将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:太宰治

13042204 私が27歳のころ、ある方が私に言ったことです。大学時代に、太宰治の『右大臣実朝』を「ユダヤ人実朝」と読んだ人がいたそうです。その人は、「日本の貴族源氏の実朝をどうしてそんな読み方をするんだ」と怒ったと言っていますが、私は何もいいませんでした。だが私はかなりショックを受けていました。
 いつも実朝の歌を読んで、私はいつもこんなことを思い浮かべています。

12092805 この写真を見て、太宰治の「富嶽百景」を思い出しました。太宰治は、

 金剛力草とでも言ひたいくらゐ けなげにすつくと立ってゐたあの月見草はよかった

 富士には、月見草がよく似合ふ

と書いています。この写真では、月見草ではなく、菜の花ですが、私は太宰治のこの言葉を思い出していたのです。月見草は夜咲くのかなあ。
 とにかくいつでも突然思い出してしまいます。

12090905  2012年9月9日のポメラで、私は次のように書きました。

 漱石が鎌倉の禅寺を訪ねるのも、修善寺の禅寺を訪ねるのも好きにはなれなかったのですが、今ではものすごく分かる気になりました。曹洞宗もそんなに嫌いではなくなりました。

 鎌倉は今でも歩いています。修善寺は、大昔温泉新聞の記者をやったときの集金旅行と、10数年前に家族4人で行きました。
 それで、前には漱石が禅宗を好きになっている感じが分からなかったのですが、今はそれがとても理解できる好きになりました。
 それに比べて今ではかなり好きになった芥川龍之介ですが、私にはまだ「西方の人」などは理解できない作品です(漱石は禅宗に至ったのに、どうして龍之介はイエス・キリストなのだ?)。
 それから昔から大好きな太宰治ですが、そして私は全作品を読んでいますが、私には大好きな作家です。
 私は夏目漱石と芥川龍之介と太宰治ですが、私にはこの三人が日本では一番優れた作家だと思っています。いやこれは紫式部や清少納言それによしもとばななを含んでもいえるのではないかと思っているのですよ。

2017022016私は11052415島尾敏雄は、全作品を読んでおり、しかも私のすぐそばには、「勉誠出版『島尾敏雄事典』」が置いてあります。

なんか羞ですね。
それで私のブログには、以下を書いています。奥様ミホさんと長男の伸三さんの作品を読んだ私の思いも書いています。

http://shomon.livedoor.biz/archives/51888307.html
島尾敏雄『死の棘』

http://shomon.livedoor.biz/archives/51904358.html
島尾敏雄『贋学生』

http://shomon.livedoor.biz/archives/51888312.html
島尾ミホ『海辺の生と死』

http://shomon.livedoor.biz/archives/51888320.html
島尾伸三『月の家族』

私が全作品を読んでいるのは、太宰治と島尾敏雄とチェーホフだけですから(ほとんど作品を読んでいる作家は他にもいますが、日記等々もすべて読んでいますのはこの三人です)、もっと書かないといけませんね。
そして私に島尾敏雄を教えてくれたのは、吉本(吉本隆明)さんです。

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11052009  太宰治は、1909(明治42)6月19日〜1948(昭和23)年6月13日の生涯でした。亡くなったのは、39歳だったのですね。私はいつも思ってきました。もっと生きてくれて、小説を書いてくれたら良かったのに…。私が全集(全集ということは、日記等々もすべて読んでいます)を読んだ数少ない作家(作品をほとんど読んだ作家は何人もいますが)です。その彼が玉川上水に入水自殺したのが、この山崎富栄との心中でした。
 山崎富栄は、1919(大正8)9月24日〜1948(昭和23)年6月13日です。私は玉川上水のそばを2度歩いています。そのたびにいつも同じことを思います。「もっと生きて、もっと書いてくれたなら…、何が『グッドバイ』だ」。
 山崎富栄は結婚しても、その相手はマニラに赴任して、そこで招集されてすぐに戦死します。だがこの夫の戦死広報を受け取ったのが昭和22年の7月7日です。それは彼女が太宰と結ばれたすぐあとのことでした。
 ただ私は、この太宰の心中の相手をよく知りませんでした。今回こうして知りまして良かったです。彼女と太宰は赤い紐でしっかり結ばれて、亡くなっていました。

11031801「チェーホフの愛した女」ということで、次の10人を紹介してきました。私はこの10人しか知りません。以下は私の紹介した女です。

 オリガ・クリッペル
 リーカ
 マリア・キセリョーフ夫人
 リジア・アヴィーロワ
 クレオパトラ
 オリガ・クンダーソワ
 エレーナ・シャヴローワ
 リジア・ヤヴォールスカヤ
 ナターリア
 妹のマーシャ

 私が作品すべてを読んだのは、太宰治と、このチェーホフだけです。いつも二人の作家の書いたことが、私には蘇ってきています。(2011.03.18)

11021211 私はこの小説を中2の時と、高2の時に読みました。それで先日北ケーブルテレビでこの映画を見て、そのときに青空文庫でこの小説を改めて読みました。実にいい作品ですね。そしてこのヴィヨンの妻がとっても好きになります。ヴィヨンはただのよいどれですが、その奥様は実にいいです。
 でもこの妻の夫であるヴィヨンは何なのでしょうか。ただの酒飲みの悪いだらしのない男でしかありません。
 とはいえ、太宰治は実にいいです。自分のこともあのように見ていられたのですね。いつも、太宰の奥さんって何だったのだろうとばかり思っています。もちろんこのヴィヨンの妻が太宰の奥様ではありません。でも私には、この小説の妻が太宰の求める女性だったのだろうと思うものです。
 でもでも残念です。39歳で自殺していなければ、あのあとも文学を書いていってくれれば、おそらく夏目漱石以上の作品を書いていただろうと思うのです。そのことがとても残念です。
 太宰治は、1909年(明治42)6月19日 ~1948年(昭和23年)6月13日の生涯でした。私は大学1年の夏休み(1967年)に、太宰の自殺した玉川上水を歩いています。

夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、
「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは、当っていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです」
 私は格別うれしくもなく、
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」

 この「ヴィヨンの妻」の最後の部分を読み、私はまた涙を流していました。(2010.02.06)

10122903 私はこの小説を中2の時と、高2の時に読みました。それで先日北ケーブルテレビでこの映画を見て、そのときに青空文庫でこの小説を改めて読みました。実にいい作品ですね。そしてこのヴィヨンの妻がとっても好きになります。ヴィヨンはただのよいどれですが、その奥様は実にいいです。
 でもこの妻の夫であるヴィヨンは何なのでしょうか。ただの酒飲みの悪いだらしのない男でしかありません。
 とはいえ、太宰治は実にいいです。自分のこともあのように見ていられたのですね。いつも、太宰の奥さんって何だったのだろうとばかり思っています。もちろんこのヴィヨンの妻が太宰の奥様ではありません。でも私には、この小説の妻が太宰の求める女性だったのだろうと思うものです。
 でもでも残念です。39歳で自殺していなければ、あのあとも文学を書いていってくれれば、おそらく夏目漱石以上の作品を書いていただろうと思うのです。そのことがとても残念です。
  1909年(明治42)6月19日 ~1948年(昭和23年)6月13日の生涯でした。私は大学1年の夏休みに、太宰の自殺した玉川上水を歩いています。

    夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、
  「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だっ
  てさ。こいつは、  当っていない。神におびえるエピキュリアン、と
  でも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人
  非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、
  去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、
  あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人で
  ないから、あんな事も仕出かすのです」
   私は格別うれしくもなく、
  「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいの
  よ」

 この「ヴィヨンの妻」の最後の部分を読み、私はまた涙を流していました。(2010.02.06)

10102501 米国では、今Facebookが盛んになってきているといいます。私も昨日私のブログのサイドバーに置いたのですが、また削除しました。まだよく判らないというところです。昨日電車の中でやったのですが、フェイスブックはケータイでは今が一番大事な検討のときのようです。このことを今朝の「ニュースさとう」で書きました。
「歴史さとう」では、芥川龍之介のお母さんのことを書きます。一般的には、彼にはお母さんが3人いたと言われるのですが、私は4人だと思っていて、そのことをポーランド人の研究家に納得させたこともあったのですが、今は3人までしか確認できないのです。でも近頃では彼の小説が実に好きになりました。太宰治や夏目漱石に負けない作品ばかりだと思いますね。
 写真は、10月25日の午後6時28分の長女の家でテレビの画像をポコ汰が撮りました。こうしてピントが合わせられるようになりました。(10/27)

10101302 今はパソコンで書いていますが、この以下の部分はポメラです。ポメラはいつまでも辞書が向上しませんね。それがかなりイライラします。

2010/10/15 02:18何度も義母に起こされました。仕方ないですね。
2010/10/15 07:30ちょっとこんなことでは、妻が寝不足ではないかと心配です。もう私も日々の生活がこんなものです。だから私は平気なのですが・・・。妻のほうが大変だし、私はそもそも鈍感だしなあ、という思いですね。
 さて、きょうはいくつも書かなくちゃいけないことがあります。
2010/10/15 07:47いや昨日も長女宅へ行くときに、考えていたことを実行していきたく考えています。それは漱石、鴎外、太宰治等の作品を書いていくことです。でも鴎外の作品が大変なのですね。『舞姫』をどう書こうかが悩むところです。芥川龍之介、中島敦は何を書くかは決めたのでしたが。そして書く内容ももう分かります。もう私にはその書く中味を想像できます。だが『舞姫』だけは今も決められません
2010/10/15 09:40さて義母を「わが家」に送る時間です。このポメラに不満なところは辞書ですね。でもいくら使っても向上しません。「鴎外」を書くのも大変なのです。面白くないですね。
 思い出せば、太宰治は全集を読んでいます。府中刑務所で読んでいました。漱石、鴎外、芥川龍之介はその9割の作品を読んでいます。中島敦は95%読んでいますね。
 さてもう9時55分です。
2010/10/15 09:57「ちい散歩」です。私の大好きな番組ですが、何故かいつもなかなか見ていられません。先日の鎌倉長谷から極楽寺までの回は見たかったのですが、でも見ていませんでした。あ、極楽寺から長谷へ歩いたのかな。

 また鎌倉を歩きたくなりました。独りで歩くのもいいのですが、でも最後飲むときに少し寂しいな。

10101211  imajoukさんのツイッターで、以下がありました。

imajouk    劉暁波氏のノーベル平和賞受賞について、こういう見方もある。「平和賞、受賞に日本は浮かれすぎ」 http://www3.diary.ne.jp/user/312071/ これが当たっているかどうかは判らないが、検証すべき見解ではある。 #seiji

 これで私はこの先の 中宮崇の 世相日記「些事争論」を読んでみました。これの「■2010/10/12 (火) 昨日の日記 純文を、子供に読ませる親は馬鹿」の中に次のようにありました。

つーか、芥川賞作品(特に最近の)は全部そんな感じだし、明治大正の古典だって、その手のものがほとんどである。
明確な障壁や葛藤が時代ごとに存在した欧米と違って、日本の純文学ってのは、主に個人的な心の葛藤ばかりを扱っており、言って見ればキチガイ向けの処方薬あるいはゴキブリメンヘル向けの覚醒剤であって…

というので、何を言っているのかなあ、という思いでしたが、次はなんだか私でもとんでもないという思いでした。

教科書に必ず載っている作品だって、たとえば鴎外の舞姫なんて、エリートのぼんぼんが留学先でろくに勉強もせずに奨学金打ち切られた挙句、現地の女を妊娠させて自分の出世のためにそれを捨てちゃうって話でしょ。漱石なんてクズニートだの甘やかされたどら息子とかの話ばかりだし、太宰なんていうまでも無いでしょ。例外は、悔しいことに、支那文学を下敷きにした芥川や中島敦などのごく一部だけでしょう。

 私は太宰治は全集を2度読んでいます。その他の漱石や鴎外、芥川龍之介、中島敦は9割読んでいるという感じです。村上春樹は、娘に勧められて、いくつか読んできました。
 私はこれに総反論しようと、そのあと長女の家まで歩いて(歩いて、私の足で20〜30分かかります)いるときに、その反論を考え上げ、でも鴎外『舞姫』だけは考えがまとまりませんでした。
 また改めて書くつもりですが、とにかく、これはとんでもないという思いで書いていくつもりです。
 そうですね、私の蜘蛛業の「読書さとう」でいくつかのこれらの作家の各作品への思いを書いていくつもりです。
 もはや総反論とも言えないものでしょうが、今後書いていくつもりです。
 あ、でもこの彼にこれでトラックバックしようと思いましたが、彼は「さるさる日記」にこれを書いているんだ。どうしようかなあ。あとでメールを送ればいいか。

7e0dc7d1.jpg「読書さとう」に織田作之助、田中英光を書きましたので(太宰治は前に書きました)、同じ無頼派の坂口安吾と石川淳も書こうという気持なのですが、でも作品を思い出しません。それでインターネットで調べると、いろいろ思い出しました。思い出して、そしてやはり辛いです。戦後直後というのは辛い時代ですね。
 太宰治に吉本(吉本隆明)さんが会いに言ったことがあるのです。太宰治は、吉本さんに、「男の本質って何だと思う?」と問いかけ、応えられない吉本さんに、「それはマザーシップだよ。お前、不精ひげを剃れよ」というのです。太宰治の限りない優しさを感じます。
 写真は昨日3月12日10時56分にご近所で撮りました。私は歯医者さんからの帰りでした。(03/13)

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 この日は茨城空港のオープンの日でした。

2010/03/11 07:39茨城空港がきょうオープンだといいます。何であんな空港を作ったのでしょうね。ひどい話です。
 昨日妻のデジカメを故障ということで引きとってもらいました。いつ帰ってくるのかなあ。
2010/03/11 18:12長女の家に来ました。でもまだ誰も帰っていません。早く帰ってこないかなあ、という思いです。ずっと歩いてくるときに、二人の孫のことばかり思い浮かべているからです。
「読書さとう」で「織田昨之助『夫婦善哉』」のことを書きはじめ、そして田中英光のことも思い浮かべました。前にお酒に関する本で、銀座ルパンでのこの二人と太宰治の写真を見ましたことがあります。なんという写真家だったかなあ。それが実にいい写真で、もう織田昨は実にいい顔で(彼は好男子だよね)、それに太宰治も実に格好よくていいのです。でもでも、実は田中英光の顔がもう実にいいのです。かなり大柄な人だったのでしょうが、その笑顔がいいのです。思えば、彼の作品はたくさん読んだものでしたが、今の私には『オリンポスの果実』が思い出されます。あの作品の最後の行が思い出されます。彼女は本当にあの主人公が好きだったのでしょうか。
 田中英光は、太宰治の墓の前で割腹自殺します。もうその気持ちが判るというか、なんというかただただ悲しいばかりです。あ、明日「読書さとう」で、この作品を扱います。
2010/03/11 18:53長女の家にきました。もう二人は帰ってきて、もうたくさん食べています。ばあばのは美味しいよね。

