将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:小澤一郎のこと

1205070512050706 私の、imajouの独り言に小澤一郎のことで にそのimajouさんから、以下のコメントがありました。

1. Posted by imajou   2012年05月06日 13:17
 藤堂高虎は構想力に優れ、大した軍略家だったように思います。

 加藤嘉明は松山城を築くに当たり、道後平野の治水に力を注ぎ、家臣の足立重信に石手川と重信川(当時は伊予川)の整備を任せました。この大事業が無ければ松山はしばしば洪水に悩まされる不安定な状態が続いた筈です。

 その難工事のトップは岩堰の開削で、重機の無い時代に良くぞ成し遂げたと感心するばかりです。ここは歴史的景観と永く保存すべきだと思っております。これらの事業は足立重信の功績で、その名は伊予川を重信川と変え、永く後世に残りました。

 嘉明が造った松山城は、建物が沢山残っているため、ついそちらに目が行ってしまいますが、嘉明は流石戦国武将で、戦うための構造をきちんと作り上げています。その一つが登り石垣で、全国で三つしか残っていません。高石垣も見事です。是非ご覧下さい。

2. Posted by imajou   2012年05月06日 16:47
 松山市は足立重信の河川改修工事のお蔭で、安心して住める町となりました。湯築城跡には氾濫の跡が全く無く、非常に安定した場所なのに対し、松山城の下を掘ると、分厚い氾濫の跡が出て来ます。その危険を除くべく大規模な河川改修を命じた嘉明と、難工事を成し遂げた足立重信は松山の恩人です。

 ありがとうございます。私は藤堂高虎はそんなに好きにはなれない人なのです。2年くらい前に東京駅前の八重洲ブックセンターに行くときに、いつもこの藤堂高虎の文字と画像が描いてある大きな看板がありましたが、それを見るときにも、いつもこの人の悪口ばかりを、私は口の中で言っていたものです。
 江戸時代の幕末に、鳥羽伏見の戦いでの、この藤堂藩の姿が藩祖高虎を現していると思うのですね。藤堂家は最初は幕府軍なのですが、世の人から、「さすがは藤堂。藩祖高虎以来の裏切り上手」といわれたように、途中から徳川幕府軍に砲弾を向けます。私はどうにも好きになれません。
 今に至るも、私は「藤堂」という苗字の方には偏見を持ってしまいます(あ、これは私がいけないのです。「藤堂」という苗字の方には責任は何もありません)。
 それに比して、加藤嘉明は私は好きになれるのですね。戦前に書かれた『日本戦史』の中で、尾張での秀吉の部下として出発したこの嘉明と加藤清正の比較なんか面白かったものです。「賤ヶ岳の七本槍」の頃が一番面白かったものでした。この人は伊予松山藩を領有したと思っていましたが、会津も領有していたのですね。
 それに足立重信という人は、私はまったく知りませんでした。
 しかし、この「賤ヶ岳の七本槍」の人たちの多くは、みな徳川家康や秀忠の時代に、滅ぼされたりしてしまうのですね。私は加藤清正なんか、「お馬鹿だなあ」としか思えないのですが、そう思うのは仕方ないのですね。

 いつも読んでおりますimajouの独り言に、このUPがありました。

   小澤一郎に無罪判決

検察の大失態と言うべきだろう。肝腎な証拠を疑わしい捜査で無効にしてしまったことから、有罪に出来なくしてしまったのであって、無実が立証されたわけではない。田中・金丸のあとを継ぐ金権政治の総元締であり、売国政治家である小澤を排除し損なった検察の失態は・・・

1205050812050509 実はもっと前に読んでいまして、おおいに同じ思いでして、そのときに私も書こうと思ったのですが、自分では書けないまま、今になってしまいました。
 まったくこのimajouさんの言われることに、同意します。しかし、このことを堂々と書いているのは、私にはimajouさんしか思い当たらないのですが、どうしてかなあ。
 私の年代の三派、および全共闘世代の元活動家群が、この小澤一郎を囲んで何かをやっていたのですが、どうしてか私は呼ばれないのですね。別にいいけどサ。
 でもいつも「imajouの独り言」を読んで感激しています。
 このあとの「湯築城を藤堂高虎が使っていた?」も興味深く読ませていただきました。私は、藤堂高虎ってあまり好きになれないのですね。加藤嘉明は大変に興味のわく人物です。『日本戦史』で読んだのですが、加藤清正と加藤嘉明のことを比較して書いてあるのには、ものすごく面白かったものです。

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