将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:大東亜戦争

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 同時に私と妻には兄莞爾の死の喪中の時でもあります。
 この画像はみな11月中に出しました。そしていつも兄莞爾のことを考えていくでしょう。私周二とは、7年の年の差があります(私は昭和23年5月30日生まれ)。その間は大東亜戦争がありました。日米戦争が始まったのは、兄の生まれた昭和17年の前年の16年12月8日です。この日に父は仏印進駐作戦に従事していたのでした。
 その前には中国戦線には、もう従事していました。 昭和維新にシンパシーを抱き、チャンドラボースとともにインドまで行こうと思っていた父でしたが、この兄が生まれるときには仏印(フランス領インドシナ)にいたのでした。
 詩吟をこよなく愛し、いつも詠っていた兄です。
 ここに私の喪中の挨拶にハガキをここに掲げます。そしてここのブログのサイドバーの「謹賀新年」の画像のあとに掲示します。

12090304 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、昨日は以下のUPでした。

雪のカマクラですか 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月 3日(月)07時30分18秒
  とても風情がありますね。きっと、子供たち同士で集まり、中でお八つを食べたりするのでしょうか?
やはり、子供の頃の記憶は、何かしら、遊びにまつわるものが多いようです。

 うーん、昨日もこれを見てすぐに書こうと思いましたが、今日まで必死に待ちました(私は自分でこれは翌日に書くと決めているのです)。
 ええと、私の思い出にあるかまくらはまったく違います。「子供たち同士で集まり、中でお八つを食べたりする」なんていうのは、何故か誰かが作り上げたかまくらです。
 私がこのとき目にしたのは、実に大きなものでした。兄は中学1年だと思いました。その友だち2人と三人で作っていました。
 このかまくらはまず、入り口が分かりません。子どもたちが雪に姿を沈めて身をていしてもぐって入らねばなりません。だから大人は入れません。私は幼稚園生でしたが、かろうじて入ることを許されました。私の弟は幼稚園生でも小さいから、入るのを認めれませんでした。
 中は明るくて(だからどっかから、外の明るさを入れていたのでしょう)広くて、驚くほどでした。そしてここは、大人、女の子、あまりに小さい子は入るのを許されないのでした。
12090305 だから、私の父や母は入れないのです。私と兄とは、7年の差がありました(兄は昭和17年2月、私は昭和23年5月生まれで、私の父は22年秋に帰国しました。その間は大東亜戦争があったのです)。
 今思い出しても大きな立派なものでした。のちに札幌でも私は作ろうと思ったのですが、札幌では寒すぎ、冷たすぎて、雪がうまく固まってくれないのです。もう私の記憶の中だけにある大きなかまくらです。

11111910 私が心の中で、「王子の千恵子」と呼んでいます女性がいます。つい先日の朝私の友人に、その女性のことで、ケータイメールを出してしまいました。
 それが以下です。ただし固有名詞は直してあります。ケータイメールですから、段落もありません。それとメールはモノクロです。

今10時36分です。じゅにとブルータスに会いに行きます。今王子で乗りましたばかりです。今王子駅に歩いている中、「あ、千恵子がいる」と思った女性がいます。彼女は、朝この時間帯から、王子駅前か、王子駅前の東武ストアの前で、ずっと演説をしています。もう顔は日に焼けています。いつも演説しているのですが、誰も彼女に注目していません。私はいつも彼女で高村光太郎の奥さまだった高村千恵子をおもいだすのです。高村千恵子も晩年は街頭で、アジテーションをしていたようです。「諸君、アジアを解放せよ」「アメリカ帝国主義共産主義を打倒せよ」。そしてそのうち光太郎が来て、「千恵子もう帰ろうよ」と言って連れ帰ったようです。この千恵子は美しいひとだったようですが、王子の千恵子は、もう光太郎がいないし、大東亜戦争もありませんから、誰も注目しないし、みんな知ってはいますが、誰も気にかけません。思えば戦争は短かったとも言えますね。王子の千恵子は今日も延々と演説していくでしょう。

 いつも京浜東北線や京葉線では、こうしてケータイメールを書くか、「周のIS01ブログ」を書いています。ちゃんと手紙を書いて(あとでプリントすればいい)とも思うのですが、やっぱりこうして、どうでもいいことを書いてしまいます。
 今莫大な数のシールが手に入ったので(本当に莫大な数です)、これで書いていく手紙には、貼っていきます。漢詩の解説なんか書いて、このシールを大量に貼るのは、少々恥ずかしくもあるのですが、仕方ないですよね。
 私から手紙をもらう方は、莫大にシールが貼ってありますよ。

