将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:小嵐九八郎

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新聞名 図書新聞第2937号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年10月17日
読了日 2009年10月9日

 昨日この新聞を手にとりまして、「あ、二木さんだ」と声をあげました。たしか彼とは数年前に日比谷公園から東京駅まで一緒にデモをしたことがありました。
 昨日は、酒も飲まず(いや実は熱を出して、『きょうは止めよう』と思ったのでした)、この二木さんの記事を読みました。

評者◆二木啓孝(聞き手・小嵐九八郎) ジャーナリストの原点は学生運動に――二木啓孝氏に聞く 60年代・70年代を検証する

 この方は1949年生まれなのですね。私は私と同じお歳(周は1948年昭和23年5月30日生まれ)だとばかり思い込んでいました。それにこの方は鹿児島にも住んでいるのですね。そうすると同じ時期に鹿児島市にいたわけだ(周は小学校6年6月昭和35年から、高校1年7月昭和39年まで)。
 でもこの方はブンドの情況派でずっとやっていられたのですね。この情況派なんて実際には接したことがありませんので、私は活字で読むだけですね。でも読んでいまして、よく判る気持がしました。そもそも、やっぱり三派全学連であり、そしてブンドが中心だったのでしょうね。
 でも雑誌『情況』をずっとやられていたのですね。情況出版か、なんて思いました。そして情況派と雑誌『情況』は関係があったと考えてもいいのかな、と思ったものです。
 そうですね。最後の二木さんの言葉を以下書きます。

 最近思っていることは、苦労は報いられないと思ったほうがいいということです。苦労は報いられるから頑張るのではなくて、報いられると思って苦労すると裏切られる、そんなことは嘘だとわかるということがあるわけです。どんどんあがけば、報いられるということの意味がちがったものになってくるんじゃないかと思います。自分をみても、志というほどの志はないけれど、一個一個、そこであがいてきましたね。これからもあがくでしょうね。

 私も当然ずっとあがいていくと思っています。

評者◆秋竜山 地方の空気?、の巻

で、「堀井憲一郎『落語論』(講談社現代新書、本体七二〇円)で、〈落語は都市にしか存在しない〉が面白かった」というところで、この本を読んでみます。

 私はこうしてこのブログに記録して、それで本を探すのです。自分でメモしても無くします。まだ自分にケータイメールしたほうがいいです。このブログに記録があれば、いつでも参照できます。

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新聞名 図書新聞第2933号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年9月12日
読了日 2009年9月6日

 この号の1面の

評者◆大谷恭子 (聞き手・小嵐九八郎) 政治少女から人権派弁護士へ――大谷恭子氏(元早大ブント・弁護士)に聞く 60年代・70年代を検証する

の弁護士さんがまったく知らなかった方なので、そして私より2歳年下の方で、もうそういうかたが紙面に書かれるんだなあ、と感慨深いものでした。
 でも、「生まれ育った十条では」と書かれているのを見ると、「あなたのすぐそばの王子野戦病院闘争では、あなたが高校2年の2月3月、3年の4月には闘いが続いていたはずですよ」という思いでした。

評者◆秋竜山 無人島マンガの独り言、の巻

に次のようにあります。

「なぜ、こんなことになってしまったのか」と、自分に問う。それは、「無人島マンガ」にある。無人島マンガを描き続けている。描き上げたものは作品となるのだろうか。それが発表されようがされまいがの作品となるのだ。「なぜ」と、いえば、つまりは、「こんなことになってしまったから」である。それは私にとっての大きな「意地」でもあるような気もする。「好きだ」からということもあったが、その一段上の「意地」に昇格したようなおももちだ。目標一万点などということになっている。「どの程度すすんだかね」なんて知る人に聞かれたりすると、「好きだ」でやっているでは対応できない。「意地」を持つことこそが、次の一枚へと闘志がわくのである。

 本当に秋竜山さんが描いていて、出版されるとしたら、購入して読んでみようという気持になりました。

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新聞名 図書新聞第2907号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年2月28日
読了日 2009年2月21日

評者◆知念襄二(聞き手・小嵐九八郎) 知念襄二氏(元沖闘委委員長)に聞く 60年代・70年代を検証する 全共闘の時代、沖縄は燃えていた

 この1面の見出しを読みまして、嫌になりました。「全共闘の時代」なんていう言い方が私は好きになれないからです。「そんな時代があったのかよ?」という思いがすぐにするのですね。
 でも読んでいるうちに、この知念さんが沖縄で、島成郎さんと沖縄で触れ合っていたことを知りました。私は今でも島さんのことはずっと尊敬している方です。ただし、彼は一貫として、私のことは、酔っぱらいの変な奴だという印象だったようです。

