将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:寒村自伝

歌名    ロシア革命の歌
「ああ玉杯」の譜

一  ロシアにつづく北欧の
    ロシアの民を君見ずや
    専制の雲切りひらき
    自由の光仰がんと
    競い起りし虚無党の
    青年の血熱かりき
二  あるいは村に工場に
    叫びし自由黒海の
    高鳴る波もものならず
    熱き血潮に彩りし
    反逆の文字とこしえに
    ウラルの雪に刻まれん
三  咄(とつ)国民(くにたみ)の膏血(こうけつ)に
    玉杯のふち溢らせて
    短夜かこつ歓楽の
    宴を破る霹靂(へきれき)や
    自由を叫ぶ民衆の
    声に乱るる羽衣の曲
四  毒矢に似たる迫害の
    魔の手は四方に拡がりて
    正義の為に戦いし
    志士の血潮は専制の
    魔王の牙をうるおしつ
    骸むなしく野に朽ちぬ
五  ああ生きながら人道の
    戦士を数多シベリアの
    雪に埋めし者は誰ぞ
    道に殉ぜるいけにえの
    尊き血もてギロチンを
    あけに染めたる者は誰ぞ
六  天人共に怒るなる
    残虐いかで熱血の
    革命の使徒激さやで
    鞘を脱せし復讐に
    剣の光暴君の
    血潮に今は曇けり
七  ああ五十年の暴政に
    刃を向けし戦いや
    老も若きもおさなきも
    止む事をなき戦いに
    傷き倒れ又立ちて
    掲ぐる自由の鬨の声
八  きかずや森に野に山に
    皆其鬨に反響(こだま)して
    天に漲に地に響き
    海どよもせる民衆の
    自由よ自由なからずば
    死を与えよの絶叫を
九  ああ革命ぞ今日成れる
    双袖(しゅう)つばさ砕かれて
    栄華に酔いしロマノフの
    政府はここにくつがえり
    全露の天地平民の
    凱歌を声を合わすらん
十  アジアに続く北欧の
    ロシアの民を君見ずや
    勝利に誇る目を挙げて
    自由の為に流したる
    志士の血潮のしずくすら
    報われたりと叫べるを
                        (1919年大正8年)

12043001 荒畑寒村の作った歌です。最初このロシア革命についての情報が正確には伝わらなかった。伝わってもよく判らなかったということでしょう。「虚無党」などという表現にそれは表われています。虚無党などというと、無理やり考えるとすれば、バクーニンとかクロポトキンとかが思い浮びます。だが実際には社会民主党のボルシェビキが最終的に権力を握った革命でした。
  寒村はのちにロシアへ独り向いますが、その時の感慨はいかなものだったろうと思います。「寒村自伝」を読むと、かなりレーニンなきあとのトロツキーとスターリンの関係もよくとらえているように思えます。
  私はこの歌を寒村翁自身が唄っているテープを持っています。もう九〇歳近いお年のときなのにその迫力に驚いてしまいます。
  また寒村翁の漢文の素養もよく感じてしまいます。「羽衣の曲」というのは、白楽天「長恨歌」の「羽衣の舞」という句からとったものでしょう。(1998.12.01)

2017052202  明治大正昭和と革命を目指した荒畑寒村のことが、私はずっと好きでした。その生涯をご自分でえがいた自伝を紹介したいと思いました。

  随分前に日経新聞の最終面で、以下の文を目にしま11010411した。

「寒村自伝」という名著を残し、革命家としての生涯を語られた荒畑
寒村氏は、九十歳になって四十歳の人に強烈な恋をされた。これは
「自伝」に入っていない。「体は寒厳枯木なのに、心が若者のように
恋に迷い、苦しい。お恥しい」
その時の寒村氏を私は醜いとも不様とも感じず、心から美しいと感
動した。「ただ救われるのは、この恋に性が伴わないことです。しか
しだからこそ嫉妬は五倍です」と告白された時も、深い感動でもらい
泣きした。 (瀬戸内寂聴「私の履歴書」日経新聞1993.5.14朝刊)

寒村翁が90歳になっても強烈な恋をしたなんて、いかにも寒村らしくていいなあと思いました。荒畑寒村は幸徳秋水と管野須賀子を争い、また私たちの時代には私たちの学生運動の集会にまで出席され発言されていた情熱家です。

書  名 寒村自伝
著  者 荒畑寒村
発行所 岩波文庫
上 1975年11月17日発行
下 1975年12月16日発行

  明治三十八年寒村は、社会主義伝道と称して関東各地を回ります。まだ十七歳の少年です。

一五日(明治三八年七月)の朝、庭先へ出て顔を洗っていると畑の
  方で突然、「この村泥棒め!」と大喝する声がきこえた。驚いてそっ
  ちを眺めると、黒紋つきの綿糸に黒の袴をうがち乱髪を風になび
  かせた田中翁が、土地買収の調査に入り込んだ県吏や巡査の群を叱咤
  しているのであって、長い杖をふりあげた翁の前に蜘蛛の子を散らす
  ように逃げて行く彼ら           (週刊『平民新聞』)

実に谷中村で田中正造翁と出会うのです。

翁は社会主義者でもなければ、共産主義者でもなかった。だが、鉱
毒被害地四県の人民のために翁のいわゆる「政府・資本家共謀の罪悪」
とたたかうこと三十年、奥さんの名をさえ忘れたほど家を顧みず、産
を治めず、日夜奔走尽力した翁の如き人物が、思想的には翁よりもモッ
ト高級な社会党員や共産党員の間に居るだろうか。 
(週刊『平民新聞』)

私には、田中正造の意思が寒村翁の中に生き、そして寒村翁の意思が私の中にも生きていると思っています。「一声関東に不平あり」という田中翁のこころは、いつまでも忘れないでしょう。

