将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:山本周五郎

11092609 さきほどNHKのニュースで山本周五郎の日記がこのごろ公開されたということが言われていました。周吾郎40歳のときの「日本婦道記」(直木賞の候補になったという)も紹介されていました。それでいくつかのことを思い出しました。

 まず、この「日本婦道記」ですが、私は読んでみたときに「読んだことはよかった」けれども、内容に関しては「なんだか感心できないな」と思った記憶があります。内容を思い出すと、ひとつは幕末の庄内藩が秋田佐竹藩および官軍(佐竹藩は奥羽列藩同盟に入らず官軍側だった)と戦った際に、活躍した女性たちの働き、および江戸時代後半の水戸藩の女性たちが、侵入してくる英国の異人たち(この異人とは捕鯨をしていた漁師たちで、薪や食料を求めて本当に何度も茨城県の海岸に上陸している)の乱暴に対して、結束して戦う話がありました(二つしか思い出せない)。これはつまりは、日米戦争において、銃後にいる婦女子たちも、このようにお国の為に戦うのだ、日本の過去の女性たちも、こうして堂々と戦ったのだということを言いたいのです。
 まったく、「冗談じゃねえよ」というところです。アリストパネスの「女の平和」とか「女の議会」のようなものを書けとはいいませんが、「なんじゃい、これは」と思ってしまいます。江戸時代において、上陸してくる異人たちに対して、薪と食料、水を与えて、すみやかに退去するように求めた日本の大衆はいますが、それらの困っている異人たちに、竹槍をもって突っ込んだなどという例は聞いたことがありません。
 いったいNHKはそこらへんのこと判っていて、紹介したのかなと思いました。

 それから、また思い出しました。周五郎の晩年のことですが、周五郎はどうしてか鎌倉孝夫と論争をしていました。マルクスの資本論についてです。実はこの論争の詳細を知りたくて、このときの雑誌を探しているのですが、判りません。それでまた私の記憶の中です。
 鎌倉孝夫というのは、社会党左派の理論的なブレーンです。おそらく俺こそが、宇野弘蔵の後継者であり、日本一のマルクス主義者だと思い込んでいる大阿呆です。社青同というのは、党派的に

 社青同解放派(反帝学評)
 社青同国際主義派(第4インター日本支部、日本革命的共産主義
                  者同盟)
 社青同構改派(主体と変革派)
 社青同協会派(向坂派)
 社青同協会派(大田派)