11090204   Saturday, October 23, 2004 12:55 AM
了解了解、
 充分人を唸らせるにたるすごいエピソードばかりですねー。ぽっかり晴れた夜の空を畳や家まで飛んでいくシーンは幻想的ですらあります。もう、へぇーの連続ですよ。でも何の準備もしてなかったのはまずかったですね。ご両親は台風の少ない土地のご出身だったのですか。
 今回の台風は今年最悪のようですね。これは経験しなくてニュースで見ただけでも語りぐさになりますね。

   Saturday, October 30, 2004 7:58 AM
Re: 了解了解、

ぽっかり晴れた夜の空を畳や家まで飛んでいくシーンは幻想的ですらあります。

「幻想的」、たしかにそうだったかもしれないなと今思います。そのときは、たぶん、台風の目に入っていて、実に周りは静かなんです。私たちが外に出ても、何も飛んできたり、雨をかぶってしまうということもありません。ただ、上空を見上げると、たくさんのものがものすごいスピードで飛んでいくのです。
 私はそのときに、

  俺は、この光景を一生忘れないだろうな

なんてことを思っていました。

もう、へぇーの連続ですよ。でも何の準備もしてなかったのはまずかったですね。ご両親は台風の少ない土地のご出身だったのですか。

 あのときは、我が家に限らずどこの家も何も準備していませんでしたよ。それは名古屋でしたから、台風に遇った経験がなかったのかもしれませんが、テレビもラジオも新聞も、何も警戒するようなことも言わなかったと思いました。
 そうですね。ごく近所で、私の家族と仲の良かった長島理髪店というところのご主人が、

  夕方、この台風には大変なことになるんじゃないかと思って、
  急いで入口のドアや窓を防ぐために、板を打ちつけた

と言っていました。あの人は台風の経験があったのかもしれません。
 私の両親は、父が茨城県笠間で、母が茨城県藤代町(母の時代も私が生まれたときも、ただの茨城県佐貫でした。のちに藤代町に入れられました)です。二人とも茨城の田舎の百姓出身で、台風なんてまったく経験がなかったのだと思いますよ。二人の経験といえば、関東大震災に遭ったことと、そして大東亜戦争の経験でしょうか。

今回の台風は今年最悪のようですね。これは経験しなくてニュースで見ただけでも語りぐさになりますね。

 ちょうど、夏に家族で行きました旅行で、歩いてお土産を買いました、修善寺のお土産屋さんが、テレビの画面で、店の中に泥がうずたかく入り込んでいるのを見ました。家族4人で、「これは大変だね」とものすごく驚いていたものです。萩原周二
(第223号 2004.11.22)

11040508 もう誰も同じなのでしょうが、この時期になるとたくさんの「喪中のお知らせ」の葉書を受け取ります。今年はとくに多いような思いがします。もう私たち前後の年代はみなそんな時なのですね。
 私の父が亡くなった日は、私の長女おはぎが大学の推薦入学に合格できた日でした。父のお蔭かななんて話したものでした。ちょうど姪の子どもも生まれたばかりだったのですが、その子が何故か不思儀に上を見て笑いかけていたそうです。ちょうど父が亡くなった瞬間で、「おじいちゃんがひ孫を上から見ていた笑顔が見えたのだろうね」と言っていたものでした。弟の子どもの姪二人は、「きっとおじいちゃんは、ビルマかタイの野をずっと歩いているつもりだったのかな(父は、ある日ただただ自転車で遥かに走って行ってしまいました。父は大東亜戦争では、中国大陸と東南アジアをただただ戦争で歩き続けました)と言っていました。12月8日自分の84歳の誕生日に、私の父は亡くなりました。もう7年が過ぎました。

