 彼は一見、豪放磊落な感じの男であり、いつも私たちの周辺にいました。なにかあると一緒に飲んだものでした。だが彼は具体的には、運動に加わることはなく、上の日本食堂のアルバイトから、大宮競輪場で働くようになりました。競輪場で、真面目に制服を来て働いている彼を見に行ったものでした。
 彼はその後約30年間、この競輪場で働いていました。いつもうわさは聞いていましたが、元気だということしか聞いていませんでした。だが実は、彼には上の挫折感が大きかったらしいのです。それを今回聞きました。彼はこの正月に長野県の温泉に行きまして、そこで自殺しました。もう突然のことで、私はただただ驚くばかりです。
「偲ぶ会」のあと、埼大の仲間たちとずっと飲みました。土屋君と同級の元活動家が7人と、私の1年下の元活動家と私の9人でした。
 やはり、もっと会っておけばよかったと悔やまれてなりません。みな同じ思いのようでした。もし、会ってさえいれば、きっとこんな悲しいことは起きないこともあったのにと悔やまれてなりません。

 私たちの埼玉大学の活動家群はセクトを問わず(民青と革マルは別だけれど)、みな仲が良かったものでした。これは年齢を問わず、そして父母とさらに教職員も含めて今も仲がいいのです。だから、もっと多数の仲間が集まれたはずなんですが、今回は自殺ということだったものですから、連絡をどうしたらいいのか躊躇してしまったのです。自殺の原因がよくつかめないのです。「偲ぶ会」とは言っても、まさしくお通夜だったわけですが、お通夜というわけにもいかなかったのです。
 彼の挫折感があれほど深いと思っていませんでしたし、私には、いつも酒飲んで大声で笑っている彼しか思い浮かびません。私の昔の彼女がいると私と彼女を大声でからかったりして、元気で快活に思えたものなんですが。思えば私は年は同じと言っても、上の年代に思えたのでしょうね。私なんかは、いい時代ばかりをやってきた気がします。私の他に来ていた2年下の活動家7名もそれぞれ、みな大変な思いを抱いてきたはずです。私たちの時代は華やかであり、数多くの活動家がいましたが、彼らは、70年が終わり71、72、73年とやっていきまして、埼大での闘争も、街頭闘争も、その他さまざまな闘争も、実に寂しい思いの闘いだったかと思います。もうその時代は、私は救待で、各留置場や拘置所めぐりや、彼等の恋人や親と連絡を取り合うだけでした。
 もう、これからは、もっと頻繁に会うようにしようと思いました。「浦和会」というのは、その為にもあるのですが、もっと活発にしないといけませんね。

  土屋君、君とどうしてもっと連絡をとって一緒に飲む機会を作ら
 なかったのだろうと悔やまれてなりません。君と会って、いかにも
 「酔っぱらい」然とした君の笑顔と大声のもとで、一緒に飲みたかっ
 たものです。私の思い出の中にある、君の笑顔に献杯します。さよ
 うなら。                 (2002.01.14)

10112809 私がある友人から、癌についての本を紹介されたときに、書いた文があります。

「93-10-26 00:45:26 がんのはなしの本 和」

 私の友人でも癌でなくなった人がいます。もうすぐ10回忌になるかと思いました。私と同級生の女性で、増見和江さんといいました。
 彼女の彼の増見さんは、埼玉大学の私の1年上の人で、二人とも活動家でした。彼女のお父さんが埼玉県警につとめていて、二人はそれと戦う側でした。夫である増見さんは最高裁までいった大きな裁判を長くやっていました。二人ともとても明るくて元気でした。よく私たちは仲よくつきあっていました。
 彼らは彼19歳、彼女18歳のときから同棲していました。それがやがて二人とも社会に出て、お互いに忙しく生きるようになると、子どもがいないこともあったのですが、なんだか擦れ違いがでてきました。二人からその悩みをきいたことがあります。
 ところが、彼女がこの癌で長期に入院せざるを得なくなったときに、彼は一緒に病院に入りました。一緒に毎日24時間いるようになって(彼は会社を経営していましたが、その期間はそのほかの取締役や社員が頑張って支えてくれました)、また夫婦の関係が戻ってきたといっていました。あれほど酒好きだった彼も、いっさい絶って彼女のすべての面倒をみたのです。彼女も自分の母親よりも、彼にすべてを任せていました。
 ああ、これが夫婦なんだよな、これがほんとうの家族の看護なんだよな、といつも感心したものです。彼には彼女の病がもうどうにもならないことを知っていましたが、もうとにかくひたすらそのことは彼女に隠し続けました。
 こうして入院するようになる前にまだ彼女が元気だったころ、銀座でたくさんの友人集めた大きなイベントをやりました。芸能人もよび、かつ彼は歌手になりたかったこともあり、元気でたのしく愉快な大イベントでした。私がすべて仕切ました。彼女のピアノで、彼が愉しく歌ってくれたのが一番思いだされます。あとで知ったのですが、もうこの時に彼は彼女の死を予想していて、こうしたお祭りさわぎが好きだった彼女のために、これを企画したのです。
 彼女は死の少し前の瞬間にはじめて自分の死を予想したようです。最後に涙を流したといっていました。たぶんだけど、その時の涙は、悲しいこともあったでしょうが、彼への夫婦としての感謝の気持でもあったと思います。
 彼女が亡くなったとき、私たちはお祭り好きだっ彼女のために、元気で大動員した葬式を組織しました。その後の納骨や3回忌等々でもいつも大勢の友人が集まります。当然私の詩吟もあります。これからもきっといつまでも。
  そんなことを思い出しました。(1993.10.31)