というのがありまして、上二つは三派全学連に参加していました(国際主義派は三派の三派ではないのですが、三派全学連を構成する五派党派の一党派だった)。
 主体と変革派というのは、どうしてか銀ヘルをかぶって新左翼の集会に出入りしていました。協会派は、いつも社会党大会を守るために武装して解放派とゲバルトを繰り返していた、いわばとんでもない右派です。この向坂派の中に、鎌倉孝夫が主導する「人民の力派」という連中がいました。法政大学とか佐賀大学が拠点だと聞いています。鎌倉孝夫は自分のことを「理論家ではなく、革命の実践派だ」としているところがありますから、こうした党派で実際の革命を目指したかったのでしょう。でも社会党に一体何ができるの。 この鎌倉孝夫が、山本周五郎が資本論について何かを言ったときに、ケチをつけたわけです。「お前みたいな、時代小説だけ書いているど素人が何言うのだ」ということでしょう。それに対して、周五郎は「何を言っているのだ、俺の小説がお前には、読めていないんだろう。マルクスを知っている俺だからこそ、『青べか物語』なんて書けるんだぞ」ということをいいたいのです。
 私は鎌倉孝夫なんて、もうそれこそ憎むべき敵でしかないと思っていましたから、この周五郎へのケチつけには、非常に頭に来ました。しかし、しかし、周吾郎だって判っているのかなといいたいところがあるわけです。
 山本周五郎の数々の小説の中でいくつものシーンなどに、私はヘーゲルやマルクスへの反論を見ています。「青べか物語」こそ、ヘーゲル・マルクスそしてマックス・ウェーバーの言う「アジア的」に対するアンチテーゼなのでしょう。
 西洋人のいう「アジア」とは、いわばギリシア時代のトロイアであり、せいぜいイランペルシアでしょう。ヘーゲル・マルクスに至って、インドまでがアジアとしてとらえられました。高原であったり、砂漠であったり、熱帯であったりするところです。ウェーバーに至ってはじめて中国が論じられます。
 現在の資本主義時代、その前の封建時代、その前の古代(古典古代さ)、そしてその前のアジア的生産様式の時代とは、一体どの時代、どの地域をいうのだ。ギリシア=ローマのいわば古典古代の時代、そのギリシアの昔、ドーリア人がペロポネソス半島を支配する(神話ではヘラクレスの子孫が半島を制服する)前の時代、すなわちアカイア人たちのギリシアやミケーネ文明はアジア的生産様式の世界だったと言われる。では、そもそもアジアの世界ではどうなのだろうか。中国では、どうなのだろうか。明らかに、宋時代は封建時代だろう。ではその前の唐は、隋は古代なのかな。ではようするに、「アジア的」に当てはまるのは、南北朝なの、漢なの、秦なの、周なの、殷なの、夏なの、一体何なの。
 これに対する答えが、周五郎の「青べか物語」なのですね。周五郎が描いている、浦安がその「アジア的」を色濃く残しているところなのです。すなわち「水の上に棲んでいる」というところでしょうか。家の下を流れている水から捕れる魚を食べて生計を立てているというところでしょうか。中国でいえば、殷とか周の時代になるのかな。これは、ヘーゲル・マルクスの「アジア」への鋭い指摘だと私は思います。「高原じゃないよ、水だよ、魚だよ」。ここは周吾郎のいいところです。
 ところで、でも周五郎の書いた「青べか物語」というのは、どうも嘘っぱちなんですね。周五郎は浦安に下宿していて、そのときの思い出を書いたことと言われています。後年、この浦安にまた周五郎が訪れて、「青べか物語」で少年であった長という少年に会うシーンが書かれているエッセイがあります。実に読んでいて、いい話であり、いいシーンです。でも「あれも、これも嘘なんだなあ」。
 この「アジア的」ということを明確に展開しているのは、吉本(吉本隆明)さんです。その「アジア的について」という論考の中(まだまだ完結していない)で、私はいろいろなことが判ってきました。
 大事なのは、時代や時間で区切られることなのではなく、いわば浦安の隣には資本主義最盛期の東京(戦前の話ですが)があるわけです。すなわち、資本主義の日本の中にも、どこにも「アジア的」なものは存在しているのです。革命後のロシアの中にも、この日本の現在にも、私自身の中にも。
 そして吉本さんが出してきた「アフリカ的」という概念がまた大事です。時間的には、アジア的の前段階に設定される概念ですが、これまた現在もたくさんのところに残存しているわけです。
 やはり周五郎は、教条的にしかマルクスを理解していませんでした。それは仕方なかったとも言えるのですが、そうした彼の姿勢がほかの小説にも見かけられる気がします。だから、私は彼の小説に魅力を感じないのです。晩年最後の「おごそかな乾き」(宗教のことを書いていて、未完である)なんか、とても惨めだなあと思っています。
 おそらく、周五郎の小説を読む人というのは、これから極端に少なくなっていくだろうなと思います(逆に藤沢周平なんか、読者が増えていくよ)。
 そんなことを思い出し、思いました。

3468ea8e.jpg  まだインターネット接続できません。
  でも外が見えるとすぐにできます。今日は絵本をもっています。『のんたん』です。

 もう浦安です。早いなあ。ここから見える風景は山本周五郎や男はつらいよの「望郷編」の浦安のような感じがないなあ。
  寅さんは、柴又でボートに乗っていて、偶然それが流されて、浦安で豆腐屋で働くことになります。そこにいるのが、最初テレビの「フーテンの寅」での妹です。 もういくらでも思い出してきます。あのときの妹桜(倍賞千恵子)は実に綺麗でした。
 その前に、どうして寅が「汗と油にまみれて地道に働こう」と思ったのかというと、北海道で国鉄で懸命に働く青年(松山政路)を見たからです。その青年の思い出の中にでてくる親父はやくざなひどいおやじでした。
 でもそのおやじが死ぬ間際に、「息子に会いたい」というのです。
 ああ、まずいです。私は涙がでてきてしまいます。どうみても電車の中ではおかしいです。

