あるときに、柏市民ネットの友人であるKAMOさんからKAMOさんたちのやっている同人誌をいただきました。それを読んでいて、涙が浮んできた小説があります。

書 名 お兄さんと呼んでもいいですか
著 者 松川靖司
収録雑誌「文海」第一五号
1995年4月20日発行

11051506 中年男である西村啓一が休みを利用して京都へいきます。そこで一見して失恋の傷心旅行だろうと推測できる若い女性北見敦子と偶然知合いになり、その彼女の失恋をいわば結果としては直してあげることになります。なんだかとても通俗的で馬鹿馬鹿しいようなお話です。しかも最初二人が出会うのが、大原寂光院という設定でこれまた笑ってしまうようなところです。でもこうしたあまりに出来上がってしまったような設定の中で、読んでいくうちに、なんだか涙が湧いてきてしまうのです。「いまでもこんな小説を書ける人がいるんだな」
 私もこの西村啓一と同じように同じ季節に朝京都駅からバスに乗って、大原に向い、寂光院から三千院へ行ったことがあります。三千院の前で、どうみても失恋旅行だなという女性を見ました。それは私の大学の後輩だったのです(だから大学でどうも失恋したらしいとは推測できた)。顔は知っていましたが、とくに親しいわけではなく、しかも私のほうはアベック姿だったので、話かけるのはしなかったのですが、なんだか出来すぎたようなことも現実にあるのだなと思ったものです。
 そんな西村啓一は北見敦子に、次に回った金閣寺でも偶然再開します。そこでその寂しげな姿に、つい話しかけてしまいます。この小説では西村啓一と北見敦子の二人の側からの視線で交互に話が展開されています。このときは敦子側からの視線です。

 「朝見た時よりも元気になっているみたいだね。安心した
  敦子は男の言葉に反発するように
 「わたし自身、変わったつもりはありませんけど」
 「いや、変わったさ。顔色もよくなった。だから年甲斐もなく君
 に声をかける気になったんだけど。もちろん、迷惑は承知の上で
 ね」
 「本当に迷惑ですわ。あなたはわたしの何を知っていらっしゃる
 と言うのでしょうか。何も知らないくせに気楽に声をかけないで
 ください」

 敦子はこのように初対面の男にきつい言葉をはいてしまいます。西村が去ったあと、どうしてあんなに、初対面の男にきつく反発したのだろうかと考えていきます。そしてその相手が実は自分の亡くなった兄の面影に似ていたことが、つい親しかった兄に対するものと同じような反発を表現してしまったものだということに気がつきます。
 そしてまた西村が偶然泊まることになったホテルのレストランで、また敦子と三度目の対面をしてしまいます。まず普通に考えれば、こんな偶然があるわけはないと考えるのが当りまえでしょう。だがこれは、いわば妹である敦子のことを心配している死んだ兄が自分に代わって西村を通じて、妹に呼びかけているからこのような出会いもあるのだというところで、読んでいる私たちが納得してしまうところなのです。
 おそらくこうした出会いはありません。こうしたことはありえないのでしょう。だがやはり人間が生きていく過程では誰もいろいろなことに出会います。その出会いの中にこのようなことがおきても、何の不思議もないのです。そうしたところを考えていくときに、このような小説が生まれるのかもしれません。 ともあれ、まだこんな小説があるんだなと思ったものです。それはなんだか私の心をさわやかにしてくれたものです。(1998.11.01)