10110615  私のいた埼玉大学の1971年秋の大学祭「むつめ祭」のテーマが以下でした。

  呼狂呼賊任他評
    −我がなすことは我のみぞ知る−

 私が提案したのです。上は桜田門外の変のときの黒澤忠三郎の七言絶句の起句で、下は坂本龍馬の「世の中の人は何ともいわばいえ我がなすことは我のみぞ知る」という短歌の一部でした。
 今年はどんなテーマなのかな。それ以前の年のテーマはみな吉本隆明さんの関係が多かったのでしたが、こうして私によってすっかり変わったものでした。
 きょうの「読書さとう」は、「フロイト『夢判断』」を書きました。夢は毎日見ています。私は「夢の中の日常」という書込を私のブログでもいくつも書いていくことにしました。
 写真は、11月06日の午後1時52分のこのご近所の光景です。(11/08)

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 埼玉大学の昔の活動家の諸君への連絡です。
 本日13:00より、北浦和駅前の『小道』のおばちゃんの葬儀が開かれます。おばちゃんは84歳でした。
 葬儀場は以下の通りです。

オーロラ・ホール(有限会社博愛社)
さいたま市中央区新中里2−2−9
0120−02−1879
(京浜東北線北浦和駅より、埼大通り沿い、大戸小学校、鈴谷小学校の間)

 もちろん、私も出席いたします。

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 郵便局はいつも混んでいます は、昨日の夕方の王子郵便局の本局のことです。でもここでは、郵便小為替が買えないのですね。並んでいて、私の番が来たときに、そう言われました。ということは、小為替は土日や時間外は購入できないのですね。
 いえ、我孫子市役所にあるものを出して、さらにあちらからも書類を送ってもらうのですが、返信用封筒に貼る80円切手はいいのですが、300円の小為替が必要なのですが、それは2月2日にならないと無理なのです。
 困り果てました。
 でもこうしたことを忘れないために、こうしてUPしておきます。

 このごろ、北社会保険事務所、北区役所、我孫子市役所、埼玉大学と電話連絡していて、そして文書の送付も実に素速いのですが、肝心の郵便小為替が土日時間外は手に入らないのでは、仕方ないですね。このことをよく覚えておいて、次回には失敗しないようにします。

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 周の漢詩入門「林逋『山園小梅』」宗由 さんから次のコメントをいただきました。

1. Posted by 宗由    2008年07月25日 08:40
はじめまして
 この度 文化祭の書を何にしましょうかと 禅語の本を調べていたのですが 見つからず 次の日にぱらっと そのページが出てきて一度に好きになってしまいました。
 それが林逋の(梅花無儘蔵)でした。
インターネットの林和靖 を検索してこちらで お勉強させて頂きました。
 有り難うございました。

 わざわざ、ご挨拶いただきありまとうございます。
 林逋という詩人は、どうしても私には、それほどの親しみを覚える方ではありません。ただ何度か彼の詩を読んできまして、なるほどなあ、こんな風に感じた、そして生きた詩人もいたのだなあ、という思いでした。
 宗由さんのサイトを拝見いたしますと、さいたま市にお住みのようですね。私は大学が埼玉大学で昭和42(1967)年入学です。そして6年大学にいたものでした。この当時の友人たちとはいまでも付き合いが続いております。
 浦和市のことを懐かしく思いだしておりました。

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 私の 絵画展「原田文の世界」を見てきました へ原田直示さんから次のコメントをいただきました。

1. Posted by 原田直示    2008年02月09日 23:45
「周さん」飾らない生き方、素直な話しぶり、二人の娘さんとの交流かとおもいきや、いまだに衰えぬ社会へ向けての情熱。同い年で、近代美術館が建っている場所に埼玉大学があり二人とも青春を過ごした!周さんがシャイな一面があるのに驚きました。弱者にはとことん理解を示す人なのでしょうか。圧倒的な内容を誇る情報発信者・周さんに出会い、たくさんの「若さ」を頂戴した気分で、ありがとうございました。

 ありがとうございます。そしてきょうは実にありがとうございました。原田文さんの作品を見て、もっとたくさんの方の目に触れてほしいなという思いです。私の二人の娘にも見てほしいなという思いですが、明日(いえ、もうきょう10日でした)は長女おはぎはまだ1歳の子どもがいるし、次女ブルータスは実に遠いところに住んでいるのです。
 次女は昨日が誕生日でした。そして学校では授業参観日だったようで、「ちゃんとできた」というケータイメールが妻に入ったようです。私には「たんじょうびおめでとう」というチョコレートで書きましたデコレーションケーキの写真が入ったケータイメールをくれました(あ、彼の顔も映っている)。
 私の二人の娘、そしてその彼の4人が教員です。これは私には実に嬉しいことですね。
 この一つ前のUPで、佐々木幹郎さんとの思い出を書いてみました。もう遠い遠い思い出ですが、もうどんどんと甦ってきます。大口昭彦さんとお会いしたのは、平安神宮だったかなあ、なんて思い出しました。そのあと近くのレストランで大勢で飲みましたが、大口さんは終始正座の姿勢をくずさず、ずっとビールを飲み続けていました。その姿勢に私は驚愕したものでした。
 原田直示さんの本の出版を愉しみにしています。出版日が決まりましたら、教えてください。

