将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:小説総論

13081510 この画像が早稲田大学にある坪内逍遥の像です。
坪内逍遥は、1859年6月22日から1935年2月28日の生涯でした。これは安政6年の生まれですから、私も「そうなのか」と思ったところです。
この人を思うと、当然二葉亭四迷も思い出します。彼は1864年4月4日から1909年5月10日の生涯でした。
 私は高校3年の文学史の授業で、確か昭和41年の4月のことですが、「坪内逍遥『小説神髄』」のみが扱われたときに、強烈に文句をいいました。「はるかに、『小説神髄』よりも、二葉亭四迷の『小説総論』のほうが上だ。なぜ文学史ではそれが分からないのか」と。
1308141213081413 そのときの現代国語の教師は、私に謝って、「僕はまだ『小説総論』は読んでいないのです。今度読みます」といいました。
 次の日、現代国語の時間に、この教師は「二葉亭四迷『小説総論』」を全文ガリで切ってきまして(あのころは、パソコンもワープロもないのだ)、配ってくれました。随分あとになって、この先生は、この晩一睡もせずガリを切っていたということを聞きました。
「二葉亭四迷『小説総論』」は以下で読めます。

  http://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/1868_22437.html

 私は坪内逍遥の『当世書生気質』よりもはるかに二葉亭四迷の『浮雲』のほうが上なことをいったものでしたが、懐かしいな。
 このときの先生は、横浜だったのに、随分のちに我孫子の湖北に引っ越しされました。そして何故か早くに亡くなられました。その数日後、私は先生の家の前で涙ばかりになりながら、立っていたことを思い出します。湖北駅から随分歩くところでした。

13071103  私はこの章について書こうとするときに、青空文庫でカール・マルクスの本がないか探しました。また「二葉亭四迷『小説総論』」も少し読みました。やはりマルクスはないし(私は『資本論』は高畠素之の訳で少し読みたい思いでした)、『小説総論』は今日来るだろうkobominiに入れて読みます。
 この章は全編イエスが語ります。私はイエスのことがだんだん好きになってきていたのですが、これはそれほど好きになれない思いなのですね。
 それと、「三位一体」とはどういう意味なのだろう。どうみても、イエスと神とは別人格に思えます。ああ、神もイエスも人じゃないんだな。私ではなかなか理解できるまでは至りません。
 私では理解にいたるまで遠い、遠い道のりだということを感じました。

第17章
13071104 イエスこれらの事を語りはて、目を擧げ天を仰ぎて言ひ給ふ『父よ、時來れり、子が汝の榮光を顯さんために、汝の子の榮光を顯したまへ。汝より賜はりし凡ての者に、永遠(とこしへ)の生命を與へしめんとて、萬民(ばんみん)を治むる權威を子に賜ひたればなり。永遠の生命は、唯一の眞(まこと)の神にいます汝と、なんぢの遣(ちかわ)し給ひしイエス・キリストとを知るにあり。我に成さしめんとて汝の賜ひし業を成し遂げて、我は地上に汝の榮光をあらはせり。父よ、まだ世のあらぬ前に、わが汝と偕にもちたりし榮光をもて、今御前(みまへ)にて我に榮光あらしめ給へ。世の中より我に賜ひし人々に、われ御名(みな)をあらはせり。彼らは汝の有(もの)なるを我に賜へり、而して彼らは汝の言(ことば)を守りたり。今かれらは、凡13071105て我に賜ひしものの汝より出づるを知る。我は我に賜ひし言を彼らに與へ、彼らは之を受け、わが汝より出でたるを眞(まこと)に知り、なんぢの我を遣し給ひしことを信じたるなり。我かれらの爲に願ふ、わが願ふは世のためにあらず、汝の我に賜ひたる者のためなり、彼らは即ち汝のものなり。我がものは皆なんぢの有(もの)、なんぢの有は我がものなり、我かれらより榮光を受けたり。今より我は世に居らず、彼らは世に居り、我は汝にゆく。聖なる父よ、我に賜ひたる汝の御名の中(うち)に彼らを守りたまへ。これ我等のごとく、彼らの一つとならん爲なり。我かれらと偕にをる間、われに賜ひたる汝の御名の中に彼らを守り、かつ保護したり。其のうち一人だに亡びず、ただ亡の子のみ亡びたり、聖書の成就せん爲なり。今は我なんぢに往く、而して此等のことを世に在りて語るは、我が喜悦(よろこび)を彼らに全(まつた)からしめん爲なり。我は御言(みことば)13071106を彼らに與へたり、而して世は彼らを憎めり、我の世のものならぬごとく、彼らも世のものならぬに因りてなり。わが願ふは、彼らを世より取り給はんことならず、惡より免(まぬか)れさらせ給はんことなり。我の世のものならぬ如く、彼らも世のものならず。眞理(まこと)にて彼らを潔め別ちたまへ、汝の御言(みことば)は眞理なり。汝われを世に遣(つかわ)し給ひし如く、我も彼らを世に遣せり。また彼等のために我は己を潔めわかつ、これ眞理にて彼らも潔め別たれん爲なり。我かれらの爲のみならず、その言によりて我を信ずる者のためにも願ふ。これ皆一つとならん爲なり。父よ、なんぢ我に在し、我なんぢに居るごとく、彼らも我らに居らん爲なり、是なんぢの我を遣し給ひしことを世の信ぜん爲なり。我は汝の我に賜ひし榮光を彼らに與へたり、是われらの一つなる如く、彼らも一つとならん爲なり。即ち我かれらに居り、汝われに在し、彼ら一つとなりて全(まつた)くせられん爲なり、是なんぢの我を遣し給ひしことと、我を愛し給ふごとく彼らをも愛し給ふこととを、世の知らん爲なり。父よ、望むらくは、我に賜ひたる人々の我が居るところに我と偕にをり、世の創の前(さき)より我を愛し給ひしによりて、汝の我に賜ひたる我が榮光を見んことを。正しき父よ、げに世は汝を知らず、されど我は汝を知り、この者どもも汝の我を遣し給ひしことを知れり。われ御名を彼らに知らし13071107めたり、復これを知らしめん。これ我を愛し給ひたる愛の、彼らに在りて、我も彼らに居(を)らん爲なり』

