将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:情況

11080106   Saturday, October 18, 2003 10:41 AM
初めまして。苫米地 聰(とまべち さとし)という者です。たまたま貴兄の吉本隆明がいっぱいのホームページを拝見しました。

 高校1年のときに、出版された「情況」(河出書房新社)を読んで以来、吉本隆明氏の著作を読み続けて来ました。また、「試行」も終刊になるまで20年くらい購読していました。もっとも隅から隅まで読んでいた訳ではなく、「情況への発言」滝村氏の国家論、宮城賢さんのエッセイなどを読んでいただけですが。しかし、ここ10年くらいは数学の専門書ばかり読んでいたので、吉本氏の本を買ってはいても未読のものが多いです。

 貴兄のホームページを見て、またぼちぼち未読のものや、引越のとき以来開いていない段ボールから引っ張りだして、以前の著作も読み返してみようかなという気になりました。
 また、数学の勉強に疲れたら盛りだくさんボリュームのある貴兄のページをウィスキーを呑みながら読ませていただきます。

ちょっと刺激されたことに感謝しつつ 苫米地 聰

   Saturday, October 18, 2003 2:07 PM
 はじめまして。メールをありがとうございます。

高校1年のときに、出版された「情況」(河出書房新社)を読んで以来、

 あの本は1970年11月出版で、私は大学4年生でした。そうすると私とは6年の差になるのかな。私は埼玉大学に6年在学しましたが、その後も関わり続け(もう学生運動では関われませんでした)、埼玉大学の学園祭をやる後輩たちとつき合い続けました。とくに私の6、7、8年下の世代とは深くつき合ったものでした。
 思えば、埼大の学園祭の後輩たちとは今でもつき合っています。今年の大学1年生なんか私より37歳も年下なんですね。

 吉本さんの本は、もう一貫して読み続けてきました。ただ、私が理解できているのかは、はなはだ自信がありません。もっと吉本さんについて詳しい方が大勢いるはずなんですが、このインターネットの世界では露出されていませんね。なんだか、この世界では、いつのまにか、私が先頭を走っている感じになってしまいました。これはどういうことなんでしょうか。
 数学をおやりなのですね。数学関係のフリーソフトでお名前を拝見しました。私の友人にも、数学に実に執拗にこだわっている人がいます。彼はもう圧倒的昔からパソコンにもこだわっていました。ただし彼はパソコンとはいわず、「計算機」といいますが。この彼と会うと、さまざまな話をして、とくにパソコンについては幾らでも話せるのですが、数学の話は、私はまったく判らないのです。
 私の学生運動の大先輩である小野田襄二さんも、つい近ごろ

  「あなたも解けるフェルマーの定理完全証明」

という数学の本を出しまして、それがまた私にはちっとも判らないのです。ただなんとなく不安でしてね、不安というのは、その内容が、はたして、あちこちの数学者を少しは納得させられるのか否かがはなはだ不安でししてね、いや私にはちっとも責任はないのですが、いちおう敬愛する先輩なもので、そして私と同じアル中なもので、なんだか不安です。

また、数学の勉強に疲れたら盛りだくさんボリュームのある貴兄のページをウィスキーを呑みながら読ませていただきます。

 少しは私も何かを人にも与えられているかな、と嬉しくなります。
 メールありがとうございました。萩原周二
(第168号 2003.11.03)

10120405 きょうの朝刊によると、22日に廣松渉が亡くなったとのことです。60歳でした。思えば、昔私たちが若いときには、彼の書くものをよく読んだことがあるわけで、なにか書き留めておこうかなと思いました。

 つい先日、

94-05-11 22:39:31 Re.00707「ゴトです:すいません」 周
ちょうど「ドイツ・イデオロギー」では、マルクスとエンゲルスのいっていることは、微妙に違います。この違いはかなり決定的なものに思えるのです。「ドイツ・イデオロギー」は御存知のように、ネズミに食われた部分というのがあります。そこらをつなぎあわせて、さらにエンゲルスの部分を差し引いてみるとマルクスの思想が浮び上がってくるように思います(註1)。そしてその思想は今も有効だと思えるのです。残念ながら、レーニンはこの「ドイツ・イデオロギー」を読むことはできませんでした。それが、やがてはスターリン主義にもつながることになってしまったように思えてしまいます。
(註1)ここらのことは、広松渉がくわしくやっています。彼のお得意のところです。だが私は、結論は彼と反対のことをいいたいのです。簡単にいうと、彼はエンゲルスを評価してしまうのです。