 それと「巨樹写真作品解説」を読みました。できましたら、原田直示さん、ご自分のブログを開設されませんか。この「巨樹」の写真をインターネット上で見てみたいし、これに書かれている文章だけでも、インターネット上に掲示されていれば、私たちには、とても嬉しいことです。
 それに原田文さんの絵画も、写真を撮られて、ブログで掲示されたらいいのになあ、と思いますよ。多くの方に目に触れることが、たくさんの方への大きな励ましにもなると思うのですね。ブログならHTMLに関係なく、言葉と写真だけでUPできますよ。昨日の絵画展を見たことは、私には実に嬉しいことでしたが、でもまったくこの情報を知らないかた、それにさいたま市北浦和からは遠い方もいるわけです。
 できたら、それがインターネット上に公開されていたら、とても嬉しいことだと私は確信するのです。

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 周の漢詩入門「曹丕『善哉行』」へのコメント へのコメントナミちゃんが次のコメントをくれました。もう曹丕の詩の話とはかけ離れているから、題名を替えました。

1. Posted by なみんと    2007年10月17日 10:05
周さん!おはようございま〜す。
周さんの記憶力の確かさ・・スゴイ!!
そうでした〜大学二年の時でした。一瞬迷ったのですが・・三年生の時はまた違ったむつめ祭でした。
ありがとうございま〜す。

 あ、よかった。これで私の記憶も間違いなかったんだ。だからナミちゃんは、私が5年の4月に入学してきたんですね。そうすると、実は私は東葛高校の同窓会の人たちとも飲んだことがあるのですが、あの人たちもきっとあなたのことは知っていますね。
 千駄木の「浅野」のご主人が東葛高校出身で、その関係で知り合って、その人たちの何人かがよく行く御茶ノ水の飲み屋に行って飲んだことがあるのよ。それと、「浅野」でもたまに会うことがあります。

 あなたが三年のときは、「いついつまでもおともだち」のテーマのときでしたね。あのときに、実は私は「みんなおともだち」なんていうテーマを考えていたのよ。むつめ祭の後輩たちが相談に来たら、それを言おうと思っていたものです。私は歌のほうの「いついつまでもおともだち」は全然知らなかったのね。だから、このメインテーマになったときに、私は大変に嬉しかったものです。
 このメインテーマを考えた箱崎氏とは、何度かつき合いがありました。彼が取締役を務める会社も何度かコンサルティングでつき合ったものです。ただ箱崎氏は今群馬の田舎に住んでいるね。なんだか、彼は都会ですごす生活は嫌なようです。

 むつめ祭は、ずっと若い若い世代ともつき合いがありました。いつも「暴力酒場ひだり」で飲んでいると、後輩の後輩が、むつめ祭では大先輩という感じになって、そんな光景を何年も見てきたものです。大学の事務官も、「今年大学に就職したのです」と言っていた人が、もうベテランになってきて、また後輩の事務官や若い先生を連れてきたりしたものです。
 でもね、むつめ祭はいつもメンバーが足りなくて、「ひだり」を建設もできなくなって、でも私は50歳を過ぎてからも、あの部屋にリヤカーで蒲団を運んで、それで鍋を作ったりしていたものです。
 それに、私はもう1993年くらいから、あの部屋にノートポソコンを持ち込んで、ずっとインターネット(最初はパソコン通信だけど、あの頃はPHSで繋いでいたんだなあ)をやっていました。
 でもむつめ祭では、実に遅れている感じで、インターネットなんて皆目判らない人ばかりでしたが、近年はさすがに変わりました。それで、でもさすがに私も57歳のときからは、むつめ祭には行っていません。もうじいさんになりました。
 そもそも私は今も、1967、8年にやったバス代値上阻止闘争のときから、北浦和−埼大間の学バス30円を認めていないから、いつも乗車拒否だから、あの大学は遠いのよ。

 今は朝から、けっこう文書打ちまして、朝10時に郵便局へ届けました。これはポストに入れるだけですが、そのあと窓口がけっこうまたされました。そしてそのあと、王子駅前のりそな銀行へ行きました。王子は今もいくつもの都市銀行があるので、振込するのには便利なのです。それから、他の用でも(ある会社の関係のことでもいろいろと)便利です。
 思えば、だからこのUPは今の時間になりましたが、11時頃にほとんど書いていました。でも今にならないとすべて書けませんでした。

 私はインターネットでのメールもよく打ちますが、文書も手紙もよく書いて、よく出していますよ。このあとはいくつも手紙を書きます。あ、それにナミちゃんが書いてくれたポコちゃんのこともブログに書きます。

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 周の漢詩入門「曹丕『善哉行』」へのコメントナミちゃんから次のコメントをもらいました。

1. Posted by なみんと    2007年10月16日 21:23
周さん☆今晩は。
Aさん!懐かしいお名前です。
大学三年生の時のむつめ祭の時、資金集めを議員さんに協力してもらおうというアイデア<周さんの考えですか>で・・私も手伝わせていただきました。確か・・川口に住んでいる<帰りがけですので>議員さんのお宅に伺ったという記憶ですが<内容はよく覚えていません>・・行った・・事に対してAさんにすご〜くねぎらっていただいた事を思い出します。私は全然苦ではなくかえって面白いと思っていましたから・・気を使っていただいて申し訳なく思いました。Aさんによろしくお伝えくださいね(^^)v

