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Tag:文天祥

 私の文天祥「正気歌」に文静さんからのコメントがありました。

1. Posted by 文静   2011年10月04日 22:00
文天祥の子孫です!先祖の詩を日本の方にきにいていただいて、うれしいです!

11102010 申し訳ないです。コメントいただいたのに、それへのレスが遅れて申し訳ないです。いくつか、この文天祥「正気歌」に関した日本の詩も紹介したしい、いろいろとやりたいのですが、今孫が入院していまして、そこに毎日行っているもので、その途中はIS01というケータイ端末で書き込んでいるのですが、それだとまともに書けないのですね。もうすぐなんとかやります。なんだか、恥かしいです。

2017062501 私が中学生のときに知って、大変に好きになっていた詩でした。そして高校一年のときに、すべてを書き出して、暗誦しまして、すべて記憶しました。
  それ以来常に私には、この詩は私の心と頭の中に存在していました。
私が東大闘争で、府中刑務所に拘留されていたときも、常にこの詩が私の中では、繰り返し、浮かんできたものです。
   ただ、高校一年で読んだ「曾先之『十八史略』」では、この『十八史略』そのものは、いわば略であり、不満が沸いてきていたのですが、その最後が南宋の滅びる時代であり、この文天祥が描かれているために、それだけは感動して読んでいたものでした。
  ただし、この『十八史略』には、文天祥の生涯は書いてあるのですが、この「正気歌」の紹介はありません。
   ただ、私には常にこの詩は心の中で浮かんでいたものです。
   いつも悲しいのですが、最後の「古道照顏色」を声に出すと、その文天祥の気持をばかり考え、悲しいと同時に、実に文天祥に憧れを持つばかりの私でした。
   またこのときに11071717、あえて文天祥を処刑した世祖フビライも立派だなあ、と思ったものです。(当初は、フビライは文天祥を引退させて、もう穏やかに生きていかせようとしたのでしたが、文天祥がどうしても認めなかったのです)。

   正気歌   文天祥
天地有正氣 天地 正気有り、
雜然賦流形 雑然として 流形を賦(あたえ)られる。
下則爲河嶽 下(くだ)れば則(すなわ)ち 河嶽(かがく)と為り、
上則爲日星 上(のぼ)れば則ち 日星(じっせい)と為る。
於人曰浩然 人に於いては 浩然と曰い、
沛乎塞蒼冥 沛乎(はいこ)として 蒼冥(そうめい)に塞(み)つ
皇路當清夷 皇路 清夷に当たれば、
含和吐明庭 和を含んで 明庭に吐く。
時窮節乃見 時窮(きわまれ)ば 節乃(たちま)ち見(あらわ)れ 
一一垂丹青 一一 丹青に垂る。
在齊太史簡 斉に在りては 太史の簡、
在晉董狐筆 晋に在りては 董狐の筆。
在秦張良椎 秦に在りては 張良の椎(つい)、
在漢蘇武節 漢に在りては 蘇武の節。
爲嚴將軍頭 巌将軍の 頭(こうべ)と為り、
爲ケイ侍中血 ケイ侍中(けいじちゅう)の 血と為る。
爲張雎陽齒 張雎陽(すいよう)の 歯と為り、
爲顏常山舌 顏常山の 舌と為る。
或爲遼東帽 或いは 遼東の帽(ぼう)と為り、
清操夘浩 清操、氷雪よりも辧覆劼蹇砲掘
或爲出師表 或いは 出師表(すいしのひょう)と為り、
鬼神泣壯烈 鬼神も 壮烈に泣く。
或爲渡江楫 或いは江を渡る楫(かじ)と為り、
慷慨呑胡羯 慷慨、胡羯(こかつ)を呑む。
或爲撃賊笏 或いは 賊を撃つ笏(こつ)と為り、
逆豎頭破裂 逆豎(ぎゃくじゅ) 頭(とう)は破裂す。
是氣所磅薄 是の気 磅薄(ほうはく)する所、
凛烈萬古存 凛烈(りんれつ)として 万古に存す。
當其貫日月 其の日月を貫くに 当たりては、
生死安足論 生死 安くんぞ論ずるに足らん。
地維魄蔑 地維 鬚蠅動覆辰椴ち、
天柱魄並 天柱 鬚蠅動覆辰涜困掘
三綱實系命 三綱は 実に命に系り、
道義爲之根 道義 之を根と為す。
嗟予遭陽九 嗟(ああ) 予(われ)陽九に遭い、
隷也實不力 隷(われ)は 実(まこと)に不力(ふりょく)也(な)り
楚囚纓其冠 楚囚 其冠を纓(むす)び、
傳車送窮北 伝車 窮北に送らる。
鼎カク甘如飴 鼎カク 甘きこと飴の如き、
求之不可得 之(これ)を 求むれども得(う)べからず。
陰房闃鬼火 陰房 鬼火闃(げき)たり、
春院閉天 春院 天の黒きに閉ず。
牛麒同一 牛麒(ぎゅうき) 一機覆い辰修Α砲鯑韻犬Δ掘
鷄棲鳳凰食 鷄棲(けいせい)に 鳳凰食す。
一朝蒙霧露 一朝 霧露(むろ)を蒙(こう)むらば、
分作溝中瘠 分けて溝中(こうちゅう)の瘠(つい)と作(な)らん
如此再寒暑 再び寒暑 如くの此し、
百レイ自辟易 百レイ自ら辟易す。
嗟哉沮洳場 嗟(かな)しい哉 沮洳(しょうじょ)の場、
爲我安樂國 我が安楽の国と為らん。
豈有他繆巧 豈に繆巧(びゅうこう)有らんや、
陰陽不能賊 陰陽 賊(そこな)ふ 能(あた)わず、
顧此耿耿在 此の耿耿(しゅうしゅう)たるの在るを顧(み)て。
仰視浮雲白 仰ぎ視て  浮雲白ければなり。
悠悠我心悲 悠悠として 我が心は悲しむ
蒼天曷有窮 蒼天 曷(なん)ぞ 窮み有らん
哲人日已遠 哲人 日に已に遠く
典刑在夙昔 典刑は 夙昔(しゅくせき)に在り
風檐展書読  風檐(ふうえん)に 書を展(ひら)きて読めば
古道照顏色 古道 顏色を照らす。

