将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:島津久光

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「あさが来た2015.11.02」で私は大久保利通(一蔵」の像を一部載せました。利通は雅号を甲東(こうとう)といいまして、これは私が鹿児島市で私が通った中学名なのです。この中学は学区内にこの大久保利通や西郷隆盛が育った加治屋町(利通が生まれたのは高麗町)があったのです。
 この利通は隆盛とは親友と言っていい関係でした。父利世(としょ)が「お由羅騒動」で喜界島に流されて家族は困窮を極めました(このとき利通も失職)。
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 島津斉彬(なりあきら)が藩主となると、復職し、隆盛とともに精勤しました。だが安政5年に斉彬に亡くなると次の久光(新藩主は島津茂久でしたがその父親が久光)では隆盛は退けられ(隆盛は久光をジゴロと呼んだという。「田舎もの」と言ったのです。それで島流しになります)、そのあとはこの利通が囲碁を通じて久光に手紙を渡して(このとき一蔵から利通になります)、久光と親しくなったのです。
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 その後明治維新を成功させ、やがては西郷とは別れることになります。これは利通が西郷を暗殺しようとした(この計画はなかったと子孫は主張しています。ただし、それを東京でしているのです。まだ利通の子孫は鹿児島には行けないのです)とされています。
 紀尾井坂にて暗殺されてしまうのですが、私もそばに行けばどうしても好きになれない人かなあ、なんて感じてしまうのです。
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11050210 西郷隆盛は1828年(文政10)1月23日〜1877(明治10)9月24日の生涯でした。西郷は24歳のときに、伊集院須賀と結婚しますが、江戸へ出府していた西郷は離縁します。ただ、西郷は終生このことを後悔していたと言われます。
 のちに島津斉彬が亡くなったあと、奄美大島に潜居することになりますが、このときに妻にしたのが、愛加那(あいがな)でした。だが、島人は本土には連れていけないことになっており、西郷が帰るときには、愛加那は西郷との間にできた子どもたちと島に残るしかありませんでした。
 だが西郷が再び京都でも活動する中、主君である島津久光の不興を買い、沖永良部に流されるときに、徳之島で愛加那が大島から子ども2人を連れて来ました。
 こののちは愛加那とは会っていません。ただ2人の子どもは西郷の子どもとして庶子として扱われました。
 島の娘愛加那と愛しあった西郷さんを限りなく私は好きになれます。(2011.05.03)

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 このポメラはいいのですが、辞書がお粗末ですね。嫌になります。

2010/04/17 07:41寒いです。いえ、家の中にいるから感じないわけですが、でも寒いことを感じています。
 このポメラの問題は辞書ですね。辞書をパソコンと同期にできないものかなあ。もうパソコンのように簡単に書けないので、ものすごくそのことがイライラします。島津久光はすぐでるが、斉彬はでません。違う字で書きながら、それをあとでパソコンで直します。
 実は、このポメラで書いたものをパソコンで取り込んだ際にちゃんと見直しているつもりですが、でも今までひょっとしたら忘れている見逃しているところがあるかもしれません。

 どうしてもポメラではなく、パソコンにばかり頼ります。それと蜘蛛業に書くことも、パソコンに題名だけを書いていると、それで書いていけるような思いになれます。ポメラ単独には書く気持になれないのですね。

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747a035d.jpg いえ、ちょっと前に飲んでいたので、思うのですが、生麦事件薩英戦争も、日本の、その全世界のさまざまな思いの中で、これで終わるわけにはいかないのです。
 とにかく、まずはUPしましょう。

   あ、そうなんだけれどサ、この写真は、私の事務所のあるビルの1階にあった花です。私はこの花のことで、いっぱいお話しました。

    ここはいつも、綺麗な花が置いてありまして、嬉しいです。

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