11021904 この作家は、1903年(明治36)6月22日〜1967年(昭和42年)2月14日の生涯でした。こうして、生年と亡くなりました年を書きますと、いくつものことが思い出されるものです。1967年2月14日というと、私は高校3年でちょうど受験勉強の真っ最中のことだのでしたね
 これは兄の本ではなく、父の本でしたね。私が中3のときに読んだものでした。伊達騒動のときに悪役とされた原田甲斐を主人公にしています。そして私は40代には山本周五郎をかなり読みました。
 だが私は『さぶ』を読んだときに、主人公の栄二(武松)を寄場に送ることになる妻のおのぶがどうにも許せませんでした。栄二のことが大好きだったおすえならいい存在なのですが(私は今も大好きです)、このおのぶは嫌です。でもそうなると、主人公の武松も嫌いになり、そもそもの作者も嫌になりました。そうですね。さぶもこの物語の名前になっているのに、少しも何も判っていない役割で、これもまた大嫌いになります。
 作者には、「人生とはこうあるべきだ、人とはこう生きるべきだ」と執拗に言われている思いがして、それ以降はこの作者の作品は何も読んでいません。
 いや、この 『樅ノの木は残った』なのですが、これは16世紀の後半の伊達家、仙台藩に起きた伊達騒動のときのことを題材にしています。そして、この小説の主人公原田甲斐は歴史上ではこの騒動の悪人、逆臣とされています。ところがこの山本周五郎の書いたものでは、この原田甲斐が実は伊達藩の危機を救くった忠臣であったということになっています。
 私は昔から武士という存在が嫌いでした。今も武士(或いは武士道とかいうものを)を誉める人が信じられません。そして私はそれをすぐに口に出して言い始めます。
 とくに武士がなにか一番いい存在のように思わせていた江戸時代が嫌いでした。だからこの小説もそれほど感心して読んだ思いはなかったものでした。(2011/02/19)

201703202311020303 さきほどNHKのニュースで山本周五郎の日記がこのごろ公開されたということが言われていました。周五郎40歳のときの「日本婦道記」(直木賞の候補になったという)も紹介されていました。それでいくつかのことを思い出しました。

まず、この「日本婦道記」ですが、私は読んでみたときに「読んだことはよかった」けれども、内容に関しては「なんだか感心できないな」と思った記憶があります。内容を思い出すと、ひとつは幕末の庄内藩が秋田佐竹藩および官軍(佐竹藩は奥羽列藩同盟に入らず官軍側だった)と戦った際に、活躍した女性たちの働き、および江戸時代後半の水戸藩の女性たちが、侵入してくる英国の異人たち(この異人とは捕鯨をしていた漁師たちで、薪や食料を求めて本当に何度も茨城県の海岸に上陸している)の乱暴に対して、結束して戦う話がありました(二つしか思い出せない)。これはつまりは、日米戦争において、銃後にいる婦女子たちも、このようにお国の為に戦うのだ、日本の過去の女性たちも、こうして堂々と戦ったのだということを言いたいのです。
まったく、「冗談じゃねえよ」というところです。アリストパネスの「女の平和」とか「女の議会」のようなものを書けとはいいませんが、「なんじゃい、これは」と思ってしまいます。江戸時代において、上陸してくる異人たちに対して、薪と食料、水を与えて、すみやかに退去するように求めた日本の大衆はいますが、それらの困っている異人たちに、竹槍をもって突っ込んだなどという例は聞いたことがありません。
いったいNHKはそこらへんのこと判っていて、紹介したのかなと思いました。