 ばあばの美味しいお料理ご飯を食べている二人の孫は可愛いです。あのね、それを運んでいるのはじいじだよ。

c96a8354.jpg 昨日の「読書さとう」に「織田作之助『夫婦善哉』」を書きました。あの作品には続編があるのですね。2008年に発見されたのです。 それからきょうは、「田中英光『オリンポスの果実』」を書きます。田中英光にはほかにもいくつもの作品があるのですが、私はこの作品を思い出すのです。この作品の最後の行が今も私の脳裏に浮かびます。「あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか。」このあと日本は戦争になってしまうのです。
 彼は太宰治が大好きでした。太宰治の墓の前で割腹自殺して生涯を終えます。
 写真は3月8日9時14分の江古田駅前の浅間神社です。(03/12)

 この作品を思い出そうとしたのですが、そして青空文庫で読んでみまして、作品の中に

この湖畔の呉王廟は、三国時代の呉の将軍甘寧(かんねい)を呉王と尊称し、之を水路の守護神としてあがめ祀(まつ)っているもので…

という文で、この甘寧を思い出し、そしてまた太宰治の『惜別』を読んで、これを最後まで読み、私はまた涙を浮かべていました。
 もちろん、魯迅の『藤野先生』もインターネット上で読みました。竹内好の訳したものです。これも読んでまた涙がでました。藤野先生は、魯迅が帰るときに(魯迅は先生には、帰国するとは言っていません)、自分の写真の裏に「惜別」と書いて渡すのですね。これが太宰の小説の題名になるわけです。
 それにしても、この『竹青』も実に太宰治らしい作品です。このカラスの女性の竹青が最後人間になってしまい、そして主人公魚容の妻の顔になってしまうのは、あまりに太宰治がやりすぎだよなあ、とも思ってしまうわけですが、でもでもやっぱりこれでいいです。
 なんだか、太宰治に感心してばかりいる私がいます。

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 周の漢詩入門「夏目漱石『尋仙未向碧山行』」に次のように書いたことですが、私はこのことで、漱石との会っているところを思い浮かべていました。

『明暗』について、漱石は芥川龍之介、久米正雄への書簡で、「新聞一回分千八百字くらいで、百回で十八万字、十八万では字数が多くなって平仄に差支えるから三万字で御免蒙った」ということを述べているそうです。これが転句に書かれている内容です。

 たしか大正4年にこの久米正雄と芥川龍之介、菊池寛が一緒に漱石の家を訪ねます。そこには、新聞社の文芸の記者もいて、その前で漱石は久米正雄と龍之介を褒めます。たしか、次のようなことでした。

 この芥川君と久米君は素晴らしいものを持っています。とくに、この芥川君は云々・・・・。

 これを読んで、龍之介の隣にいる久米正雄が面白いわけがないよね。でもでも、一番面白くないのは、この二人の後にいた菊池寛だと思うのですね。
 でもでも、漱石は私の好きな作家ですが、私は芥川龍之介はそれほど好きではありません。
 そうねえ、私は太宰治のほうがずっと好きです。いくつもの作品も私は漱石と太宰治が好きです。

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 本日の亀山郁夫さんの文章に、目森一喜さんから以下のコメントがありました。

1. Posted by 目森一喜   2009年09月20日 11:42
太宰と心中した女性は、近所で評判の美人で、洋裁の先生をなさってらした方でした。当時、女性の間で洋裁を習うのが流行したんです。あの心中は、どちらがどうというのではなく、あの瞬間に2人の道行きがそういう事になってしまったんでしょうね。当時から今まで、色々と取りざたしたがる人たちはいますが、余人のうかがい知るところではないですね。

 私はジブリ美術館に家族4人で行ったときも、この玉川上水のわきを歩いたものでしたが、私が大学1年の夏に、武蔵野美術大学へ行った友人と、もう一人の友人(彼は浪人中だった)と会ったときに、その武蔵野美術大学の友人のアパートがこの玉川上水のすぐそばでした。たしか、彼のアパートへの行き帰りに、この玉川上水の傍を歩いたものです。そのときにも、この太宰治の死を話したものでした。
 それが大学1年の夏で、そのちょうど2年後のたしか7月、私が府中刑務所に勾留されていたら、武蔵野美術大学全共闘(違う名前だったかもしれない)の人が面会に来てくれて、そのときに、私がこの同級生の名前を出したところ、同じくバリケードをやっている友人だということで、すぐその何日か後に、府中に面会に来てくれたものでした。
 思えば、このときに最初に面会に来てくれた方にもお礼を言いたいな。思えばもう40年も前のことですが。
 でもでも、やはり太宰治には、死なないで小説を書き続けてほしかったな。いえ、今文学者の亡くなった歳を少し考えていたのですが(例えば、漱石とか、それから長生きしたという武者小路実篤とか志賀直哉とかですね)、やはりもっと生き続けて文章を書き続けてほしかったです。
 この目森さんのコメントを読んで、『ヴィヨンの妻』のあの妻を思います。どうしても私は、酔いどれのあのヴィヨンのほうが好きになれます。

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 今朝の日経新聞の朝刊を読みました。日曜日は、いつも「亀山郁夫『ドストエフスキーとの旅」があります。私はけっこうこのごろ亀山郁夫さんのロシア文学の訳本も読んでいます。
 これに次のようにありました。

 2008年1月、東京・三鷹。「曰く、家庭の幸福は諸悪の本」───。太宰治の遺作「家庭の幸福」の最後に記せられた一行である。自分の幸福は、必ずや他者の不幸と結びついているという原罪の観念、それこそが生涯、彼にとりついたもっとも強烈なイデーフィスクだったのではないか。

 私は太宰治の作品は全作品を読んでいるはずなのですが、この遺作は覚えていません。それで、このブログのサイドバーに置いてある青空文庫で読んでみました。珍しく津島修治という本名の登場人物で書かれています。

