将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:宮崎学

11121601 昨日は、ちょうど午後2時頃に私の事務所に戻ろうとしていましたら、私の事務所にあるビルのすぐそばの「ジロー」の前で、「キツネ目の男」の宮崎学さんが、立って携帯電話をかけています。彼は私を見て、手をあげてくれます。私がそばへ行くと、携帯をはずして「少し待ってて」と言われました。
 思えば、「こんなことが前にもあったな」と思い出しました。
 たしか今年2月のことだと思いましたが、私は谷中の「浅野」というお店で飲んでいました。したたか飲んで、「さて帰るか」ということで、夜店通りを歩いて谷中銀座に入って、それで日暮里駅に向かいます。私はこの道を歩くのが好きなのです。それと、すぐ帰るわけではなく、「初音通り」でもう1軒飲む気でした。
 谷中銀座から日暮里駅へ向かう途中の階段をあがって歩いてすぐに、何故か私の耳に、宮崎さんの声が聞こえます。

  なんで、こんなところで宮崎さんの声が聞こえるんだ。酔って
  いるからかな?

なんて、思いながら、声の方に顔を向けると、あるビルの階段のところで、宮崎さんが携帯で話しながら、私に手をあげています。携帯をはずして、

  おーッ、ひさしぶり、飲んでいきなよ!

と声をかけてくれます。あ、そういえば、ここには「キツネ組」の基地ともいうべき飲み屋「檸檬」のところじゃないか。私もときどきは入るのですが、ちょっと広いお店で、一人で入る雰囲気ではないのです。だから、あんまりいかないので、存在も忘れて歩いていたわけです。
 宮崎さんは、「ハイ、お一人お客さんだよ!」とドアを開けて,また携帯に戻ります。
 入ると、あら不思儀、広い店内は、キツネ組関係者でいっぱいです。そこで飲み始めると、私のことをホームページで知った人が何人か挨拶してくれます。
 実は実は、この店に入って30分くらいで、もう記憶がありません。詩吟をやったかな(やったろうな)、軍歌も唄ったろうな。
 でもとにかく、宮崎さんとは、なんだかこんな出会いがあるのです。彼はいつも携帯電話をかけていて、私と目が会うと、右手をあげて笑顔で挨拶してくれます。
 それで昨日は、何をやっていたかといいますと、

  石原が石原新党を作るぜ。舛添、柿沢浩二、鳩山(弟)を入れ
  てやるぞ

ということで、それでの会合を、このジローで開いていたようです。ちょうど私のビルに事務所を持っているSさんとの関係で、ここでやったようです。
 そういえば、Sさんは素敵な女性ですね。前にはテレビでみるだけの方だったのですが、今はときどき挨拶する方になりました。ただ、いまけっこう石原慎太郎の「三国人発言」で微妙なところだから、Sというイニシャルのみで書きます。
 それにしても、石原慎太郎は、やはり国政がやりたいんだ。憲法改正がやりたいんだ。そしてやはり自民党のことも憎いのだろうな。だけど、結局は、都民を踏み台にしたのですね。私は宮崎さんに言いました。

  そもそも、銀行への外形標準課税のときにこそ反対するべきだっ
  たんですよ。

 5月3日の松戸自主夜間中学校の「憲法記念日の集い」でも、石原慎太郎への憎悪感をあらわにする発言が多かったのですが、同時に、「このままいくと、国会内での改憲勢力が3分の2を超えるから」「次回の選挙では、絶対護憲勢力に投票することが大切」というような発言が多く出てきました。
 まったく反吐がでます。石原慎太郎にも反吐が、同じく、「選挙へ行って」結果として「社民党や日共に投票して」という大馬鹿にも、もっと反吐がでます。銀行に対して石原のやったときには、拍手喝采したくせに、今度は日共に入れろというのかね。日共も社民もみな石原新税に賛成だったじゃないか。
 前に掲示板に書きましたが、また以下に引用します。

 「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。け
  れども結局自分は共産主義者ではなかったので何もしなかった。
  それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大し
  た。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。そこで
  やはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、
  というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は
  増したが、なおも何事も行わなかった。さてそれからナチは教会
  を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで
  自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった」
       (ナチスに対して果敢に抵抗したとされるルター教会牧師
        マルチン・ニメラーの戦後における告白。丸山真男「現代
        政治の思想と行動」より引用)

 このマルテン・ニメラーが収容所から出たときの、この告白をよくよく私たちは読み返す必要があると思います。
「都民の7割が支持」している? どうでもいいよ。国会内が改憲勢力ばかりになる? どうでもいいよ。ナチスだって、選挙で政権にちかずいたのじゃないか。大政翼賛会は90%の投票率を誇ったことがあるじゃないか。
 マルチン・ニメラーは、最初の最初、「共産主義者」や「ユダヤ人」が攻撃されるときに、「我々教会人が弾圧される勢力と連帯できていれば」という痛い程の反省なのです。 宮崎さんと会って、そんなことを思いました。

