将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:征韓論

 今日はこの新聞を手に取りましても、すぐには読みませんでした。

2012/08/17 05:46日経新聞が入ってきたときすぐに手にしましたが、読んでみたのは先ほどです。
1208170612081707「黒書院の六兵衛」を読んだのですが、この挿絵が乾退介なのかあ。そうなのだろうな。でももうこのときは、このように総髪なんだ。思えば、板垣退介と西郷はこのときから合わないのだなあ。征韓論の時、一時一緒だったように見えただけだったのかなあ。
 それにしても、東海道軍と東山道軍が止まっているのに、甲州道軍が一早く江戸に入ったのですね。そしてこの軍は勝沼で近藤勇軍と戦闘しているわけだ。
 最後の

 諏訪の侍は答えずに目をそらした。

はいいですね。また明日が楽しみです。
12081703「君原健二『私の履歴書』」も興味深いです。「常に全力、鬼気迫る走り 同学年の好敵手、性格は陽気」とあり、私は『円谷さんは「陽気」だったといえるのかなあ』という思いでした。
「渡辺正行『お笑い新人腕磨く生舞台 渋谷でライブ会300回主催、成長の瞬間を目に身震い』」も実に読まさせてもらいました。

 新聞はけっこう読むのですね。

10110911 私のように詩吟を長くやっていると、征韓論に触れないわけにはいきません。征韓論をとなえ、敗れた人たちのそれらしい語句の入っている詩をみてみましょう。
 まずここではくわしく征韓論のことを述べようとは思いませんが、まず征韓論についての誤解は次の点に要約されていると思います。

 一、征韓論そのものに対する洞察の足りなさ
 二、西郷の征韓論への対処の仕方への誤解

 明治維新革命を成し遂げてきた薩長土肥政権にとって、今後の日本がどのような形の国になっていくのかという方向の初めての対決がこの征韓論であったと思います。そしてその中での欧米派である大久保・岩倉対アジア派である西郷の対決がこの征韓論の論争であったと思うのです。いわれるように征韓論が侵略的であったというよりは、彼ら欧米派のほうが事実としての台湾への出征などを積極的にやっているわけであり、そこを西郷はよくみこしていたように思います。その欧米派が勝利し、それが欧米列強がやってきたのと同じ形でのアジア侵略をしてしまったのがその後の歴史ではないかと私は思っています。この欧米派と闘ったのが、一方では征韓論を唱える側だったし、もう一方には秩父困民党や加波山での義挙した同志たちであったと、私はいまでも思い込んでいます。
 そしてこの敗れた人たちの後輩はやがて大陸に渡った北一輝であり、また大杉栄でもあったように思えるのです。そしてまた大杉は関東大震災で殺され、北は二・二六で処刑されました。おそらくは昭和の政権の担い手には、北の存在は西郷の復活のように感じられたのではないでしょうか。西郷がやがて帝都に攻め上ってくることを恐れた欧米派が流してきたのが征韓論の頑迷な侵略性です。
 ここではこの征韓論のことを述べるのではなく、それを唱えていた人の作った詩を三つ見ていきたいと思います。

    獄窓吟     江藤南白(新平)
  欲掃胡塵盛本邦  胡塵を掃って本邦を盛ならしめんと欲す
  一朝蹉跌臥幽窓  一朝蹉跌して幽窓に臥す
  可憐半夜蕭々雨  憐む可し半夜蕭々の雨
  殘夢猶迷鴨緑江  残夢猶迷う鴨緑江

 胡をはらって我が国を隆盛にしようと思ったのだが
  そのことは簡単につまずいて今獄に捕らわれている
 いま蕭々と雨が降っている
 だが今も鴨緑江へ到達することの夢が私をとらへている