 ああ、早く帰宅の時間が来ればよい。平和な家庭の光を浴びたい。きょうの一日は、ばかに永い。
 しめた! 帰宅の時間だ。ばたばたと机上の書類を片づける。
 その時、いきせき切って、ひどく見すぼらしい身なりの女が出産とどけを持って彼の窓口に現われる。
「おねがいします」
「だめですよ。きょうはもう」
 津島はれいの、「苦労を忘れさせるような」にこにこ顔で答え、机の上を綺麗(きれい)に片づけ、空(から)のお弁当箱を持って立ち上る。
「お願いします」
「時計をごらん、時計を」
 津島は上機嫌で言って、その出産とどけを窓口の外に押し返す。
「おねがいします」
「あしたになさい、ね、あしたに」
 津島の語調は優しかった。
「きょうでなければ、あたし、困るんです」
 津島は、もう、そこにいなかった。
 ……見すぼらしい女の、出産にからむ悲劇。それには、さまざまの形態があるだろう。その女の、死なねばならなかったわけは、それは、私(太宰)にもはっきりわからないけれども、とにかく、その女は、その夜半に玉川上水に飛び込む。新聞の都下版の片隅に小さく出る。身元不明。津島には何の罪も無い。帰宅すべき時間に、帰宅したのだ。どだい、津島は、あの女の事など覚えていない。そうして相変らず、にこにこしながら家庭の幸福に全力を尽している。
 だいたいこんな筋書の短篇小説を、私は病中、眠られぬままに案出してみたのであるが、考えてみると、この主人公の津島修治は、何もことさらに役人で無くてもよさそうである。銀行員だって、医者だってよさそうである。けれども、私にこの小説を思いつかせたものは、かの役人のヘラヘラ笑いである。あのヘラヘラ笑いの拠って来る根元(こんげん)は何か。所謂「官僚の悪」の地軸は何か。所謂「官僚的」という気風の風洞は何か。私は、それをたどって行き、家庭のエゴイズム、とでもいうべき陰鬱な観念に突き当り、そうして、とうとう、次のような、おそろしい結論を得たのである。
 曰(いわ)く、家庭の幸福は諸悪の本(もと)。

 この最後に書いてある、玉川上水へ身を投げる「見すぼらしい女」というのは、実際に太宰が心中してしまった女性のことではないのですか。
 私は太宰に言いたいです。「家庭の幸福こそが大事ですよ。そしてそこに一番のより所があります」。こんなことを、今言っても、太宰治には届かないのかもしれません。

 この亀山郁夫さんの文章には、もう一つ太宰治の作品が書いてあります。「花吹雪」という作品です。これも太宰治の晩年の作品です。最初は以下のように始まります。

 花吹雪という言葉と同時に、思い出すのは勿来(なこそ)の関である。花吹雪を浴びて駒を進める八幡太郎義家の姿は、日本武士道の象徴かも知れない。

 私が源氏というのは、「紫式部『源氏物語』」の源氏含めて嫌いですが、でもこの八幡太郎義家だけは好きなのです。上中里の「平塚神社」には、この義家が祭ってあり、そこではいつでも私は手を合わせています。鎌倉の鶴が丘八幡宮では頼朝に手を合わせたことは一度もありません。
 しかし、この『花吹雪』という作品は、たくさんのことが書いてあります。太宰は鴎外が好きだったのかなあ。私も玉川上水を歩いたことがあります。あそこにも鴎外の碑があるのですね(いえ、玉川上水は長いから、ちゃんと説明すべきなのでしょうが)。私は数年前(5年くらい前かな)に、家族で 三鷹の森ジブリ美術館 (この美術館は三鷹駅から玉川上水そばを15分くらい歩いたところにあります。思い出せば、私はそのときもひどい二日酔いでしたね)に行ったものでした。
 この作品の中に、宮本武蔵の「独行道」があります。そしてそれと比較して、太宰のいう「独行道」も書いてあります。
 最後に次のように言っています。

 剣聖の書遺した「独行道」と一条ずつ引較べて読んでみて下さい。不真面目な酔いどれ調にも似ているが、真理は、笑いながら語っても真理だ。この愚者のいつわらざる告白も、賢明なる読者諸君に対して、いささかでも反省の資料になってくれたら幸甚である。幼童のもて遊ぶ伊呂波歌留多にもあるならずや、ひ、人の振り見てわが振り直せ、と。

 やはり、どうしても私は太宰治が好きです。宮本武蔵はどうしても好きになれません。『五輪書』なんていくら読んでも感心したことはありません。
 ああ、そうだ、今夜のNHKの『直江兼続』で、関ケ原の戦いになるのですが、あのときの西軍の主力部隊だった、宇喜田秀家の軍には、若き日の宮本武蔵がいるのですね。もちろん、まったく描かれないでしょうね。
 あ、ついでにいうと、私の母方の先祖が、この先祖は茨城県南部に生きていたのですが、この関ケ原のときは石田三成の配下の武将として戦っています。懐かしい、遠い話ですね。

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「走れメロス」を見て へ 目森一喜 さんが以下のコメントをくれました。

1. Posted by 目森一喜   2009年09月13日 12:22
「-メロス」はいいです。梶原一騎がメロスなしに『巨人の星』を書くことはなかったんじゃないかと、私は想像しています。あきらめようとするところ、疑うところ、これがいいんですね。これを両方、ちゃんと見ている。あたりまえのようでいて、なかなかできていないところです。

 私は以下のように書いていますが、

私は最初この小説を、太宰がずっとふさげて書いていると思い込んでいました。それはつい20年くらい前まで思い込んでいました。でもでも、何度も読むうちに、この小説こそ、太宰が真剣に描いている、このメロスの心は、太宰治その人のものなのだと思うようになりました。

 こう思えてくるようになったのは、この目森一喜さんに電話で聞いたのだと思います。時期は皆目判りません。そして目森さんにもさきほどケータイメールで聞いたのですが、覚えていないということでした。でも私が次のように書いたことは、これは目森さんが言われたことです。

 でもでも今はもう太宰治が私はものすごく好きです。おそらく、日本の文学の中では、この太宰治と夏目漱石が最高のものなのではないでしょうか。

 その言われたときには、私は心の中でも認められなかったのでしたが、もうすぐにこの通りだと思えるようになりました。そのときにたしか、私は、「谷崎潤一郎もいいんじゃないかな?」と言いまして、彼にあっさり否定されまして(いやこれは谷崎そのものを否定したということではなく、「太宰治と比較すると……」ということでした)、そのときは私は悔しいような思いだったのですが、でももう今では認めています。今では、私は太宰治の熱心なファンと言えるでしょう。

 それにしても、私はまだ「梶原一騎『巨人の星』」のことは判らないです。いえ、私は

梶原一騎がメロスなしに『巨人の星』を書くことはなかったんじゃないか

ということが判らないのです。いえ、そんなことを言った人はいないし、私も必死に考えているところです。

あきらめようとするところ、疑うところ、これがいいんですね。

 うん、なんとなく判ってきたかなあ。でもそうだとしても、「走れメロス」を書いていた太宰治の気持は実にいいですね。
 熱海で自分の帰りをただただ待っている団一雄を思いながら、井伏鱒二と将棋を打っていた太宰の思いを、今の私が思い浮かべます。

 待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。

 そうですね。どう見ても、待つ身のほうが辛いのですが、でもでもそうじゃないんですね。待たせるほうも、辛いのです。いえ、そちらのほうがきついのかなあ。
 私は府中刑務所の独房の中で、ずっと待っていたことがあります。でも思えば、太宰のこの言葉が私は少しも判っていなかったのでしたね。

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 私はこの「走れメロス」の物語を知ったのは、最初はシラーの詩であったと思います。そのあとが太宰治の小説でした(私はこの物語を、「民主岡田氏が小沢氏に警戒感」というニュース に乗せた画像の映画で昨日思い出したのです)。シラクサの暴君であったディオニス王が最後メロスとセリヌンティウスが抱き合う姿に、自分も仲間に入れてくれというシーンがあり、それが記憶に大きいです。
 このシーンは以下の通りです。