天地には正気があり、
混然として形を持たずある。
下に行けば河や山岳に為り、
上に行けば日星に為る。
人に於いては浩然の気と言う、
大いに天地に満ちている。
大いなる道が清らかで太平な時は、
和やかに明るい朝廷に吐き出される。
動乱の時代になれば、節義が顕れ、
一つ一つ、歴史に残る。
斉では太史の竹簡、
晋では董狐の歴史を書く筆。
秦では張良が投げさせた鉄鎚、
漢では蘇武の節。
厳顔将軍の頭と為り、
ケイ侍中の血と為る。
雎陽を守備していた張巡の歯と為り、
常山を守備していた顔杲卿の舌と為る。
或いは遼東の管寧の帽子と為り
その清らかな節操は氷雪よりも厳しい。
或いは出師表と為り、
鬼神も壮烈に泣く。
或いは長江を渡る際の楫(かじ)と為り、
その意気は異民族の羯を呑んでかかる。
或いは賊を撃つ笏と為り、
反逆者の頭は破裂する。
これらの歴史の事象は正気が噴出する所であり、
永遠に残る。
正気は日月さえ貫き、
生死などは論ずるに足りない。
大地は正気によって存在し、
天は正気によって尊いとされる。
三綱も正気によってその命を与えられたのであり、
道義は正気を根幹とする。
ああ、私は亡国に遭い、
私は実に努力が足りない。
私は捕虜となっても、南宋の家臣であり、
護送車によって大都へ送られる。
釜茹でにされることも飴のように甘いのに、
之を求めても得られないのだ。
暗い牢屋は静かで鬼火が出て、
春の院(牢屋)は天に閉じていて真っ黒である。
牛(他の囚人)と麒麟(文天祥)が餌箱を同じにし、
鶏(他の囚人)小屋で鳳凰(文天祥)が飼われている。
悪い空気や冷たい露に晒されてしまえば、
死体になる事を覚悟しなくてはならない。
夏冬が二回過ぎたが、
病魔・悪鬼は近寄ってこない。
ああ、ぬかるんだこの場も、
私には楽園になる。
どうして私が何か策を施したのであろうか。
陰陽も(私の体を)損なうことが出来ないのは、
この耿耿としたもの、すなわち正気が在るからである。
仰ぎ見て浮いている雲のように(私の精神が)白いからである。
蒼い空は窮みが在るのだろうか。
悠々として私の心は悲しみにくれる。
哲人がいた頃は既に遠い昔だが、
人間の模範は昔にある。
風が吹く軒で、書物を広げて読めば、
古の道が私の顔を照らしてくれる。

   ただ、私はいつもこの詩が私のパソコンの中にはありました。だが、どうしても全部の漢字が書き出せません。それが不満で私はどうしようもなかったものでした。
  でも今回、こうして書き出しました。実に私がパソコンを使い出したときからですからもう27年になるでしょうか。いやパソコンを使い出してからは30年になるのですが、実際に、この詩をパソコンで書いて、「でも漢字が全部でないな。困ったな」というときからは、もう27年が経過しています。
  これで、私の気がすみました。

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11070717 私は高校1年のときに、鹿児島の高校から横浜の高校へ転校しました。その横浜の高校では私は毎日退屈で仕方ありませんでした。
その退屈な日々、私が学校の図書館に行きまして、本を読んでいましたが、とくにいくつもの漢詩を書き写していました。
以下に書きました。

文天祥「過零丁洋」

私はこのときに、この文天祥の詩をいくつも読んでいました。とくに「正気の歌」は全文暗誦したものでした。
その高校1年のときに好きだったのが、この「金陵駅」でもあります。この金陵を通るときの文天祥のことを何度も思い浮かべていたものでした。この詩を作ったときの文天祥のつらい気持を何度も考えたものでした。

