将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:堀雅裕

12033107 早いもので、堀雅裕さんが亡くなって、7カ月が過ぎました。どこの街を歩いていても、いつも彼の思い出が甦ります。6日の夜は新橋で飲んでいましたが、あの飲屋街を歩いたときに、ずいぶん昔彼が私の前を自分の知っている店に案内して歩いていたときのことを思い出しました。
 先月の神田会で、彼の奥さんの燕尼が、彼の遺品の中から、彼の自作の歌を彼自身が唄っているテープが見つけたのを何本も持ってきてくれました。それをAさんがMDに変換してくれまして、神田会の仲間である和尚さんがMP3ファイルにしてくれました。ただし、まだ10作品で、全部だとあとやく10倍分あります。以下のページに置いてあります。

   堀雅裕君の歌声

 このページからダウンロード(右クリックでのメニューから「ファイルに保存」)できます。またクリックすれば聞くことができます。ただし、MP3の再生ソフトは必要です。必要な方は、このページからリンクしてあるRealPlayerをダウンロードしてください(RealPlayer Basicは無料です)。
 彼の声がそのまま甦ってきます。(07月08日 05時55分)

12020304「将門Webマガジン第11号」の「今週のコンサル」で書きまして、次にUPしておりますことが発売されました。

  仕事はやりきることが肝心

雑誌名  男の隠れ家 2001年1月号
発行所  あいであ・らいふ
発売日  2001年1月1日

 これの82、3ページの「技を極める」というところで、「流しのアコーディオン弾き」「平川大吉さん」ということで書かれています。ただ私の横顔が写っている写真もありまして、「こんなのでいいのかな」。
 ゴールデン街の「ひしょう」での取材でした。ちょうど10月26日のことです。思えば24日に堀雅裕さんと神田のちゃんこ屋で飲みまして(そのときMさんと3人で飲んだ時の写真をお通夜の日にいただきました。彼は元気に笑っています)、そのときに携帯でライターとこの企画を決めまして、翌日25日(水)にゴールデン街で平川さんと打ち合せしました。結局、私は2日間とも帰宅せず、3日酔いの顔で、この取材になったものでした。(11月27日 23時08分)

12012805 3日に私の実に親しかった堀雅裕さんが亡くなりましてから、ずっと悲しい寂しい思いでいます。仕事で、いくつもの街を歩いていても、彼の顔を思い出してしまいます。どの街にも彼と一緒に歩いた思い出があるからです。
 思えば、彼はもっと私の事務所へ来て、自作パソコンのことを聞きたかったのだろうなと思います。亡くなる前に、10月26日(木)に私の事務所に来ましたが、実は次の金曜日にも私の事務所のビルに来ていたことが判りました。私が明日も夕方来客があることを伝えていますから、遠慮したのでしょう。ただ電話だけはしてきました。大声で、自作パソコンのことを聞いてきました。そういえば、私が毎日忙しいので、遠慮がちな電話をいつもくれたものだなと思い出しました。
 彼はけっこう毎日飲んでいましたが、しかも私の事務所から歩いていけるところで飲んでいたことが多かったようです。一人で飲むよりも、私と会話して飲みたかったろうけれど(かつ、「あの人と飲むと、また2軒目3軒目になっちゃうからな」と警戒もしたろうけれど)、遠慮していたんだよな、と今思います。
 彼が亡くなってみて、はじめて私も「自分は長生きしよう」という気持をひしひしと感じます。彼が亡くなってみて、その死に涙する人の姿を見ていますと、「やっぱり死んではいけないな」なんて思いました。こんな私でも、悲しんでくれる人がいることでしょう。やはり、人を悲しませるのはいけないなあと思うのです。
 私の娘たちも、彼に会ったことがあるので、驚いていました。次女は、ずっと泣いたようです。彼の死が、「医療ミスかもしれない」ということで、

  パパがそんなことになったら、私はその医者を殺しに行く

とまで言ったようです。
 今回、彼の死で、彼ではなく、私だって、家族やたくさんの友人に支えられて生きていることをよくよく思い知らされました。
 彼の死で、私ははじめて、「これからは酒を控えていこう」という気持にはじめてなれました。大事なのは、生き続けることかなと思うものです。私自身が流す涙には耐えられても、家族や友人の涙を見るのは、やはり避けたいものです。
 彼の骨は、とても少なくて、小さくて、これまた悲しい思いで見ていました。悲しい思いで、彼の骨を拾いました。
 思えば、彼の骨を私が拾うことも、彼との約束でした。彼のお通夜(キリスト教だったので前夜式という)で、私が詩吟をやるのも、約束でした。彼は昔歌手で、ジャズが好きだったのに、何故か私の詩吟をとても好きでいてくれたのです。だから私は前夜式での友人代表の挨拶で、詩を詠いました。

  西郷南洲「弔亡友月照」

 おそらくあの教会で、詩吟が詠われたことなんて、はじめてで、そしてもう2度とないことでしょう。でもこれも彼との約束でした。
 とにかく、私は彼の分もこれから元気で生きていきます。

 本日は、島成郎さんのお葬式です。(11月11日 07時03分)

12012708 激辛庵(本名堀雅裕、JONNYBというハンドル名も使っていました)さんとのお別れです。これから前夜祭に出かけます。

   堀雅裕さんの前夜式・告別式

 彼は友人と一緒に語りあって飲むのが好きでした。奥さんの燕尼も言っています。ぜひ彼を知っている方は、来て彼の前で飲んでほしいと。
 本日は彼とずっと語り合います。
 私は明日彼の骨を拾わせてもらいます。(11月06日 15時50分)

a459e4b6.jpg さきほど7時30分前に配信しました。158部です。
 今回は私の親友である堀雅裕(ハンドル名激辛庵)さんが3日早朝に突然亡くなりまして、それで、本日朝4時半からマガジンを書き出しました。彼のことを思いながら書いておりました。(11月06日 08時35分)