「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉(のど)がつぶれて嗄(しわが)れた声が幽(かす)かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧(かじ)りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。
「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若(も)し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
 セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯(うなず)き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑(ほほえ)み、
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
 メロスは腕に唸(うな)りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
 群衆の中からも、歔欷(きょき)の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶(かな)ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
 どっと群衆の間に、歓声が起った。

 あと、最後メロスは裸すがたでいるためにある少女がその裸体を覆うために服を持っていることを、セリネンティウスに指摘されて、「勇者は赤面した」というところも私の心に残ります。

 ひとりの少女が、緋(ひ)のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 勇者は、ひどく赤面した。

 でもでも、この映画はかなり違うのですね。最初から暴君のディオニシウス鏡い肋しもいい奴でもないし、そして嫌な顔で描かれています。おそらく歴史上のこの暴君が実に嫌な奴だったのでしょう。
 それでも、私はこの映画を昨日やっている後から気がついて、見始めて、この太宰治の「走れメロス」を思い出しながら、最初からずっと涙を流していました。もう私しかいなかったからいいのです。ただただ羞かしいくらい涙を流していました。

題名 走れメロス
封切 1992年
原作 太宰治
脚本監督 おおすみ正秋
音楽 小田和正
声優
 メロス 山寺宏一
 セリヌンティウス 小川真司
 ディオニシウス鏡ぁ‐林昭二
 フリューネ 水沢アキ
 ライサ 中森明菜
 アレキス 坂口芳貞
 カリッパス 青野武

 太宰治の原作とは、いくつかのことが違います。暴君の家来で、王の命令でメロスを見張るアレキスと彼のやることなんか、実にいい存在です。

 この映画はいくつかのことが原作とは違いますが、それでもやっぱり私は太宰治の原作をずっと思い出していて、それで涙を流していました。
 私が最初にこの小説を読んだのは、高校2年のときかなあ。私は最初この小説を、太宰がずっとふさげて書いていると思い込んでいました。それはつい20年くらい前まで思い込んでいました。でもでも、何度も読むうちに、この小説こそ、太宰が真剣に描いている、このメロスの心は、太宰治その人のものなのだと思うようになりました。

 この話は、太宰治と檀一雄との熱海事件が発端になっていると思います。
 その事件とは、熱海のある旅館に太宰がずっといて、いつまでも戻らないので、奥さんが心配して、太宰の友人の檀一雄に「様子を見て来て欲しい」とお願いする。往復の交通費と宿代等を持たされ、熱海に向かったきた友人の檀を太宰は大歓迎して、そのまま連日飲み歩き、とうとう金を全て使いきってしまう。それで、檀を人質にと説得し、太宰は東京にいる井伏鱒二のところに借金をしに行ってしまう。数日待ってもいっこうに音沙汰もない太宰にしびれを切らした檀は、宿屋と飲み屋に支払いを待ってもらい、井伏のもとに駆けつけると、二人はのん気に将棋を指していた。激怒しかけた檀に、今まで散々面倒をかけてきた井伏に、借金の申し出のタイミングがつかめずにいた太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」 と言ったという。後日、この太宰の『走れメロス』を読んだ檀は「おそらく私達の熱海行が少なくもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた。」と書き残しています。
 この熱海で待つ団一雄のことを、メロスの帰りを信じて待つセリヌンティウスに思えたのではないでしょうか。井伏鱒二は、実にいい人です。私は「太宰治全集」は今までに2度読んでいますが、書簡集には、この井伏鱒二への手紙がたくさんあります。そしてその内容は、借金の申込などばかりです。あとで読みました「チェーホフ全集」の中の書簡集は、ほぼ奥さま(だと思っていました)への手紙ばかりで、でも太宰治との違いをおおいに感じました。

 でもでも今はもう太宰治が私はものすごく好きです。おそらく、日本の文学の中では、この太宰治と夏目漱石が最高のものなのではないでしょうか。
 そのことをまた思い浮かべ、昨日の「走れメロス」を見ながら、涙していた私でした。

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 太宰治の生誕100年の毎日新聞の記事目森一喜さんが、次のコメントをくれました。

1. Posted by 目森一喜    2009年06月06日 00:21
 平手造酒を好きな人は多くて、時代劇には同じ造形の人物があまた登場します。
 本当は、これは織田作の方がイメージかもしれません。(いい作家ですね)
 話は変わりますが、「走れメロス」はスポーツ物の物語の原型ですね。「巨人の星」も「ルーキーズ」も、新しいメロスなんだと思って、見てしまうのです。

 たしかに、思えば、織田作之助が平手造酒の感じなんですね。私が大阪南の夫婦善哉そばの「自由軒」へ行ったのはいつでしたかね。あの街を歩いていると何故か作之助の声が聞こえてくる思いがしたものでした。私も好きな作家です。ただもっと生きて書いていってほしかったな。
「走れメロス」はとても好きです。いつもメロスの思いに涙が溢れてしまう感じです。でも私が「走れメロス」を好きになれたのは、30歳を過ぎてからですね。その前には、何故かあの詩が読めない思いでした。あの詩のよさが理解できなかったのでしたね。
 でも太宰治も、織田作之助も、なんだか破滅的な感じですね。もう私は孫のそばでいつも笑顔でいるじいじになります。

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「太宰治の場所:生誕100年・文芸評論家に聞く/1 吉本隆明さん」目森さんが次のコメントをくれました。

1. Posted by 目森一喜    2009年06月05日 00:43
 迷惑なんて事は、ありません。とてもうれしかったです。また、お話しましょう。もちろん、今では、誰も話題にしなくなったような事を、あちこち飛躍しつつ、長く話しましょう。

 ありがとう。どうも私はいつもだらだら飲んでくどくど喋っているほうですから、目森さんには少し迷惑かな、と思っているところがあるのです。
 要するに、私の世界では、酒を飲まない人っていないもので(いやいや、私の一番近いところにいる人では、私の妻が飲みません)、少しちゃんとしないといけないなと思ったところなのです。

 それで目森さんは、以下のブログのほうが書いているのですね。

   http://ameblo.jp/memorix/ 目森書店の本棚から ― そして、様々に

 私のサイドバーの将門のブックマークでもリンクしました。

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新聞名 図書新聞第2913号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年4月11日
読了日 2009年4月4日

 この号もまた秋竜山さんの

評者◆秋竜山 なんぼのもんじゃ、ワレ!、の巻

を扱います。以下の本はすぐに読みたいと思いましたが、

日本博学倶楽部『徹底比較!関東人と関西人――性格から衣食住の好みまで』(PHP文庫、本体四九五円)。

残念なことに北区の図書館には、ありませんでした。
 たしかに、私たち関東人(私は自分のことを、そう思っているのです)には、関西人は、大阪人も京都人も理解するのが大変です。いや私には、やはり名古屋人も理解するのは大変です。

 次の文ですが、新聞で読んだときには、何も感じなかったものですが、インターネット上で読んでみますと、なんだか心を打たれてしまうものなのです。

評者◆小池昌代 太宰のなかの少女と風土太宰治選集

 中学生のとき、わたしは初めて太宰作品を読んだ。『人間失格』という小説であった。なんという嫌らしい、なんという気持ちの悪いことを書く人だろうと思った。まったくの他人が為す嫌らしさなら、自分とは関係がないと、一線を引いて終わらせられるのだが、太宰の嫌らしさ、気持ちの悪さは、自分と繋がっており、認めて公表したくはないが、自分のなかにあるものだと感じられた。中学生なのに、本当にそう思ったのだ。いまも太宰を読む小・中学生のなかには、同じような切実さを感じている子は多いんじゃないかな。

