将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:子夜呉歌

11062409 この人は、1904年(明治37年)3月18日〜1980年(昭和55年)4月8日の生涯でした。
  京都大学の中国文学、漢文学の先生です。そして私に大きかったことは、彼が高橋克巳の先生であったことです。
 私は高校生のときから、HNK教育テレビおよびラジオの第二放送で、漢文の授業を聞いていました。今でも私は彼の杜甫の律詩に関する授業は忘れられません。でも大学生になって高橋和巳の文学を知り、それで吉川幸次郎に怒られて涙を流している和巳を思ったものです。私は和巳の『悲の器』の確信論理論の正木典膳こそ、この吉川幸次郎だと思い込んだものでした。
 そして私は、この先生が心の底から嫌いになったものでした。吉川幸次郎が、杜甫のことを「先生」と呼んでいることなんか非常に嫌いだったものです。
 でもそれからだんだんと高橋和巳の作品をほぼすべて読んだ頃から、何故か彼のことがどれほど評価できなくなっても、私は吉川幸次郎のことはどうにも好きになれませんでした。
 私が彼のことを評価しないのは、たとえば李白の『子夜呉歌』についてのことがあります。このことは以下に書いています。

  佐藤春夫の「李白『子夜呉歌』」の訳詩

 でもでも、私は図書館で、『吉川幸次郎全集』をすべて見てみて、私の知識が吉川幸次郎にはるかに及ばないどころか、かすりもしていなんだということが如実に判ったものでした。私は漢文のNHK教育テレビで知った吉川幸次郎の授業内容なんか、どこにもみつからないので、不満だったのでしたが、いや吉川幸次郎先生は、そのすべてをまた書き直しているのです。それが彼の全集なのです。
 そこで私は高橋和巳の涙のわけが判りました。あれは吉川幸次郎先生が意地悪だったのではなく、和巳が吉川幸次郎先生の中国文学の知識の前に打ちひしがれているのだと思います。
 そこででも、問題は私です。私もただただ吉川幸次郎先生の前に、自らを反省するばかりです。私もまたもう遅いのかもしれないのですが、これからまたちゃんと学んでいくつもりです。
 それに、私は吉川幸次郎先生のお弟子では、一海知義さんは、実に私が信頼している学者です。私もまた勉強して行きます。もう私は一海知義さんの書籍は何冊も読んでいるのです。

11020908 私の周の掲示板に、江田明夫さんからの長文の書込がありました。何回かに分けて、ここでレスしていきます。

お久しぶりです。江田です。 投稿者:江田明夫  投稿日:2011年 2月 9日(水)04時38分59秒
   萩原さん、こんばんは。唐突ですが、私はかつて埼玉大学でしばし同じ時間を過ごしたことのある江田明夫です。覚えていますか?
当時教育学部の学生で、1年後輩で、69年の10.21で「ドジ」を踏んで、私も10ヶ月ほど中野で別荘暮らしをしました。と言ったらわかりますよね。
1年浪人をしたので萩原さんより1年後輩だったと思いますが、私は24年の2月17日生まれだから、たぶんほぼ同い年のようです。あなた達の歴史研究会(だったよね?)の部屋にも何度か行ったことがあります。そうだ、歴闘委とか言っていましたよね。当時は理闘委とか育闘委とか呼んでやっていましたね。

