将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:島成郎

12052606 またこの「周のポメラ」も今頃UPすることになってしまいました。

2012/05/26 07:48今はまたテレビの前です。
 今NHKで茅ヶ崎市の何かをやっているのですが、私は今名前のでた森田芳光監督が好きでしたね。彼の映画「どついたるねん」の最初の試写会を思い出します。このときには島成郎さんも来て実にいい映画会でした。その後、私の案内で、私の知っている六本木の飲み屋へ行ったものです。
 懐かしい思い出です。
2012/05/26 08:07「梅ちゃん先生」を見ています。
2012/05/26 12:06この「周のポメラ」の「2012年5月26日のポメラ」で吉本(吉本隆明)さんの言葉を紹介しましたが(吉本隆明鈔集458)、勝海舟の漢詩や短歌も見てみましたが、それをいくつか紹介しようとしていますが、またあとでやってみます。

 勝海舟の漢詩も見たのですが、困りました。確かに吉本さんの言われるとおり、この『「思ひやつれし君」ひとつをのこしている』なのかもしれないですね。

 あ、間違えました。「どついたるねん」は坂本順治監督でした。森田芳光監督は何を見たかと、今思い出しているときです。

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12031703  私のハルノ宵子『緑の呪文』にたつきさんという方から、次のコメントがありました。

はじめまして。
吉本隆明が亡くなってついハルノ宵子さん関係の検索をしていたらこちらに辿りつきました。
それにしても吉本隆明の娘さんでも、ばななの方ではなくハルノ宵子さんを存知とは驚きです。
あの方はマンガ同人界の方では高名でしたが、寡作なせいもあってかあまり知られていないのですよね。
でも、読んでいる人はきちんと読んでいるんだ、とわかって安心いたしました。
私もあの人の独特の世界観と、不思議な絵とに一目ぼれをしたものです。
2000年代に入ってはほぼ仕事をしていないようですが、早くまたハルノ宵子さんの感覚に触れてみたいものです。
ところで、母の影響で私も短歌をやっているのですが、吉本隆明に短歌に触れている本があったのですね。
先日、母が友人に「短歌と和歌の違いはなにか」と聞かれていました。母は「子規以前と以後だ」とかごまかしていましたが、本当はどうなのでしょう。
さっそく、ハルノ宵子さんのお父さんの本を読んでみたいと思います。
それでは、突然にしつれいしました。

 ありがとうございます。
 ハルノ宵子さんは、作品のことではなく、少し私がお会いしたときのことを記します。
 60年安保全学連島成郎(しましげお、全学連書記長、なおこのときはブンドが主導)さんが亡くなられたときに、私は言われるまま、会場の警備係をやっていました(私は何故か島成郎さんも、その奥様もどうしてか親しかったのです)。そのときに、吉本さんがおいでになったのです。割と小さな車に乗られて、私はその車に乗っていたハルノ宵子さんに、すぐに「ハルノ宵子さんですね」と御挨拶しました(車を運転されていたのが、宵子さんの彼氏かなあ、なんて思っていたものです)。吉本さんは、すぐに帰られました。思えば、あんな時があったのでしたね。そののちにも島さんの奥さまからはいつも丁寧に挨拶されています(いや吉本さんの奥さま和子さんにもいくつもの思いがあります。ただただ「ありがとう」なのです)。
 ハルノ宵子さんの漫画は、出版されている限りはすべて読みました(もちろんばななさんの作品も同じです)。今後も読むつもりでいますが、今後はどうなるのかなあ。

「短歌と和歌の違いはなにか」ということですが、私には苦手な思いしかないので、「分からない」というのが正直なところです。ただ、お母様の言われている「子規以前と以後だ」というのが、けっこういい言葉ではないかと思うのですね。和歌とは、その中に長歌、短歌、旋頭歌、あと一つあったようですが、そういうふうにあって、近代でも私の好きな長塚節は長歌をけっこう書かれています。長塚節は、「土」を書かれていまして、それが夏目漱石に誉められていまして、でも「これは漱石がいけないよな。やたら誉めちゃうからな」なんて思うのですね。漱石に誉められた幾人もが私にはとても可哀想になります。
 それが私には正岡子規にも感じられるのですね。正岡子規がいいました万葉調、古今調のことなんか、私は実に腹がたつのですね。
 でも、このことで、私は先ほど書いていた私の「吉本隆明鈔集」の二日先(私はいつも二日先まで自分のパソコンには書いています)で、偶然このことが書かれていました。
それをここに載せます。私が苦労して考え載せるよりもいいでしょう。

