将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:宮城まり子

12060904 何年か前に柏高島屋で開かれた「ねむの木学園のこどもたちとまり子美術展」で始めて宮城まり子さんを直接見ることができました。

曲名  ガード下の靴みがき
作詞  宮川哲夫
作曲  利根一郎
 唄   宮城まり子

一 紅い夕日が ガードを染めて
  ビルの向うに 沈んだら
  街にゃネオンの 花が咲く
  俺(おい)ら貧しい 靴みがき
  ああ 夜になっても 帰えれない
    ネ 小父さん みがかせておくれよ
    ホラ まだ これっぽっちさ
    てんで しけてんだ
    エ お父さん? 死んじゃった……
    お母さん 病気なんだ……
二 墨に汚れた ポケットのぞきゃ
  今日も小さな お札だけ
  風の寒さや ひもじさにゃ
  馴れているから 泣かないが
  ああ 夢のない身が つらいのさ
三 誰も買っては くれない花を
  抱いてあの娘が 泣いてゆく
  可哀想だよ お月さん
  なんでこの世の 幸福は
  ああ みんなそっぽを向くんだろう
           (昭和三〇年)

 宮城まり子さんといえば、昔私なんかのこどものときには、よく男の子の格好していろいろな歌を唄っていたの思い出します。テレビが家庭にはいったころで、彼女ががテレビに出てくると、弟と二人で熱心に見ていたの思い出します。
 私の後輩で、とんでもなく元気な活動家が、あるとき飲み屋でこの歌をこぶしを握りしめ目をつぶって唄い出したことがあります。彼は自ら左翼であり、マルキストであると自負していたのですが、どうしてもこうした歌にたくさんの思い出がつまっているのでしょうね。彼は昭和二四年生まれで、2人兄弟だったから、私たち兄弟と同じように宮城まり子を見ていた時があるのでしょう。そしてこうして歌に出てくるガード下の少年の姿には何かを感じていたのでしょう。
 私たちはどうしたって戦後世代であるわけですが、その戦後とは戦争ときっても切れない関係にあるようです。(1998.11.01)

   Wednesday, January 19, 2005 10:22 PM
はじめまして

11091013 管理人様 はじめまして。   Aと申します。
 管理人さまと同じ大学同じ学部、同い年ということで、しかも、プロレス好き?も一緒。
 宮城まり子さんの絵の指導は、今の日本では評価できる人がいないでしょうね。フランスでピカソやマチスの展覧会に匹敵するエネルギーを醸し出していた傑作群が、日本では「無視」されてきたようにも思えますがいかがでしょうか。池田満寿夫や水上勉等知識人がストレートに「実践」を評価されてはいましたが・・・教育関係者は「無知」で「無視」していたようにも思えます。
 私の独断と偏見です。
 斉藤喜博は「栃木」ではなく「群馬」出身です。
 私は、教員ですが「巨樹・巨木」に関心を持ち、秩父の山を含め埼玉県内の巨樹を調べております。将来的には国認定「森林診療士」(新しい資格)のような仕事に携わり、農山村の復興・河川の修復が得られればと夢見ています。
 管理人さまの教養と行動力こそ、私もあやかりたいところです。どうぞ、お体を大切になさってご活躍されますようにお祈りいたします。1948年 鼠年生まれ。

   Saturday, January 22, 2005 8:07 AM
Re: はじめまして
 メールをありがとうございます。こんなに返事が遅くなり申し訳ありません。昼間はあちこち出かけていまして、事務所か自宅にいるときは、ついこのごろはブログのページの作成で必死でした。
 でもメールをいただき大変に驚きました。

管理人さまと同じ大学同じ学部、同い年ということで

 そうすると1967年(昭和42)入学ですね。そうすると、必ず顔を会わせているはずですね。
 1年生のときは教養部で、ほとんど文理地区で、週に2日くらいは、大久保校舎に行ったのではないかと思います。私は社会科専攻生でしたが、そういう1年生の生活でした。
 それで、1年生の年1967年の12月15日、北浦和駅と埼大大久保校舎を結んでいる西武鉄道と国際興業のバスが20円から30円に値上がりして、そのときに、「バス代値上阻止連絡会議」ができて、バス闘争が展開されたかと思います。私は、そのとき最初から最後まで、最前線で闘っていました。
 1月になって、私たち連絡会議は、観光バス(興和観光のバス)をチャーターして「乗車拒否闘争」を継続しました。このとき3台のバスをチャーターしたのですが、このバスの車掌を一番多くやったのが私です。だから、このとき、このバスに乗らなかった日共=民青以外の学生さんは、私の顔は必ず見ているはずです。なにしろこのバスに乗らないと大久保校舎にはいけなかったかと思います。
 私のことを覚えていないでしょうか?

