将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:当時の芝浦生

12090912 私の『周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ「当時の芝浦生」さんよりコメント の3』へまた次のコメントがありました。

1. Posted by 当時の芝浦生より   2012年09月09日 14:20
いえいえしつこいなんてとんでもございません。闘争で1年先輩であれば、国際反戦デーも含め、教育大闘争にも詳しく、直ぐの、僕の師匠である、後に学生インターの委員長になった先輩は「反戦連合がやられたらしい。。」とのサラリとした分析を言って、早めにバリケードから去り下宿へ帰りました。「反戦連合」と言われてもただキョトンとして、では2号館にきたグループはどちら?みたいな当時の自分でした。ですから周さんのお詳しいレスには大変史実として参考になるものがあり「事件」ではありませんでしたし、やられたからやりかえした行動ではなかったことが、今わかります。周さんは30年経て滝沢さんのお墓参りもし、親御さんからたくさんのお酒をいただいたようですね。失礼な言い方かもしれませんが、埼大の襲撃は、マル学同盟員も含めてたくさんの戦闘的学友のみなさんにとって「知らぬは埼大の学生だけ。。」そんな事態だったようです。はじめてわかりました。はじめての「内ゲバ事件」とのとらえは間違いではないでしょうか。

 ええと「周さんは30年経て滝沢さんのお墓参りもし、親御さんからたくさんのお酒をいただいたようですね」は、私ではありません。あのときは、私は用がありまして、いけませんでした。行きましたのはNさんたちではないかな。Nさんは私とずっと付き合いのある方です。ただし、彼はこうしたインターネット上でブログ等を展開されるのは無理なようです。まあ、みんな60歳を過ぎていますからね。ただし、私は30代前半よりパソコンを使っております。
 前に、私の友人たちが私のこのブログも実際に読むのが大変だと言っていました。私のはただただ量が多いだけですからね。私はただ『「書き言葉」と「話し言葉」』では、書き言葉を優先してやっているだけです。だからケータイメールやメールだけではなく、手紙も書いているのです。手紙も圧倒的量を出していますよ。でも手紙を出しても、怒られることもあって(周ちゃんのは、面倒な漢詩が12090913長々と入っていて、面倒なんだそうです。あ、怒ったのは可愛い女の子です)、私はお付き合いが大変なのですよ。
 私は手書きの時代もよく手紙は書きましたが、今はパソコンでやれますからね。ただし、手紙はプリントする用紙と、貼るシール・切手はちゃんと凝ったものにしているつもりです。

12090910 私の『周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ「当時の芝浦生」さんよりコメント の2』へまた次のコメントがありました。

1. Posted by 当時の芝浦生より   2012年09月09日 13:42
まず、すいません。個人的な9月と言えば成田の9.16が日にち的に印象深く、最初のコメントの15日は18日の誤りです。そうでしたか。。どなたか一人先行してタクシーで滝沢さんに問い合わせの大宮校舎への行動があったのですね。2号館と言えど実質的に大学の教務課でして、2階は会議室と一部事務室でした。僕は夜9時半ごろ館を離れましたが、埼大からのグループがどこかの部屋を占有し一人閉じ込めて使用したとのことはありませんでした。みなただ身体が埃くさいようで、滝沢さんを除いて寝る場所の確保とか、疲れてましてもみなさんが体を動かしていないと落ち着かない様子でした。館内の2階のみを歩き回ってましても目的ある行動をとは映らなかったです。
大学内外の闘争をスクラムを組んできた同士の生命、怪我はないかの心配をするのは当然ですね。意図があり大宮に行ったのではないのでしたね。
埼大を偽装したヘルメットで襲い、書記局がからんでいて、組織員としてエスコートせざるを得なかったのが滝沢さんなようです。

 先行して行ってくれたのは、埼大の中核派の人でした。もう名前も何もかも覚えていますよ。1969年の9月18日・19日のことですすから、もう40数年が経っているのですね。「埼大を偽装したヘルメットで襲い、書記局がからんでいて、組織員としてエスコートせざるを得なかったのが滝沢さんなようです」。残念ながら、そうなのです。
 でも私はこのために前科二犯(もう一つが東大闘争です)ということで、大学を出てからも、もう実に大変でした。就職しようとしても、実に、面接でとうとうと、マルクス主義批判、学生運動批判をされる方がいて、実にばかばかしくて嫌になりました。
 私こそが反共産主義、反マルクスの意思もあるわけでしたが、それをその場でいうわけにもいかないしねえ。しかし、本当にくだらない人がいっぱいいましたね。マルクス主義が嫌なら、大学時代にそれをちゃんと展開すればよかったのです。
 その後、私のクライアント関連で、学生時代は、いわゆるこういう学生運動に批判的で、でもちゃんとそう主張して、でも私たちの側が暴力的でね。彼らが可哀想だったな。
 それでまた社会でパソコン等のことで、私と知り合って、よく協力しあった方も何人もいますよ。私はパソコン等でも絶対にやり抜くからね。
 パソコンを自作することでも絶対にやりぬいたものです。でもそのころになると、もう昔の左翼にいたとかいう連中の保守性はひどいものでした。私が13年くらい昔に、「自作パソコン講座」ということで、ゴールデン街の「ひしょう」で土曜日昼すぎから講座を開いたときも、昔の左翼仲間の講座なのに、まったく来てくれなかった(昔の左翼でない人が一人来ただけです)ものでした。12090911