 私も同じ思いがしていたものでした。でもでも太宰はそれだけではないのですね。

太宰には、のびやかなこころが羽を広げた、『津軽』のような作品もあるのだった。
 たけと再会する場面は有名だが、何度読んでもすぐに忘れる。なんか、感動的な再会があったんだよね、という程度。実際に、読み返してみると、これはもう、泣かずには読み終えられない場面である。
 学校の運動会に行ったというたけを探しだし、「修二だ」と言う。「あらあ。」とたけ。二人は何も言わず、並んでござに座り、子供たちの運動会を見る。途中で、たけが、ふと気がついたように、「何か、食べないか」と声をかける。いつもひとの胃袋を忖度するひと、それが母親というものである。
 このたけが、大人になった修二のことを、お前、お前と呼ぶ。それがいい。「手かずもかかったが愛(め)ごくてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ」。
 子供はいるのか、とか、次々と質問するたけを「私」=太宰はこう書いている。
「そのように強くて無遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったということに気附いた」。

 太宰は中学2年のときに読み始め、高校1年でまたいくつもの作品を読みました。そして学生運動で、府中刑務所に勾留されているときに、全集をすべて読みました。私が、「新釈諸国噺」を読んでいるときに、あまりの面白さに、ゲラゲラ大声で笑っていたら、看守が驚いて「2004番、どうしたんだ?」と言ってきたのを覚えています。太宰治は、とにかく読んでいて、面白いです。あまり興奮しなかったのは、「日記」くらいかなあ。

 もう一つ井伏鱒二の訳詩を載せてみます。これまた春の目覚めの悪いときに誰でもが口から出てきてしまう詩です。

   春暁    孟浩然
  春眠不覺曉 春眠 暁を覚えず
  處處聞啼鳥 処処 啼鳥を聞く
  夜来風雨声 夜来 風雨の声
  花落知多少 花落つることを知らず 多少ぞ

 この五言絶句を訳している井伏鱒二の詩が以下です。

09030404  ハルノネザメノウツツデ聞ケバ
  トリノナクネデ目ガサメマシタ
  ヨルノアラシニ雨マジリ
  散ツタ木ノ花イカホドバカリ

 井伏鱒二の小説を読みましたのは、高校1年生のときでした。でもこの「厄除け詩集」のいくつかの詩を知ったのは、24歳くらいの時でした。思えば。太宰治と同時に好きになっていったものでしたね。

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 僕が太宰さんの家に訪ねていったら、奥さんがいて「いま外に出ております」って留守だったことが何度かあります。それで一度目は帰ったんですけれど、二回目に行ったときにまた「今出てます」って言われて、これはだめかと思って帰りかけたら、手伝いのおばさんに三鷹の駅に行く途中で会ったんです。「先生と会いましたか」と言うから「いや、会えなかった」と答えたら、私が言ったとはいわないでくださいねとクギを刺して、「三鷹の駅からまっすぐ行ったところに屋台のうなぎ屋さんがあって、先生はいつもそこで飲んでいますよ」って教えてくれたんです。そして、そのときにそのおばさんが「あの人はとてもいい人ですよ」と僕に言ったんです。それで、太宰さんが、男の本質はマザーシップだと言ったのが実際的にもわかるなあという感じがしました。(「『芸術言語論』への覚書」)

 この手伝いのおばさんという人が言われる太宰への「あの人はとてもいい人ですよ」ということは、私は何度も吉本さんの言葉として聞いていますが、ものすごくいい言葉です。そして実際にこの屋台で吉本さんは、太宰に出会うわけです。学生服姿だった吉本さんと太宰の出会いと、そこで交わされた会話が私に甦ってきます。

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08123102『お伽草紙』という、あの人がつくりかえた童話があります。舌切り雀の話で、おじいさんが大金持ちもなって、最後に、「自分がこういうふうに豊かになったのはおばあさんのおかげです」というところがある。それを読んでいると、これは奥さんのことを言っているのかな、みたいに思えるような書きぶりで、彼は童話でさかんに弁解しているというか、誤解を解こうとしているんだなというふうに僕には思えました。(「『芸術言語論』への覚書」)

 私がこの『お伽草紙』を読んだのは、学生運動で府中刑務所の独房に居るときでした。ちょうど戦争中に太宰が書いたものだと思いますが、そのときの太宰の思いが実に判るような思いでした。これだけ奥さまには弁解していながら、でもでも実際の行為では反対になってしまっていたのでしょうね。

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「お前学校おもしろいか」と聞かれたから「おもしろくありません」と言ったら、「俺も小説を読んでもちっともおもしろくない」という話から始まりました。「俺がお前の齢だったら、ヤミの担ぎ屋をやるなあ」と言うんです。そして、あんまりそういうことばかり言うから、「太宰さん、いま重くないですか」と聞いてみた。「そりゃあ、重いさ。だけど、お前、男性の本質は何か知っているか」と言うから、「いや、全然わかりません」と答えたら、「それはマザーシップということだよ」って言ったんです。母性的ということは男性の本質だと言ったんです。それで僕はびっくりしたけど、この人は大変物事を考えている人だなあ、と感じました。
「男性の本質はマザーシップである」というのは、男性が母性的である、ということですよ。母性性が男性の本質だということです。へえー、この人はすごいことを言う人だなあと、そのとき思ったから覚えているんです。
(「『芸術言語論』への覚書」)

 このことは、前にも他の本で読んだことがあります。そして大変に印象深かった思いがあります。いや、私には太宰のこの言葉が、吉本さんにとってはあとになるほど大きくなってきたような思いがあります。私もまったく男性のことを、このように思っております。でも戦後のあの時代に実際に太宰と会った吉本さんの存在ってすごいですね。そして私はこの言葉を太宰の言葉というよりも、吉本さんの言葉だと思っています。

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 文学者の中でも武田泰淳は、「俺は大学を中退した奴じゃないと信用しないんだ」と言っていますね。一方で太宰治は、カンニグしてでも何でもいいから、とにかく卒業してしまったほうがいいという考え方です。僕はどちらかというと、太宰治と同じ考え方。太宰治が好きでもありますのでね。(「よせやぃ。」『教育について───第一回座談会』)

 この言葉は、太宰治の言葉としても、吉本さんの言葉としても私には大きく考えてきていたものです。私はだから、大学を卒業したものです。同じ学生運動をやった中で、ごく少数が卒業しない路を選んだ人もいる。けっこう、「卒業したほうがいいんじゃないの」と言ったものでしたが、しない人もいたものでした。

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 カチカチ山を思い出した で、二つとも(瘤取りじいさんとカチカチ山)太宰治の「お伽草紙」に関して思い出したものでした。これはぜひとも以下で読めますから、読んでみてください。太宰治の魅力が必ず判るかと思います。

  http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/307_14909.html 太宰治「お伽草紙」

 太宰治は今も実に人気のある作家だと思います。とくに、若い女性が高校生の頃好きになるのかなあ、と私は思っています。でもそんな若い女性もやがて、太宰から去ってしまいます。
 でも私はこの年になっても、太宰治が好きです。
 太宰治を読んだのは、最初は中学2年のときであり、高校1年のときにもかなり読みました。でも、私が一番読んだのは、大学2年のときの、東大闘争での府中刑務所の勾留中でした。このときに、筑摩書房の「太宰治全集」を日記等含めてすべて読みました。
 この「お伽草紙」も面白かったのですが、「新釈諸国噺」も実に面白かった。1969年の7月に読んだときのことを、太宰治の小説をいくつもを思い出した に書いています。

