将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:府中刑務所

11121410  今NHKテレビで、学校が終わってから子どもを預かり午後9時までやる保育園を見ていました。私の妻も保母でした。私も保母養成の講座教育をやる講座を運営していました。

 「カーネーション」が始まりました。 やっぱり、いい物語です。私もどうしても涙になってしまいます。どうしても涙が出てしまうのです。

  今フジテレビで由紀さおりを見ています。彼女のこの歌は、1969年2月の終わりに私が府中刑務所に移管されたときに、はじめて聞いたのが、いしだあゆみ「ブルーライトヨコハマ」で、二番目の歌がこの「夜明けのスキヤット」でした。なつかしいな。

be76a293.jpg 電車がかなり遅れました。 今日はじゅにとブルータス、それにお義母さんにもうすぐ会えます。
 私は東京駅のエキュートで素敵なお菓子ロールケーキを買いました。お義母さんへのお土産です。ブルータスにはまたもって行きます。

  今バスに乗りました。もう何べんも見た光景です。 みんなに会えるのが嬉しいです。でもブルータスにはまた怒られるかな。いえ、もちろん私がいけないのです。

  今は食堂で食事しています。私はいつも同じものを食べています。サンドイッチと、カルシウムパーラーです。
 いえ私は過去外で食したもので一番美味しいと思っているのは、府中刑務所の食事なのです。あれはいつも満足し感激していたものでした。

2017051503 昨日は文教大学の父母と教職員の会の研修から比較的早く帰ってきたのですが、帰ってくるなり、先日相談にきましたある会社のことで、さまざま長い電話をすることになり、それこそ疲れ果ててしまいました。いや研修に行っている間にも、携帯でさまざまと話してはいたのですが、実に気の重い話です。

文教大学の研修会11082503は実に愉しい時間がもてました。まあたくさんの方々と知り合いになれて嬉しい限りです。きっとこのホームページも拝見してくれている方がいることでしょう。
それで、この研修会で私と一緒にお風呂に入られた方で、私の赤ふん姿を見られた方々は、ここの私のイラストをみて納得が入ったかな。もうあれが私のトレードマークになっているのです。
私の次女のブルータスが昨夜言っていました。

私は、パパはふんどしだってことを、小さいときからはずかし
  いことだから、誰にもけっして言わなかったけれど、このごろ、
  これはどうも「美味しい話じゃないか」と思い出して、ともだち
  に話だしたら、それが「受ける、受ける」。みんな面白がって、
  興味シンシンで聞いてくるんだ。

ねえ、そりゃそうですよ。私もたんなる私の下着であり、たいして意味を感じてはいなかったけれど、こうしてホームページの表紙をかざるようになると、少しはもっと露出すべきかななんて思えてきます。
そういえば、思い出したけれど、私は学生運動の東大闘争で逮捕されたわけですが、あのとき勾留された東調布署(田園調布にある)でも、その後の府中刑務所でも、私のふんどしは話題だったなあ、と思いました。「なんでゼンガクレンがふんどしなの?」とよく聞かれたものです。そして、その次に逮捕されたときの朝霞署でも、同じ留置場での、ヤクザや自民党の選挙違反の方々にも、よくこの疑問をもらったものでした。埼玉県警の方々も面白がっていたなあ。
そういえば、私の長女が小学生の低学年のときに言っていました。

きょう先生が、ふんどしの話をして、「誰かおじいちゃんがふ
  んどしの人いますか?って聞いたら、○○君が、「ウチのお祖父
  ちゃんがそうだ」といったら、みんながその子のことを笑うんだ。
  私はずっと黙っていたの。お祖父ちゃんで、あんなにみんなに笑
  われるのに、ウチはおじいちゃんじゃなくて、パパがふんどしな
  んだもの。

そんな長女がいまでは、あのイラストを描いてくれたのです。

「周の掲示板」へたくさんの書き込みをありがとうございます。RESが遅れ気味で申し訳ありません。(98/12/14 06:05:25)

「安田弁護士の不当逮捕に抗議する!」のページに12月16日の抗議集会への呼びかけの文書「安田弁護士不当逮捕抗議集会の呼びかけ」を掲載しています。ぜひ多くの方々の集会への参加を訴えます。それと、この文書をぜひとも転載いただきたいと考えます。(98/12/14 16:02:08)

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11082407   Wednesday, July 28, 2004 11:23 PM
了解です。了解です。
 えー!まだ続くんですか。それじゃ漢字にもうちょっと気を使って書かないといけませんね。

 椎名誠さんの「哀愁の町に霧が降るのだ」やその前後の時代を描いたものはおもしろいエピソードが次から次へと続いて楽しいです。無論著者のテクニックもあってへたな人が書けばつまらない日常の一コマなのでしょうが、椎名さんの場合は自分も一緒にその場でばかなことをやっているように楽しいです。しかし先生も椎名さんに勝るとも劣らないエピソードの持ち主でいらっしゃることは間違いありませんね。波乱万丈さでは勝っています。やっぱりこれはいつか先日の題で本にまとめていただきたいです。

 府中のご飯がとってもおいしかったというのは異論のある人も多いのではないでしょうか。作る人によっても違うのかもしれませんが、安部譲二さんはけなしていたと思います。大根の季節には大根づくしのおかずが続いてついに脱走を決意したものまででたとか。入る前はインスタントラーメンばかり食べていたとかなにか特殊な事情があるのではありませんか。

 承服しかねるメールって、始めに小泉内閣に好意的なコメントがあったのでカチンと来て、あとの一両日中にというところに過剰反応なさっただけではありませんか。きっと昔私も学生運動をやっていた、と始めに書いてあったら喜んで無理して調べてあげたのではないでしょうか。先生の心を推し量るとこうなります。

 彼女の妹さんを脅したのはまずかったと思います。ご両親に告げ口されたら立場が悪くなります。チョコレートでもいつもおみやげにして、二三度彼女と一緒に遊園地へでも連れていってあげて、優しいお兄さんを演出すればなついてくれたとおもうんですが。

   Tuesday, August 03, 2004 7:03 AM
いつもありがとう

えー!まだ続くんですか。それじゃ漢字にもうちょっと気を使って書かないといけませんね。

 うん、またメールくださいよ。私はMさんとのメールの交換が実に愉しいです。
 507号で、あなたとFさん(31歳で牧師の方)のを紹介しまして、その次の508号もFさんとのメールを紹介します。

椎名誠さんの 哀愁の町に霧が降るのだ、やその前後の時代を描いたものはおもしろいエピソードが次から次へと続いて楽しいです。

 私も椎名さんのファンと言ってよく、彼の本はほとんど読んでいます。ただ、随分前になりますが、ある飲み屋の女の子が、「私もファンです」というので、その子に大きなダンボール1箱分の椎名誠の本を全部あげました。椎名誠に関して、私が気にいらないのは、彼が「週刊金曜日」の主要スタッフであることです。
 ただ彼は今、なんだかうまく書けていない感じがしますね。私はその理由は判るつもりです。そのうち、このことも書いてみます。
 ただ彼は実に格好いい男ですよ。宮崎学さんの出版記念会においでになったときに、もうほれぼれするようないい男でした。ちょうどプロレスラーの前田明さんも来ていたのですが、椎名さんのほうがずっと喧嘩の強そうな男っぷりでした。でも私はその場で、椎名さんに話しかけたかったのですが、なんだかできなかったのです。
 私は前にも、菅原文太さんが同じ飲む場においでになっていましたが、話しかけられないことがありました。同じ場に、由美かおるさんもおいでになりまして、彼女には親しく話しかけられるのですが、文太さんだとだめなんですね。それで、ついこのあいだも、文太さんがおいでになる会合がありまして、私は「ここで勇気を振るわないと、もう機会がないかもしれない」という思いで、文太さんに話しかけました。話は

  「懲役太郎まむしの兄弟」

についての細かいお話です。文太さんはちゃんと答えてくれて、実にいい男でした。

府中のご飯がとってもおいしかったというのは異論のある人も多いのではないでしょうか。作る人によっても違うのかもしれませんが、阿部譲二さんはけなしていたと思います。

 私は安部譲二さんは好きな作家です。ただ「塀の中の懲りない面々」の中で、不満なところは、この府中刑務所の飯のことです。なんで、あれを「美味い」と誉められないのか、私には理解できません。私は麦シャリが大好きでした。ただ、私の記憶の中では府中の麦シャリは、なんだか麦が8割でシャリが2割という、いわば真っ黒な感じだったのですが、麦5割米5割が最低の米の割合だそうです。「ほんとうにそうなのかな?」と疑問だったのですが、真相が判りました。懲役の配当(ハイトウ)係の方(食事を作る方々)が、米を食べちゃって、私たちにはどうしても麦の割合が多くなるそうです。でもとにかく、府中刑務所の食事は美味しいです。
 私は刑務所に行きまして、最初が夕食だったのですが、大きなコッペパンが入ってきたときには、「なんで、こんなにいい目に会えるのかのかな」と感激したものでした。
「塀の中の懲りない面々」では、接見でお母さんと会うシーンがあるでしょう。「あなたは、エドモント・ダンテスの話みたいのを書きなさいよ」というところが。私はあのところで、ものすごくほほえんで喜んで、そして泣きました。実にいいお母さんです。私の母も面白い人でしたし、父も目茶苦茶に面白い人でした。府中刑務所の職員は、私の父が来ると、もう実に大変な思いをしたのではないでしょうか。いや、実は私の父は府中だけではなく、東大闘争の被告の入っている、すべての拘置所、刑務所に行っているのです。それで、相手の職員とさまざま話しているのです。いやそれだけではなく、東京地裁の判事にも面会しています。私の担当の判事は、私の父と母の要求に、最後は走って逃げたといいます。新左翼の党派の救待の人間とも私の父はおおいに論争したようです。父はそもそも共産主義は大嫌いだったからね。私も反共主義者でしたが。さらに父は、当時テレビ番組にたくさん出て、いっぱい活躍したようですよ。