小嵐 元六〇年ブント書記長の島成郎さんとは、沖縄で一緒に精神科のお仕事をなさったんですね。
知念 島さんのことは、ものの本でそういう人がいるらしいということは知ってましたよね。島さんが本土の学会で発言されたり、東大赤レンガ運動の中で話されたりしたことは、聞いてはいましたが、東大にいた頃は直接のおつき合いはなかったんです。沖縄に来てからですね。沖縄に来てから最初の二年間は沖縄県立精和病院に行き、それから八三年五月から、島先生のいる宜野湾の玉木病院で勤務しました。五年半いて、その間、島先生は東京の陽和病院に移られたので、四年間は一緒だったです。
 島先生は、七〇年代の初めから、保健所の嘱託医として久米島の巡回医療(年に三回)をされていたんですが、玉木病院の開設(七二年秋)に加わられ、保健所での勉強会を続けておられました。久米島の診療で多くの私宅監置されている人たちを開放しています。もう一つは、今で言う精神保健にかかわるいろんな人たちを集めて、「沖縄精神医療」という季刊雑誌(七七年発刊)を出していました。定期的な勉強会をやっていて、そこで報告されたものをもとにして雑誌をだしたんです。勉強会の中では、自分たちのこんなちっぽけな経験を雑誌にして出していいもんかと迷う人たちを、実に的確に励まして書かせて、また実践していくんです。あの力はすごい力ですよね。もちろんご自身も精神医療の手本となる仕事をなされるわけです。こんな地味な、控えめな仕事を本にして世間に公にしてなんか言われるだろうと尻込みする人たちを、しっかりと導いていましたね。そういうのを見て、驚きましたよね。
小嵐 僕なんかにとっては、六〇年安保の島さんなんて神様みたいな存在であり続けましたよ。
知念 でも、沖縄の精神保健の関係者は、島さんの若い頃のことなど知らないですよ。もちろん知っている人は知っていますがね。保健所でやっている勉強会が終わると、毎回飲み会です。ジャズピアニストの屋良文雄さんがやっている寓話という店があって、大体そこに行くんです。勉強会には来ないけど飲み会には来るという人もいて、本土から来た人からは昔の運動の話などが出て、島さんもそれに答えていくということがあり、それでみんなも知っていくということでしたね。あの何とも言えない笑い声が印象に残っていますね。島節が聞きたい、島の笑い声が聞きたいということで、みんな集まってきたという感じですね。
小嵐 僕も『蜂起には至らず』の最後で島さんのことを書きました。島さんを知る人はみな悪く言う人はいないですね。「あいつはこんな小さな勇気をこれぐらいに(手を広げて)大きくしてくれる」と言うんですね。みんなこもごもそう言うんですよね。

 でも島さんのことは、この小嵐さんが言われるとおりです。そして私はただただ懐かしく思い出される方です。
 この島さんのこと以外は、どうにもたいして思うところはなかったものでした。

 それと同じく、小嵐九八郎さんの、「短歌界の巨人が出した評論はすごい――岡井隆著『歌集「ともしび」とその背景』『鴎外・茂吉・杢太郎』を読む」が興味が持てました。

岡井隆氏の評論『歌集「ともしび」とその背景』(07年10月刊、本体2381円・短歌新聞社)。サブタイトルが「後期斎藤茂吉の出発」とあるように、茂吉が墺独の留学から帰ってきての人間としての歩み、その思想、歌、周囲の人物、時代と、分析している。

 あ、これで、私もこの岡井隆さんの本を読んでみようと思っています。この小嵐さんの文では次が面白かったです。

狒膿有爐凌佑魎泙畫庵屬をすると、譬喩と一人称廃絶で短歌の革命をなした亡き塚本邦雄をトロツキーとすれば、スターリンみたいな短歌界の巨人である――という話を御本人の前で二十年前に直に話したら「どちらがスターリンかね」と聞き返されたことがある。スターリンほど評判の悪い革命家もいないが、決して甘くはない。革命以前は資金稼ぎで銀行強盗を敢然とやったこともあるし、ある意味では全てのコミュニズムの猊然爐鉢猝ね茘爐鯊慮修靴真擁である。因みに、短歌界のレーニンは斎藤茂吉となる。

