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周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:小阪修平

12081804 小阪修平さんのことで にnelu(かわふくG)さんから以下のコメントがありました。

1. Posted by nelu(かわふくG)   2012年08月15日 22:15
小阪さんとは、2000年紀全共闘記念云々みたいなので、会場で偶然お会いしたがはじめてです。わたしは、その時、ガングロのような化粧して、破けたジースカート?履いて、金髪の鬘でお下げ髪していますた、高橋公さんには、依然お会いした服装が、ヤクザのような感じだって、その変身ぶりに驚かれたということもあってか、「似合います」なんて言われますいた、団塊の世代より若い私は、その世代の女性に驚異の目?をもつてみられまえして、「それ、自化?」なんて聞かれてしまいました。「言葉が広がるから駄目だ」というのは、そういう意味ではないだろうけど、インターネットで、発信すると、おもわぬところにも、情報が流れてしまう。端折るけど、いっぽうで、混沌ができるけづ、またいっぽうで、情報を系列化、価値的、秩序つけようとする運動もおこる。人間の人脳でも基本的hおなじで、インターネットやクラウドコンピュータなんか、将来的に、人類全体ののう、……… これが実は人工知能であり、その基本的発展のしかたじゃないかとおまいます。

 以下のように書かれていますが、

「言葉が広がるから駄目だ」というのは、そういう意味ではないだろうけど、インターネットで、発信すると、おもわぬところにも、情報が流れてしまう。・・・・・・

 まったく違います。小阪氏はインターネット云々なんて何も考えていません。そもそもパソコンも使わなかった、使えなかったのじゃないかな。パソコンもインターネットも、私たちの世代には(いや年下でも駄目な人が多いですが)まったく関係ない人がいっぱいいますよ。私はそれをずっと感じています。失礼ながら、もうどうしようもないですよ。 もう携帯電話も、「別に俺はそれでなんか喋りたくない」という人がいるんです。ケータイメールなんて少しも分からないですね。もうこのことはいっぱい感じています。
 小阪さんは、手書きで書いたり、せいぜいワープロで書いたりすることじゃないのかな。
 私の事務所でも、私のパソコンのインターネット上の私のホームページの画面を驚いて見ていただけです。「でも俺には文章を普通に書くのだ」と思っていたのじゃないかな。 自分の書いたものがインターネットで広がることなんか、明確に認識できていなかったです。
 小阪氏の書いた本を貶した人に対して、私が「それは違うんじゃないの」と鋭く迫ったら、「すいません、私はあの本をまだ読んでいないのです」という言い訳をもらったことがあります。そのことは私のサイト内のどこかへ書いてあります。その人物はひどいものでしたが、小阪さんもけっしてほめられたものではなかったと思います。

12081805 もうどうでもいいわけなのですが。
 本心では、パソコン・インターネットを少しも少しも評価できない人が、でも「私は手紙をこそ大事にして友人と交流している」といいたいのですが、私からは、下手をすると実際に手紙が来てしますから、それこそそれらの人が何もやれていないことをあちこちで感じている私です。

12081515「周の掲示板」にneluさんが書いてくれました』に目森一喜さんが次のコメントをくれました。

1. Posted by 目森一喜   2012年08月14日 20:34
 廣松渉は小坂修平の事が気にかかってしかたがなかったんだと思います。
 小坂も廣松渉の事ばかり考えてたはずです。
 ブントなんてどうしようもないですが、はみ出る所というとそこになるように思います。
 そして、いいところもダメなところもそこにあるような気がします。

 小阪さんは、駿台予備校で働いていたので、偶然私の昔の事務所の前を歩いていたときに、「あ、小阪じゃないか、少し寄っていかない」(思えば彼は私より一年年上だから、ちゃんと「小阪さん」と呼ぶべきだったな)と言いまして、私の事務所へ連れて行きました。たしか亡くなる年(彼は2007年8月10日に亡くなりました)の6月くらいのときじゃないかなあ。
12081516 私の事務所で、パソコンでインターネットを見せた思いがあります。でも彼はパソコンもインターネットも簡単に肯定はしていなかったな。私のように単純な人間ではなかったのだと思います。
 彼はパソコンだと、「言葉が広がるから駄目だ」というようなことをいい、私は当然「それはどういう意味だ」としつこく迫ったものです。
 もう少し付き合うべきでしたね。今になってそんなことを思います。