 そのバス闘争の過程で、私は大学の自治会正常化の運動(ようするに、民青との闘い)と、そして王子・三里塚闘争に参加しました。そして大学2年になって、バス闘争が敗北していき、私はその挫折の中から、また学生運動に邁進しました。もう大学2年ではほぼ授業にはでなかったし、大久保校舎にも、あんまり行きませんでした。そして2年の最後の1969年の1月に東大闘争に参加して、19日に安田講堂で逮捕され、起訴され、やがて府中刑務所に勾留されました。
 8月21日に保釈になり、その後文理地区には行きましたが、私はバス闘争を破壊した中核派が許せなく、またその中核派から、袂を分かったとかいう反戦連合とかも大嫌いで、なにか文理地区のバリケードにはなじめませんでした。
 ただ、とにかく9月19日の芝浦工大事件には、私も中核派に拉致されたTを救出するために、芝浦工大大宮校舎に行きまして、そのとき、埼大中核派の滝沢紀昭さんの不幸な事故死がありました。
 このことでまた、その後は学生運動にも加われず(なにしろ、あの事件では警察。マスコミだけではなく、新左翼全部が私たちの敵にまわりました)、アルバイトばかりしている中で、12月10日浦和地裁での、「6・12事件」の初公判に傍聴に行くなかで、裁判終了後私は埼玉県警に逮捕されました。そういえば、この日私は前日精神病院の看守のアルバイトで、徹夜でして、逮捕されたら、すぐにパトカーの中で眠りこみました。
 それで、また70年の3月に再保釈で、娑婆に出てまいりました。
 もう私たちの年代の活動家は、私の1年下の学年含めて、あまり活動していなかったものですが、私は私の2年下、3年下の活動家に交わって、またデモに加わって行ったものでした。
 でももう私も4年です。そして裁判を東大闘争と、芝浦工大事件の二つかかえていました。もうまた逮捕されるようなことは極力避けなければなりません。
 そしてやっぱり70年安保闘争がおとなしく終焉する中、私は後輩たちの救待をするようになりました。70年後半から71年、72年にかけて、後輩たちのいくつもの闘いの救待で、親にあったり、警察薯へ行ったり、あちこちの拘置所・刑務所へ行ったりしたものです。
 そしてまた私は過去は、サークルとして簡単にしか参加していなかったむつめ祭に激しくかかわるようになりました。もう当時は日共=民青と実力で闘っていたのは、このむつめ祭だと思います。
 このむつめ祭とのかかわりが、今でも続いています。私は日共=民青だけは極力排除し、敵対することをずっとむつめ祭に貫徹させてきました。それだけではなく、ほかの新左翼もむつめ祭に介入しようとするところは、絶対に排除してきました。ただ、このことはあの時代から20年くらいはいいのですが、もう30年を過ぎたあたりからは、もう若い学生には、何のことか意味が判らないことでしょう。よるするに、私のような年よりの頑固な分からず屋が何故かいるというだけのことなのです。
 ただ、もうここ10年くらい、私はむつめ祭に行くときにも、必ずノートパソコンを持参して、インターネット(前にはパソコン通信)をやっています。それでいろいろ話しかけるのですが、若い学生さんも、まだまだだなという思いばかりでした。でも昨年あたりは、もう会った学生さんは、インターネットにはまったく違和感はない方々ばかりでした。少しはいい時代になったかななんていう思いにもなります。

しかも、プロレス好き?も一緒。

 プロレスの話も私はやりだすと、いろいろと続くのですよ。ただ、この頃飲んでプロレスの話もしなくなりましたね。話す相手がいないのですよ。昔でも、話し出すと、ほとんど多くの猪木ファンにたいして、私は「ラッシャー木村が一番だ」とやり出しますから、いつも話があいませんでした。

宮城まり子さんの絵の指導は今の日本では評価できる人がいないでしょうね。フランスでピカソやマチスの展覧会に匹敵するエネルギーを醸し出していた傑作群が、日本では「無視」されてきたようにも思えますがいかがでしょうか。

 いえ、私は宮城まり子さんは大好きですが、あまり絵のことは判らないのです。長女が小学校の図工の教員なので、絵を描くことも見ることも好きです。だから今度来たら聞いてみます。

