将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:大学の同級生からのメール

11091103   Saturday, January 22, 2005 6:35 PM
熱いメールに感謝
萩原周二さん   Aです。
熱いメールをありがとうございました。

 北浦和から下大久保行きのバスには、残念ながら一度も乗りませんでした。でも、どこかで、会っていたはずですね。私は、サッカーに現をぬかす4年間でした。旧大宮の自宅から自転車や車で下大久保、文理地区などを移動していました。ある意味、萩原さんと対極の学生だったかもしれません。
 でも、4年生になって本気でたくさんの講義を受けて、学ぼうともしましたが、浅はかな未熟生であり、講義の内容に失望してしまいました。「教育学部」の中だけで物事を考えていた当時の私は「若さ」だけが突出していたのでしょうね。(実は、このことこそ、重要な意味をもつのですが・・「教育」を安易に考えている教育関係者が多すぎますね。「教育」こそ、日本再生のキーワードなのに・・)萩原さんのような、直接世の中と関わっておられた行動力が、私にはありませんでした。

 宮城まり子も斉藤喜博も、自身を律する意志の強さと子どもを育てようとする熱情は比類なきものがあります。葛飾北斎が絵画表現者(芸術家)そのものだけに生きようとする情熱を想起させます。まり子さんが指導した子の絵が平板になった時、その悩みを水上勉に相談しました。

  まり子ちゃん、子どもが幸せになっていくなかで、普通の絵し
  か描かなくなっても仕方ないし、それでいいの。

と語っていたのが印象に残ります。
 あふれんばかりの愛情を・命をかけてまり子さんは子どもに注ぎました。
「優しくね。優しくね。優しいことは強いのよ。」こんな深い愛を他に誰が実践できましょうか。一人ではなく何十人の子どもたちにわけ隔てなく。絵画作品群は、みんなまり子さんへの子どもたちの「ラブレター」でもありました。
 ですから、子どもが幸せになったり大人になったりしていく過程でまり子さんの存在の比重が軽くなっていく場合には、「普通」の絵になっていくのでしょう。
 北斎も「芸術」には渇望していました。80歳すぎても、長野県の小布施まで出かけています。出世・金策に現をぬかすことはなく、「芸術」に恋してしまったとしかいいようがありません。
 萩原さんも斉藤喜博の雄大なスケールをイメージされていますね。あのスケールの大きさは空前絶後でしょう。今、流行の「景山さん」「岸本さん」「斉藤孝さん」なども斉藤喜博の実践から学んだこともあるのでしょうね。

 で、プロレス。力道山のリングが始まると、体が震えて興奮したものです。ラッシャー木村によく似た友人がいました。すごくいいやつです。人の良さが木村に重なります。

 ご教示いただいたHP作成においては、ああ時間がない!と、いつもの口癖が・・・いけませんね。まったくパソコン操作は、ご覧のように下下も下下といったところで恐縮です。

 下の娘がダウン症で、私は、「スペシャルオリンピックス500万人トーチランinさいたま地区」の運営委員を担当しています。そんなこんなで、知的障害者のサッカー指導などで結構忙しくしております。
 もちろん、教職は無限の時間がかかります。教材研究はもちろん、日々の仕事が山とあります。どこまでやればいいかは限りがありません。「子どもの可能性」というとき「教師の可能性」も対として考えられますね。可能性を追求するとき、子どもももちろん活動するのですが、その活動を萩原さんは多面的に評価・解釈されていました。島小のルポとして、若かりし大江健三郎が残しました。多の方がさまざまな立場で豊かに語り継ぐことは、次の世代への財産となるでしょうね。
 昨日(金曜)のNHK3チャンネル「わくわく授業」で斉藤喜博を特集して
いました。

 お嬢さん、絵の専門家なのですね。斉藤喜博は、「絵の先生」はいい先生が多い。感覚がよい。と言っていました。どうぞ、これからもご活躍を祈っています。
 ああ、時間がない、技術がない・・などと言ってはいけませんよね。退職まで4年。したいことできることを進んでしましょう。などど自分に言い聞かせている今日この頃です。