承服しかねるメールって、始めに小泉内閣に好意的なコメントがあったのでカチンと来て、

 それはまったくありません。私は小泉内閣についてはまったく関心がありません。

あとの一両日中にというところに過剰反応なさっただけではありませんか。

 そうですね。よくあるんですよ。たぶん高校生でしょうが、「魯迅の○○について原稿用紙2枚教えてください」なんていうようなメールがいくつもきます。たぶん、学校の課題なのでしょうが、私はもう絶対に返事は書きません。だが、本当はこのような当人もいけないけれど、その担当の先生もよくないよな、と思っていますよ。そういえば、今思いだしたけれど、昨夜ある飲み屋で、魯迅の話、芥川龍之介「杜子春」の話、「聊斎志異」の話、いろいろしていたなあ。「杜子春」の原典は「聊斎志異」なのですが、よく判ってないと、耻をかいちゃうよ、今の若い子のほうがよく知っているよ、なんて話です。

彼女の妹さんを脅したのはまずかったと思います。ご両親に告げ口されたら立場が悪くなります。

 当然、この妹は両親に告げ口していますよ。そんなことで、私を嫌うご両親ではありませんでした。妹は二人いたのですが、実は二人とも姉には憧れていたのです。ものすごく綺麗で優秀な姉でしたから、「いつか白い馬に乗った王子さまが、お姉ちゃんと迎えにきて連れていく」ものだと真剣に思っていたようです。だがそこに現れた私は、下着はふんどしだし、詩吟をやたらに詠うし、なんだか、何故かいつも家に泊まっているし、家の食事を作っているし、お祖母ちゃんと歌舞伎の話をしているし、というので、「なんか変だな、おかしいな」とばかり思ったようです。

チョコレートでもいつもおみやげにして、二三度彼女と一緒に遊園地へでも連れていってあげて、

 遊園地はいかなかったけれど、海に何度か一緒にいったし、彼女は私の下宿にも遊びに来たし、なんだか「構えなくていい」人が私だったと思いますよ。私はその姉と別れてしまったわけで、彼女そのものとは今でも連絡できませんが、私が今でも話せるのは、彼女のお母さんとこの下の妹だと思います。もうお祖母ちゃんもお父さんも亡くなっていますので、私もものすごく悲しいですが、いろんなことで、お母さんともこの妹とも伝わる思いを持っています。
 また。萩原周二
(第213号 2004.09.13)

11082104   Wednesday, July 21, 2004 10:44 PM
「手紙」の重さを知りました。

「手紙」と言う言葉にまさかそれほどの深くて重い思い出があるとは夢にも思わず、自分の軽いメールの様なものと思っていてはずかしいです。高松城の水攻めの様な深謀遠慮、また今から考えれば自分の支えにもなっていたのではありませんか。そして青春の全てと結びついた思い出なんですね。ですから丁寧に書けば本一冊が軽くできあがりますよ。メールに書ききれるものではありません。もっとも先生は今でも青春真っ最中の様な方と想像しておりますが。

 府中刑務所の手紙の検閲その他については殺人狂時代という本で読みました。日本の刑務所は明治時代の決まりをひきずり、先進国の中では最悪の部類に入るということは知っています。

 将門Webマガジン、いつもありがとうございます。これはまさかどと読むのですか。それともしょうもんですか。詩のメールの中で読み方は自分の考えでいいといわれましたが、世間一般で通っている読みを違うように発音すると笑われることがありますからね。お釈迦様のお母さんはまやふじんではなく、まやぷにんと読むのだと初めて知ったときは驚きました。信長公記はしんちょうこうきだといわれても、どうやってこの場合はのぶながではないと判断すればいいんですか。詩の場合は口調が優先すると思うんですが。垣の外はかきのそとと私も読んでました。将門記はしょうもんきですからしょうもんうえっぶでしょうか。

 実は一年ほど前に平らの将門の話も一度通しで読もうと思って童門冬二さんの平将門を読んだんですが、登場人物それぞれの考えや当時の関東の自然や情勢などはよくわかるんですが、分かりやすく書きすぎて何だか少し幼稚な印象を受けました。小説としてはあまりおもしろくなかったです。そこで聞くのが怖いんですが、将門が主人公の小説では何がよいでしょうか。きっとものすごい思い入れをお持ちでしょう。

 結局、あのガリア人の若い王をあれほど残虐に描くのは、実はカエサルをこそ貶していることになるのだと私は思います。いや誰もがそのように判ってほしいのだろうなと推測しました。

 この文章は意味がよくわかりません。著者はなるべくカエサルを貶めたかったということですか。新しく斬新なカエサル像を作り出すためにですか?MM

  Thursday, July 22, 2004 1:12 PM
 Re: 「手紙」の重さを知りました。

 まずいつもメールをありがとう。昨日飲み過ぎた私が、このメールを開きましたのは、今朝なのですが、ものすごく嬉しかったです。そして今も嬉しいです。

「手紙」と言う言葉にまさかそれほどの深くて重い思い出があるとは夢にも思わず、

 いえ、なんとなく勝手に書きまして、ごめんなさい。そうねえ、私はあのときも、ただただ書き続けましたね。思えば、その長い長い手紙の続きが、私の今のホームページになっているのかもしれません。私のメルマガもただただ、長いだけなんですが、これもまたあのときの手紙の続きかななんて思います。
 あのときの私の彼女は、全部で私から数百通の手紙を受け取ったでしょうが、もう燃してしまったでしょうね。でも今私は燃せないようなデジタルのものを日々書いているつもりなのです。
 ただどれも、とても本になるようなものではありません。アベラールとエロイーズの愛の書簡集は、今読んでもその愛の深さに驚きますが、私の書いた手紙は、誰もが呆れるような内容のないだけのものです。

もっとも先生は今でも青春真っ最中の様な方と想像しておりますが。

 ありがとう。ただね、どうなんでしょうね。私の長女が以下のようにいいました。

  おはぎに言われちゃった

 そうねえ、「その通りなんです」よ。

府中刑務所の手紙の検閲その他については殺人狂時代という本で読みました。

 見沢さんの書いたものですね。私はあの方と飲んだことがありますよ。千葉刑務所というところは、赤軍の吉野さんもいるし、狭山事件の石川さんもいたところですね。私は千葉刑務所の係の人と偶然飲んだときに、「吉野さんを大事にしてくださいよ」と頼んだものです。石川さんとお会いしたときにも、見沢さんのことや吉野さんのことをききまして、石川さんに驚かれたものでした。

日本の刑務所は明治時代の決まりをひきずり、先進国の中では最悪の部類に入るということは知っています。

 そうなのかもしれないけれど、私は府中刑務所は好きでしたよ。飯は最高にうまかったし、看守も懲役の方も真面目でした。若き日に、あんなところにいて愉しい経験が出来たのは、実にいいことだったな、と今もつくづく思っています。
 私なんか、東大闘争の統一公判要求というので、裁判には出廷拒否という戦術で向かいました。ただ、裁判の前の日には、刑務所側が、私たち裁判に出る予定の者を、拘置所から、刑務所内の懲役刑の中の駅舎へ連れていきます。とにかく孤立させようというのですね。そして朝、「出廷だ」と看守が呼びにきまして、私が拒否しますと、すぐさま頑強な看守(刑務所内の機動隊ともいうべき連中で、彼らだけは緑の制服を着ている)が3人でやってきまして、私を引きづりだそうとします。私なんか、身体が小さいですし、腕力もないので、このときの戦いは必死でした。でも、あのときの経験は良かったなと思っております。
 私は温泉新聞社というところの新聞記者をやっていたのですが、そのとき毎月月末に、各温泉街の旅館・ホテルに集金にいきます。これがけっこうつらい非情な仕事でした。旅館・ホテル側はこんなひどい新聞(と彼らは思っている)に金を払うなんて気持ちは1%も持っていません。でも私のほうも、集金しないと帰れません(かっこう悪いからではなく、実際に集金しないかぎり、金がないから動けないのです)。
 温泉街は歩いていきますと、各ホテルはものすごくそれぞれが遠いところにあります。那須温泉を、あるホテルでの戦いのあと、また歩いていきます。もう近道しようというので、山の中を歩いていきます。私独りで、もうずっと歌を唄って歩いています。「ワルシャワ労働歌」と「青年日本の歌」なんかを大声で唄っていきますと、やっと目的のホテルが見えます。「ああ、良かった」と思いますが、またそのホテルでも、また戦争が始まるのです。
 でも、私には「これよりは、あの府中のでかい看守に挟まれたときのほうが辛かったな」なんていう思いで、また元気に貫徹できたものでした。

将門Webいつもありがとうございます。これはまさかどと読むのですか。それともしょうもんですか。

「しょうもんうぇぶ」です。私の以下で紹介しております

  将門Webオンライン書店「哲学・思想・漢詩・漫画」

この本がいいですよ。

書 名 お言葉ですが…7
    漢字語源の筋ちがい
著 者 高島俊男

 この漢字熟語の読み方や、氏名の読み方をよく判るように書いてあります。15代将軍の「慶喜」を本当に「よしのぶ」と読んだのかどうかは、実は判らないのですよ。西郷南洲も本当に「隆盛」と書いたかどうかも判らないのです。ただ「りゅうせい」と呼んだのは間違いないようで、明治期になって、戸籍を作るときに、「たしかリュウセイだったぞ」というので、「隆盛」という字を
当てたようです。そして本人は何も言わないのですね。弟の「従道」なんか、もっと驚きます。本人が口をもごもごさせて「ジュッド」と言ったのを、誰か「従道(ジュウドウと読むらしい)」と字を当てただけなのです。
 ぜひこの本を読んでみてください。