 ありがとう。Aも私と同じ59歳ですから、もうかなりな年齢になるね。でもまだまだ元気なんですが、まあ、私と同じく年寄りだよねえ。また近く、彼のところへ行くから、あなたのことを伝えておきますよ。
 それで驚いたのですが、あのむつめ祭は、私が大学6年のときです。そうすると、あなたは私が大学4年のときに入学ということになるけれど、あなたが入学したのは、私が5年のときじゃないかなあ? この年のむつめ祭がメインテーマが「呼狂呼賊任評−我がなすことは我のみぞ知る−」の時です。翌年が「狂わせたいの−花弁はうずく、女は騒ぐ、俺の墓はどこか−」でした。(思えば、この二年とも私が提出したテーマが選ばれたのでした)。だから、この時は、あなたは2年生じゃないかなあ。
 この「狂わせたいの」のときに、もう私も大学6年なので、若い人たちと同じことはできないから、議員さん等々から資金集めを考えたものでした。
 けっこう懸命に頑張りまして、けっこう集めたものでしたね。党派的には、自民党・公明党・社会党は協力してくれましたね。議員の中には、私たちが過激派だと判っている人もいたけれど、かまわず協力してくれた人もいます。
 このむつめ祭が終わって、私たちは3組のアベックで奧鬼怒川温泉に行ったものでした。あのときは愉しかったなあ。でももう遠い遠い思い出になりましたが。

 もう今は私も孫の笑顔のみを愉しみにしています。昨日人形町に行ったのですが、ちょうど人形の屋台がいつくも並んでいて、私が孫に買って帰りたかったのですが、もう忙しくてゆっくり見て選んでいる時間がないのです。でも、もう一度行って、何かポコちゃんが喜んでくれるものを手に入れます。
 まだポコちゃんは、立って歩けはしないのですが、ものすごい速度ではって行きます。この私の部屋なんか、いろいろなものがあるから、面白いらしく、すぐに入って、置いてあるディスプレイやキーボードをたたいたりしています。
 今の子どもというのは、ディスプレイもテレビもみんな液晶だから、昔のテレビなんかは知らないわけだよね。いや、そんなものってほかにもたくさんありますね。例えば、電話もアナログの手で回すダイヤル式なんか知らないから、そんなもの見ると驚くっていいますね。110番とか119番って、ダイヤルを回す時間が少しかかるから、そのときに落ち着くように考えられたそうです。でも、ピッポッパと押すだけだと、その意味がなくなりますね。そんなことを考えて不思儀な思いになります。
 もう私なんか、来年は60歳だから、もうますます判らない世界になっていくところですね。とにかくやり抜いていくつもりです。

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 私は9月28日に、さる8月10日急逝しました小阪修平さんの奥さまへ手紙を書きました。前日9月27日の「小阪修平を偲ぶ会」では、奥さまにもその他のご家族にも何の挨拶もできす、こうして手紙を書くことしかできなかったものでした。
 この手紙を、ここに掲げることにより、私の「周の追悼私記」での私からの小阪修平さんへの追悼としたいと考えます。
 小阪さん、ありがとう。

07092702小阪さんの奥さまの住所氏名

          2007年9月28日
       私のURL・メールアドレス・
       スカイプ名・現在の住所氏名電話

 前略
 昨日の「偲ぶ会」で、突然詩吟を詠ったものです。小阪さんの御自宅とは、年賀状を交わすだけでした(年賀状での自宅は、私は千葉県我孫子市です)。
 でも実は、私は長年御茶ノ水駿河台に事務所を構えていまして(現在は、義母の介護で、この王子にいます)、よく事務所の前の路を歩いている小阪さんとお会いしました。
 ときどきは、私の事務所に来てもらいまして、私のパソコンで私のホームページを見たりしてもらって、インターネットに関する話をしていたものでした。もちろん、吉本(吉本隆明)さんに関する話もしたものでしたね。

 私は生まれたのは、昭和23年で、大学は埼玉大学へ1967年に入学しました。それで、当然学生運動に邁進するわけですが、東大闘争で1969年1月19日に安田講堂で逮捕され、やがて起訴され、府中刑務所に収監されました。
 その年の8月21日に保釈となり、私は娑婆の世界に戻ってきまして、すぐに埼玉大学に戻りました。当時埼玉大学は、学園闘争の中での、埼玉県警の取り締まりで、多くの仲間が逮捕起訴され、また多くの仲間が逃亡していまして、大学のバリケードは、何故か高校生が多くたむろしている(埼大に多くの高校生活動家が集まっていました)という感じでした。
 私は大学での活動の中で、どうしても中核派には異和があり、かつその中核派から出たとかいう反戦連合(あとで小野田派とも言われたことがあるようです)も、まったく好きになれませんでした。もちろん、日共や革マルと対したとしたら、中核派とも反戦連合とかともスクラムを組むわけでしたが、そもそも私はマルクス主義なんか、大嫌いの人間でした。
 そのときに、何故か9月18日に起きたのが、不審な黒ヘル集団による、埼大バリケードへの襲撃事件でした。当初は、その黒ヘルが何故か早稲田の革マル派を装っていたところがあり、革マルなんて、誰も嫌いですから、「ふざけるな」という思いでしたが、ちょうど東大闘争の被告団会議をやっていた私は、破壊されたバリケードに入るなり、「ウッ、これは革マルなんかじゃない、えっこれは怖いなあ」と思ったものでした。
 だが、その中核派に、Tが拉致されていたことを知って、私たちは、なんとしても彼の身の奪還を考えました。
 そしてその結果が、翌日9月19日の芝浦工大事件になります。私たちは、Tを奪還に芝浦工大大宮校舎に朝早く行ったわけでしたが、そこで起きたのが、中核派であり埼大生であった滝沢紀昭さんの2階からの転落死でした。私は中核派は好きではありませんでしたが、滝沢さんは、私が府中から出て埼大バリケードに戻ったときも、挨拶してくれて、わりと好感を持っていた先輩でしたから、こんなことになったことに、非常な驚きと困惑の気持でした。
 だが、世間では、「右翼体育会のしわざ」なんていう論調から、次第に変わってゆき、最後は「新左翼内の内々ゲバ」とまで言われるようになりました。いわゆる新左翼全般も、このマスコミの論調とまったく同じでした。
 もう私たちは、世界が真っ黒なものにしか思えませんでした。そんなときに私たちの先輩である小野田襄治さんは、実に私たちのことを大事にしてくれました。この芝浦工大事件は、小野田襄治さんには、何の責任もありません。でも、彼は、この事件に関係してしまった私たちのことを、実に大事にしてくれました。私の父と母も、兄弟も、小野田さんのことは実に感謝しています。
 そして、このときに、この小野田襄治さんが、ある部屋を確保し、そこに電話を置いて、そこに私たちが毎日電話するようにしてくれました。その電話番の役目をしてくれていたのが、小阪修平さんです。いつも彼は丁寧に、その日及び前日くらいの埼玉県警の動きを電話で教えてくれたものです。
 ただただ、権力・マスコミ及び新左翼による「殺人」という脅しに、不安でたまらない私たちに、彼の電話での声はどんなにありがたかったことだったでしょうか。
 彼がどうして、この役割を引き受けてくれたのかは、私には判りません。でもこの世界の非情さに、打ちひしがれていた私たちには、実にありがたかったものです。

