将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:安政の大獄

2017081506  安政の大獄で処刑された幕末越前藩の志士橋本左内の詩を紹介します。

獄中作 橋本景岳
  二十六年如夢過  二十六年夢の如く過ぐ
  顧思平昔感滋多 平昔を顧思すれば感ますます多し
  天祥大節甞心折 天祥(註1)の大節甞て心折す
  土室猶吟正氣歌 土室猶(なお)吟ず正気の歌

(註1)天祥(てんしょう)南宋末の忠臣。文天祥は宋の為にモ
ンゴル軍と戦ったが破れ、北京の土牢に三年間幽閉される。
フビライ汗は臣になるよう説くが、最後まで節を屈せず、首
切られた。この獄中で作ったのが「正気の歌」である。

二十六年の自分の生涯が夢のように過ぎてしまった
その過去をふりかえるといろいろの感慨が湧き起こってくる
  宋の文天祥のたいせつには日ごろ心を打たれていた。
  今自分もまた同じ土牢で正気の歌を吟じて天詳にあやかりたいものである

  橋本左内(1834〜59)は本名は橋本綱紀、字は伯綱、景岳が号であり、左内は通称です。越前福井藩の外科医の長男として生まれました。一五歳のときに「啓発録」という著作を書いています。一六で大阪の緒方洪庵適塾に入り蘭学を修め、二一歳にて江戸で杉田玄白について、蘭学と医学を学びました。越前藩主松平春嶽はこの左内の才を愛して、藩政の改革にあたらせました。

一四代将軍の後継問題が起きたときに、一橋慶喜をたてるべく奔走します。このときに薩摩の西郷隆盛と面識を持っのですが、西郷は若い白面の書生である左内のことを、たいそう気に入って無二の同志となりました。しかし後継問題は南紀派の勝利となり、大老井伊直弼によって、米国との不平等条約は勝手に締結されてしまいました。そして次に起きたのが大老井伊による大疑獄である、安政の大獄です。
安政六年七月二三日伝馬町へ捕らえられ、一〇月七日斬られました。本当は遠島の刑だったのですが、井伊大老自らが斬罪という評定をしました。実に悔しいことです。もし生きていたら、その後明治の時代にまでも歴史の中で重要な役割を果たせた人物だったと思います。

左内は北宋の岳飛を景慕していました。それで景岳と号したのです。岳飛は、北宋が金に侵略されつつあったときに決然と戦った名将です。だが同じ宋の臣の秦檜のために殺されます。今でも岳飛は中国において大変に人気があり、秦檜は憎まれものです。左内はこの宋において、あくまで夷狄と戦い、非業の最後を遂げた、岳飛および文天祥(ふたりとも宋の忠臣ではあるが、互いに北宋と南宋の時代という時代の差がある)を敬愛していたのだと思います。

この詩はこの安政の大獄のときに、伝馬町の獄中で作った詩です。きっと文天詳のように獄で死ぬことを覚悟しながら文天祥の「正気の歌」を吟じていたのでしょう。また左内は獄中で「資治通鑑」の註釈を作っていたと言うことです。実に従容としていたことでしょう。

ちょっとつまらないことをいうと、私も昔学生運動で府中刑務所の独房にいたときに、この文天詳の「正気の歌」を毎日音読復唱していたものでした。「正気の歌」は声に出して読むのに実にいい詩句なのですね。

同じく次の詩も左内の獄中での詩です。

獄中作 橋本景岳
苦冤難洗恨難禁  苦冤洗い難く恨み禁じ難し
俯則悲痛仰則吟 俯しては則ち悲痛仰いでは則ち吟ず
昨夜城中霜始隕 昨夜城中霜始めて隕つ
誰識松柏後凋心 誰か識る松柏後凋の心(註2)

(註2)松柏後凋心(しょうはくこうちょうのこころ)「論語」
子罕篇にある言葉。歳が暮れていよいよ寒い季節となり、外
の草木がみな落葉したあとに、松や柏(はく)ばかりが緑の
葉をたたえていることを知ることができる。