吉本隆明鈔集405「現在の俳句と短歌の違い」

 現在の俳句と短歌の違いをいえば、やはり俳句のほうが様式として新しく、ひとりでにモダンな要素を醸し出す表現であるといえるのではないか。同じ作家が短歌も俳句もつくるとすると、短歌のほうがどうしても古いと感じられる。
 今、俳句を詠む人が短歌に比べて多いのは、より短いために入りやすいということもあるが、俳句のほうがモダンな感覚を盛り込みやすく、現在の感性でも容易に入っていけるのだと思う。
(「現代日本の詩歌」『俳句という表現』2003.4.30 毎日新聞社)

 今テレビで見ていましても、五七五という俳句あるいは川柳の形式のほうがいくらでも書かれています。「季語」を入れなければ、「俳句」とはいえないのでしょうが、私はこうして、考えに考えていたところ(私はパソコンにではなく、常時持ち歩いている「ポメラ」で上の文を書いていました。いえ私はポメラだけでなく、IS01もガラパゴスも常時に腰のベルトのデューロカーゴに入れているのです。孫がいつもそれで遊びます)でしたが、でもこの吉本さんのがいいんだと、今気がついたものでした。

12012801 以下に告知してあります。

   2000.11.11島成郎君とお別れの会

 この会なのですが、葬儀のお手伝いをしてくれる方が足りません。ぜひとも当日お手伝い願いませんか。できる方は私あてメールください。お願いします。(11月09日 07時34分)

 さきほどブントの島さんが亡くなったということを電話で聞きました。

  島 成郎さん69歳(しま・しげお=元共産主義者同盟書記長、
  ノーブルメディカルセンター名誉院長)17日午前7時半、胃が
  んのため沖縄県名護市の病院で死去。葬儀・告別式の日取りは未
  定。自宅は同県本部(もとぶ)町瀬底(せそこ)206の1。喪
  主は妻博子(ひろこ)さん。
  1958年12月、共産党の路線を批判して除名された学生党
  員らと共産主義者同盟(ブント)を結成、初代書記長に就任。ブ
  ントが全学連主流派を形成してからは国会突入など60年安保闘
  争でたびたび激しい戦術を指導した。その後、医学部に復帰し精
  神科医になった。その後、沖縄での地域医療活動など地道な実践
  派を貫いた。著書に「ブント私史」「精神医療・沖縄15年」な
  どがある。  [毎日新聞10月17日] ( 2000-10-17-13:34 )

 なんだか寂しいです。悲しいです。
12012202 私が最初に島さんにお会いして飲みましたのは、荒戸源次郎さんの映画「どついたるねん」(監督は阪本順治さん、荒戸さんはプロデューサー)の試写会の時でした。荒戸さんと私は顔見知りなものですから(思えば、荒戸さんとも最初の出会いは飲み屋での喧嘩だったな)、その縁で行きまして、そのあとみんなで飲むというときに、かなりな人数なものですから、場所が六本木だったので私の知っているゲイバー(私の大学時代の友人がオカマになってママになっています)にぞろぞろと行きました。そのときに初めてお話しました。実に優しい穏やかな方で、私のことをけっこう心配してくれたもの(私は大酒飲むんでね、それと店の勘定を私は気にしていますと、それもまたいろいろと言ってくれました)です。たしか、これは1989年の秋だったと思います。
 その後何年後かに、また年末に唐牛真喜子さんを囲む会でお会いしました。最初に「もう彼には飲ませないで」なんて言われたものでした。
 思えば、革命を目指す党としてこの日本にブントがあったというのは、実にいいことだったなと思います。そしてブントとは、やっぱり島さんですね。つい先日、「吉本隆明さんに関することいろいろ」にて、吉本さんの