11012011 以上のことを書いたのが1997年12月28日(日)のことでした。29日にこのクライアントに電話したところ、ちょうどこのことを私に訴えた女性のみが出社していました。そこで聞いたのですが、この事件というのは「ティビンティンギ」ではなく同じくスマトラ島の「ビキティンギ」だと言います。そうすると、私が上に書いた事件とは違うようです。ただ彼女のほうも、インドネシア人の彼氏も、この事件を書いてある文書なりを示すことはできません。そこでまた私の「ビキティンギ事件」の捜索が始まりました。実は私の父がちょうど1年前に亡くなっており、その戦友会のさまざまな文集がありましたので、それを母の家から探し出してきて見ていきました。それで判ったのですが、以上述べたような事件がこの年のスマトラ島ではいくつも頻繁におきたようです。みな同様の内容です。突如インドネシアのある党派が武器を奪おうと日本兵を虐殺してきて、それにたいして仕方なく日本軍が反撃したという内容です。そしてそのことは上の文章のように、インドネシア側も反省しているはずなのです。
 ところが、現代のインドネシアの若者が当初に書いたようなことを言っています。私はさらにインドネシアの見つかる限りの書籍にあたりました。神田の古書店街も随分歩きました。だが、とくにこの「ブキティンギ事件」というのにはどこでも見当たらないのです。父の戦友の方たちにも聞いてみたいと思っていますが、これまたなかなか機会を作れません。そして今も私はこのことの真相を探しだそうと思っています。
 まずまたそのうちに、父に戦友会で書かれているいくつもの事件をまた要約してここにUPします。そしていつかはスマトラそのものにも行ってみたいと思っています。
 私の父は大東亜戦争を戦ったことを誇りに思っていました。アジアをこそ解放するのだという気持があったことをいつも語ってくれました。私が小さいときからいつもチャンドラボースのことを熱く語ってくれたものです。そんな父たちが、友であるスマトラのインドネシア人たちを攻撃するわけがありません。私はこのことを必ず明らかにしたく思っています。  (1999.01.26)

  この「ビキティンギ事件」も、以上で書きました「ティビンティンギ事件」と同じような事件であったようです。この事件についてはひきつづき次に書いています。ぜひ読んでみてください。(2003.09.23)

  私が長年参加しています草の根パソコン通信ネットで、ある「GUEST」の紹介で知った本です。

書  名 失敗の本質 日本軍の組織論的研究
著  者 戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎
発行所 中公文庫
当初1984年5月ダイヤモンド社より刊行

11011402  買ったその日に電車の中で、またたくうちに読み終えました。なんとなくこの著者たちに、もうちょっと書いてくれないかなと不満になったところです。
  著者のうち、野中郁次郎という大学教授は経営学の先生であり、経営管理に関する本はいくつか読んでいたことがありましたので、そうしたことへの応用できる大東亜戦争の敗北の総括なのかななどと予想して読みはじめました。

  第一章の事例研究ですが、これは少々解説不足すぎやしないかなと心配になりました。大東亜戦争にはじめて触れる読者を想定すると、これではなんだかよく分からないのではないでしょうか。それとも、あらかじめもっと違う本を読んでからこれに入ってほしいというのか、それとももっと詳細に知りたいのなら、また以下の本を読んでほしいというのか、何も書いてありません。巻末に掲げてある参考文献ではあまりに一般読者向けだとは思いません。そうですね、私が推薦するとしたら、人物往来社の「日本の戦争(全8巻)」でしょうか。それに児島襄が書いている各歴史ものもいいかもしれません。
  例えば「インパール作戦」の章では、この作戦の実際の情況は少しも書かれておりません。これでは実際にインパール作戦に参加した人たちも、読んで不満だろうし、まったく初めてこれを知ろうという人も不満なことではないのかと思いました。当時のビルマの戦略的位置、かつなんでインドのインパールなのかなどということがさっぱり分かりません。チャンドラ・ボースの自由インド独立軍のことなど、少しは書いていただきたいものです(1行は書いてある)。

  さて問題は第二章、第三章なのです。ほぼ他でも言われてきたことが書かれています。そしてその結論に私はほぼ異議はありません。だがこれまた不満なのです。もう少し書いていただきたいのです。これを経営に応用するとしたら、もっと詳細に事例との兼ね合いで細かく書いていただきたいものです。
  また例を上げると、なんでもいいのですが、よく日本刀の好きな人と話したりしていて(私にはこうした友人が何人かいます)、言われることから思い出してみます。アメリカ軍等は、やはり日本軍の白刃をきらめかせての切り込みが非常に怖かったというのですが、これはどうなのでしょうか。今もこう思っているむきがあるということなのですが、これはこのなかでのガダルカナル作戦の一木清直大佐の言動他(ただし私が補うのです)で見ていきましょう。

    同大佐は、帝国陸軍の伝統的戦法である白兵銃剣による夜襲をもっ
  てすれば、米軍の撃破は容易であると信じていた。
                (「第一章…………ガダルカナル作戦」)