 おそらくは、大久保利通はこの江藤新平のことが一番嫌いだったのではないでしょうか。いくらぐずぐずいっても木戸孝允は新政府欧米派を裏切りはしない、岩倉は自分の盟友、伊藤・山県は自分の子分。西郷は基本的には何も喋らない。あとはどうでもいい、ただこの江藤だけは切れすぎると思っていたのではないでしょうか。それが全く都合のいいことに、不用意なままに蜂起し、簡単に失敗してしまった。大久保はロクに詮議もしないまま江藤を梟首してしまう。私には最後の「残夢」には鴨緑江へ到達する夢よりも、本当は大久保への憎しみが溢れているように思えます。それから、最初の「胡塵」とは朝鮮韓国のことではなく、ロシアのことだと言ってしまうのは、私の勝手すぎる解釈なのかもしれません。

   一朝事去      篠原國幹
  飲馬緑江果何日  馬を緑江に飲うは果して何れの日ぞ
  一朝事去壯圖空  一朝事去って壮図空し
  此間誰解英雄恨  此の間誰か解せん英雄の恨
  袖手春風詠落花  手を袖にして春風落花を詠ず

 馬に鴨緑江の水を飲ませられるのはいつのことだろうか
 こうしてまたたくうちに征韓論の事が終ってしまった
 こうした私の思いを誰か判ってくれるだろうか
 しばらくは春風のなか落花でも詠じようか

 この篠原国幹の墓でしばし佇んだことがあります。篠原国幹というと日本の最初の優秀な陸軍士官という感じがあります。それが何故か田原坂で政府軍と戦闘を繰返している。彼が銀作りの刀で西郷軍の最先頭で指揮している姿が浮んできます。ときの政府軍は村田銃で篠原を狙い撃ちます。篠原が倒れたときに、田原坂は落ちます。思えば西郷軍の中での一番の征韓論者といえば、彼と桐野利秋でしょう。なんとしても、この日本を守る為にはやがてロシアとの戦いは避けられないだろう、その為にはと考えたのが彼らの征韓論だったと思われます。彼らの師であった西郷の考えていたのとは少しばかり違うように私は思っているのですが。
 彼のいう鴨緑江の先には満蒙があり、もはやそこにはロシアの勢力が存在すると考えているのです。

   田原陣營作    別府晉助
  植木嶮田原坂壘  植木の嶮田原坂の塁
  崎嶇百戰草皆殷  崎嶇たり百戦草皆殷し
  義師東定中原後  義師東のかた中原を定むるの後
  踏破朝鮮山又山  踏破る朝鮮の山又山

 植木の嶮田原坂の塁
 険しき山路は激しい戦いで草は皆赤く染まっている
  この義の為の戦いに勝利して東の東京を定めて後には
  朝鮮の山々を踏みやぶり大陸にまで行こう

 別府晋助は西南戦争の時の城山の戦いのときに、最後西郷さんの首を切りました。岩崎谷から路を下ってきて、政府軍の砲撃のなか、「晋助どん、もうここいらでよか」という西郷さんの声に応じたのはこの別府晋助です。
 この詩だけはどうしても最後の行を吟うのは気が咎めるものです。私の現在の宗家(國誠流宗家荒國誠先生。もう亡くなりました)も近年は詠うお弟子さんがいても、ひとことはいうようです。これはあくまであの時代の男の夢(ロマン)であり、けっして朝鮮韓国の人を今私たちがないがしろに考えているわけではないのだというようなことを。
 本当を言えば西郷さんこそ、その朝鮮韓国のことは日本と同じ仲間だと考えていたと思います。だから彼は征韓論というような主張はひとことも言っていないのです。
 現在だんだんとそんな論調もいくらか出てきているようですが、私もいつかそうしたことを論じてみたいなと思っているところです。 こうした征韓論からということだけではなく、このころの反政府の戦いに決起していった人たちの詩をまた別に積極的に見ていきたいと考えています。(これは1985年の頃書きました)。

 私はけっして、あの時代朝鮮韓国を武力で攻めることが必要だったなんてことは認めていません。いや私はその思いは西郷隆盛の気持でもあったと思っています。ただ、事実として、この日本は「征韓論」を否定したはずの日本政府自体と日本自体が、それを犯してしまっていたということを忘れることができません。(2010.11.10)

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