斉藤喜博は「栃木」ではなく「群馬」出身です。

 ありがとうございます。私が

  斎藤喜博「教育学のすすめ」

の最初に書きました女性が、大学が栃木県にある大学だったもので、そう思い込んでしまったのです。こうなると、彼女も群馬県の生まれだったのですね。
今になって気がつきました。斎藤さんに関しては訂正しました。
 私は茨城県生まれですが、お隣の栃木県も群馬県もよく知らないのですね。なんだか羞しいです。思えば、私の好きな将門公も、そして水戸天狗党も、下野には苦労したのだろうななんて思いました。下野が足利尊氏で、上野が新田義貞だと覚えればいいのかな。いえ、埼大の友人後輩でも、栃木と群馬出身者は違うよななんて今確認しました。

私は、教員ですが「巨樹・巨木」に関心を持ち、秩父の山を含め埼玉県内の巨樹を調べております。将来的には国認定「森林診療士」(新しい資格)のような仕事に携わり、農山村の復興・河川の修復が得られればと夢見ています。

 ああ、いいですね。それでできたら、このことでホームページを作ってくださいよ。あのですね、実はこんなに返事が遅れたのは、私の怠慢もあるのですが、実は昨日私のブログページをオープンさせたのですが、実にこれに必死になっていました。

  周の発言

 私がこれをやりたいというのは、私自身のホームページの活性化もありますが、クライアントや友人等に、これを勧めたいということがあります。やはりホームページを作るのは、私たちの年代には、大変なのですよ。パソコンの操作もままならない人が多いのです。
 このプログページを作るのに懸命になっているときに、「あの彼女、あの先生、あの彼女なら、あの飲み屋のママになら」とたくさん顔が浮かびました。プログならホームページ作成よりは楽なはずです。プログページを最初作って、そのあとホームページを少しづつ作ればいいと思うのです。
 私はブログページを開設するのに、活字でいろいろと読みまして(本とホームページ上のサイトの活字)、それで「これならよさそうだ」というところを4つ決めて、それで4つ登録し、実際に作り出しました。でもやはり、私は、「これからは、携帯で書込みができ、閲覧できて、いろいろとできなくちゃいけない」という強烈な思いで、livedoorに決定したものです。
 ただ、おそらく今後このブログはもっと盛んになります。参入してくるサービス企業が増えて、ものすごい競合状態になるでしょう。だから、もっといいサービスが出てくるかと思いますよ。
 ぜひともAさんにもやってほしいのです。
 私のように、4つも登録して調べるなんてことをやらなければ、まず誰でも2時間でできますよ。私もlivedoorに決めてからは、実に早かったですよ。「ブログやろう」と決めて、そして今のをUPしたのは、その日で完成しました。その間、あたり前ですが、ホームページの更新もあり、仕事もあり、酒飲みもありの中です。

管理人さまの教養と行動力こそ、私もあやかりたいところです。

 教養はいい加減なものですが、もうやることだけは、考えるより先になんでもやってきました。学生運動も恋愛もそうだったな、失業しての職探しもそうだっななんて思います。ただ、よくないのは、腕力はからしきないのに、考える前に、今も人を殴ってしまうことでしょうか。これは本当によくないです。

どうぞ、お体を大切になさってご活躍されますようにお祈りいたします。

 ありがとうございます。
 昨日実は港区のクライアントで、このメールのほとんどを書いていました。パソコンを使うといろんなことがやれますね。ただし、仕事中なのに、その会社のこととは違うことをやってはいけないよな、なんて少し思います。萩原周二
(第233号 2005.01.31)

11021509 柏高島屋地下2階イベントホールの「ねむの木学園のこどもたちとまり子美術展」へ行ってきました。午後4時からのミニコンサートもききました。一緒に歌いました。
 宮城まり子さんといえば、「ガード下の靴みがき」の歌を思いだします。私なんかのこどものときには、男の子の格好して元気に歌っていたの思い出します。テレビが家庭にはいったころ、宮城まり子がテレビに出てくると、弟と二人で熱心に見ていたの思い出します。その宮城まり子さんが今日目の前で唄ってくれました。「ねむの木学園」のこどもたちと一緒に。
 絵も手描き友禅もよかったですよ。なんだか私は、いつも涙くんでしまうので、なるべくごまかしてみていましたが、50代後半のオッサンで、涙懸命にぬぐっているひとがいました。そうだよ、耻ずかしいことじゃないんだよと思いましたがね。
 いま私のこどもたち、夏休みの自由研究で染めものをやっているのですが明日見にいけといっています。私のこどもたちだけじゃなく、みなさん見にいってほしいですね。9月1日までやっていますから。
 ミニコンサートで最後の歌で、「ねむの木学園」のこどもたちと宮城まり子さんが手話で唄われたとき、本当に感動しました。私に限らず、汗ふくふりして涙ふいてるおかあさん方たくさんおいでになりました。

