将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:小竹文夫・小竹武夫訳

12112612 この「夏王朝時代の日本列島と史記」(これは私の「中国の夏王朝のことで」に書いています)に以下のようにあります。

史記が、この江南の地を、「夏王朝の諸侯集合の地」である会稽(会計)として記録したのは、司馬遷がこのような背景を暗示したと見なされます。

 私は「司馬遷『史記』(小竹文夫・小竹武夫訳)」(世界文学大系全2冊)を読んだだけですので、そもそもそんなにわからないというか知っているわけではありません。
 尚書(書経)も読んでみないといけないよな、と自分に言い聞かせています。ただもう私は64歳になりまして、それでも読むべき本はたくさんあり、「書経」に向かう意欲が湧きません。
 そもそも、黄帝、堯、舜、禹は私にもいくらでも親しみがわく存在ですが、啓、益となると、私はそれほど知らないのですね。顔が想像できないのです。もちろん、黄帝、堯、舜、禹も顔が想像できるとはいえないのですが、それでも何か親しみがあるのですね。
 ただ、私はどうしても書経よりは史記を信じてしまうのです。孔子の言葉よりも私は司馬遷なのですね。それは私にはいくつものことがあります。
 そうねえ、司馬遷のような歴史家、激烈な歴史家を信じてしまうのです。あの時代の幾多の人も司馬遷が書いてくれたからこそ残っていると思っています。
 ヘロドトスやトゥキュディデスがいなくてもソクラテスもプラト12112613ンもいたのは間違いないでしょう。でも司馬遷が書いてくれたからこそたくさんの人が今も私たちは知っているのです(孔子だけはただそれだけでも存在していますが、いや他にもいますが)。
 いやこのことはまた別に考えて行きたいなあ。

12112409  YAGURUMAさんからのメールがありました。長文ですので、私のこれへのレスもまた別に書いて行きます。でも丁寧にありがとうございました。私は「司馬遷『史記』(小竹文夫・小竹武夫訳)」しか読んでいませんので、大変に勉強になりました。
 ただ今まで私が書いてきたことは、膨大な「司馬遷『史記』」の一パーセントにもならない量です。偉大なる司馬遷に、ただただ頭が下がると同時に自分の卑小さに惨めな思いになるばかりです。
 しかも司馬遷は、これを紙に書いているのではなく(まだ紙が存在しない)、竹簡に書いているのですね。ただただ、司馬遷を尊敬するとともに、自分がいやになるばかりです。今は紙ではなく、こうしてパソコンでインターネット上に書けるのですからね。司馬遷がいたら、どんなに嬉しがったことでしょうか。

夏王朝時代の日本列島と史記
12112410  現在、分っていることをコメントさせていただきます。長くなってしまったので、Mailさせていただきます。
  会稽山麓の河母渡遺跡の発掘によりBC4600以降、夏王朝以前の新石器、土器文明が華麗に展開され、一大文明の中枢地帯に当たっていたことが証明されています。
  従って、金属文明である、「夏王朝以降」の中国古代文明は、この「前金属文明の故地」に対する”征服・支配”の上に成立したものです。史記が、この江南の地を、「夏王朝の諸侯集合の地」である会稽(会計)として記録したのは、司馬遷がこのような背景を暗示したと見なされます。
  河母渡遺跡は、「石けつ(けつ状耳飾り)文明」として、中国海(いわゆる東シナ海をふくむ)をはさんで、日本列島(九州から北海道まで)と両岸同一性格の文明として継続し、存在しています。
  尚書には堯典第一の、
   分かちて羲仲に命じて嵎夷に宅らしむ。暘谷と曰う。寅賓、日を出だし,平秩、東作す。
 益稷第五、夏書
   禹曰く、「兪なる哉、帝、天の下を光し,海隅の蒼生に至る。
 君〓、周書
   海隅、日を出だす、 率俾せざるは罔し。12112411