信長公記はしんちょうこうきだといわれても、どうやってこの場合はのぶながではないと判断すればいいんですか。

 信長を「のぶなが」と本当に読んだのか否かというのは、実は彼の父親と本人しか判らないです。それで、本人が本当の「読み」を言わないかぎり、他の人が彼を読むときには、「音(おん)」で読めばいいんです。それだと失礼にはならないのです。だから15代将軍慶喜は、「よしのぶ」ではなく、徳川ケイキ、一橋ケイキと読めば、間違いではないのです。現代の我々が「慶喜(よしのぶ)」だと教わっただけで、実はあの時代には、そうは誰も読んでいなかったのです。

実は一年ほど前に平らの将門の話も一度通しで読もうと思って童門冬二さんの平将門を読んだんですが、

 童門さんの将門も私は好きですよ。

分かりやすく書きすぎて何だか少し幼稚な印象を受けました。

 その通りでしょう。私はやはり、海音寺潮五郎「平将門」が好きです。また吉川英治「平の将門」もいいですよ。海音寺さんは、この「平将門」を書くときに、吉川英治さんに相談にいきまして、「それはいいことだ」と誉められたそうです。
 でも私が好きなのは、幸田露半の「平将門」かな。私は幸田露半が大好きなのですよ。

将門が主人公の小説では何がよいでしょうか。きっとものすごい思い入れをお持ちでしょう。

 将門に関する本は知る限り、すべて読んでいますよ。
 また。萩原周二

   Thursday, July 22, 2004 5:29 PM
あ、レスを忘れていました

この文章は意味がよくわかりません。著者はなるべくカエサルを貶めたかったということですか。新しく斬新なカエサル像を作り出すためにですか?

 私には、新しいカエサル像ということではなく、ただただ貶したかったのだと思いますよ。私は最初から、あの著者は気にいりませんでした。
 ただ、こうして生きていると、また新しい本を読むことができるし、あなたのような方とメール交換できますから、人生はいいものかな、なていう気になります。
 きょうは、早く帰宅します。帰宅すれば、次女と会えます。それが嬉しい。
(第210号 2004.08.23)

きょうは私の満63歳の誕生日です へ笑美さんからのコメント」へ笑美さんから、以下のコメントがありました。

1. Posted by 笑美   2011年05月31日 20:31
周さんこんにちわ
なんかとても好印象に書いていただいてありがとうございます。
でも私は全然美人ではない上、すっかり年を重ねてしまいました。今は仕事でもなるべく写真や前に出たくないので、新聞や広報は、若い人に対応してもらっています。
また、すみません、私が小学生の時入院していた府中の病院はじゅにちゃんの入院している病院とは違いました。じゅにちゃんが入院している病院は本当に大きいですね。最先端の医療を受けられますね、きっと。よく調べもせずすみませんでした。考えてみたら実家のある八王子から出て、もう20年以上たっていました。
 学生運動のお話を聞くのはなんかなつかしいです。私はお世話になった上司が団塊の世代の方々なので、きっと身近な感じがするのですね。
リーがもう寝ようと迎えに来ました。ではまた、いつもありがとうございます。

11053108 いや、笑美さんは綺麗な方ですよ。年賀状で見ると、娘さんのリーさんも綺麗な娘さんです。
 それから、今も府中は実に綺麗な街です。
 私は昔自分が拘留されていて、かつその後誰かに(たしか御茶ノ水大の友だちと面会に行ったのです。70年秋だったかな。私のことを思い出してくれた看守が逆の側の部屋にいたものでした)面会に行き、そして任侠映画での印象で、とにかく灰色の刑務所の壁しか思い浮かべられなかったので、それがあんなに綺麗な街で、驚いてかなり感激しています。
 府中刑務所は、実に桜が綺麗でいいところですよ。いつも懐かしく思い出します。
 今日もじゅにに会いに行きます。じゅにはまだ生まれて6カ月ですから、なんだかいつも涙になっています。でも娘ブルータスの前であんな顔をしないと、今日はちゃんと決意していきます。
 私の大切な娘ブルータスと大切な孫娘のじゅにです。

 今日も笑顔で会ってきます。

11052303 昨日は大変なことでした。じゅにが息が止まったのです。でももう大丈夫です。

2011/05/23 06:41昨日は妻と府中市の病院に入院しているブルータスとじゅにに会いに行きました。お父さんのナオキ君にも会いました。
 私は随分昔に府中刑務所に拘留されていましたから、そのイメージがあったのですが、もう緑でいっぱいの都市(まち)になりました。なんだか素敵な街です。
 じゅにが入院している部屋は、私は前もって、赤ちゃんがいっぱいいると聞いていたのですが、最初ブルータスと二人で入った部屋はお医者さま、看護人の方は大勢いますが、他の赤ちゃんはいません。「あれ変だなあ」と少し思いながら、じゅにのベッドに近づきました。あ、可愛い私の孫じゅにがいます。眠っています。看護人の方が、ブルータスママに、「できるだけ声をかけてください、ママの声は聞こえるのです」といいます。私も声をかけて、じゅにもさわっていいというので、額に触れます。顔は少しだけむくんでいますが、額は暖かいです。一時は心臓が止まってしまっていたのです。もう顔にも身体にもたくさんのコードがつけられています。私の可愛い孫です。
 でも看護人の話す言葉で、私はなんとなく「もう大丈夫だなあ」と感じました。10分の面会時間は過ぎます。次には私の妻、じゅにのばあばにも会ってほしいです。
 そこからまた帰ります。私は驚きました。そこにあるたくさんのベッドには、みな赤ちゃんがいたのです。ただ気持に余裕のない私はそれに気づかないだけだったのです。
2011/05/23 08:04「おひさま」を見始めました。

 昨日は、私の可愛い孫に会えました。可愛い娘のブルータスにも、ナオキ君にも会えました。妻と私には、つらい時間ともうとても嬉しい時間を過ごしたのでした。

92-10-26 02:52:59 TR通信・33
TR通信・33  少年院生活

11032109 これを読んで、昔の久里浜少年刑務所について書かれたものとか、「純愛物語」とか、私自身の昔とか思い出しました。ちなみに「純愛物語」とは、今井正監督作、江原真二郎、中原ひとみ主演の映画です。二人の不良少年少女の純愛を描いています。まったく身よりのない不良同士が、恋し合うのですが、少女は原爆症で、手もふれないまま死んでしまうという、哀しくてたまらない映画です。この中でかなり少年院のシーンがあるんですね。
 そんなところとたいして違いはないのかもしれませんが、まあもう原爆症なんていうことがでてくるわけではないから、やはり確実に時代が違うのでしょう。
 それにしても、この子はできたらもうすこし詳しく書いてくれたほうがいいのですがね。多分中で毎日日記みたいなものは書いていたと思うのですが、それを元にして書いて欲しいですね。どの程度の悪さしたのだか分からないけれど、あんまり反省しているようにも思えません。

 私のこの文章を読んでくれている人の中にも、今まで少年院へ入った事があるという人、これから入らなければならないという人等、いろいろな人がいると思いますが、皆さん、自分の目標に向かって頑張って下さい。決して、あきらめたりなんてしないで下さいね。 私も、少年院で過ごした生活を忘れずに、これからの生活を充実させて行きたいと思います。

 思わず微笑んでしまう。まだ人生はこれからだから、この子にもまたさまざまなことがあるでしょう。この経験を無駄にしないでほしいですね。
 ちなみに私は学生運動で、最初は東大安田講堂で逮捕され、東調布署を経て府中刑務所の拘置所に拘留されました。220日で保釈になりましたが、私も反省したとはいえませんね。でもこの府中の思い出はたくさんあります。いつかまたUPしたいと思います。私は麦飯(バクシャリ)も、大きなコッペパンもたいへんにうまかったけれどね。

11032103 先週の16日の朝、通勤の電車の中で読みながら、この「青玉獅子香炉」の最後では泣いてしまいました。私は、いわばこの物語を今回初めて知りました。今まで思い込んでいた「青玉獅子香炉」の話とは少し違う物語なのだなと、始めて私は判ったのです。
 私がこの物語を知ったのは実に36年前のことでした。
「第69回「青玉獅子香炉」」(私のメルマガに書いたものです)にその思い出を書いています。

 (ここに書いています「青玉獅子香炉」の話は、私の思い出の中
  だけで、原作とは少し違っています。登場人物の二人は夫婦には
  なっていません)