 その他、私の好きな作品を思い出してみました。

「ヴィヨンの妻」 私はちょうど、このフランソア・ヴィヨンの詩を読んだばかりのとき(3月に差し入れてもらった筑摩古典文学大系の「中世文学集」で)でした。私はこの15世紀のフランスの無頼・放浪の詩人が大変に好きになれたものでした。その詩人が、今日本にきて、今こうしてその奥さんが語るのかなあ、なんていう思いをいだいたものです。

「右大臣実朝」 この「右大臣」というのを、何故か「ユダヤ人」と読んだ人がいるというので、「何故日本の貴族源実朝をユダヤ人なんて錯覚するんだ」と怒っていた人がいたのでした。私はこの作品は何度も読みまして、好きなものですから、その話自体がバカバカしい話でした。

「女の決闘」 チェーホフの作品でも好きだったのですが、この太宰の作品はまた非常に面白かったものです。

 私が横浜の高校にいたときに、同じクラスの女性で、この太宰治のことを「いくじなしの自殺(しかも心中)をするような人」と言った人がいたのですが、そのことに私は反発し、そしてそのことについて、私は今から5年前のクラス会で指摘しまして、太宰治の魅力について語りました。

 ええと実は今ポコちゃんのそばに来たのですが、食事でもありますので、書いていられません。また別のときに書きます。

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 ナミちゃんのブログで私の 周の雑読備忘録「『金子みすヾ童謡集 明るいほうへ』」の3 を、以下のように取り上げてくれました

 周さんがブログ内で金子みすずの詩を書いてくれています。
 「海とかもめ」「夜ふけの空」「すずめのかあさん」「こぶとり」です。
 「こぶとり」のところでは太宰治の「お伽草子」のなかの「瘤取り」の話を
 載せてくれてありましたので読んでみたところ改めて太宰の文章と視点の
 素晴らしさにビックリしています。高校のころに読んだつもりでいましたが
 後期の作品がおおかったのかな・・楽しいです。

   みすずの「こぶとり」・・いいですね。
   ・・やれやれ ほんとにお気のどく、
   も一度、 一しょにまいりましょ。・・・の部分があたたかいですね。

 それで私が書きました、太宰治の「お伽草紙」なのですが、どのお話も面白いですね。ぜひみな読んでみてください。

 http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/307_14909.html 太宰治「お伽草紙」

 それで私は、この中で「カチカチ山」を思い出したのです。
 私は太宰が次のようにいうことを、ずっと感じてきていました。

兎の仕打は、執拗すぎる。一撃のもとに倒すといふやうな颯爽たる仇討ちではない。生殺しにして、なぶつて、なぶつて、さうして最後は泥舟でぶくぶくである。その手段は、一から十まで詭計である。

 私はこれと同じ思いの中で、巌谷小波が「かちかち山後日譚」を書いていて、この殺されてしまった狸の二人の息子が懸命に剣術の稽古をして、やがて兎に敵討ちに出かけるという話が好きでした。たしか小学校4、5年の頃読んでいたかと思います。
 それにしても、この太宰の文はいいです。私は昔から大好きです。

私の家の五歳の娘は、器量も父に似て頗るまづいが、頭脳もまた不幸にも父に似て、へんなところがあるやうだ。私が防空壕の中で、このカチカチ山の絵本を読んでやつたら、「狸さん、可哀想ね。」と意外な事を口走つた。

 これは誰でもそう思うのではないだろうか。そして巌谷小波の場合は、狸の、それを殺した兎も男(雄)なのだが、この太宰の兎は、女であり、しかも綺麗な処女なのですね。

それをこのカチカチ山ばかりは、どうも、その仇討の仕方が芳しくない。どだい、男らしくないぢやないか、と子供でも、また大人でも、いやしくも正義にあこがれてゐる人間ならば、誰でもこれに就いてはいささか不快の情を覚えるのではあるまいか。
 安心し給へ。私もそれに就いて、考へた。さうして、兎のやり方が男らしくないのは、それは当然だといふ事がわかつた。この兎は男ぢやないんだ。それは、たしかだ。この兎は十六歳の処女だ。いまだ何も、色気は無いが、しかし、美人だ。さうして、人間のうちで最も残酷なのは、えてして、このたちの女性である。

 なるほど。そして太宰によれば、この兎は、ギリシア神話のアルテミス(私はギリシア神話でも、この女神は大嫌いです)のような、単に嫌で惨酷な処女なのです。この兎は狸にこんなひどいことを言います。

「傍へ寄つて来ちや駄目だつて言つたら。くさいぢやないの。もつとあつちへ離れてよ。あなたは、とかげを食べたんだつてね。私は聞いたわよ。それから、ああ可笑しい、ウンコも食べたんだつてね。」
「まさか。」と狸は力弱く苦笑した。

 もうなんで、狸は駄目なんでしょうか。やっぱり惚れていると駄目なんだよなあ。
 このあとも読んでみてください。私はもう読んでいられません。兎の惨酷なこと、狸の火傷に「唐辛子をねつたものをこつてりと塗る」んですよ。
 最後になって、自分の死の直前になって狸は、兎の悪巧みをすべて理解し、

「あいたたた、あいたたた、ひどいぢやないか。おれは、お前にどんな悪い事をしたのだ。惚れたが悪いか。」

といって、湖に沈んでいきます。兎は、自分の顔をふいて「おお、ひどい汗。」というのみです。

 最後に太宰がいいます。

女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。

 私もかって、何度も言ってきたものです。「惚れたのが悪いのか?」

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 この金子みすヾの「こぶとり」を読んで、私はすぐに太宰治の「お伽草紙」を思い出しました。まずは、その金子みすヾの詩です。

   こぶとり───おはなしのうたの一───
  正直じいさんこぶがなく、
  なんだかさびしくなりました。
  いじわるじいさんこぶがふえ、
  毎日わいわいないてます。

  正直じいさんお見舞いだ、
  わたしのこぶがついたとは、
  やれやれ、ほんとにお気のどく、
  も一度、一しょにまいりましょ。

  山から出て来た二人づれ、
  正直じいさんこぶ一つ、
  意地悪じいさんこぶ一つ、
  二人でにこにこわらってた。

 最後の「二人でにこにこわらってた」で、なんだか嬉しくなる、少し笑い喜んでしまう私がいます。
 そして私が思い出した太宰治「お伽草紙」です。以下をお読みください。

 http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/307_14909.html 太宰治「お伽草紙」

 この中の「瘤取り」です。
 鬼に瘤を取られたおじいさんは、

瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得(とく)、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、……………………………

ということになってしまいます。
 ところがこのおじいさんのとなりのおじいさん、物語では意地悪おじいさんということになっていますが、このおじいさんは、こぶが二つになってしまいます。
 最後に太宰はこう言います。