それから、また思い出しました。周五郎の晩年のことですが、周五郎はどうしてか鎌倉孝夫と論争をしていました。マルクスの資本論についてです。実はこの論争の詳細を知りたくて、このときの雑誌を探しているのですが、判りません。それでまた私の記憶の中です。
鎌倉孝夫というのは、社会党左派の理論的なブレーンです。おそらく俺こそが、宇野弘蔵の後継者であり、日本一のマルクス主義者だと思い込んでいる大阿呆です。社青同というのは、党派的に

社青同解放派(反帝学評)
社青同国際主義派(第4インター日本支部、日本革命的共産主義
                  者同盟)
社青同構改派(主体と変革派)
社青同協会派(向坂派)
社青同協会派(大田派)

というのがありまして、上二つは三派全学連に参加していました(国際主義派は三派の三派には入ってはいないが、三派全学連を構成する五派党派の一党派だった)。
主体と変革派というのは、どうしてか銀ヘルをかぶって新左翼の集会に出入りしていました。協会派は、いつも社会党大会を守るために武装して解放派とゲバルトを繰り返していた、いわばとんでもない右派です。この向坂派の中に、鎌倉孝夫が主導する「人民の力派」という連中がいました。法政大学とか佐賀大学が拠点だと聞いています。鎌倉孝夫は自分のことを「理論家ではなく、革命の実践派だ」としているところがありますから、こうした党派で実際の革命を目指したかったのでしょう。でも社会党に一体何ができるの。 この鎌倉孝夫が、山本周五郎が資本論について何かを言ったときに、ケチをつけたわけです。「お前みたいな、時代小説だけ書いているど素人が何言うのだ」ということでしょう。それに対して、周五郎は「何を言っているのだ、俺の小説がお前には、読めていないんだろう。マルクスを知っている俺だからこそ、『青べか物語』なんて書けるんだぞ」ということをいいたいのです。
私は鎌倉孝夫なんて、もうそれこそ憎むべき敵でしかないと思っていましたから、この周五郎へのケチつけには、非常に頭に来ました。しかし、しかし、周吾郎だって判っているのかなといいたいところがあるわけです。
山本周五郎の数々の小説の中でいくつものシーンなどに、私はヘーゲルやマルクスへの反論を見ています。「青べか物語」こそ、ヘーゲル・マルクスそしてマックス・ウェーバーの言う「アジア的」に対するアンチテーゼなのでしょう。
西洋人のいう「アジア」とは、いわばギリシア時代のトロイアであり、せいぜいイランペルシアでしょう。ヘーゲル・マルクスに至って、インドまでがアジアとしてとらえられました。高原であったり、砂漠であったり、熱帯であったりするところです。ウェーバーに至ってはじめて中国が論じられます。
現在の資本主義時代、その前の封建時代、その前の古代(古典古代さ)、そしてその前のアジア的生産様式の時代とは、一体どの時代、どの地域をいうのだ。ギリシア=ローマのいわば古典古代の時代、そのギリシアの昔、ドーリア人がペロポネソス半島を支配する(神話ではヘラクレスの子孫が半島を制服する)前の時代、すなわちアカイア人たちのギリシアやミケーネ文明はアジア的生産様式の世界だったと言われる。では、そもそもアジアの世界ではどうなのだろうか。中国では、どうなのだろうか。明らかに、宋時代は封建時代だろう。ではその前の唐は、隋は古代なのかな。ではようするに、「アジア的」に当てはまるのは、南北朝なの、漢なの、秦なの、周なの、殷なの、夏なの、一体何なの。
これに対する答えが、周五郎の「青べか物語」なのですね。周五郎が描いている、浦安がその「アジア的」を色濃く残しているところなのです。すなわち「水の上に棲んでいる」というところでしょうか。家の下を流れている水から捕れる魚を食べて生計を立てているというところでしょうか。中国でいえば、殷とか周の時代になるのかな。これは、ヘーゲル・マルクスの「アジア」への鋭い指摘だと私は思います。「高原じゃないよ、水だよ、魚だよ」。ここは周吾郎のいいところです。
ところで、でも周五郎の書いた「青べか物語」というのは、どうも嘘っぱちなんですね。周五郎は浦安に下宿していて、そのときの思い出を書いたことと言われています。後年、この浦安にまた周五郎が訪れて、「青べか物語」で少年であった長という少年に会うシーンが書かれているエッセイがあります。実に読んでいて、いい話であり、いいシーンです。でも「あれも、これも嘘なんだなあ」。
この「アジア的」ということを明確に展開しているのは、吉本(吉本隆明)さんです。その「アジア的について」という論考の中(まだまだ完結していない)で、私はいろいろなことが判ってきました。
大事なのは、時代や時間で区切られることなのではなく、いわば浦安の隣には資本主義最盛期の東京(戦前の話ですが)があるわけです。すなわち、資本主義の日本の中にも、どこにも「アジア的」なものは存在しているのです。革命後のロシアの中にも、この日本の現在にも、私自身の中にも。
そして吉本さんが出してきた「アフリカ的」という概念がまた大事です。時間的には、アジア的の前段階に設定される概念ですが、これまた現在もたくさんのところに残存しているわけです。
やはり周五郎は、教条的にしかマルクスを理解していませんでした。それは仕方なかったとも言えるのですが、そうした彼の姿勢がほかの小説にも見かけられる気がします。だから、私は彼の小説に魅力を感じないのです。晩年最後の「おごそかな乾き」(宗教のことを書いていて、未完である)なんか、とても惨めだなあと思っています。
おそらく、周五郎の小説を読む人というのは、これから極端に少なくなっていくだろうなと思います(逆に藤沢周平なんか、読者が増えていくよ)。
そんなことを思い出し、思いました。(1997.06.08)

