将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:夏目漱石

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 私のこの一つ前のUPの2つ目の画像も同じですが、ここの3つの画像も伊豆の修善寺です。ここは今は伊豆市となりました。市になるときに、「修善寺市」という提案もあったのですが、「伊豆市」の方が大多数の意見でした。
 私はここには今まで2度行っています。泊まりましたのは1度です。宿泊した温泉旅館もよく覚えています。2度目は家族4人で行きました。そこで娘たちをデジカメで撮りました光景も思い出します。
 ここの修善寺に行ったとき「岡本綺堂『修善寺物語』」をよく思い出し。北條政子のことも思い浮かべました。源頼家の魂を安らかに眠ってほしいと、娘の二人が高いお墓に登ってくれました。また私は夏目漱石も思い出します。漱石が泊まっていた旅館も思い出します。当然修善寺川の中の独鈷の湯も思い出してきます。
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 もうおはぎは結婚していたのだよな。もう詳しく思い出してきます。そこで見た頼家の面も思い出されます。鎌倉武士団にとっては、摂津源氏貴族の頼家なんか許せないものでしたでしょうが、頼家は鎌倉武士団の前で蹴鞠をやるのです………、それは政子も鎌倉武士団と同じ思いだったでしょうが、また政子は母として自分の乳房を吸う赤ちゃんの時の頼家の存在もあったはずなのです。
 それがどうしても悲しいです。15111906
そしてこの橋での映画「あうん」での、高倉健・富司純子・坂東英治も思い出されます。

1309180113091802 今日の新聞を目にして、真っ先に挿絵の子規の顔のそばにある俳句を読み上げました。

  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
  あかとんぼ筑波に雲もなかりけり
  島々に灯(ひ)をともしけり春の海

 私は子規の古今を貶し、万葉をやたらに褒めることが嫌いで、このことを高校三年の4月の最初の頃授業中に激しく述べたことがあります。でも私自身は決して子規のことは嫌いではないのです。 

植木と五郎は、ひと目で意気投合したようだった。……。…………。…………。しかも正岡子規や夏目漱石など、共通に知人がひとりならずいる。

13091205 五郎と植木は話が合うようです。それが初志郎には気にいられないようです。彼は次のようです。 

ひとりだけ除け者にされているような気になって、長屋にひきあげてしまったのだ。それならかえって安心である。
 ところが酒のおかわりをとりに台所へゆくと、勝手口の戸が開いていた。閉めようとして、けんははっと目をみはる。

 また初志郎がもどってきたのか。それよりも、これはおようだろうな。波乱が起きてしまうのかなあ。

1307050113070502  昨日最後にこう書きました。「私も興味を持ちます」。そうです、植木はどう興味を持つのでしょうか。

 植木も笑顔になった。親方の墓前で書物の話をするのもなんですが……と笑いながら、夏目漱石です、と答えた。
「漱石くんの本は手当たり次第に読みました。正岡くんもそうですが、大学の後輩ですから」
 植木の時代は東京大学、漱石や正岡子規のときは帝国大学、今は東京帝国大学と名称は変わっているものの、三人は同窓である。

 そうなんだ。また改めて植木を思いました。
 あるときに、漱石が好きだという大学生と話したことがありますが、あまりに知らないことにあきれたものです。いや「坊ちゃん」もロクに分かっていないのですよ。またそのことは述べることがあるでしょう。「坊ちゃん」の内容もよく分からないで平気で喋るものです。
 しかし、けんは月心和尚が「一緒にお茶をどうか」という誘いを「わたしは帰ります」となるのです。13070307

 けんはひとり、末廣に帰っていった。

 なんとなく寂しいな。これは植木のことが好きなのに、好きだったのに、今も独り身でいるけんを思うとこう感じていますのです。

13031403 私の書いた、

 2013年03月15日「ローマ教皇」と「ローマ法王」ってどっちがいいの?

ですが、これに目森一喜さんから、以下のコメントがありました。

1. Posted by 目森一喜   2013年03月15日 18:13
 現在では「教皇」とするのが一般的です。
 ウィキペディアには、

「キリスト教では、カトリック教会の最高権威であるローマ教皇をさして「法王」あるいは「ローマ法王」と呼ぶことがある。
かつては「法王」と「教皇」が混用して用いられていたが、1981年のヨハネ・パウロ2世による史上初の教皇日本訪問に際し、日本のカトリック司教団が「王」という印象を与える「法王」よりも「教え」という文字が入っている「教皇」の方が現代の教皇のあり方にふさわしいと考え、両者の混用を廃することにした。それによってカトリック教会の表記では「教皇」に統一することとし、マスメディアにも呼びかけた。以来、カトリック教会としての公式な呼称は「教皇」で統一されているが、マスメディアや一般の書籍では未だに「法王」と「教皇」が共に用いられている。歴史関係では「教皇領」など教皇を使う場合が多い。
官報や外務省関係の書類やホームページでは、一貫して「ローマ法王」の語が用いられており、日本政府における公式称号はこちらである。これはバチカンと日本が外交関係を樹立した際に大使館名を「ローマ法王庁大使館」として届け出たことに由来する。後に上記の名称統一が行われた際にローマ教皇庁は「法王庁」から「教皇庁」への変更を申し出たが、日本政府は国号変更等の事情がない限り認められないとして棄却され、現在に至るまで「法王庁」の呼称の13031404ままである。また日本では「皇」という字は主に天皇及び皇室に使われる字であるため、皇室と無関係でありながら同じ「皇」の字を使う「教皇」を避けているという見方もある[要出典]。
日本のカトリック教会の見解は下記の通り。上記の大使館名変更不可の経緯についても触れている。」

 とあります。法王で調べたら、キリスト教の欄に以上の解説がありました。法王はダライ・ラマ法王という風に、キリスト教以外の宗教指導者にも使われます。

 これに書いてある日本のカトリック司教団が「王」という印象を与える「法王」よりも「教え」という文字が入っている「教皇」の方が現代の教皇のあり方にふさわしいと考え、両者の混用を廃することにした。それによってカトリック教会の表記では「教皇」に統一することとし、マスメディアにも呼びかけた。以来、カトリック教会としての公式な呼称は「教皇」で統一されているというのが、今ではものすごく納得がいきます。
 このことについて、書いておきたいと思うのですが、まず最初に、「そんなことは日本語で判断することがくだらない」とお考えの方がいるとすれば(もういないでしょうが)、もうこの私のサイトには二度と訪れないでください。そういうお馬鹿とは私はまったくお付き合いしたくありません。
 日本人は英語がインド人やアラブ人よりも不得意だといわれます。夏目漱石は懸命に英語の書籍を理解しようと努力しました。それがあの苦悩だったのです。インドではかのカースト制の下、理解できない言語の持ち主に共通語の英語で理解(理解といっても喋り言葉が通じるだけ)するしかないのです。
『我輩は猫である』の猫は、実によく人間の言葉が分かりますが、漱石は、懸命にいくつもの漢詩で日本人の中13031405国詩を理解しようとしました(彼の漢詩の平仄の技なんか驚くべきことです)。
 私は漱石の漢詩を思い、そしていくつも思います。
 ああ、またこのことは別に書きましょう。漱石の漢詩を読んでみて、いくつものことを思い出しているのです。