 これを見て、すぐにあなたの顔を思い浮かべました。ちょうど2月7日に私は北本通りの通路を渡るときに、29歳のときに、あなたと出会ったことを思い出していました。思えば、もう30数年前のことですね。
 そうしたら、こうしてあなたの書込があり、あなたのここにあったアドレスにメールしたら、すぐに返信をもらいました。そしてスカイプで直接お話できたのでしたね。
 でも私は11時すぎに行かねばならないところがありまして、お話も途中になってしまいました。でもあなたもスカイプをやっていて良かった。私はスカイプはひさしぶりのことで、「あれ、どこにあるのかな(前のパソコンには確実に入っていたのでした)?」と焦りました。でも分かりまして無事にスカイプできました。
 いや、私はスカイプはもう10年くらいかな(とにかく最初から)やっているのですが、やれる人がいないよね、いや日本人には向いていないのですよ。もう中国人からのスカイプ(とくに若い女性が多い)が多くて、私はスカイプ名を替えまして、もう一切無視するようになりました。
 いや中国の人は、例えば、李白の『長安一片月~』(『子夜呉歌』です)なんて書きだしても、知らないのですよね。日本の詩人じゃなく、中国の李白だよ。でももっと昔、スカイプではなく、マイクロソフトのnetmeetingをやっても、中国の人も台湾の人も知らなかったなあ。
 あの頃は、タイの人やロシアの人ともやりましたが、いつも私のことを歳を聞いて、「そんなおじいさんが…」と驚かれたものでした。アメリカの若者は危険で、避けたものでした。彼らはすぐにスボンパンツを脱ぎだして、チンチンを見せちゃうのです。その頃松戸自主夜間中学でパソコンの授業を持っていた私には、危険きわまりりないことでした。夜間中学だから若い女の子もいるんだよね。
 今はスカイプの世界はメジャーになったから、少しは大丈夫ですね。

 李白の「子夜呉歌」の四の詩です。なんだか、読んでいてとてもこの女性の気持に涙が溢れます。

   子夜呉歌 其四 李白
  明朝驛使發 明朝 駅使(註1)発せん
  一夜絮征袍 一夜 征袍(註2)に絮(註3)す
  素手抽鍼冷 素手(註4) 針を抽(ひ)くこと冷やかに
  那堪把剪刀 那(註5) 剪刀(註6)を把とるに堪えんや
  裁縫寄遠道 裁縫して 遠道に寄す
  幾日到臨涛 幾日か 臨涛(註7)に到らん

 400447ff.jpg (註1)駅使 飛脚
  (註2)征袍(せいほう) 出征している夫に送るわたいれ
  (註3)絮(じょ) わたを入れる
  (註4)素手(そしゅ) しろい手
  (註5)那堪(なんぞ) どうして堪えられよう
  (註6)剪刀(せんとう) はさみ
  (註7)臨涛(りんとう) 唐代に西域に行く要所の一つ。甘粛省の万里の長城の始まりのところ

  明日の朝 飛脚がたつので
  徹夜して夫へ届けてもらうわたいれを縫う
  針を持つ手は冷えてしまう
  はさみを持つ手がなんと冷たいことか
  これを縫いあげて遠い道のりを飛脚に託す
  夫のいる臨涛に届くのはいつの日のことだろうか

 この女性が縫ったわたいれが、遠くの夫に着くことを、強く願います。こうして、中国の北方や西の異族と戦うのは、中国の農耕民族には、もう長年の宿命でした。
 思えば、この其四の子夜呉歌は、其三と並んで、読んでいるのは辛い詩ですね。思えば、李白はこうした光景を長安にていつも見ていたものなのでしょう。
 読むのは、辛いのですが、どうやらこれで、李白の子夜呉歌の4つの詩をすべて知ることができました。

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 この詩には、西施が出て来まして、彼女ならばどうしても知っている気がしまして、少しは安心です。

   子夜呉歌 其二 李白
  鏡湖三百里 鏡湖(註1) 三百里
  邯鄲發荷花 邯鄲 荷花を発(ひら)く
  五月西施採 五月 西施(註2)採る
  人看隘若耶 人は看(み)て 若耶(註3)をせましとす
  回舟不待月 舟を回(めぐ)らして 月を待たず
  歸去越王家 帰り去る 越王の家

  (註1)鏡湖(きょうこ) 今の浙江省紹興県にある
  (註2)西施 戦国時代の越の国の美人。
  (註3)若耶(じゃくや) 若耶渓は鏡湖に流れ入る川

  鏡湖のまわりは三百里
  はすの花がひらいた
  五月に西施がはすの実を採りに来ると
  見物の人で、若耶渓はせまくなる
  月の出を待たずに、舟の向きをかえて
  美人は越王の宮殿に帰ってしまう

18dc3209.jpg 邯鄲(かんたん)は、あるものにはこれで出ていましたが、本当ははすの花のつぼみのことで、違う字です。でも漢字が出てこないのです。もうこうしたことがいくらでも出てきてしまいますね。
 思えば、そんなに難しい詩とは思わないのですが、でもでもこうして漢字をパソコンで出すのに大変になりますと、もうくたびれてしまいます。
 いや西施の顔を思い浮かべて、少しは嬉しい気持になります。