 私は1969年1月18、9日のの東大闘争の安田講堂の闘いで逮捕され、やがて起訴されて、2月後半に府中刑務所に移管されました。ここの拘置所の独房にこの年の8月21日に保釈になるまで勾留されていました。当時私にはとても恋している女性がいました。この彼女が、この府中に接見に来てくれたのは、たしか2月の末だと思いました。3月にも面会に来てくれました。彼女はちょうど3月5日が19歳の誕生日の時でした。
 この3月になって、毎週日曜日の夜聞かせてくれるNHKの「日曜名作座」に、この陳舜臣の「青玉獅子香炉」のラジオドラマがありました。このラジオドラマは、森繁久弥さんと加藤道子さんの二人だけでの朗読のドラマです。二人は、何人もの登場人物の声を替えて、すべてドラマが展開されていきます。刑務所での日曜日は、面会も運動もなく食事もものすごく早く配当されまして、何にもない日です。その日の午後8時半から、このドラマは放送されます。
 そして当時は風邪が流行っているとかいう理由で、午後8時には蒲団に入らないとならないのです。仕方ないから蒲団に入っていて、それで聞く二人の朗読劇は、実に心の中まで染みるような思いがしたものでした。
 この物語は、青玉から獅子香炉を作る李同源と、その獅子香炉を作るのに、李のすぐそばでそれを見守っている素英という李同源の師匠の娘の愛の話でもあります。
 青玉であるただの素材を加工していくのには、師匠の王福生は、いつも若い女性にその玉を抱かせてから始めていたのです。

  古めかしい精神主義だったと思っていた師匠のやり方を彼はよ
  うやく理解できるようになった。それは彼が最初思っていたよう
  な、こけおどしのまじないでなかった。
 (師匠は玉を抱かせたり、そばに坐らせる女に惚れていたのだ)
  好きな女がそばにいると、男の心はたかぶる、最も人間的な感
  情なのだ。それを制作に導入すれば、燃焼しつつある人間のぬく
  みが、しぜん作品のなかに表現されるのだろう。
  女人の膚の精を吸うのは、玉そのものではなく、制作者の心な
  のだ。玉はその心をうつし出すのにすぎない。

 師匠の娘素英は、李同源に自分の乳房に触れさせて、「燃えてちょうだい」「まだ燃えないの?」と問いかけながら、彼の玉を加工させます。このことによって、玉のことがどうにか李同源にも判ってきたのです。

  彼は自分の情感が玉のなかに染み込むことがわかった。物心の
  ついたころから、玉は彼の生活のなかにあった。まだ若いとはい
  え、玉とは深い縁を結んでいたつもりだった。だが、素英の乳房
  にふれてから、彼ははじめて玉器のつくり方を知ったという気が
  したのである。

 これによって、この青玉獅子香炉は完成します。
 この時代は、ちょうど辛亥革命の頃です。そして中国は清朝が滅びまして、日中戦争になり、そしてそれが終わったら国共内戦が続きます。もともと、この青玉獅子香炉は、清朝の乾隆帝の時代の作品を、ある宦官が盗んで米国人に売り、それがばれないように作らされた贋作でした。だが李同源はその贋作を作るために何もかもをかけたのです。
 この李同源の作った贋作を、彼はあくまで大事な憧れをもって見つめていきます。そして激動の歴史の中で、この獅子香炉はあちこちを展転としていきます。彼にこれを作るのに燃えさせてくれた素英も、別な人の妻となります。李同源にはもはや、この青玉獅子香炉しかありませんでした。
 やがて、やっとこの獅子香炉をやっと台湾に逃れさせたと思ったときに、この獅子香炉を入れた箱を開けると、それはまた別の贋作になっています。彼が作った獅子香炉はまた別な人間に売られてしまったのです。そしてそれは米国の東部に運ばれています。

 最後に、年老いた李同源はこの米国に渡ります。とにかく、あの獅子香炉に会いたいのです。そばには、年老いた素英がついています。その最後、獅子香炉に会える寸前に、李同源は倒れます。そしてそのときに、そばにいる素英の乳房に触れます。

 36年前に独房の中で聞いたラジオドラマでは、この二人の長い時間歴史の中の男女の触れ合いをとても重く感じたものでした。加藤道子さんの、声を今もありありと思い出せます。
 そして私は李同源とは違いますが、私もまた遠くまで来てしまったな、そしてあのときの私の恋した女性とは、李同源と同じように結ばれず、これまた遠くまで来てしまったなという思いばかりです。

 この本をある古書店で見つけて、買いました。だがどうしても本を手にとって読み始められませんでした。あの36年前のラジオでの感動と、府中刑務所の接見室で会う、当時の恋した女性の思い出がわき上がってくることがただただ怖かったものでした。でもやっぱり読んでよかった。36年間がそのまま今やっと繋がった感じがしています。(2004.12.20)

11032008 この著者は、1833年(明治16)8月27日〜1959年(昭和34年)10月20日の生涯でした。
 私はこの角川書店の本は実に膨大に感じられるものでしたが、この二つの本をともに、ノートをとり丁寧に読んだものです。もう補遺の方は、日記とは言えない感じでしたが、とにかく丁寧に読んだものでした。ちょうど69年5月に東大闘争で拘留されていた府中刑務所の中で読んでいたものでした。思えば、娑婆にいたら到底読むことはできない本だったでしょうね。
 大正時代、戦前の青年たちが読んだ本だということを感じながら読んでいたものです。今ならパソコンでいくつもの箇所を書いていくのになあ、なんて思います。だから思えば、だんだん楽ないい時代になっているのですね。あんなに汚い私の字でよくノートをとっていたものです。感心します。そのノートを今度取り出してみようかなあ。(2010.05.18)

11021105 私は子どものときに昆虫が好きでした。とくに、北海道札幌に住んでいて、あそこは実に自然豊かに感じられる都市で、よく昆虫を捕ったものです。トンボなんか、よく手で捕まえたものでした。そんな中で、このファーブルの『昆虫記』を読むようになりました。最初は大きな図鑑のような本だったように思います。そして2度目に読んだときは、大きな厚い本でしたが、それもものすごく興味を持って読んだものです。
 そして私は東大闘争で逮捕起訴拘留されたときに、府中刑務所の中で岩波文庫版を読んでいました。しかし、全20冊を読んでいる中、1969年の8月20日に保釈になり、そのときには16冊目のときでした。娑婆に出ると、また学生運動で忙しくなりますが、たしかその1年後に、残りの5冊も読んだものでした。
 ただ、子どものときに読んだときよりも、この本当の彼の著作の翻訳本はは少々退屈な思いがしました。ファーブルの好きないくつもの昆虫の生態がずっと書かれているのですね。このジャン・アンリ・ファーブルは日本でこそ有名ですが、本国のフランスではそれほど知られた人ではないようです。
  彼の生涯は、1823年12月21日から1915年10月11日でした。彼は実は作曲家でもありました。
 ただ覚えているのは、本の中で、実はファーブルは数学も好きで、それを選んだ人生にしようかと思ったことがあること、それと隣国のドイツをものすごく嫌いだったことなどが思い浮かびます。あと、コガネムシやミツバチの生態を詳しく書いているところは圧巻でした。
 そして私には、彼が蛍の出す光のことを書いているところが、今もものすごく印象に残ります。蛍は光を出すだけで、熱は出さないのです。(2011.02.12)

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11021101 北杜夫の『どくとるマンボウ青春期』にこの人蛭川幸茂が描かれています。
  旧制松本高校で、いつも運動場を走っている人がいて、北杜夫は最初はその人を「乞食かな」と思ったというのです。あまりにみすぼらしい格好で走っているのです。「なんで、ここは乞食が走るんだ」と思ったといいます。それがヒルさんが、蛭川幸茂さんだったのです。彼は体育を教えている教師でした。

 この方自身が書かれたのが、この本です。たしか彼は、「俺は教師を落伍したんだ」と思い、「教師落伍」という題名にしたかったのだが、編集のほうで、それはあんまりだというので、こういう題名になったというようなことが書いてあります(私は記憶だけで書いていますから、正確にはわかりません。正確には覚えていません)。
 私が府中刑務所に拘留されていたときに、1969年の3月に差し入れられた本でした。兄の本でした。とくに私の母が私に読んでほしい本だったようです。それを私の友人が差し入れしてくれたものです。
 ただし、この兄の本には、「全共闘は不メツ」という差し入れした仲間のメモ(エンピツ書き)があり、私はそういう不要なメモ書きが嫌いですから、非常に不愉快になったものでした。まあ、仕方ないかな。差し入れを感謝すべきなのでしょう。
 この本では、のちにヒルさんは高校の教師ではなく、小学校の教員になります。たしか、彼が小学生の自分のクラスを遠足に連れていくときに、言う言葉をよく覚えています。「バスに酔うやつと思うやつは、朝飯を食べてくるな。朝飯が腹に入ってなければ、吐くものもない」。乱暴です。乱暴な先生なんです。でも私にはこのヒルさんが実は優しくて、実に生徒の一人ひとりが好きなことが伝わってきます。
 長野県の小学校ですから、遠足で諏訪湖に行きます。その諏訪湖を遠くに見た生徒たちが皆言います。ヒル先生が、「あれは諏訪湖という湖だ」というのを、「あれは、湖じゃなく雲だろう」というのです。思えば、長野県の生徒たちですから、大きな湖なんか始めてなのです。海なんか見たらたまげてしまうのでしょうね。
 私は刑務所の独房の中で笑い転げていたのを覚えています。驚いて看守が見に来たものでした。ここで声を出して笑ったのは、このヒルさんの本と太宰治の本でした。(2011.02.11)