  日本資本主義に逆らう“独立左翼”

という文を紹介しましたが(文を書いたのは三上治さん)、あの内容を思い出します。あの時代に、激しく闘いましたのが、まさしく反米だとか、反帝反スタなんて称えるくだらない党派でなくて良かったとつくづく思います。おそらく、宮顕や黒寛では、闘争にくわわるはずもない多くの人たちが、まさしく島さんだったから参加したということがあったかと思います。
 もうお会いできないのですね。合掌します。さようなら、島さん。唐牛さんと一緒にあの世で飲んでください。(10月17日 16時53分)

11061412 この人とは何度お会いしたかな、と思い出していました。「しましげお」と読みます。1931〜2000年10月17日の生涯でしたから、亡くなったときは69歳だったのですね。
 荒戸源次郎さんの事務所の最初の映画である『どついたるねん』(阪本順二監督)の最初の試写会のときに、そのあとの打ち上げで、当日は六本木だったのですが、私がみなで、六本木のあるゲイバーに行きまして、打ち上げとしたものでした。そのときに、島さんは、私を指差して、「彼には酒を飲まさないで……」と言っていました。何かその以前に私が彼に絡んだことがあるのかなあ(あるのかもしれないけれど)。
 この島さんは、実にいい方であり、いい男でした。はっきりいいまして60年安保全学連の方はいい人が多いのですが、でも私はそんなに気が合いません。思えば、その多くが共産主義者同盟(ブント)の方がただからかなあ。私はどうにも共産主義というのが嫌いなのです。だから、まだ「共産主義」というよりも、「ブント」というほうが、気持ちが楽です。でもこの島さんは、そんな私の嫌いな共産主義の雰囲気も少しも感じない方でした。
 この島さんはまったく私には、大好きな方でした。その彼の葬儀のときに、吉本(吉本隆明)さんが長女のハルノ宵子さんと来られまして、そのときの吉本さんの姿にも私は感激していたものでした。吉本さんがこの島さんに関して言われることが私は大好きです。
 その後も、なにか関連の会があるときにも、島さんの奥様博子さんも私に挨拶してくれまして、私は私ごときにわざわざという思いで、いつも島成郎さんを思い浮かべております。
 思えば、私などはいわばどうでもいい生涯を送ってきたわけですが、この人とお会いできたことは良かったことだと思っています。
 もう無理なことなわけですが、もしいつかあの世でもそばに行くことができたのなら、もう私は飲まないでおとなしく彼のそばにいたいと思います。(2011.06.15)

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 テレビで「どついたるねん」を見ました。映像の中の原田芳雄さんも麿赤児さんも懐かしいです。

2010/06/10 06:00さて、もう30分前から起きています。
 今パソコンが再起動になりました。パソコンはほぼ常時機動してありますので、すぐに書き込みもできるし、インターネット検索もできます。
2010/06/10 11:18今「どついたるねん」を見ています。この映画の最初の試写会は六本木でした。あれは89年だったんだ。そのあと私の知っている防衛庁そばのゲイバーへみんなで行ったものでした。あのときは、島成郎さんもいたのでした。彼は最初に私を指さして「彼には飲まさないで」と言ったものでした。
 でも原田芳雄さんも何故か格好いいですね。彼の自宅へ行ったこともあります。奥様がとても綺麗な方でした。
 映画の思い出も懐かしいし、あの飲んだ思い出も懐かしいです。
 この映画は、荒戸源次郎さんとの関係で行ったものでしたね。監督は阪本順治さんでした。荒戸さんともあの頃からの付き合いなんだなあ。

 荒戸さんのこのあとの最初の監督としての映画も見たものでしたね。あれは国技館でした。

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新聞名 図書新聞第2907号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年2月28日
読了日 2009年2月21日

評者◆知念襄二(聞き手・小嵐九八郎) 知念襄二氏(元沖闘委委員長)に聞く 60年代・70年代を検証する 全共闘の時代、沖縄は燃えていた

 この1面の見出しを読みまして、嫌になりました。「全共闘の時代」なんていう言い方が私は好きになれないからです。「そんな時代があったのかよ?」という思いがすぐにするのですね。
 でも読んでいるうちに、この知念さんが沖縄で、島成郎さんと沖縄で触れ合っていたことを知りました。私は今でも島さんのことはずっと尊敬している方です。ただし、彼は一貫として、私のことは、酔っぱらいの変な奴だという印象だったようです。