12090812 今日も孫にも娘にもミツ君にも会いたくなっている私です。

2012/09/09 06:11昨日おはぎの家で、三人の孫とのことを思い出します(最初はおはぎ以外はいましたが、そのうちにミツ君とポコ汰がプールへ行きまして、ポニョとポポと私たちじいじとばあばになりました)。
 でも昨日は優しいお姉ちゃんのポニョと、それに優しいお兄ちゃんのポコ汰を知りました。昨日はお兄ちゃんのこともたたいているポポを初めて見ました。・・・、ウーン、あれは私の血なのですね。私の悪いところ、私の悪い血がみな出てしまっているのです。
1209090112090902 真っ先に「黒書院の六兵衛」を読みました。
 淀屋達平が、この挿絵の人物です。

 これがまた、どこが鬼だと思うぐれいの福相でござんしてな。奴(やっこ)相手にも腰が低いし愛想もいい。

 なんとなく私の過去の体験からも、こういう手合いが一番怖いというのが実によくわかります。
2012/09/09 06:34でも実際にはこの日経の一面の春秋を読んだのでした。

 夏目漱石に「初秋の一日」という小品がある。

というところで、「えっ、俺は読んだかな」と思い出せないのです。もちろん、読ん12090903でいるはずですが、思い出せないのです。漱石が鎌倉の禅寺を訪ねるという話(それほどここでも長い話ではありません)なのですが、私は曹洞宗も道元も好きではありませんが、今では曹洞宗のお寺は好きになりました(今も道元は好きになれません)。(そうねえ、そのうちに、臨済宗のことも黄檗宗のこともまた書きます)。
 漱石が鎌倉の禅寺を訪ねるのも、修善寺の禅寺を訪ねるのも好きにはなれなかったのですが、今ではものすごく分かる気になりました。曹洞宗もそんなに嫌いではなくなりました。
120909042012/09/09 07:45「ボクらの時代」で、この三人はいいですね。スリーアミーゴス(北村総一朗・小野武彦・斉藤暁)の三人です。
「がっちりマンデー」もいいなあ。面白いです。丸勘って会社は面白いな。

 なかなかポメラでは正しい漢字が出てこなくて大変です。

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12031703  私のハルノ宵子『緑の呪文』にたつきさんという方から、次のコメントがありました。

はじめまして。
吉本隆明が亡くなってついハルノ宵子さん関係の検索をしていたらこちらに辿りつきました。
それにしても吉本隆明の娘さんでも、ばななの方ではなくハルノ宵子さんを存知とは驚きです。
あの方はマンガ同人界の方では高名でしたが、寡作なせいもあってかあまり知られていないのですよね。
でも、読んでいる人はきちんと読んでいるんだ、とわかって安心いたしました。
私もあの人の独特の世界観と、不思議な絵とに一目ぼれをしたものです。
2000年代に入ってはほぼ仕事をしていないようですが、早くまたハルノ宵子さんの感覚に触れてみたいものです。
ところで、母の影響で私も短歌をやっているのですが、吉本隆明に短歌に触れている本があったのですね。
先日、母が友人に「短歌と和歌の違いはなにか」と聞かれていました。母は「子規以前と以後だ」とかごまかしていましたが、本当はどうなのでしょう。
さっそく、ハルノ宵子さんのお父さんの本を読んでみたいと思います。
それでは、突然にしつれいしました。

 ありがとうございます。
 ハルノ宵子さんは、作品のことではなく、少し私がお会いしたときのことを記します。
 60年安保全学連島成郎(しましげお、全学連書記長、なおこのときはブンドが主導)さんが亡くなられたときに、私は言われるまま、会場の警備係をやっていました(私は何故か島成郎さんも、その奥様もどうしてか親しかったのです)。そのときに、吉本さんがおいでになったのです。割と小さな車に乗られて、私はその車に乗っていたハルノ宵子さんに、すぐに「ハルノ宵子さんですね」と御挨拶しました(車を運転されていたのが、宵子さんの彼氏かなあ、なんて思っていたものです)。吉本さんは、すぐに帰られました。思えば、あんな時があったのでしたね。そののちにも島さんの奥さまからはいつも丁寧に挨拶されています(いや吉本さんの奥さま和子さんにもいくつもの思いがあります。ただただ「ありがとう」なのです)。
 ハルノ宵子さんの漫画は、出版されている限りはすべて読みました(もちろんばななさんの作品も同じです)。今後も読むつもりでいますが、今後はどうなるのかなあ。

「短歌と和歌の違いはなにか」ということですが、私には苦手な思いしかないので、「分からない」というのが正直なところです。ただ、お母様の言われている「子規以前と以後だ」というのが、けっこういい言葉ではないかと思うのですね。和歌とは、その中に長歌、短歌、旋頭歌、あと一つあったようですが、そういうふうにあって、近代でも私の好きな長塚節は長歌をけっこう書かれています。長塚節は、「土」を書かれていまして、それが夏目漱石に誉められていまして、でも「これは漱石がいけないよな。やたら誉めちゃうからな」なんて思うのですね。漱石に誉められた幾人もが私にはとても可哀想になります。
 それが私には正岡子規にも感じられるのですね。正岡子規がいいました万葉調、古今調のことなんか、私は実に腹がたつのですね。
 でも、このことで、私は先ほど書いていた私の「吉本隆明鈔集」の二日先(私はいつも二日先まで自分のパソコンには書いています)で、偶然このことが書かれていました。
それをここに載せます。私が苦労して考え載せるよりもいいでしょう。

吉本隆明鈔集405「現在の俳句と短歌の違い」

 現在の俳句と短歌の違いをいえば、やはり俳句のほうが様式として新しく、ひとりでにモダンな要素を醸し出す表現であるといえるのではないか。同じ作家が短歌も俳句もつくるとすると、短歌のほうがどうしても古いと感じられる。
 今、俳句を詠む人が短歌に比べて多いのは、より短いために入りやすいということもあるが、俳句のほうがモダンな感覚を盛り込みやすく、現在の感性でも容易に入っていけるのだと思う。
(「現代日本の詩歌」『俳句という表現』2003.4.30 毎日新聞社)

 今テレビで見ていましても、五七五という俳句あるいは川柳の形式のほうがいくらでも書かれています。「季語」を入れなければ、「俳句」とはいえないのでしょうが、私はこうして、考えに考えていたところ(私はパソコンにではなく、常時持ち歩いている「ポメラ」で上の文を書いていました。いえ私はポメラだけでなく、IS01もガラパゴスも常時に腰のベルトのデューロカーゴに入れているのです。孫がいつもそれで遊びます)でしたが、でもこの吉本さんのがいいんだと、今気がついたものでした。