金陵驛(註1) 文天祥
草合離宮轉夕暉
孤雲飄泊複何依
山河風景元無異
城郭人民半已非
滿地蘆花和我老
舊家燕子傍誰飛
從今別卻江南路
化作啼鵑帶血歸

草は離宮(註2)を合(とざ)して 夕暉(註3)を転じ
孤雲飄泊 複(また)何(なに)にか依らん
山河風景 元異なる無く
城郭人民 半ば已に非なり
満地の芦花は 我と和(とも)に老い
旧家の燕子は 誰に傍(よ)りて飛ぶ
今従(よ)り別れ却(さ)る 江南の路
化して啼鵑(ていけん)と作(な)り 血を帯びて帰らん

(註1)金陵驛 金陵(南京)の駅亭
(註2)離宮 南宋の離宮があった
(註3)夕暉(せっき) 夕日の輝き

雑草が離宮を覆わんばかりにのびて 夕日はその上をうつっていくが、
一ひらの雲もさすらい続けてどこへいくのだろうか。
山河も風景もまったく昔と違いはないが、
城壁やそこに住む人たちは、大半変わってしまっている
いちめんの芦の花は、わたしと同じように老いはて、
旧家に飛んでくる燕は、誰によりそって飛ぶのだろうか。
これから江南に別れていくのだが、
必ず悲痛な声をあげる杜鵑(ほととぎす)となって、血をはきつつ戻ってくるだろう

しかし、文天祥はいいます。「化作啼鵑帶血歸」。実際に江南に帰れることはなかったわけですが、それでもあくまでも彼は、宋に殉じるのです。
この詩の雑草は滅び行く故国のことであり、孤雲は今のわが身のことです。でも彼は、杜鵑となっても江南に帰るつもりなのです。
フビライ汗は、文天祥の人物を惜しみ、例え自分に従わなくても、引退させて釈放するつもりだったようです。だが、南宋の抵抗はこの文天祥の存在を唯一のより所としているようです。ために、部下の進言により、彼を殺すしかありませんでした。また文天祥も死を望んでいるのです。
その当時から、高校1年生の頃からですが、私はいつも文天祥のことを忘れたことはありません。
いつも文天祥のことを、あちこちで思い浮かべています。(2005.09.17)

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 私はこの人の詩は私の前のホームページで2つ紹介しています。

  文天祥「金陵駅」
  文天祥「過零丁洋」
   (以上の二つはまた書きましてここからリンクします)

 私はこの人の『正気歌』を高校1年のときに全文暗誦しました。それでもう私のパソコンではこの詩はずっと書いてあります。いつもインターネット上で紹介する気なのです。
11070604 だが残念なことに、詩句には画面には出てこない漢字がいくつもあります。それを他の字に置き換えて、表現するということが出来ていません。もうそうなってから、もう10数年が過ぎているでしょうか。長大な詩ですから、すべて暗誦するまではいいのですが、でもパソコン上で書くことはできないのですね。
 ただこれをインターネット上で披露できなくては、私は何のために今生きているのかと、自分に問うてみまして、やっぱり今後やってみます。
 1236年〜1283年12月8日の生涯でした。南宋が滅ぶときに元と戦い続けますが、結局破れ、獄中の人となります。元のフビライ汗は実にこの人物を惜しみ、何度も自分に使えるようにいいますが、文天祥はそれを決してうけいれません。死を願うばかりなのです。
 私にとっては、いつも彼のいくつかの詩を暗誦している人です。そうですね、彼の「過零丁洋」も好きな詩ですから、何度も詠ってきたものです。ただ七言律詩なので、少し長いので詠うのに約4分かかるのですね。これが少し長いのです。だからなかなか詠う機会がありません。
  ただ、私が詩吟を披露するときに、この詩を紹介することができるというのは嬉しいものです。今年のお正月(2011.01.07)に、義母の通う介護施設で披露したものでした。もちろん、私は詩句も私の解説もプリントして持っていくものなのです。

2017061511
  日露戦争のときに、旅順口閉塞作戦という戦いがありました。旅順にいるロシア太平洋艦隊の活動を封じ込めるために、旅順港の出入り口に船を沈めて、ロシア艦隊の出入りができなくするようにしようという作戦です。
  この作戦に従事したのが広瀬武夫でした。なんどか、広瀬は旅順へ出かけていき、船を沈めました。第二次閉塞作戦のときに、戻る船に部下の杉野上等兵曹長がいません。広瀬は沈めるべき福井丸の中を、杉野を探しまわりました。しかし、みつかりません、部下をみな帰りの船に帰したあとも、広瀬は一人杉野を探します。そして福井丸が沈み始めた頃、帰る船に乗り移りますが、そのときにどうしてか、広瀬を砲弾が襲いました。(註1)
2017061310

(註1)この杉野兵曹長は生きており、実に第二次大戦後満州にて
生存が確認されました。軍神にまでなった広瀬武夫の存在が
故に、彼が名乗り出るのには、これだけの時間が必要だった
わけです。彼もまた悲劇の人だったと思います。

