11081006   Monday, April 26, 2004 3:40 PM
TV番組について

「周」 様
仕事の合間に貴掲示板を遡って見せていただいておりました。おやっ!、と思ったのは3月25日頃からの書き込み、TV番組についてです。私も同時期に地元のローカル局の番組を見ました。その時の感想を、私は自分のHPの管理人日記に以下のように書き留めました。

■2004.3.23  morning  管理人 wrote
昨晩、妻が階段を駆け上がってきた。
「貴方、安田講堂の番組をやってますよ!」
テレビをつけると佐々淳行氏がインタビューに応えていた。
安田講堂の攻防戦が鮮明な画像で流されていた。
さすがマスコミ、映像記録は素晴らしいものがある。

途中で中年の男性のインタビューに変わっていた。
攻防を当事者として語っていた。
攻防2日目、機動隊が入ってきて彼は何故かホットしたと語った。
ああ、これで終われるんだ・・・と言うような事を言って言葉が途切れた。
頬を涙が伝っていた。
何を思い出したのだろう。
当事者でしか分からない「思い」だ。
私にはあの涙が分かる。

貴掲示板を見て、あの中年の男性は「周」さんなのでは?、と思いました。違いますか。間違っていたらごめんなさい、でもそうだとしたら・・・・、貴方の頬を伝った一滴の涙は、私たちに百万遍のメッセージよりも訴えるものを感じました。
1968年全共闘だった時代 yamamoto

   Tuesday, April 27, 2004 7:17 PM
Re: TV番組について
 メールをありがとうございました。
 それで、たしかに私はあの番組に登場しておりました。「プロジェクト猪」の新年会に、あの番組の制作プロダクションが来ておりまして、東大闘争の安田講堂で闘っていた人ということで、私が手をあげて、取材されることになりました。ただ、佐々の翼賛番組だとは知りませんでした。でもまあ、それはどうでもいいでしょう。テレビなんて、そんなものでしょう。
 ただ、

貴掲示板を見て、あの中年の男性は「周」さんなのでは?、と思いました。

 私は出演しましたが、

頬を涙が伝っていた。

の男性は、私ではありません。彼は、東大生で今は熊本大学の教授だということでした。
 私は「外人部隊の埼玉大学の萩原周二」と活字で紹介されたほうです。私も年を取りましたが、あの人はどうみても年をとりすぎです。私はその前に何度も画面に出てきて喋りました。
 ちょうど、あのあとに、ある会合で、明治大学のYさんが私の隣に座りまして、「テレビ見たよ」というのです。Yさんは、東大闘争の18・19のときのブントの守備隊長でした。
 彼も言っていました。

  なんだか、知らないけれど、あの熊本大学の先生になったとい
 う人はおかしいんじゃないか。なんで今になって涙流すことがあ
 るんだ。

 私もまったく同感でした。まったく「冗談じゃないよ」という思いですね。ただ、東大の学生であったあの人には、そういうような思いがあるのかもしれませんね。私はまったく違います。

攻防2日目、機動隊が入ってきて彼は何故かホットしたと語った。ああ、これで終われるんだ・・・と言うような事を言って言葉が途切れた。

 私は17日から5階屋上を守備していました。19日午後2時頃、「俺たちは、これから3階に降りて、機動隊と白兵戦をやる」ということで、もうバリケードをきずいていた階段を降りていきました。今思えば、私たちの守備の隊長が、「ここの部隊は少し暴れすぎだ、ここままパクられたら、誰もやばい」と判断したのだと思います。なにしろ、火炎瓶を盛んになげている姿を大量に写真に撮られていましたから。