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 周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2に、孤高団塊世代さんが、以下のコメントをくれました。

1. Posted by 孤高団塊世代   2009年10月19日 05:02
滝沢さんは経済学部の1年上に在学されていました。文理3番教室で開催された学部学生大会で、圧倒的多数で彼の執行部を否認したことを、いまでも鮮明に記憶しています。
同氏のことが「思想としての全共闘世代」の115Pに紹介されていますね。

 ええと、私はこの学生大会を知りません。私は拘留されていた1969年のことだからでしょうね。この著書は今探しましたが、たぶん、もう売ってしまっていたのですね。たぶん、この本での紹介といいましても、ただ滝沢さんの名前が出ているだけじゃないかなあ。
 それでこの著書の「思想としての全共闘世代」の著者の小阪修平さんも、この1969年のときに、芝浦工大事件で、かなり熱心に救援活動をしてくれた方です。実にありがたいことでした。
 思えば、日本の新左翼運動とかいうものも、この芝浦工大事件のことも、滝沢さんのことも、もうずっと闇に頬むっていくのでしょうね。
 私はあの頃のことを、少しも忘れていませんが、そもそも新左翼などといっても、「どこが左翼だよ」という思いしかありませんね。
 ただ、こんな前の私のUPにコメントをいただきまして、ただただ驚いてしまいました。
 小坂さんが亡くなりまして、もうあの頃のことがもう遠くへ行ってしまうのかなあ、なんていう思いばかりです。

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07092701

 私は9月28日に、さる8月10日急逝しました小阪修平さんの奥さまへ手紙を書きました。前日9月27日の「小阪修平を偲ぶ会」では、奥さまにもその他のご家族にも何の挨拶もできす、こうして手紙を書くことしかできなかったものでした。
 この手紙を、ここに掲げることにより、私の「周の追悼私記」での私からの小阪修平さんへの追悼としたいと考えます。
 小阪さん、ありがとう。

07092702小阪さんの奥さまの住所氏名

          2007年9月28日
       私のURL・メールアドレス・
       スカイプ名・現在の住所氏名電話

 前略
 昨日の「偲ぶ会」で、突然詩吟を詠ったものです。小阪さんの御自宅とは、年賀状を交わすだけでした(年賀状での自宅は、私は千葉県我孫子市です)。
 でも実は、私は長年御茶ノ水駿河台に事務所を構えていまして(現在は、義母の介護で、この王子にいます)、よく事務所の前の路を歩いている小阪さんとお会いしました。
 ときどきは、私の事務所に来てもらいまして、私のパソコンで私のホームページを見たりしてもらって、インターネットに関する話をしていたものでした。もちろん、吉本(吉本隆明)さんに関する話もしたものでしたね。