小嵐 元六〇年ブント書記長の島成郎さんとは、沖縄で一緒に精神科のお仕事をなさったんですね。
知念 島さんのことは、ものの本でそういう人がいるらしいということは知ってましたよね。島さんが本土の学会で発言されたり、東大赤レンガ運動の中で話されたりしたことは、聞いてはいましたが、東大にいた頃は直接のおつき合いはなかったんです。沖縄に来てからですね。沖縄に来てから最初の二年間は沖縄県立精和病院に行き、それから八三年五月から、島先生のいる宜野湾の玉木病院で勤務しました。五年半いて、その間、島先生は東京の陽和病院に移られたので、四年間は一緒だったです。
 島先生は、七〇年代の初めから、保健所の嘱託医として久米島の巡回医療(年に三回)をされていたんですが、玉木病院の開設(七二年秋)に加わられ、保健所での勉強会を続けておられました。久米島の診療で多くの私宅監置されている人たちを開放しています。もう一つは、今で言う精神保健にかかわるいろんな人たちを集めて、「沖縄精神医療」という季刊雑誌(七七年発刊)を出していました。定期的な勉強会をやっていて、そこで報告されたものをもとにして雑誌をだしたんです。勉強会の中では、自分たちのこんなちっぽけな経験を雑誌にして出していいもんかと迷う人たちを、実に的確に励まして書かせて、また実践していくんです。あの力はすごい力ですよね。もちろんご自身も精神医療の手本となる仕事をなされるわけです。こんな地味な、控えめな仕事を本にして世間に公にしてなんか言われるだろうと尻込みする人たちを、しっかりと導いていましたね。そういうのを見て、驚きましたよね。
小嵐 僕なんかにとっては、六〇年安保の島さんなんて神様みたいな存在であり続けましたよ。
知念 でも、沖縄の精神保健の関係者は、島さんの若い頃のことなど知らないですよ。もちろん知っている人は知っていますがね。保健所でやっている勉強会が終わると、毎回飲み会です。ジャズピアニストの屋良文雄さんがやっている寓話という店があって、大体そこに行くんです。勉強会には来ないけど飲み会には来るという人もいて、本土から来た人からは昔の運動の話などが出て、島さんもそれに答えていくということがあり、それでみんなも知っていくということでしたね。あの何とも言えない笑い声が印象に残っていますね。島節が聞きたい、島の笑い声が聞きたいということで、みんな集まってきたという感じですね。
小嵐 僕も『蜂起には至らず』の最後で島さんのことを書きました。島さんを知る人はみな悪く言う人はいないですね。「あいつはこんな小さな勇気をこれぐらいに(手を広げて)大きくしてくれる」と言うんですね。みんなこもごもそう言うんですよね。

 でも島さんのことは、この小嵐さんが言われるとおりです。そして私はただただ懐かしく思い出される方です。
 この島さんのこと以外は、どうにもたいして思うところはなかったものでした。

 それと同じく、小嵐九八郎さんの、「短歌界の巨人が出した評論はすごい――岡井隆著『歌集「ともしび」とその背景』『鴎外・茂吉・杢太郎』を読む」が興味が持てました。

岡井隆氏の評論『歌集「ともしび」とその背景』(07年10月刊、本体2381円・短歌新聞社)。サブタイトルが「後期斎藤茂吉の出発」とあるように、茂吉が墺独の留学から帰ってきての人間としての歩み、その思想、歌、周囲の人物、時代と、分析している。

 あ、これで、私もこの岡井隆さんの本を読んでみようと思っています。この小嵐さんの文では次が面白かったです。

狒膿有爐凌佑魎泙畫庵屬をすると、譬喩と一人称廃絶で短歌の革命をなした亡き塚本邦雄をトロツキーとすれば、スターリンみたいな短歌界の巨人である――という話を御本人の前で二十年前に直に話したら「どちらがスターリンかね」と聞き返されたことがある。スターリンほど評判の悪い革命家もいないが、決して甘くはない。革命以前は資金稼ぎで銀行強盗を敢然とやったこともあるし、ある意味では全てのコミュニズムの猊然爐鉢猝ね茘爐鯊慮修靴真擁である。因みに、短歌界のレーニンは斎藤茂吉となる。