11020509 私は谷崎潤一郎が好きでした。中学2年のときに実にたくさんの作品を読みました。
 その後『新々訳源氏物語』を東大闘争で逮捕拘留された府中刑務所の中で読んでいました。ちょうど1969年の8月に「ファーブル『昆虫記』」と交互に読んでいたものでした。
 しかし、この谷崎の源氏はけっこう難しいです。私には内容がよく判りませんでした。いや、そのときに、私に「これよく判らないよ。面白くないよ」といえる勇気があればよかったのですが、私は「源氏物語は谷崎の訳が一番いいのだろう」という思い込みがありました。だが私はその後、「吉本隆明『源氏物語論』」を読んで、私の感じていたことには、根拠みたいなものもあったのいだ、やっぱり中学生のときに読んだ与謝野晶子の源氏物語の訳のほうが良かったのだと思ったものでした。
 私が好きであり、いわば親近感を抱いていた谷崎潤一郎にはたくさんの作品があります。好きな作品はいくらでもあげることができますが、この『少将滋幹の母』は少し私には面倒なものでした。
 少将滋幹という人物はほぼ姿を現しません。それよりも私には、なんと言いましても、『平中物語』とでもいう、平中の話が実に興味深かったです。そして当然この滋幹の母親に関心を持ちます。でもこの作品の中心人物だろうこの母親、「北の方」は、ただ絶世の美女というだけで、実はその姿顔も読んでいる私たちには思い浮かばないのです。
 左大臣時平が、この美女を大納言国経から奪います。色好みの平中もどうにもできません。そして最後に、滋幹がその母親に会います。そのあたりでこの物語は終わります。
 なんとなく、中学のときに読んだ小説は、「もはや読み返すこともないだろう」と思うのですが、この作品だけは読み返してみようかなあ、なんてと思うものなのです。(2011.02.06)

10123009 私の次女のブルータスは、9日午前中に退院できることになりました。1か月くらいの入院になると言われていたのですが、結局は16日間ですみました。若いだけに回復力がかなりあるようです。ただ退院しても、安静にしていなければならず、しばらく大学へも行っては駄目だと言われています。
 ところで、風邪から急性肝炎になったようなことを前には書きましたが、慈恵医大で6日に診断されたところですと、最初から風邪などではなく、A型肝炎だったようです。それを私たちもいくつかの医院も、風邪だとばかり思い込んでいたのです。かなり危険なことでした。それで何か「生もの」が口から入ったということなのですが、本人は刺身等々は絶対口にしませんから(好き嫌いが激しいのです)、今もって原因が解明できません。
 それにしても、本人は入院生活は退屈だったようで、困ったものです。たくさん本を差し入れたのですが、ほんの数冊しか読んでいないようです。せっかくひたすら読書できるいいいチャンスなのになあ、と私は納得いきません。
 でも、私一人で、面会に行くと、いろいろなことを二人で話しました。妻やおはぎと行くと、私なんか相手にされないので、なるべく私一人で、時間を見計らって行くようにしました。4日の3時半頃、私が行くと、しばらく愉しく話していたのですが、何故か妻がやってきて、さらに近所の友だち姉妹がやってきて、私は独りになってしまい、ブルータスのベットで横になるうちに、いびきをかいて眠ってしまいました。
 慈恵に入って2日目のときに、私とブルータスで随分長く話しました。こうして狭いベッドに寝ているのは退屈だというので、私は私の経験した府中刑務所での独房生活のことを話してあげました。

   そりゃね、面白いんだよ。飯は朝は麦しゃりとみそしる、昼は麦しゃ
  りと豪華なおかず、夕方は大きなコッペぱんが入ってくる。はじめての
  食事が夕方で、このコッペぱんが房に入ってきた時には、パパは何でこ
  んないい目に会えるのだと大感激したものだよ……………。

「パパは入院したことある?」という問いに、

  いや、ないよ。……いや、まてよ。あるある、大学でハンガースト
  ライキ、要するに飯を一切食わないで大学とやりあっていたら、確か
  7日目に倒れて、救急車で病院に運ばれて、何日か入院した。もうで
  もあれはやるものじゃないね。もっとも、そのあと刑務所でも2回やっ
  てしまったけれど。

 ブルータスはたいへんに面白がり、かつ呆れていました。まあ、もっともっといろいろ話しましたけれどね。刑務所では、食事の時間がどうだとか、消灯は何時だとか(みな病院との比較)、運動の時間のこととか、もうそれこそ、愉しく面白くお話しました。

 ブルータス パパ!、パパはもうママをもっと大切にしなよ!
 私     うん、あの人はさ、結局幸せ薄い人なんだよね。

なんてことで、またまた怒られていました。
 なんだか、ブルータスと二人で話したお話の内容を記録しておきたい気になります。

10070309 蜘蛛業に、このUPがありました。ここで会話している(対談している)のは、蜘蛛業の主宰者の目森一喜さんと、私です。
 私は最初、「東」と「北」というので、なんだかすごい名前の略かなあと想像したのですが、いえ、なんのことはない、彼の住んでいる台東区と私の住む北区を付けただけなのです。
 それで私が読んで、またどうでもいいことを言います。

北 親父が団扇を差し入れしてくれようとしたんだが、刑務所でも団扇はあるというので、差し入れできなかった。それで親父が刑務所長に抗議の面会をしたんだが、これは我孫子商店街の団扇で、刑務所のとは違うだなんて、親父に主張されて、刑務所長、迷惑だったろうと思う。懐かしい思い出だよ。

 これは1969年の7月のことです。私の親父が府中刑務所で面会室で怒っていました。刑務所側が、団扇を差し入れさせないというので、抗議の面会をして、団扇の差し入れを認めさせたというのです。ついでに小さなタオルケットも差し入れたといいます。
 私は、「団扇なんか、もう入っているよ。だからいいよ」というと、親父は非常に怒って、「お前も刑務所側と同じことを言う。俺は『これは我孫子商店街の広告が入っているから、刑務所のとは違う団扇なんだ。本人が懐かしがるだろうから、差し入れろ』と言って認めさせた」というのですね。
 しかし、タオルケットは入ってきましたが、団扇はまったく入りませんでした。今思うけれど、あの我孫子商店街の団扇はどうなったのかなあ。刑務所側がこっそり処分したのだろうな。入っている当人も文句を言わないという確信があったのでしょうね。
 思えば、私の父は昭和維新にシンパシーを感じていた大正2年生まれの男でしたから、もうこういうことは断乎考えを曲げませんでした。実は家族会等々では、いつも党派には文句を言っていたでしょうね。私の親父は、マルクス主義とか共産主義なんて少しも認めないのです。ああ、私も同じだった。

北 うん、携帯電話でメールが出来ない人がいるんだ。彼の子供は、父親に大声で威圧的に話されるよりも、メールのやりとりをしたいんだが、父親は携帯電話は電話だから話すものだとしか考えていない。結局、その人は、子供とコミュニケーションをとるせっかくの機会をふいにしてしまったんだ。取り返しのつかない事だよ。彼は変化に乗れなかったんだ。何故乗れなかったのかと言えば、電話で話すという型があるだけで、メールのやりとりという変化を作れなかったからだ。

 これは、たしか私の高校時代の友人と彼の息子夫妻とあったときのことです。彼は息子がうるさく言うから携帯電話を持ったが、息子が少しも電話してこないと私の前で息子に文句を言っているのです。でも私は息子の気持ちが理解できました。実は彼は私にも携帯電話してきて、私が「今仕事に急いでいるんだ。5分後には電車に乗るから、ケータイメールしてきて」と言ったのです。彼への年賀状で、私のケータイメールアドレスは教えてありました。そして彼は私の年賀状はすぐに参照できる自宅にいました。
 でもでも私の携帯電話にメールはきません。そこで気がつきました。「ああ、そうか彼は手紙が書けないようにメールもダメなんだ。悪いことをしたな」。でもでも、そのときから彼からは、携帯電話も電話も年賀状も来ません。
 話し言葉と書き言葉ということを、いつも私は考えます。スカイプなら世界中で無料の電話が何時間でもできるわけですが、私はとにかく早く要件をすませたいのです。スカイプで話すのは、どうでもいいことを延々と話すようにしています。普通にはメールですべて要件をすますようにしています。いや私は手紙もたくさん書いていますよ。
 手紙は上に書いた府中刑務所のときも、実にたくさん書きましたが、今も実に手紙は書いていますよ。昔の手書きよりも、今のほうが数十倍書いていますね。

10042301 この4月に雪が振ったというニュースで69年4月を思い出しました。あのときも桜が咲いたら、そのあとに雪が振ったものでした。

2010/04/23 07:02昨日も長女の家に行くときに寒かったです。こんなのはしばらくなかったな。1969年の4月に府中刑務所にいたときのことを思い出します。あのときも、桜が咲いたのに、突如雪が降ったものです。台湾坊主といわれる気圧の為でした。思い出が甦ります。
2010/04/23 07:36こうして寒いと新聞に折り込まれているチラシも違うところを見てしまいます。そのチラシもそのことは考えた内容になっています。
2010/04/23 07:42「ゲゲゲの女房」が始まるのを待っています。でもときどき10042302私は涙を出したりするので、気をつけないとなりません。あの時代(昭和36年かな)は私は鹿児島で中学1年生でした。懐かしい時代だなあ。
 あ、またNHKで「記憶の銀行」ということで涙が出てしまいます。思えば、そういうたくさんの記憶を残しておくのは大切ですね。やはり文章で残すことです。そのことを強く思います。こうしてポメラでも書いてインターネット上にUPすることがいいのですね。できたら多くの人がやってほしいな。
 蜘蛛業に書いていることもインターネット上で公開されるのですね。嬉しいことです。
2010/04/23 08:15「ゲゲゲの女房」でネズミ男のモデルだろう男が出てきました。
2010/04/23 10:28今歯医者に来ました。いつもここにあるお花を見ると、実に心が和みます。花を見て、私がこんなに感じられる人間だったということで、嬉しいです。私も捨てたものじゃないでしょう。
 少し前に鎌倉の案内書を見て、ちょっと考えました。