 私は生まれたのは、昭和23年で、大学は埼玉大学へ1967年に入学しました。それで、当然学生運動に邁進するわけですが、東大闘争で1969年1月19日に安田講堂で逮捕され、やがて起訴され、府中刑務所に収監されました。
 その年の8月21日に保釈となり、私は娑婆の世界に戻ってきまして、すぐに埼玉大学に戻りました。当時埼玉大学は、学園闘争の中での、埼玉県警の取り締まりで、多くの仲間が逮捕起訴され、また多くの仲間が逃亡していまして、大学のバリケードは、何故か高校生が多くたむろしている(埼大に多くの高校生活動家が集まっていました)という感じでした。
 私は大学での活動の中で、どうしても中核派には異和があり、かつその中核派から出たとかいう反戦連合(あとで小野田派とも言われたことがあるようです)も、まったく好きになれませんでした。もちろん、日共や革マルと対したとしたら、中核派とも反戦連合とかともスクラムを組むわけでしたが、そもそも私はマルクス主義なんか、大嫌いの人間でした。
 そのときに、何故か9月18日に起きたのが、不審な黒ヘル集団による、埼大バリケードへの襲撃事件でした。当初は、その黒ヘルが何故か早稲田の革マル派を装っていたところがあり、革マルなんて、誰も嫌いですから、「ふざけるな」という思いでしたが、ちょうど東大闘争の被告団会議をやっていた私は、破壊されたバリケードに入るなり、「ウッ、これは革マルなんかじゃない、えっこれは怖いなあ」と思ったものでした。
 だが、その中核派に、Tが拉致されていたことを知って、私たちは、なんとしても彼の身の奪還を考えました。
 そしてその結果が、翌日9月19日の芝浦工大事件になります。私たちは、Tを奪還に芝浦工大大宮校舎に朝早く行ったわけでしたが、そこで起きたのが、中核派であり埼大生であった滝沢紀昭さんの2階からの転落死でした。私は中核派は好きではありませんでしたが、滝沢さんは、私が府中から出て埼大バリケードに戻ったときも、挨拶してくれて、わりと好感を持っていた先輩でしたから、こんなことになったことに、非常な驚きと困惑の気持でした。
 だが、世間では、「右翼体育会のしわざ」なんていう論調から、次第に変わってゆき、最後は「新左翼内の内々ゲバ」とまで言われるようになりました。いわゆる新左翼全般も、このマスコミの論調とまったく同じでした。
 もう私たちは、世界が真っ黒なものにしか思えませんでした。そんなときに私たちの先輩である小野田襄治さんは、実に私たちのことを大事にしてくれました。この芝浦工大事件は、小野田襄治さんには、何の責任もありません。でも、彼は、この事件に関係してしまった私たちのことを、実に大事にしてくれました。私の父と母も、兄弟も、小野田さんのことは実に感謝しています。
 そして、このときに、この小野田襄治さんが、ある部屋を確保し、そこに電話を置いて、そこに私たちが毎日電話するようにしてくれました。その電話番の役目をしてくれていたのが、小阪修平さんです。いつも彼は丁寧に、その日及び前日くらいの埼玉県警の動きを電話で教えてくれたものです。
 ただただ、権力・マスコミ及び新左翼による「殺人」という脅しに、不安でたまらない私たちに、彼の電話での声はどんなにありがたかったことだったでしょうか。
 彼がどうして、この役割を引き受けてくれたのかは、私には判りません。でもこの世界の非情さに、打ちひしがれていた私たちには、実にありがたかったものです。

 やがて、私はその69年の12月10日に逮捕され、起訴されました。そして長期勾留を覚悟していたわけですが、何故か翌年3月(の何日だったか、まったく覚えていません)に保釈になりました。
 私はすぐにアルバイト生活に入り、かつまた大学に戻って、今度は多くの2年3年下の後輩たちと、70年闘争に入ったものでした。
 この70年のたしか12月くらいに小阪さんとはお会いしました。そのときには、1年以上前の電話に関するお礼を言ったものでした。

 その後は、とくにおつき合いはなかったのですが、今度はさまざまな彼の著作で彼のことを知るようになりました。
 とくに私は、吉本(吉本隆明)さんに次第にひかれていきまして、その面で彼のことが、実に気になる存在になったものでした。
 彼とは、もうずっと年賀状は交換する仲は続けてきたものでした。そんなときに年賀状の文面にちょっと書いてあることに、いつも嬉しく思ってきたものでした。

 今になってみれば、なんでもっと親しくおつき合いしなかったのか、親しく話さなかったのかということが悔やまれてなりません。
07092706 その悔やみの中で、この文を書きました。本日は朝から忙しく動き回っていたもので、夜になって、この手紙を書き出したものです。今は王子の妻の実家ですので、「小阪さんの住所が判るのかなあ」という思いなのですが、こうして、一気に書いてしまいました。

  それから、27日に私の詠った漢詩ですが、以下の通りです。

   弔亡友月照    西郷南洲
  相約投淵無後先 相約して渕に投ず後先無し
  豈圖波上再生縁 豈図らん波上再生の縁
  回頭十有餘年夢 頭を回せば十有余年の夢
  空隔幽明哭墓前 空しく幽明を隔てて墓前に哭す