  私が思い出す限りの一木大佐の言動です。

    一発の銃も撃つことなく、白兵による肉弾攻撃、白兵による白兵攻
  撃で川を越えて占領する。

 しかし、あまりの米軍の猛烈な銃火の中、この一木部隊は次々と倒れていきます。一木大佐はあまりのことに茫然自失として、なんらの事後処理も部下に伝えないまま自決してしまいます。
  これを、会社の経営で考えてほしいのです。ある営業あるいは企画制作等の最前線にいる責任者が、突如辞職したりしたらどうなるでしょうか。本来はこの戦いへの会社自体のとりくみかたが間違っているのですから、そのことを彼は指摘すべきなのです。
  この会社自体のとりくみ、すなわち日本陸軍の白兵銃剣による突撃こそが有効などということ自体がおかしいのです。このことは陸軍は充分判っていたはずです。

  西南戦争のおり、政府軍は薩軍の白刃をきらめかせて猿響をもって(猿響とは薩摩示源流の掛け声で、それで大上段で一撃できりこんでくる)が大変に不安でした。事実どこでも薩軍に政府軍は切り立てられている。よくテレビ映画などは、これに対して、政府は東北などの旧氏族からなる抜刀隊なるものを組織(事実これはやりました)して、それが効果あったかのようなことを言っていますが、事実は薩軍の白刃攻撃に勝ったのは、大量の銃火攻撃です。薩軍と同じ薩摩人であった政府軍の西郷従道、大山巌は薩軍の白刃攻撃をよく知っていましたから、それに勝利するためには、それより強い白刃攻撃できる部隊だなどとはいわず、大量の銃弾薬が必要なことを主張し、実行しました。実に田原坂の戦いでは驚くほど大量の弾薬を使用しています。
  このことは陸軍参謀編纂の「日本戦史」に詳細に記されています。また例えば、日露戦争においても、騎兵隊を率いていた秋山好古は、ある戦闘においては馬を捨てて陣地戦をやるなどという臨機応変なことができています。騎兵が馬からおりたら戦力は激減しますが、そのまま馬で露軍の銃火に突撃したとて無駄な場合は、そうした対応ができる軍人がいたのです。
  そうした日本陸軍であるはずなのにどうしてこの一木大佐のような軍人が生まれてしまったのでしょうか。

    帝国陸軍は、西南戦争や日清戦争を通じて、火力の優劣が戦闘のカ
  ギとなる要因であることを知っていた。現場第一戦では、日本軍火砲
  の射程や威力不足について不満が多かった。しかし、いずれも戦争が
  終ると忘れられ、日本軍の軽砲主義は大東亜戦争まで続くことになっ
  た。近代戦の要素を持っていた日露戦争を経験しても、西南戦争に従
  軍した指導者は、過去の薩軍の突撃力がきわめてすぐれていたこと、
  露軍が歩兵の格闘を重視し実際白兵戦闘が強かったこと、旅順戦にお
  ける二〇三高地の最後の勝利は肉弾攻撃であったこと、などに思いを
  はせて、結局は銃剣突撃主義に傾倒していった。
                   (「第三章…………日本軍の環境適応」)

  この説明で納得できるでしょうか。旅順港攻略戦に於ける勝利が何だったのかは陸軍は充分分かっていたはずです。
  私はもうすこしさまざま事例と関連ずけて書いていただきたかった。もしも経営する人たちに応用してほしいと考えるのなら、もうすこし丁寧に説明いただきたいと思ったものです。
  それにしても、日本軍の敗北の本質を生んだ日本軍の資質が、日露戦争から引き続いた流れの中にあるものだというような書き方は読んでいて、感心したところです。それも説明不足なような思いは残りましたが。

  ちょっと上に述べたことだけでは、まだ言い足りないなと思うところがあります。さらに何か書いていきましょう。
  私は随分前にコンサルティングしたときの事例です。

  ある人の紹介で私の事務所に二人の人が相談にきました。ある会社の社長と営業の部長さんです。そこは現在FAXを拡大販売するのである企画を進行中でした。紹介される時に少しはなにか資料的なことを言ってもらっていればいいのですが、何も聞いてはいなく、ただFAXを子どもの学習をするということで大規模に販売したいということだけでした。企業の規模とか、予算とか、どんな会社なのかは何も聞いていませんでした。いわば突如おいでになったようなものでした。
  話を聞くと、この企画は小中学生に勉強を双方向で教えことができるFAXを家庭に入れませんかという営業手法で、もう一部進行していて、あまり販売台数はたいしたことはないのだが、学習教育について担当にしている学生アルバイトと一部の子どもたちとの電話による対話(FAXによるやりとりではなく、電話でのおしゃべり)がかなり活発で、これならもっと可能性があるのではないかと全国展開をしてみようかというような段階であるとのことでした。ただ不安だから、愚痴を話してしまい、それをきいたいわばいい人の紹介で私のところへ来たのです。
  私はまず以下のように話しました。