11100701  昨日の「男の隠れ家」の取材はうまく愉しくいきました。5月27日発売になります。そのあとライターのHさんと赤羽「まるます家」で飲みました。ここはヒサンないい飲み屋(私の「ヒサン」とは褒め言葉)でしばらく飲みました。それから用のある彼と別れて、谷中の「双葉」でまた飲みました。いろいろな知り合いとたくさんお話して、そしてたくさん唄(詠)いました。詩吟は2曲「絶命詩」「川中島」。あと私の唄ったのは、鶴田浩二「街のサンドイッチマン」、渡辺はま子「蘇州夜曲」、高峰秀子「銀座カンカン娘」、その他忘れた。いつもいい歌声を聞かせてくれるSさんにせがんで唄ってもらったのが、林伊佐雄「ダンスパーティの夜だった」、フランク永井「公園の手品師」。

 それから突如、この店のすぐ近くの「檸檬屋」で宮崎学さんのなんかの会合をやっていたなと思いだし、その店にいきました。入るなり、宮崎さんが「あ、萩原君、ひさしぶり」と声をかけてくれます。そこでまた飲み出しましたが、途中からあんまり記憶が定かではありません。皆さんは、タイの田中裁判のことを真面目にお話していました。私はそこでまた詩吟をやり、軍歌も唄っていたかもしれません。 ただ、強烈に覚えていることがあります。

 私は宮崎さんは大好きな方であります。彼の出版されている限りの本はすべて読みましたし、その人がらに強くひかれるものです。ただし、30年前の彼は、私の敵であった日本共産党の軍事組織の長であったわけです。それで、私としては、彼の周りには、今でも、あの当時の日共あかつき部隊に属した人がいることだろうと思ってきました。もはやそうした方も日共ではないでしょうから、愉しく飲み合う関係になれるのでしょうが、どうしても会いたい人物が私にはいるわけです。このことを私はこの飲んでいる席で宮崎さんに聞いていきました。
 今から30年前の1969年1月11日の夜に私は東大安田講堂にいました。当日は全共闘の部隊は東大駒場で日共との戦闘に入っており、安田講堂は中大全中闘を中心として100名を足らない人数しかいませんでした。私も埼大の友人とともに、この全中闘にまぎれて安田講堂に入ったものでした。
 その夜午後9時ころ、予想どおり、日共の軍事部隊が安田講堂に攻撃をかけてきました。こちらは、とにかく人数が少ないですから、それぞれ担当部署をきめて、守備になります。私は安田講堂西側の階段を一人で守っていました。もう私は石を投げるだけではなく、ありとあらゆる日共の悪口を敵に投げかけます。日共も相当頭に来たのか、とにかく大勢で私めがけて石を投げてきます。ときどき、全中闘の指揮者が見回りにきますが、「なんだ、ここはとくにひどいな」といいます。そして「あんまり挑発に乗らないように」なんていいながら、急に日共に、「お前ら一度でも権力と闘ってみろ!」などと怒りだし、彼こそが挑発にのり、かつ相手を挑発しだして石を投げ出します。
 とにかくこの戦いは長時間続きました。トイレに行くときには、「おい、今しょんべんしてくるから、待ってろ!」と日共諸君に声をかけて、また戻って同じ戦いをしていました。だんだん、彼らが迫ってきまして、次第にすぐ近くで顔は判りませんが、声や背丈で相手を区別できるまでになります。そんなときに敵の一人が私めがけていいます。

  おい、そこのトロツキスト!、そこを出てこい、出てきて1対
  1の差しの勝負をしようじゃないか!

 私はこのセリフを聞いたときに不思儀な思いにとらわれました。

  え、「差しの勝負」なんて、それは俺らが使う用語じゃないか。
  なんで日共民青があんな言葉使うんだ!

 だって私らこそが、そのころからヤクザ映画が好きだったのですから。たしか私は、

  バカヤロウ! 「差しの勝負」なんてセリフは俺らが使う言葉
  だ、おう、いつでもやってやるよ!