  このために広瀬は軍神とされ、ひろく日本人に知られました。

  この広瀬武夫が宋の文天祥「正気歌」に倣って作ったのが、この詩です。文天祥は元の宋征服の際、最後までフビライ汗に対して闘った人で、元に捕らわれた北京の獄中で自分の思いを、「正気の歌」という長大な詩に表しました。この詩を倣って、同じく「正気の歌」を作ったのが、藤田東湖、吉田松陰、国分東崖と、この広瀬武夫がいるのです。

   正氣歌              廣瀬武夫
  死生有命不足論      死生命あり論ずるに足らず
  鞠躬唯應酬至尊    鞠躬(註2)唯応に至尊(註3)に酬ゆべし
  奮躍赴難不辭死      奮躍難に赴きて死を辞せず
  慷慨就義日本魂      慷慨(註4)義に就く日本魂
  一世義烈赤穂里      一世の義烈赤穂の里
  三代忠勇楠氏門      三代の忠勇楠氏の門(註5)
  憂憤投身薩摩海      憂憤身を投ず薩摩の海(註6)
  從容就刑小塚原      従容刑に就く小塚原(註7)
  或爲芳野廟前壁      或は芳野廟前の壁と為り
  遺烈千年見鏃痕      遺烈千年鏃痕を見る(註8)
  或爲菅家筑紫月      或は菅家筑紫の月と為り
  詞存忠愛不知冤      詞忠愛を存して冤を知らず
  可見正氣滿乾坤      見る可し正気の乾坤(註9)に満つるを
  一氣存磅薄萬古      一気磅薄(註10)万古に存す
  嗚呼正氣畢竟在誠字  嗚呼正気畢竟誠の字に在り
  呶呶何必要多言      呶呶(註11)何ぞ必ずしも多言を要せん
  誠哉誠哉斃不已      誠なる哉誠なる哉斃れるて已まず
  七生人間報國恩      七度人間に生まれて国恩に報いん(註12)

(註2)鞠躬(きっきう)  身をかがめ敬う意味。
(註3)至尊(しそん)  天皇のこと。
(註4)慷慨(こうがい) 意気振るいて嘆き悲しむこと。
(註5)三代忠勇 楠正成、正行、正成の弟正季。 
(註6)憂憤投身薩摩海  安政五年僧月照と西郷隆盛が共に錦江
湾に身を投じたこと。
(註7)從容就刑小塚原 江戸千住にあり、幕末に橋本左内、吉
田松陰他、明治になり雲井龍雄が此処で処刑された。
(註8)或爲芳野廟前壁
  遺烈千年見鏃痕 楠正行が後醍醐天皇の陵に拝辞し、如意輪堂の壁に鏃で一四三名の名を書き連ね、「かへらじとかねて思えば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」の歌を題した。
(註9)乾坤(けんこん) 天と地。
(註10)磅薄(ほうはく) 充ちふさがる貌。薄は本当は石に薄の字。
(註11)呶呶(どど) くどくど駄弁をいうこと。
(註12)七生人間報國恩 湊川の戦いのとき、楠正季は討死のとき「願はくば七度人間に生まれて以て国賊を殺サント」と言ったという。

人の生死は天命なければ論ずる必要はない
天皇を尊び酬いるべきである
勇んで難に向って死をかえりみず
正義の為に死するのが日本魂である
赤穂義士の義
正成、正季、正行の忠勇
西郷と月照は海に身を投じ
吉田松蔭、雲井龍雄は小塚原で刑死した
楠正行は芳野の廟前で鏃を筆に変え書き残し戦死したが
その心は今も残っている
菅原道真は流されても
その言葉は忠愛に満ちており天を怨むことなかった
こうした正気が天地に満ちて
万古に存している
正気とはつまるところ「誠」の字である
なにもくどくどいう必要はない
私はこの「誠」を守って倒れても倒れても
楠氏の七生報国を念願するものである。

  私はよくいろいろなところで詩吟をやりますが、この詩は吟うのに約八分かかるため、いつでもどこでも詠うというわけにはいきません。でも機会があれば、必ず広瀬武夫の心意気を知っていただきたいもので、吟うようにしています。
  私は真面目に生きた広瀬武夫が好きです。彼は相当なロシア通でした。ロシアを深く愛していたと思います。彼は軍人には珍しく、プーシキン、ツルゲーネフ、ゴーゴリなどを原書で読破するほどでした。彼のやった閉塞作戦では、福井丸の船橋にはロシア語による熱い投降の呼びかけが掲げられていました。おそらく広瀬は心の底ではロシアとの平和を願っていたものだと思われます。
  彼はロシア滞在のときに、ペテルスブルグでかなりロシアの貴婦人の注目のまとだったようです。実らなかった恋の話もきいています(註13)。その彼がロシアとの戦いで戦死するとは、なんだか悲しいことです。しかも、彼の旅順口閉塞作戦は失敗でした。2017062324