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 1903年(明治36)6月22日〜1967年(昭和42年)2月14日の生涯でした。こうして、生年と亡くなりました年を書きますと、いくつものことが思い出されるものです。1967年2月14日というと、私は高校3年でちょうど受験の真っ最中のことだのでしたね
 これは兄の本ではなく、父の本でしたね。私が中3のときに読んだものでした。伊達騒動のときに悪役とされた原田甲斐を主人公にしています。私は40代には山本周五郎をかなり読みました。だが私は『さぶ』を読んだときに、主人公の栄二(武松)を寄場に送ることになる妻のおのぶがどうにも許せませんでした。栄二ことが大好きだったおすえならいいのですが(私は大好きです)、このおのぶは嫌です。でもそうなると、主人公の武松も嫌いになり、そもそもの作者も嫌になりました。そうですね。さぶだけは、この物語の名前になっているのに、少しも何も判っていない役割で、これも嫌になります。作者には、「人生とはこうあるべきだ、人とはこう生きるべきだ」と執拗に言われている思いがして、それ以降はこの作者の作品は読んでいません。
 いや、この 『樅ノの木は残った』なのですが、これは16世紀の後半の伊達家、仙台藩に起きた伊達騒動のときのことを題材にしています。そして、この小説の主人公原田甲斐は歴史上ではこの騒動のときの悪人、逆臣とされています。ところがこの山本周五郎の書いたものでは、この原田甲斐が実は伊達藩の危機を救くった忠臣であったということになっています。
 私は昔から武士という存在が嫌いでした。とくに武士が一番なにか一番いい存在のように思わせていた江戸時代が嫌いでした。だからこの小説もそれほど感心して読んだ思いはなかったものでした。

965e15b2.jpg もう2日前になってしまったわけですが、2009年10月8日の日経新聞夕刊の12面に「高橋敏夫『歴史・時代小説の巨匠たち』」という文があり、内容が「藤沢周平と山本周五郎」で、「『市井もの』逆境の生鮮やかに」があります。この二人とも私はかなり読んできました作家ですから、何かを書き記したいと思ったものです。
 まず二人の写真を見て、私はブツブツ言っていました。私は藤沢周平さんは、この顔もよく知っていましたが、山本周五郎は初めてです。