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 私はきょうは、マガジン将門を発行する日です。でも「あとは、漢詩入門を書くだけだなあ」という思いだけでしたが、でもこれが大変です。「そうだなあ、頼山陽の詩にするか」と思ったものなのですが、急に、「子夜呉歌は、あと3つの歌はやっていないな」と思い出しました。でもでも、そもそも私はこの子夜呉歌は其の三の秋の歌しか知らないのでした。私は途端に羞いってしまい、そのほかの3つの詩を見てみようと必死になったものです。
 其三の「子夜呉歌」については、

   http://shomon.net/kansi/kansi11.htm#risiya 李白「子夜呉歌」

び書いていますし、この詩については、ほかにもこのブログでもいくつか書いてきました。
 でも、この「子夜呉歌」の其一、其二、其四の詩についても、今後ここで紹介してまいります。まず最初は其一の春の詩です。

   子夜呉歌 其一 李白
  秦地羅敷女 秦地(しんち)の羅敷女(註1)
  採桑緑水辺 桑を採(と)る 緑水(りょくすい)の辺(ほとり)
  素手青条上 素手(註2) 青条(註3)の上
  紅粧白日鮮 紅粧(こうしょう) 白日に鮮やかなり
  蚕飢妾欲去 蚕(かいこ)飢えて 妾(しょう)去らんと欲す
  五馬莫留連 五馬(註4) 留連(りゅうれん)する莫(なか)れ

  (註1)羅敷女(らふじょ) 古楽府にうたわれる美人の名前
  (註2)素手(そしゅ) しろい手
  (註3)青条(せいじょう) 青い枝
  (註4)五馬(ごば) 太守の馬は五頭立てであった

  秦の国の 羅敷娘が
  桑を摘む 緑のほとりで
  白い手が 青い枝に伸び
  ほほ紅が 光に映えて鮮やかだ
  蚕に餌をやるころです 私は失礼しますので
  太守さま さっさとお帰り下さいませ

 この羅敷という女性は、秦という家の娘であるが、もう結婚して夫がいました。彼女は蚕を飼って、桑の葉をつむのが上手でした。この娘は大変な美人で、通りかかるものは、もうすべてを忘れてしまうほどでした。あるとき、太守が馬車で通りかかり、彼女を一目みて惚れて、「いっしょに車に乗って行きませんか」といいます。でもこの娘はちゃんと拒絶するのです。それがこの詩にも書いてあるのです。

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 私がちょうど1年前に 佐藤春夫の訳のことほか に次のように書きました。

 以下の「子夜呉歌」ですが、

  長安一片月 長安一片の月
  萬戸擣衣聲 万戸衣を擣つの声
  秋風吹不盡 秋風吹いて尽きず
  總是玉關情 総て是れ玉関の情
  何日平胡虜 何れの日か胡虜を平らげ
  良人罷遠征 良人遠征を罷めん

 私の記憶では、佐藤春夫の訳は四句以下が次の通りです。

  みな前線を慕う音
  えみの蝦夷らことむけて
  君帰ります日はいつぞ

 上の3句が、断片的で曖昧模糊としています。

 たった今、王子図書館に行きまして、ちょうど以下の本を見つけました。

書 名 佐藤春夫の『車塵集』
     ─中国歴朝名媛詩の比較研究─
著 者 吉川発輝
発行所 新典社
定 価 7,500円
平成元年1月31日初版発行

 これで、やっと佐藤春夫の訳詩を見つけたときの私の悦びといいましたら、もうなんとも言いようがありません。ただし、図書館の中ですから、誰にも語らず、ただただ喜んでいました。
 ただし、喜んでいるばかりではなく、自分の記憶力のあいまいさにも、呆れました。ただし、いいわけをすれば、たしか17歳のときに知ったことで、それからもう40年が過ぎているのです。

 春夫は、これを「支那雑記」という文の中で、「玉関の情」という題で訳し、「漢詩に銃後の婦人を見る」という副題を付けている。訳したのは、李白の子夜唄四篇のうちの第三篇である。訳詩集『車塵集』には収録されていないが、女心を歌った男の子夜歌であり、春夫がこの歌を訳したことは、春夫の訳詩態度や手法・志向などを理解する上に、いい資料ではないかと思われるのでついでに紹介しておく。