 歯医者でお花が実にいいです。それを見て写真を撮りまして、私は少し安心します。

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 本日の亀山郁夫さんの文章に、目森一喜さんから以下のコメントがありました。

1. Posted by 目森一喜   2009年09月20日 11:42
太宰と心中した女性は、近所で評判の美人で、洋裁の先生をなさってらした方でした。当時、女性の間で洋裁を習うのが流行したんです。あの心中は、どちらがどうというのではなく、あの瞬間に2人の道行きがそういう事になってしまったんでしょうね。当時から今まで、色々と取りざたしたがる人たちはいますが、余人のうかがい知るところではないですね。

 私はジブリ美術館に家族4人で行ったときも、この玉川上水のわきを歩いたものでしたが、私が大学1年の夏に、武蔵野美術大学へ行った友人と、もう一人の友人(彼は浪人中だった)と会ったときに、その武蔵野美術大学の友人のアパートがこの玉川上水のすぐそばでした。たしか、彼のアパートへの行き帰りに、この玉川上水の傍を歩いたものです。そのときにも、この太宰治の死を話したものでした。
 それが大学1年の夏で、そのちょうど2年後のたしか7月、私が府中刑務所に勾留されていたら、武蔵野美術大学全共闘(違う名前だったかもしれない)の人が面会に来てくれて、そのときに、私がこの同級生の名前を出したところ、同じくバリケードをやっている友人だということで、すぐその何日か後に、府中に面会に来てくれたものでした。
 思えば、このときに最初に面会に来てくれた方にもお礼を言いたいな。思えばもう40年も前のことですが。
 でもでも、やはり太宰治には、死なないで小説を書き続けてほしかったな。いえ、今文学者の亡くなった歳を少し考えていたのですが(例えば、漱石とか、それから長生きしたという武者小路実篤とか志賀直哉とかですね)、やはりもっと生き続けて文章を書き続けてほしかったです。
 この目森さんのコメントを読んで、『ヴィヨンの妻』のあの妻を思います。どうしても私は、酔いどれのあのヴィヨンのほうが好きになれます。

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 私の 図書新聞第2922号への疑問を図書新聞へメールしました へ早速ご返事のメールを頂きました。以下の通りです。以下このメールの中の方の固有名刺(鈴木正文さん以外は)はイニシャルにしました。

  *****************************
萩原周二様

図書新聞を御購読いただきまして、ありがとうございます。
2922号の鈴木正文氏の件ですが、図書新聞のインタビューには、「起訴逮捕」とは書いておりません。起訴はされずに釈放されたと記憶しております。鈴木氏は1949年生まれで、68年入学ですので現役入学です。したがって、正確ではありませんが、早生まれならば未成年の可能性が高いです。成年になっていたとしても、まだ「党派活動家」以前の無党派であり、いずれにしろ、初逮捕であり、起訴されずに釈放になったはずです。東大安田講堂被告で未成年で起訴された東北大学のT氏という人がいることは記憶しておりますが、大半の未成年者は釈放されております。

安田講堂闘争の逮捕者総数は「全共闘各派の767名(内、東大生38名、女性17名)」であり、「そのうち616名が起訴された」と記録されております。鈴木氏は釈放された151人のうちにふくまれているはずです。しかし、この数字も未成年で一端釈放、練馬鑑別所おくり、そこで釈放(保護監察付き)と再逮捕、警察で未成年で二度目の釈放になったもの、起訴になったものもおります。鈴木氏がどういう経過で釈放になったのか、また上記数字がその未成年者あつかいも正確に計算されているかは計りかねます。
いずれにしろ、逮捕者総数と起訴者の比率で、東大安田講堂闘争は起訴者比率が非常に高かったのは事実です。それでも約20パーセント近くが釈放になっております。

鈴木氏とは個人的にお付き合いがありますが、安田講堂に籠城したことも、69年春に外にいたことも間違いではありません。

今後とも図書新聞をご愛読されることをお願いします。今回などのご質問、また、「将門WEB」は拝見しておりますが、図書新聞への意見、批判もありましたら、参考にさせていただきますので、よろしくお願い申し上げます。

図書新聞 K K
  ****************************

 図書新聞のKさん、素速いメールをありがとうございます。
 なるほど、鈴木正文さんは未成年であったのですね。了解いたしました。私は1948年5月30日生まれでしたから、この1968年1月19日には、ちょうど20歳でした。
 この月の1月15日に、東大本郷でデモしていたときに、「ああ、きょうは俺の成人式の日だ」と思ったことを思い出しました。
 そうですね。同じに逮捕勾留されたなかでも、未成年ということで、起訴されずに、23日が過ぎたらパイされた人もいましたね(私は東調布署にいました)。
 私の同じ大学のOさんは、多分皮膚が弱かったのだと思いますが、身体中の皮膚がケロイド状になり、何故か外に出されました。そのときの彼の皮膚の映像は、あとで(1年後くらいに)週刊誌で見たものでした。
 私が府中刑務所にいて、面会したときに、面会者から、「Oさんが、また逮捕された」というようなことを聞きまして、「何を言っているんだ。Oさんは俺たちといっしょに捕まっているのではないか」と思っていたものでしたが、事実は、彼はあまりの身体の状態で(たぶん、警察は彼が死ぬと判断したから、警察署の中ではなく、外に追い出したものだと思います)、でもそのあとまた元気に学生運動をやっていまして、それでまた逮捕されました。そしてOさんは、たしか68年の11月頃保釈になりました。もうこのときには、芝浦工大事件が起きてしまったときで、私はOさんとは手紙をいくつか交換していましたから、けっこう真実は述べることができずつらいとこころでした。
 でもKさん、了解致しました。こんなに素速い対応をありがとうございます。
 実は私が貴紙を購読していることに、批判されることもあるのですが、やはり良かったなという思いです。
 いえ、私はほかのマスコミでも、役所でも、こうしたメールや手紙を出すことは多々あるのですが、返事がはるかに遅い、返事がないということもあります。
 その点、おおいに感激です。ありがとうございました。
 それから、鈴木正文さんへのインタビュー記事の内容にも、実に感心していたものです。やはり、素敵な方なのですね。

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 昨日長春有情の Re:ウィキペディアで遊んだ を読んで、私もはるかな昔を思い出していました。

あれはいつだったのだろうか
どこでだったのか
偶然
ラジオドラマ『青玉獅子香炉』を聞いた
感動した

 私は以下に、このときあなたも聞かれていたこのドラマを私も聞いていたことを書いています。

   陳舜臣「青玉獅子香炉」

 ちょうど私はこのラジオドラマを、府中刑務所に勾留されていた1969年の、4月あたりに聞いているのです。
 森繁久弥さんと加藤道子さんの二人だけの朗読劇でした。
 懐かしい懐かしい思い出が甦りました。

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 北宋の政治家であった司馬光の詩です。

    初夏     司馬光
  四月耋賊乍晴 四月清和 雨乍(たちま)ち晴る、
  南山當戸轉分明 南山戸に当たって 転(うた)た分明なり。
  更無柳絮因風起 更に柳絮の 風に因って起こる無し、
  惟有葵花向日傾 惟だ葵花(註1)の 日に向かって傾く有り。

  (註1)葵花(きか) 向日葵

  四月の初夏、雨はたちまち晴れて、
  南の山は門も正面にあって、すぐにくっきりとしてきた。
  もはや柳の棉が風によって舞うということはない。
  ただ向日葵が太陽に向かっているのが見えるだけである。

 最初の雨とは政敵であった王安石の新法時代のことともとれます。神宗が没して、哲宗が就いたときに宰相となった司馬光には、その雨があがって、晴れの気候が見えたものなのでしょう。思えば、この人は王安石とは反対の立場の旧法党の急先鋒でした。
 この人の『資治通鑑』は何度もあちこちを読んだことがありますし、彼の文章は、『古文真宝』にて、いくつか読んできたものでした。
 思い出せば、私は『古文真宝』は、東大闘争で、府中刑務所にいるときに、差入してしてもらいましたが、さすが漢文のみでは歯が立たず、やがて参考書も入れてもらったものでした。でもあの時代に、この『古文真宝』に触れていたことは、私には実にいいことだったといつも思い起こされてくるものです。

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 欧風菓子「メヌエット」の2ナミちゃんが以下のコメントをくれました。

1. Posted by なみんと    2007年07月30日 09:32
 桃のケーキ「果莉桃」美味しそうですね。
奥様もおはぎさんも喜ばれたそうで周さん!遠くから持って帰った甲斐がありましたね。桃を丸ごとくりぬいてその中にカスタードや何やら・・・もう桃好きの私はたまりませ〜ん。お値段にもビックリ☆
今確かにケーキの種類もものすごく増えておしゃれなものも多いですが値段にも二重に驚いているのですがメヌエット値段は納得です。湖北のメヌエットはいきますが郵便局前はまだ行った事がありません・・近い内に行ってみます。
あと♪ウエストのお菓子もいいですね。
周さんは甘い物を召し上がらないのにいろいろご存知ですね。ウエストは高島屋には入ってないんですよね。たまに出店でありますが三越ですかね。

 いつも丁寧なコメントをありがとう。できたら、ナミちゃんのブログでも、こうした我孫子(もちろんそれ以外のところでもいいです。ナミちゃんの娘さんの住む横浜でも、鎌倉でもいいと思うんですよ)のさまざまないいお店や、いい風景なんかを紹介してくれると嬉しいです。読んでくれている方も嬉しい情報だと思うんですね。
 それで、私としては、もうこの我孫子北口のメヌエットが大変に気に入りましたので、また今度購入に行きます。私の入院している母にも知らせたいし、食べさせたいのですが、ちょっと無理かなあ。私の義母に わが家のおかあさん2007.07.30 での、「ジュレ・オ・ブルゴーニュ」を食べてもらおうとしたのですが、やはり大正生まれの人には難しすぎる味でしょうね。
 ずっと甘いものは、何十年と口にしなかった私ですが(あ、約38〜40年間だ)、こういう甘さなら、食べることができるのです。

