将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:思想としての東京

11011001 明治から大正戦前戦後という時代の流れを考えるときに、帝都となった東京という都市の変貌の仕方が大きな意味があるように私には思えてしまいます。この東京の姿から日本の近代化を解明した文章があります。磯田光一のものです。

  私はこの磯田光一のことを思うと、まずどうしてあんなに早く亡くなってしまったのだいう思いにかられます。もう情況の在り方に耐えられなかったのかななどと思いめぐらしてみています。

書 名 思想としての東京-近代文学史論ノート-
著 者 磯田光一
発行所 講談社文芸文庫
1990年3月10日第1刷発行(1978年10月国文社より刊行)

 磯田の著作を読むといつもそうなのですが、その切れ味のよさには感服しながら、どうも「否、否!」とつぶやいてしまいます。どうしてもその切り方に眉につばをつけてしまうのです。
 最初、森茉莉の「気違いマリア」から「要するに、浅草族は東京っ子であり、世田谷族は田舎者なのだ」という言葉を引用して、これには半面の真理が含まれているとしています。

  昭和の東京が西側に膨張しながら近代化を達成したことを考えれば、
 新上京者として日本近代化の指導層になった地方人は、主として世田
 谷、杉並方面に居を構え、森茉莉の“浅草族”を工業地区のうちに封
 じこめることによって近代化を達成したのである。とすれば、このひ
 ずみが文学のうちにどうあらわれざるをえなかったかを問うことは、
 日本の近代化の精神構造をトータルに問い直すことにもなるはずであ
 る。

 たしかにそうだなとは思っても、なんだか私などが飲み屋でやっている戯れ言のような気にもなってしまます。要するにこのように私たちが普段思っていながら、単なる酒のみ話にしてしまうことを、磯田は真面目に向い合い論じているということなのでしょうか。

   東京生まれの谷崎潤一郎が関東大震災後に関西にのがれて感受性の
 安定をはかり、永井荷風や石川淳が地方人にたいして強固に武装しな
 がら“下町”の江戸文化に固執し、さらに小林秀雄、永井龍雄、福田
 恆存、中村光夫らが、東京の近代化に絶望して鎌倉に“第二の江戸”
 を求めざるをえなかったのはけっして偶然のことでない。住居の選定
 も人間生活の上では、最も広い意味での表現である。それはひょっと
 したらイデオロギーの表皮の下にある感受性の質まで関係があるのか
 もしれない。いま挙げた人々に加えて下町育ちの吉本隆明の、新宿に
 たむろする文化左翼への激烈な憎悪、あるいは江藤淳の、ファナティッ
 クなものへの嫌悪感をつけ加えておいていいかもしれない。

「住居の選定も人間生活の上では、最も広い意味での表現である」とはまったくその通りだと思います。例えば吉本さんはすべて東京の谷中、千駄木、根津、駒込、御徒町等々というところを転々としているわけです。まさか杉並や、世田谷や目黒に住むなどということは考えられないのです。
 そこで磯田の書こうとしていることが、なるほど単なる戯れ話ではなく、やっぱり真面目に取り組んでいて、そして読む価値がありそうだなと私は思い至るわけです。あとはその内容こそが問題なのでしょう。
 この「思想としての東京」に「文学史の鎖国と開国-身内の眼・他人の眼」という補論がついています。この最初の部分が実に印象的です。花田清輝の葬儀の際のエピソードをあげています。

  告別式が終って人々が徐々に帰りはじめたとき、私は中野重治氏と
 竹内好氏との姿を認めた。私から数十メートル離れたところを、両氏
 が背中をたたいたり肩を組むような格好をしなげら、談笑して車のほ
 うに歩いていく後姿を、私はじっとみつめていた。私は一瞬、感動の
 こみあげてくるのを覚えながら、ここにまぎれもなく、“日本”があ
 る、と感じた。

 私は歩いて行く二人の姿より、それを見て感動している磯田のほうに眼がいってしまうのです。この「日本」というのもそのあとの説明でもあまりはっきりはしないのですが、当時共産党員であった「村の家」の中野を、「魯迅」の竹内が飲み込んでしまうというようなことを、「日本」といっているのでしょうか。どうにも私にはまだ異和感が残ってしまうのです。こんなところに「日本」を持ち出す磯田に、異和を感じるのです。単に年寄り二人が、仲よく歩いていて、ほほえましいなとだけ感じられないのでしょうか。私は「日本って、そんなもんじゃないんじゃないの」といいたいのです。
 この著作は何度か開いてきました。まだまだすんなりと中に入っていけない自分を感じてしまうのです。
 要するに、私は磯田のことをこう思っているのです。磯田は吉本隆明の存在を後ろに大きく感じながら、三島由紀夫に向いていた。ところが三島の自刃のあと、かなりな苦悩ののち、どうしてか江藤淳のところへ行ってしまった。おそらくは、もっと違う形があったはずなのに。だからあの若さで死んでしまった。
 私はこのような偏見で磯田をみているのです。かなりまとはずれで、いいすぎなのかもしれません。
 できたら今後彼の全作品を読んで、また考えていき、考え直していきたいと考えています。(1998.11.01)