(註13)ロシア海軍少将の娘でピアノが得意な瞳の美しい、清楚で気品のある女性だったといわれています。名前はアリアーズナ・コバレフスカヤ。彼女の父を介して2人は知り合い、やがて結婚まで意識するようになりますが、それを知った軍の上層部は広瀬に帰国命令を下します。

私はこの広瀬武夫が好きです。軍神になった広瀬ではなく、ただまっすぐに生きている広瀬が好きです。不器用に生きた広瀬が好きです。(1998.10.01)

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2017081506  安政の大獄で処刑された幕末越前藩の志士橋本左内の詩を紹介します。

獄中作 橋本景岳
  二十六年如夢過  二十六年夢の如く過ぐ
  顧思平昔感滋多 平昔を顧思すれば感ますます多し
  天祥大節甞心折 天祥(註1)の大節甞て心折す
  土室猶吟正氣歌 土室猶(なお)吟ず正気の歌

(註1)天祥(てんしょう)南宋末の忠臣。文天祥は宋の為にモ
ンゴル軍と戦ったが破れ、北京の土牢に三年間幽閉される。
フビライ汗は臣になるよう説くが、最後まで節を屈せず、首
切られた。この獄中で作ったのが「正気の歌」である。

二十六年の自分の生涯が夢のように過ぎてしまった
その過去をふりかえるといろいろの感慨が湧き起こってくる
  宋の文天祥のたいせつには日ごろ心を打たれていた。
  今自分もまた同じ土牢で正気の歌を吟じて天詳にあやかりたいものである

  橋本左内(1834〜59)は本名は橋本綱紀、字は伯綱、景岳が号であり、左内は通称です。越前福井藩の外科医の長男として生まれました。一五歳のときに「啓発録」という著作を書いています。一六で大阪の緒方洪庵適塾に入り蘭学を修め、二一歳にて江戸で杉田玄白について、蘭学と医学を学びました。越前藩主松平春嶽はこの左内の才を愛して、藩政の改革にあたらせました。

一四代将軍の後継問題が起きたときに、一橋慶喜をたてるべく奔走します。このときに薩摩の西郷隆盛と面識を持っのですが、西郷は若い白面の書生である左内のことを、たいそう気に入って無二の同志となりました。しかし後継問題は南紀派の勝利となり、大老井伊直弼によって、米国との不平等条約は勝手に締結されてしまいました。そして次に起きたのが大老井伊による大疑獄である、安政の大獄です。
安政六年七月二三日伝馬町へ捕らえられ、一〇月七日斬られました。本当は遠島の刑だったのですが、井伊大老自らが斬罪という評定をしました。実に悔しいことです。もし生きていたら、その後明治の時代にまでも歴史の中で重要な役割を果たせた人物だったと思います。

左内は北宋の岳飛を景慕していました。それで景岳と号したのです。岳飛は、北宋が金に侵略されつつあったときに決然と戦った名将です。だが同じ宋の臣の秦檜のために殺されます。今でも岳飛は中国において大変に人気があり、秦檜は憎まれものです。左内はこの宋において、あくまで夷狄と戦い、非業の最後を遂げた、岳飛および文天祥(ふたりとも宋の忠臣ではあるが、互いに北宋と南宋の時代という時代の差がある)を敬愛していたのだと思います。

この詩はこの安政の大獄のときに、伝馬町の獄中で作った詩です。きっと文天詳のように獄で死ぬことを覚悟しながら文天祥の「正気の歌」を吟じていたのでしょう。また左内は獄中で「資治通鑑」の註釈を作っていたと言うことです。実に従容としていたことでしょう。

ちょっとつまらないことをいうと、私も昔学生運動で府中刑務所の独房にいたときに、この文天詳の「正気の歌」を毎日音読復唱していたものでした。「正気の歌」は声に出して読むのに実にいい詩句なのですね。

同じく次の詩も左内の獄中での詩です。

獄中作 橋本景岳
苦冤難洗恨難禁  苦冤洗い難く恨み禁じ難し
俯則悲痛仰則吟 俯しては則ち悲痛仰いでは則ち吟ず
昨夜城中霜始隕 昨夜城中霜始めて隕つ
誰識松柏後凋心 誰か識る松柏後凋の心(註2)

(註2)松柏後凋心(しょうはくこうちょうのこころ)「論語」
子罕篇にある言葉。歳が暮れていよいよ寒い季節となり、外
の草木がみな落葉したあとに、松や柏(はく)ばかりが緑の
葉をたたえていることを知ることができる。

我が君(松平春嶽)の無実を晴らすことができないで痛恨禁じ難い
俯仰してただ悲痛沈吟するだけである
昨夜始めて江戸の街に霜が降りたが
霜の中でもしぼむことのない松柏の心を知っているであろうか。

松平春嶽は幕末の四賢候などと言われましたが、最終的にはそれほどの活躍することも大きな役割を果たすこともできませんでした。ただ、この左内を持っていたことだけは彼が誇れることだったのではないでしょうか。そして左内は実に春嶽を敬愛しています。どうしても主君春嶽にまで井伊直弼の魔の手が迫るのを防ぎたかったのでしょう。

