将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:安田講堂

12042001 こうして引き続きポメラで書きました。

2012/04/20 06:48もう「周のポメラ」は「2012年4月20日のポメラ」としてUPしましたが、今度は「2」としてまた書いて行きます。
 日経新聞をまず手にして、当然まずは折り込まれているチラシを見ます。まずは東武ストアのチラシの内容を見ますが、でも今はチラシの判形を見ました。「え、これはB判なんだ」。いえ、たまたまここにB5の用紙があったので(妻が会社から、たまたま一枚持ってきたようです)でした。
 それと日経新聞の一面に「3月、東京都文京区の本郷キャンバス」という記事(記事といえるのかなあ)があり、東大の安田講堂が写真で写っています。どうしても私は昔(当然1969年1月18、19日)を思いだし、懐かしくなります。
 そして思い出したことがありました。私の高校時代(横浜東高校)の先生方(の誰々かが)が私のことを、「高校時代は極右だったのに、今は極左に行ったのか」などと、言っているというので、私の後輩の女の子が、「あの先生方は萩原さんのことを誤解しているから、行って話してくれ」というので、「面倒だなあ、誤解しようがどうでもいいよ」と思いましたが、強い要請にその女の子と一緒に高校へ行きました。
 私がとうとうと、私の思想を述べ、マルクス主義など認めないということを言うと、「えっ、あなたは高校時代から、ぜんぜん変わっていないじゃないか」と言ったものでした。当たり前だよ。もちろん私こそが左翼であるということを言いました。同時に私は国粋主義者であることは言い続けました。高校のときと、私は少しも進歩していないのですよ。
 あ、ただし日経新聞のこの記事は、別のことを書いています。でも私は読んでいないから、よく分かりません。私はチラシを見て、新聞は大ざっぱに見出しを見るばかりです。真面目に読むときは、ガラパゴスで読んでいます。
 しかし、こうしてポメラで書くことにも私は慣れてきたのかなあ。まだどうしてもパソコンのほうが自分にはあっている、パソコンのほうが書きやすいですね。

 やはり、どうしてもこのポメラとパソコンは違いますね。

201808060310122308分前に子どもたちとこの映画をビデオで見ていました。私のこどもたちも好きな映画のようで何度も見ていました。でも私は最初見たとき、「あれ、これは俺らのこと描いてるんじゃないの」と思ったものです。
そうしたら姪が本貸してくれました。「原作の方が映画よりずっと面白いよ」と。まったくそのとおりでした。そのとおりとは、姪のいうとおりということと、やはり東大闘争での安田講堂の闘いを象徴させていることです。姪も私が昔学生活動家だったことを母親から聞いていたのです。
この原作の最後に、

諸君、ポリ公の上がってくる足音が近づいてきた。もう放送する時間
はわずかしかない。先を急ぐぜ。一九六九年一月、安田講堂がポリ公に
攻め落されたとき、東大全共闘は、最後の放送をこう結んだんだ。

われわれの闘いは勝利だった。全国の学生・市民・労働者のみなさ
ん、われわれの闘いは決して終ったのではなく、われわれにかわって
闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再会する日ま
で、一時この放送を中止します。

おれたちの親も、いまは堕落したけど、若いころにはけっこうかっこ
いいことやったんだよな。おおッと、もうポリ公の姿が見えてきた。で
は、解放区放送はこれで中止して、おれは消えるぜ。バイバイ

とあります。なんだか熱くなつかしくなってきます。

書名  ぼくらの七日間戦争
著者  宗田理
発行所 角川文庫 
定価  490円

この著者には、同じ生徒たちが活躍する「ぼくらの天使ゲーム」「ぼくらの大冒険」などという著書がありますが、私、姪たち、こどもたち、妻、兄嫁等々の意見でも、この「ぼくらの七日間戦争」が最高傑作だと思います。
この作品では、私たちが、69年のあの闘いのあと深く沈黙したあと、「私たちにつづくもの」が突如として、私たちの子どもにいたのだということになります。確かに面白いのですね。私はあの時代の当事者ですから、個々には「いや違うんだよ」という部分もあるわけですが、まあおおむねあの時代の私たちをこのようにとらえていただければ、大変よろしいんじゃないでしょうか。わたしゃ嬉しいですよ。
この「ぼくらの七日間戦争」の描く東大闘争の像とまったく逆に思える見解を書き出してみましょう。