 やがて、私はその69年の12月10日に逮捕され、起訴されました。そして長期勾留を覚悟していたわけですが、何故か翌年3月(の何日だったか、まったく覚えていません)に保釈になりました。
 私はすぐにアルバイト生活に入り、かつまた大学に戻って、今度は多くの2年3年下の後輩たちと、70年闘争に入ったものでした。
 この70年のたしか12月くらいに小阪さんとはお会いしました。そのときには、1年以上前の電話に関するお礼を言ったものでした。

 その後は、とくにおつき合いはなかったのですが、今度はさまざまな彼の著作で彼のことを知るようになりました。
 とくに私は、吉本(吉本隆明)さんに次第にひかれていきまして、その面で彼のことが、実に気になる存在になったものでした。
 彼とは、もうずっと年賀状は交換する仲は続けてきたものでした。そんなときに年賀状の文面にちょっと書いてあることに、いつも嬉しく思ってきたものでした。

 今になってみれば、なんでもっと親しくおつき合いしなかったのか、親しく話さなかったのかということが悔やまれてなりません。
07092706 その悔やみの中で、この文を書きました。本日は朝から忙しく動き回っていたもので、夜になって、この手紙を書き出したものです。今は王子の妻の実家ですので、「小阪さんの住所が判るのかなあ」という思いなのですが、こうして、一気に書いてしまいました。

  それから、27日に私の詠った漢詩ですが、以下の通りです。

   弔亡友月照    西郷南洲
  相約投淵無後先 相約して渕に投ず後先無し
  豈圖波上再生縁 豈図らん波上再生の縁
  回頭十有餘年夢 頭を回せば十有余年の夢
  空隔幽明哭墓前 空しく幽明を隔てて墓前に哭す

 この詩については、以下にて私が解説をしております。

  http://shomon.net/kansi/kansi3.htm#saigou 西郷南洲「弔亡友月照」

 なお、この手紙がそちらのついたろうと思われる頃、この文面を私のブログでUPいたします。そのことをお許しください。
                             早々

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 私は現在ほぼ王子に住んでいます。自宅は我孫子なのですが、母が亡くなった今では、なかなか帰ることがありません。
 それで、今はもう私は大変に忙しいのです。とくに今週は17日から、外を急いで歩き、ここの家でも焦って仕事をしていました。
 それが本日の午前中に、私の長女が買い物に行ったときに、私の埼玉大学の後輩(たしか私の6学年下かなあ)であるご夫婦のお母さんの家で、「ご不幸があったのじゃないか?」という電話がありました。でも私はもう期限ある仕事の真っ最中で、しかもこの王子の家は、今が下水管取り替え工事の真っ最中です。もうゆっくりパソコンで仕事するのも大変なときでした。
 でも、もうそんなことを言っていられずに、必死にやって、私のクライアントへ急ぎ(でもそのクライアントの女性には、お土産を持っていきましたよ。このお土産に関しまして、私の長女と物議がありました。いえ、パンなのかケーキなのかという争いです)、そして帰ってきて、またその私の後輩(の奥さまの実家)へ香典を持って急ぎました。
 そこで始めて知りました。そのお母さまは、17日の午後5時頃亡くなられたそうです。実は、その1時間くらい前に、私は王子のサミットストアに行きまして(私の江古田のクライアントへ行って帰って、秋葉原で買い物して、すぐのことでした)、私の後輩の彼に、少しこの近所の飲み屋を案内してもらったところでした。

 それできょうはその家に入ると、もうご葬儀は終えられて、もうご家族の一部の方が残られているだけでした。私はいわばまったく知らなかったわけです。
 お線香をあげ、位牌とお写真を拝見しました。思えば、こんなご近所にいるのに、何の挨拶にも私は来ていなかったものでした。そのお母さまの写真のとなりには、今年6月に亡くなられましたお父さんの写真も置いてありました。
 私はお二人に語りかけていました。

 私は埼玉大学のお二人の娘さんとその彼の先輩になります。たしか、お二人には、彼等の結婚式のときにお会いしました。あのとき、披露宴で詩吟をやったのが私です。もう年月だけがたってしまいまして。でも、これからもお二人とはおつき合いさせてください。お願いします。やすらかにお休みください。ありがとうございました。

