10122803 1月28日夕方に、27日に大学時代からの友人の小島均さんが急逝したという連絡が入りました。癌でした。でもお正月にはとても元気だったということでした。それなのに、まったく急なことでした。なんで、こんなに早くどこかへ行ってしまうのだろうと哀しいばかりです。
 彼は私と同じ1967年に埼大に入学しました同級生です。ただし年は2歳上でした。彼は経済学部でしたが、私と同じ「歴史研究会」というサークルで知り合いになりました。私はその中の「東洋史ゼミ」という部門で、彼は「日本史ゼミ」でした。思えば、このサークルの中では、私とは一番の論争相手だったかと思います。
 彼とはじめて知り合った時に、彼はもう丸山真男も吉本隆明もそのまま知っていまして、それどころか大塚久雄も宇野弘蔵もついでに高島善哉(思えば、今はこんな人を読んでいる人こそ皆無だろうな)知っていて展開できます。私は高校時代には丸山真男しか知らないのですから、驚くだけでした。それでもそんな無知な私でも、彼と論争できたのは、私がひたすら学生運動での実践のみを言い続ける活動家だったことです。私は思想的には、反マルクス主義で国粋主義者を自認しておりましたが、ただただ実践活動をすることにおいては、三派系の諸君と一緒の行動をすることばかりでした。私よりもずっとマルクス主義への理解の深い彼なんかは、逆に運動で実践のみしていく行動には批判的でした。思えば、けっこう言い合いをずっと続けていたかと思います。
 だが、私が東大闘争で逮捕起訴されたときに、彼は4月、6月、7月、8月とわざわざ遠い府中刑務所まで面会に来てくれました。思えば、彼にとっての私は、ただの単純なゲバルト学生だっただけでしょうに、よくまあ来てくれたものでした。4月に接見室でガラス越しの彼の姿を見たときには驚いたものでした。「なんで、わざわざ俺なんかに会いに来てくれたのだろうか?」。普通なら私と一緒に運動をやっていた友人のほうこそ面会に来るはずなのに、わざわざ彼は、その役割を引き受けてくれたのです。私は、この4度の面会で彼と喋ったことの内容はすべて覚えています。彼が2度目の面会で、私のことを「羨ましい」と言ったことをよく覚えています。
 私が、その後、再度の逮捕起訴から保釈で出てきまして、また70年闘争でしつこくやっているときに、彼はまた私のことを遠くから見ていました。とくに70年の10・21で、またしても私が若い後輩たちと一緒に、日共民青と激しくゲバルトをしているのを、彼が心配そうに見ていたのを思い出します。「あいつ、まだやっている。いつまでやる気なんだ」という思いだったでしょうね。
 彼は4年で卒業して、丸善に入社しました。部門は洋書関係だったようです。
 でもそれからは会うこともなかったのですが、当時から経済学部の同窓会があったのですが、それには参加していたようです。それで、1985年から、「経済学部だけなんてのはケシカラン」と私が参加しだしました。これが

   浦和会

になっていきました。私が参加し出してからは、もうずっと下の後輩も、大学の職員もみな大勢参加するようになりました。この浦和会は怖ろしい飲み会でして、4次会、5次会、6次会がザラでした。実に土曜日の午後7時から、次の日の昼頃まで飲んでいます。実に午後3時すぎまで飲んでいたこともありました。そんな中で、小島さんは、いつも2次会くらいまでで、帰っていました。あまり身体が丈夫じゃないんだと聞いていました。
 でもこの頃には、昔のように激しく論争することもなしに(いや、私はしつこいから、昔のことをいろいろ蒸し返すのですが、彼が笑って避けていました)愉しく飲んでいました(愉しいと言ってもね、みな昔の活動家が多いから、ときには、殴り合いがあったりして、それは愉しいものでした)。
 思い出せば、私が今の経営コンサルティング事務所を開設したときにも、ある相談をしに来たものでした。もちろんうまく解決しました。
 ただ、ここ数年、彼は浦和会にも参加しなくなっていました。いつも断わりのメールをくれていたものです。身体の具合が悪いので、残念だけれど参加できないという内容でした。

 お通夜にしか参加できませんでした。早すぎるよ、早すぎるよ、今度身体がよくなったら、ゆっくり飲んで、昔のことを話したかったと思っていました。府中へ面会に来てくれたことのお礼をしたかったものでした。
 もう、さようならをいうしかないのですね。悲しいです。寂しいです。(2002.02.14)