実に、気の毒な結果になつたものだ。お伽噺に於いては、たいてい、悪い事をした人が悪い報いを受けるといふ結末になるものだが、しかし、このお爺さんは別に悪事を働いたといふわけではない。緊張のあまり、踊りがへんてこな形になつたといふだけの事ではないか。それかと言つて、このお爺さんの家庭にも、これといふ悪人はゐなかつた。また、あのお酒飲みのお爺さんも、また、その家族も、または、剣山に住む鬼どもだつて、少しも悪い事はしてゐない。つまり、この物語には所謂「不正」の事件は、一つも無かつたのに、それでも不幸な人が出てしまつたのである。それゆゑ、この瘤取り物語から、日常倫理の教訓を抽出しようとすると、たいへんややこしい事になつて来るのである。それでは一体、何のつもりでお前はこの物語を書いたのだ、と短気な読者が、もし私に詰寄つて質問したなら、私はそれに対してかうでも答へて置くより他はなからう。
 性格の悲喜劇といふものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。

 昭和5年に亡くなった金子みすヾは、この太宰治の作品は読んでいません。もちろん、金子みすヾは無名でしたから、太宰治も知らなかったでしょう。
 でもでも、太宰のこの「瘤取り」もいい話、愉しい話ですが、金子みすヾの「二人でにこにこわらってた」も、たまらなくいいことです。
 私はこの太宰の「お伽草紙」を始めて読んだのは、1969年の7月です。ちょうど東大闘争で、府中刑務所に勾留されていたときでした。もう太宰治の文章に魅力に「もう大変な人だなあ」と感心していたものでした。
 今は金子みすヾに、また感心しています。

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 学生の一人が太宰に「太宰さんはどうして作家になったのか」と尋ねる。太宰は「ほかに何をしても駄目だったからだ」と答える。学生は半分笑いにして「じゃ僕なんんか有望なわけです。何をしても駄目です」と言う。太宰は真剣に「君は、何もして失敗してやしないじゃないか。(中略)何もしないさきから、僕は駄目だときめてしまうのは、それは怠惰だ」と答える。ここらへんが志賀直哉にはたかが新人のくせに生意気だといった評論になったと思える。わたしには泣きたくなるほど共感した話だった。(『真贋』2007.02.22講談社インターナショナル「あとがき」)

 これは、私にも泣きたくなるような思いのする話である。吉本さんは、他でも、このことを述べていたかと思います。そして私も何人かの後輩たちにこの話をしてきたものです。しかし、私はやはり志賀直哉が気にいらなかったわけですが、なんだかこの頃は少しは好きになれるところもあるのではないかなあ、という気持になっています。

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私がちゃんと書き忘れていたことがあります。
それは メール苦手だから の2 へのコメント に次のように書いた中で、これは少し私には大事なことだから、詳しく書いておこうと思いながら、そのままになっていたことです。

司馬遷が、いかに竹簡にあの膨大な「史記」を書いていったことなのか。屈原の「楚辞」は実はもともと、岩を穿って書かれていたものだということ。司馬遷がこの歴史書を書いたことは、そもそも彼が宮刑にあってしまった事件にあり、それは李陵が匈奴に屈したことが(司馬遷はそれを武帝の前で普通に擁護した。ほぼ李陵のことを彼は知らなかったわけだが)、理由になっている。その李陵と、匈奴によって19年間シベリアに抑留された蘇武が出会って二人で作った詩がいい。「アベラールとエロイーズ」の書簡がどうしていいのか。「十六夜日記」は鎌倉時代に60歳近くの女性が土地の訴訟で、播磨から鎌倉までの旅行記だが、これがなぜいいのか。
あともう一つ話しましたが、ようするに、みな実に大変だったけれど、やり抜いたのです。当時の手段で、懸命に記したのです。

もしももしも、これらの時代にケータイメールがあったら、彼ら彼女たちは、もっとたくさんのものを私たちに残してくれたはずです。だから、こんな便利で楽な手段はもっと使うべきなのです。司馬遷の前で、私は頭が下がるばかりです。

ここで、「あともう一つ話しましたが」というのが、鎌倉時代の青砥左衛門藤綱のことなのです。
この人物のことは

http://www.kcn-net.org/sisekihi/aoto2.htm 鎌倉史跡碑事典 (青砥藤綱邸旧蹟)

に、次のように書いてあります。

碑文
鎌倉執権の美績を談ずる者 概(おおむ)ね先ず時頼 時宗を称す 蓋し(けだし: 恐らく)其の間 両代に歴任せる青砥左衛門尉藤綱が捕益の功に負ふ所のもの 亦(また)必ず少なからざるべきなり 藤綱逸話に富む 嘗(かっ)て夜行きて滑川を過ぎ 誤りて銭十文を水に堕(落)す 乃(すなわ)ち五十文を以て炬(たいまつ)を買ひ水を照らして之を捜れりとの一事 特に最も人口に膾炙(かいしゃ:話題)す 此の地は其の藤綱が居住の旧蹟なりと言ふ

説明
鎌倉の執権の善い行いを言う時、大体まづ北条時頼(ときより)、北条時宗(ときむね)の名前がでます。しかしその間にあって、両執権に仕えた青砥藤綱の業績が大きく貢献していることを忘れてはなりません。藤綱には、逸話が多くあります。ある夜のこと、滑川(なめりがわ)を渡るとき、失敗してお金十文(じゅうもん)を川に落としてしまいました。そこで、五十文でたいまつを買って、水を照らしてお金を探したと言う話は、特に多くの人々が話題にしました。この場所は、その藤綱の屋敷の跡であると伝えられています。
(これは二人の執権のことを将軍と言っているので、それは間違いですので、書き改めました。もちろん、このときも将軍もいますけれど、誰だったか判らないよ)

この碑は、「浄明寺5-2-451の邸宅の南東端で,青砥橋を渡って20メートル進んで右側に建つ」ということですから、私は鎌倉へ行く次回の機会には、この浄明寺付近を歩こうと思っていたのです。

この鎌倉時代の北条時頼、時宗の両執権に使えた青砥左衛門という役人が、夕暮れに滑川に落とした1文(実際は10文)の銅貨を探させるために50文支払ったという逸話です。

このことは私は誰だったか(今その人が浮かぶのですが、2人の著者が浮かびまして、はっきり判りません)の著書で知ったものです。
以下のように言われていました。

後日、この話をきいた人が、「10文を取り返すために50文をつかうとは大損ではないか」と笑うと、藤綱が言うに、「落とした銭をそのまま放置すれば、銭は永久に失われてしまうが、自分の費やした50文は商人のところにあるので、あわせて60文は1文も失われずに天下の財として残っている」。 これを聞いて、 周囲の者はみな感心した。

このことは大事なことです。そしてこの鎌倉時代から、こういう人物がいたのですね。でも今も、「10文を取り返すために50文をつかうとは大損ではないか」と笑う人は大勢いるのじゃないですか。
そしてこのことが今も記録に残っているというのが私は大切なことだと思ったものなのです。

実は、この人物は、河竹黙阿弥の「白浪五人男」(原題が 「青砥稿花紅彩画)にも名前が出てきます。また太宰治の「新釈諸国噺」にも、この話はあります(ただし、話の内容は主旨が違う話になっています)。
思い出せば、河竹黙阿弥は、高校2年のときにすべて作品を読みましたし、太宰治全集は、東大闘争で勾留されていた府中刑務所で、読んでいたものでしたが、この藤綱のことまでは考えが及ばなかったなあ。

とにかく、今度鎌倉へ行きましたときは、この碑文を読んできます。

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