2018061102書 名 神様にえらばれた子どもたち
著 者 宮城まり子
発行所 海竜社

この題名を見た時、昔読んだ羽仁五郎「都市の論理」に「罪のないこどもたち」という節があったのを思い出しました。羽仁五郎はかなり私も批判のある人ですが、その都市に関する考察なんかかなり参考になるところあると思います。
ルネサンスの時に「罪のないこどもたちの育児院」という美しい建築物があり、フレンツェという自由都市ではじめて捨て子や私生児を解放したと書いてありました。封建制社会の中で自由都市がこどもたちを解放していたということなのでしょう。
ねむの木学園が、ほんとうは、東京にも柏にも我孫子にもあったらいいと思います。私学園ですから、都市からはなれたところにしか開園できなかったのでしょう。もっと私たちと私たちの子どもと身近なところにあったらと思うのです。
宮城まり子がねむの木のこどもたちを「神様にえらばれたこどもたち」というのは、読んでいるとその通りだなと思います。だけど何故こんなに神は世界は不条理なのでしょうか。この本を電車の中で読んでいて、なんどもなんども本を読むのをやめました。満員電車の中でもまた涙でいっぱいになってしまいそうなのです。

今、二十歳以上の子どもたちを、二十人を、みていて、私の力
のなさを感じます。
男の子の方には、お母さんになったり、恋人ちゃんになったり
しますけど、女の子のボーイフレンドには、なれません。
十五歳のときには、考えなかった男の人のことも、結婚も、夢
みる女性になって行くのです。手や足のハンディは、結婚のさま
たげになるのです。
これは本当のこと。哀しいけれど、もっと、考えることが、ゆっ
くり来てくれたらなと、思ってしまいます。

「……ね、あなたが、えらんだことじゃないの。悲しいと思うこ
とばっかりよね。はしれないこと、あるけないこと。でもね、そ
の代わり、目と耳と鼻があって、たとえば目が、不自由だったら、
聴覚、耳で感じとることが、おおくなる。鼻で感じることがおお
くなる。手や足が、不自由だから、がんじょうな人より感じるこ
とが敏感になって、絵をかいたり、詩をかいたり、花が、あんま
り美しくても、涙が出るわ。
そんなやさしくて強いあなた方だから、その不自由に耐えてい
けるって、神様は、思われたのよ。そうよ、心もよ。
他の子なら、耐えられない力を下さったと思うの。つまり、あ
なた方は、神様から選ばれた子どもたちなの。
だからお願い。悲しいことがあっても努力してちょうだい。つ
らいことがあってもがまんしてちょうだい。そのぶん、神様は、
あなたを守って下さるの。
ね、みんなは、誇りある、神様にえらばれた子なのよ」
教室で、私は、涙がぼろぼろこぼれ落ちていました。だって、
こんな安っぽいなぐさめで、切った足は、はえて来ない。立てな
い足は、立てない。わかっているんですもの。でも、こんな遠ま
わしにしか、失恋のなぐさめは、全員の前で、いえなかったので
す。なんという思い上がり、あなた方は、神様からえらばれた子
よ。

子どもたちが、カンボジアの子のかいた恐ろしい絵を見る。けいちゃんという脳性マヒの後遺症で知恵遅れの子がいう。

「ぼくね、ぼくね、さっきのカンボジアの子どもの絵、こわかっ
た。あの子、かわいそうだね。ね、あの子は、ああいう恐ろしい
景色を見たから、かいた。ぼくには書けない絵ね。
あの子、あんな生活しているんだね。かわいそうね。ぼくは、
戦争にあったことないから、かけない。ぼくは、今、しあわせだ
から、こういうしあわせの絵をかくのね。
でもね、ぼく、小さいときのこと、おぼえているんだ。おとう
さんとおかあさんが毎日なぐりあいのけんかして、お酒のビンな
げつけておかあさんどこかへ行っちゃった。おふろも、ドラムカ
ンのなかに、会社のあまったお湯もらってきて入れて、はいった。
外でねた。ぼく、こわかった。
その生活を今もしていたら、ぼく、戦争の絵でなくても、その
心の絵をかいている。きっと、その心の絵は、この絵と同じでしょ」
大きく見ひらいた目から、涙が流れ落ちそうにとまっていた。
この子が知恵遅れであろうか?