我が君(松平春嶽)の無実を晴らすことができないで痛恨禁じ難い
俯仰してただ悲痛沈吟するだけである
昨夜始めて江戸の街に霜が降りたが
霜の中でもしぼむことのない松柏の心を知っているであろうか。

松平春嶽は幕末の四賢候などと言われましたが、最終的にはそれほどの活躍することも大きな役割を果たすこともできませんでした。ただ、この左内を持っていたことだけは彼が誇れることだったのではないでしょうか。そして左内は実に春嶽を敬愛しています。どうしても主君春嶽にまで井伊直弼の魔の手が迫るのを防ぎたかったのでしょう。

橋本左内は西郷のみならず、水戸の藤田東湖にも、のちの天狗党首領の武田耕雲斎とも会見しています。またいわば佐幕派である川路聖謨も左内と会っています。誰もが若き左内を敬愛しています。おそらくみな左内の中にかなりな能力と不思儀な魅力を感じていたのだと思います。
佐内の手紙を亡くなるまで肌身離さず持っていたのが、西郷でした。その気持をいつも感じています。(2011.04.19)

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10110209  周の漢詩入門「梅田雲濱『袂別』」で思い出したことがあります。
 どこの飲み屋でしたが、思い出せないのですが、私がいきなり詩吟をやりました。「黒澤忠三郎『絶名詩』」です。まあ、私はどこでも詠うのですね。最初に「佐野竹之助『出郷作』」をやりました。私がたしか40歳くらいのときでした。
 ちょうどそこには、65歳から70歳くらいの方が二人いました。そのお二人が、私の詩う詩吟に文句をつけ始めました。なんでも詩吟というのは、「そんなに大声で詩ってはいけない」というので、それでそのおひと方が、この『決別』を吟われました。
 私は当然静かに聴き始めます。「妻は病床に臥し 児は飢に泣く」と始められましたが、その起句だけを詠われるだけです。当然にこの句は威勢よく詠いだすものではありません。だがいつまでもおやりにならないので、私はこの七言絶句もすべて詠いました。
 でもまた「そんな大声で詠うものではない」ということで、でも私はこの梅田雲浜の気持が入っていれば、大声で詠うのは当然だと思いますから、納得はしません。
 だがお二人とも、詩吟というのは、静かに詩たうもので、あなたのような吟い方はよくないのだとばかりいいます。私は少しも納得はしませんでしたが、お二人の話しはよく、お聞きしました。
 でも、私は「黒澤忠三郎『絶名詩』」も「佐野竹之助『出郷作』」も万延元年3月3日の井伊大老を殺したときの歌であることをいい、この『決別』の「妻は病床に臥し 児は飢に泣く」の雲浜が安政の大獄で殺されたことへの復讐だったことをいいました。
 そのお年寄り二人は、「詩吟というものは…」と言い続けて、そのうち去りました。
 このお二人が帰ってから、店のマスターが、「あのお年寄りは詩吟なんて、何も判っていないで、ただ若い人が詠うのが気にいらないのだろう」と言っていました。
 もうこうしたお年寄りには困ったものです。詩吟がなんであるのか全然判っていないのです。

2018052101 私が正式に詩吟を習い始めたのは、1969年10月ですが、その前々からよく知っていたのが、この梅田雲浜の詩です。

袂別 梅田雲濱
妻臥病牀兒泣飢 妻は病床に臥し 児は飢に泣く
挺身直慾拂戎夷 挺身(註1)直ちに戎夷を払わんと欲す
今朝死別與生別 今朝死別と生別と
唯有皇天后土知 唯皇天后土(註2)の知る有り

(註1)挺身(ていしん) 率先にて物事を行うこと
(註2)皇天后土(こうてんこうど) 皇も后も共に君ということで、天と地の神を尊んでいったもの

妻は病床に伏しており、子はひもじさに泣いている
このような妻子をおいて去るのは忍びないが、身を投げだし、進んで
    戎夷を打ち払わんと思っている
今朝の別れが死別となるか生別となるかは
天地の神々だけが知っているところである10110207