10122310 このところ、実に親しい友人を失っています。

  周の追悼私記

に書きましたように(まだこのあと書くものもあります)、昨年11月に大親友であった堀雅裕さんが亡くなり、今年2月にクライアントの社長夫人の鈴木なみ子さん、4月に同じクライントの監査役でなみ子さんのお兄さんだった小林好友さんが亡くなりました。なみ子さんと小林さんは、友人というと、随分年上ですから私にはおこがましいのですが、もう実に親しく、愉しく仕事をさせてもらい、毎月実に愉しいお酒をいただいたものでした。思えば、堀さんの奥さんが私のことで、「二人がものすごく仲がいいから、妻の私が嫉妬してしまう」といい、小林さんの奥さんが、会社の新年会の席で、私と小林さんが手をつないで軍歌を唱っていたときに、「この二人は、本当に仲がいいんだから」と言っていたのを思い出します。
 そんな友人たちを失って、ものすごく気落ちしていたわけですが、今回また親しい友人を失いました。今度は私の軽はずみかつ馬鹿な言動で、愛想をつかされたのです。これまた私には、どうしたらいいのか判らないくらい辛いことです。
 堀さんは、かなり身体が丈夫ではなかったので、いつかは彼の死と対面することになるかもしれないとは予想していました。でも、こんなに早く、こんなことでそのときがくるとは思いませんでした。

  堀雅裕君を追悼する(これは私の旧ホームページで大きな部屋でした)

 その彼の死が来たら、私はその事態に堪えられるかななんてことを私は思っていたものです。いっそ、一緒に死んでしまえばいいかな、なんて思いも抱いたものでした。でもその現実が来たときに、私を支えてくれたのは、また何人もの友人たちでした。
 今4月に小林さんを失いまして、今また友人に去られて、非常に苦しい思いなのですが、またこのことを友人たちに吐露することによって、なんとかこの時を過ごしていきたいと考えています。いやそうするしかないし、私はそうやってきたのです。
 私がさまざまなクライアントへ行きまして、私だけでは処理できない仕事で別な友人を紹介しますと、「萩原さんの紹介した人は、もうそのことだけで信用する」と言われます。それは実に嬉しいことです。そしてもうそのクライアントの社長も私のことを大事な友人と思ってくれていることを感じます。こうして私は友人をいつも拡大してきました。そんな友人の存在を今こそ大きく感じています。
 私のクライアントでも、社長でも社員の方々でも、ひとりひとりにはさまざまなことがあります。「そんなときに話を聞いてくれる友人の存在が大事ですよ」と私は言ってきました。また、「そうした友人にこそ私がなりますよ」と言ってきました。今私自身が同じ時なのを心から感じています。 (2001.05.07)

10112601 私の親友であった堀雅裕さんが11月3日亡くなりました。今悲しく寂しい思いだけでいますが、その彼から私はたくさんのことを学んできました。その一つを書いてみたいと思います。彼はコピー機器やパソコン機器関連の業界紙記者でした。
 たしか8年くらい前のことです。彼からある大手パソコン通信サービスの記者会見に出てみないかという誘いがありました。「そのあと記者懇親会があって、酒が飲めるよ」というのです。喜んで私もついていきました。私も記者になるわけです。
 まずビル・トッテンさんの講演があり、そのあとこの会社の記者会見です。会場にはたくさんの新聞・雑誌記者が来ています。椅子の最前列のほうは、朝日・読売・毎日・日経という大手の記者が座っています。とくに、日経マグロウヒル(今の日経BP社、「日経パソコン」ほか多数のコンピュータ雑誌を出している)は一番大量の記者が来ています。堀さんのような弱小業界紙は、後ろのほうに座るしかありません。記者からの質問では、このいわば日経グループからは鋭い質問が続きます。それにくらべて、パソコンやパソコン通信を知らないのだろう朝日新聞の記者の質問には会場から失笑が漏れます。
 さて、それが終わって今度は懇親会です。たくさんの料理が並べられ、立食形式でビールやほかのお酒も用意されています。会社側もたくさんの役員社員が出てきまして、記者にさまざまにサービスします。彼らはとにかく名刺交換を求めます。彼らがいうのには、彼らのパソコン通信サービスは、会員を増やすことと、なるべく毎日何度も出来るだけ長く自分たちのところ(彼らは全員なんらかのフォーラムに属していましたにアクセスしてくれること(そのころは分単位の課金制度だった)なのです。
 さて、そこでなのですが、堀さんを見ていると、ビール片手に、すぐそこの社長のところへ行って話しかけます。なんだかにごやかに話していると思っていますと、その社長は頭を掻いています。他の大手新聞・雑誌記者を見ると、みな料理を食べるのに忙しい。その会場には、パソコン通信の世界では有名なフリーソフトの製作者も来ています。だから本来ならいくらでも取材はできるはずなのです。私も有名なシェアウェアソフトの作者とお話しました。
 堀さんに、「社長と何話していたの?」と聞くと、「あの社長パソコンはできないないんだって、ワープロでやっているんだよ」ということで、さらにあの社長は料理が好きで、料理のフォーラムのシスオペをやっていることが判ったそうです。彼は忙しく料理をほうばって、また別な人に話しにいきます。すぐに小さなカメラで相手を撮ったりします。そして彼はそれが仕事だからというよりも実に愉しいのですね。
 そのあと、当然二人で飲みました。彼はいつもこのような取材をしているのです。表だった記者会見の場でのことは、配布された印刷物でほぼ判ります。でも、その大手パソコン通信の会社の社長が実はパソコンが苦手で、ワープロ機で通信していて、しかも料理のフォーラムの管理人をやっているなんて、これは面白い記事でしょう。パソコンが出来なくとも、パソコン通信には活発に参加できるのです。私がお話しました取締役の方も、パソコンは出来なくてワープロ機でのアクセスで「私は郷土玩具が好きで、そのフォーラムへ行っていますよ」という方でした。この方は私より10歳くらい上の方でした。
 私はこれで、この内容だったら、大手の新聞雑誌と彼の業界紙だったら、当然彼のほうが面白いよなと思いました。読んでいる人も、つい「俺もパソコン通信ってやれそうだな」と思うことでしょう。
 そして彼は、大手ではありませんから、いわばこういうゲリラ的なやり方でしかやれないのです。記者会見の場で、大手で若くていかにも俊英の記者こそが真っ先に質問するわけで、彼には質問している時間がありません。そこを、こうして懇親会という場にての取材で、私にいわせてもらえば逆転するわけです。私には彼の記事のほうがずっと上でした。彼には新聞記者としての魂がありました。読者に読み応えのある記事を配信しようという気構えがありました。そしてそうした取材そのものが実に好きだったのです。
 私はそんな彼の姿からたくさんのことを学んだものです。(2000.11.06)