等、「暘谷」の地にいる、嵎夷との交流を語る史料があります。

「堯・舜・禹、夏王朝、周初」の時代は尚書の方が同時代史料であり、後代の史記より確実な史料と見なされます。
 堯・舜・禹から周公に至る時期は、日本列島においては縄文時代中・後期に当たっています。縄文の土器文明が最高度に開花している時期です。「堯・舜・禹」は縄文中期後半(B.C.2500〜2000)、「周公」はB.C.1000頃に当たっています。河母渡遺跡のしめすように、すでに縄文早期末(B.C.5000〜4000)において、大陸・列島間の交流が確認される点から、上の尚書に記された日本列島との交流があったと思われます。
 尚書に記された、これらの記事を、史記が正面からうけとめようとしなかったのは、日本列島との関係が中国(主)〜日本列島(従)ではなかったからです。逆に、日本列島の縄文文明が、「文明中枢」にあり、大陸の方がその影響を受けていた局面も考えられます。それを記すことは、「史記を制約していた中華思想」では許されないということです。 周の第五代の天子、穆王の行歴を記録した 『穆天子伝』にも西方なる西王母の邦に至り、この女王に臣下として貢献した記事がありますが、史記では史実を記すことなく、”好戦的な王にして軍事・外交上の失敗者にすぎぬ人物”として記されています。「儒教」の国家、漢王朝、「中華思想」の国家の「正史」の史家としては、正面から描けず、後代の読者に暗示を与えるに留めたといえます。
12112412 禹は後継者に臣下の益を指名し、子の啓を益の臣下として仕えさせましたが、『竹書紀年』は啓が益を殺して王に即位したことを記しています。しかし『史記』夏本紀では、これを改竄し、啓は有能で人望があるのに対して禅譲された益は諸侯たちの信任を得られず、啓は諸侯たちの推戴をうけて王に即位したとしています。啓が主君を殺して位を奪ったとなれば、それは反逆行為であり、儒教では非難されるべき大事件です。「燕召公世家」を書いた司馬遷は、当然これを知っていたが、『孟子』(万章章句上)をもとにその交代劇を儒教道徳により改竄し、王位の世襲化を正当化しています。

 周代の倭人の記事としては、漢代の王充の『論衡』に次の記事があります。

 周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す。(巻八、儒増篇)
  成王の時、越裳雉を献じ、倭人暢草を貢す。」(巻一九、恢国篇)

 越裳は今のベトナムの領域に住した種族で、倭人がこれと並んで記されています。紀元前十一世紀、縄文時代後期末、ないし晩期初頭の記事です。
 なお、 和田家文書 、『東日流外三郡誌』には北方の古代の歴史が描かれています。
 今後、考古学、遺伝子人類学他の進展により、これらの状況が明確になると期待されます。なお、稲の起源について最近下記報告がなされました。

【 2012年10月26日 ゲノム解析でイネの起源は中国・珠江の中流域 】
  これまで長い間論争が続いていたジャポニカ米などのイネの栽培起源地について、国立遺伝学研究所や中国科学院上海生物科学研究所などの研究チームは、中国南部を流れる珠江(しゅこう、the Pearl River)中流域であるとの研究結果を、英科学誌「ネイチャー」(オンライン版)に発表した。
12112413  研究チームは、アジア各地から収集した野生イネ(ルフィポゴン)446系統、ジャポニカ米やインディカ米などの栽培イネ1083系統のゲノム(全遺伝情報)を解析し、1529系統間の相互関係を明らかにした。さらに遺伝的変異のパターン解析から、ジャポニカ米とインディカ米では55のゲノム領域で、イネの脱粒性や芒(のぎ)の有無、粒幅などの重要な形質について、栽培化による選択が行われていたことが分かった。
  これらの遺伝的な指標を用いてイネの系統進化を解析し、さらに各系統の生息地の情報を比較した結果、イネの栽培化は中国南部の珠江の中流域で始まり、1つの野生イネ集団からジャポニカ米が生まれたことが分かった。その後、ジャポニカ米の集団に別の野生系統のイネが複数回交配してインディカ米の系統が作り出されたと考えられるという。

  イネの起源地についてはこれまで、遺跡の調査結果などから何十年にもわたり論争が続き、インド・アッサム地方から中国・雲南省にかけての地域や、中国の「長江」中・下流域などと12112414の諸説があった。研究チームは「今回のわれわれの解析で、イネの起源地と栽培化のプロセスが明らかとなり、長い論争に終止符を打つことができた」としている。
 参考 『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』 古田武彦 著
    『夏王朝 王権誕生の考古学』 岡村秀典 著

↑このページのトップヘ