 あ、実はこうして書いている間にも私は自分の部屋以外のところのものをかたづけたり、大きなものを(もう捨てるしかないようだ)捨てにいったり大変です。ある関係でケータイメール出したりと大忙しです。

201708140112090908 私の『周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ「当時の芝浦生」さんよりコメント』にさらに次のコメントがありました。もう今度この『「当時の芝浦生より」よりのコメント』で行きます。いえ別にそのまま書こうが、私は面倒ではないのですが(コピーするだけですから)、もう短いほうがいいでしょう。
小阪修平さんにはいわば関係ないのですから。いや小阪さんも、この芝浦工大事件は、救待で私たちは随分お世話いただいたのですが、直接は関係ないといえるかと判断したのですね。

1. Posted by 当時の芝浦生より   2012年09月08日 23:31
周さんからレスは思ってもみませんでしたので、いただき嬉しかったです。62歳です。
時計台の死守みたいに1日以上は絶対もたせるとの要塞建設班長でした。1971年9月の成田第2次代執行の駒井野メイン塔の最上段BOXにいました。1年生もんが同盟員になりました。東大闘争時点では社青同国際派?の旗の赤ヘル組織に入りました。目の前の今あるテーマに向いどうしていく。。このことを自己に問い合わせ、決断し篭りました。なので同じように篭られた周さんを尊敬しますよ。キャンパス内では大人気なようでしたね。埼玉大の今井隊長さんかもですね。
狂おしく悩ましく・『前進』編集局員の事件録 のブログを読みました。

バリケードの破壊は凄まじかった。

この文は印象的です。「10.8」時には内ゲバもあったこととか。。組織として発芽が既にありましたようですね。
また周さんの「事件」ではなくて事故だったとのこともです。
また、別日になりますが、他のレスにも私から再コメントさせてください。

私はこの「狂おしく悩ましく」が書いているように(あ、私は彼のところ旧東京拘置所へ面会に行きましたよ。手紙もやりとりました)、反戦連合とかいう部分のNという人間とは、その後付き合いがあり(私の結婚式にも彼は出ています)、でもその後、左翼運動とは無縁のウィンドサーフィン(ボードセーリング)のことで、大掛かりな争いになり、もう袂を割ってからもう28年になるでしょうか。
もう彼とはこのパソコンのことでも大きないさかい(まだインターネットということは存在しなかったものです)になり、でももはや、彼はこのパソコンでもインターネットでも無縁の存在でしょう。
あ、私はずっとパソコン通信でもパソコン自作でもホームページでもインターネットでもずっとやり続けていますよ。私は世界で一番UPを続けているサイトです(内容ではなく、内容がいいわけではなく、ただUPし続けているだけです)とにかく、UPし続けているのです。あ、それにパソコンとインターネットだけではなく、詩吟もずっとやり続けていますよ。いつもどこかで詠っています。
思うけれど、いわゆる新左翼もみなひどいけれど、いわゆる新右翼とかいうのもダメですね。なんだか昔の馬鹿な新左翼そっくりですよ。
12090909 でも詩吟もね、今の私の娘ブルータスの友だち(もう今は30代ですが)に。真顔で「シギンって何ですか?」と言われたときは(今からたしか7年前)、もう私は死ぬほど驚きました。
いや、いっぱいありますよ。ウィンドサーフィンだけではなく、サーフィンのことでも、出版のことでも会計経理税務のことでも、いや鎌倉を歩くことでもたくさんのことがありますね。

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12090611 また書くわけですが、私はけっこうしつこいでしょう。
 それでですね、私は「当時の芝浦生」さんに、多分69年に大学へ入られたということは、私が昭和23(1948年)生まれで、現在64歳ですが、「当時の芝浦生」さんは現在62歳か61歳だと推定します。
 そうだとしたら、私がこうしてブログを毎日書いているように、ぜひ「当時の芝浦生」さんもブログを立ち上げてください。私なんかは、いつも酔っ払いでどうしようもないのですから、それよりはずっとましだろう「当時の芝浦生」さんにもぜひともやってほしいものです。
 私なんかは、もともと漢詩が好きで、詩吟をやっていて、実際に70年安保闘争の6・23のときには、埼大のバリケードの中の集会で七言絶句の「黒澤忠三郎『絶命詩』」(実際に詠っているのはここです)をやったものでした。そのあと司会者の一人だった中核派のAがものすごく感激した旨のアジをしてくれたものでした。
 私のブログは内容はともかく、UPしている量だけは、誰にも負けません。中国にも米国にも欧州にも、私以上の量を書いているサイトはありません。私は知りません。
 まあ、しょせんインターネット上のブログなのですが、今は誰でもできるはずです。とにかく、私がやれてしまうのですから。

12090605 また書きます。
 周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2へ以下のコメントがありました。