 こんなご近所にいながら、何の挨拶にも来ていなかったことを、お詫びし、そしてこれからもお二人とはおつき合いさせてくださいとお願いしました。

 合掌します。こうして、子どものお二人に私がおつき合いさせていただき、ありがとうございました。

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07022704 アトリエイグレック今日の出来事埼玉県立近代美術館 がありました。

 私の 周の家族・教育の話文教大学教育学部美術専修卒業制作展(2001.01.28) 以下、いくつかここで行われた長女おはぎの卒業制作展のことが書いてあります。
 もう私はここへ行けて嬉しかったのです。そして、おはぎの卒展の打ち上げも、ここのすぐ近くの「どさん娘」でやりました。綺麗な女の子たちばかりのおはぎの同級生たちは、実にいい子たちばかりでした。
 そして打ち上げをやりました北浦和「どさん娘」の店長も、この卒展を見にきてくれたそうです。高下駄を履いて、白い店服を着て差入れを持ってきた店長にみなびっくりしたようです。
 でも私は、この長女の卒展で、ここに始めて入ったものでした。この埼玉県立近代美術館のある地区は、私にはもうなんといいましても懐かしさで涙が溢れるばかりのところでした。

 ここは戦前には、旧制浦和高校のあったところです。チビ公とだい公が活躍する、佐藤紅緑「嗚呼玉杯に花うけて」が書かれた浦和高校です。
 ここに戦後、国立二期校の埼玉大学が置かれました。
 ただ私が入学する1967年の二年前に、同じ浦和市の大久保地区に移転する案があり、反対闘争が置きましたが、ここでもあいも変わらず日本共産党=民青の闘争破壊により、この移転闘争が敗北して(学生大会でわずかの差で、民青が勝ったことにより、移転が成立しました)、埼玉大学は大久保地区に移転することになりますが、私の入学した頃は、この北浦和駅そばの旧校舎は、教養部が置かれていました。だから、大学でのほとんどの出来事は、私のいた67、8年はすべて、ここで行われていました。

 だからたくさんの思い出が甦えるのです。
 私が69年1月19日の東大闘争安田講堂で、逮捕されやがて起訴されて、府中刑務所に8月20日まで勾留になりました。その間埼玉大学は4月に闘争が大きくなりまして、北浦和のこの校舎は、バリケード封鎖されました。
 だが、大学は、この機会に、本部もすべて大久保新校舎に移転しました。

 そのときに、69年6月12日に、羽仁五郎の講演会があり(企画したのは、私の友人だった。ちょうど1年前に彼と私で、横須賀の羽仁五郎邸に、講演の依頼に行っていました)、それを妨害しようとした日本共産党=民青とのとの激突があり、こちらの勝利により、羽仁五郎講演会は貫徹されました。ただ、府中刑務所の中で読売新聞でそのニュースを見た私は、「図書館前でぶつかった、とあるけれど、あの図書館前でって変だな」と思ったものでした。事実は、この北浦和駅前の校舎ではなく、大久保地区の図書館前のことのことでした。

 ただ、私は8月21日に保釈になり、たしか22日に埼大に行ったときに、がらんとしたバリケードに、予想していたとはいえ、驚きました。6・12事件で、日共の告訴により、多くの活動家に逮捕状が出ていて、もう多くの学友がバリケードにいられなかったのです。
 ただなぜか、このバリケードには大勢の高校生がいましたね。みないくつもの高校の活動家たちでした。彼らは、バリケードの中に自分たちのバリケードを作っており、そこへ苦労して中に入ると(私は背が低いし、脚も短いから、乗り越えるのに大変です)、すくさま背のでかい高校生が、私の襟首をつかんで、「お前なんだ!」と突っかかってきました。
 私を案内してくれていた友人が、「彼は東大闘争で逮捕されて、刑務所から保釈で出てきたばかりなんだ」と説明すると、そのでかい高校生は、「あ、おつとめ、ご苦労さまです」なんて言ってくれました。
 それで中に入って行くと、高校生が大勢いて、みな自分の高校のバリケードをどうするのか、なんていう討議をしています。女の子もいます。私は、「高校生なら、もう普通に学校で勉強しろよ」という気持でしたが、そんなことを言ったら殴られてしまうかもしれません。

 何年か前に、ある方のお通夜でのとき、このとき私の襟首をつかんだ高校生に会いました。頭のはげている男が私に向かって、頭を掻きながら、「萩原さん、Aです。もうこんな歳になりました」といいました。私は、「えっ、Aかい!」と驚いたものです。

 いや、もっともっとこの埼玉県立近代美術館のある場所はいくつものことを思い出します。話せば、話し終わらないくらいたくさんのことがあります。
 懐かしいなあ。

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 今朝たしか朝9時頃電話がありました。私は今王子の妻の実家にいて、自宅の我孫子にはいませんから、電話の自宅にかけてもつかまらないのです。次女ブルータスも今はずっと彼の家にいますから、我孫子は誰もいないのです。ただ、昨日ブルータスは王子に来て、甥のポコちゃんを可愛がって、そのあと越谷に行きまして、自分の彼を車に乗せて、我孫子に帰りました。本日日曜日に自分の学校で駅伝大会があって、その用で我孫子に帰っていたのです。
 それで私の古い友人からの電話がありまして、この王子の電話を教えてもらったようです。
 この友人は下鳥さんでした。近い思い出としては、柏の平井食堂という飲み屋に行くと、必ず飲んでいるのが彼だったものです。
 以下に彼のことを書いています。