  しかし、寒村で一番の事件といえば、管野須賀子をめぐる幸徳秋水との関係ではないでしょうか。寒村一八歳のときです。管野須賀子は六歳の年上でした。結婚する約束までします。寒村が大杉栄、堺利彦らといっしょに赤旗(せっき)事件(ただ若者が、赤旗つくって『無政府主義万歳』と叫んだだけ)で拘置されているときに、寒村の内縁の妻といわれていた管野と幸徳秋水が結婚します。若い寒村はどんなに獄中で歯ぎしりしたことでしょうか。出獄後、寒村は拳銃と弾を買います。やがて幸徳と管野のいるはずのところへ拳銃をしのばせてのりこみます。しかしどうしてか会えない。そしてあの大逆事件となって、恋敵も管野須賀子ももう二度と世に出てくることはありませんでした。赤旗事件のおかげで寒村は偶然大逆事件を逃れたわけです。
この未曾有のデッチあげ事件に寒村は時の首相桂太郎を暗殺しようと決意します。きのう幸徳秋水をねらった拳銃で、桂を討とうというのです。しかしこれも果たせません。

こうして見ていると、元気で向こうみずな若き寒村の姿が浮んできます。そののちも数々の活躍をしていきます。革命ロシアへの潜行ではつぶさずレーニンなきあとのトロツキーとスターリンの関係を読んでいます。第一次共産党結成そして解散の中では、もはや共産党とはあい入れぬ関係になります。関東大震災では親友大杉栄が虐殺されます。大震災のあとに寒村は上野駅につきます。ロシアからの帰りなのです。
もはや共産党とは日本の現状把握、革命方針が違います。雑誌「労農」を創刊し、共産党との論戦になります。

『労農』の意見と共産党との間には、無産階級運動の戦略戦術を決定
すべき資本主義の現段階に対する認識に関して、根本的な相違が存し
ていた。共産党は日本の支配勢力は絶対主義、すなわち天皇制であり、
従ってプロレタリアートの戦略目標は、なお革命的性質を失わない小
ブルジョワ層と同盟を結んで、天皇制の打倒をめざすブルジョワ民主
革命の遂行にあると主張していた。これに対して『労農』は、今日わ
が国にはすでにブルジョワジーの政治的支配権が確立され、天皇制を
ふくむ封建的遺制はもう独立した政治勢力ではなくなっている。それ
故、プロレタリアートの戦略目標は、ブルジョワジーの打倒をめざす
社会主義革命でなければならぬと主張したのである。
(『労農』十年のたたかい)

まさしくこの内容は戦後までに関わる問題であるわけです。今になれば、何をどうでもいいことをとなるのですが、私たち新左翼だってこの労農の見解に根拠を置いていたのですから。しかしこの『労農』に書かれている内容は今も、こころをうつものがあります。満州事変の勃発した日、寒村が書いたアッピール文「第二世界大戦の危機と闘へ!」というの最後の部分です。

帝国主義戦争絶対反対! その叫びのいかに屡々あげられ、その文
字のいかに多く書かれたることぞ! 今や現実はその約束の履行を要
求し、単に演説と決議に止まらず、実に具体的な闘争を命令する。
第二世界大戦の危機と闘へ!    (『労農』十年のたたかい)

当然この号は発行禁止となります。
寒村は何度も検挙される。なんども刑務所に入る。裁判の上告審の中で敗戦となります。

戦争はついに終った。日本は徹底的に敗北した。人民は軍部の圧力
からやっと解放され、われわれは初めて自由になった。だが、これか
らどうしたらいいか。何をどこから、どう手をつけたらいいのか、ま
るで見当がつかない。         (社会党を脱党するまで)

戦後も汚い共産党との闘いが続くが、結局社会党の中でもただひとり意思を貫き脱党となります。そして新党を結成しようとするが、もう果たせません。荒畑寒村ほどの純粋な人を入れておける政党などないのです。
それから寒村翁は何度か、私たち新左翼の集会で話されたりすることがありました。いつまでも社会主義への情熱を捨てていなかったのだと思います。ただ晩年には、その新左翼にもかなり絶望されていたようですが。

私は寒村翁が自分でつくられた「ロシア革命の歌」を、御自分で歌ったテープをもっています。もう九〇近いお年なのに、朗々と歌いあげておいでになります。あの歌は、たくさんのひとたちに、谷中村の農民たちに、田中翁に、大杉栄に、震災で虐殺された朝鮮人たちに、トロツキーに、戦災で焼け出された日本人に、そのすべてに向けて歌っている寒村翁の心だと思います。(1998.11.01)

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10082501 今朝7時半に、長女の子どものポポを預かりました。長女がきょう健康診断でかなり時間がかかるからです。私の顔を見ると、笑顔にはなるのですが、でも私が抱くと泣き出します。ばあばでないとだめなようです。ちょっぴり不満と、でも納得もしています。
 今朝は「ニュースさとう」では、「ゲゲゲの女房」のニュースを書きました。「読書さとう」では、岩波文庫の「荒畑寒村『寒村自伝』」を書くつもりです。寒村さんは、幸徳秋水と菅野スガを恋敵として争い(寒村を殺そうとピストルを持参します。でも二人は明治天皇暗殺未遂という容疑で逮捕処刑されます)、そして私が逮捕拘留されていたときに、日比谷野外公園でアジ演説をされた方でした。私の耳には、彼の「ロシア革命の歌」が今も聞こえてきます。
 写真は昨日の午後6時14分に撮りました。長女の家でポコ汰が出してきたものを私のボールペンに付けています。「そのボールペンはじいじが使うものだから、返して」と言って最後にポニョがやっと返してくれました。(08/26)

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