青年は、廣い柱廊風な玄關の敷石を昇りかけ、ふと立ち止まった。人
影もなく靜謐な寂寥たる構内へ澄んだ響きをたてて、高い塔の頂上にあ
る古風な大時計が時を打ちはじめた。青年は凝つと塔を眺めあげた。そ
の時計はかなり風變りなものであつた。石造の四角な枠に圍まれた大時
計の文字盤には、ラテン數字ではなく、一種の繪模樣が描かれていた。
注意深く觀察してみるならば、それは東洋に於ける優れた時の象徴−十
二支の獸の形をとっていることが明らかになつた。青年は暫くその異風
な大時計を眺めたのち、玄關から廊下へすり抜けて行つた。

埴谷雄高「死霊」の最初の部分です。私にはここで描かれている大時計が安田講堂の時計台の時計に思われます。もちろんこの小説のこの部分は昭和20年12月に「近代文学」に掲載されたということですから、あの69年のこととは関係なく書かれたものです。この難解な小説はその後もずっと書き続けられました。作者埴谷雄高の存命中には書き終らないと言われており、事実未完で終わりました。
それはさておき、私はこの書きだしの部分と現実の安田時計台とをいつも比較してしまうのです。
埴谷雄高は私たちの時代、新左翼の支持者でした。たぶん亡くなる時までそうだったのでしょう。そして文壇でもあの北杜夫にすら恐れられる大御所です。でもでも私は大嫌いなのですね。彼のことを「左翼貴族」というと当っていると思います。左翼を遠くから眺め、支持したり、けなしたり、「あれはまだスターリン主義だ」といったり、クロンシュタットの叛乱がどうだ、カントの哲学がどうだといったりするのはいいのだが(いやそれもよくはないが)、いざ現実の闘いの現場を見ると、もうたんなる苔むした馬鹿げたことしか言えない老人になってしまうのです。

……学生達が数台の自動車を倒したり、学校から机を持ちだしたりし
て、お茶の水駅の前の道路を横切ってバリケードをつくりはじめるさま
が(テレビカメラで)写しだされた。これもまた機動隊を迎える「守勢」
のなかの受身の発展のかたちとして、そこが写しだされるごとに、注意
して眺めていたが、この全体としての一種の全的興奮と懸命な心情的応
援のなかで、半ばほほえましく、また、滑稽至極のものと思われたのは、
それが、いってみれば、機動隊の接近を阻むどころかただの一跨ぎで越
えられるところのかたちばかりの模擬バリケードに仕たてあげられたこ
とであった。そこに「解放区」などという貼紙をしてあるのがのんびり
とユーモラスで、しかもまた、ちゃんちゃらおかしいとも思われるので
あった。神田をカルチェ・ラタンにしよう、という言葉がすぐでてきた
ように、それはパリの街頭からの直輸入であったが、それがせっぱつまっ
た必死の自然的発動というより、思いつきの輸入なのであったから、そ
こに、現代の革命の形である「守勢的攻撃」のもつ思いつめた創意の翳
など殆ど見られなかったのである。
(埴谷雄高「象徴のなかの時計台」「群像」1969年3月号)

いやはや、映画「ぼくらの七日間戦争」のなかでだって、宮沢りえだって、「ユーモラスで、しかもまた、ちゃんちゃらおかしいしいとも思われる」ことやってたではないか。闘いの実際の現場ってのはそうなのですよ。結局あなたは革命家面しているだけで、あの元気なこどもたちほども闘いの現場が分かっていないのですよ。これだから、また最後の最後まであいも変わらず馬鹿なことばかり言い出していたのでしょう。
まさしく「死霊」にはこのことを、詳しく指摘できると思います。たぶん埴谷雄高は観念の中の革命家は大いに結構なのだろうが、「ぼくらの七日間戦争」のようなこどもたちがでてきたら、闘い方が駄目だとか、甘いとか、1917年にはこんなことあったとか、あれじゃ全共闘のまねだとか、どうでもいいことテレビのこっち側でいうんでしょうね。 吉本(吉本隆明)さんは、「死霊」のことを、あれは阿部次郎「三太郎の日記」や長与善郎「竹沢先生という人」と同じ系譜にある小説といっていますが、私はもう「三太郎の日記」のほうがずっとましですよ。私はこの「死霊」のどこがどう駄目なのかというのをいつか克明にやりたいと思っております。 私たちのあの安田解放講堂に象徴される闘いをどうみていたのか、その両端を「ぼくらの七日間戦争」で見てみました。(1998.11.01)

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 私の「周の掲示板にれんだいこさんからの書込み」に、そのれんだいこさんから、次のコメントをいただきました。

1. Posted by れんだいこ    2009年04月13日 19:44
 周さん、早速のレス有難う。そういえば、周さんがあの時中に居たというブログを読んだことがあるような。軽い気持ちで言ってはいけないのだろうけど、いい体験ですね。れんだいこが当時の渦にいたら、同じように志願したのではないでせうか。その後レッテルが付いて周り大変であったとしても。