10111218 親友の堀雅裕さんがなくなりまして、もう1カ月以上がすぎてしまいました。なんだか、私はこのごろいらいらしていました。彼と私はよく会って飲んでいたといいましても、互いに遠慮というようなものがありまして、長く連絡を取らないことも多々ありました。彼と会うと、どうしても二人で莫大に飲みますし、そして延々と飲んでいますので、それは彼の身体によくありません。それでは、奥さんの燕尼に心配をかけてしまいます。ただ、このごろは、彼と二人で飲むことよりもMさんという女性と3人で飲むことが多くて、それは実に愉しい瞬間でした。若くて綺麗な女性が間にいると、なんだか二人ともに、けっこう真面目になってよかったなという思いでした。
 でも彼とはしばらく連絡をとらないといっても、さすがに1カ月もすると、電話をしてきたものでした。私の事務所へでも、携帯へでも、自宅へでも電話してきます。留守でも、折り返しすぐに私は電話しますから、結果としてどこかで飲むことになります。1軒で終わろうという固い決意も、飲んでいるうちにもう1軒ということになってしまっていました。
 そんなことをもうずっと繰り返していたわけですが、今回だけは、もう1カ月が過ぎようと、彼から電話がかかってくることはありません。なんだか、仕事をしていても、道を歩いていても、彼からの電話が「なんでないんだろう」なんてぼんやり思っていて、そして気がつくことがあります。「彼はもういないんだな」。
 そしてとくに近ごろは、自宅に帰っても、なんだかすぐ寝てしまっていました。なんだかとにかく寂しい思いで、もう眠ってしまいたいのです。眠れば、この思いが晴れるのではというような感じをもつのですが、実際はそういきません。でも普段は平均4時間の睡眠ですんでしまうのが、ただただ眠ってしまっていました。10時にベッドに入れば、普段ならば、午前2時頃には起き出してパソコンに向かっているはずなのに、眠りから覚めることができないでいました。そんな日が続きました。
 13日に、また11時半頃寝室に向いました。妻が「パパ、歯磨いた?」なんて声を後にして、まず次女の部屋を覗くと、「パパはママの子どもみたいだね」なんて言われました。「でもなんだか元気ないね」という言葉に、

 うん、堀ちゃんがなくなってサ、こんだけ時間がたっても、あいつ電話してこないからね、ほんとに死んじゃったんだと思うとね、もう元気でないよ。

 それで、私としては午前4時には起きられる予定なのですが、なぜかそのまま眠ってしまっていました。
 そしてその朝(14日)私は夢を見ていました。その夢は、私が最初に詩吟で師事しました國誠流吟道会の宗家荒國誠先生なのです。もう先生とはお別れしてから20年になるでしょうか。
 荒先生には、さまざまに励まされてきたものでした。そして何といいましても、先生の詩吟が私は一番好きでした。荒先生の人間そのものが、私は尊敬していましたし、大好きでしたが、先生の詠う吟そもものも大好きでした。
 夢の中で、先生は何曲も詩吟を詠い続けてくれました。言葉は何も喋りません。昔聞いていたときには、先生は宗家ですから、最後に模範の吟を一つやるだけです。そして宴会になると、もともとオペラ歌手でした先生は、カンツオーネをやってくれたものです。
 その先生が、いくつもいくつも詩を吟じてくれます。一体何曲詠ってくれたのでしょうか。私はその吟が終わったときに、思わず大きく拍手します。先生は、私を見て、にっこり笑ってくれました。その笑顔を見て、私の拍手の大きさの中で、私は目が覚めました。
 きっと元気のない私のことを励ましに来てくれたのだなと私は確信しています。私は夢の中の先生の声と笑顔を忘れません。思えば堀ちゃんも、ジャズが好きだったわけですが、詩吟も何故か好きでいてくれたものでした。
 どんなことがあっても、やり続けなければならないのです。元気に生きていかなければならないのですね。
 荒先生、ありがとうございます。また元気にやっていきます。(2000.12.15)

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 私のこのUPに、目森一喜さんが以下のコメントをくれました。

1. Posted by 目森一喜   2009年09月09日 23:58
思いこみの強い記事ですね。新聞をとらない人の多くは、新聞のサイトに行ったりしませんよ。だから、関係ないですね。それより、デジタル化した記事を他のサイトに配信して収入にしているはずですから、紙をとっている人が馬鹿を見るという話でもないでしょう。
新聞そのものは売れなくなっていて、公称をはるかに下回っています。もう少しすると、紙が金食い虫になるかもしれません。配達なんて、お金がかかりますよね。
サイトを有料化しても見られなくなったら終わりですから、判断に苦しむところでしょうね。どうして行くのか、他人事ですから興味津々で見ています。
日経は、購買をやめると必ず人が来ます。日経の名刺を出すので驚いた覚えがあります。取り組みの真剣さを感じました。

 わあ、「新聞をとらない人の多くは、新聞のサイトに行ったりしません」と言われちゃうと、実によく判るのですが、でもなあ、新聞にしてもインターネットにしても活字を読んでほしいよなあ。「配達なんて、お金がかかりますよね」ということは、その通りなんですが、でもいつも配達される新聞は嬉しいです。
 それで、私は吉本(吉本隆明)さん関係の記事があると、もうどこの新聞でも現物を必ず購入に行きます。このごろは、東京新聞が多いですね。私のところは、日経と朝日と東京新聞が同じ販売店なのです。
 でも私は書きましたように、折込チラシが面白いです。日経新聞は、朝日・読売と同じように折込チラシが入るのですね。中には、「こんなチラシは意味ねえだろうが」と思うのもあるものです。でも折込チラシってのは、私も随分企画制作発注していたことがありますから、もう実に親しく懐かしく、そして今でももう手触りも忘れられないのですね。
 B4で10万部のチラシも、B3で100万部のチラシも忘れられないものです。企画から、制作で、いろんな撮影をしたりして、実にいろいろなことをやったものでした。そして当然、その反応結果も必ず測定しました。
 でもたしかに、この記事は「アクの強い」記事です。この人が再び日経新聞を取るような事態にはならないでしょうね。そういうふうには、新聞は変わりません。もし、そうなってしまったら、この方の言われる通りにはなるのではなく、新聞の「終わり」と言えるような事態になってしまうと思いますね。
 私は業界紙の新聞記者だったこともあって、新聞作りは面白く大切なことだと思ってきました。私の親友だった堀雅裕さんもいい新聞記者だったなあ。彼は、競合する他の新聞と、競合して取材に行きましても、他の新聞にはけっして負けていませんでした。朝日読売毎日や、日経グループには、取材の中身でも彼は決して負けていませんでした。そんな取材していた彼の姿を思い出します。
 ただ、彼は将来の新聞の姿をよく考えていたのじゃないかなあ。だから彼は、実にパソコンでインターネットでの新聞をよく考えていたものでした。
 彼とは、よくインターネットの未来のことでも話したものでした。思えば、今もいてくれれば、たくさん話して、一緒にやれることがあったのになあ、と思うばかりです。