11051702 夏目鏡子は、夏目漱石の奥さんであり、1877年(明治10)7月21日〜1963年(昭和38)4月18日の生涯でした。
 ああ、私が中学生のときまでお元気だったのだなと気がつきました。本名はキヨですが、夏目鏡子ということで、知られています。きょう私は本名がキヨだと始めて知りましたが、これは『坊ちゃん』の中で坊ちゃんの話に出てくるキヨはこの奥さまの名前からとったのだと今始めて気が付いたものです。
 おそらく漱石は、この鏡子夫人が実に好きだったのではないでしょうか。だが、もうこの奥さんは、ソクラテスの奥さんクサンティッペと同じように、悪妻と言われています。これは鏡子が口述し、松岡譲が書いた『漱石の思ひ出』でも読んでいると感じてしまいます。
 思えば、漱石がこの鏡子さんを言っている内容はいくらでも思い出すことができます。そしていつも「悪妻だったからなあ」と思うわけですが、でもでも本当のところは違うのじゃないかなあと思えるものです。漱石の本当の気持は違うものだと気が付いたものです。
 数年前に家族4人で修善寺を歩いたものでしたが、病気の漱石をいつも見守っていた鏡子夫人を歩きながらいつも感じていたものでした。(2011.05.17)

 今日の日経新聞の一面の春秋に次のようにありました。これはチリの落盤事故のことで、書いたもののようです。

▼「狭いんで驚いちゃ、一足だって踏ん込(ご)めっこはねえ」。漱石は足尾銅山の坑内を「坑夫」にこう書いた。

11032507  この『坑夫』は、主人公が死のうとしても自殺もできなかったことがあります。偶然知り合ったある男に騙されて足尾銅山の坑内に入ってしまいます。だが彼は実際には坑夫にはならず会計係になります。
 これは漱石の元を訪れた人物が自分の若い頃の体験談を話して、これを小説にしてくれと頼まれたということで、どうもこの人物の話そのものが信用できないものだったようです。それで漱石の小説としては、失敗作だと言われています。漱石の作品を読んだ多くの人も、読んでいないという作品じゃないかなあ。
 朝日新聞に、1908年1月〜4月まで連載されたそうです。私は高校2年のときに読んでいました。思えば、12月にガラパゴスが発売されたら、それで再読したいものですね。

 以上は昨年2010年10月14日に書いていたものです。ガラパゴスは12月にすぐに手に入れていまして、いつも持参するようになりましたが、これでは別なものばかり読んでいます。日経新聞はいつもこれで読んでいますよ。(2011.03.26)

11022009 私はいつもこの作品を『がらすどのなか』と読んでいますが、もちろん正しくは『がらすどのうち』です。
  この作品は、漱石が、『こころ』と『道草』の間に書いた随筆です。
 私が中学2年の12月に、鹿児島の照国神社の真向かいあたりに、ある古書店を見つけました。そこで最初に購入した本が、「徳富蘆花『思出の記』」とこの本でした。年取ったおばさんが一人だけ店番をしていて、安い値段の古書をいつもさらに負けてくれたものです。
  いつも何故か私の購入する本には、ある方の署名捺印が入っていました。その方の名前を今も覚えているものです。この古書店は翌年1月末に無くなってしまいましたが、私は一体何冊の文庫本を手に入れたことでしょうか。そういえば、マルクス・エンゲルスの本も2冊手に入れたものでした。それは『賃金価格及び利潤』『賃労働と資本』でした。
 この作品を書いた2年後に漱石は亡くなります。漱石は自分の両親のことを書いています。思えば、読むのが少々辛い作品でもあります。
 私はここで、「もう2度と読むことはないだろう」というふうに書いていることが多いのですが、この作品はもう一度読み返そうと強く思ったものでした。(2011.02.21)

11011103書名  漱石と倫敦ミイラ殺人事件
発行所 集英社文庫
定価  430円
発行年月1984/9

 この作品は著者のほかのシリーズとは人的なつながりはありません。明治三三年(一九三三)にロンドンに留学した夏目漱石が、シャーロック・ホームズに協力して、奇怪な事件を解決します。著者はホームズにかなり傾倒しているわけですが、そのホームズをめぐってかなり愉しいシーンがたくさん用意されています。
「占星術殺人事件」において御手洗潔はホームズの不合理さについて以下のように喋っています。

  もうないかな……、いやいや、まだあるよ、えーと、あ、そうそう、
 あの人は変装の名人だっけ! 白髪のかつらと眉をつけて日傘をさし
 てさ、お婆さんに変装してよく街中を歩いたんだろう?  ホームズ
 の身長がいくつか知っているかい? 六フィートと少しだぜ。一メー
 トル九十近い婆さんがいて、こいつが男の変装かもしれないと思わな
 い人間がこの世にいるのかしら。こんな婆さんがいたら化け物だぜ。
 おそらくロンドン中の人間が、あ、ホームズさんが行くと思ったろう。
 でも何故かワトソンさんは気づかないんだな。

 これがこの作品ではそのまま出てきます。ある朝漱石は散歩していると、向こうから六尺を越えるレデーが日傘をさしてきます。擦れ違う人は皆目を伏せ、擦れ違ってから皆振り返っています。

  だいぶん距離がつまったので見ると何とホームズさんである。自分
 は気安い気持ちになって、先日の礼を言おうと寄っていった。
 「ホームズさんこんにちは」
 と喉まで出かかってふと思い留まった。見るとホームズさんは澄まし
 て、そっぽを向いている。先日の悪い記憶がよみがえった。ここでホー
 ムズさんと声をかけたら、また発作を起こされるかも  しれない。
  それで皆通行人は知らん顔をしていたのかとようやく合点がいった。
 ホームズさんは、いわば倫敦の名物のような人物であるから、今や知
 らぬ者などないのである。皆遠慮して変装にだまされたふりをしてい
 るのだ。
  自分もそっぽを向いたまま、口笛を吹きながら擦れ違ったら、わは
 はと笑う声が後ろでした。振り返るとホームズさんが角兵衛獅子の帽
 子を脱いでこっちを向いている。ハンカチを女物の袋から取り出し、
 すばやく白粉(おしろい)をぬぐうと、コロモをつけて油の中に入れ
 るばかりになった天ぷらみたいな顔をして立っていた。
  自分はややぎごちないなとは思いつつ、
 「これはホームズさん、ちっとも解りませんでしたよ」
 と言った。するとホームズ先生ますます上機嫌になった。そして、
 「実は何を隠そう僕なのです。困りますな、僕の顔をお忘れになっちゃ」
 と言う。