橋本左内は西郷のみならず、水戸の藤田東湖にも、のちの天狗党首領の武田耕雲斎とも会見しています。またいわば佐幕派である川路聖謨も左内と会っています。誰もが若き左内を敬愛しています。おそらくみな左内の中にかなりな能力と不思儀な魅力を感じていたのだと思います。
佐内の手紙を亡くなるまで肌身離さず持っていたのが、西郷でした。その気持をいつも感じています。(2011.04.19)

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11020408書 名 桜田門外の変
著 者 吉村昭
発行所 新潮文庫

 私が28歳のとき、勤めていた会社で労働組合をつくり、闘争をやったことがあります。組合を結成するや、すぐに48時間ストをやり、すぐ無期限ストを実施しまして、会社側は組合の要求を120%くらいまで認めました。私たちは、8階建てのビルを内も外もステッカーだらけにしましたが、すぐさま綺麗にはがし、掃除し、熱心に業務につきました。ただし、ひとつだけはがされなったステッカーがあります。私のデスクに貼っていたものです。それにはこう書いていました。

  呼狂呼賊任他評

 これは私がいつも詠います、黒沢忠三郎「絶命詩」の第1句目です。詩の全文は、以下の通りです。

   絶命詩     黒澤忠三郎(勝算)
 呼狂呼賊任他評 狂と呼び賊と呼ぶも他の評に任す
 幾歳妖雲一旦晴 幾歳の妖雲一旦晴る
 正是櫻花好時節 正に是桜花の好時節
 櫻田門外血如櫻 桜田門外血は桜の如し

 私にはこの詩は何においても一番好きな詩なのです。
 ところで、このときには、私は広報課というようなところにいたのですが、私の上司の取締役部長が私のところへやってきて、このステッカーをとり外してくれと言います。まずこの課はかなり外部の広告代理店なりが出入りするから、労使がまだ対立しているような印象だけはさけたい。第一、もう闘いは組合の勝利で終って、組合が他のステッカーは組合自身で綺麗にはがしたではないか。どうか俺の男を立ててくれというようなことでした。

  (註)私の労働運動における最初のアジビラ

 私は拒否しました。すると彼は、

 「俺は上司として言っているのではない。男として頼んでいるん
 だ。……結局君はただいきがっているいるだけなのか」

私は答えました。

 「私はいきがっています。ただしこういういきがりが、何か本気
 でやっちゃうことがあるんですよ。いいですか、あなた方とは昔
 万延元年に有村治左衛門と一緒に共闘したことがあるが、あのあ
 と私たちはあなた方なんか信用していないんです。これをとれる
 ものなら、とってみればいいではないですか」

 その部長は気持悪そうに私を見て、自分の席に戻っていきました。「有村治左衛門」といったとき、彼には何か私の正体が分かったようです。彼は薩摩の出身でした。そうです、万延元年3月3日の桜田門外の決起は、私たち水戸浪士と、薩摩藩の合同した闘いでした。黒沢忠三郎が合図の短銃で、井伊を撃ち、有村が首級をあげました。そして薩摩は西にて挙兵する密約でした。しかし約束は果たされない。この小説の主人公関鉄之介は、その約束の実行を迫りに肥後まで行きます。しかし、当時の薩摩誠忠組の首領大久保一蔵(利通)は、関を黙殺します。私はこの部長の後ろに、大久保の姿を、島津久光の姿を見ていました。私は薩摩っ子なんかと、簡単に妥協するわけにいかないのです。

 この小説は、関鉄之介を主人公にこの桜田門外の変の全貌を解き明かしています。かなり新しい事実も知りました。歴史の上や今までの小説などでは、関鉄之介は薩摩に入ろうとしますが、大久保の冷たい仕打によって虚しく帰ることになっています。ここらへんが大久保利通が鹿児島でも人気のないところなわけですが、つまり西郷さんならそんなことしないだろうというところです。
 ところがこの吉村が描いているところでは、関は肥後まで行くが、あまりの厳重な警戒に、薩摩の同志と連絡することすらできません。あのころの情勢だとこれが事実なのでしょう。それにしても、薩摩が密約を守らない事実には変わりありませんが。また襲撃のとき短銃を撃ったのが、黒沢忠三郎であることや、この銃を提供したのが中居屋重兵衛であることなども、この小説で明らかにされました。
 しかしこれでいろいろ知ったのですが、関鉄之介は驚くほど日本中を旅しています。かなり自分たちの運動に情熱をかけていたのだと思います。この桜田の変から尊王攘夷運動は倒幕運動へと変化します。しかし、関鉄之介はその後の動きを知ることはできませんでした。文久元年十月捕らわれ、翌年(1962年)五月十一日小塚原で死罪になります。 この小説には出てきませんが、関鉄之介の獄中での詩です。 

