将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:増田幸弘

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新聞名 図書新聞第2943号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年11月28日
読了日 2009年11月21日

 最初に以下を読みます。いつものことですが、なぜかそういうふうになってしまいました。そしてそこで紹介してある本も読むようになりました。

評者◆秋竜山 老化だろうか、の巻

溝口徹『「脳の栄養不足」が老化を早める!』(青春出版社、本体七七〇円)では、老化はトシではなく、脳のせいだという。
 〈そもそも老化とは何かということについて、一応の定義をしておこう。医学的には、「年々歳を重ねていく加齢とともに、身体の臓器の機能が低下して、ホメオスタシスの維持が困難になり、死に至る過程」を老化としている。何やらさっぱりわからない、というのが大半の印象かもしれない。噛み砕いて説明すると、ホメオスタシスというのは生体恒常性のことで、身体の内部や外部に変化が起きても、身体を一定の状態に保とうとする働きのことだ。〉(本書より)

 脳がいわば老化していくと、歳をとったということなのですね。そしてそれがやがて死に至るのですね。死に至ったときに、脳と身体の停止が一致するのかもしれません。
 私にも、もうそんな彼方のことではないのですね。そんなことをいつも思います。

評者◆とよだもとゆき インターネット時代に新聞と記者のあり方を考えさせる――昭和の諸事件を見つめてきた記者たちの多彩な人生の軌跡現代史の目撃者 朝日新聞記者たちの昭和事件史上原光晴 光人社

 ここで、次を読みまして、少しだけ違和感があります。

 新聞をとりまく環境は、いま厳しさを増している。若年層の新聞離れが進み、広告収入の減少は経営基盤を揺るがしている。インターネットの普及でWEB上には情報が溢れ、わたしたちの情報源として新聞が果たす役割は低下しているようにみえる。
 しかし、新聞の存在意義が薄らいでいるわけではけっしてない。たしかに市民参加のインターネット新聞にも独自の役割はあるものの、情報の妥当性には疑問が付されるし、鳴り物入りでスタートしたものの、立ちゆかずに撤退したネット新聞もある。

 紙の新聞は次第に存在価値が薄れていくのは、もう必然なように思います。私も紙の新聞よりも、インターネット上でそのデータベースを読んだほうがいいです。ただ来年春から、日経新聞のインターネット版が開始されるようですが、これは従来の新聞の過去データベースとは違うものだろうと私は予測し、期待しています。
 たしかに、従来の新聞をインターネット上で読むのとは違うものができていくと思っていますね。そもそも私は新聞を紙で読むよりも、パソコンの画面で見たほうが読みやすいのですね。
 だから私は、「記者」は存在し続けるでしょうが、いわゆる新聞記者ではない、記者が出てくると思っています。当分は従来のフリーライターが活躍する場なのでしょうね。

 それで私は一面に戻ります。
 レヴィ・ストロースが亡くなったときは、新聞で知って、声をあげたものでした。100歳だったのですね。その彼に関する記事と彼の顔写真が一面です。

評者◆今福龍太 追悼 クロード・レヴィ=ストロース 世界の変容を直覚しつづけた頭脳

 『悲しき熱帯』で、文化の喪失を哀悼する甘美さと、搾取的調査者であることから免れない潔癖な負い目とともに回想されたブラジル。そのインディオの赤い大地は、蟻塚の林立する荒野でもあった。シロアリたちの群が土を円錐形に盛り上げてつくった塔のような蟻塚の内部に張り巡らされた稠密なサーキットを想像しながら、レヴィ=ストロースはそこに野生の頭脳が外在化されて屹立しているのだと信じた。彼は書いた。頭蓋骨という蟻塚のなかに収められた無数の神経細胞から成る別社会と、それに対してロボットのように働く私の肉体とのあいだの闘いに巻き込まれた争点こそが「私」である、と。私は存在するとしても、それはいささかも個人的なものではない。レヴィ=ストロースの「私」とは、主体化され特権化された個人が生きる世界にははじめから居場所を持たなかった。

 うーん、ちゃんと私も読んでいかないといけないな。思えば私は彼の本は書店で背表紙を見ているだけでしあtね。反省しなければなりません。
 サイト限定情報の

評者◆増田幸弘 ヤン・ライヒの思い出
評者◆杉本真維子 見ちゃいられないよ。

 これは二つとも、実にいい内容でした。私もいくつかのことを思い出し、そしてまた改めてここを読み返したものでした。

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新聞名 図書新聞第2942号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年11月21日
読了日 2009年10月14日