 この詩については、以下にて私が解説をしております。

  http://shomon.net/kansi/kansi3.htm#saigou 西郷南洲「弔亡友月照」

 なお、この手紙がそちらのついたろうと思われる頃、この文面を私のブログでUPいたします。そのことをお許しください。
                             早々

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 朝、世田谷のクライアントへ行きました。普段はいつも社長と昼食してから帰るのですが、きょうは、すぐに半蔵門線に乗って、市谷のクライアントに向かいます。そこは女性の会社なので、何かお菓子を買って行きたいのですが、もうその路には、素敵なものがありません。次回持っていこうと決意しました。約束もしました。でもそこの社長は、「甘いものはいらない、お酒がいい」というのですが、困りますよね。これじゃ、まるで私じゃないですか。
 そこの用で、四谷税務署に向かいます。タクシーに乗って、運ちゃんと東京の街のあちこちのことを話しました。愉しい会話でした。07092801この左側の写真は、この28日の四谷税務署の隣の公園です。サラリーマンの方がたくさん涼まれていました。暑い日でしたよね。

 それから、実は王子へ一旦帰って、すぐにまた蛎殻町のクライアントに向かいます。もう2時になっていました。ここではすぐ自転車に乗りまして、3つの銀行に向かいまして、振込をします。月末ですからね。
 そして4時を過ぎると、私は、急遽王子の家に帰ります。5時過ぎると、義母がデイサービスから帰って来るのです。
 それで、義母に紅茶とパンを出して、洗濯物を干して、今こうしてパソコンに向かっています。
 あ、ここに書いた3社(実は最後の蛎殻町は2社体制になっていますが)は、どこも私も役員になっています。
 でも反省点としては、自転車で日本橋を走るのは楽しいのですが(きょうは暑かったけど)、あんな銀行めぐりは、嫌になります。早急にインターネットでやるようにすれば、もう私のこの王子の事務所でもできます。なんとかそうしていきます。おじさんやおばさんは、インターネットバンクは駄目ですが、もう若い人は、それが便利と判っていますよ。私が、パソコンに向かって夜中にやればいいのですから。午後3時まで、必死に並んで必死に振り込むのは、嫌ですよ。面倒ですよ。日本橋界隈を、私はのんびり自転車で走りたい。振込等は、夜中か朝パソコンでインターネット上でやるべきです。

 しかし、こうして電車の移動が多いと、本を読むのがはかどります。吉本隆明「よせやぃ。」は読み終わりました。私の友人である尾崎浩一さんの「危ない! 共同出版」は、面白くてもう半分ほど読み終わりました。面白いと言っても、その書いてある内容には、怒りを覚えることばかりですよ。
 また、読んだ本のことも、ここで書いてまいります。

 あ、それとある女性にブログをやることを勧めたのですね。それとケータイメールアドレスが判ったから、また熱心にケータイメールします。いやなに、彼女とは昨日の「小阪修平君を偲ぶ会」でもお会いしたものなのです。あ、そうか、私は昨日の酒が抜けないから、きょうはいやにハイテンションなんですね。

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42ccf299.jpg 昨日は、昔かなり世話になった小阪修平さんの偲ぶ会に行ってきました。彼は私より1歳上だっただけなのに、もうこうして別れてしまうのですね。彼が三島由紀夫と話している映像(「美と共同体と東大闘争」)を見ました。何もかもが遠い出来事になってしまいました。(9/28)
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 もう私は、仕事で焦っていまして、いわばぎりぎりになって出かけました。でも実際に電車に乗って、「あ、どこでやるんだっけ?」という思いで、新橋から都営一号線に乗って、次の駅で降りて、歩いている中、「ひしょう」のお竜さんに電話して、「きょうはどこのホテルでやるんだっけ?」ということで、判りまして、すぐにタクシーをつかまえまして、そこに急ぎました。
 たくさんの方がおいでになり、だんだんと思い出してきて、いろいろとお話しました。
 もちろん、私の追悼の詩も吟じましたよ。
 小阪さんの奥さまにお会いしたのは、初めてでした。とにかく、私の詩の声は彼には、届いたのか届かないのかは、判断できませんが、私の思いは、同じです。
 彼のことを適確に思い出します。もう私には、こう言うしかありません。