第一句から、もう大変に印象の強い文言が並んでいます。これは一度読みましたら忘れることのできない詩です。
梅田雲浜(1815〜1859)は若狭藩の出身で、尊皇攘夷の志士のいわば頭目でした。その彼が、その思想のために、一切私事を顧みず、家族をも顧みないという決意は、読んでいても、やはり、その決意の裏にある、家族への雲浜の思いも考えてしまいます。
雲浜の妻信子の、歌が以下です。

ねざめしてつくづくことを思う夜は なげき加はるさよ中の月

病床にある信子の心細さを思います。
だが、どうしても雲浜は、自らの信義のために、闘いに向かうしかなかっ
たのです。
雲浜の歌です。

天の戸をおし明がたの雲間より いずる日影の曇らずもがな

かえり来て草のみ我をしりがほに こぼれかかれる露のふるさと

君が世を思ふ心の一筋に 我が身ありとは思はざりけり

雲浜は、安政の大獄で、江戸にて、獄中にて病死しました。(2005.03.10)

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 僧月性といいますと、私はなんといいましても、この詩を思い出します。

   http://shomon.net/kansi/kansi3.htm#kasyaku 釋月性『題壁』

 いや、私はこの詩しか知りませんでした。私には「この詩は処世吟だからなあ、今のこの歳を私が詠うわけにいかないよ」という思いでしたが、でもひそかに独りで吟うことはありました。
 その月性にはもちろんいくつもの詩がありますが、次の詩を知りました。

   俊寛僧都墓前作 釋 月性
  一身千里遠 一身千里遠く
  孤島十年留 孤島十年留まる
  遷謫人何在 遷謫(せんたく)の人何(いず)くに在りや
  不禁懷古秋 懐古の秋(とき)に禁(たえ)ず

  ただ一人京の都から千里遠く流されてきて
  この絶海の孤島で十年過ごして亡くなった
  この流謫の人・僧俊寛は今はどこにいるのだろうか
  その彼の墓に詣でて、古い歴史を偲んでいることにもたえ難い思いがした

 これは天保12年(1841)の春、25歳の月性が、長崎を訪れたときに、この俊寛の墓に詣でようと思い立ち、鬼(喜)界ヶ島に渡って、その俊寛の墓の前で口吟したのが、この五言絶句です。
 俊寛は、後白河法皇を擁して鹿ヶ谷で平家追討の謀議を計ったということで、捕らえられ、藤原成経・平康頼とともに、この南海の孤島鬼界ヶ島に流されます。
 ところが、翌年成経と康頼は許されて都に召還されますが、俊寛にはその赦免がきません。これは平清盛が、この俊寛をことのほか憎んでいたからといわれます。
 私は小学校5年のときに、「平家物語」と「源平盛衰記」を読んで(もっとも小学生でも読める内容でした)、その中の登場人物の僧俊寛に関することをいわばただの物語としてしか読んでいませんでしたが、小6の7月に鹿児島へ引越しまして。家のすぐそばにこの俊寛に関する碑があったときには、驚きました。あの平安時代の末期に、都から遠く歩いて、鹿児島から船の乗せられて鬼界ヶ島までいかされたのですね。

 この幕末の時代に、長崎から船で鬼界ヶ島まで行ったとしても、それは大変なことだったと思われます。私は喜界ヶ島の人を女性で二人知っていますが、この俊寛のことがあったからこそ、知っていた島でした。
 そのいわばいまでも絶海の孤島だと思いますが、そこに、この幕末にわざわざ月性が行っているということに感動します。

 それと、この月性に関しては、「にわか病」にて突如亡くなったと思っていましたが(詩吟の解説本等々にはそう書いてある)、安政五年(1858)に、萩に船で行く途中幕府関係者に毒茶を飲まされて殺害されたということです。安政の大獄よりも1年も前のことです。

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