 お酒はあまり飲みませんが、秩父の山はちょいちょい出かけます。命がけのようなことも何回かありました。その分、美しさを満喫できます。県1位の太さを誇るブナなども友人と一緒に「発見」しました。
 写真を添付しました。ニュースとして県内版・新聞各紙でも掲載されました。自然保護と「保養・行楽・旅行」と老人介護・障害者交流などをうまく関係付けられたら本望です。そんな仕事ができたらといつも願っているところです。

すみませんね。つい長々と。失礼しました。なんだか「同級生」のような気がして。

   Sunday, January 30, 2005 2:03 PM
Re: 熱いメールに感謝

 またこうして返事が遅くなってしまいました。

 1月21日に、私のブログを開設して、ちょうど10日目です。

   周の発言(これが現在の将門Webになっています)

 これが、たいへんに、反応がよくて、アクセス数も予想をはるかに超えていまして、それで大わらわです。開設する前は、1日に1回UPして、それを毎日やっていこうとは決意していましたが、初めてみると、そのたくさんの反応に、毎日一つの投稿では間に合わない感じでして、いくつもUPを続けております。

北浦和から下大久保行きのバスには、残念ながら一度も乗りませんでした。

 あ、そうなんだ、そんな学生さんもいたんだなと驚きました。

でも、どこかで、会っていたはずですね。私は、サッカーに現をぬかす4年間でした。

 サッカーといえば、私には次のような思い出があるのですが、

  69年の8月夜釜本が埼大でボールを蹴っていた
  (これはまたあとでUPします)

 Aさんは、このことはご存知でしたか。でもとにかく、古い昔の思い出です。

「教育」こそ、日本再生のキーワードなのに・・)

 私もそう思うときがありますよ。長女と次女とでよく話しているのを聞いていますと、ちょっと私には残念に思える先生もいるのですが、また素晴らしい先生方の存在も私には、感じられるものです。ぜひ頑張っていただきたいな。 私の次女のホームページが以下です。

  I'm brutus

 この中の先生になってからの話が、そばにいるものですからよく判ります。長女もホームページをもっていたのですが、やめてしまいました。これは私にはものすごく残念です。

「まり子ちゃん、子どもが幸せになっていくなかで、普通の絵しか描かなくなっても仕方ないし、それでいいの。」と語っていたのが印象に残ります。

 ああ、この水上勉さんの言われる通りですね。次女のクラスの子どもたちのことをよく聞きます。彼らの写真をよく私も見ます。みんな、いろいろなことがあるけれど、みんないい子どもたちです。
 私のとこころは、長女が結婚し、次女は彼氏と随分長くつき合っていますから結婚を考えなくてはいけないのですが、次女は、「この(今のクラスの)子どもたちと別れないとならない、と思うと結婚したくない」と言っています。 もう次女の子どもたちの話を聞いていると、私もそれはそうだよな、なんて頷いてしまいます。

萩原さんも斉藤喜博の雄大なスケールをイメージされていますね。あのスケールの大きさは空前絶後でしょう。

 私は今、斎藤喜博先生の本を2冊読んでいます。そしてたくさんのことを思います。ただ、私は今の学校の現状を見ると聞くと、もう斎藤先生のやり方だけでは、通じない時代ではないのかな、なんて思ってしまうところがあります。また、このことは私はもっと斎藤喜博さんを学んで、娘たちや、次女の学校のある先生(次女がとても信頼尊敬している同じ学校の同僚先輩先生がいます)と話していきたいと思っています(実はこの先生は45歳のとても好きになれる男性の先生なのですが、次女が会わせてくれません。「パパはひどい酔っぱらいだから」ということでなんです。でも私はその先生とこっそり連絡をして、こっそり会います)。

で、プロレス。力道山のリングが始まると、体が震えて興奮したものです。ラッシャー木村によく似た友人がいました。すごくいいやつです。人の良さが木村に重なります。

 私はラッシャー木村がずっと好きでした。以下の私のページでラッシャー木村の声を聞くことができます。

  周のプロレスの話
ここは、http://shomon.livedoor.biz/archives/cat_50028667.html周のプロレスの話、http://shomon.livedoor.biz/archives/cat_50028884.html周の雑読(プロレス篇)備忘録で成り立っています。