 でもこの「果莉桃」もいいですね。今度いくつか購入してきます。長女の彼のミツ君にも食べてほしいのです。それに私の次女のブルータス夫妻も見せたいし、食べてほしいのですが、なかなか機会がないのですね。
 それに私のクライアントで、こうしたものが大好きな女性がいるところが何社もあるのですが、問題は我孫子ですからね。その会社に行く前に、我孫子までいかないとならないというのは実に大変です。それに義姉にも義妹にも食べてほしいな。
 なんとか考えよう。

 それとね、私はウエストは、ずっと利用しています。ずっと銀座本店では、いつも誰か女性と待ち合わせしてきました(男性とは、もう飲み屋で飲んでいるままの待ち合わせです)。最初は大学5年か6年の頃ですね。あの店は、実に落ち着かないからいいのです。私は喫茶店で落ち着く店なんて嫌いです。早く、そのあとの飲み屋に行きたいのだから、もう喫茶店やケーキ店でゆっくりしなくていいのです。
 あ、それとウエストのものは、けっこう今までもあちこちに持っていっていますよ。インターネットでウエストのホームページで最初の頃誰かに贈ったこともありました。でもそのときは、ウエストさんもインターネットに慣れていなくてね。ウェブ上で注文しても、すぐあとで、電話でも確認しあったものでした。
 それで、26日に義姉に持っていきましたのは、柏高島屋です。贈答の時期だけお店が出るのです。あ、それに私は高島屋が割と好きなのですね。私は人に贈るときに、高島屋はよく利用しています。

 それから(またそれとね………と書くところです)、私は甘いものが、20歳の頃より嫌いです。その頃肉体労働のアルバイトで、「あんまん」なんか出されたことがあって、もう死ぬ気で食べたものでした。
 東大闘争で、府中刑務所に居たときに、5月3日とか5日の国民の祝日に、白いご飯に、餡こが山盛りにかけられて出てくるのね。普段は、麦しゃりを残さず食べる私でも、それだけは勘弁してくれとばかり、すべて口にしないで、捨てようとすると、世話焼きの懲役さんが、実に怒りましたね。「こんな甘いものは、せっかくなんだから、ご飯にまぜて全部食べな」というのです。
 でも私は、「もう私は、こういう甘いものが嫌いなんです。勘弁してくださいよ」と言っていたものでした。

 でもでも、今後はそういう私を改めます。孫ができて、そのポコちゃんとディズニーランドへ行きたいと真剣に願っているように、私もこういう甘いものも食べられるようになるはずです。

 欧風菓子「メヌエット」 へ

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

               2007年6月12日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 またもひさしぶりの手紙になります。
 もうきょうなんか、けっこう暑いです。おはぎは同じマンションですが、あそこのほうが涼しいです。ここの部屋はどうしても暑いです。もう古い部屋で、そのままだから。しかたないよねえ。夏だもの。
 うちの家族は、鹿児島にも住んだわけですが、はやり名古屋のほうが暑かったですね。ただ、このことは住んでみないと判らないでしょうね。今はもっと暑いんだろうなあ。言われることだけど、年々暑くなる年を感じています。このままいくとどうなっちゃうのかな。
 思い出せば、私が一夏過ごしたした府中刑務所も暑かったです。狭い独房なので、ただただ暑いだけでした。ただ中にいると、まったく外の世界のことが判らないので、ときどき面会に来られるかたの話はどうしても私には判らないことが多々あったものでした。
 ただ、私は保釈になってから、こうした拘置所なりに面会に行くときには、そうしたことを判った上でお話しするようにしていましたからね。私が中にいるときは全然無理解な人とは会っても、一応わざわざ面会に来てくれたからという感謝の気持は失わないようにしましたが、独房に長期勾留されているということがまったく判っていないとしか思えないという人もときどきいたものでした。まあ、でもこれは仕方ないことです。
 でも、こうして自分の母親にひさしぶりに手紙を書くようになって、昔を思い出しているのですが、いろんなことを振り返るようになりました。
 私は秋田というところは2カ所住み、名古屋は3カ所だが、鹿児島は1カ所だとばかり思っていましたが、私は原良町に下宿もしていたんだねえ。だから鹿児島は2カ所に住んだことになるんだ。
 浦和は2カ所だとばかり思っていたら、あそこは3つのところに住んでいるんだ。
 我孫子も勝手に3カ所だとばかり思い込んでいたけれど、我孫子の実家にも住んでいたのだから、4カ所なんだねえ。
 私がまったく記憶ないのが、東京の巣鴨に住んでいたということだけなんだけど、あそこはどこにいたのかなあ。私の孫のポコちゃんが巣鴨で生まれたから、あのとき、何度も、「自分の住んでいたのはどこらへんだったのかなあ?」という気持でいっぱいでした。できたら、いつかそこ場所を知って歩いて見たいものです。たぶん、何かを思い出すんじゃないかなあ。       早々

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三億円事件と伝書鳩 1968~69
書 名 三億円事件と伝書鳩 1968−69
著 者 吉田和明
発行所 社会評論社
定 価 1800円+税
発行日 2006年12月8日初版第1刷発行
読了日 2007年6月8日

「うーん、『三億円事件』」というと、府中刑務所の近くで起きた事件だね…」なんて思い出していました。1968年の暮にあった事件で、でも私はその事件があったことも知りませんでした。ただ私はその次の年の1月に東大闘争の安田講堂で逮捕され起訴され府中刑務所に移管されることになりました。この本の6ページに、「事件現場の見取り図(1968年当時)」というものがあり、地図には府中刑務所も描いてありますので、「そうだ、俺は府中のここらへんの房にいたんだ」と思うことができます。
 大きな事件でしたね。なんだかいつも昔が懐かしく思い出される事件です。
 また犯人とされるモンタージュ写真が、何故かあの当時の私に少し似ていることも懐かしく思い出されます。
 ただ、この本でこの三億円事件以上に大きく書かれています伝書鳩のことですが、これはまた私たちの年代の多くが関わったことだったのではないでしょうか。
 私は名古屋の北区大曽根にいたときに、小学校5年生だったときに同級生の何人もがこの伝書鳩をやっていたと思います。ただし、私はまったく関わりませんでしたし、思い出せば、女の子は誰も関わっていなかったなあ。でもこの伝書鳩は何があんなに魅了するものだったのでしょうか。今になっても私にはまったくわけの判らないものです。
 実をいうと、この本は、ほぼこの伝書鳩のことが多く書かれています。だから、どうしても私には関心のないことなので、ページを熱心に読み進めませんでした。
 この吉田和明さんの本は他にも何冊も読んでいまして、いつもかなり感心しているのですが、この本は、伝書鳩に対する私の感心のなさで、どうしても面白くよみ終わることはできませんでした。

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 以下、私がたった今書きました母宛ての手紙です。実際の手紙とは違って、ここでは名前等はハンドル名にしてあります。

   萩原たか子 様

                2007年6月1日

                周のURLメール
                今の王子の住所電話等

 前略
 ちょっとしばらく手紙を書いていませんでした。どこに郵送したらいいのか判らなかったんです。きょうは、おはぎと孫のポコちゃんが、あちらの実家へ行っています。あちらのお母さんにおはぎは可愛がられているんですよ。それはね、このあいだ結婚したブルータスも同じなんです。
 ああいうふうに、相手のお家の家族に可愛がられているというのは、みなおばあちゃんと王子のおばあちゃんが育ててくれたおかげだと思っています。
 思い出せば、横浜で私は大学に入って大学1年の終わりの頃、我孫子に引っ越したものでした。でも私はいいのですが、マサシは横浜の鶴見まで通ったのだから大変だったね。あのときは高校2年の最後の頃だ。だから高校3年は大変だったろうなあ。
 私も我孫子というところは、中学高校の友だちもいるわけではないから、それほど親しい感じがする街とは言えませんでした。私はまた北浦和にアパートを借りて住みだしたしね。でもあの北浦和のアパートは1カ月も住まないうちに、東大闘争で逮捕されることになってしまったね。私が逮捕されて取調を受けていた東調布署というところは、一体東京のどこなのかさっぱり判りませんでした。「東調布」というから、調布市のそばなのかなあ、なんて思っていましたが、のちに、こののちというのは今から10数年前に、私が役員をしている会社が大田区にあって、そのときに税務調査があったときに、その税務署の職員に聞いたものでした。東調布署というのは、大田区の田園調布にあるんだね。驚いて、その日は、夕方わざわざこの東調布署を見に行ったものでした。
 外から、あのときの留置場の位置を確認しましたよ。でもよくあそこまで、みんな差入れに来たりしてくれたものでした。ばあもよく来てくれていました。まだ面会はできなかったけれどね。起訴されて接見禁止が解けたときに、友人が来てくれて、そして府中刑務所に移管になったときに、ばあは来てくれていましたね。あのときに、ばあは「こんな秋田犬を飼いだしたよ」と言ってくれました。私はシロのことがとても心配になって、そのことを聞いたら、「シロはこなくなっちゃったよ」と聞きまして、「ああ、またうちは秋田犬を飼うのか」という思いで、でもシロのことばかりが気になりました。でもそのまたあとの面会で、シロがまたやってくるようになって、子犬の秋田犬に喧嘩のやり方を教えているなんて話を聞いたものです。
 あのシロという野良犬は、実に面白い頭のいい犬だったねえ。もうたくさんの思い出を残してくれた野良犬でした。              早々