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 買物に行きましたり、いろいろです。

2009/03/12 08:18朝の「だんだん」を見ています。このめぐみたちのおばあちゃんの抗ガン剤のことで、私の親友であった堀雅裕さんも抗ガン剤を飲んでいたことを思い出しました。でも、彼はそのうちにこの薬を飲むのを止めてしまったものでした。
 彼はその後交通事故で亡くなったわけでしたが、もうそのときから、年月が経ちましたね。もう彼は私の夢の中にも出てきてくれません。
 もうただただ年月だけが過ぎ去りますね。

2009/03/13 08:13また「だんだん」の時間です。いつもこのドラマを見ています。いや、昔からこの朝ドラは見てきていましたね。サラリーマンをやっていたときは見ていないかな。あ、さらに昔はテレビが下宿にはありませんでしたね。
 でも、このドラマはいいですね。でも、今もどうしても涙が浮かんでしまいます。私の母も大変でした。でも義姉がよく看ていてくれました。私はいつも感謝していました。今も感謝しています。
 今の私は妻の母、義母のすぐそばに居るわけです。この義母を大切に大事にしていこうとばかり思っています。
 やはりこのドラマは見ているのが辛いです。
 抗ガン剤治療というのは実に本人が大変なのですね。堀雅裕が途中で止めてしまったものでした。彼は若いときはミュージシャンでしたから、ギターを華麗に弾いていたものでしたが、そののちは指が昔のように動かなくなっていました。そんなときのことをいくつも思い出します。
2009/03/13 12:43もうけっこう午前中もあちこち走り回りました。もう桜が咲いているところがありますよ。
 それにある本をずっと読んでいました。あ、サミットストアにラップ等を持っていきました。
2009/03/13 12:52来週になれば、少し余裕ができるかなあ、なんて思っています。

 私の義母がときどき電気のコードを抜いてしまうことがあり、大変なことになります。もうスイッチを切るわけではなく、コードを抜いてしまうので、非常にやっかいです。もうどうやって防ごうかなあ?

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90c3d14b.jpg 現代人は、それぞれに人生の悦びというものを大勢の他人との関係の中でみつけたがっているのでは………、そんな気がする。市民マラソンに集まる多くのひとたちがもとめているものは、「孤独の闘い」としても悦びだけではなく、「大衆の中にあってはじめて生まれてくる悦び──それは「独占」の悦びではなく、「共有」の悦びである。
 大勢の他人とひとつのことを共有することは、何ともいえない密やかな悦びを人間自信の中にうませるのではなかろうか。いつの時代でもどんな社会でも…。
 Sも、きっと走りながら今そんな感慨を、ここ館山の風とともに感じとっているかもしれない(ブッ倒れていなければ、の話であるが)。
 ドイツの言葉に『ミット・ライデン』という言葉がある。日本語でそれに対応する言葉はないけれど、強いて訳せば『共苦』という漢字が当てはまるだろう。高校のとき、ドイツ語の先生がそういう風に言っていた。ニ年間の授業の中でぼくはこの言葉だけを今も覚えている。同じ苦しみを共有するという意味だ。
 フランス人にもそれと同じような心意気がある。昔パリ・コミューンの市民兵たちが口ずさんだ詩の一節、『盃を合わせ、歌声を合わせ、心をあわせて俺たちは闘った』という文句を、一瞬ぼくは思いうかべた。
 ウジェーヌ・ポティエだったかな?いや、ランボー?
 作者の名前が頭に浮かんできそうになった途端──
「ただ今、最終ランナーが三十キロ地点を通過………」
 またしてもどっと、でなく、今度は少し小さく屈託のない笑い声がここそこに起きた。ゲート前の人もだいぶ減って、第二グラウンドではもう表彰式が始まっている。
 約束の刻限はもうとっくに過ぎてしまった……。
 と、その時である。遠く、最終コーナーをグランドに向かって一人駆け下りてくるランナーが、おぼろげにぼくの視界に飛び込んできた。待てよ、あれは似ているぞ……
 ブルーだ!しっかりした足取りでぐんぐん近づいてくるにつれて、そのトランクスのブルーがくっきりとぼくの目に浮かびあがった。
 似ている。
 とっとっとっ、どうやら…、待てあせるな。サングラスだろ、青パンだろ、ゼッケンは……写真だ、写真!間違いない。
 あーァ やっと来たよ、あいつめ、やっとだ。なんだ元気じゃないか。何をキョロキョロしているんだバカヤロー。オレはゴールの中にいるんだ。望遠の距離、距離、と。
 最後の力走を試みるSの映像があっというまに大写しになった。気がついたか。白い歯がが見える。笑っていやがる。ったく!いっちょ前にVサインさんか出しやがって、コノー、カシャ、風邪薬代、酒代、と、つまみ代と…カシヤ、もう…払え!カシャ。
                                                  ─この項 完─