  獄中作      關鐵之介
 時事關心難作眠  時事心に関し眠り作り難し
 獄窓月暗轉凄然 獄窓月は暗うして転凄然
 滿腔忠憤悲歌夕 満腔の忠憤悲歌の夕 
 憶起文山就義年 憶い起す文山義に就くの年

詩の中の文山とは、

  文天祥「過零丁洋」「正気歌」(この「過零丁洋」のほうは紹介してあると思っていましたが、まだやっていないので、そのうちにやります。「正気歌」については、簡単に紹介できないので、又改めて書きます)

の文天祥のことです。

 私はクライアントで茨城県真壁の出身で、関という姓の人に、この鉄之介のことを聞きましたら、同じ一族とのことでした。またJR東日本の新幹線の運転手の関さんという人も、同じ真壁の出身でこの一族のようでした。私はどちらにも、関鉄之介がいかにあの時代を素晴らしく生きたのかを詳しく語りました。(1995.11.01)

10121701 ガラパゴスで日経新聞が読めないので、朝10時すぎに電話して、電話があることになりましたが、ずっとないので4時半頃電話したら、また今日電話があるかもしれません。今日は土曜日ですが、大丈夫なようです。

2010/12/17 08:03台所で洗い物をしていて、「てっぱん」を2分から見ました。
 なんだか涙が出ます。しかしどうしてもいいドラマですね。いつも、この朝ドラにはそれほどのめりこまないようにと思っているのですが、どうしても見ていると、どんどん私も引きつけられてしまいます。
2010/12/17 10:24ガラパゴスで日経新聞を読めないので、さきほどやっと電話したら(忙しいからなかなかやっていられない)、結局はあちらから電話があることになりました。たかが新聞を読むのも難しいことですね。
2010/12/17 11:58上に書いた日経新聞の件で電話はありません。でももう義母のニチイさんの介護の時間になりました。
2010/12/17 12:12もう明日は「浦和会」だから、その場でガラパゴスが使えないと、格好悪いよな。でもこのままじゃ仕方ないです。私はただの酒飲みばかりになってしまいます。
「浦和会」と言えば、私は昔はノートパソコンを持って行っていたのですが(15年くらい前から)、今年は、このポメラ(これは昨年も)とIS01とガラパゴスを持って行きます。といいましても、軽いし、小さいですからね。昔のノートとは大違いです。IS01は先ほどツイッターを書きましたが、まだ他もやらないといけないよな。
 思えば、このポメラは普通に両手で打っていて、IS01は親指打鍵でガラパゴスはまた違う(というか、まだガラパゴスはよく分からない)ので、もう困ってしまうよなあ。 あ、それで明日の「浦和会」でも私の詩吟の披露があるけれど、何を詠おうかな。まずは「文天祥『過零丁洋』」ですね。いや文天祥も零丁洋もこのポメラで単語登録できたから、感激です。こうしてどんどん単語登録すればいいのだ。
 でも思えば、今後このポメラは単語登録が決め手ですね。

 とにかく、きょうはまた忙しくなりそうです。

10121501 一昨日のガラパゴスのケースを買いに行ったことを思い出します。

2010/12/15 07:33さてどうかなあ。昨日はヨドバシカメラにガラパゴスのケースを買いに行きましたが、私のサイズ(5.5インチ)はないのです。あきれましたがもう仕方ないですね。実は間違えて大きいサイズを買ってしまい、それはキャンセルしました。それで聞いたら、ヨドバシには置いていないという真相が分かったのです。
2010/12/15 08:01「てっぱん」を見始めました。いつもドラマの中には私の身は入れないのですから、ただ見ているだけです。
 どうしても物語の展開に涙が出てきてしまいそうです。見ていくうちによく見られるようになるのですかね。
 どんどんこのドラマにものめリこんで見ていくようになるのかなあ。
2010/12/15 11:44きょうは12時から、義母の介護にニチイの方が来てくれます。だからもう用意しています。それでちょうど義母は昼の食事になりました。でも時間がかかるからなあ。それで、ニチイの方がおいでになったら、「うちのおかあさん」の記述を始めます。
 でもガラパゴスがまだちゃんと使えていないのですよね。これで「長塚節『土』」を読まなくちゃいけないのですが、まだまだですね。パソコンは長年使ってきたから私には簡単なのですが、ガラパゴスはいわば初めてだから大変なのです。と言ってもちゃんとやっていないと言えるんだなあ。パソコンはいわば私には楽で、なにかあれば、「えいやっ!」とばかりやる気でぶつかる思いなのですが、ガラパゴスもIS01もまだまだなのですね。
2010/12/15 11:52さてもうすぐだから、ドアを開ける用意です。
2010/12/15 12:07今度1月8日の「わが家」でやる詩吟を決めました。というか、いつも七言絶句しかできないのです。それが悔しい。七言律詩だと長いので、少し大変なのです。大変というのは、私は大変ではないのですが、聞く方に少々長いと思うのですね。4分弱かかるので、これは長いのです。「文天祥『過零丁洋』」なのですが、これは文章があまりに難しいので、私は困ってしまうのです。でも元のフビライ汗に対して雄々しく戦った我が日本と文天祥ですから、ぜひやりたいのですね。

