将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:小島均

12013006 この日は風は強かったのでしたが、いいお天気でした。

2012/01/28 12:09もうすぐ小島均さんのお墓参りに行きます。

 小島さんのことは、私が当日持って行きました「萩原周二よりの小島均さんへの思い」に書いたとおりです。

12012811  昨日1月28日に埼玉大学の友人でありました小島均さんのお墓参りに行ってきました。私を含め8人の友人が集まってくれました。そこで私の持って行きました文書をここに掲示いたします。

         萩原周二よりの小島均さんへの思い     2012.01.28
1.私はいつも「書き言葉」と「話し言葉」ということを言っています。そして、私の友人でありました小島均さんについても、私の書き言葉で、こうして書いておきたいと思いました。もちろん、私のインターネット上のブログ

   http://shomon.livedoor.biz/  将門Web

にも、今夜28日か明日29日に、この文章をUPします。
2.小島均さんのことを思うと、いくつものことが思い出させます。思えば彼には手紙も書いたことはなかったのだと思い出します。私は手紙はけっこう書いていて(2008年には私的な手紙は600通を超えました)、でも彼には書いていなかったのだと悔やむばかりです。でも今では、ケータイメール(私はけっこう長文のケータイメールですよ)が多くなりましたが、彼とも交わしたかったものです。
3.彼と私は1967(昭和42)年に埼玉大学に入学し(ただし、彼は私より2歳年上でした)、同じ歴史研究会に入り知り合いました。彼はよく、年上の先輩方とも、丸山正男や吉本隆明の話をしていまして、当時は丸山正男は知っていましたが(高校時代に岩波新書の「日本の思想」は読んでいました)、吉本隆明は私は名前もまったく知らないもので、いつも驚いていました。
12012812 でも今では、吉本隆明といえば、私のサイトは知られていますし、吉本(吉本隆明)さんご自身も、私のことをマスコミ者に対して、「律儀な人」と言われるようになりました。これも、思えば小島均さんのおかげだよなあ、と思っています。
4.思い出せば、1967年秋のむつめ祭で、我が歴史研究会は講演会で高島善哉を呼びまして、そのときに、小島均さんが彼の腕を取って歩いていたことを(高島さんは目が失明に近いくらいに見えませんでした)思い出します。
 高島さんが、小島均さんの言うことに対して、「長洲(神奈川県知事だった長洲一二のこと)なんか読んだってしょうがないよ」と言いまして、あとで小島均さんが舌を出したのを覚えています(私は小島さんが舌を出したのは、初めて見たものです)。
5.その翌々年1969年1月、私は東大闘争で逮捕起訴され、府中刑務所に拘留になりました。このときに、彼は3月に2度、4月に1度、7月に1度、8月に1度面会に来ています。その7月の接見面会で、彼が私のことを「うらやましい」と言ったのを覚えています。私は今孫のじゅにが「千葉県こども病院」に入院していますが、最初の昨年5月は府中市の「多摩医療総合センタ−」に救急車で運ばれました。私と妻はあわてて、京王線のどこかの駅で行ったものでしたが、そこからタクシーで府中刑務所のわきを通ったのでしたが、あんな遠くまで小島さんは面会に来てくれていたのですね、そのことを強く思い出していました。
6. 私がその後、芝浦工大事件があったのちも、また1970年の秋にも、学生運動の場で、激しくやっていると、彼は「いつまでやるんだ」というような視線をくれていたものです。
 その後、社会へ出てからも、彼が職場のことで、私に相談に来たことがあり、でももうちゃんと応えられていたのかと不安です。
7.もう毎年年末の浦和会の忘年会でお会いするだけになっていました。いつも二次会に誘うと、言葉少なく断るだけでした。
 思えば、もっと話しておけばよかった。手紙もメールも書いておけばよかったと今は悔やむだけの私です。萩原周二

   小島均さんのお墓は「1-6-7-11」です。

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