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 でも、おかげでその日、ここにいろいろな人がいるのがわかってきた。
 スティービー・ワンダーが着ているようなウェアを身にまとっているやつ。
 ニ、三か国の国旗をシャツにデザインしているやつ。
 単なるおばあさん──などなど。
 皆、それぞれの思い入れた自分なりの「自信」を調合してこの日の参加を決めてきた人たちなのだろう。表情もまちまちだ。ゴールしてぶっ倒れるのもいる。
 それでもたいていの人は、さわやかな顔でゴールに入って来た。
 一流選手の出場する国際レースなんか観てると、「長時間の死闘」というか、何かこう悲愴感なしでは受けとめずらい感慨が出てくるのだ。国民感情なんかが入ったりするとよけいにそうだ。その感慨がまた、観る人にとってたまらない魅力となって体内に入り込んでしまうのではないか。そう思ったりもする。
 さわやかな顔で入って来たというのは、ぼくがただそう感じているだけのことなのかもしれない。
 でもそうやってずっと、次ぎつぎに入ってくる人たちの顔を見つづけていたら、ぼく自信、「市民マラソン」というものに対する今までの自分の考え方が、変わってきたような気がしてきた。新しく生まれてきた、と云った方がいいかもしれない。
 これまではマラソンというと、瀬古選手や宗兄弟しかぼくの貧困なイメージとして頭に浮かんでこなかったものだ。
 それは、優勝者、勝利者だけがクローズアップされる「ヒロイズムの世界」だった。
 市民マラソンもまったく同じスタイルだけど、それとは全然違った何かがあるっていうような気がしてきたのだ。
 きっと市民マラソンていうのは、陸上競技の中の一つじゃなくてお祭りかなんかの一種なんだ。たぶん。その証拠に、土産物んも屋台もあんなにたくさん出ているし、千葉テレビだって来てる。マイナーなくせにあの態度のでかいことったら。
 だからみんなも楽しそうに帰ってくるんだ。さわやかな顔を見せて。お祭りだったら参加者も多いほうがいいに決ってる。
 小さい頃、ぼくは町内の祭りが楽しみだった。山車につながっているだけで、お菓子やジュースが食べ放題飲み放題だったし、派手は洋服を着て気取っている女のクラスメートを見るのが好きだった。その時、こっちも思いっ切り「エエカッコシィ」のつもりになっているだけで、もう嬉しかったのだ。日頃、仲の悪い男友達ともけっこう仲よくやっていた。その日だけは。そして家の内と外でも大きな違いがあることを発見したりもした。
 甥も若きもこの時代、人生に楽しみをみつけるということを考える時、ぼくはますます強く感ぜずにはいられない。
 それは、ささやかな「非日常性」の中に自分の生きている「日常」を確認することであり、また「大衆的」な中に小さなヒロイズムを見つけだすことのようでもある。それは、子供が祭りの喜びに遭遇した時とも似ている。
 この若潮マラソンも、ハチミツあり、アンパンあり、バナナあり、なんと、小さい頃のお祭りとよく似ているではないか。

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d634b4b6.jpg 突然、「ああ、やっと××が来た」と、向い側で待っていた高校の陸上競技部らしき集団から歓声がわき起こった。
 ゴール。
「おつかれさま」
「○○君はまだみたいよ」
「△△着だ」
「タイムは」
「◎×□☆?…!」
 急に周囲が明るくなる。青年よ…。と、ひとり待つ身のつらさ。こちらは何故か急に老けこんで『寅さん』映画の一シーンか何かが幻覚症状となって胸に去来する。
 エーィもうッ、と半ばヤケで記念撮影の無料サービス。ただしカワユイ女の子つきの写真に限って─。
 青年たちはなかなか元気だ。
「折り返してアンパン喰ったのがまずかった─ ─」
 何だ。アンパンも置いてあるのか。えーっ、バナナも!
 ぶったまげたなこりゃ。そうか。バナナは消化にいいし、喰い終わったあと皮を路上に棄てて行けば、ライバル蹴落としの一石ニ鳥になるってわけだ。
 それにしても何をしとるんだあいつは─。だんだん自棄になってきたぞ。
 だいたいぼくは、アマチュアのマラソンマニアの神経がどうもよくわからない。
 その人の趣味であるとか、ちょっと気障に見積もって「自分との闘い」ということぐらいはわかるのだが、それでも「参加、ン千人」などという声をきくと、どうしてもぼくはその天文学的理解において頭がプッツン、という自体を来してしまうのだ。
 青梅マラソンは一万二千人だそうだ─。冗談じゃないよまったく。「みんなで何とかすればコワくない」なんてのがあったけど、なんでこんなに大勢で昼日中に街ん中を走る必要があるんだよ。ホントに。この寒い中を。
 またしても場内アナウンス。
「ただいま第ニグラウンドの地方名産コーナーで、レモン入りハチミツを無料サービスしております」。
 地方名産コーナーってどこだろう。と見回す─と、あった。あった。
 一段低くなったすぐ横の上のその第二グラウンドの一辺を全部使って、たしか国鉄大阪駅の地下通路にあったような光景が、そっくりそのままそこにあった。
 そのいちばん手前の所で、「何とか勤労婦人団」みたいなオバさんたちが、レースを終えた選手や、一般の人なんかに紙コップらしきものを次から次へ配っているのが見える。たぶんあれがそうだ。
 ぼくもレモン入りのハチミツが欲しくてたまらなくなったが、すぐ横のとはいってもそこの場所まではまだ少しばかり距離があったので我慢した。
 たとえ一分でも、その間にSがかけ込んで来ないとも限らないのだ。
 そんなことになったら今までの努力がすべて水の泡だ。
 たいした努力じゃない、と思うかもしれないが、いつも朝に弱い生活をしているぼくにとって、前の夜、……正確には今朝だが、深酒をしたにもかかわらず、しかも二時間だけの仮眠というウルトラC級の技を見事にこなし……確かに人手も借りたが、たとえ吉永小百合のもっとも好きなことであろうと、ぼくの一番嫌いな……寒い朝の中を、北風の吹き抜く中を歩いて来た……もちろんタクシーを掴まえるまでだが……そのkおと自体、じつに涙ぐましい努力なのだ。
 その努力を間違っても無駄にすまい。自分のために─。そんな悲壮な決意で、ぼくはずっとそこに立ちつくしていた。「立ちつくすその日」の長いこと……。
 またニ、三人連れだってゴールに向かってくる。
 あれっ、あいつ隣のやつの腕を引っぱっているぞ。目が見えない?のか、なるほど。
 隣のやつもよくやるよなぁ。四二・一九五キロのニ人三脚ってわけだ。
 時折、会場を吹き抜ける寒風が、Sの指定した予定の時刻がだいぶ過ぎていることを素肌に知らせてくる。