  長安一片月 長安一片の月
  萬戸擣衣聲 万戸ころもを擣つ声
  秋風吹不盡 秋風吹きて尽さず
  總是玉關情 すべてこれ玉関の情
  何日平胡虜 いづれの日か胡虜を平らげく
  良人罷遠征 良人遠征を罷めむ

 これは、李白の詩歌の中でも屈指の傑作とい破れている一篇で、呉歌のうち秋歌にあたる。春夫は、右のように訓を付けたあと、またこう歌いかえている

  都は空に月冴えて
  うつや砧(きぬた)の家ごとに
  野分にまさるすさまじさ
  みな前線を慕ふ者
  醜のえみしら打ちひしぎ
  君かへります日はいつを

 右のように、七五調で歌った後、また原詩の難解な部分と、かれ自身の感得した詩想と訳文を次のように述べている。

   おほ方は、かうもあろうかと思われるが、原作三句四句あたりの吹不尽だの総是などの微妙なところはほとんどどうにもならない、荒っぽくやっつけてしまった。

 右のように述べているが、実は歯切れのいい語呂と、韻律美も十分に注意して訳してある。

 これで探していた佐藤春夫の訳詩を見つけることができました。
 やはり佐藤春夫の、この「李白『子夜呉歌』其三」はいいですね。

 ただし、私の探求は、まだ終わりではありません。問題は、この「李白『子夜呉歌』其三」の吉川幸次郎の訳を見つけることなのです。
 これは17歳の私が、この李白の「子夜呉歌」を読みまして、同時に佐藤春夫の訳と吉川幸次郎の訳を見たときに、佐藤春雄の訳詩には、実に感動したのですが、吉川幸次郎には、実に嫌になっていたものでした。
 それが、その後大学2年の秋に高橋和巳「悲の器」を読みましたときの、私の思いにつながることでした。
 これが私が 漢詩のことでいくつか に次のように書いた内容なのです。

私は吉川幸次郎が大嫌いなのです。私はよくいうのですが、彼の弟子であった高橋和巳が最初の河出書房の「文藝賞」を取りました(1962年のこと)「悲の器」ですが、私は、あの小説の主人公正木典膳こそ、この吉川幸次郎がモデルなのだと、ずっと言い張ってきました(でも学生のときから、誰もそれを認めてくれません)。もちろん、あの主人公は法学であり、吉川幸次郎は中国文学(というか漢文学というか)なんで、私のいうことは誰もが驚くわけなのですが。
 私はいつも思うのですよ。吉川幸次郎の前で、涙を流している高橋和巳を想像するのです。私は本当にあんな奴、大嫌いです。吉川幸次郎は、杜甫のことを、著作の中でも「先生!」と呼びかけているのですが、それがそもそも嫌いです。

 私は 周の漢詩入門 の中の 李白「子夜呉歌」で、以前には最期に以下のように書いていました。

  この「子夜呉歌」について、私はもう一度別な面から書いてみたいと思っている。

 これはかなり真面目に思い詰めていたのです。それはこの李白の「子夜呉歌 其三」の日本人の訳文として、吉川幸次郎の訳を載せること、そしてそれと比較して、佐藤春夫の訳を載せることです。いかに吉川幸次郎が駄目で、佐藤春夫がいかに、この「子夜呉歌」を理解しているかを書きたかったのです。

 あとは、またどこかの図書館で、吉川幸次郎全集を読めば判ってくることです。
 そうすれば、私が朝霞留置場の中で、高橋和巳の涙について、「いつか吉川幸次郎をやっつけないとなあ」と決意していたことが、私の中で貫徹し、終わることができるのです。
 高橋和巳は、私の中ではもうずっと前に終わってしまった作家ですが、このことをちゃんと私の中で書いてみて、それで終りにしたいのです。

 それと、佐藤春夫は、どうしても小説等々は好きになれません。谷崎潤一郎との関係のことでも、そして芥川龍之介のいう春夫のことでも、まだ私には理解できないのですね。
 やっていかなければならないことがたくさんあるんですね。

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