1970年11月25日三島由紀夫が、市谷で自刃したことに関して、吉本(吉本隆明)さんは、

  三島が<日本的なもの>、<優雅なもの>、<美的なもの>とかん
  がえていたものは、<古代朝鮮的なもの>にしかすぎない。また、
  三島が<サムライ的なもの>とかんがえていた理念は、わい小化
  された<古代中国的なもの>にしかすぎない。この思想的錯誤は
  哀れを誘う。かれの視野のどこにも<日本的なもの>などは存在
  しなかった。それなのに<日本的なもの>とおもいこんでいたの
  は哀れではないのか?
                     (試行1971年2月「情況への発言」)

といっています。そしてこの「日本的なもの」とは、本居宣長がつくりだした概念であるといいます。
「本居宣長」というタイトルにひきよせらて、この新書を読んでみました。れのです。

  本居宣長は(1730−1801)はたえず再生する。多くの
 変動と転換を経てきた近代の日本にあって、文化史上、思想史上
 の人物で、宣長ほど、その都度、高い評価をあたえられながら生
 き続けてきた人物は、親鸞などの仏教者を除いたらほかには見当
 らない。ことに戦争をはさんだ前と後の時期に、なお変わらない
 評価の高さを保ってきたことは、考えてみれば不思議なことでな
 のだ。宣長は近代日本のそれぞれの時代に、ある評価の高さをもっ
 てたえず再生するのである。

  私が再生というのは、直接に宣長その人をふたたび当代に甦ら
 せることだけをいうのではなく、「日本とは何であるか」を求め
 るような、日本人のする「自己(日本)」への言及、日本の自己
 同一性(アイデンティティー)を求めるような発言を近代のおけ
 る宣長の言説の再生だと見る、

11050704 著者は日本文化論宣長神話の解体ということで、宣長の「畢生の大業」である「古事記伝」の解体をしていきます。
 中国の史書に範をとった「日本書紀」ではなく、「古事記」にこそ「皇大御国=すめらおおみくに」の本当の姿があるという。「漢意=からごころ」でない日本があるという。だが漢意でない「やまとごころ」とはいったい何であるのでしょうか。
 それに対する宣長の答えは、「絶えず漢意を否定すること」と主張しているとしてしか思えないのです。これがこの著者の「古事記伝」解体なのでしょう。まったくそのとうりなのだと思います。
 だけどなぜ宣長はそう考えたのでしょうか。そしてまたたとえば、そんな宣長にどうして小林秀雄があこがれてしまったのでしょうか。

 ドストエフスキーやランボーに関する小林秀雄の文章を読んでいると、よくこれだけ読み込めるものだと感動してしまいます。それがこと宣長のことになると、どうしてああまで万歳してしまうのか。そこに三島由紀夫と同じ哀しさがあるような気がするのです。
 この本を読みおわっても、「なんだこれだけなのか」という不満が残りました。「本居宣長『古事記伝』解体」というような書名だったら、わざわざ買わなかったのに。「本居宣長」とあるのなら、宣長の源氏もやってほしかった。
 小林秀雄がはじめて折口信夫に会ったとき、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ。ではさようなら」といわれたといいます。私にはこれが重要なのですよ。漢意を拒絶する本居宣長に肯定したり否定したりしてつきあって、いったいそれが何になるのだ。
「物のあわれ」に核心をおいた宣長の源氏こそ、絶えず再生する宣長の存在といえるのではないのか。
 平安時代、貴族の男たちは毎日漢文で日記をつけていました。そして婦女子が読む物語など、頭から馬鹿にしていたはずです。これは近代にいたるまでそうであると思われます。だが当の婦女子たちは、ちょうど少し前に現代の男の子たちがたちが、毎週「ドラゴンボール」を見たいがために「少年ジャンプ」買うように、あの時代の少女たちも、紫式部の物語を待ったことでしょう。そんな少女たちと、彼女たちの読む「物語」をきっとその時代の大人たちは愚かだと感じていたことでしょう(今と同じですね)。
 それを、それらの物語をはじめてまともに評価したのが、本居宣長ではないでしょうか。そこに私はいまも生きている、いまも再生する宣長を感じることができるのです。これが折口信夫がいいたかったことであると思います。宣長の怪しげな漢意を排するやまとごころなどにのっかって、自刃したりすることが、宣長を正当に評価していることではないのだ。
 またこの著者は宣長について書いてくれるのかな、などと思いますが、こんどはよく立ち読みしてから買いましょう。(1998.11.01)