  1.このFAX販売の手法は過去、私が知っている限り3つの会社が
    試みているが2社は完全撤退。1社はまだやっているが、もうすぐ
    やめると思われる。
  2.貴社のこの企画自体がポリシーも、細かい戦略もなにも感じられ
    ないこと。

  1ではまず有名な大手出版社(当然に相手にはこの社名等々は教えています)がこれを試み、現在はやめたが、それで会員になった子どもたちの事後処理で苦労している段階であることを話しました。ここでも、学習指導の中で、FAXだけでは対応できず、電話による直接指導を補助としてうたいだしました。その担当者である学生アルバイトと子どもたちとの電話による対話は活発になりましたが、それはもう別に授業料を設定することはできず、FAXのみによる学習は無理なことを証明するだけで、FAX機の販売自体には結び付きません。

  またこの出版社がこの事業から撤退したころ、ある編集プロダクションの社長が同じような企画で私のところへ相談に来ました。まずこの社長は、いったいDMによる確率はどのくらいなものかなどということのみ電話で聞いてくるため、私は「そんな問だけでは答えられない」と、少し詳しく聞いていくと、またここも大変な泥沼に入りこみそうなので、直接来てもらって話すことになりました。この企画は当然FAXの販売元が熱心で、この社長の会社にやらせようということなのです。それとこの社長は偶然ある地区の中2、中3の名簿を2千名ばかり手にいれたのでそれとさらに名簿を手に入れてDMをうってみようかと考えていました。私は2千の数ではまず問い合わせすらゼロであろうということをいい、さらに数万の名簿を得たとしてもたいした結果にはならないだろうことを言いました。さらに予定しているDMの案を見ました。私はもう呆れてしまいました。こんなコピーで生徒が集まるわけがないのです。でもなるべく刺激的にいうのは可哀想だから、まず数を限ったDM数でやって、それから判断したらどうかといいました。逆に例えば半端に15人が応募してきたらどうするのだといいました。15台機械が売れて、販売店はいいかもしれないが、貴社はその子どもたちを何年か見ることができるのかと言いました。あとで聞くと、この社長は3千のDMに限定してやったようですが、問い合わせの電話すら1件も無かったようです。

  もうひとつは関西の学習塾ですが、これは来塾している生徒を対象にしてFAXによる指導をやりはじめました。日経流通新聞の記事によると、塾長は成功しつつあると判断し、さらにこのFAX指導のみの入塾生徒を増やしたい、増やせるといっていました。私はここがまず現実に教室運営をしていること、そこに来ている生徒に導入したもので、今後まったく新たにこれで生徒募集しても駄目だろうと思いました。これはそののち私のいうとおりになりました。  次に2はまことに失礼な問であるのですが、私はさまざま聞いていきました。

  (1) まず本当にFAXで学習教育できると考えているのか。
  (2) その学習内容とは、一体「補習」なのか「進学」対象なのか。教
    材はどうするのか。
  (3) FAXを販売する相手としては、誰でもいいのだろうが、この
    FAX学習の対象は一体どの学年なのか。小学1年生も高校生も扱
    うのか。
  (4) いったい学習の教育を指導する部隊はどうするのか。
  (5) 以上のようなことでFAX売った代金と、受講料をとったとして
     も、割りがあうのか。
  (6) いくらの予算でどう収支計画、資金計画など組み立てているのか。

