将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:埼玉大学の学生活動家

11072510 どうしてもこのポメラだと早く打てない思いですね。

2011/07/26 07:52リビングに来ました。「おひさま」をテレビで見るためです。
 昨日私の義父の弟さんが電話してきました。私の結婚のときの妻側の主賓の息子さんが昨日亡くなられたことを伝えてくれたのです。この方は偶然私の埼玉大学の教育学部の美術の先生をやっていました。私は埼玉大学の学生活動家ではけっこう過激にやっていた人間でしたから、いろいろお話しましたものです。
 そうですね。懐かしいです。そして寂しいです。
 思えば、もっと話しておくべきでしたね。
2011/07/26 08:06またどうしても「おひさま」を見て、涙が目に浮かんでしまいます。
 このドラマでも赤ちゃんが出て来ました。私も私の孫の4人を思い浮かべています。
 また涙が浮かびます。
 いつも私は涙ばかりです。どうしても困ってしまうような涙ばかりですね。

 いつもこの「おひさま」を見て、涙になっている私です。あ、今日こそじゅにとブルータスに手紙を書こう。

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 私とAとは、同じ埼玉大学の学生活動家でした。でも歳は同じ昭和23年生まれですが、入学は彼は私より1年後の1968年です。あの時代は年齢よりも入学した年が違うと、まるで経験するあらゆることが違います。だから私は、顔は知っていましたが、ほぼ彼とは話をしたこともないままでした。というか、私は彼のことが少しも好きではありませんでした。
 それはそれ以前の埼玉大学での学生運動でのさまざまなことがあったからですが、でもそれはここで述べても意味のないことでしょう。

 でも私は1969年の1月10日の夜から、東大闘争の安田講堂に入っていたのですが、彼は10日には駒場の闘いに加わり、また私が埼大に戻って、再び安田講堂に戻るときに、同じ安田講堂の5階屋上を守備する同じ部隊になることになりました。
 それで、ずっと同じところにいるわけで、いろいろなことを語ります。彼は映画が好きなことを話してくれて、さらに私は男ばかりの三人兄弟なことを言うと、彼も3人だが、あとは妹が二人いて、その妹のことを、小さいときにいじめて、そのときのことを悔やんでいました。
 それで当然好きな女の子の話になりますが、もちろん私の好きな女の子のことも彼は知っていましたが、彼の好きな彼女が、実は私よりも1年先輩なのだということが判り、それは実は我が大学でも私が憧れる圧倒的な美人の活動家でした。「あの娘は今は俺の彼女だよ」というので、私が憧れていることをいうと、彼は、「じゃ、明日連れてくるよ」といいます。そしてその晩は彼は埼大に帰りました。たしか1月16日でした。
 そして次の17日、屋上でぼんやり起き出して、「あ、腹が減ったな」なんて思っていたら、「おい、ハギワラ、Rを連れてきたよ」といいます。
 私が驚くと、実にたしかに彼のあとからRさんが、ついて来ました。そして彼女は圧倒的に美人の方なのですが、あの安田講堂の屋上は実に高いので、怖いらしく震えていました。
 私は彼女も美人なこともありましたが、実に気の強い女性であると思っていましたから(これは私は活動の場で、強い彼女を何度も見ています)、こんな屋上くらいで、震えるような女らしい彼女に出会えるとは思っていませんでした。
 その後、彼女はしばらくこの5階にいましたが、彼が送って帰りました。もう私は彼が一緒に行って帰ってこなくてもいいと思っていました。なにしろ、安田講堂では、ここでパクられると、「最低6カ月勾留される」と聞いていましたから、そのまま籠もるべきことでもないのです。
 それでも、その晩彼はまたこの5階の守備する場に戻ってきました。彼としては、私を棄てて帰るわけにも行かなかったのでしょう。
 そして翌日は、朝から激しい闘いです。もう身体がくたくたになるまで闘いました。
 そしてさらに翌日1月19日、夕方に私たちは全員逮捕されました。

 彼と私は前後して逮捕されるつもりでしたが、大混乱の中、そういうわけにもいかず、私は東調布署に勾留され、やがて起訴されて、私は府中刑務所に移管されました。彼は東京拘置所でした。
 私たちは、東大裁判でも、同じグループでしたが、統一公判を主張しているので、裁判への出廷を拒否していましたから、裁判所で会うこともできずに、月日が過ぎました。
 だが、彼はその年の7月20日ごろ保釈になり、私は8月21日に保釈になりました。

 ああ、そういえば、彼の彼女だったRさんは、私の府中にも面会に来てくれたのが、7月のことでした。7月の暑い日、接見室に入った私は、あまりに綺麗な彼女に驚きました。だが接見室からの帰り、私は同行する看守に、「こういうムショに入っている男の前に、あんな肌を露出した姿で来てはいけないですよね」なんて言っていたものでした。彼女は、看守も大きくうなずくくらい圧倒的に綺麗な方でした。

 でもとにかく、保釈にはなったのですが、よく月69年9月19日は、芝浦工大事件(これは当初は内ゲバ殺人事件と報道されました)になりまして、またその年の12月に逮捕されることになりました。
 そして、この事件の勾留中にも、東大裁判があります。私はこの裁判に出て、他の仲間と連絡が取りたい気持でいっぱいでした。それでこの裁判のときに、芝浦工大殺人事件の被告で、東大裁判の被告が4人いたのですが、みな埼玉県のいくつものところからパトカーで、東京地裁までいくのですが、これがまた実に愉しい旅行でした。
 裁判の場では、一応私たちは、統一公判を訴えますが、とにかく仲間といくつも打ち合せをしまして、いわば芝浦工大事件では敵とされた中核派の活動家とも話をします。全然真相をつかめないブンドの活動家とも話をします。
 そして、傍聴席には、私の弟が来ていて、父の再就職のことを伝えてくれて、私の彼女(まだ「私の彼女」になっていたわけではありませんが)がいて、そして私の高校時代の後輩の女の子も来てくれていて、いろいろな連絡がありました。

 それで、また70年3月に私は再保釈になり、また後輩たちと、70年闘争の隊列の中にいました。だが彼は、このときは、けっこう長く浦和刑務所の拘置所に入っていたかと思っています。

 その後もさまざまなことがありました。彼と一緒に、北浦和で偶然知り合った日の丸土建の仲間と土方の仕事をするようになったのも大きなことでした。私はそもそも日の丸が好きですし、この日の丸土建の仲間も、実に法政大学・明治大学・早稲田大学等の学生活動家集団でした。

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