 この岡井さんの「どちらがスターリンかね」という問いは面白いですね。岡井さんがあのお顔で真剣に聞かれている様を思いました。斎藤茂吉がレーニンで、塚本邦雄がトロツキーで、岡井隆さんがスターリンね。なるほどな。いや、私はもちろんスターリンが大嫌いですが、岡井隆さんは、好きですし、今では尊敬しています。

 あと大変に印象に残った言葉です。

評者◆秋竜山 あなた、成功してますか?、の巻

での、新田義治『成功本はムチャを言う!?』(青春出版社、本体七〇〇円)に次の言葉です。

〈この世では成功しなければならないのだと言われる。だが私はこう思う、まず生きなければならないのだと。これこそ世の最大の成功なのである。――ジャン・シオノ「真の富」〉

 それから最終ページの

 評者◆谷岡雅樹 職業噺家。住所高座――康宇政監督『小三治』

の次の部分です。

先日「職業“詐欺”」というNHKスペシャルが放送された。振り込め詐欺という犯罪を悪びれずに職業と語る若者たち。世の中が資本家と労働者しか存在せず、どうやって金を分捕るかの考え方なら、株で儲けようが仕組みや詐欺でいただこうが捕まらなければ「お仕事」に替わりはないのだろう。企業は個人の多様な能力を発揮させるといいながら、エネルギーを奪い取る場にしかならず、

 振り込め詐欺とかいうものをとても怒っている私には、違う視点からも少し見えたものです。

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新聞名 図書新聞第2902号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年1月24日
読了日 2009年1月17日

 前号を読んだときと同じで、どうしても読み耽けるという状態にはなりませんでした。でも「とにかく読まなくちゃあ」という思いで、一面の「和光晴生氏(パレスチナ戦士)に聞く 60年代・70年代を検証する 全共闘運動からレバノンの戦場へ」を読みました。

 私と同じ歳である和光さんの言われることの、私はどうにも頷くことができません。私と同じ1948(昭和23年生)といっても、大学入学時が私が67年で、彼は68年です。一年違うと、こうまで違ってしまうのかなあ、なんて私は勝手に考えていたものでした。
 私は思えば、いい年に大学へ入って、ちょうど大学2年のときに東大闘争安田講堂で逮捕起訴されたのは、実に安楽なことだったのかもしれないなあ、とつくづく思いました。
 一つ思うのは、私はいわゆる「全共闘運動」というものに、少しも親しみを覚えません。その前の三派全学連の行動には、優れて共感を覚えています。いつも少数であり、過激な暴力派でした。だが、全共闘とかいうものになったときに、何故か、「正しい」存在になったという錯覚があったように思います。

 それに、私はいわゆる全共闘運動と、日本赤軍の運動とは、関連を感じることはできません。それに、そもそも私は「全共闘」にも違和感がありますが、「赤軍」なんて、「それはもともとソ連軍のことじゃないか。大嫌いだよ」としか言う気になれません。

 日本赤軍の国際ゲリラ路線による闘争は、作戦準備過程で逮捕者が出て失敗に終わり、その失地回復に大使館占拠や旅客機ハイジャックなどをやって、獄中から同志を奪還するというパターンの繰り返しでした。ところが、日本赤軍によって対外的に公表される総括は、失地回復のために実行された「ハーグ」「クアラルンプール」「ダッカ」などの成功した作戦についてのものばかりで、それらの作戦を必要とさせた事前の敗北であるヨーロッパでの商社員誘拐計画失敗、ストックホルムでの2同志の逮捕、ヨルダンでの2同志の逮捕といった件についての検証、とらえ返しは、機密・保安を口実に、対外的に明らかにされることはほとんどなかったのです。
 結局のところ、「よど号」グループの人たちにせよ、日本赤軍にせよ、当初は共産同赤軍派の「過渡期世界論」をベースに「世界党‐世界赤軍‐世界革命戦線構築」をめざして「国際根拠地」建設に向け海外へ飛び出していったのが、国外での活動を経験する中で、日本国内への回帰を志向するにいたった、というパターンで共通しています。国内回帰志向となったのは、両者ともに、行った先の実社会内に活動現場をつくることが果たせず、自らの足場・基盤を構築できなかったからだろうと思われます。