 またラッシャー木村への思い出も、今後私のホームページ内で書いていこうと思っています。

ご教示いただいたHP作成においては、ああ時間がない!と、いつもの口癖が・・・いけませんね。

 ぜひやってくださいよ。とくに、今はやっていますブログというのは実に簡単ですよ。私はその開設を楽しみにまっていますよ。

下の娘がダウン症で、私は、「スペシャルオリンピックス500万人トーチランinさいたま地区」の運営委員を担当しています。そんなこんなで、知的障害者のサッカー指導などで結構忙しくしております。

 そのような内容も書いていただければ、私の娘たちも娘の友だちも読むと思いますよ。娘の友人たちには、障害児教育にたずさわっている人もいます。

お酒はあまり飲みませんが、秩父の山はちょいちょい出かけます。命がけのようなことも何回かありました。
その分、美しさを満喫できます。県1位の太さを誇るブナなども友人と一緒に「発見」しました。

 そんなこともブログで発信していただけたらと思います。ブログは簡単に
写真を貼りつけられますから、いいんですよ。

写真を添付しました。ニュースとして県内版・新聞各紙でも掲載されました。自然保護と「保養・行楽・旅行」と老人介護・障害者交流などをうまく関係付けられたら本望です。そんな仕事ができたらといつも願っているところです。

 そうですね、そういうところを目指されるのはいいなあ、と思いますよ。

すみませんね。つい長々と。失礼しました。なんだか「同級生」のような気がして。

 いえ、私とは同じ大学出身の同級生で、もう友だちです。ぜひ、ブログ同士で、さまざまに連携していけたらな、と思っていますよ。萩原周二
(第234号 2005.02.07)

   Wednesday, January 19, 2005 10:22 PM
はじめまして

11091013 管理人様 はじめまして。   Aと申します。
 管理人さまと同じ大学同じ学部、同い年ということで、しかも、プロレス好き?も一緒。
 宮城まり子さんの絵の指導は、今の日本では評価できる人がいないでしょうね。フランスでピカソやマチスの展覧会に匹敵するエネルギーを醸し出していた傑作群が、日本では「無視」されてきたようにも思えますがいかがでしょうか。池田満寿夫や水上勉等知識人がストレートに「実践」を評価されてはいましたが・・・教育関係者は「無知」で「無視」していたようにも思えます。
 私の独断と偏見です。
 斉藤喜博は「栃木」ではなく「群馬」出身です。
 私は、教員ですが「巨樹・巨木」に関心を持ち、秩父の山を含め埼玉県内の巨樹を調べております。将来的には国認定「森林診療士」(新しい資格)のような仕事に携わり、農山村の復興・河川の修復が得られればと夢見ています。
 管理人さまの教養と行動力こそ、私もあやかりたいところです。どうぞ、お体を大切になさってご活躍されますようにお祈りいたします。1948年 鼠年生まれ。

   Saturday, January 22, 2005 8:07 AM
Re: はじめまして
 メールをありがとうございます。こんなに返事が遅くなり申し訳ありません。昼間はあちこち出かけていまして、事務所か自宅にいるときは、ついこのごろはブログのページの作成で必死でした。
 でもメールをいただき大変に驚きました。

管理人さまと同じ大学同じ学部、同い年ということで

 そうすると1967年(昭和42)入学ですね。そうすると、必ず顔を会わせているはずですね。
 1年生のときは教養部で、ほとんど文理地区で、週に2日くらいは、大久保校舎に行ったのではないかと思います。私は社会科専攻生でしたが、そういう1年生の生活でした。
 それで、1年生の年1967年の12月15日、北浦和駅と埼大大久保校舎を結んでいる西武鉄道と国際興業のバスが20円から30円に値上がりして、そのときに、「バス代値上阻止連絡会議」ができて、バス闘争が展開されたかと思います。私は、そのとき最初から最後まで、最前線で闘っていました。
 1月になって、私たち連絡会議は、観光バス(興和観光のバス)をチャーターして「乗車拒否闘争」を継続しました。このとき3台のバスをチャーターしたのですが、このバスの車掌を一番多くやったのが私です。だから、このとき、このバスに乗らなかった日共=民青以外の学生さんは、私の顔は必ず見ているはずです。なにしろこのバスに乗らないと大久保校舎にはいけなかったかと思います。
 私のことを覚えていないでしょうか?