 さようなら。いつもありがとう。いついつまでもおともだち。

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 今週の27日に、「小阪修平君を偲ぶ会」が開催されます。私は私の出席の返事に、以下のように付け加えました。

 小阪修平さんとは、ときどき私の事務所のあった御茶ノ水の路でよく逢ったものでした。そこから私の事務所にも来て話したものでした。その他たくさんのことを思い出しています。東大闘争で、保釈になったすぐあと、1969年9月19日の芝浦工大事件では、私も当事者になりまして、そのとき彼には大変に世話になりました。その時からいつも感謝していました。
 彼のことをいつまでも忘れないでしょう。「ありがとう」と言いたいと思います。

 彼は60歳だったのです。だから私の59歳とは、わずかな差です。私の事務所に来て、いつもパソコンの画面を見つめていた彼のことを思い出します。

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364781a9.jpg 私の友人の小阪修平君が亡くなりまして、その偲ぶ会の案内が来ました。彼は駿台予備校に務めており、私の事務所も1年前までその近くにありましたから、ときどき顔を合わせました。私の事務所で、インターネットを一緒に見たものでした。彼は60歳で亡くなりました。偲ぶ会では、西郷南洲「弔亡友月照」を詠つもりでいます。(9/04)

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07082715 さきほど郵便受けを見ましたら、以下の案内が届いていました。私の我孫子の自宅から転送されて来ましたので、少し時間がかかりました。

  故小阪修平君を偲ぶ会のご案内

 あまりにも突然のことで、言葉もありません。私たちの畏友小阪修平君が去る8月10日午前、心不全で急逝されました。
 つきましては、下記のとおり偲ぶ会を開催し、在りし日の彼を偲びたいと思い、ご案内申し上げます。万障繰り合わせてのご参加をお願いいたします。

               記

日 時 2007年9月27日(木)午後6時〜午後8時
場 所 虎ノ門パストラル新館6階「アジュール」
会 費 6,000円

※当日は平服でお越し下さい。
※誠に勝手ながら御供物、御供花の儀は謹んで辞退申し上げます。

 呼びかけ人 小野田襄治 黒須仁 木村修 枝松克巳 田中邦之 梅沢直 長谷ゆり子 彦由真希 萩原周二 村田秀樹 高橋公 (順不同)

1531d621.jpg虎ノ門パストラルホテル 東京都港区虎ノ門4-1-1 TEL03-3432-7261
(東京メトロ 日比谷線神谷町駅4b出口より徒歩2分)

お問い合せ NPOふるさと回帰支援センター内 小阪修平を偲ぶ会
        TEL 03-5776-1543 FAX 03-5776-2143
                                 以上

 私もこのことをインターネット上で知ったときに、突然のことで、ただただ驚きました。そして、以下のUPをしていたものでした。

   小阪修平さん、さようなら

 とにかく、この偲ぶ会に出て、彼にさようならをいいます。そして彼に「ありがとう」といいます。

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 asahi.comで、このニュースを見つけて大変に驚いているところです。え、最後に会ったのはいつのことだったでしょう。

 小阪 修平さん(こさか・しゅうへい=評論家)が10日、心室細動で死去、60歳。葬儀は親族のみで行い、後日、お別れの会を開く。喪主は妻文子(ふみこ)さん。

 「思想としての全共闘世代」「非在の海――三島由紀夫と戦後社会のニヒリズム」などの著作や評論活動のほか、「イラスト西洋哲学史」など哲学、現代思想の入門書で知られた。 (評論家の小阪修平さん死去 2007年08月11日06時10分)

 彼は、私の御茶ノ水の事務所のあったそぐそばの駿台予備校で、論文を教えていました。ときどき道で出会うことがあって、挨拶していました。
 何年か前に、私の事務所に誘ってそこでお話しました。パソコンで、いくつかインターネット上の部屋を開いて話したものでした。彼は、パソコンで文章を書いていくのは(もちろん、彼もそうしているわけですが)、「どんどん言葉が開いてしまうから、困ることがある」というようなことを言われていたものでした。