 この岡井さんの「どちらがスターリンかね」という問いは面白いですね。岡井さんがあのお顔で真剣に聞かれている様を思いました。斎藤茂吉がレーニンで、塚本邦雄がトロツキーで、岡井隆さんがスターリンね。なるほどな。いや、私はもちろんスターリンが大嫌いですが、岡井隆さんは、好きですし、今では尊敬しています。

 あと大変に印象に残った言葉です。

評者◆秋竜山 あなた、成功してますか?、の巻

での、新田義治『成功本はムチャを言う!?』(青春出版社、本体七〇〇円)に次の言葉です。

〈この世では成功しなければならないのだと言われる。だが私はこう思う、まず生きなければならないのだと。これこそ世の最大の成功なのである。――ジャン・シオノ「真の富」〉

 それから最終ページの

 評者◆谷岡雅樹 職業噺家。住所高座――康宇政監督『小三治』

の次の部分です。

先日「職業“詐欺”」というNHKスペシャルが放送された。振り込め詐欺という犯罪を悪びれずに職業と語る若者たち。世の中が資本家と労働者しか存在せず、どうやって金を分捕るかの考え方なら、株で儲けようが仕組みや詐欺でいただこうが捕まらなければ「お仕事」に替わりはないのだろう。企業は個人の多様な能力を発揮させるといいながら、エネルギーを奪い取る場にしかならず、

 振り込め詐欺とかいうものをとても怒っている私には、違う視点からも少し見えたものです。

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 粉川哲夫さんからのコメント にさらに以下のコメントをいただきました。ありがとうございます。

1. Posted by 粉川哲夫    2007年01月24日 05:53
「粉川さんの言われていることが、なにかこの時代を「鉛の時代」(この鉛とは、銃に込める鉛の弾にも思えます)として、讃えているように思えた」というご説明で、了解できました。
92年に本でお読みになったということは、『シネマ・ポリティカ』ですね。映画「鉛の時代」の問題の文章は、1983年に『月刊イメージフォーラム』に、まさに西ドイツの新左翼運動を「軍事闘争派」から腑分けするために書かれたものです。あなたが逆に読まれてしまったのは、残念です。なお、原タイトルは、Die bleinere Zeitで、「鉛のように重苦しい時代」といった意味です。
また、拙著は上記を含めて、すべて版権放棄でネットにアップしてあります(誤植があるのはお許しください)のでチェックできます。→http://cinema.translocal.jp/books/

 粉川哲夫の本 は前にも見ていました。今後も読まさせていただきます。

「鉛のように重苦しい時代」とは、たしかにあの時代は嫌な思いが浮かんできます。
 私の大学時代の学生運動は、いわば実に面白い雰囲気があったかと思います。このことは、当時の同じ大学の教職員の方からも随分言われています。同じ年代の他の大学の活動家の方々とも、会うと、けっこう同じようなことを言われます。そして私は60年安保世代の方ともずっとつき合いがあります。唐牛健太郎さん、島成郎さんを始めとして(いやもうこのお二人も亡くなられましたね。その他の方も大勢亡くなられました)、たくさんの方とつき合ってきました。

 ただ、私たちのかなり年下の方から、私たちのことを不思儀なほど誤解されていることを感じています。私たちのことを左翼マルクス主義者だと断じて、それで私たちへの非難を繰り返されると、もう馬鹿馬鹿しくてなりません。それはたしかにマルクス主義者もいたけれど、みんな一色ではなかったよ。

 とにかく、粉川さんにこうして書いていただいて、ありがたいです。もっと私もいくつものことを学んでいきます。

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 私の 東京南部小包集中局旅人moo00の冒険人生 さんから次のコメントがありました。