  (1) では、最初問題は郵送して、それをFAXで送ってもらっても、添削したとしても、1色のFAXでは赤ペンは使えず、それで「赤ペン先生進研ゼミ」にすら勝てるのか。そもそも売るFAXはA4版形までの機械だが、いまのテスト問題にはA4版形なぞないのだから有効に使えるのか。
  (2) では、進学対象としたら営業の最前線の二人が、例えば早稲田中学、早稲田実業、早稲田高等学院の違いすら知っていない。またいわゆる男子ご3家の麻布、開成、武蔵の3つの入試問題の違いをいっても感心して聞いているだけである。その他いろいろな学校の問題を例にしても、分かっていない。埼玉公立高校入試では国語に必ず作文があるとかかなり県ごとに違いがあり、また「進学」だけでなく「補習」もやるとなると、いったい教材はいくとおりつくることになるのか。小4~6年としても、進学で3(学年)×4(科目)、補習を別にするとその倍の問題作成が必要になる。問題つくるには、作成する側とそれを校閲する側もいることを伝えた。堂々と「独自の教材問題で」などと広告しているので、作るわけだから、これは大変なことです。
  (3) 小1の親がFAXを購入して、子どもが入会してきたらどうなるのか。そして北海道と沖縄と千葉の子どもというようにアンバランスに入会してきたら、公立高校への受験指導などできるのか。 
  (4) では、こうした指導する部分は当然社内にいなければならないが、どう予定しているのか。かなり強力な指導者がいなければ無理だと思われる。相手はできたら私(私の話に感心したようだ)にやってもらえばなどといいだす始末である。
  (5) では、もうどう考えても、1人あたりの受講生からの収入でコストが見合うわけがないのではということ。
  (6) では、ではこうした企画で、いったいどれほどの予算で、いったい何台の販売何人の受講で損益分岐点がクリアできるのか考えてあるのかということです。なんにも考えていないようです。

  以上のようなことで、広告宣伝を実施したとして、仮に20人くらいが購入応募してきたとしたら、もうそれは丁寧に説得断ればいいが、また仮に全国からバラバラに50人くらいが購入受講してしまったら、それこそ半ば成功などと思いがちで、そのあとのフォローが大変でそれこそ泥沼に足を突っ込んだ状態になってしまう。だからいまのうち、この企画をやめたほうがいいと私はいったわけです。
  相手の社長は感心して聞いていながら、考え考え、重々しく次のようにいいました。

    先生のお話はよく分かりました。たしかにそのとおりだと思うので
  すが、先生みたいな立場には分かりにくいかもしれませんが、会社と
  いう組織はいったん企画を決め、動き出しているからには指揮してい
  る私はこれをやめるわけにいかないのです。これでやりとげるしかな
  いのです。

  これこそ日本軍の各指導者が陥っていった失敗の本質ではないでしょうか。あいまいなポリシーといいかげんな戦略のもとで、少し走りだしたからといって、もう止めることができないのです。それが総指揮官たる社長ができないのです。
  私はさらにたくさん話しました。「いや、会社というものはそうではない。そう思い込んでいるプロデューサー、マネージャーしかいない会社と、もっと柔軟に対応できるあたりまえの会社があるだけだ」と言いました。
  さらには、それでもまだやるというのなら、まずはサンプルケースとしてある地域のみに限定して広告宣伝し、そこでの損益分岐点を設定し、それがクリアできないなら、すみやかに撤退する、もしも私のいうとおりにならなかったら、おおいに私を笑い、全国展開したらいいではないかといいました。

  二人はかなりお礼をいい、かつ暗い顔で帰っていきましたが、私の忠告どおり、限定した地域のみでやったようです。でもやはりうまくいかないで、最前線の部長は、その後長く入院してしまうほどの大打撃を受けたようです。

  こうして私がこの事例を書いているのは、こうした企業の形があの日本軍の敗北の中からもくみとれるのではということです。最初からポリシーも戦略も目的もあいまいなまま始まった数々の作戦、たとえばレイテ作戦だとて最終目標が栗田艦隊には大本営の意図と同じだったとは思えません。だから、レイテ直前で転進して北上してしまう。レイテで米軍をたたくのか、米国艦隊と派手に艦隊戦をしたいのか、あいまいなままです。これが練られていないから、あのような転進になります。学習指導をうりものにして、FAXを売るというのも、あまりに練られていないから、途中で生徒と指導部との電話による会話が盛んになると、なにかそれが意味あるように思い込んでいきます。そしてレイテ作戦ほどまだのめり込んでいない、私に相談した会社も、作戦を中止することができないのです。
  こうした大東亜戦争、三国志、ナポレオン戦略、孫子等々から私はかなり経営に関してもコンサルティングしてきました。だが、それだけではどうにもならないような会社や経営をよく見てきてしまったものだと思います。
  私はこの「失敗の本質」に、もっと各作戦の事例により、より詳しく解説しただきたかったことと、だがそうしたって、いったい各経営者のうちには参考にすらできない資質のところも多々あるのだよと思ったのです。(1994.11.01)

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