2. Posted by 当時の芝浦生より   2012年09月05日 14:08
将門さんはじめまして。
朝に、大宮校舎内の寮生活者が起きるのはいつも遅かったのですが、ヘリコプターが上空を舞う音で起き、「事件」を知りました。
15日夜遅くに、バリケードから去るに当り、滝沢さんにお腹がすいたらインスタントラーメンをどうぞと言い伝え、大学講堂の椅子や机の細いトンネルをくぐり抜けドアを閉め最後に帰ったのが私です。
69年4月入学の私が運動には新入であり、生意気にも大学には境界はなく、どの大学も学生のために解放されてるなどと滝沢さんにも話をしました。
ラーメンの話をした時は座っていた滝沢さんは口頭では返事もせず、背筋を伸ばし、なにか考えごとをしてるようでした。

滝沢さんは、「これは美味しいパンだなあ」と丁寧な言葉で言ったことには、私は鮮明に記憶があります。

この文は心からわかるのです。温厚で心優しいお方との印象は今も忘れておりません。
窓下にたくさんの大宮の学生が花を供え黙祷しました。

12090608  ありがとうございます。私たちが「芝浦工大事件」と呼んできたものですね。あれは1969年9月19日早朝に起きた事件でした。
 前日9月18日に埼玉大学文理校舎のバリケードに、不審な黒ヘルメット姿の10名くらいが襲ってきました。そしてTという理工学部の男を拉致していきました。この不審な集団は言うことは早稲田の革マル派のようでした。でも真実は中核派が革マル派を装った姿でした。そしてこの日は早稲田の革マル派も、早稲田他の反戦連合が襲ってくるということで、構えていたといいます。
 要するに、みんな何かを構えていたのですが、それはみな誰かが流したガセ情報でした。でも事実は文理のバリケードにいた埼大生はこの不審な黒ヘル集団に襲われ中には怪我をしていたものもいます。
 私は当日北浦和のロビンという喫茶店で、東大闘争での埼大生の被告団会議をしていました。それで急遽この喫茶店への「早稲田の山本派(革マル派のこと)が襲ってきた。来てくれ」というので、急いで駆けつけたのです。このときの被告団の中の中核派のMさんは、埼大文理の正門で消えました(そのとき気がついたのでしょう。あとでMさんは、あくまでこの中核派の行動に反対していたということでした)。
12090609 私は埼大のバリケードに入って、現場の惨状を見るときに、「これは革マルなんかじゃない。学生運動というのはなんという恐ろしい世界だ」と思ったものです。私は8月20日に東大闘争で保釈になったばかりで、まだ1ケ月も過ぎていなかったのでした。
 当日はこのバリケード内にも中核派の諸君もいました。その中の一人が、滝沢さんが芝浦工大にいるということで、タクシーで訪れたのですが、滝沢さんは「Tのことは知らない」としか言わず、そしてとても眠たがっていたということが伝えられました。これは私たちは埼大文理学部ではなく、そこから徒歩15分くらいの経済学部で聞いたもものです。そのときには、私たちは、いわゆる反戦連合(とかいうのがあったそうだ)の部分だけでなく、中核派の人もその他の人も30人くらいになっていました。
 とにかく、拉致されたTを救出するのには、芝浦工大へいかなければならないということで、私たちはタクシーで東大宮の芝浦工大へ向かいました。行ったのは全部で23人でした。この中には中核派の人もいました。
 そしてそこで起きたのが滝沢さんが2階から飛び降りるという事態でした。そして彼は頭を打って亡くなるということになってしまいました。
 これで私たちは、内内ゲバ殺人事件の犯人とされ、12月9日に私は浦和地裁前で逮捕され、朝霞警察署に拘留されました。
 中核派で前日襲った部隊は外部大学の部隊ばかりで、滝沢紀昭さんのみがいたようです。このときの滝沢紀昭さんの気持は今は分かる気がします。

滝沢さんは、「これは美味しいパンだなあ」と丁寧な言葉で言ったこと

というのは、これは東大安田講堂の中でのことですが、私が東大に行く前に、王子から都電に乗る前に、王子の明治堂というパン屋で、パンをいくつも買って行ったのですが、ここは今の和弘さんのお父さんが現役で作られていたのです(もうお父さんは亡くなられました)。このときの私たち若者は、このお父さんにも大変に印象が強かったようです。
12090610 いえ、なんでそんなことを私が知っているかというと、のちにここの長女が私の彼女になったからです。あの頃はたくさんのことがいっぱい起きていたのでした。
 思えば、王子は王子野戦病院闘争からずっと訪れている街です。たくさんのことがあったものでしたね。王子柳田公園は今私が毎日通る路になっています。

12090514 周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」の2「当時の芝浦生」さんよりコメントがありましたが、それへのレスを先ほど書き始めたのですが、ちょっと簡単にはすまないのですね。時間がかかります。
 それで、またあとでUPします。他にもやることがあるのですね。
 まずは、これだけでUPします。でもこうして書き込んでくれてありがとうございます。もう私と同じ年代の方のほとんどは、こうしたパソコンでインターネットへ書き込むことは不可能という感じなのです。もう実に困っています。
 あとで書きますね。

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