   下鳥さんのこと  下鳥さんのことその2

 電話がありましたのは、彼の弟が1月31日に亡くなったという連絡でした。私の自宅へ電話してもつかまらないので、困ったことでしょう。
 できたら、ケータイメールしてもらうのが一番いいのですが、いやインターネットのメールでもいいのですが、彼にはそれは無理な話です。携帯も使っていない世代でしょう。

 思えば、彼の弟さんとは同じ埼玉大学ですから、そこで知り合ったものでした。それで、のちにゴールデン街で、そのお兄さんと知り合ったのです。
 弟さんは、私より3年下で、55歳でした。膵臓癌だったということです。

 今彼の面影を目に浮かべて合掌しました。

 私の知る彼の年代の友人たちに、判る限り手紙を書きます。そして彼のことを少しでも偲んでほしいと思います。

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 ここで書きました 離婚成立に当たり−ある審判官の思いやり溢れた言葉に感激将門のnewsing に書きましたところ げげげのげげげ さんから、次のようなコメントをいただきました。

   こういう裁判官が当然ではなく、美談となるのは悲しいですね。

 これで私も「はッ!」と気がつきました。たしかにそうですね。

 ただねえ、私のもつ裁判官の印象というと、実に彼らにあまり人間的にいい印象を持たないのですね。だから、このニュースを読んで不覚にも涙を流してしまった私だったのです。
 でも浦和の裁判官には、ものすごく印象深い方がいました。

 私が二度目の芝浦工大事件で起訴され裁判になったときの浦和地裁の主任裁判官は、その後こんなことがありました。私があの裁判が終わって3年後の頃のことです。私は私の友人の下宿に行こうと自転車に乗っていました。そうしたら、このときの裁判官とすれちがったのです。彼も自転車で急いでいましたが、通りすぎて彼から大声で声をかけてきました。

  彼「俺はさ、今度東京地裁に行くことになったよ」
  私「あ、そうですか。あっちへ行ったら、学生さんを易くやってあげてくださいよ」

 彼は、「うん」といいながら、笑顔でさよならしたと思います。

 ただし、この裁判官は浦和地裁では、けっこう赤軍派の諸君等々にもきびしい判決を出していましたよ。

 ただ、思えば面白かったことがいくつもありました。
 私たちの裁判での弁護士と我々被告の打ち合せの場に、彼がやって来ます。当時の埼玉大学の活動家はほぼ全員彼女がいます。だからいつも傍聴席にはにぎやかです。我々は自分たちの彼女を、みな「俺の女房」と言っていました。
 それで、私たちの弁護士のうちS弁護士は、私たちがみな彼女がいることに、非常に不思儀なことかつ不満なようです。彼女も何人もいる席(だって彼女たちの何人かは情状証人になるのだ)で、そのうちあまりの我々の仲良さに、彼はプリプリ怒って出ていきます(もちろん、弁護士としての役割としては、彼は出て行ったわけではありませんが、そのことはちゃんとやる方でした)。
 それで、その判事が、「おい、あのSは彼女いないのかよ」なんて、聞きますので、私たちは「そうなんですよ。それでね、ちょっと大変なんですよ」なんていうと、その判事は、「おい、誰か紹介してやれよ」なんて言っていたものでした。

 私たちは、あの時代実に戦闘的な過激派でしたが、同時にこんなに牧歌的で、面白かったのです。私たち学生活動家だけでなく、浦和の裁判官も面白かったのですよ。

 あ、だんだん、いろいろなことを思い出しました。また別に書いていきましょう。

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 あ、ちょっとつけたします。
 私が以下に

     周の雑読備忘録「日本の名随筆別巻4 酒場」

 次のように書きました。

  ようするにサ、私なんかと替わらない酔っぱらいじゃないですか。

 でもこれは吉田健一を貶しているわけではありません。私はなんとなく嫌いな方だったのですが(いくつかの本を読んでね)、でも数多くの、お酒に関して書いている文を読んで、大好きな方になったのです。
 いえ、実はこの方は、私の埼玉大学でも教えていましてね、それで、そのときの発言を聞いていまして、どうしても好きになれなかったのですが、そしてそれは彼の本を読んでもそうでした。でも、彼がお酒に関するエピソードをいくつも書かれていて、それを読んだときに、私はもう心の中がとろけるように、その文章にのめり込んでいったものなのです。
 私は今でも、彼の霊がニューヨークのどこかのバーで、延々と飲んでいる風景が見えるような思いになるのです。

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 私は昨日夕方、妻に言われましてビールを買いに(義弟が四国から来るからです)、王子駅前の東武ストアまで行きました。自転車に乗っていきますと、すぐそばです。

 でも当然そのときは、下駄を履いていきました。この下駄は 由比ヶ浜大通りで買った下駄 なのです。でもそこに次のように書きましたように、

 さて、これで王子の街を歩くぞという気持でしたが、ところがところが今の都会は大変ですね。面倒ですね。

 下駄には問題があります。

1.今のマンションのようなところでは、実に歩くと、音がうるさく聞こえてしまうことです。
2.秋から冬になると、素足では大変に寒くなる。

 まず1は、どうしても気になってしまいます。大変に音が大きい。今はこうしてどこもちゃんとした床になっちゃったからかな、なんて思いました。このマンションの廊下も玄関も大変に大きな音がしてしまいます。いや街自体がそうです。それで、どうしても意識が委縮しがちです。
 2の寒さのことですが、学生の頃は真冬でも雪の上でも下駄だったのですが、よく平気だったよなあ、と思いました。でも、もう私は孫がもうすぐできる歳です。そうしたら、目森一喜さんから、足袋を履くことを勧められました。それで我孫子の自宅へ行ったのですが、先週行きましたときには、すっかり忘れ果てていました。それで、昨日ブルータス用のテレビ受取に我孫子の自宅へ行きましたときに、この足袋を2足持ってきました。
 それで、この昨日夕方始めて足袋を履いて下駄で自転車に乗りました。実に快適です。この2の問題は解決です。