と書いたばかりでした。たしかいま書店に並べられている「情況」という雑誌でも、この廣松渉の特集号があり、まだ立ち読みすらしていないのですが、いろいろ思い出していた矢先のことです。
 彼は、マルクス主義をソビエト・ロシアの呪縛からときはなたちたかったのだと思います。ときあたかも世界中で、自己疎外論をもって若者が立上りました。そうした中で彼は初期マルクスを深く考察するなかで、ロシアマルクス主義とは違ったマルクス主義像をさぐりあて、つくりだしました。彼がやった「ドイツ・イデオロギー」を完全に再編復刊することは、たしかに大変に意味があったのでしょう。レーニンはその存在を知らず、さらにロシアでは読まれることのないこのドイデを私たち日本では自由に読むことができました。だが、私たちの前に提示されるドイデは不完全でした。昔からいわれていたのは、ねずみに食われてしまった箇所があってそこが読めないとのことでした。しかし、ねずみだけではなく、ロシアスターリン主義がいろいろと改竄していたようです。それを廣松は丁寧に再編集していきます。そして完成しました。
 だが、私などにはそこにいたるまでの、「マルクス主義の成立過程」「エンゲルス論」はたいへんに読み応えがあり評価できるのですが、その後、全世界の新左翼がいわば、なにかしらのものを獲得したと彼が錯覚してしまったときに、彼の書くものは非常につまらなくなりました。この錯覚はどこからきてしまったのでしょうか。ロシアスターリン主義によってとんでもない姿にされてしまうマルクス主義を、彼はなんとしても本来の姿に戻したかったのでしょう。その方法を初期マルクスを考察するところによって成し遂げていこうとしました。しかし、その初期マルクスの考察をみていると、やっぱり私には彼が単なる学者先生だなと思わざるをえません。マルクスが情熱をかたむけてとにかくいいきってしまうところを、「情熱ではなく科学が大事なのだ」というマルクス主義によって切捨てているように思います。それが彼のエンゲルスへの肩入れです。エンゲルスはなんにしても、マルクスへの友情が大事だったのでしょうか、マルクス主義をなんでも綺麗に完璧につくりあげてしまいます。私にはそこが問題だったと思うのです。ロシアスターリンがいけないのではなく、マルクス=エンゲルスといわれるときにもうその後のマルクス主義の姿は形作られていたのだと私は思います。
 廣松は多分かなり絶望して亡くなったように思います。スターリン主義が崩壊していくのは当然に歓迎すべきなのですが、それを崩壊させるものは、全世界のまともな左翼勢力だったはずなのに、そんな連中はいまどこにもいないのです。……私からいわせてもらえば、「いやもうすこし、世界を見てごらん」と生意気にいいたいわけなのですがね。
 とにかく、合掌します。(1994.05.24)

10111612情況
  1970.11.25 河出書房新社 550円
  収拾の論理
  基準の論理
  機能的論理の限界
  機能的論理の位相
  機能的論理の彼岸
  非芸術の論理
  修景の論理
  畸型の論理
  倒錯の論理
  集落の論理
  異族の論理
  芸能の論理
  あとがき

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新聞名 図書新聞第2937号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年10月17日
読了日 2009年10月9日

 昨日この新聞を手にとりまして、「あ、二木さんだ」と声をあげました。たしか彼とは数年前に日比谷公園から東京駅まで一緒にデモをしたことがありました。
 昨日は、酒も飲まず(いや実は熱を出して、『きょうは止めよう』と思ったのでした)、この二木さんの記事を読みました。

評者◆二木啓孝(聞き手・小嵐九八郎) ジャーナリストの原点は学生運動に――二木啓孝氏に聞く 60年代・70年代を検証する

 この方は1949年生まれなのですね。私は私と同じお歳(周は1948年昭和23年5月30日生まれ)だとばかり思い込んでいました。それにこの方は鹿児島にも住んでいるのですね。そうすると同じ時期に鹿児島市にいたわけだ(周は小学校6年6月昭和35年から、高校1年7月昭和39年まで)。
 でもこの方はブンドの情況派でずっとやっていられたのですね。この情況派なんて実際には接したことがありませんので、私は活字で読むだけですね。でも読んでいまして、よく判る気持がしました。そもそも、やっぱり三派全学連であり、そしてブンドが中心だったのでしょうね。
 でも雑誌『情況』をずっとやられていたのですね。情況出版か、なんて思いました。そして情況派と雑誌『情況』は関係があったと考えてもいいのかな、と思ったものです。
 そうですね。最後の二木さんの言葉を以下書きます。

 最近思っていることは、苦労は報いられないと思ったほうがいいということです。苦労は報いられるから頑張るのではなくて、報いられると思って苦労すると裏切られる、そんなことは嘘だとわかるということがあるわけです。どんどんあがけば、報いられるということの意味がちがったものになってくるんじゃないかと思います。自分をみても、志というほどの志はないけれど、一個一個、そこであがいてきましたね。これからもあがくでしょうね。

 私も当然ずっとあがいていくと思っています。

評者◆秋竜山 地方の空気?、の巻

で、「堀井憲一郎『落語論』(講談社現代新書、本体七二〇円)で、〈落語は都市にしか存在しない〉が面白かった」というところで、この本を読んでみます。

 私はこうしてこのブログに記録して、それで本を探すのです。自分でメモしても無くします。まだ自分にケータイメールしたほうがいいです。このブログに記録があれば、いつでも参照できます。

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