 実にホームズの病的な時期がありありと浮んできます。漱石もこの当時強度の神経症で悩んでいる時期ですから、この二人の出会いはさまざま笑ってしまいます。

 そしてしかも、この作品は漱石の未発表原稿「倫敦覚書」とワトソン博士の未発表原稿が交互に挿入構成されています。これがまた傑作なのですね。
 著者のホームズと漱石への愛を深く感じます。そして生き生きとして活躍する、ホームズと漱石探偵に乾杯です。(1988.11.01)

10101613 いつも Spider job  蜘蛛業 に書いております 読書さとう が2010年10月6日〜10月24日までのUPしましたものが以下です。これが19回目の10回分になります。

2010/10/24(日)
フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
2010/10/22(金)
巌谷小波『こがね丸』
2010/10/20(水)
小林秀雄『無常といふ事』
2010/10/18(月)
ブル中野『金網の青春』
2010/10/16(土)
スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』
2010/10/14(木)
夏目漱石『坑夫』
2010/10/12(火)
ラシーヌ『アンドロマック』
2010/10/10(日)
オストロフスキー『鋼鉄はいかに鍛えられたか』
2010/10/08(金)
小栗風葉『青春』
2010/10/06(水)
蒲原ユミ子『健太となかまたち』

 漱石については『三四郎』を書こう、その小説の中で描かれている東京の自然のことを書こうと青空文庫で読んだのですが、そのまま書かないままになっています。もちろんちゃんと書きます。

009a57da.jpg 本日朝に、私は「読書さとう」に「夏目漱石『硝子戸の中』」を書きました。中2の12月に読んだもので内容をよく覚えていないので、悔しいからちゃんと読み返そうと思ったものです。いえ、もうインターネット上で読めるのですね。いや、漱石はちゃんと読みなおそうと思うのですね。
 早稲田大近くの漱石の生まれたあたりは歩いても、なんとなく辛い気持になります。千駄木あたりの漱石・鴎外の住んだあたりを歩くのは好きです。
『三丁目の夕日』は2作とも見ました。いい映画ですね。私は2作目の最初で二人が駿河台の今のお茶の水の聖橋の上あたりで会うシーンが好きです。
 写真は、昨日長女の家で撮りました。少々評判の悪いじいじで、困っています。いえ、ポニョにとんかつをそのままあげようとして怒られました。(02/24)

 私はいつもこの作品を『がらすどのなか』と読んでいますが、もちろん正しくは『がらすどのうち』です。この作品は、漱石が、『こころ』と『道草』の間に書いた随筆です。
 私が中学2年の12月に、鹿児島の照国神社の真向かいあたりに、ある古書店を見つけました。そこで最初に購入した本が、「徳富蘆花『思出の記』」とこの本でした。年取ったおばさんが一人だけ店番をしていて、安い値段の古書をいつもさらに負けてくれたものです。いつも何故か私の購入する本には、ある方の署名捺印が入っていました。その方の名前を今も覚えているものです。この古書店は翌年1月末に無くなってしまいましたが、私は一体何冊の文庫本を手に入れたことでしょうか。そういえば、マルクス・エンゲルスの本も2冊手に入れたものでした。それは『賃金価格及び利潤』『賃労働と資本』でした。
 この作品を書いた2年後に漱石は亡くなります。漱石は自分の両親のことを書いています。思えば、読むのが少々辛い作品でもあります。
 私はここで、「もう2度と読むことはないだろう」という作品を書いているわけですが、この作品はもう一度読み返そうと強く思ったものでした。

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 この2月9日はブルータスの誕生日です。私がケータイメールしたら返事をくれました。嬉しいです。

2010/02/09 07:54こうして家の中にいても寒く感じるものですね。もう私も歳なのですね。
2010/02/09 09:58長塚節のことを考えると、実に私には大きいものです。彼が私と同じ故郷であることが大きいです。彼の小説「土」は私には、ただただ読んでいて、懐かしくそして嫌なものでした。たぶん、私の父も母も嫌いな小説ではなかったかなあ。吉本(吉本隆明)さんが長塚節のことを書いている文章がありましたね。でもそれを開くのは今の私の部屋では大変です。
 あ、きょうが私の次女ブルータスの誕生日です。あんなに小さくていつも怒っていた娘でした。今もポニョなんか、ずっとましです。でもブルータスおばちゃんが来てくれないかなあ。ポニョがものすごく喜ぶよ。ポコ汰も実に嬉しいでしょう。
 私の母の3回忌のときに、小さいポコ汰が二人の従兄弟のそばから、ブルータスのそばに来たときをよーく覚えています。ポコ汰はものすごくブルータスおばちゃんが好きなのですね。一緒にお風呂入っているんだものなあ。じいじはうらやましいです。
2010/02/09 10:10もういつもこの朝は大変です。とくにこの水曜日が大変なのですね。お迎えが遅いのですね。実は私はこれを座って書いているだけではないのです。絶えず義母と会話して絶えず立ち上がって、あちこちへ行っています。仕方ないのですね。
 あと、「読書さとう」で長塚節『土』のことを書くつもりなのですが、結構大変ですね。気持ちの持ち方が大変なのです。
 明日は小川未明の童話について書きます。小川未明は何の物語について書こうかな。どちらも、中2か中3で読んだものでしたね。
 日経の一面に「日本、ベトナムでも敗退」というニュースがあります。ロシアが原発の受注で獲得したようです。原発では負けるはずがないはずですが、軍事協力を絡ませれば、北の中国を見据えれば、ロシアが勝ってしまうよな。
 こんなニュースよりも小川未明の童話を考えたいです。いや、今は長塚節ですね。
2010/02/09 10:26まだ義母のお迎えがないので、やきもきしています。困ったなあ。
 とにかく、長塚節『土』を思いだそう。つまらない小説ですよね。なんで夏目漱石が褒めるのだ。私はその中の茨城弁しか思い出せません。

 こうしてブルータスの誕生日を祝えて嬉しいです。でも私もどんどん歳をとりますね

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 周の漢詩入門「夏目漱石『尋仙未向碧山行』」に次のように書いたことですが、私はこのことで、漱石との会っているところを思い浮かべていました。

『明暗』について、漱石は芥川龍之介、久米正雄への書簡で、「新聞一回分千八百字くらいで、百回で十八万字、十八万では字数が多くなって平仄に差支えるから三万字で御免蒙った」ということを述べているそうです。これが転句に書かれている内容です。

 たしか大正4年にこの久米正雄と芥川龍之介、菊池寛が一緒に漱石の家を訪ねます。そこには、新聞社の文芸の記者もいて、その前で漱石は久米正雄と龍之介を褒めます。たしか、次のようなことでした。

 この芥川君と久米君は素晴らしいものを持っています。とくに、この芥川君は云々・・・・。

 これを読んで、龍之介の隣にいる久米正雄が面白いわけがないよね。でもでも、一番面白くないのは、この二人の後にいた菊池寛だと思うのですね。
 でもでも、漱石は私の好きな作家ですが、私は芥川龍之介はそれほど好きではありません。
 そうねえ、私は太宰治のほうがずっと好きです。いくつもの作品も私は漱石と太宰治が好きです。