 文天祥の過零丁洋ですが、七言律詩を紙に書いていけれいいのかなあ。考えちゃいますね。

101214092010/12/15 11:55ドアを開けましたら、ニチイの方が来てくれていました。
 でも私もよくわかっていないのですね。なんとなく、私は妻との意志疎通もちゃんと出来ていないようで、困ったものです。
2010/12/15 12:19今「周のポメラ」に文天祥のことを書いていたら、それだけでいっぱい書いて(私は文天祥のことだと夢中になってしまうのです)、これじゃしょうがないですね。
 IS01でツイッターはやりました。でもガラパゴスというのは起動が時間がかかるな。でもそこは問題だなあ。
2010/12/15 12:37義母はけっこう食事しましたね。

ecbad676.jpg 私の、このブログでの 周の漢詩塾(ブログ篇)でも、周の三曹の詩 でも、私は曹操、曹丕、曹植の詩を扱ってきました。それで、私が手に入れられる詩では、曹操も曹丕もほぼ紹介できたかと思っています。あとは曹植がまだまだいくつもあるのですが、詩が長詩ばかりなので、実に大変なのです。
 いえ、実は曹操の詩でも、『歩出夏門行』をここで紹介できていないのですが、これまたものすごく長詩なのですね。だから大変なのです。
 しかし、その大変というのは、まずどの詩でも漢字がこのインターネット上では表わせないものがいくつもあります。それを他のごく似た字に置き換える(そしてそのことは解説します)ようにしているのですが、それが実に至難のことなのです。
 長詩と言えば、私は文天祥『正氣歌』をインターネット上で紹介解説しようと思い、もう四年以上前に、その詩は書いてあるのですが、これまたインターネット上では表わせない漢字がいくつもありまして、それを置き換える作業が終わりません。
 このことは私の大変な悩みです。
 さきほどから、曹操『歩出夏門行』も書いてはいるのですが、書き下し文を書いて、訳してという段階でまだ時間がかかります。そもそも出てこない漢字はどうしようかと大変なのです。
 なんとか時間がかかっても、やっていかなとなりませんね。
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2017030602 近藤勇は、幕末のときに甲府で破れ、流山で破れて、官軍に降伏します。官軍に抗したということで、中仙道の板橋で斬首されます。cddd5235.jpg
そのときに勇が残した辞世が、次の七言絶句二つです。この二つの詩は連続して書かれていたために七言律詩と思われていたときもあったようですが、律詩の要件をなしておらず、「近藤の後世の世話をした人たちは、詩文には関心がなく、あまり深く考えず、辞世の七言絶句二首を一詩としてしまった」ということのようです。

辭世 近藤 勇
孤軍援絶作囚俘 孤軍援(えん)絶えて 囚俘(しゅうふ)と作(な)る。
顧念君恩涙更流 顧みて君恩を思えば 涙さらに流る。
一片丹衷能殉節 一片の丹衷(たんちゅう) 能(よ)く節に殉ず。
雎陽千古是吾儔 雎陽(註1)千古 是れ吾が儔(ともがら)。

(註1)雎陽(すいよう) 唐の安禄山の乱の時に雎陽(河南省の地名)を死守した張巡のことを謂う。

孤立した軍隊となり援軍が絶えて、囚われの身となった。
君主の恩を思い起こせば、涙が一層cddd5235.jpg流れる。
満身の忠誠心は、節義のために命を捨てることができる。
雎陽で奮戦した張陽こと張巡こそが、わたしの同志である。

辭世 近藤 勇
靡他今日復何言 他に靡(なび)き 今日 復(ま)た何をか言わん。
取義捨生吾所尊 義を取り生を捨つるは 吾が尊ぶ所。
快受電光三尺劍 快(かい)として受けん 電光三尺の剣。
只將一死報君恩 只一死を将(も)って 君恩に報(ほお)ぜん。

敵方に靡いて、今更また、何をか言うだろうか。
大義に立って、生命を捨てることは、わたしの尊ぶところである。
わたしの首を斬る長剣を快く受け容れよう。
ただ一身の死をもって、君主の恩に報いよう。

「雎陽千古是吾儔」という句は、文天祥の「正気歌」で書かれている「為張雎陽歯(張雎陽の歯と為る)」という句によっています。この安禄山の乱のときに、張巡は戦いの中歯を食いしばったために、すべて砕けたと言われています。
私は文天祥の「正気歌」は、高校1年のときに全文暗記暗誦できるようになっていまして、よくこの句も何度も詠んでいたものでした。

しかし、近藤勇が、「君恩」という場合の、「君」とは誰なのかなあ。当然将軍であるとするわけだが、15代の慶喜(けいき)には、そんな君恩なんていうものはありません。それほどの人物には、私には到底思えません。
何故か、近藤勇以下新撰組の若者は、ただただテロにのみ生きてしまった人生のように思います。このときの近藤勇の首は、京都まで持っていって三条河原に梟されました。

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