1101051192-11-04 06:59:24 ゴトの推薦図書。「思想としての東京」
 ゴトの推薦図書 「思想としての東京」講談社文芸文庫。

 きょうこの本探したけどみつからなかった。また探します。
 しかし磯田光一とこれからもつきあうようになるとは思わなかった。彼の痛々しい晩年見ていて、もう彼の本を読むことはないだろうと思っていた。でもまだ読む価値がありそうですね。
 三島由紀夫が自刃したとき、磯田はかなり読ませる文章を新聞に書いていた。「三島由紀夫VS東大全共闘」からかなり書いていた。結局東大全共闘にとっては三島のいう天皇が二重に分かっていなかった。でも私は三島も全共闘を評価しすぎな感じがしていた。その三島の天皇を全面に評価している文章だったと思う。確かに、あの事件を否定する市民主義者や、肯定する左翼よりも、磯田のその文はうなずけるものがあった。そして磯田は最後にこう書いていた。

 「この三島の天皇に対抗できる思想といったら、それは吉本隆明の
  『共同幻想論』しかないのではないか」

 たしかこんな文だったと思う。磯田はどうしても、三島に寄り掛かり、そしてその対称に吉本さんを置いていたように思う。でもはたしてそうなのか。私は意地悪く問いたい気がしていた。それが突如として、彼は江藤淳の方へいってしまったのである。三島のように殉教するわけにもいかず、吉本さんのように、「自立」というわけにもいかなかったのだろうか。急に江藤なのだ。
 私はそんな彼を一番からかいたかった。「君のやっているのは、昔日本共産党がいっていたことなんだよ、20年代の共産党と同じじゃないか」と。江藤が何かアメリカとの問題を持っている気がしたから、江藤に言っても、江藤からは何倍もそれへの反論がきそうな感じはしたが、磯田は何故なのだという思いがあった。あれほどの才能をもった、あれほどのするどい評論の書けた彼が何でああなってしまうのだという思いがあった。
 私はその答えは、彼は結局何かが怖い、弱い人間なのだなと思っていた。何かに頼らないとやっていけない。人は本来、独りで自立すべきものなのに、彼は日本のアメリカからの自立なんてことばかりに焦点をあててしまった。しょうががないものだな。ずるいんだなと思っていた。ところが彼の死である。彼はかなり真剣だったのだ。そしてこの日本の近代とうまく格闘することができずに、文字どおりそのまま死んでしまった。

 おそらく磯田光一はそのことに気づきながら、深い屈折を秘めた作品
を書いていたのです。そうして、身のふりどころのない生に耐えながら
死んで行きました。
 彼には語っていない沢山のことがあるはずです。鋭利な論理性をもっ
ていた磯田光一は、しかし、論理よりも、情念的なものにあこがれを持っ
ていたようです。そんな彼が鋭い思考をもって日本の近代に挑みかかり、
その果てに破綻しました。(92-11-04のゴトさんの文章)

 彼の死を思うとき同じく村上一郎の死も思う。全く資質は違うように見えるが、結局は同じなのではないだろうか。日本の近代と格闘して、とうとう疲れて死んでしまった。村上の場合は、短刀による自殺だったが。二人とも、結局「日本」をアメリカに象徴されるものとの対比で考えてしまったのではないか。そしてこの二人とも、すぐそばに吉本さんというとてつもなく大きな存在がいた。吉本さんに「日本なんて、そんなものじゃない」と簡単にいわれてしまうことしかできなかったのではないだろうか。彼等のいう日本とは、結局また本居宣長の作った日本ではないのか。
 ゴトさんに聞きたいのですが、ちょっと思ったのですが、磯田に柳田国男とか、折口信夫のこと書いた文章はあるのですか。村上一郎もどうなのだろうか。そこらが分かれば、私にはかなりなことが分かった気がします。
 考えてみれば、橋川文三もとっくに亡くなったわけだし、あとはあとは桶谷秀昭だけですね。この人はどうしているんだろう。まだいくつか書いてはいるようですが、なんだかわすられてしまった感じがありますね。
 私たちがこの評論家たちと出会ったのは、ちょうど70年のときです。よく学習会やったの覚えています。でもあのころはまだ分からなかった。今になってさまざまなことが見えてきたように思います。しかし、そのころから吉本さんだけは一貫していますね。 (1992.11.06)

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