 私は今年の4月の終わりから5月始めにかけて、妻が柏の癌センターに入院しました。そのときに、病院の売店の書籍を見たのですが、藤沢周平はどの文庫本もたくさんありました。もちろん、私も購入しまして、妻の枕元に置くのですが、でもでも読んでいるのは私でした。だが山本周五郎はその売店にはただの一冊も置いていないのですね。
 私は理解できました。藤沢周平なら、入院中でも実に爽やかな気持で読んでいけます。でも山本周五郎だと、結局は、周五郎にお説教されているような気持になってしまうのではないでしょうか。

 私はここに記してある本は、ほとんどを読んでいます。山本周五郎では、『樅の木は残った』を読んだのは、中三のときでした。もちろん、あとでも20代にもう一度読んでいます。私はときどき、「原田甲斐は本当にどんな人だったのだろう?」なんて思います。もちろん、私は周五郎が描くような人物だったと思っています。
 その他の作品もよかった。でもでも、私はいつも周五郎に言われているような気持になります。「人間というのは、本当はこんなに素晴らしい存在なのだ!」。私は「それは、本当かよ、ホントかよ?」という気持なのですね。
『さぶ』で、私はこの中の栄二(「武松(ぶしゅう)」と呼ばれている)に惚れる「おのぶ」が私は大好きです。でも栄二の妻になる「おすえ」が私は今も許せません。この女が栄二を寄場に送る原因を作るのです。簡単に許してしまいます栄二が私には理解できません。この物語から、もう私は周五郎を読んでいません。ただ、栄二をいつも見つめているさぶの視線は大好きです。

 藤沢周平は、今私は全集を読んでいるところです。かなり読んだ本もありますが、中でも私が読み忘れている作品を残らず読んでいきます。
 そうですね、藤沢周平では、二つの点が不満です。一つは彼が強力な日本共産党支持者だったことです。私はこれはどうにも嫌なことです。でもそのことはいつも忘れるようにしています。
 もう一つは、彼がいつも江戸時代の武士たちを力強く美しく描くところです。もちろん、多くのどうしようもない武士が多いわけですが、主人公の武士たちは、みな貧しいけれども、剣に強く、そして極めて真面目です。でもでも、私はそういう武士が大嫌いです。真面目に働いていた私の祖先の百姓農民のほうがずっと好きです。でもまあ、そんなことを言っても仕方ないのでしょうね。
 とにかく、私は藤沢周平を全作品読んでまいります。

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 私は 『「新版 雑兵たちの戦場」を読みました』 に次のように書きました。

そんな私の一族が私は好きです。武士なんて、私は少しも好きではありません。格好悪くていやですよ。

 本当に私は武士なんて大嫌いです。
 でも私は、藤沢周平は好きです。私は実によく読んだ時代小説の作家として、山本周五郎は少しも好きになれません。なんだか、周五郎の考える人生哲学を言われている感じがして嫌なのです。司馬遼太郎も実に読んできましたが、これもまた彼の歴史感をずっとこちらに言われ続けている感じがして、これもまた私は「私はまったくそう思わないよ」と言いたい気持ばかりです。
 でもこの藤沢周平は、私は大ファンと言っていいほど、大好きな作家です。でもでも、やはり私は、それでも藤沢周平の描く小説の中の武士が好きになれません。いやもちろん、主人公は武士であっても、どうしても好きになれることが多いのですが、でもその主人公が武士ですと、「こんなのは、本当は違うよなあ」なんていう気持がわき上がってしまします。
 藤沢周平の描く東北の今の山形県の日本海側の海坂藩(これは架空の藩、本当は酒田藩でしょう)の武士で、周平の描く主人公はひたすら剣が強いのです。真面目で朴訥で、そして人生渡りがどうしても上手いとはいえません。でも何故か剣だけは強いのです。
 いつも、「どうして藤沢周平は、こうして武士を理想化しちゃうのかなあ」とばかり思っていまいます。

 私は江戸時代に、例えば元禄時代の頃も、例えば1万人のおかげ参りの農民の前で、ひたすら頭を下げてばかりいた(ただただ早くこの大量の農民が通りすぎてほしいばかりでした)大坂の幕府の武士たちを思い浮かべます。藤沢周平の描く海坂藩の武士たちだけが違った姿をしていたなどとは少しも想像ができないのです。

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