1. Posted by moo00    2006年08月07日 01:45
 周さん、色々なお話、ありがとうございます。

 なんとなく私の入局当時を思い出していました。 土地バブル期です。
 当時は主に、社会党系の全逓と、民社党系の全郵政の二つの労組がありました。
 どちらも御用組合で、既に腐っていたと思います。
 新入職員にはオルグが待っていました。
 採用通知を届けた職員が組合に情報を漏らし、家を訪問するなど、個人情報の取り扱いなど実にひどいものでした。
 入局してもオルグは続き、帰りには待ち伏せされたり尾行されたり、最後には「入らないと仕事を教えない」ということまで執行委員が堂々と言ってた有り様です。
 組合ベッタリの人間ほどひどいイジメをしていました。
 20歳前後の新入職員にです。
 私の左翼不信、組織不信はこの辺りから始まっているようです。
 役人時代はあまりいい思い出はないですね。

 お酒はぜひいつか飲みましょう。色々とお話をうかがいたいですよ。

 ええとね、私が思うのですが、全逓等々は私たちには、既成労組でしかないから、別に私はもともとそんなところを全然信用していませんよ。そもそも私は公民権停止が長く続きましたから、選挙権すらないし、就職も、そうしたところへは全然関係(公務員には全然なれない)なかったよ。就職といってもね、まったく普通の会社とは関係なかったですよ。でも私はそうした事態にも、別に就職差別だ云々なんて気持は少しもなかったです。
 まあね、あちこち就職するときに、ほんのときどき、「あなたはこれだけの経歴があるのだから、無理だよ」と教えてくれる会社がありましたが、私は「あ、そうか」なんて気がついて、でも次の瞬間には忘れていました。
 それから、「採用通知を届けた職員が組合に情報を漏らし、家を訪問するなど、個人情報の取り扱いなど実にひどいものでした」やその他書かれていることは、まさしく既成の労組や規制の党派であって、いわゆる本来の左翼とは無縁のものだと思いますよ。

 私の知っております、先輩の唐牛健太郎と島成郎も、私たちの時代の大口昭彦も、そういうものとはまったく無縁の人たちです。無縁というよりも、そういう傾向と闘ってきた人たちだと思いますよ。

 まあ、私もある会社で労働運動はやったことがあります。実はその思い出をすべて書いておこうという気持はあるのですが、まだできていません。一部その最初のアジビラだけ、書いてあります。

   私の労働運動における最初のアジビラ

 この労働運動は、実に面白かったですよ。組合もなにもない会社でしたが、私のこのアジビラを出したときから、みるみるうちに闘いを組織し、組合を結成して、すぐさま時限スト、無期限ストを貫徹し、そのときの要求をすべて会社にのませました。なにしろ、私はこのスト決議のときにいつも私が一票で負けていました。いつも私は過激なスト提案だったのね(しかもいつも孤立していた)。
 そしてね、私たちが一番熱心に仕事をやる人間たちだったから、ストというと、本当に仕事がストップしちゃうのよ。でも一番の過激派である私の本心は、私たち労組がストをやっても、会社側は見事に仕事が貫徹してくれることでした。だからなんとか、仕事もやれるようにと気をくばりましたが、でももう一人の私は過激な奴で、絶対にぶっ壊しにくるから、私は、そのスト貫徹過激派の私と、仕事を貫徹したい強力な私の間で、とても困ったものですよ。

 だから、実に面白いことがあったものです。私たち組合は、2度のストに勝利したあと、何故か突如みんなで、伊豆の温泉に行ったのです。もう会社側も、組合の頭の堅い連中もわけがわからなかったでようね。
 でもあの温泉でも面白かったな。会社側の意向で、さぐりに来ていた奴ももうわけが判らなかったでしょうね。全然団結するどころか、ただただ酒を飲んで孤立しているのが、私と私がつれていきました仲間だったのですから(仲間というのは、私の埼大出身の活動家仲間)。

 でも moo00さん、ぜひ飲もうね。あのね、私たちの仲間は、いわゆる他の左翼の連中とは違うよ。違うというか、もっと馬鹿だしね。私なんかすぐ詩吟を詠いますから、ちょっとどころか、まったくわけが判らないという感じでしょうね。

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