 そのバス闘争の過程で、私は大学の自治会正常化の運動(ようするに、民青との闘い)と、そして王子・三里塚闘争に参加しました。そして大学2年になって、バス闘争が敗北していき、私はその挫折の中から、また学生運動に邁進しました。もう大学2年ではほぼ授業にはでなかったし、大久保校舎にも、あんまり行きませんでした。そして2年の最後の1969年の1月に東大闘争に参加して、19日に安田講堂で逮捕され、起訴され、やがて府中刑務所に勾留されました。
 8月21日に保釈になり、その後文理地区には行きましたが、私はバス闘争を破壊した中核派が許せなく、またその中核派から、袂を分かったとかいう反戦連合とかも大嫌いで、なにか文理地区のバリケードにはなじめませんでした。
 ただ、とにかく9月19日の芝浦工大事件には、私も中核派に拉致されたTを救出するために、芝浦工大大宮校舎に行きまして、そのとき、埼大中核派の滝沢紀昭さんの不幸な事故死がありました。
 このことでまた、その後は学生運動にも加われず(なにしろ、あの事件では警察。マスコミだけではなく、新左翼全部が私たちの敵にまわりました)、アルバイトばかりしている中で、12月10日浦和地裁での、「6・12事件」の初公判に傍聴に行くなかで、裁判終了後私は埼玉県警に逮捕されました。そういえば、この日私は前日精神病院の看守のアルバイトで、徹夜でして、逮捕されたら、すぐにパトカーの中で眠りこみました。
 それで、また70年の3月に再保釈で、娑婆に出てまいりました。
 もう私たちの年代の活動家は、私の1年下の学年含めて、あまり活動していなかったものですが、私は私の2年下、3年下の活動家に交わって、またデモに加わって行ったものでした。
 でももう私も4年です。そして裁判を東大闘争と、芝浦工大事件の二つかかえていました。もうまた逮捕されるようなことは極力避けなければなりません。
 そしてやっぱり70年安保闘争がおとなしく終焉する中、私は後輩たちの救待をするようになりました。70年後半から71年、72年にかけて、後輩たちのいくつもの闘いの救待で、親にあったり、警察薯へ行ったり、あちこちの拘置所・刑務所へ行ったりしたものです。
 そしてまた私は過去は、サークルとして簡単にしか参加していなかったむつめ祭に激しくかかわるようになりました。もう当時は日共=民青と実力で闘っていたのは、このむつめ祭だと思います。
 このむつめ祭とのかかわりが、今でも続いています。私は日共=民青だけは極力排除し、敵対することをずっとむつめ祭に貫徹させてきました。それだけではなく、ほかの新左翼もむつめ祭に介入しようとするところは、絶対に排除してきました。ただ、このことはあの時代から20年くらいはいいのですが、もう30年を過ぎたあたりからは、もう若い学生には、何のことか意味が判らないことでしょう。よるするに、私のような年よりの頑固な分からず屋が何故かいるというだけのことなのです。
 ただ、もうここ10年くらい、私はむつめ祭に行くときにも、必ずノートパソコンを持参して、インターネット(前にはパソコン通信)をやっています。それでいろいろ話しかけるのですが、若い学生さんも、まだまだだなという思いばかりでした。でも昨年あたりは、もう会った学生さんは、インターネットにはまったく違和感はない方々ばかりでした。少しはいい時代になったかななんていう思いにもなります。

しかも、プロレス好き?も一緒。

 プロレスの話も私はやりだすと、いろいろと続くのですよ。ただ、この頃飲んでプロレスの話もしなくなりましたね。話す相手がいないのですよ。昔でも、話し出すと、ほとんど多くの猪木ファンにたいして、私は「ラッシャー木村が一番だ」とやり出しますから、いつも話があいませんでした。