 どこを取り上げたらいいのか困りました。また秋竜山のところが目に入りました。

評者◆秋竜山 人間いろいろ、論語もいろいろ、の巻

 守屋淳『「論語」に帰ろう』(平凡社、本体七〇〇円)の、「帰ろう」も、「帰ろかな、帰るのよそをかな……」ではなく、「帰るべき」であろう。

いや読んでいるときは、もちろん一面から読むのですが、こうしてインターネットで書くとなると、別なところを読み出しているわけですが、でもこの秋竜山さんのところに紹介している本は著者名と題名を必ずコピーして、読むことになってしまいます。

評者◆山折哲雄 民俗学の系譜をたどりながら 「鬼」伝説の叢に分け入っていく――酒呑童子と坂田金時のテーマをとりあげた自在な議論の展開
鬼の思想 鬼哭と狂気綱澤満昭 風媒社

 鬼の源流を求めて、それが平地人に追われ山中に逃げこんだ先住民の裔だった、といったのが周知のように柳田國男だった。平原から掃討された悲運の民が、ときに里に出没して人をさらい、怪奇のふるまいをのこして、積年の憤気をふりまいたまま奥山に姿を消す。
 一方、オニはヒトの変化したもの、モノの凝り固まったもの、それがときに「マレビト」として出現し里人の心胆を寒からしめる、祝福と脅威のサインをのこして足跡をくらます、――そのように主張したのが折口信夫だった。

 ああ、そうなんだ、と今ただただ感心して読んでいました。次も「なるほどなあ」なんて声をあげたものでした。

 昔話の「桃太郎」では、周知のように爺さんが柴を刈るために、山中に入るところから話がはじまる。やがて桃太郎の誕生を通して、里に幸運がもたらされる。ところが昔話の「金太郎」では、怪童はまさかりをふるって巨木をさき巨岩を打ちくだいて、熊を手下にしたがえている。いってみれば桃太郎話は里山を舞台にしてくりひろげられるモノガタリ、それにたいして金太郎話は、奥山を縦横にかけめぐる怪童のモノガタリということになるだろう。金時説話が三輪山神話と同根の思想をあらわしているのも、山人社会の縄文的息吹きをよりいっそう強くのこしているからであるにちがいない。

 この本も読んでみないといけないなあ、という思いを強く思いました。

 サイト限定情報の以下も、読んでいて、ものすごくうなずいたものです。

評者◆増田幸弘 表現の自由???

 そう、こうしてインターネット上で何かを書いていると、とても嫌な不可解なことがあるのですね。

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新聞名 図書新聞第2938号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年10月24日
読了日 2009年10月16日

 一面の大工鉄弘さんが書いてあるのを見て、「あれ、俺はこの歌手は好きではないはずだなあ」と思い、「なんでだろう」と思ったものでした。

評者◆大工哲弘(聞き手・鈴木義昭) 働きながら歌っていた時と同じように――大工哲弘氏インタビュー 八重山の島唄の歌い手として

 それで読むのもなんだか避けているような思いでした。でも、自分に「ちゃんとよまなきゃだめだ」と言い聞かせて、最後まで読んでみました。
 この方は八重山の方ですから、沖縄が好きで、さらに私は八重山が一番好きですから、自分の気持のあり方が不可解でした。
 でも、以下を読んではるかな昔を呼び起こしました。

 戦後五十年という節目で、那覇市の振興課の主催で「トーク&ライブ」があって、筑紫さんがしゃべった。超満員でね。その時初めて「沖縄を返せ」を歌ったんですよ。中年層は手拍子をして歌ってくれたけど、若い人たちはもう何を歌っているのかわからなかった。「沖縄を返せ」は、六〇年代後半、安保問題とともに沖縄返還運動が全国的に高まっていく中で歌われた歌なんですね。僕も、その真っ只中にいた。そういう意味で、スクラム組んで歌っていた自分としても、残しておきたいと思ったんです。復帰と同時に誰も歌わなくなった。あたかも復帰したのが良かったみたいに、あの過去に帰りたくないというみたいに。あの日本中が揺れ動いた運動が何だったのか、誰も語ろうとしない。誰も歌おうとしない。「沖縄を返せ」という歌を歌ってね、若者たちにもう一度歴史の変遷を考えて貰おうと思ったんですよ。

 これは本当のことを書いていません。「若い人たちはもう何を歌っているのかわからなかった」のではなく、この「沖縄を返せ」という歌を拒絶していたのです。本当は若い人だけでなく、あの歌を唄わない人は多かったと思います。私も決して唄いませんでした。私たちの世代では日本共産党の人だけが唱っていたかと思います。
 ただし、一度だけ沖縄のいくつもの歌を載せてあるCDで、彼のこの「沖縄を返せ」を聞きましたが、愉快でないなあ、と思う私の耳に、この歌手は、最後に「沖縄を返せ」ではなく、「沖縄に返せ」と唄っていました。そのときだけは、私は不思儀にこの歌が私の身に染みるような思いになったものでした。