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2017041013五山文学集』を読んでいて、さすが私には難しすぎるので、また漱石の漢詩に戻りました。

尋仙未向碧山行(無題) 夏目漱石
尋仙未向碧山行 仙を尋ねて未だ碧山(註1)に向って行かず、
住在人間足道情 住んで人間に在(あ)って道情(註2)足る。
明暗雙々三萬字 明暗双々三万字、
撫摩石印自由成 石印を撫摩(註3)して 自由に成る。

(註1)碧山(へきざん) 樹木の青々としげった山。李白『山中問答』にこの語句がある。漱石も当然この李白の絶句を思い浮かべたことでしょう。
(註2)道情(どうじょう) 俗塵を超越した心情。
(註3)撫摩(ぶま) なでること。

仙を求めるといっても山の中にいくわけではない、
人間世界に住んでいても充分に脱俗の心情は知っている。
今は『明暗』を書いているわけだが、
それは石印をなでながら、自由自在に出来上がって行く。

2d932b87.jpg これは大正5年8月21日に作詩したものです。漱石は、この時期『明暗』を書きながら毎日石印を撫でるくせがついていたといいます。このことは結句に書いてあります。
『明暗』について、漱石は芥川龍之介、久米正雄への書簡で、「新聞一回分千八百字くらいで、百回で十八万字、十八万では字数が多くなって平仄に差支えるから三万字で御免蒙った」ということを述べているそうです。これが転句に書かれている内容です。
漱石は、私には今はこの日本で一番の作家です。そうですね、私は太宰治も偉大な作家だと思っていますよ。

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 私は昨日夕方長女の家に向かっていました。午後5時40分頃歩き始めました。長女は6時前には家に孫二人を連れて帰っていると思ったのです。もう雨ですから傘をさして歩きます。
 王子駅前で信号を渡るのに、少し待っているときに、私は私がそれまで歩きながら脳裏で諳んじていた詩が、杜甫のものだったことに驚きました。「えっ、この俺が杜甫の詩を詠うのか」という思いでした。
 私は路を歩いているときに、いつも漢詩を思い浮かべて心の中で諳んじています。それはもう長年続いていますので、ごく普通のことで、当たり前のことなのですが、私は信号のところで、「艱難苦だ恨む 繁霜の鬢、潦倒新たに停む 濁酒の杯」というところで、「あれ、俺が今諳んじているのは、杜甫の『登高』だ。こんなことがあるんだ」と思ったものなのです。
 思い出せば、私が高校生大学生の4年くらいまでは、私がいつも諳んじていたのは、「文天祥『正気歌』」だったり、「曹操『短歌行』」でした。その後は、日本の幕末の志士たち、とくに私は水戸の尊攘派や雲井龍雄を詩をつねに諳んじていました。
 それが今も同じことだと思っていたのですが、私は信号のところで、自分の脳裏に浮かぶのが、杜甫の詩で実に驚いたものなのです。
 ちなみに、こうして歩くときには、絶句ではなく、律詩以上の長い詩が多いです。絶句だと少し短いので、歩く距離では間がもたない感じなのです(いえ、もちろん絶句でもいくつもの詩を諳んじればいいわけですが)。
 でも今でも絶えず、「おれは水戸の尊攘派だ、天狗党だ」と思い込んでいるのに、口をついて脳裏に浮かぶのが杜甫だったことは驚きました。
 李白の『行路難』なんかだと判るのですが、「この俺が杜甫の『登高』か、驚いちゃうな」という思いでした。
 そのときに(さらに都電の線路の横をずっと歩くときに)、事前に夏目漱石の詩について書いたことを思い出していました。

   周の漢詩入門「夏目漱石『馬上青年老』」
   周の漢詩入門「夏目漱石『桃花馬上』」

 このときに漱石には、間違いなく杜甫のいくつもの詩が思い浮かんでいたことでしょう。修善寺にいる漱石には、杜甫のことばかりが思い浮かんでいたに違いありません。

 また長女の家から帰る路で、私は絶えず、漱石と杜甫の詩のことを思い浮かべていたものです。
 思えば、私ももう年齢を経たのですね。若き日とは違って、漱石の詩を思い、そして杜甫の詩の中にある杜甫の苦労を思います。

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2018083001 同じく漱石の『思い出すことなど』の「三十一」にある詩です。

桃花馬上(無題) 夏目漱石
桃花馬上少年時 桃花馬上 少年の時、
笑拠銀鞍払柳枝 笑うて銀鞍(ぎんあん)に拠って 柳枝を払う。
緑水至今迢遞去 緑水今に至って 迢逓(註1)として去り、
月明来照鬢如糸 月明(げつめい)来(きた)り照らす 鬢(びん)糸の如きを

(註1)迢遞(ちょうてい) はるかに遠い。

桃の花の咲く頃馬上に居た少年の日の私、
銀の鞍を置いて柳を払い、得意になっていたものだ。
時は水の流れとともに移り、はるかに遠くへだたった、
今は月の明かりが白いものがまじった鬢を照らしている。

4026f411.jpg 最初は若き日の自分の姿を見ることがっできるでしょう。いや、今になれば羞かしいものです。でも若きときには分からなかったのでした。今鬢に白髪がまじることを鏡の中に見て、それで何かが分かります。でもでも、そのときには、もう違う日なのです。今の私がそうです。いつも白髪を羞じてしまう私なのです。

この詩の前にある文が以下の通りです。

白髪に強(し)いられて、思い切りよく老(おい)の敷居を跨(また)いでしまおうか、白髪を隠して、なお若い街巷(ちまた)に徘徊(はいかい)しようか、――そこまでは鏡を見た瞬間には考えなかった。また考える必要のないまでに、病める余は若い人々を遠くに見た。病気に罹(かか)る前、ある友人と会食したら、その友人が短かく刈(か)った余の揉上(もみあげ)を眺めて、そこから白髪に冒(おか)されるのを苦にしてだんだん上の方へ剃(す)り上(あ)げるのではないかと聞いた。その時の余にはこう聞かれるだけの色気は充分あった。けれども病(やまい)に罹(かか)った余は、白髪(しらが)を看板にして事をしたいくらいまでに諦(あきら)めよく落ちついていた。
病の癒(い)えた今日(こんにち)の余は、病中の余を引き延ばした心に活きているのだろうか、または友人と食卓についた病気前(びょうきぜん)の若さに立ち戻っているだろうか。はたしてスチーヴンソンの云った通りを歩く気だろうか、または中年に死んだ彼の言葉を否定してようやく老境に進むつもりだろうか。――白髪と人生の間に迷うものは若い人たちから見たらおかしいに違ない。けれども彼等若い人達にもやがて墓と浮世の間に立って去就を決しかねる時期が来るだろう。