 だが、そう総括しているとしても、今後はもうどうするのでしょうか。

 私は、49歳のおりレバノンで拘束され、彼の地の刑務所に3年、その後日本に送還され、拘置所に8年間、計11年の獄中生活を経験してきました。もう還暦をすぎています。
 かつて68年当時の熱い時代を闘い抜いた方々の中には、20代で逮捕され、有期最長の刑を受けて、50代にいたってようやく出所できたというような方もけっこうおられます。そのような方々の社会復帰・社会参加は大変なことでしょう。
 60代を越えてからの刑務所行きも、肉体的には大変な面があると思います、それでも、衣食職住完備の特別養護ホームへの入所の前倒しという感じもします。官僚独裁の奴隷社会というのが刑務所の実態なのでしょうが、塀の中を自分の「持ち場」と心得て、しつこく長生きしてやろうと思っています。世界金融危機とか、激動が始まった時代に、自分の「持ち場」からしっかりかかわっていくつもりでいます。塀の外の皆さんの健闘と健康を願っています。

 思えば、この和光さんは、私がインターネットでホームページを作った頃より、ずっと獄中にいて、今後もそれが続くわけです。
 もう大変に違うところ、私はもはや違う地平にいるのだということをつくづく感じます。そして私の知っている多くの友人たちも、もはや私と同じような地平にいることを、おおいに感じていました。

 なお、この取材記事を書いている小嵐九八郎さんは、私は一度お会いしたことがありましたが、私は彼の小説も読んでおります。実に彼の筆のよさを、この取材でも感じていました。

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新聞名 図書新聞第2895号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 平成20年11月22日
読了日 2008年11月15日

 新聞を手にしたときに「最首悟」という文字で、はるかな昔を思い出していました。それで帯封を切って、見出しのみ読みまして、再度今朝読んでみました。

最首悟氏(元東大全共闘助手共闘)に聞く 60年代・70年代を検証する 全共闘は権威を見事に打ち壊した

 聞き手は小嵐九八郎さんです。この方は私の好きな評論家です。この方のシリーズ「60年代・70年代を検証する」は読んでいて、相手の評者よりも、この方の質問内容に引き付けられています。
 それで今回は最首悟さんです。
 この方は、浦和で住んでいたところが、私の親しい女性の友人の隣に住んでいたことがあり、そのときのことの印象が強いのです。ただ、

70年には吉本隆明から、最首というチャラチャラした助手は思想も実践もわかっちゃいないのだとご託宣を受けて呻きながら、やっとありがたいご託宣だったのだと思うようになったこと

と言われているように、72、3年の私には、この方はどうにも評価できない方だった思いがあります。その思いのままきまして、こうして30数年が経過して、この新聞を読んでいるわけです。

そして60年代末、名実共に飢え感覚が消えようとする中で、全共闘は学問の権威、それをまとってきた教授たちの日常的小市民性を暴露した。それは男や大人のいじましさにつながり、女子高校生たちの破壊のエネルギーを解放したと言える。「男東大何処へ行く。背中の銀杏が泣いている」(当時東大生の橋本治が創った一文)、端的に言って全共闘は破壊のお祭りだった。

 彼は、『星子が居る』(1998年刊、世織書房)という本を書かれています。早速読んでみなくちゃなあと思ったものでした。

 人間というのは人と人の居る間でしょう。星子と暮らしていて、人間という場のあり方ということが浮かび出てくるということを思いますね。
 最近と言うか、90年代の終わり頃から、垂れ込めている霧が光っている、霧それ自身の一粒一粒が発光しているような、乳白色の霧みたいな中に、居るような気持ちになってきたようです。希望でも絶望でもないんですが、どっちかと言うと希望。つまり、どこに行くということもなく、どこに向かっているかということも分からない、けれども安心できるということなんです。星子と暮らしていて、現在のことも将来のこともどうなるかと心配し始めたら、切り(霧)がないんです。そういうことがなくなってきたような、キリがある感じがしますね。重度複合障害の人と共に生きるということの安心感ということ、そういう場に「居る」ということの慰藉。霧というのは普通は「五里霧中」とか不安の象徴なんですが、その対極ということでもないんですが、何か霧が光っているんです。不安もひっくるめて、どうしようもなく「居る」ということです。それは生きていく上で欠かせない感覚なのだと思われます。
 星子は何も言いませんけれども、暮らす力というか、人に考えさせる力をもっているんです。世話することが世話されることそのものであるというようなことを考えさせる。星子を世話しているつもりなんですが、世話されちゃってるんですよ。

 小嵐さんの、「現代の若者へのメッセージをひとつ」というのに、以下のように応えています。

「どっち向いていいか分からない」とか、「何をしていいか分からない」ということを、大事にしてほしい。

 これはいわば、解説が欲しい言葉ですが、できたら、それは直接読んでみてください。

 ここで知った本はぜひ読んでみようというところで、早速図書館に注文してみます。

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