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 オサムちゃん(キャットの必殺料理人)からモーニングコールがかかってきたのが九時十五分。
「何だよお……ムニャ。お前、九時の約束だろうが……ムニャ、ムニャ」
「だから今九時じゃないですか」と、電話の向こうで素っ頓狂な声。
 チェッ、この時間の九時と九時十五分じゃ、まるで「第三氷河期」の初めと終わりぐらいのエポック的相違があるっつーことぐらい。わかんねんえのかな。だからあれほど九時ピッタリだぞって念を……ブツブツ。
 と、相手のたいして申し訳なさそうでない顔がほとんど脳裏に浮かぶ間もなく、受話器をおいて飛び出して来たのが素時間前だ─。
 頭をボーッとさせたまま、「服着たまま寝てよかったな」などとつまらないこと考えながら足踏みしていると、場内アナウンスがきこえてきた。
「ただいまぁ、最終ランナーが早物せき前を通過しましたぁ─」
 どっと無責任な笑い声。
 失礼な野郎だな。一生懸命走ってんじゃねえか。でも何だって?ハヤブッセキだって、どれっと。何だぁ?まだ二十五キロ付近じゃないの。じょうだんじゃねえぞ。まさかあいつじゃないだろうな。やつのことだから「歩いても意地で……」なんてこと間違ってもないだろうな。だいいちもう寒くていけねえや。寒さとオレは犬猿の仲だってことを知ってて遅れてんのか?あのヤロー。
 でもまあ、四時間もよく走るものだ。山手線西日暮里を過ぎたところで十時。あの時からずっと走っているわけだ。今ごろ何処でどうしているのやら。
 東京駅に着いて総武線のホームにたどり着いたのが、特急『さざなみ』発車五分前の十時二十五分。大急ぎで、新聞とカキの種、それに缶ビールを一本買い込んでホッとした時のあの快感。遅れないでホントによかった。
 車内でもよくまあ飽きずに呑むものと感心しつつ、「まあ今日のところはやむを得ない事情だから」とかナントカ。渇水状態の身体に言って聞かせるオレ。
 自己正当化の常套手段というやつだ。
 のどは渇いているのに食欲はなく、とてもビールなど飲む気分になれなかったのだけど、特急や急行列車に乗って、向かい合わせになっている席に座ると、昔からぼくは何となく「旅の途上の人」という郷愁におそわれ、それがまた日頃、ぼくの中で眠らせておいた「ルンルン気分」というやつを、しっかりと呼びさましてしまうのだ。
 市民マラソンの現場を撮るのは、ぼくには初めての経験である。
 舘山という土地に降り立つのも初めてである。だから、たとえこの身は宿酔でも、心はやはり浮れ雲……に自然になってしまう。

 十二時半。ミノルタのカメラバッグとその宿酔いの持ち主を乗せた『さざなみ』が千葉県館山の駅にすべり込んだ。
 あれーっ、こんな所を走っているやつがいるぞ。とっとっとっ……そうか。これがコースなんだ。またずいぶんとご立派なコースだわい。これじゃ普通の道じゃねーか。ただの田舎道だ。と、頭の中で手練の早業による鋭い指摘をしながら、会場へ。
 ちょうど一時の時報がプッツーンーとあれは確かAの音?
 いるいる──。
 なるほど。聞きしにまさる大スペクタクルで、遠くにゴールゲートが四つ。その後方に、公式記録員だの毛布係だの給食のおばさんだのがワンサカうごめいている。
 さっそく仲間入り。こういう状況下では、つねに姿勢が肝心だ。地元ローカル紙の大会カメラマンか何かのように「威風堂々」とあることがだいじ───。
 生まれて初めて来た場所であろうと、顔見知りの人間が誰も居なかろうと、「オレはもう何十回もここに来てンだからね、ここの関係者の三分の一はオレのことを知っているものね」てな顔をして、歩き方も大胆に、声もなるべき大きく元気に命令口調なんかでやるのがもっとも理想的なのである
 そうすると、周囲もだんだんその気になってきて、あの有名なはずの人は確か誰だったかしらねえ、ぐらいにいつのまにか位置づけられて、本来、関係者だけには出さないつもりだった役員テントの中の高級なお茶かんかにありつけるということが、まああるのだ。
 それにしても海の風はやっぱり冷たい。早く来ないと、もう…