 私がもっと理解できるにいたるには、「遠い道のりだ」ということが判りました。そのことを知れただけで、少しはいいのかなあ。
 いや、なんだか、不満な思いが残ってしまいます。

11022210 この人は1864年4月8日(元治元年2月28日)〜1909年5月10日(明治42)5月10日の生涯でした。私にはこの人はいつも不思儀な思いばかりに駆られる人です。夏目漱石や森鴎外は、さすが大文豪だなあ、と思っていまうところがあるのですが、「この人は何なのだろう」といつも思っていますのです。
 言文一致を坪内逍遥は主張したはずですが、実は彼は少しも実際の作品では展開できませんでした。この逍遥の『小説神髄』よりも、四迷の『小説総論』のほうがはるかに優れています。でも実際に彼が書いたのは、『浮雲』『其面影』『平凡』だけなのですね(ロシア文学の翻訳はいくつもやっています)。それに私はいつも、何故この人はロシア文学をやったのかなあ、と思うのです。どうしてもロシアのことは日本の最大の敵だと思っていたのかなあ。
 私はいつも、吉本(吉本隆明)さんの言われることを、おおいに参考にしています。いえ、私は吉本さんのことはもう信仰のように信じきっています。でもでもその吉本さんも、本の中でも、この四迷のことだけは、ちゃんと言い切れていないのですね(と私は思います)。
 その四迷の書いた小説は、私は『浮雲』は、実にいい小説だと思いました。明確に言文一致がなされています。そして内容も実につまらないことが書いてあります。私の友人で、息子に「文三」という名前をつけた人がいて、私はすぐに、「浮雲から付けたのか?」と聞いたものでした。
 私は『浮雲』は中学2年と3年のときに、2度読んでいます。内容も今もよく思い出せます。この『其面影』も中学2年のときに読みました。もう実に面白いとはまったく思いませんでした。
 私には、この著者は、今も理解できません。顔写真を見ても、いつも「何を思っていたのかなあ」とばかり考えてしまいます。彼はロシアから日本へ帰るときに、ベンガル湾上の船で亡くなります。(2010.03.17)

11020407 私がこれを読んだのは、高校3年の時でした。私が現代国語の授業で、「『小説神髄』より『小説総論』のほうが上だ」と言ったところ(思えば、あの頃の言いたい放題のことを言っていましたね)、次の授業で、その担当の先生がこの作品を全文ガリ切りで印刷してきて、一時間の授業になったものでした。
 今青空文庫で読むと、以下にあります。

  http://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/1868_22437.html
                二葉亭四迷『小説総論』