 それはともかく、皆様方の批評を肥やしに続編のエネルギーにしたいと思います。文章をスッキリさせる為に推敲中です。ぜひ忌憚のないご意見聞かせてください。

 ありがとうございます。そうですね。私があのとき東大闘争の安田講堂にいたということは、もう私の生涯において、いわば仕方のない必然だったようなことですが、もうあれから40年が過ぎているのですね。(と書いているうちに、このれんだいこさんの本がアマゾンから届きました)。
 でも今ではこうして、本に限らずいろいろなものをインターネットで注文し、届けてもらうようになりましたね。もう私は随分前から、パソコン関連もそうですが、今では、日常の食品等々もそうなりましたね。もうこれのほうが確実で面倒がないのです。

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 私は 5月5日に谷中千駄木根津を歩きました の3 に次のように書いていました。

 やがて、言問通りをあるくと、私には実に懐かしく思い出す橋が見えてきます。この橋は、東大の農学部と東大の本郷の本部を結んでいる東大構内の橋です。この橋が懐かしいのは、私はこの橋を1969年1月9日に渡ったことがあったのです。

 私はこのときに、遥かな昔を思い出していました。39年の昔のことです。

 当日は東大闘争の真っ最中で、東大構内の教育学部と理学部の校舎を、日本共産党=民青が占拠しているところを、東大全共闘が奪いに攻撃をかけていたところでした。東大全共闘は、東大全部をバリケード封鎖したかったわけです。
 その闘いに、私も参加するはずなのですが、実は私は前日(だったと思うな)、自分の属するサークルの新年会で、飲んで頭から倒れ、頭を怪我しまして、この日は病院へ行っていたのです。それで、私はこの日の闘いには、遅れてしまいました。
 本郷三丁目から、東大正門を目指しても、もう赤門から正門前も、すべて機動隊がいっぱいで、構内に入ることができません。困ったなという思いで、私はこの農学部から入ろうと思いましたが、ここも機動隊が並んでいます。でも農学部前の門のところで、その機動隊の列が終わっていました。
 そこで、私は農学部へ入って、急いでこの橋を渡って、東大の本郷に入ります。急いでやっと安田講堂の前に着いたところで、約3分後、本郷の東大正門を破って、警視庁機動隊が催涙弾を打ちながら入ってきます。おそらく、日本共産党の部隊が追い詰められて、もう「これは、共産党を助けなくちゃ」と判断したものだと思います。
 たちどころに安田講堂前は機動隊の列が並びます。全共闘の部隊も一般学生も、雲の子を散らすように逃げました。ただ当日、教育学部を攻撃していた私の仲間は、「機動隊が来た」という声に、民青への攻撃をやめ、窓の外から下を見たら、機動隊の濃紺の制服姿でいっぱいだったと言っていました。
 その後彼も、催涙弾の攻撃を受け、顔を涙でぐしゃぐしゃにしていたら、東大生の学生が水道のところで顔を洗ってくれたといいます。そのあと、彼はノンヘルで、この安田講堂前の機動隊の前に、座り込みをしていました。
 私は、とにかく一人なので、どうにもなりません。そのうちに数時間が経過しましたら、まら機動隊が催涙弾を上めがけて打ち上げながら、安田講堂前の銀杏並木を列を並んで引き上げにかかります。
 私は、この日はすっかり出遅れてしまったわけで、北浦和へ帰りました。翌日また再び東大構内に入ると、今度は東大の本郷校舎はすべて日本共産党=民青部隊が制圧しています。全共闘の部隊が当日は駒場の教養部へ出かけており、この安田講堂には、数十名の部隊しかいません。でも安田講堂の見張りの全共闘の人が、私を入れてくれません。個人ですと、その人間がどういう人か判らないからです。
 それで困ったなと思いましたら、ある部隊が30人くらいでスクラムを組んで正門から入ってきました。中大全中闘の部隊でした。手薄な安田講堂を防衛のために来たわけですが、東大3丁目の駅からは、個人としてばらばらに歩いてきて、正門を通ってからスクラムを組んで、安田講堂まで急いできたわけです。私は「はっ」と気が付いて、この部隊にスクラムを組ました。偶然私と一緒に来た仲間が、そのときの中大全中闘の部隊の指揮者を知っており、それで私たちは、そのまま安田講堂に入りました。さきほどの、安田講堂の見張りの人も、私たちを見て、「よかったね」と笑顔でいました。
 それから、翌日の昼ごろまで、日共=民青の軍事部隊との長い闘いが始まりました。