と答えたかと思います。
 その後の展開は、この「周の発言」の1998年11月22日に書いた内容になりました。
 だから、私はこのときの相手を探しているのです。まず出会うことはありえないと思っていましたが、今はこうして、あのときの敵であった日共の軍事組織の長である宮崎学さんと知り合いになることができたのです。宮崎さんがお一人のときは仕方ないけれども、こうして大勢集まったときには、あのときの日共の相手もいるのではないかと思って私は、この会合で

  あの、ここに昔日共の軍事組織に属していた人で、1969年
  1月11日の夜安田講堂を攻めてきた方がいませんか。あのとき
  …………………(と説明しまして)、その約束を果たせたらと思
  うんです。

と言い出しました。宮崎さんにも、誰か思い出せないものかと聞いていったのです。宮崎さんは、「そんなもん、覚えとるかい!」と怒られてしまいましたが、やっぱり残念だなあ。
 でももう30年がたってしまったのですね。(99/04/18 14:00:56)

10123111 昔のことですが、ある会社で以下のような資料を見ました。
 各上司が、自分の部下たちの詳細な行動表を記しているものです。課長は自分の部下4、5人が毎日やっている仕事の詳細を、何時から何時までは何をやっていたかを毎日表にしていきます。これは部下の「日報」と、実際の彼の目でみたことで、作成していきます。各部長はその部下の何人かの課長の行動表を作成しています。その上の上司も作成しています。そして、この会社は課長代理、課長補佐、副部長、次長、部長代理等々と、役職がたくさんあるので、その行動表の作成者および作成範囲も実に面倒です。
 そして、これを最終的に社長が全部見るわけです。だから、すべての社員および役職かつ役員(非常勤は除く)が毎日何をやっているのかが詳細に判るようになっていました。いや詳細に把握できるのではなく、とにかく詳細に記されている記録が毎日膨大に作成されているということです。
 私はなんという硬直した会社だろうかと思いました。いや、実は、そのくだらないエネルギーの使い方に、あきれ返ってしまいました。こんなことはまったくの無駄なのですが、トップとしては、こうして部下の行動を細かく把握しておきたいのでしょう。これは、いわば社長にお追従ばかりしている社員が考え出した管理方法でした。
 当然、こんな硬直した、そして部下を信頼できない社長は、そのうちにその会社にいることができなくなりました。
 このことを私は目の前にしたときに、おおいに驚ろいたわけですが、これは実はどこでも、多かれ少なかれ、よく持ってしまっている体質なんではないかと思いました。社長の立場にない社員でも、このように細かく管理すれば、いいのだという傾向のある人がけっこう多いように思います。何事も細かく追及し、明らかにしなければいけないという人たちです。若い人にも多い傾向のように思います。
 そのことを私が今思うのは、私がこのメルマガでも、このところ「何か書くぞ」で、展開しております日本共産党への攻撃のことで、いろいろと思うことがあるわけです。私もたしかに日共を細かく追及し、明らかにしようとしています。だが、私のやることと、上のような管理指向とはまったく相容れないむしろ逆だということなのです。私ならむしろ、社員や部下を詳細に管理しようとすることよりも、社長自身が自ら日々やっていることを明らかにせよと思います。このことは、日共の幹部党員たち、とくに宮本顕治のやってきたこと、やっていることをはっきりさせろということと同じなのです。
 それから、現在参議院選挙を前にして、宮崎学さんも立候補されているようです。

  キツネ目の男・宮崎学

私は宮崎さんは、大好きな方ですが、今回の立候補はどうでもいいです。でもこのときに、宮崎さんに関して「スパイ疑惑」などというものが出されてきたことに関しては、「いいかげんにしてくれよ」という思いです。間違いなく宮崎さんを陥れようという連中が画策しているのでしょうが、残念なことにそれにのってしまう人たちがけっこうな数いることです。私は、「そんなこと、どうでもいいよ」といいたいのです。公安の刑事と接触してしまうことなど、運動をやっていたら、当然あるのは当りまえです。だからどうだというの。そんなことも判らないのは、運動なんか永遠に判らないよ。もっといえば、会社経営も判らないだろうな。
 そこで、問題は、私のように「水に落ちた犬を打て」ということで、野坂が何重ものスパイであったことを書きますと、その問題が、また宮崎さんにも跳ね返ってくるのではないかと危惧する人がいるということです。何を言っているの、話は反対なのです。「あいつはスパイだ、消せ」とばかりにやることが、いわば日共のやり方ですし、また上に書いた会社での細かい部下管理のやり方と同じなのです。そして、前にも書きましたように、「だいたいでいいじゃない」というやり方の判らない、今何故か増えている人たちの思考法やり方なのです。
 私は、「何か書くぞ」で展開している日共批判をこんなに連続する気がはありませんでした。途中で、6月6日作りました私にとって9台目の自作パソコンのことを書くつもりでした。でも、私の書くことに、「今こうしたことを書かれると宮崎さんにも不利なのでは」という言い方があり、「いや、このときこそどんどんやってくれ」という方がいまして、

  もう、それなら、連続して日共の悪口だけ書き続けようかな

と決意したものです。
 それから、私に「この時期に書いてくれることこそ嬉しい、どんどんやってほしい」と言ったかたは、宮崎さんの選挙で宮崎さんのために頑張っている方です。 (2001.07.09)

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