 彼と始めて会ったのはいつのことだったかなあ。たしか1970年じゃなかったかなあ。1969年9月19日の芝浦工大事件のあと、私はこの事件の当事者でしたから、彼がある事務所にいてくれて、電話の番をしていてくれまして、私たちはいつもそこに電話して、彼の伝えてくれるニュースを聞いていました。それで、きょうの埼玉県警の動き等を聞いていたものです。
 でも同じ69年12月10日に逮捕され、翌年早々に起訴され、でも長期勾留を覚悟していましたら、70年3月に保釈になりました。
 たしかこの70年の秋ごろ彼と会ったんじゃないかなあ。大森で会ったような気がしますね。

 彼の出版された本は、ほとんど読んできたかと思っています。

 そううちに彼と会って、ゆっくり話すことができるだろうと思っていましたが、それも叶わないこととなりました。なんで、こんなに急ぐんだろうかなあ、という思いがしました。そうか私は現在59歳ですから、一つ違いだったんだなあ。

 合掌します。ゆっくりと休んでください。さようなら。

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 最初の「はじめに」の最後に次のようにあります。

 もういい加減に書ける範囲のものを書いておかないと、結局は何も伝わらないままで終わることになる。この本では、自分の個人的な経験を出発点としながら、なるべく自分の枠を超えて世代に共有できるもんだいを取り出し、若い世代に全共闘とは何だったのか、そして今意味があるとすればとういうことなのかを伝えたいと思った。書く人が違えばまた違ったものになるだろうが、ぼくの書けるものを書くしかない。

 この思いは私も同じです。やっぱり書いておかなくちゃなあ、と思いながら、ずるずると今に至ってしまった感じがしています。
 まずはこの点で、私はこの新書を読み終わって、「よくちゃんと書いてくれているなあ」という思いがしました。彼は私よりも1歳年上であり、大学入学が1966年でちょうど学年も私よりも1学年上です。
 ただし、彼は東京大学であり、私は二期校の埼玉大学でした。同級生には、東大を落ちたので埼大に来たというのが、何人かいました。けっこう、「うちは国立しか駄目だと親に言われた」というような学友もいたものでした。

 私は大学2年の秋1968年に東大闘争に参加しだしました。11月22日の、東大闘争・日大闘争勝利集会に、日大全共闘の部隊の中に入って参加していたものでした。
 よく年の1月10日夜に私は友人と二人で、東大の安田講堂に入ろうとしました(実は前日にも私は東大構内に来ていました)。当時は、文京区本郷の東大構内は、日本共産党=民青が支配しており(全共闘の部隊は、駒場の東大で日共民青を攻撃していて、安田講堂には実にわずかの守備隊しかいませんでした)、その中でやっと安田講堂にたどりつきましたが、見張りの東大全共闘が、私たちが個人であると、その身分がなんだか判らないので、入れてくれません。
 そこで困っていたら、そこへ中央大学の中大全中闘が50名くらいの部隊でスクラムを組んできました。彼らもノンヘル姿で、全共闘と認められないようにしてばらばらで歩いてきて、東大構内に入ると、スクラムを組んで講堂前まで来ました。
 私と友人は、「あ、そうだ」とばかり、このスクラムに加わりました。中大全中闘なら、中に入れてくれます。それを見ていた先ほどの東大全共闘の見張りの学生も、私たちを見て、「あ、良かったね」という顔で笑っています。
 私たちが安田講堂に入って、その晩夜中に、日共の軍事部隊が安田講堂を襲ってきました。

 私はその日から、ずっと安田講堂に籠もりました。ただし、一度だけ12日か13日に埼大に戻りました。それで下着等を着替えて、今度は王子から都電に乗って東大に来たものでした。そしてそのまま18日の機動隊導入の日を迎えることになったものでした。

 今井(今井澄のこと)は、一日でも機動隊から安田講堂を防衛できたのは予想外であったと先の文章で述懐している。そこで今井は「われわれの闘いは勝利である」と放送したのだと言う。(100ページ「第五章 全共闘運動の展開」)

