将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:平仄

11021708 私は今まで何度か、私のここブログで漱石の漢詩を紹介してきました。私は漱石の小説はみな好きですが、漢詩も好きなのです。
 漱石は、広瀬武夫の漢詩を「平仄が合っていない」などとけなしていまして、私にはそのことがとても、悲しいのです。いえ、指摘はまったくその通りなのですが、日本人には仕方ないのですよ。
 漱石は実にちゃんとした漢詩を作っています。七言絶句も七言律詩もちゃんとしています。私はそういう漱石が「厳しいな」ということで、どうしても好きになれない(もちろん、小説他作品も漱石という人間もは好きですよ)ものでしたが、彼の漢詩をいくつも読んできまして、今では漱石の漢詩への考え方も理解でき大変に好きになってきました。
 私は修善寺温泉(ここは、漱石が43歳のときに菊屋旅館ですごしたところです)というと、源頼家とその母政子を思い(もちろん実際に行ってみても)、悲しい思いになり、そしていつも実朝の歌をいくつも思い出しているところです。
  そのうちに私の「周の家族・教育の話」で、2004年8月に家族で行きました伊豆修善寺温泉での写真等を披露できると思っています。
 そして、次回行けるときには、この漱石の漢詩もいくつも思い出していることになれると思っています。いやいくつか暗記暗誦すべきだなあ。
 今後もいくつも漱石の漢詩を読んで参ります。(2011.02.17)

4ed0cb10.JPG パソコンの雑誌を読んでいくと、どんどんと新しいものが加わっています。私なんかついていけるのかなあ。今年は、いや今年からは大変にパソコンもケータイの世界も変わりますね。私も普通に使っていかないとなりませんね。
 江戸時代の何人もの先人たちがいくつものことを残してくれていることを感じています。それを学んでいかないとなりませんね。私がいつも感心して手にしています『詩韻含英異動弁』ですが、あれがパソコンソフトになってくれないかなあ。平仄はやっと今の電子辞書でも見られるようになりました。あと少しなんだけどなあ。
 写真は昨日長女の家で撮りました。こうして可愛いおもちゃがいくつもあります。(05/18)

08062504「詩韻含英異動辯」に次のように書いていました。

 漢字は、四声があり、それが平声、上声、去声、入声です。平声は平たく話す語で、上声、去声、入声の3つが音に変化があります。この上、去、入の3つを合わせて仄音といい、これで平音と合わせて、平仄(ひょうそく)といいます。この平仄の2種類で漢詩はすべて法則に従って並べられます。

 でも「平上去入」の読みを書かないと何もならないな、と思いました。以下の通りです。

 平声(ひょうしょう、ひょうせい)
 上声(じょうしょう、じょうせい)
 去声(きょしょう、きょせい)
 入声(にっしょう、にっせい)

 もっとも漢詩の平仄のことなんか、誰も関心がないでしょうね。

 「詩韻含英異動辯」 へ

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「詩韻含英異動辯」にちゃんと書いていませんでした。というか、これを書いているときにおはぎからケータイがあり、迎えに行きまして(いくつも荷物があったのです)、可愛いポコ汰の顔を見ました。
 そして今度は夕飯の買い物に行きまして、また帰ってきて、また別な買い物に行きまして、ようやく部屋のパソコンの前に今いられます。

起承転結の最後の字に韻を踏むことが大きな鉄則

なんていうことではないです。七言絶句の場合だったら、起承転結の「転」以外の一番最後の漢字は同じ韻を使うということ、そしてその韻字が平音だったら、転句の一番最後の字は、仄音の字を使うこと、韻字に仄音を使ったら、転句の最後は平音の字を使うという規則です。
 それで、五言絶句の場合は少し違いますし、律詩の場合だとかなりこの押韻に関しては違います。

 「詩韻含英異動辯」の3 へ

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 ここの画像が、一つ前の画像の「詩韻含英異動辯」を開いたページです。漢字は、四声があり、それが平声、上声、去声、入声です。平声は平たく話す語で、上声、去声、入声の3つが音に変化があります。この上、去、入の3つを合わせて仄音といい、これで平音と合わせて、平仄(ひょうそく)といいます。この平仄の2種類で漢詩はすべて法則に従って並べられます。
 それは実に見事に並べられています。ただし、それは特に唐時代からで、その前の時代はまだ規則だっていません。
 この平仄の規則と、起承転結の最後の字に韻を踏むことが大きな鉄則です。日本の漢詩人もみなそれにならっています。ただ、良寛のような人は、この規則をわざと守っていません。また織田信長や豊臣秀吉のような人は、そういう規則が面倒ということで、漢詩を作っていません。
 ただ、中国人はこの平仄も韻を踏むことも、音(おん)で判るわけですが、日本人は、まったく判りません。だから、その日本人が漢詩を作るにのは、こういう字引が必要だったわけです。一つの漢字を使いたい、その字自体の平仄もいいとなると、この字引で、ではその前の語、熟語の場合も語句の場合も平仄は大丈夫かという語漢字を調べることができるのです。

 「詩韻含英異動辯」の2 へ

6bac3291.jpg 今朝私は7時40分に目が覚めました。でもその寸前まで私は長い夢を見ていました。
 私は夢の中で、かなり大勢の中国人の子どもたち(といっても高校生くらいですね)に、日本語の国語の授業をしていました。
 いくつもの単文を作ってもらい、それを文節ごとに文章を切ってもらって、その文節を並び換えたのでは文章にはならないことを話します。中国語だと、そうではないことを言っているのですが、私の中国語の知識というのは、漢文の知識でしかありません。しかも好きな漢詩では、平仄があるのですから、私の説明はおかしいのです。
 そしてその文章を書いてもらって、それを文節ごとに切ってもらうというのは、実際に紙の上に書いて、それをハサミできって、黒板の上の大きな紙に貼っていっていました。
 でも思えば、あとで思い返すと、内容はその理窟が全く理解できないように変なのですが、でも夢の中では、私は丁寧に説明しています。
 でもあの中国人の若者たちの笑顔が素敵だったことを思い出します。
 いつもこうして、どうしても訳の判らない夢ばかりを見ています。
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 この詩には題がありません。それで「困ったな」という思いで、承句を題名としました。
 それにしても、実に良寛らしい詩ですね。読んでいまして、実に嬉しい思いで頬が微笑みます。

  敦謂我詩詩 敦(たれ)(註1)か我が詩を詩と謂(い)う
  我詩非之詩 我が詩は之れ詩に非(あら)ず
  知我詩非詩 我が詩を詩に非(あら)ざるを知らば
  始可與言詩 始めて与(とも)に詩と言う可し

  (註1) 敦は本当は右が丸。この字がないのです。困りました。

  誰がわたしの詩を詩と言ってくれるだろうか
  わたしの詩は詩ではないのだ
  わたしの詩が詩でないことを知ってくれる人がいれば
  その人とはじめてわたしは詩を語ることができるのだ

 良寛の詩はいくつもありますが、みな平仄も韻も踏まえていません。だから、この承句にある「我詩非之詩」は、本当にその通りなのです。
 でもそのことを本当に知ってくれれば、その人となら、詩のことを語ってもいいだろうと言っているのです。
 私は昔から、この良寛さんが好きです。でも彼の詩を私が詠うのはとても難しい思いがしていました。私はやたらに、戦闘的に大声で吟うだけの男なのです。
 でももう孫のいる私です。今後もっと良寛の詩を読んでいこう。そして詠える自分になっていこうと思っています。

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