宮城まり子さんの絵の指導は今の日本では評価できる人がいないでしょうね。フランスでピカソやマチスの展覧会に匹敵するエネルギーを醸し出していた傑作群が、日本では「無視」されてきたようにも思えますがいかがでしょうか。

 いえ、私は宮城まり子さんは大好きですが、あまり絵のことは判らないのです。長女が小学校の図工の教員なので、絵を描くことも見ることも好きです。だから今度来たら聞いてみます。

斉藤喜博は「栃木」ではなく「群馬」出身です。

 ありがとうございます。私が

  斎藤喜博「教育学のすすめ」

の最初に書きました女性が、大学が栃木県にある大学だったもので、そう思い込んでしまったのです。こうなると、彼女も群馬県の生まれだったのですね。
今になって気がつきました。斎藤さんに関しては訂正しました。
 私は茨城県生まれですが、お隣の栃木県も群馬県もよく知らないのですね。なんだか羞しいです。思えば、私の好きな将門公も、そして水戸天狗党も、下野には苦労したのだろうななんて思いました。下野が足利尊氏で、上野が新田義貞だと覚えればいいのかな。いえ、埼大の友人後輩でも、栃木と群馬出身者は違うよななんて今確認しました。

私は、教員ですが「巨樹・巨木」に関心を持ち、秩父の山を含め埼玉県内の巨樹を調べております。将来的には国認定「森林診療士」(新しい資格)のような仕事に携わり、農山村の復興・河川の修復が得られればと夢見ています。

 ああ、いいですね。それでできたら、このことでホームページを作ってくださいよ。あのですね、実はこんなに返事が遅れたのは、私の怠慢もあるのですが、実は昨日私のブログページをオープンさせたのですが、実にこれに必死になっていました。

  周の発言

 私がこれをやりたいというのは、私自身のホームページの活性化もありますが、クライアントや友人等に、これを勧めたいということがあります。やはりホームページを作るのは、私たちの年代には、大変なのですよ。パソコンの操作もままならない人が多いのです。
 このプログページを作るのに懸命になっているときに、「あの彼女、あの先生、あの彼女なら、あの飲み屋のママになら」とたくさん顔が浮かびました。プログならホームページ作成よりは楽なはずです。プログページを最初作って、そのあとホームページを少しづつ作ればいいと思うのです。
 私はブログページを開設するのに、活字でいろいろと読みまして(本とホームページ上のサイトの活字)、それで「これならよさそうだ」というところを4つ決めて、それで4つ登録し、実際に作り出しました。でもやはり、私は、「これからは、携帯で書込みができ、閲覧できて、いろいろとできなくちゃいけない」という強烈な思いで、livedoorに決定したものです。
 ただ、おそらく今後このブログはもっと盛んになります。参入してくるサービス企業が増えて、ものすごい競合状態になるでしょう。だから、もっといいサービスが出てくるかと思いますよ。
 ぜひともAさんにもやってほしいのです。
 私のように、4つも登録して調べるなんてことをやらなければ、まず誰でも2時間でできますよ。私もlivedoorに決めてからは、実に早かったですよ。「ブログやろう」と決めて、そして今のをUPしたのは、その日で完成しました。その間、あたり前ですが、ホームページの更新もあり、仕事もあり、酒飲みもありの中です。

管理人さまの教養と行動力こそ、私もあやかりたいところです。

 教養はいい加減なものですが、もうやることだけは、考えるより先になんでもやってきました。学生運動も恋愛もそうだったな、失業しての職探しもそうだっななんて思います。ただ、よくないのは、腕力はからしきないのに、考える前に、今も人を殴ってしまうことでしょうか。これは本当によくないです。

どうぞ、お体を大切になさってご活躍されますようにお祈りいたします。

 ありがとうございます。
 昨日実は港区のクライアントで、このメールのほとんどを書いていました。パソコンを使うといろんなことがやれますね。ただし、仕事中なのに、その会社のこととは違うことをやってはいけないよな、なんて少し思います。萩原周二
(第233号 2005.01.31)

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