 それで王子の街を自転車で乗って走っているときに、下駄を履いていた学生のときを思い出しました。
 今の王子のマンションの廊下を私が下駄で歩くと、大変にうるさいなという思いです。でも思えば、私が学生時代下駄で歩いていたときも、考えてみればうるさかったはずです。埼玉大学の校舎でも、私の下駄の音はうるさかったのでしょうね。あの頃は全然そんなことを気にしていなかったのです。思えば、いけない学生だったなあ。
 私は教育学部の中学校課程の社会科専攻生で、東洋史専攻でした。それで私の卒論は、一人の先生が担当でした。私が6年のときは、私だけが卒論専攻なので、あの先生はいつも困っていたようです。そもそも私がいっこうに先生の研究室に現れないのです。
 あるときに、自分の学部の前を歩いていたら、地理のN先生といういい先生が、「こら萩原、E先生が君が来ないから困っているよ。あの先生は下駄の音がすると、君じゃないかと研究室を飛び出しているんだ」と私の身体を捕まえて、手をひっぱってそのE先生の研究室に連れていきます。
 そこで、その研究室に入ると、その先生が、「一体今年は卒業する気があるのか」と聞いてきます。私は「まあ、どっちでもいいんです」なんて言っていますと、

 それじゃ、大学は8年いられるから、まだいいんだよ

というので、私が

 じゃ、来年は7年生だから、あんまり授業もないから思いきり暴れてやるかな。この校舎も封鎖されたことないから、私がやるかな…。

というと、

 やっぱり絶対卒業してくれないと困るよ。

というのです。思えばいい先生だったな。
 それからだんだん思い出すと、私より2年下の同じ専攻生の女の子たちが、この先生が飲み会で帰ってしまうときに、「本当につき合いの悪い先生ね」と批判していたのを思い出します。いやそんなことないよ。彼はいい先生でした。彼の専門のモンゴル帝国時代の東西交流史の内容も私は詳しく思い出します。

 私は昨日自転車の上で、その女の子の思い出の中の顔に、「そんなことないよ、いい先生だよ」と話しかけていました。
 思えば、あのE先生は、学内で学生運動で集会等々が開かれると、いつも私の姿を探していたんだろうな。でもそのそばに行くのは、怖いし、そして宴会ではいつも私の詩吟と軍歌をいやというほど聞かされていたことでしょう。
 私はそういう宴会の場にいつも着物姿でいきましたから、ようするに、いつもわけの判らない学生だったろうな。
 あ、あの先生と偶然会ってしまうことを想定して、「元朝秘史」を読み直しておこう。

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 次のサイトを追加しました。

 http://www.e-akabane.net/ 赤羽駅周辺情報(東京都北区赤羽)
 http://www.kitanet.co.jp/ 北ケーブルネットワーク
 http://www.netcity.kita.tokyo.jp/ NetCityきたくなるまち

 思えば、赤羽という街もよく歩きました。私は大学が埼玉大学ですから、大学のある北浦和から東京に入る最初の街が赤羽だったのです。
 それと北ケーブルテレビの本社は王子にあったんですね。しかもすぐそばでした。
 これからもいくつものサイトをリンクしていきます。私が今住んでいます東京都北区王子に関係関連したサイトを、私のこのブログ将門のサイドバーにリンクしてまいります。

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 ここに掲げたのは、妻の大叔父である田中忠雄の絵です。
 この王子の自宅には、田中忠雄の絵がいくつもあります。みな義父が大事に持っていたものです。
 できたら、みなデジカメで撮って、ここに掲載していきます。いつかはすべての作品の画像が蒐集できたらと思います。

 田中忠雄の経歴をインターネット上から引用します。これは、いのは画廊このページにあったものです。

田中忠雄(1903〜1995)

 札幌市に牧師の息子として生まれる。神戸に移り小磯良平と出会い絵を始める。京都高等工芸大学に進学。卒業後、東京市の技手をしながら、前田寛治写実研究所に学ぶ、1930年教会、二科展に出品。1930〜32年渡仏。33年二科展で滞欧作が特別陳列。41年二科展友賞。42年二科会会員。45年行動美術協会創立会員。60年現代美術展で優秀賞。69〜74年武蔵野美術大学教授。84年北海道近代美術館で個展。85年毎日芸術賞。98年神戸市立小磯美術館にて回顧展。北海道近代美術館、日本基督教団など所属。

 彼の息子さんが、私の出身大学の埼玉大学の教育学部美術・図工の先生をやっていたことがありまして、そんなことで、私とは少しは関係があります。私のほうは、もっぱら学生運動ばかりでしたが、学生運動をやっていますと、自分の学部だけではなく、全部の学部の先生方ともより親しくなりました。もちろん学生課の方も、各守衛さんもみな仲良く知り合ったものでした。
 田中忠雄さんは、私たち夫婦の結婚式で、素敵な挨拶をしてくれました。
 ただ私は絵というと、実にまったく不勉強な人間でしたから、全然判らなかったわけでしたが、今このごろは少しは何かがつかめてきたかなというところです。

 スキャナで撮りたいのですが、この絵「1994年ガリラヤ湖夕照」は額縁に入っていまして、はずせません。それで正面から撮ると、ガラスでこちらが写ってしまうので、こうして斜めから撮りました。

    こうした聖書に関係した絵が多いなと私は感じていました。

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