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 今王子の同じマンションに住んでいます長女の家族は、きょうは彼の実家へ行っています。買い物もあるようです。
 それで午前中に、私のところへきて、バルサンを仕掛けているから、あとで見てくれといいます。特別に私がやることは何もないのですが、もしもなにか事故でも起きていたら大変です。
 長女の家は、お隣が引っ越したので、まったくの空室ですから、そちらにいるゴキブリが移動してきたらしいのです。それで、きょうの大規模なバルサン作戦となりました。
 私はまさかとは思いましたが、ひっとしたら家に入ったら、累々としたゴキブリの屍があるかと思っていました。「それを俺はかたずけないといけないな」。
 でもでも、部屋に入ったら、あちこちにいくつかのバルサンはありますが、ゴキブリの死骸なんか、何もありません。みんな察知して逃げてしまったのかなあ。
 なんだか、少し拍子抜けしてしまいました。
 まあ、でもこんなものなのかなあ。

 しかしいつも思うのですが、女性って、この「ゴキブリ」ですごく騒ぐよね。なんでなんだろうか。昔、どこの女性のアパート行きましても、このゴキブリ騒動が大変でした。もう大変な騒ぎになります。
 私なんかは、ゴキブリはなんといいましても殺虫剤よりは、なにかで叩いて圧死させるべきだと思っていたものです。よく叩いて殺していたものでした。
 私が大昔府中刑務所に勾留されていたときに、実に府中刑務所のゴキブりはでかいのばかりなのです。夜寝ていると、ときどき大きなゴキブリが顔にかかってくることがあります。私はもう頭にきて、よく帚をもって追いかけ回して殺していました。
 そうして声を挙げて、あちこちを叩いていると、看守が「おい、5004番何しているんだ」と詰問しますから、「今ゴキブリと戦っているんだ」なんて言い放って、そして叩き殺していたものでした。
 その他、小さな狭いアパートの部屋でも、ゴキブリを殺していたのをたくさん思い出します。
 あ、そうだ、北海道の人はゴキブリという存在を知らず(北海道にはゴキブリがいないといいます)、その友だちの何人かは、「このコウロギは飼ってやっているのに、鳴かないな。雌かなあ」なんて言っていたものでした。私は何度かそういう函館の友だちに、「これはゴキブりだ、すぐ殺すぞ」と言っていたものでした。
 バルサンで、昔の学生時代を思い出していました。

 実はね、こうして簡単に書いていますが、私はそのゴキブり騒動を細かく思い出していました。府中刑務所のことも詳細に思い出しましたが、学生時代にあちこち行きました、女の子の部屋でのゴキブリ騒動も思い出します。あんなに鋭いしっかりした女性であっても、ゴキブリが出てくると、なんであんなに嫌がり、恐ろしがるのかなあ。人間がまだ人類でない生物のときに、その頃の私たちの雌は、ごきぶりにかなり怖ろしい目にあったのでしょうね。
 またどこかの飲み屋で、このいくつものゴキブリ騒動の話をしようかなあ。

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07041801 私は離れている次女にこの1月からずっと手紙を書いてきました。そしてこのところ、同じマンションにいる長女にも手紙をこの4月10日から手紙を書いています。
 そして母が入院したので、母にも書いています。母は昔私が高校1年のときに鹿児島鶴丸高校で下宿しているときにも手紙をくれていました。でも返事はほとんど書いていません。私が学生運動で府中刑務所に勾留されていたときも、たくさんの手紙をくれていました。でもこのときにも返事を私はほとんど書いていません。そんな過去の私のことをおおいに反省しています。だから今、私はずっと手紙を書き続けるのです。(4/19)
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 4月6日に早稲田面影橋の甘泉園で唯一そこにありました桜の樹の下で桜の花びらを2枚拾いました。みるみるうちに、桜の花びらを拾っていた自分の遠い記憶を思い出していました。
 私は1969年の1月19日に東大闘争で逮捕され起訴されて、2月20何日に起訴され、2月末に府中刑務所に移管されました。
 府中刑務所は、所内にたくさんの桜の樹があります。だから3月末になると、その桜がたくさんの花をつけます。
 それで毎日運動の時間があります。そのときは扇形をして小さく閉鎖された運動場でたしか15分くらい運動が許されます。
 このときに、この狭い運動場にも、いくつもの桜の花びらが落ちています。だがそれをかがんで拾うことは簡単ではありません。すぐに、「5004番何しているんだ」と看守からの誰何がくるからです。
 でもある日(たしか4月の2〜4日くらいのとき)、いくつかの花びら(たぶん20枚近く)を拾いました。それを房に持ち帰って見てみると、桜の花びらというのがとても綺麗なのに、大変に感激します。それで私は、翌日の運動の時間には、「もっとたくさんの花びらを拾おう」と決意しました。

 ところが翌朝(朝6時が起床時間である)起きてみて、房の外を見て(房には狭い窓がある、ただし窓と言ってもガラス窓ではなく、鉄格子とビニールが貼ってある)驚きました。外は一面の銀世界です。今でも20年の一度くらいありますが、「台湾坊主」という低気圧のおかげで、この桜の季節の4月始めに雪が降るのです。万延元年3月3日の桜田門外の変のときも、この気候で雪が降りました。
 この日は、突然の雪で、運動は中止になりました。

 もうその翌日には、前日の雪のおかげで泥だらけになった運動場は、もう桜の花びらなんかありません。私はとても寂しい気持になったものでした。

 さて、でも房に残った20数枚の桜の花びらです。このままでは、花びらが駄目になってしまいます。
 そこで私が思いついたのが、週の3日手紙が出せて、1日に2通(ただし、便せん3枚で書く文字の大きさにも制限があります)が出せるのですが、その手紙に貼る切手の裏に、この花びらを貼り付けることでした。
 切手の裏に花びらを貼るのは簡単です。でもさらにそれを手紙に貼るのはなかなかできません。それで、毎日食べる配当のご飯の米を使うことです。ところが、府中刑務所の麦シャリです。どうみても私には麦ばかりに思えたものでしたが、それはこのときに感じていたことなのです。麦はいくら口の中で咬んでも糊になりません。米の粒なら糊になるのです。
 だから懸命に米の粒を探して、口の中で咬んで糊にして、桜の花びらを貼った切手と、封筒を貼っていたものでした。
07040901 ただし、このことは誰にも言うことができませんから、黙っていただけです。だからあの頃府中刑務所から私の手紙を受け取った方は、その手紙の切手の裏には、今でも桜の花びらがついているはずです。

 そんなことで、このの画像は、つい先日4月6日の早稲田甘泉園で、私が拾いました桜の花びらです。

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 私の 建築の現場の足場の上だけの問題ではないイエイリ建設ITラボ の家入さんからコメントをいただきました。

いつも、小生のブログの記事を、さらにパワーアップした視点でご紹介いただき、ありがとうございます。m(__)m

ある現場では、「親方は馬券を買うのにケータイを使っているそうだ」という話がヒントになり、現場に出入りする専門工事会社の職長が、ケータイで現場の情報共有するシステムを作ったそうです。

ケータイの機能は、ちゃちい面もありますが、写真、動画、録音、送信、GPSなどなど、一通りそろってますから、これらをフル活用すれば、オモロイかも知れませんね。

家入/イエイリ建設ITラボ

 うーん、なるほどなあ。馬券を買うのも、その工夫を考えることによって、さまざまにやっていけるのですね。私は賭け事はやらないので(こういうふうに言いますと、嫌な奴だと思われちゃうこともあるんですが、でも仕方ないのです。私はトランプも「パパは賭け事はやらないんだ」なんて言いまして、小さいときの娘たちに「トランプは賭け事じゃないよ」と言われたものでした。今は、姪の子どもの二人の小学生にも言われています。「ウノは賭け事じゃないよ」と)。

 ケータイはたしかに画面は小さいけれど、もう驚くほどの機能があります。これは日本は世界の最先端を強烈に走っているのではないですか。欧米も中国・韓国も、ケータイを会話の機器として使っていますが、この日本だけは、ケータイはその通話以外に、デジカメ、インターネット、音楽プレイヤー、電子マネー、ゲーム機、クレジットカード、道案内等々の機器として現実に使われています。
 私なんかは、今一番使っているのは、メールとカメラ機能ですね。

 私は21歳の1969年のときに、1年に200通の手紙を出しました。ちょうど学生運動で、私は府中刑務所に勾留され、保釈で出てきても、また別な事件で逮捕起訴されたので、この1969年は娑婆にいた期間が実に短い(3カ月もいなかったな)のですが、それでも200通とは「俺も偉いな」(あのですね、少しも偉くなんかありませんが、手紙のことだけはこう自分で総括していました。阿呆だね)なんて思っていましたが、なんのことはない、今は20日で200通を越えるケータイメールを出しています。
 しかも昔の手紙のときも同じですが、決して短い内容ではありませんよ(あ、妻へのメールは短いかな)。私からケータイメールをもらっている人は判るでしょう。そんな短いメールじゃないよね。あれはね、私が短く適確なメールが書けないからです。

 私が 周の『よむ・かく・生きる』に書いていますが、ぜひとも多くの方々、とくに私と同じ団塊の世代の方には、ぜひともケータイで、人生を、この世界ももっと面白くしてほしいものです。

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