私も白髪を隠す気持がいつもあるのですね。しかし、病は隠しようもないでしょう。ただし、今の私は病はありません。ただ、昔より、はるかに酒が弱くなったことをいつも思っております。

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2018070301 漱石の『思い出すことなど』の「十九」にある詩です。

馬上青年老(無題)(註1) 夏目漱石
馬上青年老 馬上 青年老い
鏡中白髪新 鏡中 白髪新たなり
幸生天子國 幸いに天子の国に生まれ
願作太平民 願わくは 太平の民と作(な)らん

(註1)馬上青年老 馬上の生活のこと。武将のいうことで、漱石は自分のことを言っているのでしょう。その青年だった漱石も老いたわけです。なお、漱石には題名はないので、こういうふうな題名は私が勝手につけました。

青年時代に元気に馬上で過ごした私も、
今は鏡を見れば白髪になっている。
幸いに天子の国に生まれたのだから、
太平の民となって生きていきたい。2d535251.jpg

ちょうど漱石は大きな病で、修善寺で過ごしたあと、この詩を作成しています。前に書きましたが、『思い出すことなど』の「十九」に、次のようにあります。

四十を越した男、自然に淘汰(とうた)せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙(いそが)しい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、病(やまい)に生き還(かえ)ると共に、心に生き還った。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれに打壊(うちこわ)す者を、永久の敵とすべく心に誓った。

病が癒えたあとは、漱石は「病(やまい)に生き還(かえ)ると共に、心に生き還った。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた」のでしょう。
それがこの詩だと思います。

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 私の 周の掲示板 に以下の書込みがありました。

知りたい 投稿者:よよ  投稿日:2009年10月 3日(土)17時27分22秒
 夏目漱石の「思い出すことなど」の中にある、馬上青年老・・・という詩の意味が知りたいのですが「馬上青年老 馬上 青年老ゆ 鏡中白髪新 鏡中 白髪新なり 幸生天子国 幸ひにして天子の国に生まる 願作太平民 願はくは太平の民と作らん」の意味を是非解読してください

 これは漱石の『思い出すことなど』の「十九」に以下のようにありますね。

 四十を越した男、自然に淘汰(とうた)せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙(いそが)しい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、病(やまい)に生き還(かえ)ると共に、心に生き還った。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれに打壊(うちこわ)す者を、永久の敵とすべく心に誓った。
 馬上青年老。 鏡中白髪新。
 幸生天子国。 願作太平民。

 それで、私が勝手に解釈するのでは、自信がありません。もう少し考えてから、またUP致します。思えば、漱石は修善寺で病気療養していたことがありますね。その頃のことかなあ。

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0d682acf.jpg この写真は、7月5日午後12時を少し過ぎた時間に、谷中よみせ通りから、池之端通りに出る路です。
 私は随分昔、このいまでは正確には判らないのですが、このビルやマンションになっているところの古い日本家屋で、旅行社をやっているところに、営業に入りました。私は「観光ホテルセンター」というところにいたときです。
 たしか1975年の冬だと思いました。いくつもの観光ホテル・旅館のパンフレットを持って入ったものでした。そこが歳をとったご夫婦が住んでおられた旅行社でした。私はまだ25歳くらいでしたが、あのご夫婦は60歳代だったかな。
 その家、そしてそのご夫婦の感じが、私には、夏目漱石『こころ』を思い出させていたものなのです。ここのご夫婦は私には、『こころ』の主人公が隠れて住んでいるところに思えたものでしした。
 もちろん、そんな話は一切せずに、当たり前の私の仕事上の営業の話をして去ったものでした。翌年の3月頃にも、また私は訪れたものでした。そしてやっぱり、『こころ』の先生を思い出していました。
 その後、私がもう結婚して子どもができた頃、ここを歩いてみましたが、もうその旅行社も、日本家屋もありませんでした。
 時間だけがどんどんと過ぎてしまったのですね。

 あ、漱石の『門』でした へ

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 私が毎日必ず読んでおります 長春有情 にこのUPがありました。以下の通りです。

夏目漱石の奉天旅行  2008/ 5/27 19:31 [ No.2738 / 2740 ]
1909年 すると彼は奉天ヤマトホテルに泊まったのでは
漱石が100年前の中国に何を見たのだろうか
明治42年 その2年後に乃木大将の殉死 妻乃木静子さんと
乃木静子さんはわが薩摩の女性
武の橋の近くに乃木静子さん誕生地の石碑があった
夏目漱石が乃木大将の殉死について書いたのがあったな
 

 漱石が乃木希典の殉死で書いた小説は、『こころ』です。この小説は誰も読んで心の中に大きく残る小説ではないでしょうか(ただし、私の娘たちの年代は違うかな。違うだろうなあ)。やはり、森鴎外が見ていたものとは漱石は大きく違うなあという思いです。
 乃木という人は、西南戦争のときから、自分の死を見つめていました。それがつまらないこと、くだらないことと思うのは仕方のないことです。でも、この乃木さんの自刃を目の前にして、『こころ』を書いた漱石と、くだらない死としかとらえられなかった志賀直哉とは、大きく違います。そして私は漱石が好きで、志賀直哉は嫌いです。

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1b3cf2bd.jpg 昨日は、5人の方に手紙を書きました。そして、私の姪のみーねえの二人の息子にも書きました。二人は、今中学1年生と小学4年生です。
 長男のゆうや君には、英語の勉強について書きました。夏目漱石が明治の40年代に言っていたことを紹介しました。次男のれい君には、ポコ汰とブルータスのことを書きました。れい君もポコ汰のことをとても可愛いと思ってくれているのです。それとブルータスのことは、とっても慕っていてくれるのです。
 この二人は、私の娘のおはぎとブルータスには、ケータイメールをくれるのです。私にもくれます。私は、そのときには、あまり長く書かないようにして返信をしています。
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2017022211夏目漱石には、「春日偶成」という五言絶句十首の連作があります。その十首目がこの詩です。これは明治45年の漱石46歳のときの作です。

春日偶成 夏目漱石
渡盡東西水 渡り尽くす 東西の水
三過翠柳橋 三たび過ぐ 翠柳(すいりゅう)の橋
春風吹不斷 春風吹いて 断(た)たず
春恨幾條條 春恨 幾条条

7861838d.jpgこれはもちろん、高啓『尋胡隱君』を踏まえている五言絶句です。漱石は高啓が大変に好きだったようです。
春風がのどかなのですが、それでも漱石には春の恨みがあるのです。それが何であるのかは、私には判りませんが、今漱石の年齢よりもはるかに上になった59歳の私にも幾条々(いくじょうじょう)とした思いがあります。