 それで、「機動隊が入ってきて彼は何故かホットした」とか「ああ、これで終われるんだ」なんて思いは、私は少しもありませんでした。私は、最後、あるグループが部屋の隅に行きまして、座って「インター唄ってパクられよう」と言ったのですが、そこにいまして「白兵戦のはずじゃないか」という思いでした。
 もう3階は暗くて、よく判らないのですが、ちょっと先で、闘っている部隊がいます。「あ、あれは俺たちの側じゃないか! どうせなら、闘ってパクられようぜ!」といいまして、その場へ行きまして、また機動隊と激しくやりあいました。
 あの東大出のおじさんは、当日も涙が出てきたと言っていましたね。あれは嘘です。私たちは前日から激しく催涙弾、催涙液を浴びてきましたから、もう2日間涙も鼻も出っぱなしで、あの時間にはもう涙なんか、かれはてていました。もう顔中、身体中が燃えるように熱くて、そんな身体そんな時間に、「これで終われるんだ」ということで、涙が出てきたなんていうのは、全くの嘘です。

 ですから、私はあのようなことは絶対にいいません。いいませんでした。
 ただ、私はあの番組では、実に3時間に渡って、撮影されたのですが、出番はほんのわずかでした。どうみても反省も何もしていない私なんで、まずかったのかなと判断されたかという思いです。
 私は取材側にたいして、よく喋り、よくいろいろと伝えましたが、私の思いを伝えるために、メールもしました。その一つが以下です。

 3月6日の取材をありがとうございました。私のほうが何も用意
できていなくて申し訳ありませんでした。
 あのとき、私の話したことで、関連するかなという私のホームペー
ジの箇所を以下あげます。

     『私の「周の掲示板」の1998年11月21日の私の書いた一節』
 ただ、これは致命傷でしたね。私は若き日三派とか全共闘と呼ばれた時代に必死に闘っていたものでした。その中でも実際のゲバルト行為のときに(相手は日本共産党とか国家機動隊なわけですが)、人間がどのくらいの時間続けて闘えるのかよく判った気がします。戦闘をしていても、人間は糞しょんべんをしますし、メシがなかったら、動けなくなります。カエサル「ガリア戦記」においてローマ兵がストライキを起こすことがあるのですが、それは糧食である小麦の配当が遅れたからです。それで、自分達よりの体格のいいガリア人やゲルマン人と闘えと言ったって冗談じゃないということでしょう(こんなことが大東亜戦争のときの日本軍には理解できていなかったのですね。インパール作戦での牟田口中将の「ひよどり越え作戦」なんて言動からが今でも頭に来ます)。まして、水がなかったら、すぐさま降伏するしかないのです。こんなイロハが判らない馬謖を使わざるを得なかった孔明という人は不幸だなと思うのです。

       ケン・グリムウッド『リプレイ』
 リプレイ
(REPLAY)とは再生とか再演というようなところでしょうか。この小説の主人公は、ちょうどカセットテープを再生させるように、また自分の人生を繰り返します。
  (中略)
 それにしても、「もう一度人生がやり直せたら」とは誰もが考えたことがあるでしょうが、私ももう一度どの世界に帰ればいいだろうかなんて考えてみました。多分人生で一番激しく生きていたのは恋愛のときでしょうから、一九六八年の五月くらいの埼玉大学のキャンバスに戻ろうかな。あの八重桜の咲く、タテ看板が林立し、アジテーションがきこえ、芝生で討論する学生の輪があるなか、埼大のキャンバスで、私は本を抱えて歩いてくる一八歳のミニスカートの少女を見ている自分に帰りたい。あの少女に恋したことが私が一番激しく生きていたことのように思います。しかし、それからまたいろんなことがあって、また結局東大闘争でまた安田講堂で催涙液と放水の雨の中でぐしゃぐしゃになること考えると、それはもうなんだか堪らないな。少し嫌だな。だけど戻れたらまたきっと同じことをやるでしょうね。

 以上なんです。他にもいくつもメールを出して、私たちの闘いの様を少しは理解いただけるようにしたものです。
 私にとっては、涙を流して思い出すようなことではなく、きっとあの時代でも今でも、そして未来でも、私は元気に闘っているのです。萩原周二
(第195号 2004.05.10)