評者◆秋竜山 漫画記号論、の巻

 いつも感心して読んでいる秋竜山さんです。いや読んでいるうちに全文を引用したくなりました。それでは何にもなりません。

本書(大塚英志『アトムの命題――手塚治虫と戦後まんがの主題』)では、田河水泡の「のらくろ」の足許に描かれてある「土煙」について述べられている。

 私もこの本を読まねばなりません。
 以下のサイト限定情報も実にいい内容です。

評者◆増田幸弘 これはルポじゃない

 取材とは「発見」をすることである。
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 先輩デスクに「これはルポじゃない」と言われたことを思いだし、初心に返り、もっと粘ってみようと思うのである。とくに写真は顕著で、粘りに粘った末に撮った一枚が大きく使われることが少なくない。それは予定調和の時代であっても変わることはないことだろう。記事をつくるには愚直にこつこつ取材を積み重ねていくしかないのである。

 そうだなあ、とつくづく思います。

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新聞名 図書新聞第2915号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年4月25日
読了日 2009年4月19日

 なんか、いつも秋竜山さんの書かれているところしか私には読めないな、なんだかこれでは私が情けないのかなあ? なんて思いながら、そこに紹介してある本はほぼ読むようになっている私です。

評者◆秋竜山 要はすべて集中である、の巻

山崎拓巳『やる気のスイッチ!』(サンクチュアリ出版、本体一四〇〇円)では、〈昨日のやる気を、今日出せない人へ〉とか、〈成功者たちは爐笋覽い離好ぅ奪銑瓩鮖っている〉〈「意欲」と「行動」の因果関係をやさしく解説しつつ普段から実践できる秘密の達成メソッドを紹介します〉。〈やる気が出ない時に〉には、様々な理由がある。理由なくなんとなくやる気が出ない、というのもあったりするかもしれない。やる気というのは非常にむずかしい問題であって、このような一冊の本になってしまうほどだ。本書の面白さは、全ページがノートに書かれてある箇条書きのようなスタイルをとっていることだ。まず読みやすい。

 もちろん、私はこの本も読みます。ただし、少し時間がかかるかもしれません。でもいいことが書いてありました。

〈やる気の正体は「集中」であって「興奮」ではない。「集中」と「興奮」はよく似ているが、全然違う。「全身全霊」と「一生懸命」の違いでもある。「全身全霊のときのみ神意が働く」という言葉があるが、集中していると、自分の力以上の見えない力が働くのだ。興奮してテンションを上げるのではなく、集中して、「テンション高めの平常心」をキープする。〉(本書より)

 これは実によく判るなという思いです。私なんか、「興奮」することはあっても、「集中」できていないなあ、なんて思いますね。今後改めていかなくちゃあな、なんて真剣に思いました。

 次は「サイト限定情報」とあるので、インターネットのホームページのみで読めるのでしょう。実際の新聞を見ればいいのですが、もう私は棄ててしまい、その棄ててあるところから拾う気になれません。
 私が読んだのは、以下の内容です。これがもう実に「よく判るなあ」という思いなのです。

評者◆増田幸弘 編集の仕事と人との出会い

 最初に以下のようにあります。

Mixi、飽きたよね」。ぼくのまわりでそんなことをいう人が最近、なぜか多い。いい年をした大人が、どうしてそんなことを言い出すのか、よくわからない。が、ともかくなにか潮目が変わってきたということなのだろう。

 でも実は、この文はMixiのことなんかを言っているわけではないのです。私なんか、Mixiなんて最初から飽きている、呆れている感じでした。
 でもこの増田さんは、新聞や雑誌の仕事をするようになって、FAX→パソコン通信→インターネットと変化してきていて、もう何かが変わってしまったのです。

 いまプラハにいて日本の仕事ができるのは、インターネットの存在があってこそである。ファックスも備え付けているが、もはや過去の遺物となりつつあり、使ったのは3年間でわずか1回だけだった。

 まったく同じです。FAXは受取ますが(どうしてもFAXという人がいますからね)、私から送ったのは3年に1度でした。
 でもでも、こうなってどうなったかというと、以下のように言われることに納得している自分がいました。

 この四半世紀のあいだにうまれた新しい技術によって、ほんとうにいろいろなことが可能になった。しかし、新しい技術によって失われた数多くのものもある。その最大のことは人に会わなくなったことだろう。それを補うかのように人びとはMixiに人との出会いの機会を探し、ブログを通じて人とのつながりを求める。

 メディアがだめになった一因が、記者や編集者が人に会わなくなったことにあるのもたしかなような気がする。会うとすれば身内だけだからなのだろうか。週刊誌のネタはなんだかどれも身内ネタばかりで、正直、読んでいてちっともおもしろくない。

 私はMixiも少しも面白くないです。だけど、飲み屋に行ってもそれほど面白くないですね。もうそこでの話題事態が面白く感じられないのです。

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