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 SHIROのポメラ日記このUPがありました。

 ここまで大人の皆さんへのメッセージをいろいろ書いてきました。
 これは携帯の問題に限らず、子どもの教育問題全体に関わるのですが、一番ベースにあるポイントは、

子ども達のために、大人がまず自立しましょう。

ということです。

 この「自立」ということは大事なことです。「自立」とは、私には吉本(吉本隆明)さんが言われたことに他なりません。私の「吉本隆明鈔集」から抜き出します(註)

自立
「前衛」的コミュニケーションの方法は、現代の「進歩」的末端にいたるまで採られている方法の範型である。これは、魚屋のおかみさんをオルグして母親大会につれてゆこうとする平和と民主主義者から、市民会議の地域的な結成をとく市民主義者まですこしもかわりない。
 もしも労働者に「前衛」をこえる方法があるとすれば、このような「前衛」的なコミュニケーションを拒否して生活実体の方向に自立する方向を、労働者が論理化したときのほかはありえない。また、もしも魚屋のおかみさんが、母親大会のインテリ××女史をこえる方法があるとすれば、平和や民主主義のイデオロギーに喰いつくときではなく、魚を売り、飯をたき、子供をうみ、育てるというもんだいをイデオロギー化したときであり、市民が市民主義者をこえる方法も、職場の実務に新しい意味をみつけることではなく、今日の大情況において自ら空無化している生活的な実体をよくヘソの辺りで噛みしめ、イデオロギー化することによってである。(「前衛的コミュニケーションについて」1961.12「先駆」1号に掲載 「擬制の終焉」1962.6.30現代思潮社に収録された)

「前衛」主義者や市民主義者はもう何年も何十年も変わりない。あいも変わらず、労働者や大衆をオルグする対象と考えて今もまた同じことをやっている。私たちの自立は私たち大衆が日々生活していることをもっともっと見つめることである。そして私たち大衆を大政翼賛の方向にまたもっていこうとする、数々の市民主義者とやらのやることを絶対に拒絶すること、徹底してコケにすることである。

(註)実は私は「吉本隆明鈔集」をこのブログでも続けており「吉本隆明鈔集ブログ篇」としています。それでそれをみな「吉本隆明鈔集」(略して「隆明鈔」)としたいのですが、もうまとめている時間がないのです。もうすべては、かなり膨大な量になっています。

 人間は子どもの頃は、親や学校や社会からいろいろなものを「もらう」立場です。子どもは大切に保護され、育ててもらう権利がありますから、これは当然です。
 そこから成長して「大人になる」ということは、今度は自分が周りの人達や社会に対して、何かを「与える」「創る」側になるということです。

 私は今も自分がそうした大人になれているのかははなはだ自信がありません。私は「与える」「創る」人間になれているのかなあ?

 次の『「行政はサービス業」から「市民協働」へ』を読んでみて、自分はどうなのかなあ。よくやれているのかなあ? そもそも判っているのかなあ? と自分にたいしてはなはだ疑問になります。

自分達も行政と共に地域社会を作っていくのだという「自立した社会人の意識」を持って、「自分達はこれをやるから、行政はこれをやってくれ」と対等に物を言わないと、一人前の「大人の意見」として聞いてもらえません。

 私もちゃんとした意識を持っていこうと考えたものです。思えば、私が選挙をやりだしたのも、前回の衆議院の郵政選挙からですからね。私はやっと一人の市民になれつつあるのかもしれません。

「子どもは携帯禁止」と言う方、もし携帯を取り上げられたら子ども達がどんな気持ちになるかわかりますか? そんな子ども達に、携帯の代わりに何をしてあげられますか?

「そんな、私なんて何もできないわ」と思うかもしれませんが、具体的に社会に対して何ができるか、何が創れるかは結果に過ぎません。「もらう側」ではなく、社会を「創る側」になる意識を持って動くことが大事なのです。例え大したことができなくても、次への踏み台として無駄にはならないでしょう。

 私はどうなのだろうと、いつも考えます。そうして、いつももう一人の自分に呆れられ怒られています。
 でも、私も変わらないといけないです。どんなことにも、ものを言い続ける姿勢は変わらずにやっていくつもりですが、でももっとしっかり確実に考え続け、そしてやり続けます。

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