なんだか今こうして書いていても涙がでてきます。世界は不条理だし、私たちはあまりに無力です。
人間年をとればとるほど、だんだんがけっぷちにおいつめられていくような感じをもつものだとは吉本(吉本隆明)さんの言葉です。若いときは、もう少し年をとればなにか余裕ができるようになると思い込んでいるのですが、実は逆なのですね。そこで、そのがけっぷちでも見事に立っていける自己を確立することが大事なのだと思います。それを吉本さんは「自立」というのでしょうけれど。私にはこの宮城まり子さんがそのがけっぷちで力強く立っている姿を想像できます。私もはやくそうなりたいと思うのです。
最後に一番印象にのこった子どもたちのことばです。

「……しんぶんにかいてあったの、車イスの人みたら、押してあ
げましょうって。ねぇ、車イス押すの、あたりまえじゃないの?
どうして、押してあげましょうっていうの?」

(1995.11.01)

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07123102 私の 周の掲示板 に原田直示さんから、次の書込みをいただいていました。

展覧会  投稿者:原田 直示  投稿日:2007年12月28日(金)14時09分13秒
 周さん、ご無沙汰です。ご母堂のご冥福をお祈りいたします。
北浦和西口徒歩3分。元埼大跡地の埼玉県立近代美術館一般展示室で2月5日(火)〜10日(日)「原田文の世界」展(同時開催:父親直示の「巨樹写真」、祖母斎宮美重「水墨画」)次女の油絵、書等を展示。周さんも私も学んだキャンパス跡地。現役だった釜本が夜、そのグランドでドリブルの練習をしていたと、周さんに教えられました。
土日は会場におりますので、もしご都合つきましたらお出でくださいませんか。
次女の文はダウン症ですが、20歳になりましたので、記念に展覧会をと考えました。今までも、2回個展を開いております。人の可能性はだれにもあると、宮城まり子さんや斎藤喜博先生から学んできました。

 ありがとうございます。2月9日の土曜日に行くつもりでおります。
 あの、それで申し訳ないのですが、私は原田直示さんがどうしても思い出せないのです。

現役だった釜本が夜、そのグランドでドリブルの練習をしていた

 このことはよく覚えています。私が1969年8月末のことでした。私は東大闘争で1月19日午後4時代に逮捕され、やがて23日後起訴され府中刑務所に勾留されました。そして8月21日に保釈になりまして、そのあとですから8月22日のことだったかなあ。とにかく、夕方7時くらいに、もう暗くなったキャンバスでサッカーの練習をしている人がいました。私はバリケードの中にいた人に、「こんなところで、サッカーの練習しているなんて……………………」というと、「あれは釜本だよ」というのですが、「釜本って、なんだよ?」というと、その相手は呆れた顔をして、「サッカーの釜本だよ、知らないのか?」と言ってきたものです。
 69年の埼大の文理地区のバリケードのすぐそばで、釜本がサッカーの練習を日々やっていたのです。

 宮城まり子さんや齋藤喜博は、今も私の尊敬します教育家です。私の 周の書評(教育篇)に次の書評を書いています。

   http://shomon.net/kyoiku/bookkyo3.htm#miyagi 宮城まり子「神様にえらばれた子どもたち」

   http://shomon.net/kyoiku/bookkyo1.htm#kihaku 斎藤喜博「教育学のすすめ」

 齋藤喜博さんの本はいくつも読んできました。ただし、私の尊敬する先生ですが、どうしても少しだけ私には違和感があります。いや、これは私の至らないところなのかもしれません。

 宮城まり子さんのことは今でも私は彼女が大好きです。大昔、紅白歌合戦に出ていた彼女を思い出します。あの頃はいつも弟と二人で、テレビに出てくる彼女を楽しい顔で見ていたものでした。

 私は二人の娘が小学校の教員です。今では二人とも結婚して、その結婚した相手も教員です。そして私は二人の勤めた学校へは、何度も行ってきたものです。いつも、そこで会う二人が教えている生徒たちの姿に、私は、齋藤喜博が描いている生徒たち、宮城まり子が描いている子どもたちの姿を見ていました。

 でもねえ、ときどき私は教員の方ともお会いしたときに、齋藤喜博の名前を出しても、読んでいないどころか、「サイトウキハク」の名前する知らない人がいて、もう私は何年も前から、その名前を出すのも止めたものでした。仕方ないですよね。
 2月9日には、できたら、長女と孫も連れて行きたいと考えています。

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