ただ少なくとも、この歳になって、少しは漱石の詩が読めることが私には嬉しいことです。

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 正岡子規(1867〜1902)の「子規」とはホトトギスのことで、この鳥は、不如帰、時鳥、杜鵑とも漢字を当てられています。この不如帰(私は蘆花の小説で、この鳥をこう書きますのが、一番合う感じがするのです)の啼く声は、血を吐くような声だと言われてきました。子規は明治22年に肺病になり、吐血してしまうことで、啼いて血を吐くと言われたほととぎすを、自分の号としたものです。

   聞子規   正岡子規
  一聲孤月下 一声 孤月(註1)の下
  啼血不堪聞 血に啼いて 聞くに堪えず
  半夜空欹枕 半夜空しく 枕を欹(そばた)つ
  故郷萬里雲 故郷 万里の雲

  (註1)孤月(こげつ) 一輪の月。
  (註2)半夜 夜半、真夜中
  (註3)欹枕(枕をそばだ)つ 枕を傾ける、枕を引き寄せる

  一輪の月の下に、ホトトギスの鳴き声が響き渡る
  血を吐くような、その痛切な鳴き声は聞くことができない
  夜半にその鳴き声に目を覚まし空しい気分になって枕を引き寄せて
  はるか遠く離れた故郷に思いを致すことであった。

 これは正岡子規が11歳のときに作詩したと言われています。子規は明治35年に36歳で亡くなりました。

 私が前に書きました 周の漢詩入門「夏目漱石『長命寺中少女』」 にて、漱石が親友の子規の淡い恋について書いた七言絶句を紹介しました。その詩の中で、漱石は子規を少しからかう気もあったのでしょう。でもいい親友同士だったんだなあ、と確信します。

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 以下、私が午後7時台に書き終えた母宛ての手紙です。もうポストには入れました。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年6月27日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等
 前略
 またひさびさの手紙になってしまいました。この6月はこれで3通目です。
 おはぎにもブルータスにも手紙を書いています。そして私の何人かの友人にも手紙を書いていますよ。おはぎの子ども(私の孫でばあちゃんのひ孫)のポコちゃんが字が読めるようになったら、書きますよ。でもまっさきには、ケータイメールかな。今では、みーねえの二人の息子(ばあちゃんのひ孫だよ)とは、私はケータイメールをしています。
 私が中学2年のときに、ばあちゃんの中央公論社の夏目漱石集や、谷崎潤一郎集、永井荷風集が実に読んでよかったものです。漱石は他でも読めたでしょうが、谷崎と荷風の本をあれほどいわばほとんど読めたというのは、実によかったなあと思っています。ばあも文学少女だったんだねえ。
 谷崎潤一郎は、その後も読みまして、『新々訳源氏物語』を府中刑務所にばあが差し入れてくれて、それを読んだの最後かなあ。そのあとは、みなどの本も読み返すばかりでした。しかし、一応いうと、谷崎の作品も退屈なものもありますね。それと荷風は、中学生には、あまり面白いとは言えませんでしたが、その後実にこのごろは、どうやら少しは判ったような気がしています。荷風という人はお父さんが漢詩人だから、今の私にはとても興味深いのです。
 でもその意味では、漱石もあの当時は全然判らなかったわけですが、漢詩がいいですね。私もこの歳になって、やっとその良さが判ってこれたように思います。といっても、もう私は59歳、あの漢詩の多くを書いていた時期の漱石の歳をはるかに超えてしまいました。三年前修善寺にママ、おはぎ、ブルータスと4人で行きました(泊ったのはまた別な温泉です)。修善寺というところは、私には、頼家、実朝、政子のことしか思い浮かばないものなのですが、思えば漱石をこそ思い出すべきでしたね。もう実に反省しています。
 おはぎもブルータスも、こうして一緒に温泉に行くと、実に愉しいですよ。少し残念なのが、家族4人のときは、温泉の前までは4人でわいわいお喋りしながらいきますが、温泉そのものは男組・女組で別れてしまうことです。
 でも今年からは、ブルータスも結婚して、ポコちゃんもいますから、男組・女組の数が4対3なのです(昨年は、おはぎの彼ミツ君がいましたから、私独りではありませんでした)。
 だからこれはいいですよ。ポコちゃんにも赤ふんさせて、私と二人威張って入ります。これはもう今から愉しみです。             早々

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29e3cd8e.jpg このブログのサイドバーの「アマゾン」を今までの「森鴎外」から「吉川英治」にしました。最初は「徳富蘆花」にしてみたのですが、蘆花ですと、著作の書名は出てくるのですが、画像がないのですね。このサイドバーに置いておくのは、画像が欲しいのです。そうしないと淋しいではないですか。
 それと、私のサイドバーには、「アマゾン」は3つあります。一番上は「吉本隆明」で、次は、このブログの内容で変化するもの、そして3番目が私は指定するものです。過去には、「夏目漱石」「谷崎潤一郎」「永井荷風」としてきました。ここもまずはとにかく画像が出てくるものが大優先です。
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76add43c.jpg 今朝は長い2種類の夢を見ていました。夢の中でまったく初対面の方に詩吟を習っていました。その先生が日本の近代の方の詩を詠ってくれます。それが、夏目漱石でも森鴎外でも正岡子規の詩でもありません。今誰だったかと思い出しているのですが、忘れてしまいました。休憩時間に、その先生が席をはずされたときに、その先生の席にあったメモを読みに行きます。でもそこには、その詩の作者のことではなく、全然違うことが書いてありました。私は何故かすごく納得したのを覚えています。でもとにかく夢の中の話です。あ、それから明治期にはたくさんの漢詩人がいるんですね。あ、また娘に「パパはいつも関係ないことばかり書いているじゃないか」って怒られるかな。(5/03)
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3e3e83cb.jpg 私のこのブログのサイドバーを一部変更しました。今まで「アマゾン」で「永井荷風」だったところを「森鴎外」にしました。
 私は永井荷風は、谷崎潤一郎に比べると、それほど好きではありません。でもやはり、あといくつか読んでみようという気持があります。
 だが、森鴎外は、私には夏目漱石と比較しますと、どうしても私は漱石のほうに傾いてしまいます。私はこのごろ、ずっと漱石の漢詩に惹かれています。漱石の漢詩はいいですね。この歳になって初めて判った気がしています。
 ところで、鴎外の漢詩もいいのですね。ただ漱石ほどの量がないように思っています。
 また、このブログで、鴎外の漢詩も見てみたいと思っています。
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 前回紹介した七言律詩と同じく、この詩は大正5年11月19日の「無題」です。今回もまた私は勝手に題名を付けました。「五十春秋瞬息(五十の春秋は瞬息)」という題名にしたのは私です。