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             藤森隆一

 若潮マラソン

 一月二十五日午後一時五十分。千葉県民運動場を吹き抜ける風は冷たかった。
 あの一団か?水色のパンツは───と、違うようだ。来んなあ、なかなか。また来た、また違う───。
 友人のSがマラソン大会に出場するというので、それじゃ写真を撮ってやろうということになった。数日前の手紙で、「なにしろ初めてのフルマラソンなので、当日のコンディションによってはタイムは多少前後するかもしれません」と、書いてはあった。
 当たり前だ。頭の中にどんな立派な「高集積論理回路」を持っている人間だって、初めて走るマラソンの自分のゴールのタイムをピタッと当てるなんてことができるものか。また来た。また違う。やっぱり棄権か。とすると車で来る?
 あれも違う。
 ありゃ、とうとう過ぎちゃったぞ、予定タイムが。ひょっとして歩いてんのかもしれんなあ。今までは三十キロが最長レースって言ってたから、やはり勝手が違うのかも。
 宿酔の頭と身体全体が、外気の中で、無理やり正常に戻ろうと無駄な抵抗をはじめる。
 とりわけ腹部がいちばん批判的だ。最近のぼくの飲み方、「ムリ、ムラ、ムダ」が多すぎる?そうなのだ。少し控えなきゃ……と、心にも無いことを親愛なる胃ぶくろ氏に言ってきかせながら、昔のTV番組じゃないけれど「何でそうなるの?」と、形だけはあくまで思考のポーズ。
 四谷三丁目に、猫好きのママのいる『キャット』という店があって、最近入りびたる悪い癖がついてしまった。音楽家─のような輩が夜な夜な集まって来ては、歌ったり、弾いたり、騒いだりしていたずらに時を過ごす……と、ただこれだけの店なのだが、その「常連」の中にけっこう面白い人がいたりして、なかなかなのだ。Sとも何度か行ったことがある。
 Sは昔、ジャズギタリストを夢みていた時代もあって(生意気にも)、ジャンルを問わず音楽にはけっこう造詣が深い。時たま下宿にあそびに行くと、エリック・サティだのジャンゴ・ラインハルトだの、マーラーの五番だの、まんまるお月さん音頭だの、さらにまだレコード棚から何やらわけのわからないやつをひっぱり出して聴かせてくれたりする。俗に言う『聴かせ魔』なのだ。
 ある時、二人で酒を飲みながらこんな言い合いをした。それはぼくが、「何故ギターをやめてしまったのか」としつこく聴いたからなのだが、
「音楽っていうのはだな。要するに耳なんだよな。これが光ってないとだ、たとえどんなに技術的に修練をつんでも、限界を越えられないもどかしさっているのが常にあって、まあ、おれがやめたのは結局、自分に耳がないってきがついたからだ」
「それは早計だな。耳はテクニックのうちだ。どんな野暮な耳だって、朝から番まで訓練に訓練を重ねていれば、どんどん上達するはずだ」。ぼくは反論した。
「いや、そうじゃない。やはり最初に耳ありきだ。もともと無いやつはどんなに努力したって、ある一定のところ止まり。これはどうしようもない」とSはつっぱる。
「じゃ何か、それはひとつの、持って生まれた才能のようなものだというのか」
「そのとおりだ」
「才能なんていうのはだな。実際には、ほとんど関係ないんだ。エジソンじゃないけど芸術なんていうのも九十九パーセントの努力でほとんどこと足りる。絵はどうか知らないが、音楽なんてとくにそうだ」
「それは、おまえが才能と縁がない人間だから勝手にそう思っているだけだ」
「アホか。才能があろうとなかろうと、結局それを評価するのは別な人間じゃないか」「いかにもタコニモ。だから聴く耳も必要だし、演奏者はそれ以上にその耳あgだいじなのだ」
 これは確か、新所沢の『スワン』にジャスのライブを二人で聴きに行った時の話だ。そのときのバンドには、ぼくの知り合いがピアノで加わっていて、関西からわざわざ出向してきていた学生バンドみたいなやつだったけど、なかなか気分のいい演奏だった。 でも、演奏よりもぼくはこの話をも少し続けたかったので、話をまぜっかえした。
「だいいちだな、音楽はこころだ。心こそが大事だって、わかるだろう。それはお前だって否定はしないだろ」
 途端に、Sは呆れはてた顔になって、
「ばかいうな。おまえが大事な話をききたいっていうから聴かせてやってんじゃないの。あのな。おまえにそんな小学校の先生みたいな、きれいな上っ面だけの言葉を吐かせるために、おれは話をしているのかっつーの。そんなアホなこと言うんだったら、この話はもう終りだ」
 しゃ、ぼくのしてやったりという顔に舌うちしながら、その満足顔を何とかつぶそうと、この五倍以上の罵声と誹ぼう中傷を延々としれも猛烈な早口でまくしたてたが、言葉に限りがあるやら、一方で、勝ちを見きわめた喜びを必死にかみ殺している目と目が合うやらで、しまいにとうとう二人とも吹き出してしまった。
 後日、ぼくはその話をだいじに抱えて『キャット』に持っていった。
 そこの常連にすばらしいバイオリニストがいて、その人がそういった談義が非常に好きなうえ、さらに都合のよいことには、この世のことで、自分で説明がつかないということがきわめて嫌いな御仁だったので、きっとウケると思ったのだ。
 その日、店の止まり木に、その「猫の店のバイオリン弾き」の姿をみつけるや否や、ぼくはそのことを話した。
「どっちも一理あるんもはわかっているけど、この話は結局、どっちの結論で終わるべきなんだろうね」。真顔でぼくはきいた。才能かハートか。
 この結論はぼくにとってどっちでも良かった。
 なぜなら、それが音楽の演奏にとって、どっちが欠けてもいけない車の両輪であることは、お互いみんな判りきったことだったし、ましてや技術論と観念論、唯物論と精神論みたいな道具の違うケンカで勝負がついたためしなど、これまで歴史的にみたってどこにもありはしないのだ。
 ぼくはただ、二者択一をせまることで、彼がどんな説明をまことしやかにつけてくれるのか、それを期待していた。欲をいえば、二人あがかりでなら、Sの頑強な『体験者の哲学』の中に入り込んでもバチはあたるまい、という一抹の思いもあった。
「簡単なことだよ。そんなこと。まず彼に『耳』の話をひとくさりさせておりて、それからおもむろに、『じゃあ、その耳はいったい、どこについているのか』って言えばいいんだ」。期待たがわず、H氏(バイオリニストのこと)は、笑って即座に応えた。
「それで?」
「そうしたら、頭にうついているって、おそらく彼は言うだろう。そしたら今度はその頭は誰のだっえ言えばいいんだ」
「それで?」
「オレのだって言ったら、それじゃオレってなんだ?て」
「人間か」
「そうだよ。そしたら人間て何だっていえばいいんだ」
「なるほど。よくわかった」
 全然よくわからなかったけれど、後日、電話でSにそのことを話すと、彼の答えは「いつでも勝負しえやる」だった。
 この手の話をそこの常連たちは延々とやる。つまり「いたずらに時を過ごす……」と、これだけのことだが、まめに通っているわりに、この「いたずらの時の過し方」が、僕はあまり得意じゃなくて(そんなものに得て不得手があるのか、と言いたい人もいるだろうけど、「上手な時間の使い方」っているのがあるんだから、「いたずらな時の過し方」っていうのがあっていいわけだ……)、昨日も、そのテーマに何らかの解答を得ようと、足の赴くまま、つい分断同居の塵に交わってしまったのだ。
 明日はヤバいな?と思いつつ、結局、どうせ撮るならゴールの瞬間がいい」という当人の意志を尊重、当日に会場到着が遅くてよくなったことが、今回の宿酔いの原因となった。
 それにしても昨夜の『音楽会』はハチャメチャだった。ピアノと歌のえらく達者なオばさんが何とボクの中学時代の家庭教師の従姉妹だって。世の中狭いって感歎しながら、全員がノリにノッてそこを出たのが朝の六時半。フツーじゃないよ。まったく!
 つきあうママも悪い。ノセるみんも悪い。ピアノのウッシーがとくに悪い。

