書  名 呉子
著  者 呉起
発行所 明治書院

11082704 世に「孫子」の兵法というのはよく知られています。日本では武田信玄が、西欧ではナポレオンが座右にしていたといいます。そしてその作者は孫武と孫濱(この字は本当はさんずいではなく月です)であるとされ、海音寺潮五郎や陳舜臣の小説にもなっています。近年孫濱の兵法書が山東で発見され、実に「孫子」と孫濱の兵法書は別であり、「孫子」は孫武のみが作者らしいということが分かり、話題になったことがあります。
 それに比べて「孫呉の兵法」といわれながら、なんと「呉子」をあつかった書物の少ないことでしょうか。岩波文庫にすら「呉子」はありません。「孫子」の書きだしが、

  兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからず。

というおごそかな語句、戦争の哲学から始まるのに対して、「呉子」は、

  呉起儒服して、兵機をもって魏の文侯に見ゆ。

という非常にわかりにくい文から始まるのをみても、「呉子」はとっつきにくいのです。簡単に兵法を説いていくわけではないのです。
 実に孫武という人はあまりはなばなしい経歴があるわけではありません。呉王闔閭に仕えたとされているだけなのです。それでも「孫子」の価値はいささかも失なわれないのです。だが、「呉子」は作者呉起のひととなりを知らないと、なにも分かりえないということがいえると思います。

 人間呉起を知るには、まず司馬遷「史記」列伝です。しかし私にとっては残念なことにあの司馬遷さえもこの呉起をよく理解しえていたとは思えません。立身出世主義者であり、冷血とか酷薄とかいわれているわけです。
 魯の国に仕えていたとき、隣国斉の大軍が攻めてきます。呉起を将軍にせよという声があがりますが、彼の妻が斉の国の出であることで、反対されます。呉起は自ら妻の首を切って(註1)、斉軍に急襲勝利します。しかし、魯の人たちはそんな呉起を罷免します。そして、魏の文侯に出会うことになります。

(註1)このことによって、自分の妻さえ殺してしまう呉起のこと
 を誰もが冷酷だというわけなのです。「そんなにまでして出世し
 たいのか」という声もあったことでしょう。でも、呉起はこのあ
 と妻帯はしていません。私には、その後の呉起の心には、いつも
 この自ら首を切った若き妻の面影が残っていたのだろうと思うの
 です。

 この文侯に会って、呉起は一番幸せだったのではないでしょうか。文侯は呉起を魏の西河の大守に任命します。

  西河を守り、諸侯と大いに戦うこと七十六たび、全く勝つこと
 六十四たび、余はすなわち均しく解く。

 強国秦と接して、無敗でありました。
 ところが、名君文侯が亡くなり、息子の武侯がそのあとを継ぐと、もう魏は呉起を必要としなくなります。ここらへんは「史記」にくわしく書いてありま
す。
 そして、また魏を出て、楚の国で悼王のもとで改革に勤しむこととなります。

  かれの不幸は、悼王の死があまりに早かったことにあるのだと
 思われる。もしも悼王の死が遅れて、少なくとも十年か五年の執
 政期間がかれに許されたならば、一切が安定して、かれの功績は
 決して商鞅に劣らなかったであろう。戦国時代の局面は主として
 秦と楚との争覇であるから、呉起の覇業がもしも楚国で成功して
 いたのなら、後に中国を統一したという功業は必ずしも秦人の手
 におちるとは限らなかっであろう。
  (郭沫若「十批判書」

 悼王が亡くなり、呉起も殺されます。その最後は実にドラマチックです。

「呉子」の全編は魏の武侯の問に答える形ですすめられます。「呉子」のひとつひとつの言葉は、「孫子」よりもより直接的です。哲学というより法家思想といえるでしょうか。多分この二つの差は、春秋時代と戦国時代の違いもあるかと思います。
 本来なら詳細にわたって「呉子」の解説をすべきなのでしょうが、私としては「孫子」とはちがった悲劇的かつ凄まじい生き方をした呉起とその「呉子」の存在を知ってもらいたいというところがこの紹介文の趣旨であるわけで、これで終りたいと思います。(1998.11.01)