もう今の私では、ただ読むのだけでも大変ですね。

 小説に勧懲摸写の二あれど、云々の故に摸写こそ小説の真面目なれ。

 いつも思うのですが、私はこの二葉亭四迷がよく判りません。『浮雲』『平凡』は面白いけれど、『其面影』なんてどこが面白いの。
 思えば、私にはこの二葉亭四迷もよく理解できない人です。
 そういえば、高校時代にこれをガリ切りしてくれた先生は、7、8年前に亡くなりました。彼の自宅が成田線で彼の自宅の前まで行きまして、涙でいっぱいになったのを覚えています。(2009.12.03)

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 昨日夕方長女の家まで歩いていたときに、考えたことです。私は自転車で行ったのですが、このときはあまりに真剣に考えたので、自転車を降りて歩いていきました。
 私周は、はいわゆる書評・感想文といったものを私のホームページにもブログにもUPしています。「周の書評」(これは私のホームページ内に、実ににいっぱいありあます)も「周の雑読備忘録」(これも私のこのブログにいっぱいあります)もたくさんあるのですが、私はそういう内容ではなく、私が spider job  蜘蛛業 に書いていく「読書さとう」というページをオープンさせたいと思ったのです。それで、私は自転車を押しながら考えていました。私は以下のような本の私の感想を書いてみようと思ったのでした。

 1.これはもう2度と読むことはないだろう。
 2.こんな本を誰が読むのかなあ? 無駄じゃないかな。
 3.大昔に私は読んだことは良かったのかもしれないけれど、そのことの記録だけは書いておこう。

と思ったものを書こうと思ったのです。まずほかの人は読まないでしょう。
 たとえば、私は思うのですね。二葉亭四迷なんて、今誰が読むの? おそらく『浮雲』だけで、誰も忘れているんじゃないかな。だから、私は『小説総論』のことを書きます。これは「坪内逍遥『小説神髄』」より、実にまともだなあと私は思っています。
 それから、私には、まず第一に「ツルゲーネフ『猟人日記』」が浮かびました。もう誰も読まないよね。
 それで、次のような作品が私には浮かんだものなのです。

ツルゲーネフ『猟人日記』
ゴーゴリ『死せる魂』
プーシキン『偽のドミトリー』
フランソワ・ヴィヨンの詩
『サン・ヌーヴェル・ヌーヴェル』鈴木信太郎訳
二葉亭四迷『小説総論』
井原西鶴『男色大鏡』
『十六夜日記』

 それで、私は「では最初はフランソワ・ヴィヨンを書こう」と思ったのです。でもこれは、私がたしか高校生のときに購入した筑摩書房の「世界文学大系」の「中世文学集」を探さないとならないと思いました。私は昔はもっていましたが、今はもう古書店に売ってしまったものです。
 ところがところが、昨日私の部屋の外側の廊下にくくってある筑摩書房の「世界古典文学全集」の括っている中に、この本があったのです。もう驚きました。私が我孫子から引越しするときも、吉本(吉本隆明)さんの本とこの世界古典文学全集のみは、捨てないことにして、あとはすべて下北沢の古書店に売り払いました。でもでもなぜか、世界古典文学全集の中にこの本が入っていたのです。
 それで、私はフランソワ・ヴィヨンの詩を読み始めました。昔府中刑務所の中で読みましたから、本の外側には、「5004番萩原周二」と鉛筆書きしてあります。
 それで読んでいくうちに、やっぱりフランソワ・ヴィヨンはとんでもない、いわば無頼漢といえるでしょう。当初私が思い込んでいたように、それほどひどい酔いどれではありません。
 でも、フランソワ・ヴィヨンを読むうちに、私はさらに太宰治の『ヴィヨンの妻』も読み出しました。それでこのブログのサイドバーにある青空文庫でです。私はこれをすべて読みました。もう一度読みました。
 そして、私は涙を流していたのです。
 この小説の中の夫の大谷もなんというひどい男でしょう。フランソワ・ヴィヨンもひどいけれど、『ヴィヨンの妻』の夫もひどい男です。
 でもでも、こうして書いていける太宰治は実にすばらしいです。この作品は、私が上にあげた3点には、どこもあてはまっていません。
 だから、さらに私は「読書さとう」には書けないことになってしまいました。
 それで、でも書いていきます。「太宰治『ヴィヨンの妻』」は、私のこのブログで、「周の雑読備忘録」として、「フランソワ・ヴィヨンの詩」は、「読書さとう」で書いてまいります。(佐藤隆家)

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