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 私の親友でありました堀雅裕さんが亡くなりましてもうすぐ丸6年になります。
 彼は新聞記者であり、かつミュージシャンでありました。そして実に文を書くのが大好きで、よく文を書いていました。
 それで、私のサイトには、迷ったら行け 新宿ゴールデン街 があります。ただ、彼の作った小雑誌があったのになあ、それに彼の小説が載せられていたのになあ、という思いでいましたが、でもそれは見つかりませんでした。
 でも、どうやら私の御茶ノ水の事務所の引越で見つけました。

 それをここに載せていきます。
 ただし、短い文章だと思っていましたが、それを打っていきますと、けっこう長いのです。
 今後、ここにいくつか分けてUPしていきます。彼の小説を書くときのペンネームは藤森隆一です。

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 Simple -憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々-この記事 がありました。
 私は、この方が最初に書かれています

鉄道会社は車内での携帯電話使用を容認すべきである。

を読みまして、驚きました。だが引き続き書かれている内容を読みまして、「あ、そうだよなあ」なんていうことをあげました。

これから帰省のため電車を利用する。電車といえば毎回アナウンスで携帯電話使用の「禁止」を呼びかけられる。いい加減聞き飽きた。自分の場合、電車内で通話をしないようにしているが、他人が電話していたも特に気にはしない。

 ここを読みまして、私もあらためて「思えば、別に気にしないよなあ」なんて思いました。ただ、ケータイが一般に使われるようになった頃の、新幹線の中で携帯電話で話す方はどうしても傍若無人に思えたものでした。そういう声、そういう喋り方をする人が多かったのです。

世論ではどうだろう。電車内での携帯使用を「禁止」するか「容認」するか、社会的な合意は得られていない。

容認派は、次の点を根拠に容認を主張している。

おしゃべりが許されているのだから通話も許されるべき
海外や日本のある地方では携帯使用が問題視されない

 たしかに、お喋りはいいのだから、別に構わないと思うのが当たり前かなあ。

一方で禁止派は、

マナー違反
ペースメーカーへの影響
不快感

を根拠としている。

 やっぱり「不快感」でしょうね。
 ただこの「不快感」というのは、一番は「携帯電話を使うこと」そのものにあるよ06081110うに思います。つい先日、「電車内で通話をしないように」とのアナウンスがあったときに、すぐに「あんな放送したって、誰も守っていないじゃない」と大声で言っていた、二人の60代のおばちゃんがいました。私は「何言っているの、誰もケータイなんかで喋っていないじゃないか」と思ったのですが、どうも、その馬鹿で阿呆なばあさんたちは、携帯電話で、誰もがメールしていて、使っている状態が、「アナウンスでは携帯を使うな」と注意しているのに、と思い込んでいたようでした。もう私はこういう阿呆なばあさんは殺したくなります。私はケータイでブログへの書込みをしていたところですから。

 ただ、今こうして諸外国では、別に電車内でのケータイでの通話を認めているのに、何故日本では嫌に思う人が多いのかといいますと、それは、何故か私たいは、ケータイで話すときには、声高になってしまう人が何割かいるからかな、なんて思いました。これは不思儀なんですが、そういう人が多いように思います。
 でもまだ私は私の思いに、納得できないときに、ここで書いていることを読みまして、また頷いています。

なぜ、車内での通話が不快なのだろうか。社会学者の吉見俊哉は、電車内の空間とは異なる異質なリアリティを通話者が車内に持ち込むから、と説明している。

通勤電車やエレベータなど、閉鎖性の高い公共空間には、一般に「不関与の規範」が成立しています。人々は互いに口も聞かず、見知らぬ態度でいますが、これは場を共有していないのではなく、そのように無関心にふるまうという規範を共有しているのです。ところが携帯電話の会話を楽しむ人は、そうした場の共有という前提そのものにひびを入れます。
(吉見俊哉『メディア論』有斐閣 2004 p.209)

海外では携帯の使用が容認されているのに東京の交通機関では非難される。その理由は、日本の公共性が規制や共同意識の強制を伴って形成されてきたからではないか、と吉見は同書で述べている。

 うん、そうだよなあ、と充分に頷いています。

 昔私がビジネスシヨー(たぶん、96年くらいのこと)で、親友の堀雅裕さんと一緒に飲み始め、さらにシヨーが終わったあと、外の飲み屋でさらに飲み続けました。そのときに私は、飲み屋から少し出てケータイで連絡の電話をしたところ、堀さんがいうのです。なんで、ここで(つまり飲んでいる席で)ケータイを使わないのだと。私は、「いやこういう場で使うのは、他の方に迷惑だろう」といいます。堀さんは、「なんで?」ということで、私がさらに応え、さらに「何で?」ということで、堀さんは、私からケータイを取り上げて、電話しだしました。私が先ほどまでかけていた女性に対してです。彼女は私のクライアントの素敵な女性で、彼も私も大好きな女性でした。
 でも彼はその彼女と飲み屋の席で、ケータイで実に静かに会話していました。そして終わったあと、「だからケータイってのは、こういうふうに話せば、誰にも迷惑じゃないんだよ」と、私とその飲み屋の板前さんに言っていました。

06081111 そのときのことを、今ありありと思い出します。全然ケータイで飲み屋という場で話しても、彼は静かに普通に会話できていました。このことが実に懐かしいです。

 だから思えば、別にケータイで電車の中で喋ってもいいんだよな、なんて私も思うようになりました。

車内でも通話が出来たほうが便利だ。携帯電話の使用を鉄道会社に容認してもらいたい。もともとおしゃべりしている人がいるのだから、騒音の点では変わらない。後は公共性の問題だが、乗車する人々の意識を変えれば良い。海外と同様、場の定義づけさえ変われば、携帯電話の使用が非難される空間ではなくなる。

まずは鉄道会社が「携帯電話OK」とアナウンスすればよい。一時期苦情が来るが、時期に携帯電話使用が当たり前になる。禁止していても使う人はいるし、禁止しているからこそ「マナー違反」だと感じて腹も立つのだ。

効果の無い「携帯電話使用禁止」を訴え続けるのではなく、使用を許す空気を作った方が、多くの人にとって気持ちが良いはずだ。

鉄道会社は車内での携帯電話使用を容認すべきである。

 私もこの通りだと思います。ただ、もうほぼケータイではメールですべてすましていますからね。ブログの書込みもおおいにやっています。
 いやだからもう、この車内でのケータイでの会話も許可されてもいいのだと私は思いますね。

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