 私たちも、夜になって18日が終わる頃、「あれっ、この安田講堂って、きょうで落ちてないじゃないか」と気がついて驚いたものでした。

 そして翌19日私は午後4時ごろ逮捕され、東調布署に送られ勾留されました。勾留期限の切れる23日目に、起訴されました。そしてその1週間後に、私は府中刑務所に移管になりました。起訴されたら、巣鴨の東京拘置所に移されると思ってばかりいまして、「北一輝も入っていた巣鴨って、どんなところだろう」と期待していたのですが、府中刑務所と聞いて面くらいました。ただ、同じ留置場にいた、住吉会M一家のヤクザが、「えッ! 初犯で府中行けるなんて格好いいなあ」というのを、聞きまして、「あ、そんなにいいことか」なんて思っていたものでした。

 その後、8月20日に保釈になるまで、ずっとこの府中刑務所での独房暮しが続きました。出所後は、また埼大に戻りましたが、私には頼るべき党派もありませんでしたから、その後も単独で動き回っていました。
 よく月の9月18日東京教育大学と御茶ノ水大学の闘争支援に行きましたが、夜は埼大近くのロビンという喫茶店で、東大闘争の埼大グループの被告団会議がありました。まだ保釈されていない埼大の被告が3名いましたから、この3人への支援をどうするかという会議でした。
 ところが、その喫茶店へ、「早稲田の山本派が埼大のバリケードを襲って来たから、すぐ来てくれ」というKさんの連絡で、私たちは急いで大学へ走りました。

 埼大の校門を入ってすぐバリケードへ入ると、私は「ハッ」と気がつきました。そのバリケードの破壊の凄まじさから、私は怖ろしいことに気がついたのです。「学生運動って、こんな恐怖の世界なのか」。私はすぐに、この埼大のバリケードを襲ってきた部隊が、早稲田の革マルなんかではなく、中核派であるという恐怖です。中核派は、私は好きではありませんが(そもそも私はマルクス主義・共産主義が大嫌いだった)、一応革マルとは違って、スクラムを組める相手のはずです。
 しかし、もうその事実ははっきりしてきます。Tという仲間が拉致されたといいます。なんとしても彼を救い出さなければなりません。

 そしてどうやらいろいろな調査の結果、どうもTは、当時同じ埼玉県でバリケード闘争が続けられている芝浦工大にいるらしいということが判りました。
 それで、Tを救い出すのには、どうしても芝浦工大大宮校舎にいかなければなりません。
 翌朝、私たちはK救出のため、23名で芝浦校舎大宮校舎へ行くことになりました。

 芝浦工大大宮校舎には、埼大中核派の滝沢紀昭さんがいました。そこで起きてしまったのが、私たちが校舎に入ったときに、滝沢さんが2階から飛び降りてしまうという事故でした。そして私たちは、すぐにこの事件で、権力警察からも、新左翼からも犯人として追われることになりました。
 当初は、右翼の犯行なんて報道していたマスコミも、そのうちに「内ゲバ」「内々ゲバ」とこの事件を呼ぶようになりました。

 そして私はこの事件で、12月10日に、浦和裁判所前で逮捕されることになるのですが、そのときまでに、この芝浦工大事件で、関係した私たちが毎日私たちの側の情報を教えてくれるのが、ある電話でした。毎日そこへ電話すると、「きょう埼玉県警はこういう動きをしてきた」というように教えてくれます。
 このときに、その役割をやってくれていたのが、この小阪修平さんでした。私たちは、まだ顔も何も知らない彼の電話の声にどんなに励まされたことでしょうか。
 私たちは警察もマスコミも、そして新左翼もみな敵のような振舞いばかりでしたが、その中で、この電話での小阪さんの声はどんなにありがたかったことだったでしょうか。

 そして彼は、このことを特別党派的は思いや思想的な思いでやってくれたものではありません。ただただ、私たちが感謝すべきことでした。

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思想としての全共闘世代
書 名 思想としての全共闘世代
著 者 小阪修平
発行所 ちくま新書
定 価 700円
発行日 2006年8月10日第一刷発行
読了日 2006年10月7日

 まず最初にこの本を読むことになったきっかけを書いてみます。
 私のこのブログ将門で、次の書込みを私は9月23日にしていました。

   NHK:定年帰農を考えるサラリーマンは現実を分かっていない!