  五十春秋瞬息  夏目漱石
 大愚難到志難成 大愚到り難く 志成り難し、
 五十春秋瞬息程 五十の春秋 瞬息(しゅんそく)の程。
 觀道無言只入靜 道を観(かんず)れば 言(ことば)無く只だ靜に入り、
 拈詩有句獨求 詩を拈(ねん)ずれば句(うた)有りて 独り清(せい)を求む。
 迢迢天外去雲影 迢迢(ちょうちょう)たる天外に 去雲(きょうん)の影、
 籟籟風中落葉聲 籟籟(らいらい)たる風中に 落葉の声。
 忽見閑窗虚白上 忽(たちま)ち見る閑窓(かんそう)に 虚白の上、
 東山月出半江明 東山に月出(い)でて 半江(はんこう)明かなり。

 大愚の世界へは至ることができずに 志も実現できていない。
 五十年の歳月は、またたく間のことだった。
 無心にして、声で言うのではなく、ただ静かに座しているだけである
 詩を作っては、ひとりだけですがすがしい境地を求める句が出来ている
 遠く遥かな天のそのまた外に、去りゆく雲の影があり、
 風の梢を吹き抜ける音に混じって 落葉の音がする。
 たちまちにひっそりとした窓辺からの光景の なにもない上に、
 東の方の山に月が出てきて、川のなかばまでが明るくなった。

 私の五十年の生涯もあっという間のことでした。そして私は58歳であり、漱石とは違って60歳にも至れそうです。
 前回の中で、大岡信の昭和58年8月28日朝日新聞「折々のうた」を紹介しましたが、そこには、この前回の詩『獨唱白雲吟』とこの詩が掲げられていました。
 この詩を読んでみても、なんとしても修善寺で漱石の足音を聞きたくなりました。ただ、独りで行くのは、いかにも寂しいというか悲しい思いになってしまいます。
 それは、私は漱石の亡くなって歳よりもはるかに上になっているのに、まだまだ何も判っていない存在でしかないことによるのでしょう。

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 私は漱石はほとんど作品を読んで来ましたが、漱石の最後の作品の「明暗」は、今もどうしても中身が読み込めていない小説です。
 そして彼の数ある漢詩も、どうしても読み込めてこないものでした。でもなんとか、漱石の心に迫りたく、今いくつもの漢詩を読んできています。
 以下は、漱石が最後に作った詩です。大正5年11月20日夜の「無題」です。「獨唱白雲吟(独り唱す白雲の吟を)」と題名を勝手につけたのは私です。

   獨唱白雲吟   夏目漱石
 眞蹤寂莫杳難尋 真蹤(註1)は寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難く、
 欲抱虚懷歩古今 虚懐(註2)を抱いて 古今に歩まんと欲す。
 碧水碧山何有我 碧水碧山(へきすいへきざん) 何ぞ我れに有らんや、
 蓋天蓋地是無心 蓋天蓋地(がいてんがいち) 是れ無心。
 依稀暮色月離草 依稀(註3)たる暮色に 月(つき)草(くさ)を離れ、
 錯落秋聲風在林 錯落(註4)たる秋声 風林に在り。
 眼耳雙忘身亦失 眼耳(げんに)双(ふた)つながら忘れ 身も亦た失(しっ)す、
 空中獨唱白雲吟 空中に独り唱す 白雲の吟を。

 (註1)真蹤(しんしょう) まことの人の行いのあと。まことの足跡。
 (註2)虚懐(きょかい) 心にわだかまりのないこと。
 (註3)依稀(いき) はっきりしないさま。幽(かす)かなさま。
 (註4)錯落(さくらく) 散り敷く。入り交じる

 まことの足取りは、ひっそりとしてもの寂しく、奥深くて、なかなか求めるのが難しい、
 私は心にわだかまることなく、古今の文化を探求した。
 緑色に澄んだ水と緑の木々が茂った山の、どこにわたしがいようか、
 天地を覆うものは、無心である。
 ぼんやりとした、夕暮れの気配に、月は草の上に昇り、
 入り交じった秋の気配を感じさせる音があって、風の音は林に起こっている。
 眼も耳も感じとることがなくなってしまい、肉体の感覚も失われてしまって、
 大空にひとりで、心の歌である白雲の吟を唱っている。風が吹き抜けていくだけだ。

 この詩が漱石の最後の詩です。翌日から漱石は死の床につきました。そして12月9日死去しました。
 大岡信は、この詩を掲げて、次のように言っています。

 漱石は大正五年十二月九日死去。これは最晩年の重要な仕事である漢詩群中絶作となった。漱石の漢詩は風流人の趣味・教養をはるかに脱していた。自己の内面生活の消息に取材して自在に人生を論じた点、近代詩の正統を漢詩の形で貫いたともいえる。この絶作には死の影があるが、言葉の澄明強力なこと、さすがである。(昭和58年8月28日朝日新聞「折々のうた」)

 私は少しは、漱石の何かが判ったかもしれないと思いました。私の今は、漱石が亡くなりましたときよりもはるかに上の歳です。それなのに、漱石の前で、ただただ私は羞しいだけです。

「明暗」を読み直してみようと思いました。漱石が晩年をすごした修善寺を歩いてみようと思いました。修善寺は、何度か行きましたが、私にはいつも実朝を思い、頼家と北条政子の心のみを考えるところでした。今度行ったときには、漱石のことを深く思い浮かべようと思っています。

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 夏目漱石にはたくさんの漢詩があります。私はずっと前々から学んできたいと思ってきていましたが、なかなか読んでいくのは大変なのです。
 そもそも、漱石の漢詩には、「題名」がほぼありません。これまた私には大変なのです。だから、この詩は、私がいわば勝手に題名を付けました。「長命寺中の少女」としたものです。
 漱石が親友であった正岡子規を、いわば少しからかったかなという詩です。

   長命寺中少女  夏目漱石
  長命寺中鬻餠家 長命寺中 餅を鬻(ひさ)ぐ家
  當盧少女美如花 当盧(註1)の少女 美しきこと花の如し
  芳姿一段可憐處 芳姿一段 可憐の處
  別後思君紅涙加 別後君を思うて 紅涙加わる

 (註1)当盧 盧は本当は土へんがついています。(とうろ)と読むのだろうと思います。

  長命寺の中に 桜餅を売っている店がある
  その店番をしている少女は、花のような美しさである
  しかもその美しさに、可憐さが加わったのは
  君と別れた後、君を思う涙が加わったからだろう

 明治21年7月、正岡子規は夏休みを長命寺門前のある桜餅屋「山本屋(月香楼)」の2階に仮寓して過ごしました。この店には、お陸という16歳の美人の娘がいました。このお陸が、子規の食事の用意ほか、子規の身の周りの世話をしていました。
 この二人に淡い恋が生まれたのだと想像します。
 ただ、36歳で亡くなりました子規に本当にこの恋の気持があったのか否かは判らないようです。
 ただ23歳になった頃のお陸が、病床にある子規のことを心配し、またこの子規が2階に住んでいた頃の話をすると、「今でも初心らしく赤くなる」ということだったようです。
 私は、この恋は本当に子規にあったことだと思っています。そんな子規であってほしいのです。

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