 このあとの出来事は、私のホームページ内のどこかに書いてあるはずです。
 そして、そのあと私は1月14日から、さらに安田講堂で寝泊まりして、やがて19日に逮捕され起訴されて、しばらく府中刑務所に勾留されることになりました。
 そんなことを、昨日のこの橋の下を歩くときに、脳裏にしみじみと甦らせていたものでした。その橋がここに載せた画像です。

df70c8b6.JPGたくさんのことを思い出しています。なんだか年月の経つのが速いです。友人と私ははるかな昔、69年1月に東大闘争の安田講堂で一緒に火炎瓶を投げていた仲です。もうこんなに時間が過ぎたのですね。

 写真は、24日舞浜駅で、次女ブルータスと待ち合わせたときに、駅前で撮りました光景です。まだ明るかった時間、午後5時10分くらいでした。
 ただし、この本文を書いたのは、26日の午後7時少し前です。お通夜でずっと待っている時間でした。

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「埼玉県立近代美術館」に、アトリエイグレック今日の出来事 の igrekさんが、次のコメントをくれました。

1. Posted by igrek    2007年02月27日 21:38
まさに団塊の世代のお話ですね。私の夫もその時安田講堂の近くにいたそうです。やじうまのノンポリ学生で。周さんとは随分違いますね。二期校とはなつかしい言葉です。

埼玉も今は赤羽まで湘南新宿ラインができて、横浜からは東京に行くのと同じ感覚で行けますね。埼玉県立美術館は近代建築見学のいい企画があるんですよ。

ではまたイグレックに遊びに来てください。

 あ、そうなんですか。では旦那さんも同じ世代なんですね。何年か前にどこかの会合で浅野史郎さんとビールを手に持ちながら話したことがありますが、あの方も東大全共闘だったらしいです。そばで話しても、彼は実にいい方でした。私は民主党なんて嫌いですが、あの浅野さんが都知事選挙に出られるのなら、石原さんよりはいいかなあ、と思っています。
 思えば、いろいろなところで、あの1969年1月に東大闘争にいた方、それを見に来られた方と触れ合うことがあります。みなさん、いろいろな思いを持たれていますね。
 埼玉大学は、実に田舎大学なので、実に牧歌的な愉しい雰囲気ばかりでした。ただねえ、やはり学生運動はどうしても都内に出ますからね、私たちは、もう何もかも判らないことばかりでした。
 埼玉県立近代美術館は、あの前あたりが埼大のメインストリートでした。1968年の4月に、そのメインストリートを紺色のミニスカートで青い水玉のシャツを着た色の白い女の子が本を抱えて歩いてきました。私はその子を見たとたんに恋に落ちました。彼女は、その前月の王子闘争で、「埼大理工学部」の旗がひるがえっているのを見て、それで他の大学ではなく、埼大に入学してきたのです。彼女もまた高校生で近所の方に呼びかけて王子野戦病院反対のデモをしてきたそうです。その「埼大理工学部」の旗を持って王子の柳田公園とその周りを走り回っていたのは私でした(ただし、デモに移ったときは、あの旗は誰が持っていたのかなあ)。

 私は東大闘争で保釈になって、すぐに1カ月も経たないうちに、芝浦工大事件に関係しました。これは内ゲバ殺人事件といわれたものでした(事実は殺人なんかではないよ)。そして私はその後12月10日に逮捕されました。でもこの年は、こうして娑婆にいた期間はわずかなのですが、私は恋した女性に約200通の手紙を出していました。
 少し、私は「俺って、200通も手紙出したのは偉いな(あ、内容はさておき)」なんていう気持でいましたが、なんのことはありません。私は今は200通のケータイメールを2カ月で出していますよ。もう彼の家に住んでいる私の次女には、もう何通も手紙を出しています。ケータイメールもいいけれど、実際に手紙を書くのもいいですね。
 たぶん、きょうも次女ブルータスには手紙を出します。いえ、彼女の結婚式の出欠の返信葉書が我孫子の自宅に届いて、この王子に転送されてくるので、それを封入して次女宛てに送っているのです。
 実はきょうは、義母のデイサービスのお休みの日で、今週は私の担当なので、王子の家にいるのですが、さきほど長女が孫のポコちゃんを連れて来てくれました。もう孫は実に可愛いです。でもよく泣くんだよなあ。この孫がケータイを持ったら、もう毎日ケータイメールを打ちますよ。

 なにか、きょうはこのパソコンの前になかなかいられないものですから、こうしてブログに書くのが、遅くなってしまいました。

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