 その中で、私は次のように書いていました。

それとですね、一番この中で気になりましたのが、塩津計さんが書かれたこのブログへの次のコメントです。

小阪というアホ左翼が「思想としての全共闘世代」に馬鹿なことを書いている。反体制・反資本主義・反権力を志向する全共闘世代の究極の理想は帰農であり、田舎にいって有機農業にいそしむことなんだそうだ。こういう全共闘世代は20代も何も考えず馬鹿やってだだこねたが日本の政治には何の影響ものこさず害だけなしたが、それから40年たって定年を迎えても、やっぱり馬鹿でヒャクショウに自ら喜んでむしられにいく馬鹿だった。こういうオツムのなかでのみとらえた勝手な権力=都会の大企業、民衆=弱者=ヒャクショウという構図にしがみ付くアホの全共闘世代は丸ごと帰農してもらって滅んで欲しいもんですな。

 私は昭和23年生まれで、大学は1967年入学で、ちょうど三派全学連の時代で、2年生になったときにいわゆる全共闘運動の真っ盛りでした。それで東大闘争の安田講堂で逮捕起訴され、220日後保釈になりましたが、また芝浦工大事件で、逮捕起訴されました。
 それで、ずっと同じ学生運動の仲間とはつき合いが続いていますが、私はこのような「究極の理想は帰農であり、田舎にいって有機農業にいそしむこと」なんてことは、少しも思っていません。もうこういう連中(昔は三派や全共闘の活動家で、今はただのおっさんでそういうことを言っている連中)は馬鹿で阿呆じゃないのか。

 小阪さんは、今度道端で会ったら(彼は予備校の講師しているから、ときどき御茶ノ水の道端で偶然に会うのね。でももう会うこともないかな)、このことを指摘しますよ。でももう判んないのかな。でも彼自身が帰農なんかしないでしょう。でも彼のこの本は買う気もしないけれど、この馬鹿な部分くらい立ち読みしてみようかな。
「アホの全共闘世代は丸ごと帰農してもらって滅んで欲しい」と言われても、私も阿呆な全共闘世代ですが、絶対に帰農なんかしたくないよ。田舎なんか、嫌いです。私は酒飲みなので、車は運転しない(できない)から、車がないと生活できない田舎なんか絶対に嫌です。

 それで、ここに小阪修平さんが、次のコメントをくれていました。

1. Posted by 小阪修平    2006年10月05日 15:13
まったく書いていない内容に反応しシコメントするなんて萩原さんらしくもないですね。

 私は「エッ!」と驚きました。ただし、このコメントに気がついたのが、6日のことでした。「あ、これだと私はとんでもないことを書いちゃったんだな。ちゃんと読んで、彼に謝ろう」と決意しまして、昨日午後行きました、中央区蛎殻町のクライアントへいくときに、水天宮の駅のすぐそばでこの新書を買いました。
 ただし、もちろん私は仕事をしに行ったわけであり、ほんの少ししか読めずに、その後はいろいろとありまして(ようするに夕方になると飲んでいるわけですが)、全部を読み終わりましたのは、きょう7日でした。
 そしてそして、私は小阪修平さんに謝らなければなりません。余丁町散人の隠居小屋のこの記事「NHK:定年帰農を考えるサラリーマンは現実を分かっていない!」の、コメント覧に、塩津計なる人物が書いたコメントは、まったく小坂さんの本には一行も書いてありません。

反体制・反資本主義・反権力を志向する全共闘世代の究極の理想は帰農であり、田舎にいって有機農業にいそしむことなんだそうだ」なんてことは、このちくま新書の小阪さんの本には、一行も書かれていません。
 もうこの塩津計なる人物は、どこを読んで、このことを言い出し、引用までしたのでしょうか。そして、私はどうしてちゃんと小阪さんの本を読んでみて確認しなかったのでしょうか。本当に私に対して腹が立ちます。

 実は私は以前は小阪さんの本は出版されると必ず読んでいたのですが、この本は本屋で表紙を眺めていただけでした。いえ、私には彼の本は難しすぎるのです。だから手にとって開くこともしていませんでした。

 小阪修平さんに謝ります。申し訳ありませんでした。
 できましたら、今後も道で偶然お会いしても、挨拶することは許してください。

   この雑読備忘録の続き

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